今年度前期から、新3年生は共同でブータン民話絵本3冊の和訳に取り組んできた。3冊はいずれもコロナ後再開したブータン調査
(第9次、2022年末)時に入手したものである。いまや研究室の伝統となったこの演習は、従前どおり、小学校高学年の児童でも読める、分かりやすい日本語文章に置換することを目標とした。今回は、これまで以上に漢字の使用を少なくし、ひらがなが連続する場合は、適切な位置で半角アキのコマ送りをしたり、例外的に漢字を使用する場合には、送り仮名を工夫した。おそらく今年度が最後の翻訳になるので、一定の到達点を示そうと考えたしだいである。そして今回は、翻訳だけでなく、書籍の「解題」にも学生自ら取り組むことにした。そのレポートを校正し、公開する。
1.クンサン・チョデン作『アシ・ツォメン: 湖のマーメイド』 ブータン初の女性作家、クンサン・チョデンの民話絵本については、これまで5作すべてを和訳している。今年度前期、彼女の最新作『アシ・ツォメン: 湖のマーメイド』の翻訳に取り組んだ。まずは書籍情報を示しておく。
書名:
Ashi Tshomen:The Mermaid Princess アシ・ツォメン: みずうみのマーメード
著者:Kunzan Choden クンサン・チョデン
装幀:Pema Tshering ペマ・ツェリン
出版:RIYANG BOOKS リャンブックス(初版2021年)
*この出版社はクンサン夫妻が設立したISBN:978-99980-48-02-7
以下は裏表紙の宣伝文である。
アシ・ツォメンは地下の大魔王ルーのお姫さまで、上半身は人間、下半身は
ヘビの姿をしています。姫は水中で湖の友だちと遊ぶだけでなく、地上に住む
人間たちの観察が大好きです。ところが、人間たちが身勝手で軽率な行動を
したため、姫の住む湖は汚染され、湖の生き物たちは傷ついてしまいます。
アシ・ツォメンの父である湖の王は怒り、人間たちを処罰しようとしましたが、
アシ・ ツォメンは上手な解決策をみつけようと努力します。
この児童書は、現代世界を舞台にして、水源を守る地底の精霊ルーと人間の
伝統的な関係をわかりやすく説明しようとするものです。
著者 クンサン・チョデン 本書の著者クンサン・チョデン
(Kunzan Choden)は1952年、中央ブータンのブンタン地区タン渓谷に封建領主の娘として生まれた。彼女はチベット仏教史上特筆すべき高僧ドルジ・リンパ
(Dorje Lingpa 1346−1405)直系の子孫である。チベット生まれのドルジ・リンパは、ヴァイローチャナ
(毘盧遮那=大日如来)の転生を自認するニンマ派の僧侶であった。青年僧の時期から、ニンマ派の埋蔵経典を発見し続け、いわゆるテルトン
(宝物発見者)として知られる。1370年、ブータンに南下し、おもにブンタンでそれらの隠された古典を公開した。1376年、チベットに戻るが、息子の一人がブンタンに残り、ブータンでも血統を存続させる。クンサン一家はその家系にあたる。余談ながら、クンサン・チョデンの民話絵本『炎立つ湖』は、15世紀のテルトン僧、ペマ・リンパ
(Pema Lingpa 1450-1521)の故事に係るものだが、ドルジとペマに血縁はない。
クンサン・チョデンは幼少期、封建領主であった両親の多忙により、孤独な時間を過ごすことが多かったという。しかし、一人ぼっちではなかった。毎日のように、民話の語り部の会に参加し、昔話に熱中した。領主の父親は初等教育から彼女をインドに留学させ、英語を学ばせた。その後、1976年にインドのデリー大学で心理学の優等学士号、1987年にはアメリカのネブラスカ大学リンカーン校で社会学の学士号を取得した。こうした長い海外生活のなかで、彼女は日々「自分とは何か」という問いかけを忘れることはなかったという。そのとき必ず幼少期の民話の会の記憶がよみがえり、ブータン人としてのアイデンティティを強く意識する。帰国後、ブータン初の女性作家となり、民話や小説などの執筆活動に邁進する。
活動の拠点は首都ティンプーではなく、彼女の生家があるタン渓谷の山里、ウゲンチョリン村である。ウゲンチョリンの旧領主居館は、中庭中央の楼閣ウチを回廊や長屋が取り囲むゾン
(城郭)形式のものである。こうした旧領主/地主系の大邸宅は一般にナグツァン
(Nagtsan)と呼ばれるが、ナグツァンは必ずしも小型ゾンの形式をとるわけではない。たとえば、ブータン第9・10次調査で訪れたトンサ地区ベンジ村のナグツァンは、中庭を伴わない一般的な3階建民家が大型化したものである。ウゲンチョリンのナグツァンは創建が16世紀まで遡るが、大火にあって19世紀に再建されている
[Kunzang Choden and Dolma C. Roder 2012]。
クンサン・チョデンは帰国後、しばらく首都ティンプーで国連関係の仕事をしていたが、ナグツァンの法人化に伴い、拠点をウゲンチョリンに移す。以来、スイス人の夫ウォルター・ローダー氏とともに故郷で暮らしている。中央楼閣ウチが民俗博物館となり、回廊・長屋にはカフェ、ブックストア等、回廊外側にゲストハウスが整備され、いま夫妻はナグツァンの近くに新居を構える。研究室の調査隊は、2015年の第4次調査で初めてウゲンチョリン博物館を訪問してクンサン夫妻と面談し、2023年の第10次調査で再訪し、翻訳済の絵本や報告書を献呈した。
東竹林寺ツォメン@雲南省シャングリラ、2018
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