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豪州アジア杯(5)

 チャンネルをまわすと、決勝の延長戦になっていた。
 これいい試合なんですか?
 アジア最高峰のレベルがこれでいいのかな。
 まもなく別のチャンネルでレアルの試合が始まり、
 また別のチャンネルでマンUの試合も始まった。
 世界は遠いなぁ。 
 

倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅣ)

公民館便り69号_02圧縮 公民館便り69号03 右をクリック


 お待ちかね!
 倉吉のドクトル・アマノより、「河原町自治会公民館便」第69号が届きました。

   69 か・・・高田渡ですね(↓)

 ところで、有人訪問ドクトル。それがNHK広島だってんだから、例の「里山資本主義」のグループなんでしょうね。
 だとすれば、相思相愛。驚きだね。
 ドクトルはインタビューを受けた。で、2月の11日と17日に番組になるんだそうです。
 午前11時の放送だったな。



↑医者曰「労働と運動をしてはいけません」

夜の小噺

 水曜日は昼過ぎに学科会議をこなし、
 1コマだけ学生を指導したが、
 風邪の症状がみるみるひどくなっていくので、
 教授会を休んで早退することにした。
 それから先のことをよく覚えていない。

 たしか、コンビニのおにぎりを二つばかり食べた後
 医者がくれた白い顆粒の風邪薬を飲んだ。
 知らず知らずのうちに意識が遠のく。
 ときおり覚醒もする。起きて仕事を片づけなければ
 という意識もあった。
 明日は最終講義と長文レポートだ。
 とりあえず体を休めよう。

 明るい部屋で目がさめた。時計をみると、1時半。
 1時半・・・講義は1時からだ。
 大変なことになった。はやく連絡しなければ。
 まず学務に電話する。だれも受話器をとってくれない。
 (なぜなんだ、あんなに職員が多いのに)
 つぎに学部事務に電話した。だれもでてくれない。
 (なんだ、また本部に連行されたのか?)
 同じことを2度繰り返した。結果は同じ。
 警備の携帯を鳴らすしかない。
 しばらく待つと、ガードマンの声がした。

  「あぁぁぁ、13講義室で最終講義してんですが、遅刻して
  しまいましてね。急いで13講義室行ってくれませんか?」

 ガードマンは笑っていたのか、あきれていたのか、よく覚えていない。

  「せんせい・・・いま、深夜ですけど」




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「最後の卒業・修了研究展」お知らせ

15218卒業研究展1


 平成26年度の卒業・修了研究展のお知らせです。というよりも、建築・環境デザイン学科「最後の卒業・修了研究展」のお知らせになります。ASALABからは卒論4名、修論1名、制作1名の展示があります。日程・会場は以下のとおりです。

  日程: 2月18日(水)~2月22日(日)
  会場: とりぎん文化会館フリースペース

 ぜひともご来場ください。

 展示にさきだって、2月10日(火)に卒業研究公聴会があります。これについては、まだスケジュールが確定していません。決まり次第お知らせします。ゼミ生では私が最初に発表することになるので、後続の勢いがつくようがんばります。
 以上、卒論概要の表紙とポスターのデザインを担当したセツがお伝えしました。


15218卒業研究展2←クリックすると画像が大きくなります

花燃ゆ

 今年の大河ドラマのタイトルが浮かばない。
 いちおう視てます。あまりおもしろくないよね・・・
 ただ、吉田松陰の父親には感心しました。
 松陰が黒船に乗り込んで国禁を犯し、父親は藩に切腹の許可を請う。
 息子の行いの責任は父親にある。
 「息子を助けてくれ」とは口が裂けても言わない。
 死んでお詫びする、ということですね。

 雪山の恐ろしさを知りながら、山好きは冬山に登る。
 死んで本望だと思っていなければ、雪山に踏みいらないよね。
 色眼鏡でみられても、
 世話ぁない、せわ~ない。
 と母は呟く。 

ナベサダ

 渡辺貞夫オーケストラの東京ライブを録画でみながらブログを書いてます。
 昼間に番宣があって、一気にひきこまれました。81歳になってなお正面から取り組める「音楽」というか、「芸術」というジャンルに羨望の念を禁じ得ませんね。スポーツは若いうちだけだけよね。学問はどうだろう。やってやれないことはないけれど、楽しめるか、と問われれば首をかしげる研究者が多いんじゃないかな。
 建築でも「四十五十は洟垂れ小僧」という格言があるけれども、それは設計分野の話だからねぇ。現実に、大学の教員なんて、7割方研究やめてますから。やめてる教員がまともであって、当方のような存在は例外の部類に属するわけです。辛いのにやっても意味はないけど、なにより研究が楽しめてるか、どうか、だよね。世のため人のためではありません。自分が楽しめているかどうか。それに尽きる。
 若いころのナベサダさんのCD、あまり買ってませんね。少し距離をおいてた方かもしれません。フュージョンという分野に苦手意識があるんだな・・・・そのフュージョン時代の作品もビッグバンド用にアレンジされると、隔てるものはなく、体に入ってきます。枯れたナベサダがよいのかもしれません。





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【講演記録】倉吉の町家と町並み(10)

 (5)歴史まちづくり法の都市へむけて
 平成25~27年度鳥取県環境学術研究助成事業(環境部門)の採択をうけ、「倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査-歴史まちづくり法による広域的景観保全計画にむけて-」という研究を進めています。倉吉という歴史都市に対して歴史まちづくり法の適用について最初に言及したのは、東京芸術大学大学院保存修復研究室の報告書『倉吉市打吹玉川』(2009)です。図61はその報告書からの引用になります。歴史文化基本構想の策定範囲を非常にひろくとっています。旧陣屋町のエリアは景観形成重点地区としてとくに大きな意味をもっています。さらに長谷寺を核とする打吹山と小鴨川外周域の史跡群(2ヶ所)が歴史風致維持向上重点区域となっています。
 ここには4つの地区・区域が示してあります。それぞれ単独には調査研究・保全事業が進められていますが、エリア相互の連携は必ずしも十分であるとは言えません。ひろい範囲で歴史遺産のネットワークをつくる。そして、広域的な景観保全を実現する。こういう理想に近づくためには歴史まちづくり法の都市(歴まち)として認定されるのが一番いいと思っています。
 歴史まちづくり法は、2008年に制定され、2009年から施行されました。歴史的建造物や町並み、史跡名勝、祭礼などの無形遺産はすべて地域の歴史的資源です。しかし、過疎や少子高齢化などを背景として、地域の良好な歴史的風致を維持するのが難しくなってきています。これを克服するために、文部科学省(文化庁)、国土交通省、農林水産省が一体になって補助金を出し、歴史的な風致の保全を図ろうという試みです。
 今までに全国で38都市が「歴まち」に認定され、歴史的なまちづくりを進めています。中国5県では松江、津和野、萩、高梁、竹原、尾道、津山の7都市がすでに「歴まち」になって歴史風致を高める事業をやっております。


2013倉吉の町家と町並み02配布資料_06


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豪州アジア杯(4)

対UAE 1-1(PK4-5)

 ユーロや五輪で「中二日の魔物」に多くのチームが苦しめられてきた。昨日は日本が蟻地獄に吸い込まれちゃった。
 キックオフ直後の10分がすべてでしたね。相手は最初からスイッチを入れていたのに、日本はいつもの緩い球回しで受けて立った。UAEは日本の弱点をよく研究していました。日本代表最大の弱点は2ストッパーだから。ストッパーの裏が弱い。足も遅い。そこを2度連続して突かれ、あっさり先取点を奪われた。
 勝っているチームは触るな、というけれども、中二日という特殊状況を考えれば、【結果論にはなるけれども】先発をいじったほうがよかったかもしれませんな。遠藤・岡崎のスタミナ切れはだれの目にも明らかでしたからね。最後の30分のために温存しておくべきだったかも?
 
 先取点を奪ったUAEは2トップを残して引いてしまった。4-4-2と4-3-3の戦になれば、4-4-2が有利なのね。2トップと2ストッパーがマッチアップになるので、どうしてもスィーパーがほしくなる。その仕事をアンカーの長谷部がしてました。結果、長谷部は前線に上がりにくくなる。
 後半の終盤までUAEのゲームプランで試合が進んだ。正直なところ、負けると思って画面を視ていました。柴崎はよく決めたね。いいシュートでした。残念ながら、それ以外の攻撃陣はスターになれなかった。香川ばかり責められていますが、武藤も豊田も本田も・・・よくなかったですねぇ。
 救いは長友だったのね。4年前のアジア大会のように、長友を左サイドハーフにあげればよいのにと思ってみていたところ、その切り札が延長前半で肉離れになった。結果として、前線にポジションを変えたのは皮肉でした。長友が消えた時点で、ゲームは実質終わってしまったのではないか。勝利の女神に見放されてしまった。
 1回めに書いたけれども、アジア杯の優勝はさほど重要ではありませんよ。レベルの低いトーナメントでチャンピオンになって実力を錯覚するのではなく、アジアでもまだ勝ちきれないという現実を受け入れて精進するしかありません。
 な~に、日本はまだ成長できます。屈強で速い大型のストッパーをブラジルあたりからスカウトしてきましょうよ。どの国でもやっていることなんだから、恥ずかしいことじゃない。本気で考えてほしいね。 






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「初級英語で読むブータンの絵本」発表会

150122絵本プロ研発表02


 22日(木)、プロジェクト研究2&4の発表会がおこなわれました。火曜日から経営学部の1年生2名、2年生2名が和訳本絵本を作成し、水曜日までに完成していました。
 聴講者は少ないだろうと予想していましたが、蓋をあけると、60名近い学生が集まりました。途中から学長まであらわれて、正直オドロキです。発表は1年の「メトの大冒険」、2年の「炎立つ湖」の順に進み、大半は無難な印象でした。
 原本および和訳本は発表中に回覧してもらいました。和訳本の出来が非常によくて、予想外の収穫というか、コピー本だけではもったいないので、午後からさっそく手を打ちました。

 開学後14年間を振り返るに、いちばん肩の力を抜いたプロ研でしたね。手を抜くのではなく、肩の力を抜くと、よい結果が転がり込んでくる。学生が爆発的に増えた公立大学におけるプロ研運営の指針となる半期の活動だったと思っています。
 1・2年生のメンバー16名とサポートしてくれた白帯、ケント、社長の3名に深く感謝申し上げます。
 

150122絵本プロ研発表01 150122ブータン絵本(プロ研)

【講演記録】倉吉の町家と町並み(9)

7.町並みのオーセンティシティ 【続】

 (2)文化遺産としての大衆食堂
 わたしはヨーロッパの流儀を完全に支持しているわけではありません。モニュメントを復原することで価値があがる場合もあるし、町並み整備にとって復原的修景が基本であることにも同意します。しかし、全部が全部そういうやり方では済まされないだろうと、とも思う次第です。
 町並みの復原的修景については、奈良を例にとってみましょう。奈良町でも盛んに復原的修景をやっています。今日は1990年代におこなわれた初期の修景をとりあげます。図54は「柿の葉寿司」の店舗ですが、修景後に図55のようになりました。「復原」的な介入というよりも、町家の景観にファサードをあわせた修景ですね。でもまぁ、悪くはない。柿の葉寿司の店が綺麗になってよかったなという意見が多いかもしれません。図56はパン屋さんです。昭和戦前のコンクリート造です。意匠的に決して悪くはないとわたしは思います。戦前の近代化遺産として、それなりの文化財価値をもっている。それが和風の木造建築に変わりました(図57)。90年代では、戦前のコンクリート造は歴史的町並みによってネガティブな要素だと思われていたのでしょうか。こういうことやってはいけませんよね。町と町並みの「歴史の重層性」が破壊されてしまう。和風木造への建て替えなんて、税金の無駄遣いです。戦前のコンクリート造の建物を活かして、修復・構造補強し、内装を新しくすれば、素敵なパン屋に生まれ変わったはずです。何でもかんでも格子を張ったらいいというものではないという典型だと思います。ちょっとやり過ぎではないか。
 図58は大衆食堂です。左が昭和40年代、右が修景後の姿です。これについても、90年代なら「綺麗になって良かった」と思うかもしれません。そして20年が流れ、2013年になりました。どうでしょうか、みなさん、左の大衆食堂、懐かしさを感じませんか。昭和戦後の大衆食堂もずいぶん少なくなりました。気楽に定食やお総菜を食べられるお店をあまりみかけませんね。こういう大衆食堂そのものが文化財になり、その風景もまた歴史的景観になってきているわけです。であるとすれば、昭和の大衆食堂の外観も現状維持であっていいはずです。全部が全部そうしろとは言いませんが、看板建築的な大衆食堂の外観を保全すべき時代に入ってきているということを申し上げておきたいのです。


2013倉吉の町家と町並み02配布資料_05



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豪州アジア杯(3)

対ヨルダン 2-0

 居住環境実習・演習の休憩時間、サッカー好きの学生に向かって「今日は3-0で勝つ!」と宣言した。学生は、これまで日本がヨルダンに苦戦してきたことを知っている。だからまた苦しめられるだろう、と予想していた。
 なんのなんの、豪州アジア杯のビデオをみる限り、中東勢と日本の力の差は歴然としている。日本以上のサッカーをしているチームはない。日本のパスワークにはついてこれないだろう(欧米相手になると潰されるのだが)。問題はレフェリーだけだ。レフェリーがまともなら、ヨルダン戦は3-0以上の結果に終わっていた。間違いない。なんて書くと、バッキンガム宮殿だな。ついに日本は十字軍入りしてしまったから、なにがおきるか分かりませんよね。

 UAEの次がオーストラリアか。さすがに開催国は手強い。地力では日本が上だと思うが、開催国だけは別格扱いしないとね。レフェリーが豪州寄りの笛を吹くのは分かっているので、それを上回るパフォーマンスが必要だということでしょう。

 最近、火曜日の昼食はペースノートのハンバーグと決まっている。そこで共同通信発信の記事を読んだ。デクラン・ヒルというジャーナリストがアギーレの巻き込まれた八百長事件について語っている。根は深いようですね。中国・韓国、東南アジア、中東からヨーロッパにかけて【サッカー賭博=八百長】に係わる巨大な裏の組織が存在するらしい。プロレス的演出ではなく、相撲的fixedであり、野球賭博とも似ている。
 さっそくヒルの著書『黒いワールドカップ』『あなたの見ている多くの試合に台本が存在する』、及びサイモン・クーパー『サッカーの敵』を注文した。中東の笛、韓国の笛、中国の笛は間違いなくある。それを覆せるのは、ゴールだけだ。だれも文句のつけようのないゴールだけが黒い組織を震えさせる。
 


↑黒人霊歌(ゴスペル)における「ヨルダン川」とは、奴隷州と自由州を隔てるミシシッピ川のことのようですね。「漕げよ、マイケル」にもでてきます。冗談じゃありません。

*「アクセント」というYoutube上の多国籍アカペラ・プロジェクトについては、とりあえず以下のサイトをご参照ください。
http://acappellavillage.blog103.fc2.com/blog-category-262.html

上方往来を描く-河原宿(7)

河原宿連続立面図_01圧縮 ←上方往来


 半年などあっというまですね。後期「居住環境実習・演習Ⅰ」(2年)の最終授業を終えました。河原宿町並みスケッチの連続立面図を社長がフォトショップで作成しなおしてくれました。ここに貼り付けておきます。もっと大きな図面の方がいいでしょうが、勝手に使われても困りますので、圧縮バージョンにしておきます。
 会長の「鳥取学Ⅱ-文化篇」(人間形成)も先週終わりましたが、わたしの「歴史遺産保全論」(3年)はまだ2回残っています。なにを話すか少し悩んでます。平田・松江か、ブータンか・・・


 プロジェクト研究2&4「初級英語で読むブータンの絵本」発表会

 そうそう、後期のプロジェクト研究2&4「初級英語で読むブータンの絵本」の発表会を以下の会場・日程でおこないます。お暇なかたはお立ち寄りください。

   日時: 2015年1月22日(木)11時~(学生は10時半集合)
   会場: 13講義室
   発表: 1年「メトの大冒険」
       2年「炎立つ湖」


河原宿連続立面図_02圧縮 ←蔵通り


【講演記録】倉吉の町家と町並み(8)

6.はるかなまち、その未来 【続々】

 (3)町家を昭和レトロ風のカフェに
 吉川さんたちは重伝建地区内の看板建築の復原的修景に取り組みました。対象は魚町の旧山市洋服店です(図49)。2階が非常に高い町家でして、建築年代は昭和10年代と推定されます。看板建築になったのは、おそらく昭和30年代後半~昭和40年代前半でしょう。オーナーの方は洋服店だった1階をカフェに変えたいとの希望を示されました。2階の箱物が非常に大きく、残念なことではありますが、町家の2階意匠は破壊されていました。1階もガラスウインドーに変更されています。
 図50が Before/After です(図50)。復原的修景には、1階・2階とも年代の近い町家の意匠を借用しました。2階の窓は、私がお気に入りの柴田履物店を使っています。1階のガラス戸は桝井陶器店と同じく、津田茶舗さんのものです(図51)。
 喫茶店の名前は学生が「Gorinto」と名付けました。あのころ摩尼寺「奥の院」遺跡で発掘調査していまして、五輪塔がいっぱい出てきたんです。五輪塔は怖いのですね。足で踏んだりこづいたりすると祟りがあるという都市伝説に学生は怯えていました。そんなこんなで、「Gorinto」という店名になり、内部はやっぱり昭和テイストにしました。ボンカレーの看板、インベーダーゲーム、昭和風のソファをおいています。加納さんという女子学生がこの内部パースを描いてくれました。
 その後、学生たちの描いた図面データ一式は設計事務所に渡しました。プロの設計士さんが実施設計して、図50のような建物が建ちました。「とっとり紅茶」の専門店としてデビューしたのですが、紅茶通からはあまり評価の高くない茶葉でして、やや心配しております。名前は「あかり舎」です。ご親族にに照明デザイナーの方がいらっしゃるようで、その作品も展示されています。
 正直いうと、修景後の外観をみますと、うちの研究室のデザインのほうがいいのではないかと思ったりしています。柴田履物店さんの近代数寄屋風の窓を使っていただきたかったんですね。


2013倉吉の町家と町並み02配布資料_04 


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【講演記録】倉吉の町家と町並み(7)

6.はるかなまち、その未来 【続】

 (2)小路の保全的再開発
 昭和30年代後半を描く「谷口ジローの風景」、森永キャラメルとか明治キャラメルなど看板に代表される「昭和レトロ」、さらにはアーケード商店街と不可分に係わる「看板建築」などの要素を集めた分布図が図40です。こうした昭和の遺産を使って街に活力を与えるにはどうしたらいいか。ということでA案・B案のプランを学生が考えました。一つはさきほど紹介した竹内君のアーケード圧縮復元=昭和レトロブロック構想(A案)です。一方、吉川さんは小路に着目しました。本町通りに直交する小路を保全的に再活性化しようと彼女は提案しています。彼女の場合は大蓮寺小路から会所小路に至る部分を「であい小路」と命名しています。その横丁に八百屋、魚屋、豆腐屋、駄菓子屋、居酒屋、雑貨屋などを集めて生活感あふれる賑わいの場所をつくるのです(図41)。東京のハーモニカ横丁など各地の小路=横丁の状況を調べた上での提案です。
 横丁とか小路とかいう空間に対して、いま世界的にどんな動きがあるかというと、ちょっと紹介しておきましょう。上海はアジアを代表する租界都市でした。フランス租界、ドイツ租界、日本租界があった。ここは外国人の住むところでして、里弄(リーロン)と呼ばれる小路がいっぱい残っています。、里弄は小路そのものも指しますが、小路を軸に構成される裏長屋ブロックのことでもあります。そういう歴史的な生活街区を国家的なプロジェクトとして保全的に再開発している。図42・43は「新天地」という里弄です。路地の美装に加えて、石庫門住宅をみごとに修景改装しています。整備前には路面は汚かったし、建物も傷んでいました。整備後は路面を舗装しなおし、建物も外観を維持しつつリニューアルされ、ブティックや土産物店が軒を連ねています。大変おしゃれな場所になっていて、外国人やら中国の上層階級らしき人たちで賑わっています。一部では古い建物を撤去して広場をつくり、スターバックスとかフランス料理店、タイ料理店などを集中させています。小路の景観を確保しながら、そういうブロックに再開発しているわけです。大したにぎわいです。
 上海では、「田字坊」という街区でも、大規模な投資によって小路の保全的再開発をしています(図44・45・46)。そもそも「田字坊」の「田」という漢字が示唆的なんですね。田という漢字の外側の「くにがまえ」は大通りなのでしょう。真ん中の「十」という文字が小路をあらわしています。その小路には、中国だけではなくて日本、台湾などの資本家が投資していろんなお店を経営している。イタリア料理、ベトナム料理、日本のお寿司屋さんなど、なんでもあります。そこに多くの外国人が押しかけてきている。こういう里弄の保全的再開発が大成功をおさめている例です。


2013倉吉の町家と町並み02配布資料_03


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貍奴

 貍奴(りど)とは猫のことです。貍の略字がおそらく「狸」で、どうやら野良猫をさすようですが、本日の問題では「家に一(匹)の老貍奴を畜(やしな)う」と出てきましたねぇ。
 有名な『塩鉄論』の「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」も、原文は「窮鼠を貍(ねこ)噛む」らしい。おいつめられた白帯やユートは猫を噛む。猫はおいらか、まぁいいさ。
 リドって語感がよいですね。次の猫の名前に使おうかな。「浅川リド」で姓名判断してみよう・・・

   大吉だわ。

 良いね。次の猫か孫か、あるいはペンネームか・・・

 もうひとつ、「居然」という言葉を学びました。現代中国語では「よくもまぁ」とか「意外にも」という意味になりますが、本日の古典の注釈では「やすらかなさま」とありました。「住まいのようである」ことは「やすらか」なんだね。

豪州アジア杯(2)

対イラク 1-0

 予想以上に実力差のある試合だった。勝敗がひっくりかえる可能性は低いとは思ったが、ザック政権末期を思い起こすとですね・・・背の高いDFがあっさり裏をとられたり、GKがボールを弾いたりして、追いつかれ追いこされる悪夢をしばしばみてきたので、零封し勝ちきることだけを祈って画面を睨んでいた。
 結構疲れました。

 公式戦での2試合連続零封勝利なんて、いつ以来のことだろうか。弾きこなすに楽な曲はなく、完封するに楽な試合なし。2試合続けての完封勝利ですから、アギーレの代表はザック晩期の代表より向上したと評価せざるをえないのではありませんかね。ただし、ザックもアジア杯のころは絶好調でしたからね。「成長」がキーワードのころ。
 アギーレは解任されることがほぼ決まったような報道がなされています。なんかもったいない気がするな。優勝した場合、どうなるのかな。起訴されたといっても、裁判しないことには結果はわからないのだから、もう少しやらせてみてもいいような気がする。

 予定にはまったくなかったんですが、水・金と蹴球酒場に足を運びましてね。ライブを視たわけじゃありません。録画をみながら雑談しました。オーストラリアに弾丸ツアーできないかって話になりました。10万円も出せばいけるんじゃないか、チケットも手に入るだろう。ただし、肝心の代表が準決勝-決勝に勝ちあがってくれないと話になんない。大空振りになる。
 そういえば、昨夜も空振りしたんだ・・・



ドブに落ちても根のある奴はいつかは蓮(はちす)の花と咲く 

【講演記録】倉吉の町家と町並み(6)

6.はるかなまち、その未来

 (1)谷口ジローの風景
 わたしたちは本町通りアーケード商店街の報告書を2007年に出しました。その年には東京芸術大学大学院保存修復研究室が倉吉の町並みの見直し調査をおこなって報告書『倉吉市打吹玉川』(2009)が刊行されます。その結果、2010年に重伝建地区が拡張されるのです。アーケードを撤去した重伝建地区に隣接する西町・西仲町・東仲町が重伝建の拡張区としてみとめられたのです(図38)。
 2010年度はわたくしどもも倉吉をフィールドに再始動します。「倉吉重要伝統的建造物群保存地区拡大にむけての実践的研究」が鳥取県環境学術研究費助成事業に採択され、報告書『はるかなまち、その未来』(2011)を刊行します。この報告書は吉川友実さんという学生の卒業論文をもとにしています。吉川さんの論文はとてもレベルが高いものでした。
 このころ倉吉市は谷口ジローの漫画作品『遥かな町へ』の影響もあって「倉吉レトロ」とか「昭和レトロ」に注目する動きが芽生えていました(図39)。わたくしどももアーケード商店街の研究を通して「昭和戦後」という時代に魅力を覚えていましたし、なにより「谷口ジローの風景」についての卒業論文を何年か前に書いた学生もいたものですから、自ずと『遥かな町へ』と町並み研究が絡みあっていったのです。
 谷口ジローのことはよくご存じだと思います。昭和22年生まれの鳥取市出身。故郷の鳥取を舞台にして描いた3部作『父の暦』『遙かな町へ』『魔法の山』がよく知られています。国際的に評価が高い漫画家ですね。『遙かな町へ』はヨーロッパのコミック3大大賞を制覇したはずです。
 『遥かな町へ』のストーリーは以下のようなものです。東京に暮らす倉吉出身の48歳のサラリーマンが気づいたら「スーパーはくと」に乗っていた。「スーパーはくと」に乗って倉吉に着いて、お寺に行くと墓石の前で立ちくらみがして、わあっと倒れてしまう。目が覚めたら中学2年生に戻っているのですね。この作品の「遙かな」という概念は空間的な遠さだけを意味しているのではありません。倉吉は東京から遙か遠い場所にある。それは時間軸を映し出す鏡でもあります。平成の現代社会を象徴するのが東京である一方で、倉吉は昭和の風景を残す故郷です。東京から倉吉に戻ることで、主人公は昭和の世界にタイムスリップしてしまうわけです。


2013倉吉の町家と町並み02配布資料_01


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【講演記録】倉吉の町家と町並み(5)

5.ふるきかぜ あたらしきかぜ 【続】

 (4)アーケードと看板建築の相関性
 いま「看板建築」という言葉を使いましたけれども、「パラペット建築」と言ったほうがいいという意見があります。わたしはその意見に反対しています。パラペットとは、防水のために屋根の際に設置される低い壁のことですから、町家の2階を覆う箱物とは違いますね。「パラペット建築」というのは学術的におかしな用語だと思うのです。わたしは京都大学にいた20代のころから先生の教えに従って「看板建築」という用語をごくふつうに使っています。少なくとも京都ではそうなんだと信じています。
 図28は本町通り商店街にあった看板建築です。軒まで全面を看板で覆われた建物(B型)が36棟、一部を看板で覆った建物(A型)が10棟でした。アーケード街からみると、これらの建物はとても近代的にみえます。コンクリート構造の建物のようですね。而して実態は、町家なんですね。町家が仮面を被っているだけ。看板建築とはそういうものです。こういう建物がアーケード内にばぁっとひろがって横の繋がりをみせる。
 図29はかなり広い範囲で看板建築の分布を調べた成果です。赤色がB型、緑色がA型です。本町通商店街のアーケードと看板建築との相関性は非常に強い。もう一箇所集中的に分布する車通り場所がありますね。これは国道沿いの商店街です。
 この分布図をみて、町並みの質が落ちていると落胆する必要はありません。看板建築は宝物です。歴史的町並み景観にとって負の遺産だと思われがちな看板建築は、町家が仮面を被っただけのものだからです。一皮めくれば町家に戻る。看板建築のおかげで、町並みは本来の歴史性を恢復できるのです。

 (5)看板建築の素顔
 看板建築の実態をもう少し具体的にお話ししましょう。いま修理が進んでいる桝井陶器店を例にとります(図30)。図30左の写真は桝井陶器店ではありません。桝井陶器店と同年代(大正末)の町家のイメージ映像です。右はアーケードが架かっているころの桝井陶器店の写真です。下は町家とアーケードの関係を立面図で示したものです。アーケードと接する部分だけ改造されていることがよく分かります。
 桝井陶器店は大正末の建物で、裏側のひろい範囲に町家が残っていますね。正面にアーケードがあって、アーケードに接するように箱物を立ち上げています。この箱物を塗装して鉄筋コンクリート風にみせているわけです。内実は、ただの板です。この箱物=看板をめくると、町家の2階の意匠があらわれます。箱物=看板があると景観的にはネガティブですが、これさえなくなれば、当初の町家2階の意匠が顔を出す。だから、「宝の山」と書いたわけです。


2013倉吉の町家と町並み01配布資料_06


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【講演記録】倉吉の町家と町並み(4)

5.ふるきかぜ あたらしきかぜ

 (1)昭和戦後の歴史遺産
 2006年に東仲町・西仲町・西町の本町通り商店街の町並み調査をしました。図25に従来の重要伝統的建造物群保存地区と調査地(本町通商店街)の位置関係を示しています。2007年、その報告書『ふるきかぜ あたらしきかぜ ―倉吉本町通りアーケード商店街の町並み分析と再生計画―』(八橋往来町並み研究会)を刊行し、同じ年の夏に本町通り商店街のアーケードが撤去されます。
 2006年は結構な騒動になっていました。アーケードを撤去すべきか否かでもめていたのです。撤去肯定派の意見はこのとおりです。東仲町・西仲町・西町が打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区に追加選定され、観光客が増えて、シャッター通りとなっていた商店街が息を吹き返す。撤去反対派はむしろ生活環境の確保を主張していました。高齢化社会のなかでアーケードは必要だという論理です。山陰は雨雪が多いですね。アーケードがある方が街を歩きやすい。ところが、アーケードは老朽化しており、構造的に危なくなっている。
 私たちは歴史遺産・歴史的環境を研究対象にしています。歴史的な遺産そのものの理解を深めることはもちろんですが、その価値を認めながら、遺産を保全活用し、現代の居住環境の向上につなげようと考え、諸々の活動をしています。ところが、アーケード商店街の調査をしていて、その「歴史的」なるものとはなんぞや、という命題につきあたるわけです。もっとも刺激的だったのは、商店街のあちこちに残る昭和の看板でした。明治チョコレートとか森永ミルクキャラメル、美空ひばりの蚊取り線香、松山容子のボンカレー、大村昆のオロナミンC・・・どれもこれも懐かしい。懐かしいだけではなく、昭和史を彩る重要な遺産になっている。平成になって20年以上が経過し、昭和戦後は確実に「歴史」としての意義を発露し始めているのです。
 図25は報告書『ふるきかぜ あたらしきかぜ』の表紙です。城間美乃さんという沖縄出身の学生が3年次に描いてくれたものです。城間さんは書道と絵の達人でして、いまは宮古島に帰って芸術活動をしています。この表紙は描くにあたって、わたしは谷口ジローを意識してほしいと頼みました。彼女はその依頼に答えつつ、みごとにオリジナリティを発揮しています。彼女なりのコンセプトがあるのです。アーケードのかかった手前が「現在」です。そのアーケードが向こう側ではなくなっている。学生服を着た若者はアーケードのない「未来」へ向かって歩いている。
 この報告書も超貴重本になりました。数えてみれば研究室にもう6冊しかありません。今はなき本町通りアーケードの写真や設計図などがたくさん掲載されています(図26)。懐かしいですよね。懐かしさを覚える一方で、この商店街がいわゆるシャッター通りになっていたのは事実です。車も人も非常に少ない。活気がなくなっていたのは事実であり、厳しい現実でした。


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豪州アジア杯(1)

対パレスチナ 4-0

 パリでの反テロ・デモにパレスチナの議長が参加した。イスラエルの首相と呉越同舟で。テロとは無関係であることをアピールしたかったんでしょうね。パレスチナは欧米と対峙したいわけではない、と。
 サッカーについては、もう少し強いチームだと思っていました。ウズベキスタンに0-1だったそうだから、弱いはずはないんだけど、日本とはまだかなり開きがあるようです。

 4-0の勝利、お見事でした。
 4点取れたことよりも、無失点におさえたことを評価したいね。ザック時代の、たとえば、ニュージーランド戦。後半だけで2点取られた試合です。代表レベルのチームなら、どんな国であろうと、日本から2点はもぎとれるという印象を強くした悪夢の親善試合でした。
 昨年のワールドカップと比べて、なにが違うのだろう。山口蛍が消えて遠藤+長谷部のコンビが完全復活した。これは大きいね。遠藤はガンバが2部落ちしてコンディション落としてた時期だっけ?? 長谷部も大怪我からのリハビリ状態だった。二人が健在だとリズムがよいね。もう一人のインサイド・ハーフ、香川のコンディションはイマイチでしたが、控えがあの出来じゃぁ、まだしばらくは使われるでしょう。
 4-3-3システムは機能してますね。メンバーはザック時代と同じで失点が減っている原因の一つがシステム変更であるのはまちがいないでしょう。アンカーの長谷部が効いている。前線では、本田がお山の大将ではなくなった。攻める際に本田を経由しなくても許される。香川も本田も本職のトップ下でやらせてもらえない。それでいい!
 無駄な球回しが減りましたね。アギーレが厳しく指導してるんでしょう。ボールを奪ってからフィニッシュまで素速くシンプルに、と。これもいい。

 アジア杯は優勝すると嬉しいが、必ずしも勝つ必要はない、と思っています。勝つとW杯で悲劇が待っている。トルシエ、ジーコ、ザックはみな本番でこけたからね。負けるべきときは負ければいい。アジアでもたいしたことがない、と自覚して精進するのです。然れば「W杯で優勝」などという大口を叩けなくなる。
 現実的な目標はベスト16~8ですからね。ベルギー、スイス、メキシコあたりの国々と<本番でも>対等に戦えるようになりたいものです(なれないことはない)。

【講演記録】倉吉の町家と町並み(3)

4.倉吉の町家と町並み【続】


 (2)古写真にみる茅葺き民家の町並み
 茅葺き民家の問題を写真記録からも検討してみましょう。平成7年(1995)年に建設省中国地方建設局倉吉工事事務所が刊行した『天神川の流れとともに』には明治~戦前の町並みが数多く掲載されています。図18は明治26年水害時の鍛冶町2丁目です。八橋往来の西のはずれの方にあたり、古写真に写る建物は中野家や赤嶋家と同じ寄棟造妻入の茅葺き民家が軒を連ねています。
 図19は明治26年の河原町です。八橋往来の西端ですね。寄棟造妻入の茅葺き民家と平入の瓦葺き町家が混在していますが、やはり茅葺きの方が多くみえます。思うに、最初から茅葺きと瓦葺きが混在していたというよりも、茅葺きの民家が次第に瓦葺きの町家に変わっていくプロセスを示しているのではないでしょうか。
 もう一つ注目してほしいのは、茅葺き民家に瓦葺きの下屋(庇)がついていることです。わたしは江戸時代の倉吉の町家は茅葺きが多かったのだろうと思っているのですが、一部の考古学者から「発掘調査で瓦が出土する」と反論されたことがあります。そりゃ出土するでしょう。しかし、瓦が出るからといって屋根全面が瓦葺きだったとは限りませんね。こういうふうに上屋は茅葺きで、下屋(庇)が瓦葺きなら、軒先から瓦が落ちてきますから、瓦が出土してもなんらおかしくないわけです。
 図20も昭和26年水害時の写真で、東岩倉町の町並みを写しています。山陰民具や小倉家住宅があるあたりです。切妻平入茅葺き民家の数は少なく、瓦葺き平家平入の町家の数が多くみえます。平入の低い屋根に覆われた町家が非常に多く、前者から後者への移行・転換を示唆する資料だと思っています。この場合、全面的な建て替えというよりも、茅葺きの屋根が瓦葺きに改装されたのでしょうね。
 図21は昭和9年水害時の堺町です。米澤のタイ焼き屋さんがある東側の方になりますね。
ほとんどすべてが高2階型の町家になっています。茅葺きはみえません。そういう昭和9年の状況から考えてみると、おそらく明治中期から昭和戦前にかけての時期に、町家は茅葺き民家型から瓦葺き2階建て型に少しずつ変わっていったのでしょう。繰り返しますが、これは明治中期以降の変化です。それ以前に瓦葺きの町家がなかったとは言いませんが、茅葺きが多かったのではないかなと推定しています。


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群青

 体調未恢復、雑炊とみそ汁の食生活を続けています。少々腹がひっこんだかもしれません。ソファに横たわるだけの人生でして、やることもないので、届いたばかりのDVD『群青』(2009)を視ました。渡名喜で撮影した映画です。長沢まさみ主演、中川陽介監督。
 島の周遊観光で同行した京都の女性が「暗い、みなくていい」とこぼしていた。アマゾンのレビューも最低レベルでして(★2.5になってますが、明らかなサクラを除外すると★1~1.5)。あえて視る必要もないと思いつつ、ひょっとしたら教研材料として使えるかもしれないという欲目もあって、中古品を取り寄せた次第。
 一言でいうと、ベタベタになった「ノールウェイの森」ってとこでしょうか。カズヤの溺死まではなんとかついていけたけれども、それから後は??の連続で、その??を裏切る劇的な終幕をむかえるわけでもない。すべてはモヤモヤのまま、フラストレーションの溜まるお話です。
 教材として期待したのは、渡名喜の家や集落の映像ですが、それが映し出される時間は長くはなくて、映像はあきらかに自然に傾斜している。参考になったのは居酒屋ですね。島に一箇所ああいう居酒屋があるといい。実際経営するとなると大変でしょうが、週末だけ開けるシステムでペイできないだろうか。



断食

 2012年2月18日の記事「兼備気」を読みかえしてゾッとしている。いまと同じ症状だからだ。
 全身ケンビキ筋か凝り固まっているばかりか、強烈な Gary Peacock に襲われているのだ。東京人形町での仕事は胃痛を耐え忍び、その後の昼食は80%を食べ残した。帰宅しただちに医院で検診をうけた。細菌性の胃腸炎だとの診断であり、少なくとも1日は何も食べないよう指示された。
 薬を飲んで3時間ばかり眠りに落ち、ようやく快方に向かったが、いまでも胃腸の不具合は癒えていない。風邪の症状はわずかにあるけれども、深刻ではない。インフルでもない、と医者はいう。

 いま縄文草創期の住居復元に参画している。後期旧石器時代が終わり、縄文時代に移行した直後の住居跡の復元である。まだ公開できる段階にはないが、一つヒントを与えるとすれば「ジビエ」かな・・・作夏の東ブータン高地で活躍したゴアテックスも役立ちそうである。


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按摩

 ポールの卒業設計がおもしろくなってきた。打吹玉川重伝建地区内の駐車場を敷地としてホテルを設計している。ただし、刺激的なタイトルが浮かばない。

   玉川袋小路の宿

なんてのはどうだろう。略して「玉袋の宿」。これは白帯のアイデアです。

 上野の玉横インに居ます。肩凝りがひどいので、フロントにマッサージを手配してもらった。こんなに凝っている人、滅多にいないと言われた。肩だけではなく、全身がガチガチに凝っている。30分間、悲鳴の連続でした。
 その後、MARCHで建築を学んでいるという大学院生と遭遇。ほんと、みえない糸に導かれて人生が回転しているように思う今日このごろです。
 明日はやいから、もう寝ます。




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【講演記録】倉吉の町家と町並み(2)

3.倉吉再興
 (1)ひとりぼっちの調査
 このように、わたしと倉吉のかかわりは奈文研在籍時の近代化遺産調査にまで遡るわけですが、その後、2001年の鳥取環境大学開学と同時に着任しまして、まもなく市役所から倉吉の町並みの調査を依頼されます。まだ「研究室」が成立していないころでして、わたし一人でちょこちょこ歩きまわり、写真を撮り調書を取り、ずいぶんたくさんの建物のデータシートができました。
 (2)重伝建地区の火災とその復興案
 その後、2003年5月13日に大きな火災が重伝建地区内で発生し、4件の町家が被害に遭いました(図6)。図7は倉都邸(造酒屋)の被災状況【上】と修復後の状況【下】を示しています。重伝建の火災に際しては、わたし以上に研究室の学生が積極的に動きました。図7は焼け残った腕木です。倉吉町家の腕木は建築年代を判定する重要な指標です。ぱっとみた印象ですが、これも明治中期か後期のものでしょう。こういう焼け残った部材を学生たちは実測し、町家の軒の矩計(かなばかり)を考えました。こういう中庭を利用するオープンなアイデアを提案してくれました(図8・9)。私の指示とはほぼ関係なく学生が自主的に動いたという点を評価していただきたいのですが、いまはこの敷地に防災センター「くら用心」が建っていますね。素人の提案が採用されるはずもないことは承知しておりますが、「くら用心」以前に学生が別の提案をしていたということです。
 学生たちの被災地再生案は『倉吉再興』(平成15年度鳥取環境大学環境デザイン学科プロジェクト研究6「倉吉重伝建地区火災町家群の復興計画」成果報告書、2004年:16p)という冊子として刊行しました。結構評判が良くてあちこちに配布したものですから、もう手に入らない印刷物になってしまいました。

4.倉吉の町家と町並み
 (1)市街地に残る茅葺き民家
 開学直後から細々と続けていた町家調査は2005年に『倉吉の町家と町並み -重伝建地区外側の景観をいかに保全するか』(2005年3月、八橋往来まちなみ研究会:24p)という報告書にまとめます。図10がその表紙です。
 表紙に映る建物は河原町の第一鶴乃湯です。わたくしどもが調査した3日後に取り壊された大正時代の銭湯です。
 その当時は重要伝統的建造物群の範囲が小さくて、これを何とか拡張したいという思惑がありました。その下準備の一つとして、鍛冶町・河原町・西岩倉町・東岩倉町で8~9棟の町家等を調査しました。当時の調査物件のうちとくに茅葺き民家に注目すべきと考えています。倉吉という歴史都市の景観を考える上で非常に重要なものだと思っているのです。
 図11は河原町の西端に建つ中野家住宅です。寄棟造妻入の農家型ですね。茅葺き屋根をトタンで覆っています。八橋往来の対面に3階建の町家が建っていて、茅葺き民家とのバランスがなんとおもしろい。図12は鍛冶町の赤嶋こうじ荒物店です。河原町よりも1キロばかり東にあって、やはり八橋往来に面しています。中野家と同じ寄棟造妻入の農家型で黒いトタンで茅葺き屋根を覆い、瓦葺きの庇をつけています。以上の2軒は、寄棟造であるという点で農民の住宅と共通しています。市街地の西端には農家型の住宅が軒を連ねる時代があったことを想像させますね。


2013倉吉の町家と町並み01配布資料_02


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【講演記録】倉吉の町家と町並み(1)

 以下は、2013年11月23日(土)に倉吉視聴覚ホール交流プラザで開催された倉吉市制60周年記念講座「知られざる倉吉建築物語」第5回講演の記録です。なお、図版は講演当日の配布資料を貼り付けておきますが、本文の番号とは一致していません。


  倉吉の町家と町並み

1.はじめに

 倉吉は鳥取を代表する歴史都市です。ご存じのように、すぐれた町並みをよく残しています。これから倉吉の町家と町並みについて、以下の順にお話しさせていただきます。

  1 近代化遺産と登録文化財
  2 倉吉再興 
  3 倉吉の町家と町並み
  4 ふるきかぜあたらしきかぜ
  5 はるかなまち、その未来
  6 広域的景観保全をめざして

 これらの見出しはほとんど研究室が刊行した報告書のタイトルをそのまま借用しております。研究室活動の足跡を紹介しつつ、今後の展望を示そうというわけです。

2.近代化遺産と登録文化財
 (1)近代化遺産となにか
 「近代化遺産」という言葉はいまでも耳なれないかもしれませんが、「幕末から戦前に至る産業・交通・土木にかかわる遺産」と定義されています。じつは私、日本で最初に近代化遺産の調査をして報告書を刊行した者なんです。1990年度から2年間、秋田県で調査をして『秋田県の近代化遺産』(秋田県文化財調査報告集 第218集、1992年、秋田県教育委員会:全212頁)を編集・公刊しました。なかなかおもしろい調査でした。廃墟になった鉱山とか鉄道の遺産とか、私たちの世代が子供のころには稼働していた身近な産業遺産がおもな対象でして、なんとも言えぬ懐かしさと親しみを覚えたものです。そのころは奈良国立文化財研究所に在籍していました。鳥取県でも1996~97年に調査をして、1998年に『鳥取県の近代化遺産』(鳥取県文化財保存協会・1998年:全226頁)を刊行しました(図1)。
 鳥取県全域で多種多様な近代化遺産の調査をしましたが、倉吉はお気に入りのスポットでした。その証拠に『鳥取県の近代化遺産』の表紙に倉吉上水道ポンプ室の写真をあしらっています。鉢屋川に沿ってたつこのポンプ室は、後に登録有形文化財になって修復され、いまも鉢屋川周辺の歴史的環境を構成する文化遺産群の核となっています。
 図2は桑田醸造醤油蔵の圧搾機です。こういう機械類も近代化遺産のカテゴリーに含まれるのです。ここはいま土産物売り場にコンバージョンされています。


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赤蕪

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 押熊のイソカワで極上の赤蕪をみつけましてね。ごらんのとおり、甘酢に漬けて一日経つと赤い染料のようになりました。塗料でいうと、この色彩は丹(Pb)ではないね。ベンガラ(Fe)か朱(Hg)だ・・・どうでもいいけど。

 こういう上物の野菜はだいたい鳥取市河原の道の駅で手にいれるんですが、このたびは押熊のスーパーいそかわでゲットしました。周辺の農家と契約してるんでしょうね。安くて新鮮な野菜を入口周辺にたくさん並べている。よく売れてます。値段はだいたい100円均一だから道の駅と変わらない。こういう野菜を供給できるスーパーが生き残っていくんじゃないかな?


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水彩画

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 昨年の暑中見舞いで「どくだみの版画」を転載させていただいた方から、年末に大きな水彩画をお送りいただきました。
 構図はもちろんのこと、淡い配色に目を奪われます。静かに何度も見返したくなる作品ですね。見ればみるほど味わいが滲んでくる。
 ウィーンのマリア・テレジア広場にある美術史博物館を訪問し、その対面にあるほぼ同形の自然史博物館に見とれている場面ですね。美術史博物館と自然史博物館は双子の建物だから、どっちなんだか、じつはよくわからないのですが・・・そういう考証はさておき、品のある絵ですよね。家内の脳動静脈奇形が閉塞したことはご存知ないはずですが、快気祝いを頂戴したような気分になり、夫婦ともども喜んでおります。


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 3日、西大寺の画材屋を訪ねて額縁を購入し、ただちに玄関に飾りました。ボロ屋の玄関が1枚の水彩画で命を吹き返しました。
 下は同じ方からいただいた年賀状です。こちらは版画。ポツダム条約の舞台となったツェツィリェンホフ宮殿を絶妙な色合いで刷り上げておられます。あまりに素晴らしいので、賀状も額に納めました。
 何かお返ししたいのですが、何を送ってもかないませんね・・・どうしようかな??


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バリカン

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 大晦日、床屋に行った。以前より床屋通いのペースが短くなっている。髭のせいだ。髭の手入れは結構大変な・・・わけではない。のばし放題だからね。山羊のような髭になると、91歳になる母親が「切れ、切れ」と煩い。而して、誕生日に髭を短く切り揃えてもらった。元日に髭をみせると、母親は「それでいい」と頷き、嫁も姑に同意した。
 床屋はバリカンを使う。そうか、バリカンを買えばいいのだ。さっそくアマゾンで注文し、16時間後に品物が届いた。0.5ミリ単位で20段階に長さを調整できる最新のバリカンである。


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河原町自治会公民館便り第68号

公民館便り68号_02圧縮01 公民館便り68号_01

 倉吉市河原町の公民館便り最新号(新年1月1日付)がpdfで送信されてきたので、ここに転載させていただきます。

 年末以降、渡名喜と河原町が頭のなかでこんがらがってます。両者似た状況にある(全国の地方にいっぱいある)。決定的なちがいは一つだけあって、その鍵を握る用語が公民館便り新年号の紙面に踊っていますね。
 この件については、卒論・修論が完成した2月末か3月初に「第3回れきまち研究会」を開催して俎板にのせようと考えています。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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