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リー族の魚茶をめざして(1)

20240620小魚漁02 20240621魚茶01 左:大学裏小魚漁 右:魚茶


長時間のメディア対応

 6月19日(水)午後ゼミ中、山陰中央新報web版の取材を受けた。結構長い取材になった。どういうわけか、まず切支丹灯籠の話になり、記者は相当な関心を示された、その後、鯰ナレズシの話題に移ったが、今回担当の記者は12日(水)の第2回東鯷人カフェに来場していないので、一から説明しなおす必要があった。演習室での説明の後、スタジオに移動して鯰のナレズシと奈良漬の試食をした。
 最初の試食は4月23日に漬けた鯰ナレズシ。大小鯰、ギギの4尾漬けたが、残り1尾の大ナマズの尻尾を少量カットした。5月23日、6月12日に試食した際は、塩気が薄く、酸味が強かったが、今回食べた尻尾部分は酸味が弱く、塩気を感じた。この味の変化は、塩漬けの日数や塩の被り具合によるものだろう。触感は変わらずコリコリとしていた。第2回東鯷人カフェからさらに日数を経たことや身が薄い部分であったこともあり、よく漬かっていて生臭さを感じない。記者からは「全然まずくない」「嫌な感じはしない」と比較的良い評価を受けた。


20240619鯰ナレズシ(0423)01試食01 20240619鯰ナレズシ(0423)02試食01 鯰のナレズシ取材と試食


 続いて奈良漬け。奈良漬は中間のゴーヤを境にして、下層のナマズ切り身は1週間の塩漬けを経て6月6日に糟漬けしたモノ、上層は塩漬け1日の切り身で、翌7日に漬けた。蓋を開けると少し水分が出ていた。試食したのは一番上に漬けていた鯰の中骨部分とゴーヤである。鯰はこの時点でかなり美味しかった。コリコリした触感の中にとろけるような感覚も味わえる。塩気は多少強いが十分食べられた。記者からも高評価だった。ゴーヤはまだ漬け込みが足らず、生の硬い状態であり、食べられないほどではないが苦みが強かった。鯰の方が漬かりやすく、ゴーヤの方が漬け込みに時間がかかることが分かった。味の浸透具合に関しては、鯰を切り身にしたことも良かったのだと思う。これからさらに漬け込みが進む奈良漬けの味に期待が高まった。心配がある とすれば、1週間塩漬けした下層の鯰である。かなり塩気が強いことが予想されるため、鯰の塩分がザラメ入り酒粕により中和されることを期待する。
 【教師注】 6月28日(金)、奈良漬け最大手の山崎屋本舗に入り、少し話を聞いた。驚いたことに、瓜の樽漬け期間は1年半、スイカの皮は3年だという。しかも、酒糟は2~3ヶ月でそのエキスをはき出してしまうので、新しい糟と差し替える必要がある。これを繰り返す(古くなった酒糟は粕汁になら使えるとのこと)。ゴーヤを漬けたことはないが、おそらく瓜と同じくらいの時間が必要だろうとのこと。魚肉も漬ける。塩漬け後の魚肉は1週間で漬かる。ただし、それは野菜の奈良漬とは違って、京都の「西京漬」のように、魚肉の風味づけであって、風味付けした魚肉を焼く必要がある。


20240619鯰奈良漬01 20240619鯰奈良漬01試食01
(左)奈良漬と上澄み液  (右)奈良漬鯰上層・ゴーヤ試食


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切支丹関係文献(3)

東洋文庫01南蛮寺




海老沢有道 訳(1964)『南蛮寺興廃記・邪教大意・妙貞問答・破提宇字』東洋文庫14

◆図書情報◆
1964年3月10日 初版第1刷発行
1980年7月1日 初版第6刷発行
定価 1,700円
訳者 海老沢有道
発行者 下中邦彦
印刷 東洋印刷株式会社
製本 株式会社 石津製本所
発行所 株式会社 平凡社
 郵便番号102 東京都千代田区四番町4番地

はしがき
 「東洋文庫」にキリシタン関係の邦文文献を収めるに当たって、キリシタンという代表的西洋思想が、日本に移入されたことにより如何なる思想的接触がなされたかという観点から四篇を選んだ。まずキリシタンが日本の伝統的思想としての神儒仏との接触において、それを論破しつつ教理を説く『妙貞問答』である。その同じ著者が、江戸期にはいって転向し、キリシタンを批判した『破提宇子』は、当時のキリシタン禁制・封建教学の徹底という転換の時代における一知識人の歩んだ道を示すとともに東西思想の接触、キリスト教と神儒仏三教との接触の姿を具体的に示すものである。また江戸禁教下にあってそうした動きを反映しつつキリシタンが如何なる姿として映じたか、その当面の宗敵である仏僧が如何に把握したかを雪窓の『邪教大意』によって示すとともに、江戸中期に及んでキリシタンに関する知識を欠いていた一般民衆の間に如何なる姿で理解されていたか、また御用学者らによって如何なるものとして教え込まれたかを『南蛮寺興廃記』を通して示すこととした。こうした観点からは、キリシタン教書としては近時発見のいわゆるエヴォラ屏風文書中の『日本のカテキズモ』があるが、それに関しては昨年研究と本文とを公けにしたのでここには収めなかった。また江戸初期の反キリシタン書としては転び伴天連沢野忠庵の『顕偽録』や著者不明の『伴天連記』、やや下って鈴木正三の『破吉利支丹』があり、江戸中期の俗説・俗史類には、まずそれらの原形である『吉利支丹物語』があり、それぞれ興味あるものであるが、これらは紙数の制約上、割愛した。
 ここに収めた四篇は、すでに諸叢書に収録されており、その意味では決して珍しいものではない。が、古語や洋語がまじり、現今の読者がそれらを読み、理解することはわずらわしいことでもあるので、ここではあえて現代訳を掲げることにした。それとともにできる限りの訳注を付して、正確を期すことと配列は成立年代とは無関係に、御覧の通りに並べた。それに特に深い意味があるわけではないが、キリシタンの歴史的考察と伝統的キリシタン観を注によって是正しつつ、教理に入って行き、さらに、ハビアンの相反する二著を通して問題点を深めるというねらいもある。これにより東西思想の接触という日本思想史上の一大事象を理解される一助ともなれば幸いである。

一九六四年三月
海老沢 有道

 本書では南蛮寺興廃記・邪教大意・妙貞問答・破提宇字の4つの文献が訳されている。なかでも特に当研究室の隠れキリシタンの研究に関係のある、「南蛮寺興廃記」の解説を以下に記す。
 

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東鯷人cafe (第2回)  報告3

高橋先生DSCN5041 橋本先生講演風景


 今日が東鯰人cafe (第2回)報告の最終回です。琵琶湖の古フナズシと滋賀・京都のナマズズシの記録、そして東鯰人cafeの試食会についてお知らせします。

なれずしの起源-拡散から琵琶湖のフナズシの洗練化まで 
 1.琵琶湖のフナズシ
 2.フナズシの歴史再考ー洗練化と途絶
 3.中世のナマズズシ


00橋本スライド01琵琶湖特有の魚類01 00橋本スライド02ナレズシと魚醤等の分類 00橋本スライド03発酵と防腐原理01


1.琵琶湖のフナズシ-拡散から琵琶湖のフナズシの洗練化まで 
 『広辞苑』(第7版、2018)によると、フナズシは以下のように定義される。

  【鮒鮨・鮒鮓】 馴鮨〈なれずし〉の一種。ニゴロブナの鱗〈うろこ〉・鰓〈えら〉・臓物を
   取り去って塩漬にしたものを、飯と交互に重ねて漬け込み自然発酵させたもの。
   酸味と臭味が強い。近江の名産。〈季・夏〉。

 フナズシは料亭にも出されるような料理であり、その起源は遅くとも中世にまでさかのぼる。琵琶湖には在来種に限れば57種類の魚類が生息し、そのうち16種類は固有種で琵琶湖にしか生息していない(ex.ビワコオオナマズ・ホンモロコ・ビワマス)。現在まで琵琶湖の鮒ずしが続いている理由は、①沖合・深層部で生息している、②泥臭くない、③遊泳して身が引き締まる、④個体が大きいなど、琵琶湖という特殊な環境に生息している魚ならではの特徴があるからだ。この特徴により中世からフナズシが続いていると考えられる。


00橋本スライド04元禄文書01 元禄2年の料理書『合類日用料理抄』にみる古フナズシのレシピ


2.なれずしの歴史再考-洗練化と途絶
 この琵琶湖の鮒を中世の人はどうやって食べていたのか。15世紀堅田の本福寺跡書に「鮒ノ汁ニ鮒鮨、鮒ナマスノ飯」とあるのが初見である。石毛直道他[1990]によると、古代のナレズシのつくりかたが現代にまで伝承されている例としては、琵琶湖のフナズシをあげるのが常道となっているけれども、塩切りと飯漬けを長期おこなう現在のフナズシの製法と近世前期以前のそれは琵琶湖周辺において大きく異なる。
 元禄2年(1689)の料理書『合類日用料理抄』に記された「古フナズシ」の調理工程(↑)を以下に整理する。A 寒の内(旧暦12月・新暦1月のうち)に漬ける。B エラを取り、エラよりハラワタを抜く。C 頭を壊す。D 折敷に塩をたくさんため、両方よりフナを塩の上に押し付け、塩がつくほどにして漬ける。E 黒米(玄米)をこわ飯にして、よくさまして、喰塩に混ぜ、玄米を沢山に漬ける。F、初めは押しを強くする。G 20日程して押しを通常の鮨の程度に弱くする。H 70日程(90日とも読める)でなれ、いつまでも持つ。I 翌年の夏・秋には風味もよく、いちだんと軟らかである。J 押しを緩める時分に塩水を蓋の上へためる。K 取り出したのち、魚を偏らないように直し、押しをかけて塩水をまたためおく。
 古フナズシの本質を考え直すと、〈1〉漁獲、〈2〉塩切り、〈3〉飯漬けの工程が同時だったとしか読めない。寒鮒を原料としたフナズシの製法は以下のとおり。①旧暦12月に、②塩切せず、ダイレクトに、③したがって、寒鮒を用い、④頭を叩いて壊し、一匹丸ごと、⑤蒸した糯米の玄米で、⑥折敷に入れて発酵させ、⑦70日目以降に喫食する。こういうレシピは、市場に向けて洗練化したのではないか。ここでいう洗練化とは、その製法が単に家庭の保存食の域を脱して、嗜好品として大規模に製造されるようになることを核として考えているが、それだけでなく、魚種の特定化(魚種の洗練化)、贈答品・献上品化(用途の洗練化)も含めて洗練化と呼ぶこととしたい。したがって、商品化や専門業者の発生とも密接な関わりがあり、製法の統一化、マニュアル化が進展する(橋本道範 「消費から漁撈を考える―琵琶湖のフナズシの洗練化をめぐって―」『歴史と民俗』38、2022年)


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東鯷人cafe (第2回)  報告2

0612起源図 0612起源図2


 こんにちわ、黄粉です。わたしは教授がスピーチされた内容のうち、ナレズシの起源に係わる問題と、橋本道範先生の講演の概要を要約し、試食会についても報告します。本日はまずナレズシの起源問題から。

(シ)と鮓(サ)-ナレズシの起源をさぐる
 
 平安中時代中期(10世紀)に編纂された律令の施行細則『延喜式』には、鮓・鮨の記録が多くある[加藤隆昭1991]。『延喜式』大膳・内膳司・造酒司などには、雑魚鮨(クサグサのスシ) 貽貝鮨(イガイズシ) 綱鮨(タズナズシ)阿米魚鮨(アメノウオズシ) 鮒鮨(フナズシ) 鰒鮨(アワビズシ) 貽貝保夜交鮨(イガイ・ホヤの混ぜズシ) 鮭鮨(サケズシ) 年魚鮨(アユズシ) 鹿鮨 猪鮨 鯛舂酢(タイのショウズシ) 内子年魚鮨(コゴモリのアユズシ)等が地方諸国から貢納されており、平安京への運搬日数は1日~14日を要した。河内などの近国から1日で運ばれる場合、生の魚を運び込めないわけではないが、数日~2週間ともなると保存処理が必要であり、干魚とともに有力な手段が発酵であったものと想像される。それゆえ、たとえば鰒は鰒鮨として貢納された。ここにいう鮨あるいは鮓がナレズシである。 


0612平城木簡02 若狭木簡canvas02 0612平城木簡01平城木簡(右は若狭の荷札)


 さらに時代を遡って奈良時代の資料をみると、奈文研の木簡庫(木簡データベース https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/)では「鮓」を含む荷札木簡23例、「鮨」を含む荷札木簡40例がヒットする。最古例は藤原京木簡3点であり、遅くとも日本のナレズシは平城京(天平)から藤原京(白鳳)の時代まで遡ることが分かる。当然のことながら、それ以前にもナレズシは存在していたと考えられる(考古学的物証はない)。米と塩で魚肉類を発酵保存するのがナレズシであるとすれば、米の出現とナレズシは不可分の関係にあると言えるだろう。とすれば、水田稲作が隆盛し始めた弥生時代にナレズシもまた出現もしくは伝来した可能性がある。
 弥生時代併行期にあたる中国漢代に目をむけてみよう。漢代の字書は「鮨」と「鮓」の二字を区別して説明する。中国最古(前4~3世紀)の字書『爾雅』では、鮨(シ)は鹹魚(塩辛い魚)だと記している。すなわち、鮨とは塩漬けの魚、もしくは魚の塩辛であることが分かる。後漢の字書『説文解字』(2世紀初)では、鮓は『爾雅』 と同じ鹹魚だが、鮓(サ)は蔵魚(魚の貯蔵品)だとする。続く『釈名』(2世紀末)では、「鮓は菹(つけもの)、塩と米を以て魚を醸(かも)し、以て熟(な)れて為し、これを食す」とする。以上から、鮨は塩漬けの魚、鮓はナレズシであることが分かる。ちなみに、古代日本では両者の区別がなく、いずれもナレズシだとする研究がすでにあるようだ(『続日本紀研究』掲載)
 弥生時代併行期の漢代に、中国南方ではナレズシが定着していた。ならば、その起源はどこまで遡るか、という問題に触れなければならないが、これを水田稲作(ジャポニカ種)の起源論と不可分だと考えると、長江中下流域での数千年~1万年程度の新石器時代に遡ってもおかしくない。石毛・ラドル[1990]の有名な「ラオス・雲南」起源説は考古学的に支持できる要素に欠けている。東南アジア、雲南は長江流域より水稲やナレズシが伝播した周辺地域の一つであり、起源地とみるのは難しい。(黄粉)


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東鯷人cafe (第2回)  報告1

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 すでに速報でお知らせしたように、第2回東鯷人カフェ「ナレズシと鯰-郷土史からアジア史まで」が6月12日に開催され。メディアの取材などで、会場は熱気に包まれた。以下は、6月17日(月)夕方に放送おされたTSKのニュース動画である(上下の写真は動画より切り抜き)。6月12日当日の次第は以下のとおり。

13:00-13:30 浅川 滋男(公立鳥取環境大学教授)
  趣旨説明:因幡のナレズシ概観~鯰ナレズシづくり
13:30-14:45 橋本 道範(滋賀県立琵琶湖博物館専門学芸員)    
  ナレズシの起源・拡散から琵琶湖フナズシの洗練化まで
14:45-15:20 鯰ナレズシ等試食会
15:20-15:50 意見交換  15:50-16:00 閉会挨拶

 これまでの報道については速報にまとめたが、その後、6月17日(月)夕刻、山陰中央テレビTSKのニュースで報道され、その動画が転送されてきたので、以下にアップしておく(100日限定)。
https://78.gigafile.nu/0929-cb8d7ef3f052891aaffacbddd25c2316b

 当日の浅川の前座講演については、別に書類提出の必要があったのでまとめた。以下に転載する。


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ナマズ食の文化史的再評価と郷土料理としての復興
-因幡のナレズシ概観~鯰ナレズシづくり


1.動物考古学とナマズ食-東鯷人とは何か
 動物考古学の分野でナマズに注目が集まっています。縄文~中世におけるナマズの遺存体(骨)は、フォッサマグナ以西の西日本でしか出土せず、その化石資料は約300万年前の古琵琶湖層群、約1500万年前の中期中新世讃岐層群(香川)などまで遡るのに対して、東日本へのナマズの流入は関東で18世紀、東北で19世紀にまで下ります。また「鯰」という文字を含む地名は西日本に限定されます。このように、ナマズと西日本との関係は太古より関係深いものですが、倭(西日本)に関する最古の文字記録『漢書』地理志(後漢・班固の撰)では、

  会稽(今の紹興)海外に東鯷人あり。分かれて二十余国をなす。
  歳時をもって来り献見す。

と記されています。当時の中国人は、同時代の弥生人(西日本の倭人)のことを東鯷人(東のナマズ人)と呼んでいたのです。こうした諸々の情報から、動物考古学者は、縄文・弥生~中世にかけての人々がナマズを食べていたのはほぼ確実だと考えるようになっています。ここ鳥取県は「弥生の王国」であり、東鯷人と呼ばれた弥生人の拠点の一つであり、ナマズの古代食のあり方を考えてみようと思ったのが昨年度(2023)のことでした。


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2.鳥取県内外のナマズ料理
 ナマズ食に興味をもったのは、私自身、東南アジア・中国でナマズ食の経験が何度かあり、県内でも米子駅前の居酒屋で日野川ナマズの刺身・唐揚を食べてあまりに美味しく感じた経験があるのと、村上龍が『料理小説集』(1988)でビルマ鯰とブラジルの大鯰料理を「海に落ちる雪のように舌先で溶ける」と絶賛し、とくに後者の燻製は「これまで食べた世界中のどの燻製よりも美味しい」と評価していたからです。ただ、残念なことに、米子の居酒屋、吉岡温泉の旅館などはここ数年の間にナマズ料理の提供をやめてしまい、いまや県内でナマズ料理は絶滅状態にあります。
 昨年度前期、大学院の特論授業としてナマズ食に係わる活動を細々と始めました。授業履修する生物系の学生や魚類学ゼミの協力を得て、市内菖蒲集落の畦の小川(幅約2m)でサデ網漁をおこない、体長30~55㎝のナマズを捕獲しましたが、野生ナマズの調理そのものは控え、標本の作成に留めました。同時に、琵琶湖に何度か遠征し、菅浦では琵琶湖の特有種イワトコナマズの刺身等を堪能し、滋賀県立琵琶湖博物館では「魚食文化と水辺環境」と題するフォーラムを7月7日に開催し、浅川は「ナマズ食の文化史的再評価」とする講演をしました。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2700.html


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3.ナマズの天丼弁当、激売れ!
 埼玉県吉川市は「なまずの里」として知られる町であり、市全体でナマズのまちおこしに取り組み、ナマズ料理屋も少なくありません。関係者3名が時間をずらして訪問し料亭「ますや」と料亭「糀屋」でなまず懐石を食しました。どの料理も美味しいですが、ナマズの天ぷらは誰が食べても満足できるものです。舌先で溶ける食感も味わえます。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2715.html
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2842.html
 2023年度後期早々(10月14-15日)、私たちのグループは大学祭において模擬店「東鯷人ナマズ屋」を出店し、「ナマズの天丼弁当」(500円)を販売しました。パンガシウス(東南アジアの養殖ナマズ)と野菜の切り身を天ぷらにして、鳥取新米+ブータン赤米のブレンド飯にのせ、ブータン山椒粉をトッピングしたメニューは頗る評判良く、2日連続10時開店-12時過ぎの2時間(2日で4時間)で90箱を売り尽くし、模擬店人気投票で第3位に輝きました(17時まで販売できたら1位だったかも)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2674.html
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2678.html 
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2679.html 



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切支丹灯籠を訪ねて(2)-観音院

0605観音院01キリシタン灯籠02 0605観音院01キリシタン灯籠05調査風景02採寸02


観音院と国指定名勝庭園

 6月5日(水)、鳥取市上町162の観音院を訪れ、切支丹灯籠の調査をおこなった。観音院は17世紀前期(1630年代前半)、僧宣伝により雲京山観音院の号で栗谷に開創したが、寛永16年(1639)ころ上町に移り、補陀落山慈眼寺観音院と寺号を改めた。本尊は聖観音菩薩である。 慶安3年(1650)、樗谿に徳川家康を奉る因幡東照宮が竣工すると、その別当寺大雲院(天台宗)の末寺となった。宝永6年(1709)には、鳥取藩主池田家の八ヶ寺の一寺に指定されている。
 源太夫山麓の傾斜地を生かした京都風蓬莱様式の池泉鑑賞式日本庭園は、東照宮供養の慶安3年から作庭が始まり、10年を費やして完成したものであり、昭和12年(1935)、国の名勝に指定されている(追加指定2006)


0605観音院02書院02調査風景02 観音院風景②
左:書院から庭を望む 右:本堂から庭と書院を望む。中央奥に織部灯籠がみえる


観音院の切支丹灯籠

 今回調査した切支丹灯籠は書院南側の散水外側、池の畔に置かれている。豊臣秀吉による伴天連追放令(1587)から切支丹弾圧緩和の令がでる明治5年(1872)まで、潜伏キリシタンたちが為政者の眼をのがれ、ひそかに信仰の対象とした十字架の代替である。鳥取県内には第一報で報告した興禅寺を含め計5基残存するが、この観音院の灯籠は尊像上部に刻まれるラテン語の裏文字のない形式で、迫害が一層厳しくなった寛永元年(1624)から江戸時代中期(18世紀)ころの作と推定される。切支丹灯籠は別名、織部灯籠というが、すでに古田織部なき時代の作品であったとしても、それなりの注目に値する。


0605観音院01キリシタン灯籠06ポラロイド集合01 0605観音院01キリシタン灯籠03 0605観音院01キリシタン灯籠04記念写真01 0605観音院01キリシタン灯籠05調査風景02採寸01


ポラロイドカメラを使った採寸・調査

 観音院では灯籠のスケッチ、採寸に加えて、新4年生にとっては初めてポラロイドカメラによる調査に取り組んだ。灯籠下部の竿は断面が縦190㎜×横230㎜、高さ490㎜であった。上部のふくらみ部分は上横幅195㎜、中央横幅300㎜、下横幅160㎜、高さ210㎜を測る。ポラロイド調査の流れは以下のとおりである。
  ①ポラロイドで対象物を撮影
  ②寸法などの情報を油性マジックで書きこむ
  ③その写真をデジカメで撮影し、バックアップとして全員に共有。
 ポラロイド調査では正面以外からも撮影することや周りの情報も写真に書き込む。


観音院灯籠ポラロイド画像1 観音院灯籠スケッチ画
ポラロイドカメラ撮影写真(左)、脇野スケッチ画(右)



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2024年 菖蒲のナマズ漁と調理(6)

0606鯉切り身の奈良漬け02 0606銅山(奈良漬けレポート)図9[歴史遺産保全特論] 左:奈良漬下層 右:同上層


ナマズとゴーヤの奈良漬け

 6月6日(木)、私とCY君の2人は鯰切り身の奈良漬けに挑戦した。これまで鯰ナレズシ(姿漬け)などを試行してきたが、試食した感想は独特な酸味の強い味わいで、現代人の口に合いにくく思われたので、甘味のある奈良漬けも試してみようということになった。私はこの授業を通して食文化の伝承/復元をする際、ただ再現するだけでは上手くはいかないと感じており、現代人の舌を唸らせるような工夫が大切だと感じていた。


0606銅山(奈良漬けレポート)図1[歴史遺産保全特論] 0606銅山(奈良漬けレポート)図2[歴史遺産保全特論] 図1・2


 今回、まず奈良漬けのレシピをネットで共有した。レシピには「瓜の下拵え」が出ている。瓜の種の部分を抜き取ってコップ状にし、そのなかに塩をたんまり落とし込んで1~3日冷蔵庫に置いておくとある。わたしたちはゴーヤを1本買っており、レシピに倣って、綿と種をくりぬき、半裁してから塩をたっぷり落とし込んだ(図1・2)。塩漬けの目的は、①ゴーヤの水分を排出し、②ゴーヤに塩味を染み込ませることである。


0606銅山(奈良漬けレポート)図3[歴史遺産保全特論] 0606銅山(奈良漬けレポート)図4[歴史遺産保全特論] 図3・4


 その後、前週塩漬けしたナマズを水で洗い、キッチンペーパーで水分をとってから、ナマズを切り分けた。切り身のサイズは奈良漬けレシピの野菜サイズを参考にした(図3)。次に、ザラメ糖入酒粕の味見をした。十分な甘みがあり、この味で上手く味が染み込めば、食べやすい漬け物になる予感がした。その後、まず容器の底に茶色の酒粕を敷き詰めた(図4)。ナマズの切り身は相互が接触しないよう2段重ねとし(図5・6)、図7のように酒粕でフタをした。そして、空気が入らないようラップとタッパーで包み込み、この日の奈良漬け工程を終了した。

0606銅山(奈良漬けレポート)図5[歴史遺産保全特論] 0606銅山(奈良漬けレポート)図6[歴史遺産保全特論] 図5・6


 上手くいくことを願い帰宅した。しかし、帰宅後作業をしていると、教授から驚くべき緊急連絡があった。今回フードプロセッサで制作したナマズのすり身を教授の家で炒めた際、塩漬けが利きすぎて、異常に塩辛かったとだという。奈良漬けにも同じナマズを使用していたこともあり、酒粕で中和するのかどうかが不安になる。翌日私は途中からの参加になったが、以上の点を踏まえ今回セットした奈良漬けの上に、いったんゴーヤの切り身をフロアのように敷き詰めて漬け、その上部にさらに酒粕を足して、昨日捌いて一夜塩漬けにしたナマズの切り身を漬けていった(図8)。もちろん、このナマズもよく洗って塩分を落とし、キッチンペーパーで水分を吸収した。この結果、ゴーヤの上下層でナマズの塩味はかなり異なることとなった。結果がどうなるか、楽しみだ。やはり私たち自身の手で作業しているためイレギュラーなこともあるが、前向きに挑戦しつつ上手くいくことを願うなかりである。(M2 DH)


0606銅山(奈良漬けレポート)図7[歴史遺産保全特論] 0606銅山(奈良漬けレポート)図8[歴史遺産保全特論] 図7・8



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2024年 菖蒲のナマズ漁と調理(5)

0606弱った大なまず01 0606弱った大なまず02 0606弱った大なまず03卵01
写真1・2:弱っていると聞いた大鯰は暴れまわった 写真3:最大の卵


 6月6日(木)。5月30日に菖蒲で捕らえたナマズ②雌63cmを捌き、塩漬けにした。また、5月末までに塩漬けし冷蔵しておいた鯰2尾をナレズシ、1尾の半身を奈良漬け、残りの半身と骨の部分はフードプロセッサーを用いてすり身を試作した。このほか、鯰卵の煮付けの試作もおこなったので、担当者よりレポートする。
 
最後の大ナマズを捌く

 塩漬け冷蔵している鯰のナレズシに用いる米飯は、前回とやや異なる。これについては、「続き」で詳報している。DHさんとCYさんがショウガを千切りにしている間、私とWKさんで水槽の大ナマズを取りに行った(写真1)。ナマズをバケツに移し替えようとしたが、なかなかうまくいかない。もたついていると、作業を終えたDHさんとCYさんがやって来て、ナマズはCYさんの手によってバケツに移し替えられた。魚類学ゼミより「ナマズが弱っている」という報せがあり、実際に体表の傷にはカビが生えていたが、弱っているとは思えない暴れぶりであった。
 血抜きをするためにエラを調理用ハサミで切ったが、ここでもナマズは暴れた。CYさんが近くに落ちていた棒切れでナマズの頭をたたき、おとなしくなってからもう一度エラを切った(写真2)。そのあと、CYさんに中華包丁でナマズの頭を落としてもらい、WKさんにナマズの腹を調理用ハサミで裂いてもらって卵を取り出した(写真3)。今年捌いたナマズの中では、長さ12.5㎝+13 cmで最大サイズの卵であった。残る臓器の処理はCYさんとWKさん、記録はDHさんに任せ、私はナレズシの飯に混ぜるための唐辛子2本を種を抜いて輪切りにし、教授が持参された梅酒シロップの梅実の皮を手でむしって叩きにした。


06061週間塩漬けしたナマズ01 06061週間塩漬けしたナマズ02塩麹01
写真4:1週間塩漬けしたナマズの身 写真5:この日捌いた大鯰の身と卵の塩漬け


 その後、塩漬けにしたナマズを洗って、キッチンペーパーで擦って塩を落とし、液体麹を万遍なく塗り付けた。飯(いい)の味付けは教授にしていただいた。料理酒・味醂のほか、ショウガ、唐辛子、青山椒、粉末の塩麹を混ぜ込んだ(写真4)。途中から参加した2年次のSAさんに紅甘夏の皮をピーラーで削ってもらい、皮と果汁を米に足した。前回の姿浸けナレズシとはやや異なり、鯰の水分を抜いた切り身を飯と相互に重ねていった。味の染み込みという点ではこの方が良いはずである。また、飯の味を確かめると、前回より味覚が弱かったので、佐治の鯖ずしレシピ注に倣い、出汁醤油を少し足した。


0606笹田写真7 写真6 フードプロセッサ(骨も砕ける)


ナマズのたたき

 教授が注文されたフードプロセッサーLINK Chef FC-5125が研究室に届いた(図6)。身だけでなく、骨まで砕くという優品である。まず一度組み立ててみた(写真6)。が、説明書を読むと、初めに蓋、ボウル、カッターの部分を洗うよう書いてあったため、いったん解体して洗浄した。フードプロセッサー上部のボタンを押すと刃が回転することを確かめた後、ナマズの半身を丸ごと入れた(写真7・8)。


0606笹田写真8 0606笹田写真9 写真7・8


 この日の目的は鯰のタタキ。なまずの里、埼玉県吉川の郷土料理で、鯰の身と骨・内臓をまるごとミンチにしたすり身の揚げ物である。ボタンを押すとしばらく刃がナマズにあたる感覚があったが、急に振動が弱まった。蓋を開けてみるとボウルの縁にナマズの身が張り付いてしまい、うまく刃が入っていなかった。ナマズを一度取り出し、3等分してもう一度フードプロセッサーにかけたところ、うまく作動し、ナマズのミンチができた。次に三枚おろしの骨の部分をフードプロセッサーにかけた。あらかじめヒレの部分は取り除き3等分に調理用ハサミで切って入れた(写真9)。初めは半身のミンチの上に追加で骨を入れたが、うまく刃が入らなかったためミンチを取り除き、骨の部分だけにして、ボタンを押したところ、この日いちばんの強い衝撃が手に伝わった。しばらくすると、バチンという音とともに背骨部分が砕ける衝撃があった。しかし、幸いにもフードプロセッサーが壊れることはなかった。しかし、すべての背骨を粉砕することは難しかったようで、フードプロセッサーを止め、蓋を開けると、0.5 cmはある、ばらばらになった脊椎が目立っていた。触感が悪くなると思ったため大きな骨は取り除いて半身のミンチと混ぜ合わせた。塩漬けにされた三枚おろしの骨の部分がもう一尾分あったので、次はスプーンで骨から身をこそぎ取り、小さい骨だけがフードプロセッサーに入るよう調理用ばさみで背骨の太いところ以外を切り取って入れた。フードプロセッサーにかけた後、別の容器に移し、フードプロセッサーにかけたナマズすべてと、種を取り除いた唐辛子半分の輪切り、ショウガをみじん切りにしたもの一つまみ、青山椒4粒程度、塩コショウ少々を混ぜ合わせた。ナレズシに混ぜ込んだ柑橘のピールがまだ残っていたため、一つまみ分混ぜた(写真10)。


0606笹田写真10 0606笹田写真11 写真9・10


 ここで時間が来てしまったため油で揚げる工程は教授にしていただくことになった。その日の夜の教授からの緊急連絡によると、まずミンチが固まらず、そぼろ状になってしまうこと、次に塩漬けにしたことにより塩分が抜けず、すさまじく塩辛く、半時間も口の中から塩気が引かなかった、という問題点が報告された。このことから、タタキにするのであれば塩漬けせずにフードプロセッサーにかけるか、塩漬けの食材ならば山芋などのツナギを相当量含めたほうがよかろう。
 古代食でナマズのタタキが食されていた可能性は高くはなかろう。ただし、昨年度後期のプロジェクト研究で明らかにされたように、全国各地に川魚のすり身料理があり、ナマズの本場、吉川でも鯰のタタキが郷土料理として定着していることには注目したい。現実的にはタタキの工程は難しく、パンガシウスを使った身だけのすり身(つくね)が有効だが、それを炒めてチップス状にするには、山芋などのツナギが必要になる。そうすれば、「ナマズのたたきチップス」として販売できるかもしれない。(M1 SA)


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2024年 菖蒲のナマズ漁と調理(4)

0531銅山(ナマズ捌きコイ煮付け)図8[歴史遺産保全特論]


 5月30日(金)はなくなったコイ雄61cm(0530菖蒲)に加え、ナマズ①雌56cm(0530菖蒲)とナマズ④雌50cm(0531千代川定置網)を捌き、さらに①鯉の煮付けにも取り組んだ。この日の作業については、すでに教授がレポートされているが、わたしは鯉の煮付けの感想を述べておく。(DH)

鯉の煮付けー喜兵衛のクオリティの高さを実感

 鯉の煮付けは近江八幡の料理屋「喜兵衛」の味をイメージしつつ調理した。喜兵衛の味は濃い甘辛煮で山椒が効いていた。そこで我々も、山椒2種類(1つは強い香りのブータンの山椒)を多めに使った。ほかには生姜、唐辛子(種抜き)、白ネギ、梅酒シロップとその梅実を使った。梅酒シロップと梅実はフルーティな酸味を期待したものである。今回捌いた鯉はまずは霜降りし、次にスープに入れて煮込んだ。通常の煮込み時間は10分だが、近江八幡は佃煮風の濃い味付けだったので20分以上煮詰めた。この後、火をとめていったん外出し休憩。これは重要な工程である。加熱後冷ますことで、煮汁の味が鯉に染み込むのである。

弥生土器でナレズシをつくろう!
 
 この日は朝から緊急の活動で忙しく、昼ごはんを食べる時間もなかったので、4人でモスまででかけた。昼食とその往復時には、教授の興味深い見解をうかがったので、書き留めておく。
 まず、古代西日本の水田稲作にともなって発展したナレズシに対し、燻製は水田の少ない東日本の文化であり、鮭トバとして現在まで残っているのではないか、という見解をうかがった。西日本のナレズシ痕跡の代表が琵琶湖のフナズシであるのに対して、東日本燻製の痕跡がトバだという発想である。東西の日本が環境と生業にしたがって、魚の保存法を異にするのは筋が通っていると思う。作業をおこなった保存修復スタジオには弥生土器(卒業生の手作り)が陳列されており、その土器でナレズシを浸けるのも面白いというお話もあった。


0531銅山(ナマズ捌きコイ煮付け)図10[歴史遺産保全特論] 鯉の煮付け


煮付けの味見-泥臭さは消えたか

 帰学後、鯉の煮付けを試食した。鯉の「泥臭さ」について意見が分かれた。その場にいた4人のメンバーのうち2名は泥臭さを感じた。泥吐きの時間が事実上半日と短かったこともあり、まだまだ泥臭いという意見である。残りの2名は喜兵衛をめざしてしっかりした味付けをしたためか、ほとんど泥臭さを感じないと答えた。私は後者の一人で、あまり泥臭さを感じず、むしろピリッとした辛さもあり美味しいとさえ感じた。しかし、後で考えてみると、喜兵衛のように日本料理の良さである魚の本来の味が消えてしまっており、その点でも喜兵衛の煮付けのクオリティの高さに改めて驚いた。喜兵衛でいただいた鯉は私たちの調理法と比べ、泥吐き期間が長く、また汁に浸けおく期間が長いことで、煮込み汁にも鯉の味が染み込んでいて、魚本来の味がしたのではないか。
 その日の夜、教授には通常の味付けのアラ煮(三枚におろした骨付き部分の煮物)を作っていただいた。翌週、冷蔵の品を試食させていただいた。辛さだけでなく、梅のフルーティさが引き立っており、魚本来の味もあって美味しかった。今回、採捕の翌朝に魚が死んでいるのを確認し、数名が急遽忙しい中集まって作業をした。みんなの協力のおかげで、複数の工程が上手く運んだと感じている。本当にお疲れ様でした。


0606鯉のアラに01 0606鯉の煮凝り01
左:鯉のアラ煮(0530夜調理) 右:冷蔵庫で煮凝りになった鯉の煮付け(0530昼調理)


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東鯷人cafe(第2回) 速報!

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鯰とナレズシ、満員御礼!

 全国税理士共栄会の助成による第2回東鯷人カフェ「ナレズシと鯰-郷土史からアジア史まで」が6月12日に開催され、盛会の下、終了しました。会場には20名の聴講者に加え、マスコミ3社が取材にあらわれ、熱気に満ちたものとなりました。講演をしていただいた橋本さんを始め、猛暑のなか会場にかけつけてくださった参加者の皆様に感謝申し上げます。第1回は文化遺産関係の発表会でしたが、まったくメディアは反応なし。それが、今回の「ナレズシと鯰」には敏感に反応した点、驚いています。これまでの報道は、以下のとおりです。

6月13日(木) ①山陰中央新報で報道
     https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/591278
6月14日(金) ②日本海新聞で報道
     https://www.nnn.co.jp/articles/-/333012
     https://www.47news.jp/11056705.html
    新聞報道に伴い、③youtubeチャンネル〈net nihonkai〉で配信
     https://www.youtube.com/watch?v=8Lxzou-ljHg
    夕方6時ころ ④山陰中央テレビ(TSK)で報道


 ③net nihonkai


 地元紙の報道を受けて、市内宮長在住の男性より大学に電話があり、ナレズシのレシピを教えてほしいとの依頼があり、鯖スシのレシピを2種(郷土料理本佐治津野実家版)をお教えしました。なお、大学公式X(旧ツィッター)にも画像を提供しましたが、わたしはXを使えないのでアップされているかどうか分かりません。採用された写真等は以下のとおり。

X紹介予定画面
画像3-4枚目右は鯰卵の煮つけ(+酢)


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東鯷人cafe(第2回)のお知らせ-予報3

第2回 東鯷人cafe チラシ(サイズ修正②)_page-0001


滅私参上!!
 
 第2回東鯷人カフェの前回広報は5月17日でした。懸念材料だったチラシのサイズ(16:9)は上のように4:3に変更して配付しています。あれから、琵琶湖の訪問(2回)、ナマズ漁と調理などに忙殺されてきました。東鯷人カフェ(第2回)については、やはり平日午後の開催が影響して、前回ほどの予約が届いていませんが、最大のニュースは旧院生滅私(本名は東くん)の参加が決まったことです。現在、彼は広島県安芸太田市のJOCA×3に勤務しています。シフトの調整がついたようで、2泊3日で鳥取に滞在するとのことです。広島だけでなく、大阪からの参加者(文化財関係)もいます。このほか某温泉旅館の女将さん、菖蒲集落の方々、郷土史家などが参加されます。学生はたぶん10名程度。
 このほか、招聘講演者の橋本さんを歓迎する会を、わたしの地元、鮎の里「河原」で開催することにしました。鮎のナレズシを提供してほしかったのですが、あれは11月に油ののった落ち鮎でつくるそうです。贈答品として使われることが多いとのこと(一尾千円)。一方、カフェ当日に提供する食品は以下になりました。
 1)ASALABと院生が4月に漬けだ鯰ナレズシ(冷蔵庫保管中)
 2)滋賀県栗東市大橋の三輪神社で頂戴した泥鰌鯰鮓(冷凍庫保管中)
 3)琵琶湖畔の「道の駅」で買った鮒ズシ(真空パックを冷蔵中)
 4)塩漬け冷蔵の鯰卵を煮て梅酢漬けにした品。吉川の鯰割烹の味になりました。圧倒的美味!

 では、広報を再録します

東鯷人カフェ(第2回)-ナレズシと鯰:郷土史からアジア史まで

 全税共の助成による研究活動「ナマズ食の文化史的再評価と郷土料理としての復興」の一環として、6月12日(水)午後、東鯷人cafe(第2回)を本学まちなかキャンパスで開催します。フナズシ研究の第一人者、橋本道範先生(滋賀県立琵琶湖博物館)を招聘して、最前線の研究成果を講演いただくとともに、先月試作し発酵中の「鯰ナレズシ」を参加者全員で試食し、意見交換しようというワークショップです。日程・会場・次第等は以下のとおりです。

1.日時: 6月12日(水) 13:00~16:00(定員25名、要予約)
  飲み物・軽食付きカフェ形式の気楽な講演会です(無料)
2.会場: 公立鳥取環境大学 まちなかキャンパス
https://www.kankyo-u.ac.jp/about/alliance/machinaka/
3.次第:
13:00-13:30 浅川 滋男(公立鳥取環境大学教授)
   趣旨説明:因幡のナレズシ概観~鯰ナレズシづくり(仮題)
13:30-14:45 橋本道範(滋賀県立琵琶湖博物館専門学芸員)
   ナレズシの起源・拡散から琵琶湖フナズシの洗練化まで(仮題)
14:45-15:20 鯰ナレズシ等 試食会
15:20-15:50 意見交換
15:50-16:00 閉会挨拶 

4.主催: 東鯷人ナマズ食の会    
  事務局・問い合わせ先: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
   e-mail:[email protected]  本ブログにコメントしていただいても構いません。

 多数のご来場をお待ち申し上げます。

【講演概要】 二人の講演内容は、およそ以下のようになります。
 浅川は①本研究の趣旨と経緯を簡単に話し、②元県博の加藤隆昭氏が1991・92年に発表した「鳥取のナレズシ」論文をもとに、軽くナレズシの起源・拡散問題に触れた上で、③因幡千代川流域の鮎ズシ・鯖ズシの分布を示し、④鯖ズシのレシピをモデルにして鯰ナレズシを漬けた経緯と成果を半時間でまとめます。
 橋本さんに期待しているのは、①ナレズシの起源・拡散に関する研究史と最新の説、②琵琶湖のフナズシの伝統と洗練化について説明、③鯰ナレズシと鯰料理について中世京都の状況や大橋三輪神社の習俗などをご紹介していただきます。


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2024年 菖蒲のナマズ漁と調理(3)

0531鯉捌き00 0531鯉捌き02


 5月31日(金)、菖蒲での豊漁に湧いた翌日のことである。午前9時25分、電話が鳴った。M2のDH君からである。菖蒲で捕獲されたナマズとコイの身を案じて実験棟の水槽を観察しに行ったところ、すでにコイが死んでおり(ポンプが足りず水槽に酸素供給できず)、50㎝級のナマズも弱ってきているので、まとめて捌いたほうがよいというアドバイスを魚類学ゼミの教員から受けたのだという。それは大変だ、メールとラインで関係学生に招集をかけ、なんとか4名集まってくれた。参加者:M2銅山、M1笹田、4年安部、4年脇野、教師。


0531鯉捌き01 0531鯉捌き04三枚01


 連載(1)で報告したように、30日(木)に捕獲したナマズとコイは以下の4個体である。

   ナマズ①雌 56cm
   ナマズ②雌 63cm
   ナマズ③雌(魚類学ゼミ千代川定置網) 55cm
   コイ雄 61cm

 前日(30日)血抜きして捌いたのがナマズ③雌55㎝、この日(31日)捌くことになったのがコイ雄61cmとナマズ①雌56cmであり、前者については、ただちに煮付けにすることにした。後者は塩漬け冷蔵。参加者はM2銅山、M1笹田、4年安部、4年脇野と教師の5名である。


0531鯉捌き04三枚02 0531鯉捌き04三枚06切り身


喜兵衛をめざして鯉料理

 包丁は教師が家からもってきたが、切れ味悪く、捌きを担当の紅一点SMさんは苦しんだ。とりわけコイの背骨は硬く、近江八幡「喜兵衛」のような輪切りにできない。なんとか3枚に下ろし、骨付き部分以外の2枚を万能鍋で煮込むことにした。魚は鱗を取り、十分塩揉みして水分を出した。冬に子持ちカレイの煮付けを得意とする教師は、その方法ではなく、喜兵衛輪切り煮込みを目標とした。目標にしたとはいえ、レシピを理解しているわけではない。雰囲気で近づけるしかない。とりあえず霜降り(↓)。熱湯の中に切り身を放り込み、さっと掬いあげて、氷水に落とす。これで、魚の臭み、ぬめりが落ち、一部残っている鱗も剥がれる。霜降り後は丁寧にキッチンペーパーで水気を取る。


0531鯉煮つけ02霜降り01 0531鯉煮つけ02霜降り02肉


 再び万能鍋で湯をわかす。①まずは煮汁づくり。水を沸かしながら、醤油、みりん、酒を適量加え、さらに教師秘伝の梅酒実シロップの濃縮液(↓)と梅実を結構加える。②白ネギをいれる。③煮立ってきたら、切り身を落とし込み、④薬味として生姜・山椒・(日本産とブータン産の両方)種を抜いた鷹の爪を加える。喜兵衛の味付けの特徴は、甘辛醤油の煮込みであり、山椒と生姜をかなり効かせている。このイメージがあったので醤油と梅酒シロップを多めにした。⑤半時間ばかり煮込んで一応完成とした。一夜おけば味が向上するであろうが、時間もなく、試食に移行した。


0531鯉煮つけ03梅シロップ01 0531鯉煮つけ05薬味01


    

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2024年 菖蒲のナマズ漁と調理(2)

写真1 0530笹田(菖蒲)写真2 写真1・2


菖蒲集落の皆さんに支えられて

 5月30日(木)に菖蒲集落の水路でおこなった初のナマズ漁については、すでにDH先輩が報告しているが、わたしは生物専攻の立場から補足しておきたい(重複する部分もある)。菖蒲に到着し、教授が地元の方々に挨拶に行かれた間、学生は胴長を着用した(写真1)。私が着用した胴長は一部パーツがなくなっており、肩ひもを胸元に接続することができなくなっていた。応急処置として肩ひもを腰に巻き付け胴長がずり落ちないよう縛った。胴長を運搬する際に胴長が使用できるかどうか確認を怠ったのが原因であった。昨年からお世話になっている菖蒲の男性Yさんと女性Mさんが漁労現場においでになり、学生全員で元気よく挨拶をした。地元の方々は続々見に来てくださり、興味を持って活動の支援をしていただけるのはとてもありがたいことだと感じた。
 田植えの水入れの時期との関係や先日の雨もあり、水路の水量が多いと採取はできないというお話であったが、さで網を持ち茶色に濁った水路に入ってみると、水流は強すぎるほどでもなく、水温も冷たくて気持ちがよい程度。天候は晴天ではなかったが、暑すぎることもなく、ちょうどよかった。水が茶色に濁っているため魚側から人間への視認性が悪く、漁には適しているように思えた(写真2)。しかし、段差や水底の様子が分からなかったため初めに水路に入ったときに滑って大きな音を立ててしまった。


0530笹田(菖蒲)写真5 0530笹田(菖蒲)写真4 写真3・4


1回目の採取

 私とDHさんが水路を塞ぎ待ち構える側、CYさんとWSさんが追い立てる側の二手に分かれ、さで網漁を開始した(写真3・4)。OK先輩の指導で、ナマズを驚かせないよう、CYさんとWSさんは水路から離れたところを歩き、開始地点に向かっていった。漁を開始してすぐの段階で私のさで網の中で魚が暴れる感触があった。急いで網を引きあげたいのをこらえつつ、追い立てる側がやってくるのを待ち、さで網を上げたところ、DHさんの網に大きなナマズが入っていた。私の網には小魚とエビが入っていた。採取された小魚等については後述する。1回目の採取で捕獲したナマズは体長56cmですぐ近くに家があるYさんに用意していただいた水槽に水を入れて泳がせた(写真5)。小魚小さなバケツにまとめて入れた(写真6)。さで網は生物を回収した後、水路に入り水草などのごみを洗い流した。


写真5 写真6 写真5・6


2回目の採取

 追い込む側と待ち構える側を交代した。ナマズを驚かせないために回り道をして水路に入った。OKさんに言われた通り、ナマズが産卵するための水草を引きちぎらない、また、魚を逃がさないように腰を落とし、さで網を振るった(写真7)。途中魚が跳ねる感覚があったため、さで網を蹴り上げて追いこんだ。待ち構える側のところまで魚を追いこんだ後、網をあげるとCYさんの網に体長63 cmのナマズ、DHさんの網に体長61 cmのコイが入っていた。ナマズとコイはプラケースに入れ(写真8)、小魚をさで網からバケツに移していたところ、魚類学ゼミから電話あり。千代川でもナマズが獲れたという連絡だった。


写真7 写真8 写真7・8


 Yさんのご厚意に甘えて、地産のそら豆をいただいた(写真9)。さらに軽トラックで魚を運んでくださることになり、お言葉に甘えた。水槽の水量を調整し、プラケースの蓋や、さで網で蓋をして魚が飛び出ないようにし、運んでいただいた(写真10)。Yさんにお礼をすることができなかったのが心残りである。次にお会いする機会があればぜひとも感謝の気持ちをあらわしたい。


写真9 写真10 写真9・10


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琵琶湖竹生島の水神と魚食の旅(3)

0518大橋三輪神社本殿01 0518大橋三輪神社会館01
(左)大橋三輪神社本殿覆屋 (右)大橋自治会館でのヒアリング                          


大橋三輪神社「泥鰌ナレズシ」起源譚

 栗東市大橋の三輪神社では、毎年9月23日に「泥鰌のナレズシ」を漬け始める。そして、翌年の5月1日の口開け式で封を開け、5月3日の奉納祭で振舞われる。この5月3日の大祭には150~200人ほど人が集まるということで、一地域の行事とはいえ、想像以上に賑やかな祭礼である。
 大橋集落では昔、天変地異が起ると、白羽の矢が立った家の若い娘を、神の遣いである白巳(白いヘビ)に生贄として差し出したという伝承がある。その生贄に代わるものとして作り始めたのが、この泥鰌ナレズシだという。その始まりは天平(奈良時代)に遡るということで、驚いた。伝承ではあろうけれども、8世紀という年代はすでにナレズシの文献記載(平城宮荷札木簡等)があり、不自然な感覚ではない。元栗東大橋自治会長のOSさんは、「人間の生贄なんてことは無かったと思いますけど」と仰った。たしかに、人間を生贄にするという習慣や大蛇のよう な白蛇をイメージするのは難しく、真実ではないとは思うけれども、私は保育園児の頃から現在まで、祖父母の家で多くの日本昔話を読んできたが、人間を生贄に差し出す神話等もいくつかあった。また、海外でも人間を生贄にしたという伝説は多くあり、大昔は本当に人身御供がおこなわれていたのだろう。 かりに生贄の話が真実だったとしたら、三輪神社の泥鰌ナレズシは、人の命を救っ たとてもありがたい食べ物だと思った。
 一方、ナレズシを漬ける当番はくじ引きで決まるが、当番以外の人が作った際に災難があり、それは罰が当たったのだという話も聞いた。本当に罰あたりなのか偶々なのかは分からないが、伝統はなるべく守るべきだと個人的には思った。当番がくじ引きというのは、人身御供がおこなわれていた時代の、誰が選ばれるかわからない状況を再現しているのかもしれない。


0518大橋三輪神社人身御供01 人身御供の伝承(『大橋区誌』1997より)


泥鰌ナレズシの作り方

 次に、泥鰌ナレズシの作り方を聞いた。三輪神社で作られる泥鰌ナレズシはレシピもかなり特徴的である。まず、①桶に炊飯器で炊いたご飯を入れる。以前は竈で朝4時に炊いていた。そこに、②フードプロセッサーで粉々にして乾燥させた蓼を水に浸して団子状にまとめ、米にまぶす。蓼は昔は各家で栽培していたが、現在は境内横の借地を専用の畑にして作られている。蓼には毒消しの意味もある。③蓼と米をよく混ぜ合わせたらその上に塩をかませた泥鰌と鯰を敷く。鯰はいま頭を取るが、依然は取らずに腹と背を開いて麹米を詰めた状態で漬けていた。その上に再び蓼入りの米を敷き、泥鰌→鯰→泥鰌→鯰というように層にしていく。桶の上部まで敷き詰めたのち、ナマズの上に樽の形に丸めた蓼の茎を置き、藁編みの蓋を落としてから、桶の蓋をして重石を置く。重石ははじめ2つ置くが、最後の方は1つにする。④9月23日の漬け始め、10月から翌年4月まで月1回蓋を開けて点検する。確認するのは上澄み液の具合で、少なければカビが生えてしまい、多すぎてもよくないので調整する。このとき塩水を加える。そのため、塩味が強くなる。


0518大橋三輪神社蓼02 0518三輪神社資料01
(左)蓼畑 (右)大橋三輪神社の泥鰌ナレズシ[栗東歴史民俗博物館『企画展 まつり・祭り・祭礼』2001『より]


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2024年 菖蒲のナマズ漁と調理(1)

0530菖蒲ナマズimage6 図1 一回めの漁、受け手側



 5月30日(木)、大学院授業としては今年度初のナマズ漁をおこなった。場所は昨年と同じ鳥取市菖蒲集落の小川であり、参加者・地域住民の連携により大きなナマズやコイを採捕することができ、とても充実した実習となった。
 〈参加学生〉 M2笈川、M2銅山、M1笹田、M1陳、4年安部、4年脇野、教師

菖蒲でのサデ網漁 1回め

 早速、3限から演習室に集まって準備し、4限から菖蒲へ出発。現場に着いたとき、水路の水が濁っており、ナマズはやはり濁った水にいるのだと改めて認識した。また、田植えの水入れの時期との関係や先日の雨の影響で水路の水量が多いと漁はできないということで少し不安であったが、胴長を着て小川に入ると、ちょうど良い深さであり、漁がやりやすかったと感じた。天候にも恵まれていると感じた。
 今年も献身的にサポートしていただいた集落の方2名をはじめ、地元の方々とあいさつを交わした。皆さん、大変優しく対応して下さった。とくにYさんには捕獲したナマズを入れる水槽等をお貸しいただいたり、漁獲物を大学に軽トラで搬送していただくなど、本当にありがたい限りであった。地域の皆様方が快く様子を見守って下さる中、ナマズ漁を開始した。
 漁に先立ち、昨年の経験者O君からサデ(叉手)網漁のコツを説明してもらった。まず、水路の傍を歩かないことを意識するよう話があり、これは敏感なナマズが逃げないようにするためである。実際、この場所は車通りも少なく、周辺には水田がひろがり、環境の変化に敏感なナマズにとっても生息しやすいのではないかと感じた。本ナマズ食研究に立ちかえると、水路の側溝が整備されていても、市街地から少し外れているこのような場所には、ナマズの生息が十分予想され、琵琶湖訪問で天平時代まで遡るという伝統ある鯰ナレズシ文化に想いを馳せた。


0530菖蒲ナマズimage9 図2 捕獲ナマズ① 


 いよいよ地域の方々に見守っていただきながら、サデ網漁に取り組む。1回目は、私とSさんが待ち受け側、C君とW君が追い込み側にまわった。ここでもベテランのO君が道路から見守りつつコツを指示してくれて、待ち受け側は、追い込み側が来るまで網を上げないということと、網の横から魚が逃げないように気を配るようにした。実際に追い込みが終わり、網を持ち上げると大きなナマズが一尾入っていた。とても感動した。皆で上手く連携して捕獲することができて、本当に良かったと思う。今回見守って下さったメンバー、教授や地域の方々とも一緒に喜んだ。漁の様子と小川の環境、捕獲した採れたナマズを図2、3、4、5、6に掲載する。


0530菖蒲ナマズimage1 0530菖蒲ナマズimage3 0530菖蒲ナマズimage7 0530菖蒲ナマズimage11 図3~6


 捕獲したナマズは想像以上にサイズが大きく、バケツでは小さすぎたので、Yさんが用意してくださった大きめの水槽に移した。ナマズと同時に、小魚も何尾か採捕した。C君が構想している中国西南少数民族の「魚茶」の材料にできる(図7)。このとき、私はとくに何も考えず手で小魚を長時間触ってしまったが、O君から「手だと魚は温度に敏感であるため、なるべく網で持ち、手で触る際は水で予め冷やすと良い」と教えられた。特に捕獲する際は、生き物がどういう環境で生きているのか等、細心の注意を払わないといけないと感じた。


0530菖蒲ナマズimage13 図7 小魚・蝦類の選別


サデ網漁 2回目

 2回目は追い込み側と待ち受け側を交代し、私とSさんが追い込み側、C君とW君が待ち受け側を担当した。2回目は、待ち受け側は前回と同じ位置からスタートし、少しずつ上流に動く。追い込み側は水路がL字に折れるさらに上流から下流にむけて魚を追い、最終的にはL字屈曲点で捕獲した。追い込む際には、O君から、中腰で川底にしっかり網を突けることと、流れを作ることがポイントだと教わった。とくに障害物や川幅が広いところは足で蹴る等して、流れを作ることを意識したほうがよいとのことで、水路の曲がり角ではなるべく足で流れを作るように頑張った。追う中で、私の隣でサデ網を持っていたSさんが壊れかけのサデ網を使っていたが、逃がさないように上手く前に進めていた(図8)。いよいよ待ってくれていた2人の場所まで追い込み、網をいざ上げた。すると、本日2尾目の大ナマズと大きなコイ1尾が網の中に入っていた(図9・10・11)。


0530菖蒲ナマズimage15 0530菖蒲ナマズimage18 0530菖蒲ナマズimage19 図8~10


 ナマズのサデ網漁は、初めての経験であったが、皆で協力して大物を捕獲でき、とても嬉しかった。今回捕獲したナマズ2尾とコイ1尾を図12・13に示す。こちらもとてもサイズが大きく、Yさんには新たな水槽をもう1つ提供していただいた。ちなみにナマズを移す際、O君が、ナマズをつかむときには横からサッと持ち上げるという、コツを話しながら上手く掴んでいて流石であった。


0530菖蒲ナマズimage21 0530菖蒲ナマズimage23 図11・12


 今回、地元からの電話連絡では、昨年のようにナマズが遡上する音が聞こえないという情報を得ていたので、実際に2尾の大ナマズを捕獲したことは予想外であり、とても驚くとともに、全員で協力した結果だと感じた。採れた魚を大学まで運ぶ際には、いつものことながら、Yさんが軽トラで運んでくださった。その際に最後、私が連絡を怠り、Yさんはそのまま帰宅されたが、皆であいさつやお礼等をすることができなかった。大変申し訳なかった。今回お貸しして下さった、水槽等を返す際に、きちんとお礼したい。Yさんには、菖蒲を去る際に新鮮なソラマメをたっぷりいただいた。本当にありがとうございます。今回の実習を通して、地域の方々の優しさに触れることができ、とても良い経験ができた。


0530菖蒲ナマズimage25 図13 捕獲した鯉 水槽の水はこのあと増やした


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琵琶湖竹生島の水神と魚食の旅(2)

0818舟廊下10懸造01 0818懸造022遠景01 左:舟廊下 右:島遠景


圧倒的な真言密教懸造建築群

 竹生島には圧倒された。島にあがってすぐ「国宝」の看板を目にし、素直に驚いて、その後、「国宝」にふさわしい文化遺産群であることを思い知らされた。教師が感じた驚きを箇条書きにしておく。
 1)役行者とともに、行基(東大寺大僧正:大仏建立の主導者)の開山伝承がある密教(真言宗)の寺院であること。天台宗における円仁と同じように、行基開山は後世の付会であろうけれども、この3年間とりくんできた奈良市菅原遺跡(長岡院)の供養対象にここでまた再会するとは思いもよらなかった。真言密教は南都華厳宗と関係が深く、空海自身、帰国後東大寺の別当に就任している。大仏鋳造は近江で始まり、資材調達の拠点として開山されたのが石山寺で、その開祖が良弁(東大寺の初代別当)であり、後に石山寺は真言宗に転じた。それだけ東大寺と真言宗の関係は深いことを、竹生島でも感じることができた。
 2)山林密教の寺院らしく、懸造(かけづくり)建築が溢れている。島とは水面に浮かぶ山であり、平坦地が極端に少ない。崖面に堂宇を建てるほかないので、自ずと懸造の集合体になる。懸造といえば、鳥取の国宝「三徳山三佛寺」が日本を代表する建築群だが、竹生島はそれを凌ぐほどの迫力がある。
 3)明治維新の神仏分離令以前は、寺院と神社が混然一体であり、全体に蛇(龍)=水神(弁財天)の意匠をちりばめている。役行者・行基以上に重要な信仰の原型はここにある。
 4)豊臣秀吉の御座船「日本丸」の部材を転用した「舟廊下」、秀頼の注力により修復した諸建築に大阪城や豊国廟の唐門などを移築しており、圧倒的な桃山様式の集合体でもあり、それが国宝・重文の指定理由になっている。これらの遺産は切支丹灯籠のようなもので、幕藩体制にあって、豊臣の遺産を隠し奉った秘奥の場所になっている。徳川が撤去させてもおかしくないが、そうしなかったのは、場所の秘匿性とともに、祭祀対象として畏怖していたからなのかもしれない。
 これほどの指定建造物群にそうそうお目にかかることはない。わたしは今、奈良に居て、明日(26日)、長浜城で竹生島の特別展示をみようと思っている。岐阜に近い長浜まで敢えて足を運ぶのは、それだけ竹生島の文化遺産に感銘を受けたからというほかない。以下、学生のレポート。(教師、5月25日記)


竹生島02到着01 竹生島06黒龍堂02 右:黒龍堂


黒龍堂・白巳社・弁財天社

 5月18日(土)。11時40分頃、彦根港に到着した。12時発のフェリーに乗船し、竹生島へ向かった。彦根から竹生島まで片道40分、帰りのフェリーは14時発なので、竹生島での滞在時間は約70分である。竹生島へ到着後、拝観券を購入し鳥居をくぐって、竹生島神社参拝道を進んでいくと、黒龍堂が見えてきた。黒龍とは八代龍王の一尊であり、龍王とは大海に住み雨を降らす神霊である。また、釈尊の誕生時には歓喜の清浄水(清めの雨)を降らせたと伝えられており、修行者の修道無難、道念増進の守護神でもある。黒龍堂の隣に立っている大木は、黒龍が湖より昇って来ると伝えられる神木である。黒龍堂は昭和45年(1970)、大阪の岡橋氏により建立され、近年傷みが進んだことから、平成7年(1995)、介脱会有志の方々により修繕、それに合わせ鳥居が再建された。


0818白巳01 0818白巳02玉01


 さらに進むと、招福弁財天を祀る「弁財天社」(↓右1枚)と、弁財天の神使としての白蛇神である、白巳大神を祀る「白巳社」(↑2枚、↓左2枚)が並び建っていた。弁財天社は、祠の中に琵琶を奏でる色鮮やかな弁財天像が鎮座しており、白巳社は祠の中には三匹の蛇が祀られており、中央の石に巻き付いている蛇が御神体である。また、祠の壁面に「金寶富貴」と記された木札が掲げられていたが、これは招福・招財の神である弁財天を表す枕詞でもある。


竹生島09白巳社02 竹生島08白巳社01 竹生島07弁財天社01


八大竜王拝所

 その奥には、「八大竜王拝所(通称:龍神拝所)」が海側の崖に大きくせり出す。拝所は琵琶湖に面し、竹生島の中で一番と言っていい程の絶景を望むことができる場所である。また、拝所内には龍神の祭壇を見ることができた。さらに、ここは「かわらけ投げ」の名所でもある。湖の八大竜王に願いを届けて叶えてもらおうというもので、2枚のかわらけ(土器の坏)の内1枚に自分の名前、もう1枚に願い事を書き、湖面に突き出た宮崎鳥居へと投げ、そのかわらけが鳥居をくぐれば願い事が成就するといわれている。鳥居周辺に多くの土器が堆積していることから、ここを訪れた多くの観光客が挑戦しており、観光地としても親しまれていると感じた。今回調査に参加したメンバーの中から2人挑戦したが、かわらけが鳥居をくぐることはなかった。かなり難易度が高いと感じた。


0818八大龍02 0818八大龍01縦 竹生島12龍神拝所01


都久夫須麻(竹生島)神社本殿

 拝所の向かい側には、「天忍穂耳神社」「大己貴神社」「厳島神社」「江島神社」に挟まれた石段の先に「都久夫須麻神社(竹生島神社)本殿」(↑↓)が崖上部に大きな面積を占める。本殿は、桁行五間×梁間四間入母屋造檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらしており、あきらかに宝厳寺との連続性が意識されている。また、関白秀吉が時の天皇をお迎えするために、その時代の粋を集めてつくった「日暮御殿」という伏見城内最高の建物を神殿として寄進しており、殿内部は狩野永徳・光信筆の天井絵・襖絵などをはじめ、高台寺蒔絵の柱、長押など建物すべてが極彩色に飾られており、桃山文化の代表的な国宝建築物で、本殿内部のいたるところに華麗な装飾みることができる。さらに本殿内部の折上格天井には、四季の草木花が華麗に描かれ、狩野永徳・光信筆と伝えられている。そして、竹生島神社の御祭神は市杵島比売女(弁財天)、宇賀福神(白巳)、浅井比売命(産土神)、龍神といった四柱の神様を祀っている。


0818竹生島本殿末社群 竹生島15竹生島神社本殿02  
国宝「本殿」及び末社群


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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