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田中淡著作集書評-第3巻③

第二部1.関野貞の中国建築史学
同2.村田治郎の中国建築史学
同3.劉敦楨と近代中国建築学
同4.ニーダム博士の中国建築史学
同5.アンドリュー・ボイドの『中国の建築と都市』


 3~5は田中さんが翻訳した書物の解題、2は村田治郎著作集第三巻の解説、1は東京大学総合研究博物館で開催された「関野貞アジア踏査」展の図録解説である。5の著者、アンドリュー・ボイドは建築家なので除外して、研究の方法・内容を比較すると、1関野、2村田、3劉は中国での建造物調査と文献考証を両立した最初期の研究者であるのに対して、4ニーダムは建築史の専門家ではなく、『中国の科学と文明(原題:Science and Civilization in China』をライフワークとして書き続けた科学史家である。『中国の科学と文明』のうち第10巻「土木工学」を田中さんが翻訳した。田中さんとの距離を測ると、中国建築史の先達以上に、4ニーダムに近しいと感じる。ジョセフ・ニーダムの膨大な中国科学・技術史の業績に対抗できるのは、京都大学人文科学研究所(人文研)東方部の中国科学史研究室しかなく、藪内清、山田慶児ら科学史の碩学の伝統を受け継いで建築史・土木史・技術史で大輪の花を咲かせた田中淡さんの存在意義はまことに大きい。第三巻第三部「中国生活技術史ノート」には食文化、水利史、狩猟技術に係わる論考が含まれているが、田中さんがただ建築史だけではなく、技術史・土木史などにまで守備範囲を拡げていたことがよく分かる。
 ニーダムと田中さんは文献史学者である。田中さんはもちろん1~3の先達らの業績にも目を配り、文献以外の建造物・庭園、発掘遺構等も視野におさめており、論文でもそれらを多く引用するけれども、研究のスタイルは文献考証に著しく傾斜し、現地調査の匂いが薄い。海外の現場で、地域の人々とコミュニケーションを取りながら情報を収集するのではなく、人文研の教授室で黙々とひとり漢文史料を読み耽り、それを再構成して論を組み立てることに腐心してきたのである。「漢文読めねば人でなし」と評価される人文研東方部で人間扱いされたいなら、飽きるほど、浴びるように漢文を精読し続けるしかなく、その日々の努力が多くの論文・著作として実を結んだとみてよかろう。日本建築史の分野においても、ここまで文献考証に傾斜する研究者は少ないと思われる。その点、田中淡は異常な座標にいる。この世に輪廻で再生した清朝考証学者のごとき高みにぽつんと一人だけいて、他の追随を許さない。しかし、こういう圧倒的な学風にも弱点がないわけではない。今回、著作集全三巻を読み終えた感想として、以下の3点から、敢えてこの問題に触れておきたい。
 ①情報過多: ともかく潔癖症で、一つの論考に関係しそうな文献を遺漏ないレベルをはるかに越えて大量に集め解読しているが、その結果、かえって論文の主旨が曖昧にみえる場合がある。第二部2「昆明円通寺の碑文と建築・池苑」はその代表である。南詔・大理国まで歴史を遡り、昆明周辺の文化遺産をひろく紹介しているけれども、円通寺の碑文、地方志の解読と建造物の報告があれば目的は十分達せられる。第二部1・2「『墨子』城守諸篇の築城工程(正続)」、同3「比例寸法単位『分』の成立」は全三巻を通しての白眉と呼ぶべき極上の論考だが、やはり参考史料が多すぎて、読んでいる側は頭のなかでしばしば迷い子になる。参考史料をある程度間引きして、論文全体の量を圧縮すれば、もう少し読みやすくなるだろうと思う。
 ②実体感: 第二部4「中国造園史における初期的風格と江南庭園遺構」の書評でも指摘したが、いくら多くの文献史料を解読しても、文字だけで庭園や建築の核心に至るわけではない。実体感が乏しいのである。この点では、1関野、2村田、3劉などの仕事の方に建築史研究者は親しみが湧きやすいだろう。あるいはまた、同世代の中国側のライバルと目される楊鴻勛、傅熹年、王世仁らのように、考証の結果として復元図を描き示すならば、論考の意図は理解しやすくなる。建築考古学的な復元図が必ず必要というわけではないけれども、たとえば庭園史ならば、漢代庭園や六朝庭園のイメージをパースとして示したり、土木史ならば、戦国時代の城壁と望楼をイラストで再現することで難解な考証を理解する一助となっただろう。
 ③文体: 田中淡さんは建築史界屈指の著述家だが、美文家ではないと思う。読み手に対して少し構えた固さが文体にあり、修飾-被修飾の関係も複雑で読み取りにくく感じる場合がある。これもまた、①情報過多と関与している。多くの情報を一つの文に取り込もうとするから、文の意味が掴みにくくなるのである。著作集の田中原文と、藤井・高井両氏の解題文を往復していると、後者の方がはるかに読みやすい。わたし個人は「文章はリズムだ」と思っていて、あたかも音楽(歌)のように一定のテンポで言葉を並べることを目標にしているが、田中さんはときに、長文のなかで拍子を変えてしまう。もちろん、こういう文体こそが田中淡の遺産の一つだとは思う。以下は余談だが、著作集三巻を通読して気づいたことがある。第二巻第二部7「重源と大仏再建」(『月刊文化財」七月号、一九七五年)の文章がやわらかく、読みやすいのである。この原稿は東京大学大学院の修士論文(一九七一年)を改訂したものと思われる。あるいは指導教官であった太田博太郎博士の導きによるものかもしれない。


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田中淡著作集書評第三巻①

第1部1 大陸系建築様式の出現

 美術全集『日本の古寺 第一〇巻 法隆寺と斑鳩・生駒の古寺』(一九八四年)の解説文であり、『平等院大観』所収の論文(第二部4)とともに日本建築史の研究者になじみ深いものだと思われる。普通この種の解説は老大家に委ねるものだが、田中淡さんは当時三〇代後半。異例の抜擢と言っていい。「大陸系建築様式の出現」という主題にふさわしい人材としてすでに田中さん以上の研究者を探すのは難しくなっていたのであろう。構成は以下のとおり。
 
Ⅰ 中国文化接触の黎明 p.5-
Ⅱ 大陸系新技術の出現 p.7-
Ⅲ 飛鳥時代の寺院跡 p.9-
Ⅳ 法隆寺建築と飛鳥様式 p.11-

 論考はⅣの法隆寺の系譜問題に大きく傾斜している。おそらく、太田博太郎博士還暦記念論文集の巻頭を飾った関口欣也氏の論文「朝鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統」(一九七六年)を意識し、力が入ったものではないか。私の立場から補足できるとすれば、考古発掘データの増えているⅠについてである。まず、中国中原に発祥する環壕集落(前五千年頃)が時空を経て無文土器時代(前十世紀頃)の朝鮮半島に伝播した。朝鮮半島の環壕内部には「中央土壙+二柱」平面形式の松菊里(ソングり)型住居が卓越する。この形式の住居は縄文晩期の北九州に早くも伝来し、弥生時代の西日本から東海地方まで広く拡散していく。松菊里型住居を単独に捉えても意味はなく、環壕集落・高床倉庫・水田稲作とセットになった「稲作文化複合の体系的技術」の一部であり、渡来人の文化として縄文期の社会と文化を被覆していった。すなわち、弥生時代以降(おそらく律令期まで)、朝鮮半島から新モンゴロイド系渡来人が間断なく押し寄せ、社会と文化と建築を変化させていたと推定される。
 この問題は仏教の受容とも関係する。六世紀中ごろ、百済の聖明王が釈迦仏典などを正式に欽明天皇に献じたのが日本仏教の始まりとされるが、継体朝以前の渡来人にも私的に仏教を信仰する者は少なからずいたはずである。それら渡来人の私的仏教信仰は、九州北部や中国・近畿地方等山間部の「雑密」的修行場の形成を促した可能性もある。南都の政権はこうした初期修験道的信仰を一時期禁止する。それだけ「雑密」的仏教は盛んだったと推定される。そうした山岳仏教こそ、最澄・空海らの二重出家と「純密」形成の下地になったものであり、南都の大寺だけに照準をあてるのでは古代仏教研究は十分ではないと考えている。

第1部6 日本建築に探る中国文化の古層

 古代中国建築における「楼」の問題は、著作集第2巻でも数ヶ所で論じられている。巻頭の二篇「『墨子』城守諸篇の築城工程」のインパクトが強すぎて、「楼」については軍事的高殿という説明で十分だとひとまず考えたが、この講演原稿を読んで、やはり他の「楼」についても触れないわけにはいかないと考えを改めた。
 漢から北魏に至る「楼」や「台」は神仙世界への憧れを指向した建築である。仏教が導入される以前から木造の高層楼閣は存在した。河北阜城桑荘後漢墓出土の緑釉陶楼(四重)はその種の楼の典型的な模型である。棟高五〇丈もあった前漢武帝の台榭式宮殿「神明台」に代表されるように、これらの古い高層建築は天上の神仙世界を指向している。こうした前仏教の高層建築、とりわけ木造楼閣と仏教のストゥーパが結びつくことで、神仙と極楽浄土を重層的に表現する高層の仏塔が誕生する。本来、墳丘墓の形状をしたインドのストゥーパが中国の神仙建築たる楼台建築と結びつくことで高層化をなしえたのである。北魏洛陽に林立した仏塔のなかには、「仙人掌」という宝珠+請花のような装飾品を方形屋根の頂部にのせていた。仙人掌に溜まる雨水は「甘露」と呼ばれ、それを飲めば不老長寿になると信じられていた。要するに、平等院鳳凰堂でみた鳳凰(前仏教)と無量寿(仏教)の融合と似て、神仙的楼台(前仏教)が墳丘墓状ストゥーパ(仏教)の高層化を導いた、ということである。日本国内にいても、仏塔高層化の理由は説明できないが、古代中国の諸資料がその変化のプロセスを明らかにしてくれる。


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田中淡著作集書評-第3巻①

著作集3 表紙


謹賀新年 令和七年元旦

 あけましておめでとうございます。年賀状は今年からやめましたので、ご了解ください。昨日は誕生日でした。68歳です。秋田のハタハタのナレズシをアイリッシュ・ジェイムソンのつまみにして祝いました。年末年始までナレズシかと嘆息しておりましたが、ハタハタのナレズシ、じつは半ナレで、酢の酸味が強く、ナレズシ独特の臭みをほとんど感じません。酢飯も普通のお寿司に近いものです。美味しくいただきました。
 今年もよろしくお願い申し上げます。

 さて、新年より『田中淡著作集』第3巻の書評に移ります。第3巻の主題は「中国建築と日本」であり、有難いことに、第1・2部の解題を藤井恵介さん(東大名誉教授)が担当されております。この部分では、藤井さんの解題を補う程度の書評でよいかと。まずは第3巻の書誌情報から。

  著者: 田中 淡 (編集担当:藤井恵介・高井たかね)
  書名: 田中淡著作集3 中国建築と日本
  出版年月: 2024年 2月29日
  出版社: 中央公論美術出版 A5版 576頁 8,800円(税込)

《目次》
第一部 中国建築と日本
一 大陸系建築様式の出現
二 塔のかたち――中国と日本
三 再考弥生建築————唐古遺跡絵画土器をめぐって
四 中国の庭――日本庭園への影響
五 唐代都市の住居の規模と算定基準
六 日本建築に探る中国文化の古層
七 重源と大仏再建
八 重源の造営活動
九 伊賀新大仏寺の創立と沿革
10 伊賀新大仏寺の発掘調査
11 東大寺再建と大仏様建築———鎌倉時代の新技術の源流は?
12 東大寺国宝建築解説
13 中国建築史からみた「大仏様」
14 大仏様建築————宋様の受容と変質
15 中国建築の知識は如何なる媒体を通じて日本に伝えられたか

第二部 中国建築史学の誕生と展開
一 関野貞の中国建築史学
二 村田治郎の中国建築史学
三 劉敦楨と近代中国建築学
四 ニーダム博士の中国建築史学
五 アンドリュー・ボイドの『中国の建築と都市』
六 中国建築の年代学的通史を如何に叙述するか

第三部 中国生活技術史ノート
一 古代中国画像の割烹と飲食
二 飲食について―――『遵生八牋』にみえる食品
三 古代中国の狩猟——捕獲動物の種類と狩猟方法の類型
四 古代中国の水利―――大河を治めた英雄たち
五 黄泉の暮らしと住まい――明器陶屋の世界


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田中淡著作集書評-第2巻⑥

第二部4 中国造園史における初期的風格と江南庭園遺構

 中国の庭園は明代以降、とりわけ清末~民国時期のものがほとんどであり、日本庭園との差はあまりにも大きい。ときに、日本料理と中華料理の差違に譬えられるほどの懸隔がある。しかしながら、田中さんによると、庭園史の淵源を辿るならば、中国の庭園は現状とは大きく異なり、むしろ日本の自然風景庭園に近い時期すらあったという。だから、本来は歴史学の他分野と同じように、明代以前の庭園の状況については、①文献的研究、②考古学的研究が必要であり、さらに③現存遺構の史料批判が求められる。造園史研究が内外を問わず、様式論的な整備に未熟であるのは、庭園という対象そのものの特性に起因する部分も少なくないが、敢えて中国庭園の初期的な風格(様式)の実体に迫るために有効な方法論を模索する。以上が本論の問題意識と目的である。構成は以下のとおり。

Ⅰ 庭園の原型と風景の伝統 p.416-
Ⅱ 初期の風景庭園
 1 秦漢時代の初期私邸庭園 p.421-
 2 六朝時代の自然風景庭園 p.425-
Ⅲ 明清時代の江南庭園遺構と初期的造園手法
 1 仮山 p.430-
 2 石峰 p.437-
 3 苑池 p.441-
 4 取景 p.443-

 結論をまとめておく。中国庭園の初期的風格には早く失われて今日に伝わらない要素が少なからずある。たとえば、中島と橋を伴う苑池を中心とする配置構成、白砂鋪きの汀岸処理、土を主とする築山(仮山)、点景としての素朴な自然の庭石、遠借を主とする借景の手法、名勝の景観の模倣などである。これらのなかには、平城京宮跡庭園、平城宮東院庭園跡、毛越寺庭園(岩手)などの古代日本の遺跡に比較的よく往古の姿をとどめるものがある。中国の初期庭園と明清代の江南庭園で一つの画期となるのは、おそらく石だけの築山や太湖石などの奇石峰などが主役に躍り出る宋代ころであろう。
 読後感を述べると、結局、中国庭園の通史を読まされたという印象。序論で示した、①文献的研究、②考古学的研究、③庭園遺構の史料批判、の方法のうち②③は不可能であり、①に頼るしかない。その考証は相変わらず凄まじいものだが、この長文についていくのは大変である。
 いったいこの難解な通史を誰が読むのか。論文刊行後、いつものように抜き刷りをいただいた。奈文研平城宮跡発掘調査部の遺構調査室(建築史)と計測修景調査室(庭園史・造園学)のすべてのメンバーに配付された。建築史の研究者は庭園を鑑賞することを好んでもその学術性には不案内であり、庭園史・造園学の研究者は中国に関心がない。あるときほぼ同年代の庭園史研究者とこの論文について語らう機会があった。その庭園史家はあまり肯定的な感想を漏らさなかった。森蘊以来の奈文研庭園史学は測量、発掘、整備に明け暮れてきた。泥まみれの人生である。そうした現場主義を通してこそ、研究者のなかで庭園が肉体化していく。文献だけで何が分かるというのか。実体感はほとんどない。そういう意地のような気概が、その人物の発言に滲みでていた。この「実体感」の問題は田中史学を説く一つの鍵になりうると私も感じており、最後に再論したいと思っている。【第二部書評完】


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田中淡著作集書評-第2巻⑤

第二部1 中国建築・庭園と鳳凰堂 ー天宮飛閣、神仙の苑池

 『平等院大観』 第一巻(一九八八年)に含まれる論考であり、日本建築史の研究者にとって最も馴染み深い一篇と思われる。若くして読んだときにはただただ感服したが、このたび読み返して少し違和感を覚えた。
 まず当然のようにして、平等院鳳凰堂と似た建築構成を示す敦煌莫高窟の浄土変相図を俎上にのせ、両者の差異とともに、中国で実在した浄土伽藍があるか否かを論じる。もちろん、そうした作業が無意味だとまでは言わないけれども、莫高窟の壁画を過大評価してはいけないと思う。その壮麗さからして、莫高窟は浄土変相図の起源地のような錯覚を与えるが、敦煌は西域の僻地にあったからこそ、古い文物・遺構・絵画等を残したのであって、常識的には、最初に仏画を描いたのは長安・洛陽など国家の中心地であった可能性が高いであろう。古代の日本にはその中心地からの影響はあったろうが、莫高窟からの直接的影響は考えにくい。なにより浄土変相図を論じるならば、まず仏画のもとになった経文を解読しなければならない。極端な話、仏教絵画が伝来していなくとも、経文の内容を反映した絵画を描くことはできる。たとえば、いわゆる古代の浄土三曼荼羅は『観無量寿経』もしくは『阿弥陀経』の画像化だが、最古の当麻曼荼羅(当麻寺)のみ中国製の可能性が高いものの、智光曼荼羅(元興寺)と清海曼荼羅(超昇寺)は日本人の画工の手になるものとされる。そこには莫高窟の浄土変に似た建造物群と池が描かれている。
 また、田中さんは空間構成の比較の前提として、浄土伽藍としての平等院鳳凰堂の特徴を、「とりあえず苑池の形態や尾廊を除外して、おおよそ、正殿と左右に拡がる歩廊およびそこから前方に伸びる翼廊によるコ字型平面の建築と、その前面に配される苑池によるもの」(p.344)と理解するが、これなら沢田名垂による「寝殿造」の定義となんら変わらない。さらに、「苑池の形はいずれも方形もしくはそれを基本とする整形であって、曲池をなすものはみられない」(p.348)とする点も気にかかる。後で述べるように、浄土変の場合、曲池か方池かが問題ではなく、池水に楼閣・仏像等が浮かんだ結果として、池が方形にみえるにすぎない。また、尾廊を排除して空間構成を考えるのは、鳳凰堂の本質的理解を妨げることになる。ここで経文に立ち返ろう。『仏説阿弥陀経』に言う。

  極楽国土に七宝の池あり。八功徳水そのなかに充満せり。池の底には
  もっぱら金沙をもって地に布けり。四辺の階道は、金・銀・瑠璃・玻璃を
  合成せり。上に楼閣あり。また金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・碼碯
  をもって、これを厳かに飾る。

 これを建築と苑池の関係に凝縮してみると、八功徳水の充満した七宝池の上に楼閣が建っているということである。その姿を表現したのが敦煌莫崗窟初唐205窟「阿弥陀経変」であり、日本では元興寺の智光曼荼羅である。とりわけ前者の線画をみると(蕭黙『敦煌建築研究』1981)、呆れるほど鳳凰堂とイメージが重なり合う。平等院鳳凰堂は曲池の中島にたつ建造物群だが、先年の発掘調査により護岸を洲浜にした当初の中島がはるかに小さいことが判明した。対岸からみると、鳳凰堂の下に島が隠れてしまうほどであり、結果として、鳳凰堂は池から浮いているようにみえたと想像される。まさに「七宝の池の上に楼閣あり」である。
 もう一つ重要な経典がある。『観無量寿経』に言う。

  もし至心に西方に生まれんと欲する者は、まずまさに一つの丈六の像が
  池水の上にいますを観るべし。

 ここにいう無量寿とは阿弥陀のことである。より厳密にいうと、古代インド仏教やチベット仏教では、アミダは一つではなく、アミダーユス(無量寿)とアミダーバ(無量光)に分けられる。前者を強調したのが平等院であり、後者を強調したのが平泉の無量光院である。無量寿とは「無限の命」を意味する。平等院の場合、神仙世界の不死鳥「鳳凰」が仏教的「無量寿(無限の命)」の表象となり、中堂の棟の両端に二尾の彫刻を飾り、翼楼と尾楼によって鳳凰を平面で表現した。田中説に従うならば、鳳凰堂など浄土伽藍・庭園の特徴は、敦煌莫高窟の唐代壁画に描かれた寺院図よりも古い時代に遡り、「むしろ北魏の仏寺・宮苑と一致する要素が認められ、その天宮・飛閣を多用する建築と苑池を主要な要素とする庭園の形式はむしろ中国古来の神仙思想を背景として好んで採用されたもの」(p.363)である。
 古代インドの仏教思想を復元的に理解しようとする場合、漢語訳の仏典はチベット語訳ほど評価されない。チベット語は文法・語彙などの側面でサンスクリット語等に近似し、サンスクリット原文の直訳とみなされるのに対して、漢語仏典は意訳的な部分が少なくなく、翻訳にあたって道家・道教・神仙の影響が認められるという。いまチベット・ブータン仏教の研究に手を染めている評者の認識としては、仏教はチベット・ブータンの前仏教/非仏教系の土着的信仰を殲滅するのではなく、仏教の内部にとりこんで温存しつつ再生しているのだけれども、中国においても前仏教/非仏教と仏教の関係はこれに類似するものであったろう。無量寿(仏教)を鳳凰(前仏教)で表現するのはこうした動きの一つとみなしうる。
 これと関連して、隋唐時代を中国仏教の全盛期とみる見解(p.348)には賛同できない。中国は仏教国ではない。仏教の隆盛は南北朝時代でピークを迎え、隋唐時代にはその反動として衰退を招く(円仁の還俗を思い出されたい)。隋唐時代にあって全盛をきわめたのはむしろ道教であり、道教の前提として大衆を魅了したのが不老不死の神仙思想である。ただし、平等院の苑池を神仙的自然風景庭園とみなす点には逡巡する。田中さんは、浄土庭園を広義の「寝殿造系庭園」に含めた森蘊の考えを評価し、「苑池の中に中島を置く配置形式が定型化しているのは、古代・中世の中国にあってかつては正統的であったが、後世に廃れた要素であって、それは、古代の神仙世界としての中島が、形を変えて見出したものかもしれない」(三六二頁)と述べる。
 寝殿造庭園における曲池の中島を道教的な蓬莱・瀛洲などの神仙島に見立てる解釈は頷ける。しかし、平等院庭園にそうした神仙島は存在しない。あるのは平等院鳳凰堂の敷地となる島であり、その島の存在意義は楼閣や仏像を池水上に浮かせてみせることであった。平等院の島は『阿弥陀経』や『観無量寿経』の極楽浄土を立体的に表現するための地盤であったとみなすべきであろう。平等院鳳凰堂は、もちろん中国仏教の影響を受けていないわけではないけれども、平安時代中期までに日本にもたらされていた経典や浄土変相図の知識があれば建立しえた建築だと思う。実際、中国に類例と呼ぶべき寺院建築は存在しない。否、一つだけある。雲南省昆明の円通寺だ(pp.362-363)


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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