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青蔵鉄道-吐蕃の道(2)

0825日月峠峠01 日月峠


日月峠から青海湖へ

 昨年8月24日(木)から31日(木)まで青蔵高原を旅していました。いちばんの目的は古代チベット王朝「吐蕃」の創始者ソンツェンガンポの故郷ツェタン(澤当)を訪ねることです。出発にあたっていちどスケジュールを書き残しています。24日に関空を発ち、成都経由で青海省の省都西寧に入り、息つく暇なく日月峠から青海湖をめざしました。日月峠は唐より吐蕃に降嫁した文成公主が立ち寄った場所としてよく知られていますが、その経路は伝承にすぎず、じつは別のルートを辿ったのではないか、という新しい見方も出てきています。また、文成公主はソンツェンガンポの后ではなく、ソンツェンガンポの息子の后であったこともわかってきています。


0825青海湖01 0825青海湖02


 その後、青海湖へ(↑)。青海湖は2年前にケントと訪れた懐かしい景勝地です。あとで知ったのですが、ダライ・ラマのダライとはモンゴル帝国の王がチベット仏教ゲルク派の座主に贈った称号で「海」を意味し、具体的には青海湖をさすそうです。モンゴル政権との交渉の場として青海湖畔が使われたことに因むのではなかったかな。ちなみにダライラマ14世は青海省(アムド)の出身です。地元旅行社の手配には驚きました。遊覧船のチケットを買いながら、開発された人工的な港を歩くだけで船にも乗らず、洲浜のような湖岸を歩くでもなく、峠に上って湖景のパノラマを眺めるでもなければ、お土産を買う時間もない。少々先行きが不安になりました。
 夜になって都蘭のホテルに到着。都蘭は吐谷渾(とよくこん)の遺跡で有名ですが、あたり一面は草原で遊牧民が点々と宿営地を営んでいます。前泊した成都との比高は2,500メートル以上あり、早くも後頭部に鈍痛を感じ始めていました。通信状態のわるい高地なんですがネットに繋がり、あろうことか訃報を受信します。学長が亡くなられたというメールでした。そのとき同僚に送信したメールを転載しておきます。

  仰天しました。いま中国青海省の都蘭というところにいます。標高3200m、あたりは
  なだらかな草原で、遊牧以外はなんの生産力もありません。チベット族がヤクと羊を
  放牧しています。明日、青蔵鉄道でラサに向かいます。夜行列車なので、WiFiに接続
  するのは不可能であり、大学からの葬儀会場通知メールを受信できるのは26日の
  午後になります。なんとしてでも弔電を打ちたいと思っています。


0826ゴルムドに至る道02 0826ゴルムドに至る道01
↑高速道路の車窓に映る風力発電。再生エネルギーは「砂漠システム」とも呼ばれており、中国も力を入れています。中国人ガイドが走行中の高速道路を「必要なものか!?」とアナウンスし始め、驚きました。たしかに一般道路が平行して走っており、車両・スピードに変わりはありません。どこの国でも同じなのです。 ↓反日感情が露骨だった鉄道博物館


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第4回仏ほっとけ会のお知らせ(1)

20170504宝塔厨子03 DSCN8381宝塔厨子01


宝塔厨子の内部を本邦初公開!

 早いもので卒業論文も大詰めを迎えつつあります。昨年の今ごろは馬の嘶きに似た蝉の変態種の鳴き声に苦しめられ、他の研究室からもご意見を頂戴する始末でしたが、今年は黍団子にあたって腸炎を患う者がでてきたりして大変です。正直、わたしも頭が痛い。
 とはいうものの、今年も「仏ほっとけ会-摩尼寺・大雲院仏教講座」を開催して卒論発表の場とすべく、準備を進めてきました。いまようやく日時・会場が確定したので、1回めの予報をお知らせします。


2017050宝塔厨子010 DSCN8373宝塔厨子02


 第4回仏ほっとけ会-摩尼寺・大雲院仏教講座-

   日時:  2018年 2月 18日(日)13時開場
   会場:  大雲院本堂(最新暖房完備で暖かくなりました)
          〒680-0061 鳥取市立川町 ℡0857-22-5608
   次第:
     13:15 ご挨拶
     13:25 研究発表1 岡崎 滉平
          「大雲院宝塔厨子と徳川将軍家墓所」
     13:40 研究発表2 吉冨 博子
          「上方往来の歴史的景観-河原宿を中心に」
     13:55 研究発表3 水田 梨乃
          「フォトスキャンによる町並みの分析-立川・倉吉河原町・稲常の事例」
     14:10 研究発表4 垣崎 香菜
          「酒造りによる過疎地の地域振興-規制緩和を超えて-」

              =お茶の時間=

     14:35 研究発表5 吉田 侑浩
          「ブータン民家仏間の考現学-神仏の配置と調伏の構図-」
     14:50 ミニ講演 浅川 滋男
          「摩尼寺地蔵堂の復元-賽の河原の歴史的景観-」
     15:10 閉会挨拶
     15:20 大雲院御霊屋本尊「宝塔厨子」内部公開~随時解散  

  コメンテーター(予定): 眞田廣幸・佐々木孝文・岡垣頼和他
  主催・問い合わせ先: 公立鳥取環境大学 保存修復スタジオ
                e-mail:[email protected] fax 0857-386775

  特別公開: 徳川家歴代将軍の位牌を祀る大雲院御霊屋の本尊「宝塔厨子」の内部を
        本邦初公開します。仏舎利と多宝如来・釈迦如来を祀る「一塔両尊」の構成
        を規範通りに納める稀少な仏教美術です。
        ぜひご来場ください。

 【一塔両尊】解説:  多宝如来(プラブータ・ラトナ)は釈迦以前に悟りを開いた無数の過去仏の一人であり、東方無限のかなたにある宝浄国の教主で、名を阿僧祇(あそうぎ)という。日本に限らず中国・朝鮮半島に多宝如来単独の造像例はほとんどなく、法華経信仰に基づいて釈迦如来とともに2体1組で表される(一塔両尊)。一塔両尊の伝統は『法華経』見宝塔品(けんほうとうほん)説話に基づく。すなわち、釈尊が説法をしていたところ、地中から七宝で飾られた巨大な「宝塔」が出現し、空中に浮かびあがって、釈尊の説法を称える多宝如来の大音声が聞こえてきた。多宝如来は自らの座を半分釈尊に譲り、隣へ坐るよう促した。釈尊は宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し説法を続けた。大雲院の宝塔厨子は、まさしくこの説話を表現する稀少例です。


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↑この実物をご覧になれます。(写真集『大雲院』) 


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(19)

2011法界場の石仏10 法界場


「賽の河原」で石を積むイベント

 摩尼山鷲ヶ峰の地蔵堂や立岩が戦前まで参拝者の多かったことは「因伯時報」昭和13年の記事が伝えるとおりである。しかし、今は境内ですら参拝者が激減しており、鷲ヶ峰立岩の帝釈天礼拝を目的として登山する人はごく稀になってしまった。ここで原点に立ち返りたい。登録記念物「摩尼山」の活用整備方針の主軸となるコンセプトは「摩尼山-歴史性と景観の回復」である。摩尼山の歴史性の根幹にあるのは、立岩における帝釈天の降臨であり、そこはまた「賽の河原」としての信仰を集めてきた場所でもある。
 いままでおもに明治期の地蔵堂・鐘楼等の復元に焦点を絞って考察を進めてきたが、その成果に基づきつつ、敢えて名勝整備の重心は立岩と「賽の河原」の複合性を強調した江戸時代後半の姿におくべきであることを提言したい。かりに明治期の歴史的景観を再現するとなれば、地蔵堂・鐘楼などの建造物を復元することになるけれども、その工費は尋常なものではなく、維持管理もまた容易ではない。とすれば、明治期の遺構については基壇・礎石の整備程度にとどめ、むしろ『因幡志』(1895)に描かれた「財河原」イメージの醸成をめざすべきではないかと考える。すなわち石積み塔と地蔵石仏を「賽の河原」に蘇らせるのである。地蔵石仏については、法界場などに集中する石仏の一部を移設すればよいだろう。設置場所は旧地蔵堂跡地がふさわしく、その石仏は簡単な覆屋で保護するほうがよいかもしれない。


2009法界場の地蔵 法界場


 石積み塔は人工的に導入するのではなく、年に1~2回「賽の河原に石を積む」イベントを開催して、少しずつ石積みの数を増やしていくのがよいのではないだろうか。門前から「奥の院」に至る旧登拝道は摩尼川の源流に沿っている。イベントはトレッキングと複合させる。摩尼川の源流を沢登りしつつ小石を集め鷲ヶ峰までもって上がり、その石を地蔵堂・鐘楼基壇の上に積み上げるのだ。立岩の上に積みあげても構わないだろう。誰でも参加可能のイベントだが、子どもを含む家族連れで楽しめるようなイベントにできれば最善と思われる。


2010法界場の地蔵 六角阿弥陀堂脇


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(18)

2011法界場の石仏11


賽の河原-江戸時代後期の原風景

 摩尼山の鷲ヶ峰は江戸時代と明治時代で大きく風景が変わっている。江戸時代の鷲ヶ峰は『因幡志』摩尼山立岩之図(1795)にみるように、立岩の袂に「財河原 石仏」が描かれるのみで、建造物はいっさい認められない。そこは此岸と彼岸の境にある財河原(賽の河原)であり、死んだ子どもたちの変わりに参拝者は小石を積み上げて塔を作ったのであろう。そこにある「石仏」とは、ストーリー上、地蔵菩薩でなければならない。
 現在、摩尼山で石仏は105体確認されており、実際にはさらに多いと思われる。その大半が地蔵菩薩であり、境内最奥の「法界場」には50体以上の地蔵菩薩の石仏が集中する。こうしてみると、摩尼山は山そのものが「賽の河原」であり、そのイメージを凝縮させて発露しているのが鷲ヶ峰であり、法界場であると言えるのではないだろうか。

明治期の建造物と景観の復元

 明治に入っても、維新直後から神仏分離・廃仏毀釈の影響が強まり、鷲ヶ峰の景観に大きな変化はなかったであろう。それが明治20年代になると、少しずつ状況を変えていく。明治22年(1889)に山門、同25年(1892)に鐘楼が再建され、摩尼寺の境内に「近代化」の兆しが見え始める。新しく大きくなった鐘楼にはとくに注目すべきであり、『稲葉佳景無駄安留記』(1858)に描かれた小振りで素朴な鐘楼は不要になって鷲ヶ峰に曳き家された可能性もあるだろう。絵図では瓦葺きとして表現された鐘楼が、山上では瓦葺きの屋根勾配を維持しつつ鉄板葺きになっている点も、重い瓦の持ち運びを敬遠したためかもしれない。いずれにしても、このあたりが「賽の河原」整備の突端になった可能性があることを指摘しておきたい。


地蔵堂・鐘楼・覆屋180119_02
↓↑地蔵堂復元図(平面・断面・立面)
地蔵堂・鐘楼・覆屋180119_01


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増上寺(三)余論

日光奥宮宝塔 日光


家康の二つの墓

 先日教授が芝の増上寺を訪れ、徳川家将軍霊廟の宝塔式墓塔を観察され、改めて大雲院宝塔厨子との係わりを確認された。ところで、初代将軍徳川家康(1543-1616)の墓はどうなっているのだろうか。そういえば、昨年3月、大雲院懸仏を卒論のテーマとされた武田さんが日光、久能山、紀州の東照宮を巡礼し、多数の写真を撮影されている。その写真を探し出して精査したところ、家康の墓塔もまた宝塔形式であることを知った。家康の遺体は自身の遺言により初め久能山に埋葬され、その後日光に改葬された。つまり、家康の墓は久能山東照宮と日光東照宮の両方にあり、いずれも宝塔形式の墓塔を立ち上げている。墓上に宝塔を建てて埋葬された最初の被葬者はほかならぬ家康であり、二代秀忠の増上寺宝塔はずいぶん派手に造ってはいるけれども、家康の墓を継承したにすぎない。今回、武田さんが撮影した写真から日光と久能山の宝塔の特質を考えてみよう。


久能山宝塔2 久能山


久能山東照宮神廟 宝塔墓

 徳川将軍家最古の墓塔は素朴な石造である(↑↓)。丸みの少ない伏鉢状の塔身に細めの首部を据え、その上に宝形造の屋根をのせ、4隅には風鐸を吊るす。組物は平三斗で、支輪の位置から方形に張り出すさまは顔にエラがあるような可笑しさを醸し出している。全体的に朴訥で日光ほど洗練されていない。塔身が大きく、屋根の小さなずんぐり型で、増上寺や日光の宝塔形式とはあきらかに一線を画する。これが最古の宝塔墓であることに注目したい。


久能山宝塔組物2  久能山


日光東照宮奥宮 宝塔

 日光の家康墓は当初木造であったが、後に石造に改められた。その後天和3年(1683)に地震で破損したため、現在の青銅製に改鋳された(↓)。
 伏鉢状の塔身の上に蓮華座を備えている。組物は平三斗だが、詰組風に納める。支輪の位置を伏弁の蓮華座とし、軒裏にも細かく浮彫を施す。屋根は宝形造。相輪を豪華に飾る。増上寺の六代家宣墓、14代家茂正室和宮の青銅墓の原型となったものであろう。久能山とは異なり、後続する将軍家墓塔の直接的なルーツとして位置づけられる。


日光奥宮宝塔2
↑↓日光
日光宝塔組物2



大雲院宝塔厨子との比較

 大雲院宝塔厨子と比較しても、増上寺以上の共通点はとくにみいだせない。大雲院の場合、やはり木造の小塔であることが鍵を握ると思われる。とりわけ木造で塔身の伏鉢形状をつくるのは難しい。円筒形の表現が精一杯であったのかもしれない。(OK牧場)


以下のサイトを参照。
 【東照宮紀行(一) 日光篇】
 【東照宮紀行(二) 久能山篇】
 【東照宮紀行(三) 紀州篇】

サテンドール(ⅩⅩⅨ)

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桐生明治館

 委員会を終えて昼食をとり、りょうもう特急の乗車時間まで一時間ばかりあったので「桐生明治館」を訪れた。自治体指定レベルだろうと高を括っていたら、国の重文だというので飛んで行った次第である。明治11年(1878)、群馬県衛生所兼医学校として前橋に建立された擬洋風建築である。昭和3年(1928)、現在地に移転されて相生村役場に改築された。華やかさでは我らが仁風閣に如かずと雖も、ともかく年代が古い。擬洋風木造建築としては最古級の作品の一つであろう。といいつつ細部のことはよく知りません。


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 1階の脇部屋に音楽室があり、スタンドピアノがどんと置いてあった。わたしが気になったのはむしろ蓄音機の方である。もうひとつ気になったのは2階の部屋に展示してあった篠原涼子の大きな鉛筆画。桐生市観光大使の篠原さんがモデルになって制作されたポスターは凄まじい人気で、この鉛筆画はポスターを模写したものである。わたしもポスター一枚欲しいな。


0120桐生明治館05蓄音機01 0120桐生明治館06篠原01


 さて、木造擬洋風の重要文化財ですが、雰囲気がとてもよいので、こういうところで喫茶店をやればいいのに、と何気に提案したところ、あっさり「やってますよ」と答えられて驚いた。なにぶん我らが仁風閣でシンポジウムしたときには会場にお茶を持ち込むことさえできなかったんだから。お茶がこぼれたら絨毯を汚すってんです。暖房もまともに効かないし、二度と会場にするまい、と決意した記憶がある。
 桐生明治館では、1階左翼の2室を喫茶店化している。奥に厨房、手前が喫茶室。重文だから改装はできない。建築内装はもちろん椅子やテーブルなどの家具も明治のものだろう。メニューはシンプルに徹している。飲み物は珈琲、紅茶、ジュース、梅こぶ茶がいずれも300円。軽食はアップルパイ、ケーキ、フリッターの3種類のみ(↓右)。


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縄文-建築考古学、再び(9)

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フィナーレ間近

 1月19日(土)、みどり市岩宿博物館で西鹿田中島遺跡整備委員会の最終回に出席した。3月下旬に史跡公園のオープンセレモニーが予定されているが、さてどうなるか?
 前夜、中途半端に呑んだものだから早くに目がさめて中途半端に仕事をするしかなく、委員会では眠気との戦いだった。他の委員が多く発言するところは極力引いて体力を蓄える。それでも、要所では前に出なければならない。いちばんの出番は、骨組復元をした縄文草創期住居に子どもが昇って危険だというので、布覆いを被せるという提言があった場面。整備の方針を決めた流れとあきらかに矛盾している。


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 ひるがえって、からっ風の強いこの地にテント風の建物を建てても強風で吹き飛ばされる危険性があるとこれまで何度も議論されており、さらに鹿皮の確保が楽ではないことなどから、骨組の露出展示をすることに決めたにも係わらず、工事を担当する技術者が「うちの子どもなら間違いなく昇る」と発言した一言で布覆いをつくって被せることにしたというので、①横風の水平力を孕む危険性、②骨組露出展示を目的化しているのに骨組がみえなくなる矛盾、について指摘したところ、見直しとの回答を得た。
 この問題と係わってイングランドはヨークのミュージアム・ガーデンの話をした。中世修道院の遺跡を復元せずに保全しており、ところどころの残骸に5~6歳ぐらいの少女が登ったり、若者が昼寝したりしているが、管理側は何も規制していない。それは行政と国民が相互信頼している証だが、日本ならまず柵をめぐらして「貴重な文化財に触るな、危険だから近寄るな」とするに決まっている。

 現場で骨組をみると、黄色い防護塀が住居を囲い込んでおり、看板に「のぼらないで! きけん! 遊んではいけません」と書いてある。まだオープンしているわけでもないのに・・・その後、妻木晩田事務所に連絡をとり初期整備で復元した骨組の状況を訊ねたところ、「柵は設置していないし、子どもが昇って怪我したこともない」という証言を得た。おかげで塀をめぐらしたり、布を被せたりすることにはならないように思う。そもそも、子どもたちが遊びに来てくれるような公園になればよいのだが。


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↑ヨークのミュージアム・ガーデン



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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(17)

財産台帳にみる地蔵堂

 昭和17年の「寺院資産台帳」に地蔵堂・位牌堂の記載はなく、いま注目している建物としては、ただ祖師堂(おそらく三祖堂のこと)のみ確認できる。しかし、明治31年の「寺院所有物明細帳」には、三祖堂・位牌堂に加え、地蔵堂もリストに含まれている。

  地蔵堂  桁行二間 梁行二間 坪数四坪 延享元年建設

 昨日紹介したように、この台帳附録の指図には、法界場を挟んで向かって左に地蔵堂、右に三祖堂を対称に配している。両者は方二間の同規模とし、地蔵堂は延享元年(1744)、三祖堂は享保三年(1718)の建立とされる。さらに注目すべきことに、岡垣くんは台帳の他に「喜見山摩尼寺記録」(年代未確認)という文書の複写を閲覧している。原本は覚寺の宮脇陽雄さんが所有しておられ、市編纂室がそのコピーを所蔵しているという。読みやすい行書体の部分といかにも古文書らしいくずし字の部分が混在しており、地蔵堂に係わるくずし字の部分を会長(の奥様)に翻刻していただいた。

   地蔵堂建立之事
  一 此度当寺本堂東江弐間
     四方茅葺ニして 地蔵堂一宇
     建立仕度儀候、此段奉願候以上
     寛保三年五月□日  □□□□□ (折り目で読めず)

 【会長注釈】不慣れなので会長の音読を付しておく。
   (地蔵堂を)建立つかまつりたく儀そうろう、この段ねがいたてまつりそうろう
   〈本堂の東、2間(3.6m)離れた所に、方形で茅葺の地蔵堂を建立したいので、
   (許可を)お願いいたします。〉


 さらに、明治31年の台帳に記載された地蔵堂本尊の記載は以下のとおりである。

   地蔵堂本尊地蔵大士  座像大ハ三尺二寸
    由緒。当像ハ延享元年甲子六月唯識院湛洞自坊ニ安置ス菩薩
    諸人結縁ノ為寄附スル者ナリ。



 寛保三年(1743)に建築申請し、延享元年(1744)に竣工?

 1)地蔵堂の位置は本堂から東方向に2間離れた場所である。ここは文久二年(1862)に位牌堂が建立されるので、その際、地蔵堂は法界場の右脇に曳き家された可能性があるだろう。
 2)地蔵堂は「四方茅葺」と表現されている。明治の絵葉書にみる鷲ヶ峰の地蔵堂のような桟瓦葺ではなかったということである。


0110三祖堂03花頭窓02 
↑↓三祖堂内外外境の花頭窓は享保三年(1718)に遡るか。正面の最澄像の前は開放とし、向かって左側の空海像、右側の円仁像の前に花頭窓を設える。
0110三祖堂03花頭窓01


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(16)

財産台帳にみる三祖堂

 2014年度の摩尼寺本堂・鐘楼・山門の登録有形文化財申請にあたって参照した「寺院資産台帳」(昭和17年、大雲院所蔵)には、鷲ヶ峰の建物らしき資産記録が含まれていない。その一方で、目録に

  祖師堂 木造瓦葺平屋建 屋根宝形造四方棟
        五・二八坪  享保二年建築ス

という記録が残っている。摩尼寺の場合、祖師といえば、縁起に従うなら円仁(後の慈覚大師)、天台宗の祖師であるならば最澄(後の伝教大師)である。いずれにしても、ここにいう祖師堂が最澄・円仁・空海を併祀する三祖堂の別称である可能性は否定できまい。ただ、昭和36年(1961)建立の現三祖堂は二間四方=4坪であり、台帳にみえる面積5.28坪よりも明らかに小さい(向拝を面積に含めても5坪以上にはならない)。
 それにしても、この祖師堂なる建物の年代が享保二年(1717)とあるのには驚かされる。山上「奥の院」から山麓への境内移設は本山派の大雲院兼帯から安楽律院に改宗する17世紀末~18世紀初のことと推定されるので、現境内成立直後から祖師堂は存在したことになる。しかし、少なくとも、昭和17年の台帳にみえる建築年代の信頼性が高いとはいえないであろう。同じページに記された仁王門を「文禄三年建築ス」と記しているからだ。仁王門は様式上18世紀後半と推定され、文禄三年(1594)まで遡ることはありえない。祖師堂の年代も伝承を鵜呑みにした思い込みによる誤記の可能性がなくもないであろう。
 正月初め、市教委の岡垣くんが大雲院を訪問し、さらに古い財産台帳「寺院所有物明細帳」(明治31年)を読み込み、部分的に写真を撮影してきた。ここに「祖師堂」はなく、「三祖堂」が記載されている。

  三祖堂  桁行二間 梁行二間 坪数四坪 享保三年建設

 面積が四坪(八畳)となって今の三祖堂と一致しているが、建築年代は享保三年(1718)になっている。享保三年については、同台帳に以下の記載もある。

  大雲院二世栄春中興開基ス。享保三戊戌年迄大雲院兼帯寺トナル。同年上月同院第五世
  大僧都観洞之懇願ニ依テ比叡山安楽院ニ属ス。是ヲ以テ観洞和尚ヲ当寺律院ノ開基ト為ス。
  自爾以来天台律宗規則ニ準ジ大僧ノ輪番寺ト為ス也。明治三年御趣意ニ依テ現今ノ境内ヲ
  除クノ外悉ク上地トナレリ矣

 すなわち比叡山の安楽律派に改宗した記念すべき年に三祖堂を建立したことになる。しかしながら、この台帳でも仁王門を文禄三年建設としているので、やはり伝承鵜呑みの可能性がないわけではなかろう。


2011法界場の石仏01
↑↓法界場の石仏群。明和~文化ころのものが多い。
2011法界場の石仏02


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民家のみかた 調べかた(7)

黒田01現状平面図01現状図(谷)


成果発表会にむけて

 1月16日(火)4・5限。2018年最初の人間環境実習演習Aがありました。
 これまで人間環境実習演習Aの後半で輪読した『民家のみかた 調べかた』とその実習として取り組んだ古民家カフェの実測作図について、発表会をすることが決まりました。会場はもちろんその古民家カフェです。私たちが学んだことを、先生やゼミの先輩方、古民家カフェのマダム等に聞いていただきます。発表会の日時の詳細は未定ですが、年度末の1月30日(火)もしくは2月1日(木)が有力な候補になっていましたが、語学試験のため延期となりました。この発表会に向けて、実測図と復原図をCADで描くことになりました。他にも『民家のみかた、調べかた』を通して学んだことも発表します。発表会の構成は以下のようになりそうです。4人で分担して発表します。

  1.どんな民家が古いのか
  2.古民家の調査と復原の方法
  3.古民家カフェの現状平面図
  4.古民家カフェの復原平面図

 今週はインフルエンザで2名欠席していたので、全員が揃うのは来週になりそうです。体調に気を付けて発表会に向けて良い準備をしていきたいです。(谷)


黒田02復元平面図01復原図(谷)

増上寺(二)

増上寺徳川墓所絵葉書01秀忠01 台徳院殿廟奥院宝塔(戦前)


徳川将軍家霊廟-増上寺御霊屋

 芝の増上寺は浄土宗七大本山のひとつで、二代将軍秀忠をはじめとして六人の将軍、秀忠の正室お江や皇女和宮など正室5名、三代家光の側室桂昌院など側室5名等が埋葬されている。御霊(みたま)を祀るために造営された墓所・本殿・拝殿を中心とした霊屋(おたまや)は戦前に国宝として文化財指定されていたが、昭和20年3月と5月の空襲で南廟・北廟以下ほとんどが焼失し、わずかに残った建物も国宝の指定を解除された。 
 なかでも秀忠(1579-1632)の台徳院殿廟奥院宝塔は、上の写真にみるように、豪壮華麗を極めたものであり、仮に現存していたならば、日光に比肩しうる桃山様式の傑作と称賛されたであろう。円筒形の塔身を伏鉢状に丸めた上に宝形(方形)の反り屋根をのせ、尾垂木を3段重ねる賑やかな禅宗様詰組に圧倒される。家康・家光を埋葬した日光から離れて、秀忠がひとり増上寺に埋葬された理由をよく知らないが、これだけの宝塔は日本全国どこにもなく、つくづく戦火が惜しまれる。


増上寺徳川墓所02現状配置図 増上寺徳川墓所01戦前配置図


 このたび突然増上寺を参拝することにしたのは、四年男子1名が卒論のテーマとして大雲院御霊屋(ごりょうや)の本尊「宝塔厨子」の研究を進めるにつれ、その形式が全国的にみても珍しい宝塔形式である一方で、徳川将軍墓所の宝塔とよく似ていることが分かってきたからである。ただ、残念なことに、上野寛永寺と芝増上寺に分散する将軍家墓所は原則として非公開である。ところが、調べてみると、芝の増上寺は将軍墓所を今まさに公開中であり、ここで行かない手はないと判断した次第である。


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増上寺(一)

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千躰子育地蔵尊

 1月19日(金)。わけあって芝の増上寺に行ってきました。その目的と成果はあした書きます。
 地下鉄浅草線の「大門」駅で下車。大門とは増上寺の惣門のことですが、戦災で焼けて今はコンクリートになっている。しばらく参道を歩くと、焼け残った中門が現れます。いわゆる三門ですが、増上寺では「三解脱門」と呼ばれています(↑)。「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門だそうです。還暦を一年過ぎて、三つそろいで身につけております。解脱も涅槃も遠いよ・・・重要文化財で、修復が終わったばかり。浄土宗なのに、ごっつい禅宗様です。


0119増上寺01山門01


 境内に入ると、本堂(大殿)はやはりコンクリート。正面右脇に木造の鐘楼を発見。大型ではあるけれども、柱の内転びが弱く、組物のない桁天のりなので、懸案中の摩尼山鷲ヶ峰の鐘楼復元に役立つかと思ったのですが、昭和の再建であることがわかり、少々がっくり・・・
 目標は本堂の脇に設けられた徳川将軍家墓所。これはOK牧場くんの卒論の謎を解く鍵をにぎる霊廟跡です。あした書きます。


0119増上寺02鐘楼01 0119増上寺02鐘楼02sam

 
 徳川家墓所に行く参道に地蔵さん千体並んでいました。これを「千躰子育地蔵尊」または「千躰子育地蔵菩薩」と言います。新年を向かえ、新しい帽子に新しい舞いかけを纏い、手には新しい風車をもっています。なぜなのか、下の看板サムネイルをクリックしてください。
 摩尼山105体のお地蔵さんもこんなふうになればいいのに。賽の河原で石を積む子どもたちを救う地蔵菩薩に色とりどりの帽子と舞いかけと風車を!


0119増上寺03地蔵02 0119増上寺03地蔵01sam

0119増上寺03地蔵06 0119増上寺03地蔵03看板sam

登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(15)

三祖堂 立面図(谷口)_01 正面図(谷口)

0110三祖堂01正面02  0110三祖堂01正面03細部03


三祖堂の実測図

 1月10日の摩尼寺初詣の際におこなった実測調査の成果を報告します。途中から吹雪きになり、棟高などのデータをとることができなかったのですが、これらのデータをもとにすれば鷲ヶ峰地蔵堂の復元設計を進めることができるでしょう。以下、注意事項です。

 【地蔵堂復元ためのメモ】
①復元平面図は連載(10)に示したとおりです。矩測は三祖堂のものをほぼそのまま借用できると思います。
②内部の花頭窓を正面脇間に使えるだろうと予想していましたが、新たにみつかった財産台帳(次回詳述)によると、三祖堂の前身建物と推定される祖師堂が享保2年(1717)現境内に建立されており、花頭窓を含む三祖堂内外陣境の建具は祖師堂当初材を継承している可能性が高まりました。明治の絵葉書に写る地蔵堂を復元する場合、むしろ天保6年(1823)の龍門寺巡礼堂正面脇間の花頭窓を65%圧縮したデザインにするほうが様式的には近いだろうと思われます。
③地蔵堂の入母屋造屋根も龍門寺巡礼堂を借用すべきですが、巡礼堂は出桁を出三斗で支えているので、少し大きめになっています。地蔵堂は桁天乗りなので、65%縮小よりさらに縮小すべきでしょう。60%ぐらいか?
④三祖堂正面図(↑一番上の図)は現在きびたろう君が清書中です。組物・木鼻・蟇股・海老虹梁などはフォトスキャンで再現したいものです。
⑤明治の写真にみえる地蔵堂は境内にあった茅葺きの地蔵堂(これも新発見の財産台帳に記載あり)を移築して桟瓦葺きにした能性が高いと思います。屋根勾配が強いのはその所為だろうと思います(龍門寺巡礼堂も茅葺き→桟瓦葺きに変化しています)。


側面図(岡崎)_01 三祖堂側面図(佐藤)_01
↑左(岡崎) 右(佐藤)
 

0110三祖堂02側面02 0110三祖堂02側面03 0110三祖堂02側面04屋根01

火灯窓(森)_01 火灯窓(佐々木)_01 
↑内外陣境の花頭窓(左:森、右:佐々木)

0110三祖堂03花頭窓02 0110三祖堂03花頭窓01

180110摩尼山 三祖堂 矩計図_02web 180110摩尼山 三祖堂 矩計図_01
↑向拝矩測(浅川+吉田)

0110三祖堂01正面03細部01 0110三祖堂01正面03細部02

民家のみかた 調べかた(6)

野口img-117115635_01現状図(野口)


古民家カフェの平面を復元する

 ブログの担当者が体調を崩してしまい、レポートが遅れました。

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 12月19(火) 。前週、現場で描きつなげた古民家カフェの平面図を当初の平面に復元する作業を4409演習室で各自おこなった。まず先生が手本を示された。復元図作成のコツは、まず変化のない部屋を描きあげ、痕跡等の証拠にしたがって他の部屋を当初に戻していくようにうることである。現在、カフェ黒田の一階は二つのゲンカン、ヒカエノマ、オクノマ、二室縦並びのイマ、ブツマ、ナンド、たてものをぐるりと囲むエンで構成されていて、大正(以前)の建築を昭和に移築したものと推測される。最も変化が少ないのはオクノマの八畳座敷である。

 【オクノマ】 格式ある書院造の八畳客間で、奥に棚と床、その脇に平書院を伴う。背面とナンド側側面に建具はなく、今も昔も壁で隔てられている。
 【ヒカエノマ】 オクノマの手前にある四畳間。現在ブツマとして使われているが、かつて仏壇はヒカエノマの裏側にあった。ヒカエノマをおくため、間取りは四間取りではなく、間口のひろい六間取りになっている。オクノマとは続き間になっており、宴席などで一体に使うことができる。オクノマとヒカエノマのみ長押をめぐらせる。
 【ゲンカン(式台)】 玄関は2室ある。土間の玄関と畳敷きの玄関で、後者はヒカエノマと続き間になっている。いわゆる式台から貴賓客を迎える部屋であり、移築前は板間であった可能性もあるだろう。現在観葉植物が置かれている縁境の敷居・鴨居に三本溝が残るため、ここには障子が3枚入っていたと推定される。
 【ゲンカン(土間)】 端の土間部分もゲンカンと呼んでいる。この土間はスド(簀戸)を介して奥の土間に連なり、トオリニワとなっていたが、今はスドより奥をフローリングのモダンなキッチンに改装している。当初は土間であり、カマドをおいていた可能性が高い。
 【カミサンノマ】 キッチンとの境にカウンターをおいて洋室の客席としている部屋はカミサンノマと呼ばれている。実際、大きな神棚を鴨居の上に祭る。カウンター上の鴨居に三本溝の痕跡が残るので、土間境は三枚板戸であり、移築前は炉を切る板間であった可能性がある。古いタイプの民家では、式台の間からイロリ間まで通しの板間とし、ヒロマと呼ぶ。カミサンノマに連続するツノヤ(角屋)は移築の際、増設された。
 【ブツマ】 ヒカエノマの反対側をブツマと呼び、かつては仏壇をおいていた。中2階にあがる階段を壁際に設けるが、当初は茅葺きであり、階段は瓦葺き中二階形式に改装して後のものと考えられる。
 【ナンド】 オクノマの裏側にあたる6畳の寝室。床と押入を壁際に伴う。
 以上より、平面は六間取りに復原された(↓)。

<この日のグロッサリー>
納戸(ナンド): 寝間。貴重品を置いたり、出産の場でもある。
半柱(ハンバシラ): 壁に貼り付ける長方形断面の柱。一方の壁からは見えないが、反対側からは見える。
トオリニワ: 民家・町家の表から裏へとぬける土間。
内玄関(ウチゲンカン):  家族など、主に内輪の人が日常出入りするのに使う玄関。 (野口)


野口img-117115605_01復元図2種(野口)

小樽のひとよ




レキントギター

 「純烈」という昭和ムード歌謡コーラスグループをテレビでみて驚き、ユーチューブを漁っていて、クールファイブだのロマンチカだのまで入りこんでしまい、やはりどうしてもギターのことが気になるから、鶴岡雅義の弾くレキントギターについて情報を集めてみた。ヤホー知恵袋に質問を発見。ベストアンサーは以下のとおりです。

  チューニングが普通のクラシックギターの5フレットにカポタストを
  付けたのと同じになります。それぞれの弦が5半音高くなります。
  6弦開放がE(ミ)→A(ラ)です。
  ヤマハのギタレレという機種もレキントの仲間です。

 これでギター弾きなら分かるのですが、もうちょっと丁寧に説明すると、中南米の音楽に使われる小型のリードギターだよね。代表は言わずと知れたロスパンチョス。右端の人が弾いているのがレキントです。下の2つの動画を比べていただければ明瞭ですが、ロマンチカの原型はロスパンチョスです。そうしてネットを徘徊しているうちに、「小樽のひとよ」のクラシックギター・バージョンに出会ってしまたんだ(↑)。仰天でしょ! こんな上手い人、日本国内にいるんだ。昭和の演歌系歌謡曲を素材にしているけれども、わたしの「男はつらいよ」みたいな際物ではなく、オーセンティックですよね。まず音だしが素晴らしいし、和声も見事、なによりミスタッチがまったくない。もともと曲調がペンタ系で、演歌とラテンは大同小異だから、南欧や中南米のリスナーも十分満足するでしょう。このギターにやられてしまって、今夜は割り込みでこの記事をいれることにしたんです。
 ほんと、凄い。ジョン・ノウルズも真っ青でしょうね。



↑↓レキントの使い方を比較してください。

男はつらいよ-地蔵大吉

0114小倉家最終調査01 0114小倉家最終調査02sam


2列農家型から1列町家型への変化

 1月14日(日)。雪は已んで晴。どうにもこうにもQO家住宅主屋の解釈が気に入らないので、センター入試の地場からひとり離れて倉吉にむかった。河原町の五叉路について、まずはビニールハウスでお茶をいただき、お地蔵様のおみくじを引いた。
 大吉だってさ、うっしっし・・・小枝に結んだ摩尼寺の小吉は早くも浄化され、運勢は大吉に上昇したのである。倉吉まで来た甲斐があったというものだ。


0114小倉家最終調査04サッシ6枚 サッシの納まりは不規則な6枚


 いざ、QO家の主屋へ。いまパディ君が現状図の修正と復元平面図の作成をやっているのですが、間違いや書き足らない部分がみつかり、さらに前回の復元図を若干修正する必要があることもわかった。まず現状図ですが、

 1)1階表のアルミサッシ戸を均等割りの6枚引き違いにしていたが、間口4間の真ん中に半柱を立て、左側を4枚引き違い、右は2枚引き違いとする。半柱に当たるのは左側の4枚のほうであり、右側の2枚は半柱の内側に納めて、左側1間分土間に溝をとおして右側2間を開放にできる。間口2間の土間の正面が全開になるということである。
 2)土間から居間・台所にあがるL字形の板床が土間上に表現してない。

 そのL字状の板床下のコンクリート土間に床束の痕跡が残っている。その痕跡は入口まで続くわけではなく、前から2間のところでとまる。その真上に大引根太天井を受ける大梁が通る。大梁の下面には半間分だけ壁の痕跡が残る。一方、台所と座敷の境に立つ柱の土間側の面には、床束上の敷居の痕跡が残る。すなわち、東側居室部の真ん中にある居間は当初、今より半間土間側に出ていたことになる。つまり、居間は奥の座敷と同じ八畳であり、前土間に面する店は六畳(の板間?)であった。


0114小倉家最終調査05土間の痕跡01 0114小倉家最終調査05土間の痕跡02sam
↑L字形の式台と床束痕跡
0114小倉家最終調査06居間の框の痕跡
↑柱に残る敷居の痕跡
0114小倉家最終調査06居間の梁の痕跡
↑梁下に残る壁の痕跡



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サテンドール(ⅩⅩⅧ)

1223ウェザーリポート03 1223ウェザーリポート01


ウェザーリポート

 翌23日のイブイブ、大根島での仕事を終えホテルに戻ると、まもなくYカメラマンがロビーまでお迎えに来てくださった。じつは前日もYさんの会社を訪ねていた。学生のことで御礼を申し上げ、我らが自慢の「梨美子」を2本ばかりお歳暮したのだ。
 ホテルに近い「茜どき」という居酒屋で夕食をともにした。茜どきは典型的なチェーン店ではあるけれども、なかなか美味しいし、値段もリーズナブルだ。お目当ての「ウェザーリポート」は午後8時開店なので、かなり時間がある。のんびり語らうしかない。二人は個室で密談に熱中した。ジャズ喫茶に係わる構想を語り合ったのだ。というか、わたしのアイデアを披露したところ、カメラマンはおおいに賛意とやる気を示された。


1223ウェザーリポート09客席01 1223ウェザーリポート03sam


 我がジャズ喫茶は営利を目的としていない。老後のいきがいの場としたいのである。自分を取り戻すための場所だと言い換えてもいい。若いころから集めたLP、カセットテープ、CDなどを同好者で持ち寄り、少々高級な音響器機で聞いてもらう・・・話は徐々にもりあがっていった。
 8時が近づいて、いざ出陣。8時をほんのわずかばかり過ぎた時間にウェザーリポートに到着したのだが、すでに満席に近かった。この春に復活して、金・土の夜しかやらない特殊なお店であり、なにぶんノエルな週末だからね。端席に滑りこめたのはラッキーだというほかない。そこでケーキセットを注文した。珈琲に手作りケーキがついて千円、お酒類はおつまみ付き500円だから決して高くはない。ケーキセットを注文してしばらくすると、正面最前列中央の席に移動するよう指示があった。その席を予約していた客がキャンセルしたからだという。かくして、わたしたちはいちばんよい席でLPのジャズを聴く幸運に恵まれたのだった。


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サテンドール(ⅩⅩⅦ)

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サテンドール

 仏の世界がノエル一色に変容していた年末の22日(金)、わたしは夜の出雲駅前を徘徊していた。駅前の大通りはイルミネーションでキラキラきらめき、真っ赤なベンチコートを羽織った私はさながらサンタさんである。駅前からとぼとぼ歩いて右を振り向くと「サンロードなかまち」のネオンが目に入る。撤去された倉吉のアーケード商店街とよく似ている。おそらく昭和30年代後半ころ街中にできた「横のデパート」で、中に入ると、看板建築がべったり軒を連ねている。寒々しいシャッター通りのところどころに大型の町家が残っている。アーケードをよくみると新しく更新されている。倉吉ではアーケードを撤去して看板建築を修景し町並みは古風になって重伝建地区の拡張域に選定されたが、出雲ではアーケードをモダンに建て直すことで老朽化に対処したのである。


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 「サテンドール」という名のジャズ喫茶を探していた。ホテルから電話して、このアーケード内にあることは分かっていたのだが、それらしい建物をみつけられないでいた。再び電話して訊ねる。指示に従い、すこし後戻りして、なんとか店の扉をみつけたのだが、果たしてそれは、さきほど凝視していた大型町家の隣にあった。なんのことはない、町家に神経が集中しすぎていたのである。灯台もと暗し。あとで聞いたところ、この大型町家は造酒屋の主屋であるという。翌朝ひやかしてみたのだが、地酒は高くて手がでなかった。


1222サテンドール01ハイボール01 1222サテンドール01ハイボール02sam


 サテンドールの扉をあけると、西洋人が一人カウンターに腰掛け、静かにグラスを傾けて音楽を聴いていた。出雲には大学の医学部があるからね。大学関係の人なのかな、と想像を逞しくしたが、真実がどうなのか、もちろん知る由もない。酒を選ぶ。最近はもうハイボールばっかり飲んでいるので、いちばん安い酒を選んで炭酸で割ってもらった。デュワーズの12年。初めての酒だ。なかなか美味しい。


1222サテンドール06客席01 1222サテンドール05天井01


 西洋人が席を立つのを見計らって、おもむろにカメラを取り出し、レンズを覗く。シャッターを押したところで、SDカードが抜けていることを知った。さきほどホテルでパソコンに突っ込んだんだ。あぁぁ、近くのローソンまで自ら使いっ走りさ。1,080円で8ギガのSDを仕入れ、店に戻ってデュワーズの12年をもう一杯。だれもいないので、思う存分写真を撮らせていただいた。
 町家の隣にあることから予想されるように、このジャズ喫茶は土蔵を改装したもので、小屋組がよく残っている。松江の常乃屋のように、2階の床を残していない。スピーカを置く部分以外は吹き抜けにしている。こういう建物では暖気が上に集中するのだが、屋根裏の扇風機が空気をうまいこと拡散している。


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片口徳利

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 十日遅れで誕生日のプレゼントを頂戴しました。例年は大晦日、奈良の家に届くのですが、今年は研究室のドアノブに吊るしてありました。開けば陶器です。ちょっと危ないわな。つるりとすべってフロアに落ちたらガシャンです。
 わたしが片口やピッチャーのコレクターであることを知っていたのでしょうね、ごらんのとおり、モダンな徳利とぐいのみのセットをいただきました。10日の摩尼山初詣で雪に降られ凍えたあと、さっそく下宿で家内と一献傾けました。焼酎のお湯割りを片口にいれたの。
 アテは、牛タンと白葱の炒めもの、ロールキャベツの玉ねぎスープ煮込み赤ワイン風味、一夜干カレイでした。カレイの骨どもはいつものように野良猫たちの餌になった。
 ちなみに器は雲山にある「器屋うらの」のもののようです。行ったことないので、いちどひやかしてみます。
 学生さん、プレゼントありがとう。こういうことすると、成績はあがりますよ・・・冗談、冗談(笑)。


1231器屋ウラノ02 1231器屋ウラノ03

初詣

1110摩尼寺03三祖堂03雪02



吹雪く摩尼寺三祖堂

 新年明けましておめでとうございます!
 11月10日(水)、今年最初のゼミが始まりました! ゼミ生全員で摩尼寺へ初詣です。新年のご挨拶とそれぞれ思い思いのことを祈願して本堂に参りました。4年生はあと3か月程で卒業されて、社会にでて働き始めます。3年生は就活や卒論等追い込みの年になるでしょう。今年はそれぞれにとって大変な年になるでしょうが、息災でありますように。


1110摩尼寺02初詣01


 先生と3年2名はおみくじを引きました。あやかめさんは吉、先生とわたしは小吉でした。おみくじがあまり良くなかった場合は木に結び付け、浄化してもらいます。その後、摩尼寺三祖堂の実測に取り組みました。雪が降る中、傘もち組、スケッチ組に分かれ、協力してなんとか描き上げました。


1110摩尼寺03三祖堂01 1110摩尼寺03三祖堂02



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男はつらいよ-冬の地蔵祭(2)

冬DSC03771


QO家所見-土蔵

 主屋の背面に近接する中二階形式の土蔵。西側面が鉢屋川に沿う小路に接し、主屋と同様に景観上非常に重要な役割を果たしている。土蔵は乾物の収納庫として使用されていた。一般に中二階の町家は明治末ころまで遡るが、この土蔵の建築年代は課税台帳に大正5年(1916)と記されている。屋根は切妻造で赤褐色の桟瓦を葺き棟に来待石を置く。正面に裳階状の小さな庇をつけるが、こちらの屋根は褐色桟瓦葺とする。基礎は延石で土台上に柱・壁を立ちあげる。
 入口は主屋側の妻に開く。観音開きの土扉ではなく、引違板戸とし、戸前口には長細い切石の踏石を置く。また、西側面の南端部は車庫に改造し、引き違いの板戸を嵌め込む。西側面及び主屋側の妻部分の外壁は庇より上を白漆喰塗り、腰廻りは焼杉縦目板張りとする。南妻側は、2階軒高までを焼杉板の縦目板張り、それより上を白漆喰塗りで仕上げる。東側面も腰廻りをトタン張り、上部を白漆喰塗りとしている。


冬DSC03761


 平面は桁行6間×梁間3間で、入口に接する1間半×2間半のみ吹き抜けとして、そこから階段で2階に上がる。小屋組は壁付部分を和小屋、中間を登り梁とする。1階の奥(土蔵南側)1間半が車庫に改造され、合板張り板壁で他と仕切られる。1階・2階の内壁面と床面も合板張りに改変されている。主屋を改造した昭和50年代後半に土蔵内部も改装したと推定される。1階の東壁面中央に角窓1ヶ所、2階の東壁面と西壁面には角窓を2ヶ所開ける。いずれの角窓も外側を木製窓枠のガラス窓とする。
 今は乾物等の倉庫ではなく、物置として使用されているが、老朽化が進み解体の可能性を示唆される時期があり、さらに2016年10月21日の鳥取県中部地震で被災し、土蔵の一部が剥落、瓦がずれるなどして一年以上ブルーシートを被ったままである。こうした苦境に置かれた土蔵であるけれども、山田洋次監督『男はつらいよ-寅次郎の告白-』(1991)では重要なロケシーンとなり、池本喜巳の写真集『近世店屋考』(2006)でも昭和を代表する景観としてこの地が撮影されるなど、鳥取を代表する風景地の構成要素として高く評価されている。


0108小倉dozou平面図_01
↑土蔵1階平面図  ↓同2階平面図
0108小倉dozou平面図_02

男はつらいよ-冬の地蔵祭(1)

冬DSC03770


QO家所見-主屋

 QO家住宅は倉吉旧市街地西端の河原町に所在する。東隣の鍛冶町2丁目は職人街、河原町は商家街として賑わったが、近年人口減少が著しい。河原町と鍛冶町2丁目の境域には中世城下町時代に掘削された外濠(鉢屋川)の清流が南北に流れる。この小川に交差して通る八橋往来の屈曲点に3本の小路が合流することで「五叉路」が形成されており、その辻の一角に等身大の石造地蔵菩薩立像を祀る。地蔵石仏には安永2年(1773)の銘が残り、古くから地域コミュニティの核であり、現在もなお毎年8月23日に地蔵盆を開催している。旧小倉家住宅は八橋往来に北面して主屋を構え、その背面に土蔵を構える(ハナレもあるが外からみえない)。主屋の側面と土蔵の正面は鉢屋川に沿う小路に面しており、主屋妻壁に接する路肩の膨らみに地蔵を安置する。小倉家は地蔵・鉢屋川・八橋往来と不可分に結びついた町並みのランドマークとして重要な役割を担っている。

 昭和初期、当住宅の所有者の曽祖父が河原町の別の場所から現在地に移転し、乾物商を開業した。店を町外に移転した昭和47年(1972)以降は専用住宅になり、十数年前から空き家と化している。主屋は木造切妻造二階建平入の町家形式で、棟札添木に昭和11年(1936)上棟と記されている。屋根は赤褐色の桟瓦葺で棟に来待石をのせる。1・2階の表裏とも四間間口全体を開口する。表の建具はアルミサッシに変更しているが、裏は板ガラス戸のままである。2階は、表で外側、裏で内側に手すりを付け、板ガラス窓を入れる。側面は西側が焼杉板縦目板張り、東側は亜鉛板波板トタン張壁とする。


0108小倉家復元平面図_01 0108小倉家復元平面図_02
↑(左)当初復元図  (右)現状平面図
*1月14日に最終調査をおこない、復元図を更新した。 こちら を参照。


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(14)

立岩写真(県博)web


西国三十三観音霊場石仏覆屋

 鷲ヶ峰の地蔵堂と鐘楼のあいだには大谷文次郎が寄進した西国三十三観音霊場石仏33体のうちの第1群11体(第1~11札所)が置かれていた。11体の石仏群の下には基壇状の高まりが残っており、上下の写真を見比べてみても、現在の位置は明治期と変わっていないと考えられよう。最後に石仏11体の覆屋について復元的な考察を加えてみよう。


1212立岩01 2014摩尼寺02立岩01三十三観音02


 覆屋の構造は単純なようで結構複雑である。基本構造形式は平屋建切妻造桟瓦葺平入。棟に来待石をのせる。基壇は崩れかかっているので寸法が微妙だが、復元的には間口17尺(5,151mm)×奥行5尺(1,515mm)と推定する。基礎は土台建。古写真をみる限り、間口の柱間は3スパンあり、中央の柱間が両脇間に比べてやや長い。これについては、中央間=7尺(2,121mm)、両脇間=5尺(1,515)と仮定する。両側の妻壁は棟通りに対称に2本の柱を配して柱間を土壁とし、その安定を図るため土台を前後にのばし、筋交状のつっかい棒で柱を支えている。


三十三観音01立岩写真(県博)web01
↑明治古写真にみる石仏覆屋 ↓石仏群の配置(現状)
石仏配置図_01


 

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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(13)

2014摩尼寺01鐘楼01 2014摩尼寺01鐘楼02


類例-摩尼寺境内の鐘楼

 鷲ヶ峰の地蔵堂を復元するためには部材の寸法を確定する必要があるけれども、もちろんまず第一に参照すべき類例は摩尼寺境内の鐘楼である。鐘楼は山門・本堂とともに国の登録有形文化財になり、その申請文書を改稿した解説文を報告書『思い出の摩尼』(2015:p.12)に掲載している。その概要を述べておく。

 摩尼寺鐘楼    平屋建入母屋造桟瓦葺  明治25年(資産台帳)
          礎盤上に角柱 腰貫・飛貫・頭貫・台輪 出三斗 中備蟇股 木鼻 一軒疎垂木

 鐘楼の平面は方1間で、桁行4,080mm(13.47尺)×梁間3,897mm(12.86尺)を測る。これをおよそ13尺四方と理解すると、鷲ヶ峰鐘楼はおよそ10尺四方であり、一辺は山上の1.3倍、面積では1.69倍となる。


思い出の摩尼10鐘楼02平面web 思い出の摩尼10鐘楼01


 四面開放で腰貫、飛貫を通すところは山上鐘楼と同じだが、柱頭は頭貫で固めて台輪をのせ、三斗組の組物、中備蟇股、木鼻を設ける。また、柱底部は礎石上の礎盤にのっており、柱上の台輪とあわせて禅宗様の匂いが仄かにする。入母屋造の屋根には野小屋があり、軒下からみえる疎垂木は化粧垂木である。
 垂直方向の高さを柱高で比較すると、境内鐘楼は4,148mm(13.67尺)であり、柱間よりも長くなっている。鷲ヶ峰の鐘楼は柱間が10尺、柱高が9尺で柱間より短くなっており、また、柱の内転びも境内鐘楼のほうが強くみえる。つまり、山上と山下では、鐘楼の様式が大きく異なり、丈が低く低減率の小さな後者のほうが古式にみえる。


思い出の摩尼10鐘楼03断面web 2014摩尼寺01鐘楼03


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(12)

鐘楼in立岩写真(県博)web


鷲ヶ峰の鐘楼

 鷲ヶ峰の地蔵堂と直交関係をもって基壇上に建つ鐘楼は素朴な構造をしている。写真から看取できる構造形式・細部様式を以下にまとめる。
 
  鐘楼: 方1間 切妻造桟瓦葺平入 四面開放 
        
 内転びのある角柱に腰貫・飛貫を通し、柱頭部は梁(虹梁型頭貫か?)、桁の順に載せて固める。古式な折置組である。礎石建の土台なし。小屋組は束立。棟木と軒桁に垂木をわたし、妻飾の破風板で隠す。おそらく野小屋のない化粧屋根裏で、屋根勾配は5/10前後、軒の出は1.5尺ばかり。人間との対比からみて、柱高は3,000mm前後か。


鐘楼跡(空撮)web


基壇上の遺構と古材

 基壇上には4基の礎石が残っている。礎石は450mm×550mm程度の自然石であり、平らな上面の中心部分に45mm角の孔をあけている。これは柱下端に削り出したホゾ(枘)を納めた孔であろう。4つのダボ孔から平面寸法が復元できる。

   鐘楼平面寸法: 桁行3,090mm(10.2尺) × 梁間2,970mm(9.8尺)

 手測りの誤差を考慮するならば、復元設計においては10尺四方でよいかもしれない。なお、4基の礎石の北側に小さな自然石が2基露出し、上に木材を横たえているが、これらは鐘楼そのものとは関係なく、後述するように、三十三観音石仏覆屋の柱礎石の可能性があるだろう。 
 下の図にみるように、礎石の上面・周辺にはあわせて8本の角材が姿をとどめている。これら8本はA群(4本)とB群(3本)に大別できる。


鐘楼跡平面図_01web 鐘楼跡 平面図_02実測doc

1108摩尼山asa008鐘楼14 1108摩尼山asa008鐘楼17



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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(11)

因幡志にみる摩尼寺奥の院_02web


『因幡志』にみる摩尼山奥院

 冬休みに書いた連載(7)-(10)を関係者に送信したところ、さっそく反応があった。ご指摘に従い、安部恭庵の『因幡志』(1795)にみえる立岩・奥の院エリアの描写についてもここで取り上げておこう。
 『因幡志』の「摩尼山奥院 邑美郡角寺村上下に記す(一)」に掲載された喜見山摩尼寺奥院之図(↑)をみると、巨岩の岩陰らしき場所に小さな方形屋根の仏堂が描かれており、その右上に「弘法大師」と添書きされている。また、図の左上には「大師堂ヨリ絶頂立岩ヘハ一町許」との端書もある。すなわち、この小堂は弘法大師を祀る大師堂であり、現在善光寺如来堂から登山路を少し上がったところに建つ六角堂(↓)に相当するものと思われる。前住職から六角堂は「弘法大師を祀る仏堂であり、やはりかつては山の中にあった」と聞いたことがある。なお、一町(丁)は60間(303mm×6×60=109m)なので、立岩までの距離「1町ばかり」は約100mということになるであろう。実際には、高低差なら50~60m、距離なら150m程度ある。


六角堂01 六角堂02


 一方、『因幡志』の同(二)には「奥院絶頂 立岩之図」が掲載されている。中央上側に「竪岩都合カ?高サ凡ソ四丈」の注記がある。立岩らしい巨岩は比較的小さめに表現されており、その付根に「財河原 石仏」とみえる。その周辺の凸凹地形や岩の上に小石を積み上げている。賽の河原(財河原)の風景がまさに展開しているわけだが、建物らしきものは一切表現されていない。18世紀末の段階では、鷲ヶ峰に地蔵堂は存在しなかったということであろう。『因幡志』に続く米逸処の『稲葉佳景無駄安留記』(1858)は中腹の境内を詳細に描くものの、立岩・奥の院エリアについては記載がない。


因幡志にみる摩尼寺奥の院_02立岩02web


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(10)

鷲ヶ峰空撮_02web 立岩配置図_02web


鷲ヶ峰地蔵堂跡の復元方法

 すでに何度も述べてきているように、鷲ヶ峰の立岩と平場(賽の河原)の間にL字形の基壇風の高まりがあり、北側に地蔵堂、南東側に鐘楼が建っていた。また両者の中間には西国三十三観音石仏の第1群11体(第1~11霊場)が低い切妻の瓦屋根に覆われていた。こうした風景が明治の絵葉書に写しこまれている。その写真の撮影年代については、明治末の山陰線開通を記念して編集された「因幡国喜見山摩尼寺略記」(1912)に地蔵堂等が描かれていることから、明治45年(1912)以前と考えてきた。しかし、よく考えてみれば、三十三観音石仏の寄進年があきらかなので、その年代を上限として理解できる。田中新次郎『因幡の摩尼寺』(鳥取県民俗研究会、1958:p.59)によると、鳥取市元魚町大谷文治郎所有の石仏40体が明治29年(1896)摩尼寺に寄進されており、そのなかに「西国三十三ヶ観世音菩薩三十三体」を含む。これらの石仏は「廃寺ノ尊像」であり、石仏の刻銘から制作年代は文化年間まで遡るが、摩尼寺への寄進は明治後期まで下るのである。田中の依拠する資料は「摩尼寺宝物帳」であり、信頼性は高いといえる。このことから絵葉書の撮影年代は明治29年(1896)以降ということになる。絵葉書に映された地蔵堂・鐘楼は撮影された年には鷲ヶ峰に存在していたわけだが、建立年代は撮影年代以前としか言いようがなかろう。


思い出の摩尼p13地蔵堂02web 地蔵堂 


 上にみる地蔵堂の構造形式はすでに本連載(7)において因伯時報の記事とあわせて考察したが、このたび改めて当該部分をクローズアップして観察すると、角柱土台建 二重の長押 桁天のり(組物・木鼻なし) 向拝柱(礎盤付)上に出三斗・木鼻(に中備蟇股?)などもみてとれる。加えて、摩尼寺三祖堂・龍門寺巡礼堂などの類例から推察して、以下のような構造形式・細部様式に復元できよう。類例からの推定部分は赤字とする。

  地蔵堂: 間口2間×奥行2間、平屋建 入母屋造 黒瓦葺 平入 縁なし
        角柱土台建 二重の長押 桁天のり(組物・木鼻なし) 妻飾 木連格子
        正面中央間 格子戸  正面両脇間 花頭窓
        側面前側1間 舞良戸 側面奥側1間 木舞壁に小窓付か 
        向拝一間 向拝柱(礎盤付)上に出三斗実肘木木鼻 中備蟇股

 こうして整理してみると、地蔵堂(↑)と三祖堂(↓)はやはりよく似ている。屋根に入母屋と方形の違いがあり、三祖堂の建具が新しくなっている以外は瓜二つと言ってもよいぐらいであろう。とりわけ地蔵堂の復元にあたっては、三祖堂の海老虹梁と仏壇の花頭窓が使える点、非常に有用である。


図1三祖堂web 三祖堂




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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(9)

1212三祖堂02斜正面02正面01 1212三祖堂02斜正面01


摩尼寺三祖堂

 すでに何度も述べてきたように、摩尼山鷲ヶ峰に所在した地蔵堂跡の復元にとって最も参考になる類例は中腹の境内に現存する三祖堂である。三祖堂については、『思い出の摩尼』(2015:p.13)に短い報告をしている。構造形式・細部様式をいまいちど整理しておこう。


(6) 三祖堂    正面2間×側面2間 方形造 桟瓦葺 昭和36年(案内板) 
            角柱土台建 桁天のり(組物・木鼻なし) 一軒疎垂木 縁なし
                向拝角柱(礎盤付) 出三斗・実肘木 海老虹梁 木鼻 中備蟇股 一軒疎垂木 


思い出の摩尼p13三祖堂02 思い出の摩尼p13三祖堂01


 三祖堂は最澄・円仁・空海を祀る二間四方の仏堂で、かつては山上にあったというが、どこにあったのかは誰も知らない(奥の院のどこかであった可能性は高い)。昨日述べたように、繋ぎに海老虹梁を使う点は龍門寺巡礼堂より禅宗様的だが、側柱に組物はなく、台輪を通していない。向拝は出三斗(皿斗付大斗)とする。海老虹梁の手先延長方向と虹梁型頭貫の外側に木鼻をつけるが、絵様をみると、海老虹梁の渦が丸くてやや古式を示す。木鼻は明治で海老虹梁は幕末かとも思ったが、絵様を凝視するに、渦の彫り幅は同じにみえるので、同年代を反映する可能性もある。2014年に国有形登録文化財になった本堂・山門・鐘楼と比較すると、本堂は幕末の安政7年(1860)であるのに対して、山門は明治22年(1889)、鐘楼は明治25年(1892)まで下る。本堂と山門・鐘楼には明治維新をはさんで30年前後の時間差があるのだが、この間はいわゆる廃仏毀釈の時代であり、仏堂の新築・再建等は難しかったと思われる。したがって、三祖堂の古材を使って建てた建物の年代は幕末か明治中期のどちらかであろう(後述)。なお、三斗組上の桁は見かけのもので、内側を実肘木の上側で切り落としている。二間四方の本体は組物のない住宅風であり、向拝のみ派手にして付けたし、全体を仏堂風にみせている。こうした作風は鳥取城下町などに分布する一般の仏堂と同じである。


1212三祖堂03繋虹梁01 1212三祖堂03繋虹梁02
↑↓向拝まわりのみ派手につくる
1212三祖堂03繋虹梁03出三斗01 1212三祖堂03繋虹梁04絵様01



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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(8)

1224龍門寺01巡礼堂03 1224龍門寺01巡礼堂01


龍門寺巡礼堂

 摩尼山鷲ヶ峰の地蔵堂を復元するにあたって参考に値する類例を探したところ、『鳥取県の近世社寺建築』(1987)の中で最も近い外観を有するのは会見町(現南部町)の龍門寺巡礼堂であることを、きびたろう君がつきとめた。たしかに、入母屋造仏堂の正面中央に向拝をつけ、左右の脇間に花頭窓を設える外観は地蔵堂とよく似ている。『鳥取県の近世社寺建築』の文章はとても短いので、この際だから全文引用しておこう(一部の文字を繁体字にし、西暦を付加するなどの改変あり)。
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83   龍門寺    西伯郡会見町天万748    真言宗醍醐寺派
巡礼堂  正面三間 側面三間 入母屋造 向拝一間 桟瓦葺
                            天保6年(棟札) 
            角柱土台建 頭貫木鼻 台輪 出三斗 一軒疎垂木 妻飾木連格子
                向拝角柱 連三斗 繋虹梁 一軒疎垂木      四方切目縁
  
 龍門寺は永享2年(1430)、醍醐寺三宝院末流真言修験宗として護国山常福寺を創建してはじまる。明治の神仏分離令により廃寺となり、大正8年(1919)龍門寺として復活する。
 伯耆霊場第6番札所で、本堂の前方右脇に西面して建つ。
 巡礼堂は方3間仏堂で、前1間を外陣、後2間を内陣として、内陣床高を外陣より1段上げて内外陣境を引違戸で間仕切る。外陣中央間の側・入側柱頭部を虹梁で繫ぐ形式は中世風である。側廻りの柱上出三斗の手先の斗に肘木を組んで出桁を受ける手法は珍しい。柱頭に粽をつけ、台輪や花頭窓など禅宗様系の意匠を用いて全体に木細く、天保6年(1823)の建築にしては穏やかにまとめている。
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20171229巡礼堂0139305b1 竜門寺 スキャンデータ_01 1224龍門寺01巡礼堂04


 昨年12月24日の午後、龍門寺を訪れ、短時間ではあるけれども、巡礼堂の調査をした。ヒアリングによると、今から11年ばかり前、住職の交替があった。新しく赴任した現住職は堂宇の傷みを修補すべく、巡礼堂の屋根・壁・建具などに大きな改修を加えた。一点、報告書と矛盾する発言あり。本堂・巡礼堂とも、もとは茅葺きであったが、雨漏り等ひどいので本堂は鉄板で被覆し、巡礼堂はスレート葺きにしたとのことだが、報告書(1987)掲載の巡礼堂の写真は上の記載どおり桟瓦葺になっている。桟瓦からスレートに葺材を換えたというのが正しい理解であろう。


1224龍門寺01巡礼堂06花頭窓01 1224龍門寺01巡礼堂08繋虹梁01


 報告書の記載にあるように、台輪・花頭窓・柱頭粽(および向拝柱の礎盤)は禅宗様系だが、繋虹梁は海老虹梁ではなく、虹梁型頭貫と同じ標準のタイプにしている。対して、摩尼寺境内の三祖堂や古写真にみる地蔵堂は曲がりの強い海老虹梁を採用しており、この点のみに注目すると龍門寺巡礼堂よりも禅宗様の色彩がやや強いと言えるが、組物などは素朴に抑えている。さらに微細な部分ではあるけれども、向拝柱上の大斗を皿斗付大斗にしており、これは三祖堂と共通する。


1224龍門寺01巡礼堂07組物03内部 1224龍門寺01巡礼堂09内部01sam
↑内外陣境。角柱に粽をつける。 ↓向拝の大斗に皿斗をつける。
1224龍門寺01巡礼堂07組物02  1224龍門寺01巡礼堂07組物01




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ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝

ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝


金剛杵による魔女の調伏に思わず快哉を叫ぶ
 
 今枝由郎先生の最新作『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』(岩波文庫・2017)が年末に送られてきたので、このたびの上海行で一気に読破した。いやはや痛快の一言。なんだか嬉しくて仕方ない。愉快で幸福で脂下がる自分に呆れています。凡例の七番目に「本文中に、今日からすると不適切な表現があるが、原文の歴史性を考慮してそのままとした」と予め注記されているが、昭和映画DVDの冒頭にだって同じようなフレーズがでてくるので、前近代の芸術に接する場合、決して珍しい注意事項というわけではない。
 この注記に呼応するように、口上-四「この物語を読む資格のある人」(p.24-)に比喩に富む注意書きがあり、「物事の是非がわからず、仏の深い御教えに信心のない人、自らを制することができない人たちはお読みにならないように」と戒めている。大学で講義・演習を担当している身から述べるならば、本書を読むべきでない学生はたしかにいます。だからゼミ等で紹介するのは難しいかもしれません。しかし、大人の社会人には強く推薦したいですね。ぜひ本書をお買い求めください。愉快なチベット文学を堪能し、おおいに笑ってほしい。


0914chimilhakang03_20180104010112420.jpg チメラカン


 さて、数奇な行動で知られる中世チベットの高僧、ドゥクパ・クンレー(1455-1529)は、チベット本国以上にブータン(ドゥクパの国)で英雄視されています。2013年に訪問したプナカのチメラカン(↑)は、クンレーの建立した仏塔チョルテンが始まりだと伝承されていますが(本書p.124)、当時はこれほど愉快な人物の創建とは露知らず、短時間の訪問を学生の測量演習にあてただけでした。ただし、チョルテンの古材を若い僧が輪切りにしてくれたので、あるいは将来15~16世紀の年輪データが得られるかもしれません。

 本書はクンレーに係わる伝承を集成した口承文学の日本語訳であり、日本人のチベット・ブータン理解に新しい一面をもたらしてくれるでしょう。クンレーはチベット・ブータン各地を放浪し、谷筋の悪霊・魔女を次々と退治していきます。その最終兵器は巨大な金剛杵(ポーの暗喩)であり、いかに邪悪な魔女と雖もその法力にはなす術もなく、クンレーの御脚に礼拝してしまいます。悪霊・魔女は仏法により調伏され、その地は浄化されて平穏な土地に生まれ変わるのです。内容はこの繰り返しですが、文学的な修辞が桁違いに豊かであり、読んでいて飽きることがありません。男ならだれしも、思わず快哉を叫びたくなるでしょう。


0828バルコル01Makye Ame03外観 0828バルコル00
↑ラサの角地にたつ茶館「マキェアメ」(左)とそこから俯瞰したバルコルの町並み(右)



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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