3.倉吉再興 (1)ひとりぼっちの調査
このように、わたしと倉吉のかかわりは奈文研在籍時の近代化遺産調査にまで遡るわけですが、その後、2001年の鳥取環境大学開学と同時に着任しまして、まもなく市役所から倉吉の町並みの調査を依頼されます。まだ「研究室」が成立していないころでして、わたし一人でちょこちょこ歩きまわり、写真を撮り調書を取り、ずいぶんたくさんの建物のデータシートができました。
(2)重伝建地区の火災とその復興案
その後、2003年5月13日に大きな火災が重伝建地区内で発生し、4件の町家が被害に遭いました(図6)。図7は倉都邸(造酒屋)の被災状況【上】と修復後の状況【下】を示しています。重伝建の火災に際しては、わたし以上に研究室の学生が積極的に動きました。図7は焼け残った腕木です。倉吉町家の腕木は建築年代を判定する重要な指標です。ぱっとみた印象ですが、これも明治中期か後期のものでしょう。こういう焼け残った部材を学生たちは実測し、町家の軒の矩計(かなばかり)を考えました。こういう中庭を利用するオープンなアイデアを提案してくれました(図8・9)。私の指示とはほぼ関係なく学生が自主的に動いたという点を評価していただきたいのですが、いまはこの敷地に防災センター「くら用心」が建っていますね。素人の提案が採用されるはずもないことは承知しておりますが、「くら用心」以前に学生が別の提案をしていたということです。
学生たちの被災地再生案は『倉吉再興』(平成15年度鳥取環境大学環境デザイン学科プロジェクト研究6「倉吉重伝建地区火災町家群の復興計画」成果報告書、2004年:16p)という冊子として刊行しました。結構評判が良くてあちこちに配布したものですから、もう手に入らない印刷物になってしまいました。
4.倉吉の町家と町並み (1)市街地に残る茅葺き民家
開学直後から細々と続けていた町家調査は2005年に『倉吉の町家と町並み -重伝建地区外側の景観をいかに保全するか』(2005年3月、八橋往来まちなみ研究会:24p)という報告書にまとめます。図10がその表紙です。
表紙に映る建物は河原町の第一鶴乃湯です。わたくしどもが調査した3日後に取り壊された大正時代の銭湯です。
その当時は重要伝統的建造物群の範囲が小さくて、これを何とか拡張したいという思惑がありました。その下準備の一つとして、鍛冶町・河原町・西岩倉町・東岩倉町で8~9棟の町家等を調査しました。当時の調査物件のうちとくに茅葺き民家に注目すべきと考えています。倉吉という歴史都市の景観を考える上で非常に重要なものだと思っているのです。
図11は河原町の西端に建つ中野家住宅です。寄棟造妻入の農家型ですね。茅葺き屋根をトタンで覆っています。八橋往来の対面に3階建の町家が建っていて、茅葺き民家とのバランスがなんとおもしろい。図12は鍛冶町の赤嶋こうじ荒物店です。河原町よりも1キロばかり東にあって、やはり八橋往来に面しています。中野家と同じ寄棟造妻入の農家型で黒いトタンで茅葺き屋根を覆い、瓦葺きの庇をつけています。以上の2軒は、寄棟造であるという点で農民の住宅と共通しています。市街地の西端には農家型の住宅が軒を連ねる時代があったことを想像させますね。
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