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いい加減に学ぶ中国語講座(36)

中文テキスト追加-小籠包

 すでに5週の授業を終えました。うちオリエンテーション2回(1・2年別)、翻訳演習3回(1年2回・2年1回)です。みな悪戦苦闘しています。もちろん善戦している学生もいます。トランプのアメリカじゃないけれど、二極分解の兆しもあり、少々悩みの種なんですが、前期に3・4年生でこなした課題のネタが早くも尽き始めており、追加の「原文」を用意しました。
 いろいろ考えたあげく、「小籠包」を主題とすることにしました。百度の説明文を抜粋・圧縮して、とりあえず1年生は以下のようにふりわけたところです。1週間に9名、2週間で18名の添削をするのはタフな仕事です。同じテキストでも、学生によって訳文は異なるわけですから、添削もワンパターンというわけにはいきません。おまけに、10月後半は秋の科研申請期で、久方ぶりに「科研が書けん!」状態に陥っていましたが、今年は春に長いヤツを書いていたので応用が効きました。いつもよりは早く終わった感触です(出版助成のほうを急がないといけません)
 外国語の翻訳や添削は、自分の趣味なんだ、と思うようにしています。履修生のうち一人でもいいから、「外国語を学ぶことは楽しい、学びたい」と思うようになってほしいと思っています。
 以下、追加の原文です。今回は1年生の分担のみ示しておきます。

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小笼包01(P2吉田)
 小笼包,别称小笼馒头,在苏南、上海、浙江一带习惯叫做小笼馒头,四川、芜湖叫做小笼包子,武汉叫做蒸包,一个蒸笼里有10个包子,10个包子为一笼,汤包它源于北宋京城开封的灌汤包,而小笼包则是衣冠南渡时在江南承传的汤包经过江南地区当地制作改进而来,小笼包起源于江南常州府(今江苏省常州市),小笼包是根据由中原地区美食之一的汤包后传播进入江南地区 而经过江南地区当地改进制作而来,后又得到发展和演变而成。小笼包是常州、无锡、苏州、南京、上海、杭州、宁波、嘉兴等长江以南地区著名的江南传统小吃。

小笼包02(P2野田)
 清代道光年间,在今江苏常州出现了现代形式的小笼包,并在各地都形成了各自的特色,如常州味鲜,无锡味甜,苏州味美,但都具有皮薄卤足、鲜香美味等共同特点,并在开封、天津等地也得到了传扬。而诞生于清末同治十年的上海南翔小笼同样历史悠久,享誉中外。
 小笼包的历史可上溯至北宋,尚有类似的“灌汤包子”流传至今。现代形式的小笼包起源于清代道光年间的常州府,并在各地都形成了各自的特色,如常州味鲜,无锡味甜,苏州味美,但都具有皮薄卤足、鲜香美味等共同特点,并在开封、天津等地也得到了传扬。

小笼包03(P2矢野)
 据民俗专家可考证历史记录记载近代小笼包真正成形的起源于近代江南常州府(今江苏省常州市),而小笼包这个种类本身则是衣冠南渡时在江南承传的中原美食之一的汤包(及灌包)在经过了江南地区当地制作改进而来,普遍认为现代小笼包与北宋时期的“山洞梅花包”和“灌汤包子”有着传承上的渊源关系,与中国北方地区流行的灌汤包子系出同门,千百年来传承一直没有断绝,并在各地得到了创新和发扬。
 常州万华茶楼在清代道光年间的“加蟹小笼馒头”,上海南翔镇的黄明贤在1871年创制的“南翔小笼馒头”,包括清代光绪年间流行于无锡惠山秦园一带的无锡民间小笼馒头,及开封、天津等地近代创制的小笼包,都各具特色。江南一带的常州、无锡、苏州、上海、南京、杭州、芜湖等地都有着悠久的小笼包烹饪历史,现存着不少以小笼包为特色的百年老店。

小笼包04(未定)
 自50多年前有中国移民在西班牙经营中国餐馆开始,中国的小笼包也开始在西班牙食客中享有盛誉。西班牙语菜单上的解释是:“中心加肉的中国面包”。由于美味可口,有的西班牙餐馆或酒吧也出售类似中国小笼包的食物,但被叫做“西班牙产中式夹肉面包”。
 自从20世纪90年代后,中国移民大量进入西班牙,中国饭店也如雨后春笋般地遍地开花,小笼包是每家饭店必备的主力食品之一。不过那时的小笼包已经不再写成“小笼包”,而是被写成“小龙”。有的写“中国小龙”,有的写“上海小龙”。对于这个“小龙包”,西班牙语的注释更绝:“加中国龙肉的小面包”。


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ボン教の時期区分

 先にとりあげた百度百科(中国)とウィキペディア(日本)の「ボン教」解説を比較すると、後者のほうが明らかにボン教の正しい歴史的理解を記している。こうしたボン教の理解は、昨日手元に届いた国立民族学博物館特展図録『チベット ポン教の神がみ』(長野泰彦編2009)が、少なくとも日本語の文献としては最も体系的な業績だと思われる。
 一方、ブータンのボン教については、ほとんどまともな先行業績がない。カルマ・プンツォ博士の大著『ブータンの歴史(History of Bhutan)』でもわずか2ページの説明にとどまっている(Karma Phuntsho 2013:pp.135-136)。以下、これの全訳を試みる。

ボン教

 ボンという用語は、宗教的伝統に関連して使われる場合、チベット・ブータン世界で2つの異なる用法がある。すなわち(ボンという言葉は)、仏教導入前にチベットに根付いた宗教の形態として言及される場合と、仏教の導入後に両教の信者の間に定期的な緊張と対立があったにもかかわらず、ある程度仏教と共存した宗教の形態を指す場合の両方(の使い方)をしてきた。このボンはそのとき、チベットの古い宗教であったと考えられていた。ボン教は後世の拡散期から、高度に組織化され仏教化された形態てあり、非常に洗練された教義と実践システムを伴って今日まで存続してきた。それはチベットの仏教的伝統とおおいに親和性があり、今日では仏教の4宗派に加えて、しばしばチベット5番目の宗教的伝統に位置づけられる。
 ボンという用語は、ヒマラヤ全体の多数の仏教以前の慣習を示すため、不正確に使用されることもよくある。ブータンでみられるシャーマニズム、アニミズム、異教的なさまざまな地方的儀礼や慣習は、前仏教/非仏教であるという単純な理由から、ボンの慣習としてしばしば誤って決めつけられるのである。この用法では、ボン教はR.A.スタインが「無名の宗教」と呼んだものを指し、組織化されたボン教や仏教の慣習の影響の有無にかかわらず、地方化したバリエーションのなかで認められる多様な民間信仰と儀礼を含む。
 ここで私たちが関心をもつボン教の伝統は、チベットの教団化されたボン教であり、ブータンではさまざまな活動にもかかわらず、宗教的伝統としてうまく根付いていない。にもかかわらず、ブータンは11世紀と12世紀のボン教宝物再発見の主要な中心地であった。パロやブンタンなどの場所には、ボン教の伝統による初期の宝物発見者(テルトン)が頻繁に訪れた。これらのボン教宝物発見者のなかには、仏教の伝統を採用し、何の問題もなく二つの宗教の間を自由に行き来した人もいる。
 ブータンでボンポ(ボン教精通者)の称号を与えられた最初の発見者は、おそらくブンタンのツィルン寺院とパロのナムトンカルポ寺からゾクチェンの教義に係わる経典を発見したボンポ・ドラグサルであろう。しかしながら、最初の重要な本物のボンポたる人物は、後に「パドロマ」として周知される多くのボン教経典をパロのチャルカで発見したクツァ・ダヨド(別名クサ・メンパ)である。彼はボン教・仏教・医学・占星術のテキストを含む4つの箱を発見したと言われている。これらのボンポ経典はムルム・ツェンポとキョンポ・ギェルダムによって地下に埋納されたと考えられ、同じ場所で発見された仏典はツァンマ王子によって隠されたと言われている。
 ボンに関連する他の多くの宝物発見者はブータンで働いていたが、ボン派と仏教の両方の社会から尊敬された唯一の最重要人物はドルジ・リンパであった。ブータンにも多くのボン派センター(ボン教寺院)が設立されたが、単純なボンポ(資格)制度ほど長続きはしなかった。ガンテンのクブン寺の場合のように、ボンポの守護神スリッパギャルモの慰撫など、ボンポの特徴は残っているものの、徐々に仏教寺院に改宗されていった。古代チベットの組織化されたボン教からの影響の痕跡は、特定の神々、法要経文、宗教儀式でも全国的にみとめられるが、ブータン史におけるボンの全体的な役割は、たとえあったとしても、さほど重要なものではない。


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ボン教(笨教)中国語論文リスト

 雲南省某氏より、大量のボン教関係論文が送信されてきました。拡張子がpdfとcajに分かれており、前者はフォントの問題で文字があらわれないものがあり、後者は日本では読みにくいデータ形式です。しかしながらcajは、中国学術機関全文データベース(China Academic Journals)に収められている論文データの記録形式であり、じつに800万篇に及ぶ論文がこの形式で保存されているそうです。某氏によると、

 http://cajviewer.cnki.net/

を開いて、CAJViewer 7.2 をダウンロードすれば読めるとのこと。以下、受信した論文を発表年順に整理しておきます。

1.段克兴(1983)「西藏原始宗教―本教简述」『西藏研究』1983年第1期:pp.76-77 
2.黄渝平(1995)「马尔康地区藏族民间建筑一览」『建築艺术』第4期:pp.34-pp.37
3.王芳恒(1996)「西藏宗教文化与藏族社会历史发展管见」『《西藏民族学院学报》社会科学版』1996年第1期(总第65期):pp.59-64
4.田必伟(1988)「略论笨教的产生及演变」『宗教学研究』第4期:pp.52-56
5.冯智(2008)「东巴教与滇西北苯教流行史迹试探」『中国藏学』第3期(总第83期):pp.35-39
6.才让太(2009)「杂廓地区的苯教与夏尔杂修行地的形成及其影响」『中国藏学』第4期(总第88期):pp.52-69
7.同美 娜么塔(2011)「苯教寺院的教育与管理――岷江上游苯教寺院为例」『中国藏学』第4期(总第99期):pp.61-67
8.阿旺嘉措(2011)「甘南藏区笨教寺院的歴史与現状」『中国藏学』第2期(总第96期):pp.220-pp.225
9.石硕(2011)「藏地山崖式建筑的起源及苯教文化内涵」『中国藏学』第3期(总第98期):pp.148-153
10.华锐・东智(2012)「苯教在藏区遗存的原因分析」『西北民族大学学报 哲学社会科学版』第1期pp.41-pp.46
11.戚瀚文(2012)「藏东本教寺庙孜珠寺建筑研究」『艺术百家』第S2期:pp.156-pp.159
12.戚瀚文(2014)「藏东苯教寺庙孜珠寺洞窟研究」『华中建筑』第11期:pp.162-pp.165
13.申晓虎(2014)「经文、仪轨、祭司:民间苯教与普米族韩规教的比较研究」『曲靖师范学院学报』第2期
14.李建平・牛婷婷(2015)「试析嘉绒藏区苯教寺庙的建筑特征」『华中建筑』第3期:pp.182-pp.186
15.周先吉(2015)「贵德苯教寺院研究—以琼毛寺为个案」『青藏高原论坛』第2期(总第十期)
16.仇任前(2015)「2010-2013 年国内苯教研究線迷」『青藏高原论坛』第1期第3卷(总第九期)
17.孙正(2013)「那曲地区苯教寺院研究」南京工业大学硕士学位论文
18.马义贤(2018)「金川流域苯教寺院选址与其地景生成研究」西安建筑科技大学硕士学位论文
19.陈治锴(2018)「金川县苯教寺院营建技术研究」西安建筑科技大学硕士学位论文
20.付彦民(2019)「金川县苯教寺院空间形态研究」西安建筑科技大学硕士学位论文
21.普拉(2018)「霍尔巴青地区苯教寺庙及相关文化调查」西藏大学硕士学位论文(チベット語)

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ボン教-百度百科とウィキペディアの比較

 百度百科に掲載された「笨教」の解説文を3回にわたって翻訳した。ここでその全体訳を示す。

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 笨教(この「笨(ボン)」という字はチベット語の音訳で、一般的に最も使用されているのは「本(ボン)教」であり、「本波(ボンポ)教」或いは「笨波(ボンポ)教」と呼ばれるときもある)はチベット最古の宗教信仰である。「ボン教」は「シバ・ボン(斯巴本)」と「ユンドゥン・ボン(雍仲本)」の両種に分けることができる。前者はトンパ・シェンラプ・ミウォ如来仏祖の出生前からあり、象雄地区(聖地カイラス山周辺の西チベット)にはすでに神ボン、龍ボン、魔ボン、ユ・ボン等多種の「ボン」が存在していた。これらの「ボン教」を「シバ・ボン」と総称し、「原始シバ・ボン教」とも呼ぶ。「シバ・ボン」はチベット最古の原始宗教と伝統文化である。ユンドゥン・ボン教はシェンラプ・ミウォ如来仏祖が伝教した仏教で、チベット最古の象雄仏法である。原始的なシバ・ボン教と区別するため、人々はシェンラプ・ミウォ如来仏祖伝教の仏教を「ユンドゥン・ボン教」と呼んだ。

起源
 
 「ユンドゥン・ボン教」の起源は一万八千年前の古代象雄王国(チベットのガリ地区、全国的に名高いカイラス山脈一帯)で、顕教、密教、ゾクチェン(大円満)の理論を基礎としている。皈依三宝(仏宝・法宝・僧宝)を根本とし、四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦)を宗旨とする。出離心・菩薩心・空性証見などを解脱の道として、みずから円満成仏する秘訣をもつ大乗仏教である。「ボン」とは、我々の漢伝仏教の中で講じるところの「法」、古代インドのサンスクリット語経典中の「達磨(ダルマ)」、象雄語経典中の「吉尔(ジル)」、チベット仏教経典中の「曲(チュー)」と基本的に意味は同じである。「ボン」「ジル」「法」「チュー」「ダルマ」は、5つの異なる民族による異名同義語にほかならない。広義にいえば、万事万物みな「ボン」と呼ぶことができ、「法」と呼ぶこともできる。狭義にいえば、「ボン」はすなわち「念じる」「読む」「読経する」「呪を唱える」という意味である。「ボンポー」の意味は、学問が博大精深なボン教文化を有する人物のことである。
 「ユンドゥン・ボン教」は初めから「ユンドゥン・ボン」と呼ばれていたわけではなく、「チュミンジル」と呼ばれていた。これもまた古い象雄文字である。後に多くはチベット語の「ユンドゥン・ボン」と訳された。「ユンドゥン・ボン」の意味は、『ミシェル・セルヴェ(の著作)?』の記載によると、“ユン”は不生、“ドゥン”は不死、“ボン”は法の意味であり、「ユンドゥン・ボン」は「不生不滅」の境界に到達する方法にほかならない。不生不滅はまさしく「仏」、不生不滅の「法」はまさしく「仏法」であり、不生不滅こそ「究極の涅槃」と「仏」であり、これらを講釈・説法する法門を「ボン」と呼ぶのである。概括して言えば、「ユンドゥン・ボン」とはまさに「仏法」を意味する。
 我々が仏教の中で常見する「卍」の万字符は、もともと「ユンドゥン・ボン教」の吉祥符だったので、チベット語で「ユンドゥン」と呼ばれる。かつて栄光と繁栄を極めた古代象雄王国はまさに「ユンドゥン・ボン教」を国教とした。人類と大自然の調和関係を解決するため、「ユンドゥン・ボン教」は多くのチベット文化の基礎を創造した。例えば天文暦学、チベット医学、チベット語から歌舞・絵画芸術、礼儀・規範等々に及ぶ。チベット文化の源泉と呼ぶにまったく恥じるところがない! シェンラプ・ミウォ如来仏祖が「ユンドゥン・ボン教」を開創後、最初に象雄文字を創造し、あわせて五明学科、すなわち工巧妙(工芸学)、声論学(言語学)、医学、外明学(天文学)と内明学(仏学)を伝授した。内明学はボン教の九乗法、四門五庫、顕教、密教からのゾクチェン(大円満法)まで包括しており、「戒・定・慧」等々の覚(悟り)を包括し、(修行者が)迷わぬ法である。「五明学科」はボン教の文化的真髄であり、豊かに咲き誇ったチベット文化遺産の中で、輝くばかりに繁栄した古代象雄文明は「ボン教」の伝播を主軸として発展した。古代象雄文化は悠久の絢爛たる歴史があり、すでに世界文化遺産の保護範囲に入っている。

宗教文化

 「ボン教」はじつのところ、宗教文化の一種であるばかりか、青蔵(青海-チベット)高原という神妙な土地に住む人々が世々代々累積した文明の智慧と実践の真髄でもある。時間の推移とともに、「ユンドゥン・ボン教」の幅広く奥深い文化の底流はすでにチベット民族の中に浸透しており、チベットの歴史・政治・哲学・宗教・天文・暦学・医学・科学・文学・言語・建築・彫刻・歌舞・絵画・芸術・年中行事・民族風俗・礼儀規範から精神文明等多方面に深く影響してきた。「ボン教」は古代象雄文化の核心であるだけでなく、中国チベット民族伝統文化の源泉であり、重要な構成要素である。シェンラプ・ミウォ如来のユンドゥン・ボン教の仏法は一万八千年の歴史があり、釈迦牟尼の仏法は二千五百年の歴史がある。両尊の仏教化の時期・地域と修行の方式は異なるところがあるとはいえ、信仰の目標と追及の目的は一致しており、いずれも、慈悲為本・方便為門・無縁大慈・同体大悲・済世救人・導人向善のブッダ教育を以てする。
 (挿図)正面の銀河系には四条の美しい渦状腕(スパイラル・アーム)があり、その構造は仏の標識「卍」とよく似ている。仏の標識「卍」はチベット語で「ユンドゥン」と言い、すなわち太陽・月・星の自然な動きと対応している。「ユンドゥン・ボン教」の主要な標識は「ユンドゥン・チァシン(雍仲恰幸)」である。「ユンドゥン・チァシン(雍仲恰幸)」の字義は以下のとおり;
 「ユン(雍)」は勝義無生を表し、
 「ドゥン(仲)」は世俗無滅を表し、
 「チァ(恰)」は邪見を降滅することを表し、
 「シン(幸)」は引入解脱を表す。
恰幸の両端のユンドゥン記号は顕教と密教を象徴している。
中央でつながっている部分は心識部の無常大円満(ゾクチェン)を象徴している。


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いい加減に学ぶ中国語講座(35)

笨教〈3〉 (百度百科 https://baike.baidu.com/)

2.宗教文化

1)原文
 “本教”其实已经不仅仅是一种宗教文化,而是繁衍生息在青藏高原这块神奇土地上的人们生生世世所积累的文明智慧和实修精髓,随着时间的推移,“雍仲本教”广博而深邃的文化底蕴已经渗透到了藏民族之中,对西藏的历史、政治、哲学、宗教、天文、历算、医学、科学、文学、语言、建筑、雕刻、歌舞、绘画、艺术、节日、民族风俗、礼仪规范以及精神文明等诸多方面都有过深远的影响。“本教”既是古象雄文化的核心,也是中国西藏民族传统文化的源泉和重要组成部分。幸饶弥沃如来的雍仲本教佛法有一万八千年的历史,释迦牟尼佛法有二千五百年的历史。两尊佛教化的时期、地域和修行的方式虽所区别,但信仰的目标和追求的目的都是一致的,都是以慈悲为本,方便为门,无缘大慈,同体大悲,济世救人,导人向善的佛陀教育。
 正面的银河系有四条美丽的旋臂,结构与标志佛的“卍”非常相似,标志佛的“卍”藏语叫做“雍仲”,就是顺应日月星辰的自然转向.
 “雍仲本教”的主要标志是“雍仲恰幸”。
 “雍仲恰幸”的字面释义为:“雍”表示胜义无生;
 “仲”表示世俗无灭;
 “恰”表示降灭邪见;“幸”表示引入解脱。
 恰幸两端的雍仲符号,象征显密两宗.
 居中的连接处象征心识部无上大圆满。

2)中国の簡体字から日本の漢字へ
 “本教”其実已経不僅僅是一種宗教文化,而是繁衍生息在青蔵高原這塊神奇土地上的人們生生世世所積累的文明智慧和実修精髄,随着時間的推移,“雍仲本教”広博而深邃的文化底蘊已経滲透到了蔵民族之中,対西蔵的歴暦史、政治、哲学、宗教、天文、暦算、医学、科学、文学、語言、建築、彫刻、歌舞、絵画、藝術、節日、民族風俗、礼儀規範以及精神文明等諸多方面都有過深遠的影響。“本教”既是古象雄文化的核心,也是中国西蔵民族伝統文化的源泉和重要組成部分。幸饒弥沃如来的雍仲本教仏法有一万八千年的暦歴史,釈迦牟尼仏法有二千五百年的暦歴史。両尊仏教化的時期、地域和修行的方式雖所区別,但信仰的目標和追求的目的都是一致的,都是以慈悲為本,方便為門,無縁大慈,同体大悲,済世救人,導人向善的仏陀教育。

3)読み下しもどき(省略)



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いい加減に学ぶ中国語講座(34)

笨教〈2〉 (百度百科 https://baike.baidu.com/)

2.起源(続)

1)起源-原文②
 “雍仲本教”最初并不叫“雍仲本”,而叫“珠明吉尔”,这也是古老的象雄文字,后来多被译成藏文的“雍仲本”。 “雍仲本”的意义,据《赛尔米》记载:“雍”是不生,“仲”是不灭,“本”就是法的意思,“雍仲本”就是达到“不生不灭”境界的方法,不生不灭就是“佛”,达到不生不灭的“法”就是“佛法”,不生不灭就是“究竟涅槃”与“佛”,所讲解的这些法门就叫做“本”。概括而言 “雍仲本” 就是“佛法”的意思。
 我们在佛教中常见的“卍”万字符,藏语就叫做“雍仲”,因为这原本就是“雍仲本教”的吉祥符号。曾经辉煌鼎盛的古象雄王国就是以“雍仲本教”作为国教的。为了解决人类与大自然之间的和谐关系,“雍仲本教”创造了很多个藏文化的最初,例如天文历算、藏医、藏文以及歌舞绘画艺术、礼仪规范等等,可以当之无愧地称为藏文化的源泉!幸饶如来佛祖创建了“雍仲本教”后,首先创造了象雄的文字,并传授了“五明学科”:工巧明(工艺学)、声论学(语言学)、医学、外明学(天文学)和内明学(佛学)。内明学包括了本教九乘法、四门五库、显宗、密宗以及大圆满法,也包括了“戒、定、慧”等等觉而不迷之法。“五明学科” 是本教文化的精粹,在灿烂富饶的藏族文化遗产中,辉煌鼎盛的古象雄文明就是以“本教”的传播为主线而发展起来的。由于古象雄文化有着悠久灿烂的历史、现已被列入世界文化遗产的保护范围。

2)中国の簡体字から日本の漢字へ変換
 “雍仲本教”最初併不叫“雍仲本”,而叫“珠明吉爾”,這也是古老的象雄文字,後来多被訳成蔵文的“雍仲本”。 “雍仲本”的意義,拠《賽爾米》記載:“雍”是不生,“仲”是不滅,“本”就是法的意思,“雍仲本”就是達到“不生不滅”境界的方法,不生不滅就是“仏”,達到不生不滅的“法”就是“仏法”,不生不滅就是“究竟涅槃”与“仏”,所講解的這些法門就叫做“本”。概括而言 “雍仲本” 就是“仏法”的意思。
 我們在仏教中常見的“卍”万字符,蔵語就叫做“雍仲”,因為這原本就是“雍仲本教”的吉祥符号。曾経輝煌鼎盛的古象雄王国就是以“雍仲本教”作為国教的。為了解決人類与大自然之間的和諧関系,“雍仲本教”創造了很多箇蔵文化的最初,例如天文暦算、蔵医、蔵文以及歌舞絵画藝術、礼儀規範等等,可以当之無愧地称為蔵文化的源泉!幸饒如来仏祖創建了“雍仲本教”后,首先創造了象雄的文字,併伝授了“五明学科”:工巧明(工藝学)、声論学(語言学)、医学、外明学(天文学)和内明学(仏学)。内明学包括了本教九乗法、四門五庫、顕宗、密宗以及大円満法,也包括了“戒、定、慧”等等覚而不迷之法。“五明学科” 是本教文化的精粋,在燦燗富饒的蔵族文化遺産中,輝煌鼎盛的古象雄文明就是以“本教”的伝播為主線而発展起来的。由于古象雄文化有着悠久燦燗的暦史、現已被列入世界文化遺産的保護範囲。



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いい加減に学ぶ中国語講座(33)

笨教 (百度百科 https://baike.baidu.com/)

1.イントロ

1)原文
 苯教(这个“苯”字是藏语的音译,一般使用最多的是“本教”,有时也叫做“本波教”或“苯波教”)是西藏最古老的宗教信仰。“本教”可分“斯巴本”和“雍仲本” 两种。在辛饶米沃如来佛祖还未出世之前,象雄地区就早已经有神本、龙本、魔本和沃本等很多种“本”存在了。这些“本教”被统称为“斯巴本”,也叫做“原始斯巴本教”。“斯巴本”是西藏最古老的原始宗教和传统文化。“雍仲本教”是幸绕弥沃如来佛祖所传教的佛教,是西藏最古老的象雄佛法,为了有别于原始的“斯巴本教”,人们把幸绕如来佛祖所传的佛教叫做“雍仲本教”。

2)中国語の簡体字を日本の漢字へ変換
 笨教(這箇“笨”字是蔵語的音訳,一般使用最多的是“本教”,有時也叫做“本波教”或“笨波教”)是西蔵最古老的宗教信仰。 “本教”可分“斯巴本”和“雍仲本” 両種。在辛饒米沃如来仏祖還未出世之前,象雄地区就早已経有神本、竜本、魔本和沃本等很多種“本”存在了。這些“本教”被統称為“斯巴本”,也叫做“原始斯巴本教”。“斯巴本”是西蔵最古老的原始宗教和伝統文化。“雍仲本教”是幸繞弥沃如来仏祖所伝教的仏教,是西蔵最古老的象雄仏法,為了有別于原始的“斯巴本教”,人們把幸繞如来仏祖所伝的仏教叫做“雍仲本教”。

3)読み下しもどき
 笨教(この“笨”字これ蔵語の音訳,一般使用最多のものこれ“本(ボン)教”,時にまた “本波(ボンポ)教”或は“笨波教” と叫びなすあり)これ西蔵最古老の宗教信仰。 “本教”は“斯巴(シバ)本”と“雍仲(ユンドゥン)本” の両種に分けるべし。辛饒米沃(トンパ・シェンラプ・ミウォ)如来仏祖さらに未だ出世の前,象雄地区すなわち早くもすでに神本あり、竜本、魔本と沃本等多くの種の“本”存在せし。これらの“本教”は統称され“斯巴本”と為し,また“原始斯巴本教”とも呼び做す。“斯巴本”これ西蔵最古老の原始宗教と伝統文化。“雍仲本教”これ幸繞弥沃如来仏祖伝教するところの仏教,これ西蔵最古老の象雄仏法,原始的“斯巴本教”より別する為,人々は幸繞如来仏祖の伝える仏教を “雍仲本教” 呼び做す。

4)日本語訳
 笨教(この「笨(ボン)」という字はチベット語の音訳で、一般的に最も使用されているのは「本(ボン)教」であり、「本波(ボンポ)教」或いは「笨波(ボンポ)教」と呼ばれるときもある)はチベット最古の宗教信仰である。「ボン教」は「シバ・ボン(斯巴本)」と「ユンドゥン・ボン(雍仲本)」の両種に分けることができる。(シバ・ボンは)トンパ・シェンラプ・ミウォ如来仏祖の出生前からあり、象雄地区(聖地カイラス山周辺の西チベット)にはすでに神ボン、龍ボン、魔ボン、ユ・ボンなど多種の「ボン」が存在していた。これらの「ボン教」を「シバ・ボン」と総称し、「原始シバ・ボン教」とも呼ぶ。「シバ・ボン」はチベット最古の原始宗教と伝統文化である。ユンドゥン・ボン教はシェンラプ・ミウォ如来仏祖が伝教した仏教で、チベット最古の象雄仏法である。原始的なシバ・ボン教から区別するため、人々はシェンラプ・ミウォ如来仏祖伝教の仏教を「ユンドゥン・ボン教」と呼んだ。


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紙子谷ハイキング(3)

1010紙子谷01門前灯籠群01


石燈籠の拓本から読み解く二つの神社

 紙子谷の重文「福田家住宅」の東隣に社務所があり、その門前に石鳥居、さらにその前の三叉路の路肩に2基の石燈籠が立っている。てっきり紙子谷神社の社務所と石灯籠と思い込んでいたのだが、6日の実習・演習C班による灯籠刻銘の拓本調査により、石燈籠の正面には「意上奴神社」と記されていることが明らかになった。このほか紙子谷神社本殿覆屋の脇に1基、参道上り口にも1基の計4基の灯籠があり、上から順番に灯籠1・2・3・4と番付し、C班のメンバーに拓本を採取してもらった。正直、石の表面が粗いので、社寺の絵様を写すときのように、鮮明な模様や文字は浮かびでてこない。写真と拓本の両方を視ることによって、崩し字以外はなんとか判読できる状態になった。


1006紙子谷ハイク04灯籠301 灯籠3の拓本取り(6日)


 6日に採取した拓本データが学生から次々と送信されてくるなか「意上奴神社」の実態がみえてこないので、少々ネットで情報を集め、10日に一人で現地を再訪した。改めて社務所の表札を確認すると、「意上奴神社 祢宜谷神社 紙子谷神社(ここまで上段) 大谷神社 広岡神社 舟木神社 桂木神社」の七社の社務所兼祈祷殿となっており、その総社が石上奴(いがみぬ)神社であり、江戸期には「七柱大明神」と呼ばれていたという。
 社務所門前正面左側に立つ大きな灯籠3の解読から手をつけた。側面に以下の記載あり。

(灯籠3) 文久三年癸亥三月吉日
      地区献立福田□平次  *おそらく□は「家」
 
 文久3年(1863)癸亥(みずのと・い)の三月、地区の(氏子代表である)福田家平次が献立した、と書かれている。福田家の寄進は灯籠2にも記してあり、神社に対する影響の強さがうかがわれる。


2020(民家)オフ課題03説明 灯籠4_page-0001


 灯籠3の対面にある灯籠4は新しくみえる小ぶりの献灯だが、由緒は灯籠3よりも古いようだ。

(灯籠4) 天保二年辛卯八月
      御大典記念為
      昭和三年十月再工

 天保2年(1831)辛卯(かのと・う)八月、天保2年8月寄進の石燈籠を昭和天皇御大典記念の為、昭和3年10月に再建したと解釈できる。(この部分の解釈は駒井氏のご教示を得た)


1006紙子谷ハイク04灯籠401 灯籠4の拓本取り(6日)


 紙子谷神社の灯籠銘文についても、ここで記しておく。

(灯籠1)本殿覆屋脇
文化十二年乙亥三月吉日

 文化十二年(1815)乙亥(きのと・い)三月に本殿脇の石燈籠を設置したということだが、前報で述べたように、それは小型流造本殿の建築年代と一致する可能性があるだろう。ただし、当初材は向拝などの虹梁型頭貫などに限られる。厳密に言うならば、本殿の年代は不詳ながら、石灯籠の年代としては最も古いことには注目せざるをえない。

(灯籠2)参道入口
明治三十九年丙午六月吉日
地〇献上福田□造  *おそらく〇は「区」、□は「家」

 明治39年(1906)丙午(ひのえ・うま)六月にやはり地区の代表者である福田家が造立したものであろう。


2020(民家)オフ課題03説明 灯籠1_page-0001
↓(左)灯籠1 (右)灯籠2
1006紙子谷ハイク04灯籠1 02 1006紙子谷ハイク04灯籠202縦01


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紙子谷ハイキング(2)

1006紙子谷ハイク03神社01参拝路01


紙子谷神社

 重文「福田家住宅」の隣には社務所があり、その前方の三叉路の両肩に灯籠が立っている。一方は高さ3m以上はあろうかという大物の灯籠である。紙子谷神社の石灯籠と社務所があるのだが、肝心の神社はどこなのか分からなかったので、演習1回めの1週間前、つまり9月29日(火)、現地を訪れ、近くの農家の方に教えを受けながら、参道(山道)を上っていった。すさまじい蜘蛛の巣がわたしの行く手を遮った。道端に転がっている棒きれをもって蜘蛛の巣を掃いながら前進すると、10分ばかりで境内にたどり着いた。そこは山上の平地であるが、竹藪が成長しすぎており、地上から空を見通せなくなっている。自ずと境内は暗い。その暗い平坦地の奥に本殿を囲う覆屋があり、対面に小さな社務所のような、参篭場のような建物が崩れた状態で残っていた。


1006紙子谷ハイク03神社01参拝路02


 覆い屋の中には超小型の一間社流造本殿が鎮座している。そして、覆屋の斜め前には小さな石燈籠が立っていて、「文化十二亥年三月」の銘をなんとか読み取れた。おそらく本殿はこの時期の建立なのだろうと思う。あとで写真を確認すると、壁や柱の主要材は飾り気が全くないが、向拝の虹梁型頭貫はあきらかに古く、その絵様は文化12年(1815)という年代観に対応しているが、繋ぎ(海老)虹梁はやや新しく見え、絵様も明治以降の様式を示しており、近代の差し替えではなかろうか。


1006紙子谷ハイク03神社00空撮01本殿01


 10月6日(火)の実習・演習ではB班とC班の約20名が参道を上って本殿をめざした。村の登山口から山道を上がってすぐのところに、もう少し大振りの石燈籠も立っている。こちらは「明治三九年丙午六月吉日」の銘があり、寄進者は福田家になっている。丘陵上の境内では、B班のメンバーが覆屋の三方(前・左・右)に分かれ、少しずつアングルをずらして本殿をスケッチしてた。また2名は境内地の配置図を歩測で描いた。


1006紙子谷ハイク03神社02本殿02 1006紙子谷ハイク03神社02本殿06

1006紙子谷ハイク03神社02本殿01 1006紙子谷ハイク03神社02本殿07



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紙子谷ハイキング(1)

1006紙子谷ハイク01


重文「福田家住宅」内部のスケッチ

 10月6日(火)、4~5限の人間環境実習・演習B(2年次オムニバス)の第2回授業で紙子谷までハイキングしました。これもまたコロナ対策です。昨年は「寅次郎の告白 バスツアー」で大成功を納めましたが、昨日報告したように、霊場への移動さえマイクロバスを使えない状態であり、学生三十数名のバスツアーは危険と判断した次第です。フィールドに出るなら歩いて行くしかない。散歩です。散歩がいちばん健康的であり、感染リスクが低い。


1006紙子谷ハイク02sam


 幸い重要文化財「福田家住宅」のある鳥取市紙子谷(かごだに)集落は大学から歩いて半時間ばかり。晴れ男の本領を発揮し、天気は快晴。彼岸花の数が少なかったのは残念ですが、稲刈り風景と茅葺き屋根のたたずまいが絶妙に溶け合った最高の季節です。学生は以下の3班に分けました。

  A:民家班  B:紙子谷神社班  C:石灯籠班


1006紙子谷ハイク02福田家03外観01


 紙子谷に着いて、福田家の外側で学生に説明していると、見知らぬご婦人が少し離れたお宅から小走りで寄ってこられた。福田家の奥様だというので驚き、丁重に挨拶すると、ちょうど庭の剪定のために家を開けているところであり、「どうぞどうぞ中まで入ってごらんください」ということで、いったい何年ぶりだろうか、たぶん十年ぶりぐらいに福田家の内部を見学させていただいた。もちろん私だけではなく、学生もみな入室を許可された。予定では、前の道路に2m間隔で離れて並び、少しずつ違うアングルから外観をスケッチしてもらおうと思っていたのだが、結果として、外観は2名のみ、4名が前庭から建物を描き、他の数名は室内と裏側の土蔵をスケッチすることになった。ほんとにまったく予期せぬ展開であり、学生たちも少々とまどっていたが、幸運この上ない。


1006紙子谷ハイク02福田家02前庭01
↑前庭から奥座敷を描く 


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コロナ賛歌(1)

1003林泉寺03彼岸花01


 10月1日(木)、全面開講初回の講義等3コマを終えて帰宅すると、家内が長電話をしており、その話しぶりから義父の永眠を知った。これまで数度「危篤」の報せを受けたことがあり、うち3回は市立病院に入院した。各種抗生物質の点滴の結果、毎度驚異的な恢復をみせ、家内は下宿から毎日歩いて市立病院まで見舞いに通った。そうした労苦に報いるように、父はいつも快方に向かい、今回もそういう展開になるかもしれないと予想していたのだが、病院に運ばれないまま、ついに帰らぬ人となった。享年94歳。コロナが憎い。今年になってから、家内と私は一度も特養に見舞いにいけなかったのである。県内者でも特別の許可が必要だが、県外者は完全に門前払いである。施設側の心情は察してあまりある。だから、施設には感謝の気持ちしかない。コロナが憎い。


1003林泉寺02


 ただちに、葬儀場に向かう。4年以上介護でお世話になった特養の近くに新設された会場。到着すると、控室に棺が運びこまれており、義母と義姉夫婦がいた。わたしは弁当係を命じられた。清流茶屋にあるコンビニまで飛んでいったが、弁当系はソールドアウト。丼物を買いこんで急ぎ控室に戻る。食後、母と姉と家内は棺を安置した控室に残ることになり、私と義兄は帰宅した。


1003林泉寺04


 翌日の夕方から通夜に臨んだ。こういうとなんだが、ひさびさにまともな住職さんで良かったと思う。読経・説法いずれも簡にして要を得ている(大酒呑の風体はない)。1回めの供養(通夜の法要)の後、閑かになった。通夜や葬儀と言えば、亡き人を偲んで親族等関係者が一堂に会し、同窓会の如き趣きの食事会になるものだが、コロナの影響はここにも及んでいる。会食なし。関係者は弁当を頂戴し、三々五々食事をした。わびしいものである。わたしはこの夜も一人帰宅した。母と家内が棺の部屋で一夜をあかした。


1003津野04



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いい加減に学ぶ中国語講座(32)

P1020047.jpg 密を避けての開講


 前期前半の全国緊急事態宣言中に3・4年を対象にして試験的に取り組んだ「いい加減に学ぶ中国語講座」を再開しました。このたびは、1・2年後期の演習(プロジェクト研究2&4)としておこないます。コロナ禍における「密」を避けるため、1年と2年の授業を隔週でおこないます。前期の経験を活かして、オンライン型と対面型をミックスさせる教育方式 により、感染を防ぎながら、学生の理解度を深めようと思っています。

いい加減に学ぶ中国語講座 -上海の生活空間と食文化
 
 <概要> このプロジェクトは、中国語学習経験のない一般学生を前提として企画したものです。中国と日本は同じ「漢字」を共有していますが、両国が独自の略字(簡体字)を用いているため相互の疎通が難しくなっています。ネット辞書を使って自動翻訳を試みても、無茶苦茶な日本語になって訳が分かりません。今のところネット辞書は、単語・短文の翻訳にしか役立たないと私は思っています。ところが、中国の簡体字を①日本の漢字に変換すると、状況は一変します。変換された中国語文は、誰もが高校時代に学んだ「漢文」風にみえるのです。これを②「読み下し」風にすることで、中国文の意味を8割方理解できます。最後に③読みやすい現代日本語に仕上げて完成。翻訳文の主題は「上海の生活空間と食文化」です。コロナ禍で海外旅行のできない一年になってしまいましたが、租界(戦前の外国人居住区)の洋と中華の融合した上海文化の魅力に中国語サイトの解読から迫ります。なお、サイトの使い方、中国語の基本等については、オリエンテーションで概説し、短文(漢字100文字程度)の翻訳過程でも指導していきます。

 <キーワード> 中国語  ネット辞書  百度  簡体字(繁体字)  読み下し  上海  生活空間

◆翻訳に使うサイト:
weblio中日日中辞典 
https://translate.weblio.jp/chinese/
グーグル翻訳-中国語
https://translate.google.co.jp/?hl=ja
楽訳中国語変換 
http://www.jcdic.com/chinese_convert/
◆中文テキスト:
百度(日本のヤフーに相当する中国の検索サイト)  
https://www.baidu.com/
百度百科(ウィキペディアに相当する中国の検索サイト)
https://baike.baidu.com/


 

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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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