田中淡著作集書評-第2巻⑥
第二部4 中国造園史における初期的風格と江南庭園遺構
中国の庭園は明代以降、とりわけ清末~民国時期のものがほとんどであり、日本庭園との差はあまりにも大きい。ときに、日本料理と中華料理の差違に譬えられるほどの懸隔がある。しかしながら、田中さんによると、庭園史の淵源を辿るならば、中国の庭園は現状とは大きく異なり、むしろ日本の自然風景庭園に近い時期すらあったという。だから、本来は歴史学の他分野と同じように、明代以前の庭園の状況については、①文献的研究、②考古学的研究が必要であり、さらに③現存遺構の史料批判が求められる。造園史研究が内外を問わず、様式論的な整備に未熟であるのは、庭園という対象そのものの特性に起因する部分も少なくないが、敢えて中国庭園の初期的な風格(様式)の実体に迫るために有効な方法論を模索する。以上が本論の問題意識と目的である。構成は以下のとおり。
Ⅰ 庭園の原型と風景の伝統 p.416-
Ⅱ 初期の風景庭園
1 秦漢時代の初期私邸庭園 p.421-
2 六朝時代の自然風景庭園 p.425-
Ⅲ 明清時代の江南庭園遺構と初期的造園手法
1 仮山 p.430-
2 石峰 p.437-
3 苑池 p.441-
4 取景 p.443-
結論をまとめておく。中国庭園の初期的風格には早く失われて今日に伝わらない要素が少なからずある。たとえば、中島と橋を伴う苑池を中心とする配置構成、白砂鋪きの汀岸処理、土を主とする築山(仮山)、点景としての素朴な自然の庭石、遠借を主とする借景の手法、名勝の景観の模倣などである。これらのなかには、平城京宮跡庭園、平城宮東院庭園跡、毛越寺庭園(岩手)などの古代日本の遺跡に比較的よく往古の姿をとどめるものがある。中国の初期庭園と明清代の江南庭園で一つの画期となるのは、おそらく石だけの築山や太湖石などの奇石峰などが主役に躍り出る宋代ころであろう。
読後感を述べると、結局、中国庭園の通史を読まされたという印象。序論で示した、①文献的研究、②考古学的研究、③庭園遺構の史料批判、の方法のうち②③は不可能であり、①に頼るしかない。その考証は相変わらず凄まじいものだが、この長文についていくのは大変である。
いったいこの難解な通史を誰が読むのか。論文刊行後、いつものように抜き刷りをいただいた。奈文研平城宮跡発掘調査部の遺構調査室(建築史)と計測修景調査室(庭園史・造園学)のすべてのメンバーに配付された。建築史の研究者は庭園を鑑賞することを好んでもその学術性には不案内であり、庭園史・造園学の研究者は中国に関心がない。あるときほぼ同年代の庭園史研究者とこの論文について語らう機会があった。その庭園史家はあまり肯定的な感想を漏らさなかった。森蘊以来の奈文研庭園史学は測量、発掘、整備に明け暮れてきた。泥まみれの人生である。そうした現場主義を通してこそ、研究者のなかで庭園が肉体化していく。文献だけで何が分かるというのか。実体感はほとんどない。そういう意地のような気概が、その人物の発言に滲みでていた。この「実体感」の問題は田中史学を説く一つの鍵になりうると私も感じており、最後に再論したいと思っている。【第二部書評完】
中国の庭園は明代以降、とりわけ清末~民国時期のものがほとんどであり、日本庭園との差はあまりにも大きい。ときに、日本料理と中華料理の差違に譬えられるほどの懸隔がある。しかしながら、田中さんによると、庭園史の淵源を辿るならば、中国の庭園は現状とは大きく異なり、むしろ日本の自然風景庭園に近い時期すらあったという。だから、本来は歴史学の他分野と同じように、明代以前の庭園の状況については、①文献的研究、②考古学的研究が必要であり、さらに③現存遺構の史料批判が求められる。造園史研究が内外を問わず、様式論的な整備に未熟であるのは、庭園という対象そのものの特性に起因する部分も少なくないが、敢えて中国庭園の初期的な風格(様式)の実体に迫るために有効な方法論を模索する。以上が本論の問題意識と目的である。構成は以下のとおり。
Ⅰ 庭園の原型と風景の伝統 p.416-
Ⅱ 初期の風景庭園
1 秦漢時代の初期私邸庭園 p.421-
2 六朝時代の自然風景庭園 p.425-
Ⅲ 明清時代の江南庭園遺構と初期的造園手法
1 仮山 p.430-
2 石峰 p.437-
3 苑池 p.441-
4 取景 p.443-
結論をまとめておく。中国庭園の初期的風格には早く失われて今日に伝わらない要素が少なからずある。たとえば、中島と橋を伴う苑池を中心とする配置構成、白砂鋪きの汀岸処理、土を主とする築山(仮山)、点景としての素朴な自然の庭石、遠借を主とする借景の手法、名勝の景観の模倣などである。これらのなかには、平城京宮跡庭園、平城宮東院庭園跡、毛越寺庭園(岩手)などの古代日本の遺跡に比較的よく往古の姿をとどめるものがある。中国の初期庭園と明清代の江南庭園で一つの画期となるのは、おそらく石だけの築山や太湖石などの奇石峰などが主役に躍り出る宋代ころであろう。
読後感を述べると、結局、中国庭園の通史を読まされたという印象。序論で示した、①文献的研究、②考古学的研究、③庭園遺構の史料批判、の方法のうち②③は不可能であり、①に頼るしかない。その考証は相変わらず凄まじいものだが、この長文についていくのは大変である。
いったいこの難解な通史を誰が読むのか。論文刊行後、いつものように抜き刷りをいただいた。奈文研平城宮跡発掘調査部の遺構調査室(建築史)と計測修景調査室(庭園史・造園学)のすべてのメンバーに配付された。建築史の研究者は庭園を鑑賞することを好んでもその学術性には不案内であり、庭園史・造園学の研究者は中国に関心がない。あるときほぼ同年代の庭園史研究者とこの論文について語らう機会があった。その庭園史家はあまり肯定的な感想を漏らさなかった。森蘊以来の奈文研庭園史学は測量、発掘、整備に明け暮れてきた。泥まみれの人生である。そうした現場主義を通してこそ、研究者のなかで庭園が肉体化していく。文献だけで何が分かるというのか。実体感はほとんどない。そういう意地のような気概が、その人物の発言に滲みでていた。この「実体感」の問題は田中史学を説く一つの鍵になりうると私も感じており、最後に再論したいと思っている。【第二部書評完】