《卒論》ブータンの蕎麦食文化
2月10日(水)卒論webex発表会の報告第4弾です。わたしの卒業研究は教授や会長、3年生の皆さんに支えられ、なんとか論文としてまとめることができました。本当にありがとうございました。この研究の調査に協力していただいた全ての皆様に心から感謝致します。(月市)
ブータンの蕎麦食文化
Bhutanese buckwheat food culture
研究の背景と目的
2019年9月4日~11日にかけて、研究室の第8次ブータン調査に参加した。当時の主要な調査目的は「ブータン仏教の調伏(異教神霊の浄化と再生)」であり、パロ、ティンプー、プナカ、ポプジカの寺院・民家仏間などを調査した。その調査中、毎日、ブータンの伝統的な料理を食べていた。その中で特に印象に残ったのが蕎麦粉でつくったパンケーキや麺などの「蕎麦食」である。日本では主に切り麺とする蕎麦だが、ブータンではさまざまな形で食べられている。また、蕎麦はブータン高地本来の栽培植物だと聞いて興味が湧き、蕎麦を主題にして卒業研究に取り組むことにした。
本論では、ブータン料理文化の専門書やレシピ本の翻訳に取り組んでブータンの食文化に対する理解を深めながら、高地の伝統的な蕎麦栽培や蕎麦の食べ方、ブータン人にとっての蕎麦の意味の変化をあきらかにしていきたい。また、意外にも日本国内でブータンの蕎麦粉が流通し始めており、その問題についても取り上げる。
ブータンの伝統的な料理
甘蕎と苦蕎
本論で取り上げる二つの蕎麦、甘蕎(あまそば)と苦蕎(にがそば)について予め説明しておく。甘蕎はタデ科ソバ属の一年生草本で、虫に花粉を運んでもらうことによって結実する他殖性植物である。日本で食べられているのはこの甘蕎である。世界各地で栽培されており、生産量世界一はロシアである。一方、苦蕎は、自らの花粉でも結実できる自殖性の植物である。耐冷性が強く、やせ地でも育つ。西南中国からヒマラヤ山岳周辺など南アジアの標高が高い地域で多く栽培されている。
栽培蕎麦の比較文化史-考古学と植物遺伝学
ブータンの蕎麦食を紹介する前に、栽培蕎麦の起源をめぐる学説について触れておく。19世紀前半に活躍したスイスの植物学者、ド・カンドルは、栽培蕎麦の起源地を中国東北部からシベリアにかけての北方寒冷地域であると推定した。一方、日本の植物学者、星川清親は奈良時代の正史『続日本紀』の記載などから、中国・朝鮮半島から日本への蕎麦の伝播を8世紀と推定している。しかし、これらの古典的学説はすでに過去のものになりつつある。
1990年、植物学者の大西近江は雲南省永勝県で新種のソバ属植物を発見した。遺伝子分析の結果、栽培ソバ以前の野生種であり、野生種から栽培種への進化は1万年前に遡りうると主張しており、大西はチベットに近い西北雲南の三江併流域を蕎麦の起源地と推定している。この三江併流域は、先ほど述べた苦蕎の主要な分布地の一つだが、甘蕎もみることができる。大西の推定はwikipediaなどでも有力な起源説として取り上げられているが、考古学的資料による裏付けがないため通説とまでは言えないであろう。
日本への伝播時期については、国立歴史民俗博物館の共同研究で、縄文土器に付着した蕎麦の実や種は一例もみつからないことが明らかになり、栽培植物としての蕎麦は弥生時代以降、日本に定着したものと推定される。
中国での考古学的発見
中国では、蕎麦の考古学的遺物が相次いで発見されている。これらの遺物は甘蕎のものである。その例をスライドの左側に羅列している。特に注目すべきは、2006年に遼寧省の呉家村遺跡で蕎麦の種子が多数出土したことである。
この遺跡は約5500年前ごろの紅山文化に属する中国東北地方の新石器時代遺跡である。この時期は、いわゆる気候温暖期にあたり、紅山文化の分布地は北海道と緯度がほぼ同じだが、現在より気温が2℃ばかり暖かく、農耕をおこなっていた。左側に示した他の蕎麦痕跡発見遺跡も中国の北方に偏っており、ド・カンドルの提唱した蕎麦のシベリア~東北中国起源説は再評価できる。
蕎麦の起源に対する研究室のスタンス
研究室で議論した結果、蕎麦の起源については、次の二つの見方が可能ではないかと考えている。
一つは、栽培蕎麦は中国東北部からシベリアにかけての地域に起源し、原型としての甘蕎が一方では日本などに拡散し、他方で、その波はチベット方面にまで及んだ。ただし、チベット方面では甘蕎は苦蕎にも変化し、ブータンなどに伝播した、という一元論的な起源説である。
もう一つは、甘蕎は中国東北からシベリアにかけての地域に起源し、苦蕎はチベット方面に起源するという二元論的な起源説である。イネのジャポニカ種とインディカ種が別々の起源をもつのと似た考え方である。