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左京夏祭り

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 毎年、ブータン調査と重なって夏祭りに行けなかった。今年はぎりぎりセーフでした。目的はいうまでもなく、金魚掬いさ。でも、予想どおり、キャラクター掬い遊びに変わっていて、がっくりきた。金魚掬いが生きがいなんだ。
 じつは鳥取の自治会祭りでも昨年から金魚掬いをやらなくなった。生き物の扱いが難しい、という意見や、動物虐待だという意見などいろいろ聞こえてくる。金魚が病気にかかりやすい、という問題もあるようだ。
 人類は太古の昔から家畜を飼育して食用にあて、ペットを愛して弄んできた。なにをいまさら・・・


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 メインステージはハワイアン一色。おじさんたちは演奏を楽しみ、小学生はダンスに揺れる。浴衣姿の少女が多い。おそらく中学生じゃないかと思った。友達同士で遊ぶのも楽しそうだが、若いお母さんが子どもの手をひっぱってカキ氷やたこ焼きを頬張る風情は微笑ましい。
 わが夫婦はタコ煎2枚とレモン缶チューハイ一つ。総額250円なり。日が暮れるのが早くなりましたね。7時だともう暗いから。来年も行きたいものです。


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↑いかにも日本らしい風景

日馬戦-アジア大会(2)

 16強戦の放送があるというので、録画予約しておいた。夕食時からTBSとBS1のチャンネルを往来しながら、アジア大会の番組を見続けたのだが、両局とも水泳ばかりで、9時半近くになってもマレーシア戦が始まらない。そのまま、ソファで眠りに落ちた。
 目覚めると日付が変わっている。さて、サッカーの録画をみるかとチャンネルを操作するが、予約していたサッカーの試合は存在しなかった。若者が毎週録画予約しているロンハーによって排除されてしまったのである。
 後半44分にPKで1点とって何とかベスト8に勝ち上がったようです。韓国に勝ったマレーシアを倒したわけですから、それだけの評価はしてあげないといけないでしょうが、評判は芳しくない。3-6-1は相変わらず機能していない模様。
 以下のコメントを参照してください。睡眠を確保したのは正解だったのかも?


サッカーダイジェスト
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180824-00046193-sdigestw-socc

朝日新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180825-00000002-asahi-spo

第7次ブータン調査迫る

研究倫理 eラーニング

 昨日は大学に籠もり、ひたすら採点→成績入力を片付けた。この仕事は嫌いです。もっと早くからやればいいんだけど、締切近くにならないと手につかない。他の仕事でも同じだろうが、と言われれば返す言葉もありませんが、原稿などはちがうのね。締切が来たら書く。そんなん当たり前なんだけど、最近は許してくれませんぜ。物書きの本性を理解してくれまへん。
 成績入力の締切が24日なんだけど、ほかに月末締切の仕事が二つ残っている。しかし、わたしたちは今年もまたブータンに行くのです。今年は正式な科研調査ですね。参加者は久しぶりのMr.エアポート、OK牧場、バレーさんと私の4名です。予定を示しておきます。

  8月26日(日) 関空→バンコク
  8月27日(月) バンコク→パロ→プナカ
  8月28日(火) プナカで調査
  8月29日(水) プナカで調査(農家ホームスティ)
  8月30日(木) プナカ→ティンプー(会食あり)
  8月31日(金) ティンプー→パロ
  9月01日(土) パロ→バンコク
  9月02日(日) バンコク→関空

 というわけで、月末締切の仕事は25日までには片付けたい。大学にいるほうが仕事が進むだろうとも思ったのだが、台風20号が凄まじいスピードで近づいてきているので、昼過ぎに鳥取を立ち、奈良まで戻ってきました。途中、上方往来で昼を取ろうと蕎麦屋二軒をひやかしたがいずれも店を閉めていた。台風の威力におびえているわけです。結局、加西パークで柚子ラーメンを食べました。低カロリーで美味しいよ。
 帰宅しても疲れてへたれ、ただ玄関ポーチの珈琲樹が気になったので、紐で柱に縛りつけた。もちろん台風対策です。少し仮眠をとって深夜より、研究倫理 eラーニングを受講しました。月末締切の仕事の一つです。勉強になりました。研究者が抱える倫理課題は多いですね。なにもしない教員はさして問題はない。科研をとって大学院生を抱える私のような教員がいちばんトラブルの罠にかかりやすい。それでも実験系よりはマシですね。実験系は扱う金額が大きく、実験室・実験器具の危険性も孕んでいる。
 セクハラ・パワハラの問題がまったく出てこなかったな。いまいちばん世を騒がせているのに。正直、うんざりしてるからもういいんだけどね。
 台風は日本海に抜けてしまった。 バンコク行きの飛行機は飛んでくれるでしょう。

祝金足農業準優勝!

大阪桐蔭 13-2 金足農業

 日本国民の9割方が金足を応援するなか、桐蔭は非情なまでに点を取り続けた。6点差をつけてもまだ送りバントをしたり、バントするふりをして揺さぶったり。そこまでして点をとる必要はないだろうに、あれは金足の選手たちの心を折るための采配なのだろう。
 プロレスの世界なら失格だと言ったんですよ。彼我の差を瞬時に見極め、相手が強ければそれにあわせ、弱くてもそれにあわせる。勝負の結果が予めフィックスされているとはいえ、良いレスラーは相手の長所をぞんぶんに引き出して試合を盛り上げ、最後の最後に僅差で勝ちきる。それがプロレスの王道だ。34年前のPL学園対金足農業の準決勝(3-2)は王道そのものの展開だったが、PLの継承者たる桐蔭は容赦なかった。
 昨夜の段階で、金足が大敗する予感はしていた。10点以内に納まればよくて、それでも吉田投手は完投するだろうと思っていたのだが、あっさり降板してしまった。やはりクロアチアでしたね。延長3試合戦って中3日、選手は疲労困憊しているし、主審はフランス寄りの笛を吹くんだから、打つ手なし。況や、吉田をや。

 いつもの老爺心ですが、吉田投手はプロに行かないほうがいいような気がする。プロの世界はダルビッシュや大谷さんのような巨人たちが活躍する世界ですよ。大学を卒業してもプロじゃなくて、企業選手として都市対抗野球で活躍し、三十歳すぎたあたりで秋田に戻って母校の監督になるんだ。いい選手がいっぱい集まってきますよ。プロで中途半端に活躍するよりも、ずっと素晴らしい人生になるんじゃないだろうか。



カレーのココイチで悲しい新聞記事を読んだ。

祝金足農業決勝進出!

吉田と江川

 子どものころはON大好きの巨人ファンだったのに、江川事件をきっかけにアンチ巨人になった。江川は打たれればいい、と思っていた者の一人である。そんな私が盆休みにyoutubeで全盛期の江川卓に出くわした。なぜ、どうしてプロ麻雀の動画が江川に連鎖していったのか、さっぱり記憶にない。
 人を舐めたようなふてぶてしい面をして、リラックスしたフォームからストンと直球を投げてくる。スピードガンは130キロ台後半で、まれに力が入ると145キロくらいは出る。江川の球は速くないのだ。そんな球に打者のバットは空を切る。直球とカーブしかないことが分かっていても打てない。打者の手元で球がホップしている。ソフトボールの上野が投げるライズボールのように。おまけにコントロールがすこぶる良いので、完投しても100球を超えることが珍しい。速めのメトロノームのように、一定のリズムでストンストンとストライクを重ねていく。
 
 甲子園百回記念大会で決勝進出を果たした金足農業(秋田)の吉田投手が、江川に似ているという記事をみて、本当ならば大変な投手だと思い、日大三高戦に目を凝らした。正直、江川ほどではないが、たしかにボールがホップしているようにもみえる。東京の日大三高の強打線は吉田投手に押さえ込まれた。まるでクロアチアの進撃だよね。ベルギーでは決してない。アルゼンチン、ロシア、イングランドを倒して決勝に勝ち上がったクロアチアだ。フランス有利だとは思っても、心情的にはクロアチアを応援してしまう。
 大阪桐蔭がフランスである。ハイレベルの先発投手を3人、U-18日本代表の野手を5人も抱える。どう考えても決勝は桐蔭有利だが、心情的には金足農業を応援したくなる。クロアチアなんだからね。

 秋田に帰省しているタスクが喜びを爆発させていることだろう。後期が始まったら祝賀会を開かなければいけないな。決勝で負けても祝賀会を開こう。酒とクリームチーズは用意する。燻りガッコは買ってきておくれ。
 すでに甲子園史に残る快挙であり、決勝の結果は二の次だと言ってもよいだろう。何点取られても、吉田投手は9回を投げきるだろう。偉業としかいいようがない。



日越戦-アジア大会(1)

日本 0-1 ベトナム

 盆休みも終わり、鳥取に帰ってきました。盆休みになにをしたのか。金魚を量販店二軒から買って帰り、金魚水槽を再生させた。そういえば、昨日の日曜日、大和郡山市では金魚祭が開催されていた。いまごろお相伴どもが睡蓮鉢を泳いでいるかもしれない。
 夏の花苗の売れ残りも結構買い込んで、鉢植えの入れ替えをした。秋茄子の株も100円で買った。春に植えたズッキーニの生命力が凄まじく、大きな蕗のような葉をたわわにしていたのだが、それを切り取ると、地面近くからふっと~くて紫色の皮にくるまれたお化けズッキーニがあらわれた。硬くて食えねぇか、と案じたが、薄くスライスしてフライパンで炒め、アルミホイルに流し込んでからパプリカの千切りとトマトとベーコンを混ぜてマヨネーズをトッピングしてグリルで焼いたら、えらく美味かったぜ。アンチョビ・パスタにも使ったが、ただ炒めるだけではふにゃけてる。炒めて焼くと、ズッキーニは芋と茄子の中間のような歯ごたえのある食感となる。激ウマです。大満足。その後、ズッキーニの株は土から抜き取り、秋茄子と植え替えした次第です。

 深夜帰宅し、そのままBSのベトナム戦をみた。日本代表と名のつくチームでこれほど低レベルの試合をみたことは記憶にありません。それほど悲惨なサッカーだった。トラップもパスもドリブルも、あきらかにベトナムのほうが上です。露W杯のA代表が懐しい。唯一の救いは韓国がマレーシアに負けたおかげで、2位通過でも韓国には当たらないこと。韓国はよその国に任せましょう。しかし、現状でマレーシアに勝てる保証はまったくありません。点を取れる匂いがしないし、勝ち組にふさわしい顔をしたメンバーがいない。
 オーバーエイジ不在は理由にならないからね。韓国はソン・フンミンを召集して負けてるんだから。エース一人でサッカーは変わらない。言い換えるなら、U21の枠組でよいチームは必ず作れる。

 それにしても3-6-1は機能しませんね。4バックに変更した途端、日本が主導権を握り始めた。相手が欧米の強豪なら3-6-1の守備的システムも良いかもしれないが、アジア大会の場合、相手は引いているのだから、重心を前においたほうが良いのではないかな。4-3-3か4-2-3-1にして、両翼に2枚おき、サイドを支配したい。ただし、現状をみる限り、トップ下と呼ぶに足る人材はいないので、4-3-3がよいかもしれない。どうしても3バックに拘りたいなら、ベルギー型の攻撃的3-4-3をみてみたい。クライフがアヤックスやバルサで3-4-3もしくは4-3-3を採用したのは両翼2枚によってサイドを制圧することが目的だったんだから。サイドを制圧する者はゲームを支配できる。
 マレーシア戦は4-3-3か3-4-3で攻撃的にお願いします。


大内青巒序-世界に於ける仏教徒(1)

 大内青巒(おおうちせいらん 1845-1918)は幕末に仙台藩宮城郡東宮浜に生まれた。常陸国水戸で出家し(曹洞宗)、その後江戸へ出て仏教の研究を志す。維新後は西本願寺第21世宗主の侍講をつとめたが、のちに還俗して在家主義を唱えた。別号を藹々居士(あいあいこじ)という。
 明治22年(1889)、哲学館主の井上円了(1858 - 1919)らとともに天皇崇拝に重きをおく仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を組織した。大正3年(1914)から哲学館を後継した東洋大学の学長に就任する。
 前期に部分的な口語訳に取り組んだ能海寛の主著『世界に於ける仏教徒』(1893)の序を大内青巒が書いている。いきなり禅問答のような文章から始まり、さらにまた活字に万葉仮名を絡めた独特の文体で、読みにくいから後にまわそうと決めて放置していたのだが、12月1日のシンポジウムの概要も固まってきており、口語訳してみようと思うに至った。読めないくずし字については会長にご指導いただいた。原文は以下のサイトをご覧いただきたい。

 http://hazaway.com/culture/noumi-yutaka/bukkyouto.html

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見色明心-「眼に於ける仏教徒」でありたいなら色(形)を見て心を明らかにすべきです。門声悟道-「耳に於ける仏教徒」でありたいなら声を聞いて道を悟るべきです。鼻に舌に体に心に、いずれに於いても仏教徒でありたいものです。家にあっては家の仏教徒でありなさい。国にあっては国の仏教徒でありなさい。みなそれぞれの因縁があるから果報があるのです。因果をごまかしてはいけないと知るならば、国にあっては国の因縁にふさわしい願行(がんぎょう)があるべきですし、家にあっては家の因縁にふさわしい願行があるべきです。今の世は世界交通の時代になっているとかで、謂ゆる「世界に於ける仏教徒」であろうと思う者がここにおります。石見の能海氏はその(世界の)因果をあきらかにし、その願行を著して一巻の書物に書き上げ、『世界に於ける仏教徒』と名付けました。それが今の世の急務だというけれども、世間のいう「世界」はわたしのいう「世界」とは異なっています。わたしのいう「世界」は時空無限の「世界海」のみをさします。世間にいう「世界」に於ける仏教徒にとどまらず、わたしのいう「世界」に於ける仏教徒でありたいと願う者はいるでしょうか。(世界は)ここにもあり、そこにもあります。わたしのいう「世界海」は昨夜忽然と芥子(けし)の実の中に入っていってしまいました。だから世間の人はこれ(世界海)を知らないのですよ、芥子はどこにあるのか。それは鼻頭(はなさき)にあり、舌端(したはし)にあります。色(形)となってあらわれてきます。声となって聞こえてきます。眼を開け、耳を開け。

    おもしろや 散るもみぢ葉も咲く花も
      おのづからなる法のみすがた

     癸巳(明治二六年)九月   藹々居士しるす




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大極門考

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建物名称の同定と仮称

 平城宮で教材用の写真を撮っていたら、アジア系の若者と日本のマダムがバス停で会話しているのが目にとまった。若者は英語、マダムは日本語をベースとしており、話が通じているのか気になってしばし傍観していたのだが、とりあえずえ英語で会話に割って入った。近鉄奈良駅行バスの発車時間が「12時11分」であることを若者が理解していたので、マダムのボデーランゲーヂもたいしたものである。そこに、若い女性が戻ってきて、きわめて標準的な中国語で若者に話しかける。台湾のカップルであった。
 その場所は、第一次大極殿背面のバス停であり、建設中の鉄骨の素屋根が遠望できる。「あれ、何なんですか?」とマダムに問われて、答えに窮した。「大極殿の門です」とだけ答えたが、はたしてこの門は何と呼ばれていたのだろうか。


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 平城宮の場合、奈良時代の正史『続日本紀』や木簡に記された殿舎名が十分な根拠を以て一定の遺構に比定された場合、その遺構の名称として初めて採用される。「大極殿」はそうした代表例であるが、内裏の正殿にあたる建物名称は不明であるから「内裏正殿」という仮の学術用語をあてる。平安宮以降の例に倣って「紫宸殿」と呼ぶことはない。
 大極殿の南門は後者のケースにあたるので、「大極殿(院)正門」「大極殿(院)南門」「大極殿(院)閤門」などと呼ぶわけだが、「朱雀門」とか「壬生門」のような固有名称がなかったわけではないだろう。ただ、門名が記録に残っていないだけのことであって、さてこういう場合、どのようにして当時の呼称を推定すればよいのだろうか。傍証資料として有効であるのは、一に平安宮大内裏図であろうが、平城京が都市計画の模範とした唐長安城も有力な手がかりを与えてくれるだろう。盆休みで実家に帰っており、専門書は大学においたまま、ネットをぶらぶらして想いをめぐらせた。


大極殿閤門前の元日朝賀web 第二次閤門前の元日朝賀


1.長安城太極宮をモデルとしてみる場合
 長安城太極宮(西内)の場合、「朱雀門」が全域の正門であると同時に、それは皇城(役所ブロック)の正門とも考えられる。朱雀門はいうまでもなく、平城宮・平安宮の正門名称でもある。一方、西内(さいだい)の宮城正門は承天門という。承天門から嘉徳門、さらに太極門をくぐり、太極殿にいたる。承天門の左右脇の路肩に東西の朝堂を配する。この朝堂は日本流にいうならば、朝集殿(あるいは着到殿)のような待機施設であろう。東宮正門(重明門)にも朝堂が付属している。承天門から嘉徳門にかけての2ブロックが「外朝」であり、嘉徳門より内側の太極門前の左右に鼓楼と鐘楼を左右対称に配する。
 太極門より内側の中朝(太極宮)に正殿の太極殿をおく。皇城南辺から太極殿に至るまで「承天門」「嘉徳門」「太極門」と並ぶわけである。太極殿の南門が太極門と呼ばれる点はとくに注意すべきであろう。これを平城宮と対比すると、承天門(朝集殿院正門)・嘉徳門(朝堂院正門)・太極門(大極殿院正門)となるか。平城流に修正するならば、大極殿(院)正門は「大極門」と呼ばれていた可能性を否定できないであろう。
 さらに長安城西内の場合、太極殿北側の朱明門より奥が「内朝」であり、その正殿は両義殿といい、両義殿の南門を両義門と呼んだ。両義殿が内裏正殿、すなわち平安宮の紫宸殿に相当する施設である。


長安城図02太極宮02 長安城図02太極宮01


2.大明宮をモデルとしてみる場合
 太極宮は隋大興城の「皇城+宮城」ブロックとして都城造営当初から存在したわけだが、唐に王朝が移行してまもなく、地形が卑湿で不健康だという理由から東北方の高台に大明宮(北内)が築かれ、日常的な執政の場となった。第七次遣唐使の使者も大明宮で則天武后に謁見したと伝える。
 大明宮の正門は、含元殿の正面西寄りにある丹鳳門である。陰陽五行からみれば、丹鳳=朱雀とみなしてよかろう。さて、大明宮の正殿は含元殿と思われがちだが、全体の平面構成を俯瞰すると、正殿と呼ぶべきは含元殿背後の宣政殿(中朝)であり、宣政殿背後には内裏相当の紫宸殿(内朝)があって、さらにその奥に太掖池を中心とする後苑がひろがり、池の西側の高台に麟徳殿を造営していた。宣政殿の南門は宣政門、紫宸殿の南門は紫宸門と呼ばれた。紫宸門は闕形式か?
 含元殿が実質の太極殿相当施設として機能したのであろうが、それは外朝の一部であり、建築形式からみれば、故宮午門に似た門闕形式の巨大建築であることに注意すべきであろう。東西両観として、「翔鶯閣」(東)と「棲鳳閣」(西)を伴う点はとくに重要である。翔鶯閣と棲鳳閣の前方には東西の朝堂(朝集殿?)を配し、さらにその前方に鐘楼・鼓楼を建てる。
 なお、大明宮に紫宸殿が存在したとすれば、奈良時代から内裏正殿を「紫宸殿」と呼んでいた可能性もあるだろう。


長安城図03大明宮03 長安城図03大明宮02 


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研究者シーズ

浅川(写真)02


①研究テーマ
  チベット系仏教の瞑想修行と調伏の諸相に関する比較研究

②キーワード
  チベット仏教、ブータン、密教、瞑想、調伏、洞穴、賽の神(ファルス)、摩尼山

③研究内容
  2012年以来、年一度のペースでブータンに足を運び、崖寺と瞑想洞穴に係わる調査に取り組んでいる。チベット仏教の一宗派であるブータン密教において最も重要な修行は瞑想である。若い僧侶は修学の最終課程として3年以上に及ぶ瞑想を白い壁の洞穴でおこなう。悟りに至るための修行である。一方、黒い壁の洞穴もあって、こちらでは高僧が魔女・悪霊を調伏(ちょうぶく)するための瞑想を数ヶ月間継続する。ヒマラヤ山脈の周辺では古くから自然崇拝的なポン教が広範囲に浸透していた。新興勢力の仏教の側からみれば、ポン教は邪教であり、その精霊は魔女・悪霊の類と認識された。村で洪水などの厄災がおきると、その原因は魔女・悪霊にあるとみなされ、僧の瞑想によって邪神を浄化し、仏教の護法尊として再生した。こうしたプロセスを調伏という。調伏は仏教の誕生以後、あらゆる時代と地域で発生しており、日本で馴染み深い帝釈天や四天王も元はバラモン教の武勇神であった。また、修験道の本尊「蔵王権現」も本来仏教にはなかった尊格である。また、ヒマラヤ地域では魔女を退治するためファルス信仰が盛んだが、日本においても賽の神として大型の陽物を祀り、賽の河原の護法神とする習慣がある。こうした仏教と仏教以前の信仰の融合を摩尼山や三徳山などの霊山でも確認しており、アジア的視野をもって比較研究を進めている。



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2-3

 甲子園で鳥取城北が躍動した。相手は龍谷大平安高校、以前はただ平安高校と称した。甲子園の常連というか、老舗というべきか、城北戦に通算百勝を賭けていた。
 前夜、ロシアW杯の日本対ベルギー戦のビデオをみながらソファで眠りに落ちた。一月の時間をおいて試合を見直しても、日本はやはり良いパス・サッカーをしている。日本代表歴代最高の試合だったと改めて唸った。相手が超強豪のベルギーでなかったら、ベスト8に勝ち上がっていただろう。否、監督と選手がもう少し戦略・戦術に長けていたらば、フランスと並ぶ優勝候補をアプセットしていたかもしれない。
 残り25分で2-0。フランスのようにゴール前に鍵をかけることはできなかったのか。追加時間残り1分で2-2。時間稼ぎで延長に持ち込めなかったのか・・・森保ジャパンが誕生して、一気に世代交代が叫ばれており、また日本人に最もふさわしいシステムとして3-6-1を採用するのではないか、と報じられている。わたしも森保が広島時代に採用した3-6-1を支持する者の一人だが、ベルギー戦の日本を繰り返しみる限り、性急なシステムとメンバーの変更は慎むべきであろうとも思っている。
 西野の4-2-3-1はベルギーと互して戦えるシステムであり、それにふさわしいメンバーがそろっていた。レギュラー陣で引退を表明しているのは長谷部と川島?だけである。とりあえずは、この二人の穴を補充し、成功した4-2-3-1を継承してどこまでいけるかを見極めてほしい。アジアカップで勝ちきれるかどうかが試金石になるのではないか。3-6-1はそれからでも遅くない。

 城北は強豪平安を苦しめ、あと一つアウトをとれば延長に突入するところまで粘ってみせた。9回ツーアウトから四球で出塁を許し、二盗・三盗まで許して適時打によるサヨナラ負けを喫したその姿がベルギー戦に重なってみえる。
 日本代表と同じく、城北も「無邪気」に攻めた。打撃陣はそれで良かったが、投手はさてどうすべきだったのだろうか。4回までに2失点した後、5回からは尻上がりに調子をあげ、140キロ前後のストレートで平安のクリーンナップを三振にとってみせた。まれに投げる縦のスライダーはとても効果的で、平安打者のバットは空を切っていた。しかし、投手は直球を連投した。速球で討ち取ると投手は舌を出して笑ってみせた。陶酔に浸っているような笑みに不安が増していった。このままストレートで押せばいつか打たれる。球は高めに浮いてボール球も増えていた。なぜ、縦のスライダーを混ぜないのだろう。
 
 6回、投手は無死一塁の場面で送りバントを失敗した。バットを片手でもつ変則のフォームから球に当てにいくバットが不安定に上下動していた。8回、また無死一塁で投手は送りバントのサインを受ける。二球続けてバントを失敗した。変則の構えから前に突き出すバットは相変わらず不安定に揺れていた。またしてもスリーバント失敗かと思われたが、監督がサインを変更して強打させたところ、ぼてぼての内野ゴロになって、一塁走者を二塁に送るのに成功した。これが2点挽回の礎になった。
 ようやく同点においついて、あと2回。投手は速球にこだわるのをやめなかった。6つのアウトのうち5つのアウトをそのやり方で取り、あと一人・・・結果はベルギー戦と同じ2-3のさよなら負けになった。
 投手は放心状態で泣いている。鳥取勢としては抜きん出て善戦健闘したチームであり、どうしても露W杯における日本代表に重なってみえる。監督とバッテリーがもうひと工夫すれば、城北は勝てないまでも延長には持ち込めたように思う。何度もなんどもベルギー戦のカウンターが頭を掠めては消えていった。

循環の破綻

 高田渡のトークを思い出す。一日中ヒマで仕方ないとき、洗濯機や水道の蛇口を歯ブラシでピカピカになるまで磨いてしまうんだ、と。半年ばかり前の息子もそういう状態だったのだろう。親とは真反対に極端な綺麗好きで、食事後の皿洗いは瞬時に片付けるし、食洗機の扱いも見事。布巾の類は塩素水につけて殺菌してしまう。逆立ちしても真似のできない生活態度である。
 そんな綺麗好きの男が金魚水槽に目をつけた。水は濁り、アクリル面に藻が付着している。夏祭りの金魚掬いで手に入れた小さな八尾の金魚たちは体調数センチにまで成長しているが、濁り水や藻のためにみえにくくなっていた。これを、キッチンシンクを清掃する勢いで綺麗にしてくれたのだ。水は透明になり、アクリル面に付着していた藻も消えている。大きくなった金魚は外側からよく見えるようになった。家族一同喜んだ。
 しかし、二月ばかりして、大きな金魚一尾が死に、またしばらくして別の金魚が水に浮かんで死体となった。金魚の遺体は珈琲樹の鉢に埋葬した。金魚としての生涯を終えたが、その栄養分で珈琲豆に転生してもらいたいと願ったのである。
 その後も金魚は死に続け、七月には二尾まで減り、先週から最後の一尾を残すのみとなった。息子は金魚を病気だと思ったようで、最後に残った一尾の金魚をバケツに隔離している。塩素中和液に加え、殺菌液やビタミン液も買ってきて水槽やバケツに注ぎ込む。なんの効果もなかった。

 理由は分かっていた。水槽内の循環が破綻してしまったのである。わたしもずいぶん金魚やメダカを死なせてきたが、あるとき悟りを開いた。目覚めてしまったのである。魚を生存させているのは微生物なのだ、と。空気ポンプのスポンジ槽は2週間もすればどろどろのヘドロ状になる。そこはアンモニアの毒素を解体する微生物の巣になっている。金魚の糞尿を浄化して住み心地のよい水環境を維持してくれる。その一方で、スポンジ槽を放置しておくと、ポンプが詰まり、空気の出が悪くなる。
 ある朝、目覚めたのである。そうだ、微生物の巣となったスポンジ槽をチューブから切り離して水槽の底に残し、ポンプのチューブには新しいスポンジ槽をつなげばいい。この新しいスポンジ槽は周期的に清掃するが、古いスポンジ槽はいっさい触らない。水替えのときも、元の水を半分以上残して古いスポンジ槽はそのままとし、新しいカルキ抜きの水を補充する。こういうやり方では水に濁りが消えないけれども、金魚は死なない。金魚は透明な清水を望んでいるわけではないのだ。藻や微生物で濁った水が棲みやすいのである。
 息子は水槽を完全清掃するにあたって、古くなって汚れたスポンジ槽を廃棄してしまった。これが金魚連続死の原因である。2日前、ホームセンターに行って400円で小さな金魚を五尾買った。生き残った金魚とともに水槽に流しこんだ。バケツのなかで使われていたポンプのスポンジ槽はすでに汚れて深緑色になっている。微生物が培養されている証拠である。バケツの水も水槽に移した。十分ではないかもしれないが、すでに水中に微生物は拡散されているはずである。循環の準備は整った。

 さきほどまでTVで「ハウルの動く城」をやっていた。ハウルがソフィーを叱ったシーンに思わず笑う。ソフィーが良かれと思ってハウルの部屋を片付けたばかりに、魔法の一部がおかしな具合になり、髪を洗ったハウルが金髪になってしまったのである。「部屋を片付けるな」とハウルは怒って指示する。研究者も同じさ。汚い書斎が良いのである。整理されていないようで、研究者個人にとっては都合よく構造化されている部屋が細君や秘書や愛人によって片付けられるとパニックに陥ってしまう。放心状態になって、しばらく原稿が書けない。半死状態と言ってもいい。金魚の苦しさを身をもって味わうわけだ。

 

登録文化財を巡る-赤碕から倉吉へ

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二股大根とねずみの装飾

 河本家の調査を終えた私たちは、同じ赤崎にある登録文化財「塩谷定好写真記念館」の見学に行きました。塩谷定好さんは昭和の芸術写真界をけん引した革新的な写真家として知られています。記念館は塩谷定好の生家であり、彼の作品の展示とともに、当時の生活も感じとれる工夫がなされています。客間の天井に、部屋を広く見せるための演出があるのを発見したことや、縁起が良いとされる二股大根とねずみの装飾(↓左)があることなど、会長さんの解説付きで各部屋を見て回りました。また、土間の奥の方に進むと喫茶スペースがありました。土蔵もカフェになっていて、ジャズ喫茶マニアの教授は「これぐらいの面積がいいんだ」と感心しきり。レトロな感じが他とはまた違った雰囲気で、とても落ち着くところでした。(あやかめ)


ねずみと二股大根 塩谷定好写真記念館2

 
登録文化財と国交省空き家対策事業

 塩谷定好写真記念館は2015年に国の登録有形文化財になりましたが、それ以前から国交省の空き家対策事業で修復整備されており、登録以前の2014年10月に六弦倶楽部の第30回練習会で4曲披露し、登録後の2016年にも「男はつらいよ」などを熱唱しております。
 それはさておき、最近、以下の記事が大学HPにアップされました。

http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2018nendo/20180801/

 大成功をおさめているかにみえる国の「登録」制度ですが、要は文化財(所有者)の表彰制度であって、補助金がほとんどでないところに数だけは異常に増えてしまった結果、解体を余儀なくされる物件が出始めている。卑近なところでは、摩尼寺本堂など登録文化財になったものの、今後の維持修理の見通しはまったく立っていません。そうした厳しい状況のなかで、塩谷定好写真記念館は国交省の空き家対策事業とリンクすることで見事に再生活用が図られています。他の模範というべき登録のケースとして強調されるべきでしょう。(教師)

 
カフェ 0803塩谷03
↑土蔵カフェ



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河本家住宅家相図の研究(4)

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ナンドの謎

 家相図との比較で最も理解できないのが主屋のナンドである。広間側からみると、古風な高敷居があり、17世紀末の建立当初には稲わらなどを敷き詰めた寝間であったことを十分想像させる。それが今は数寄屋座敷の構えをしている。表の座敷とナンドの間には押入スペースが2列並ぶが、絵図では前側の一列のみで仏壇を中央に置き、向かって右に押入を前後2ヶ所、左に置戸棚を配する。ナンドは絵図も現状も八畳だが、いまは広間と玄関を分ける間仕切りに沿って建具が入り、その前側を押入・収納スペースとしている(↓)。このため、八畳の広さを確保しようとすると、北側の壁・間仕切りは絵図よりも半間奥側にずらす必要がある。絵図では、北側の左半一間は建具、右半一間は押入とするが、現状は左半一間は板のない床構え、右半を引違戸にして北側の新ハナレへの連絡路としている。結果、絵図にみえる五畳の間はいまは四畳を二分している。
 ナンドの様式は数寄屋色が強く、おそらく離れや主屋-客間中間の六畳(ナンド南西の間)と近い様式であり、幕末~明治の意匠のように思われる。家相図制作以後の大きな修築があったと考えるほかなかろう。家人の言によれば、家の「主人」の部屋であり、庭側に独立の門も備えている。家の子どもでさえも入ることが許されていない禁忌の部屋であったという。家相見をしたときにその部屋に入ることができなかった可能性すらなくはないので、今後検討の対象にしていくべきだと思いました。


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↑ナンド南側の押入  ↓ナンド北側の床構え
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河本家住宅家相図の研究(3)

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裏庭の方位観

 一方、土蔵の建ち並ぶ裏庭の建物配置を統制するのが【B】八卦の方位観である。【A】のように複雑ではなく、文字どおり八つの方位に区分けされている。河本家の場合、乾を起点として時計まわりに文字を並べると、以下のようになる、

  乾(ケン、いぬい): 北西 〔南〕
  坎(カン): 北 〔西〕
  艮(ゴン、うしとら): 北東 〔北西〕
  震(シン): 東 〔北東〕
  巽(ソン、たつみ): 南東 〔南西〕
  離(リ): 南 〔東〕
  坤(コン、ひつじさる): 南西 〔北〕
  兌(ダ): 西  〔南東〕

 八卦は殷周時代に遡る『易』の占卜に基づき、戦国時代の干支(陰陽五行)よりも古い世界観を表現しているが、時代に即して考えが多様になった。南宋の朱子学以降、八卦の順序は古典的な「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と新しい「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りに分かれた。前者を先天八卦、後者を後天八卦と呼び分ける。 河本家の方位は後天八卦に従っている。先天八卦の方位は上にカッコ付の小文字で示した。
 24方位に細分したイロリまわりの方位観が建物内部の間取り、戸口(開口部)・カマド等の位置を規定するのに対して、裏庭の8方位は土蔵・雑舎等の配置に影響している。絵図をぱっとみて分かるのは、いずれも廃墟となっているが、敷地背面境界の水車小屋が坎(北)、裏門が艮(北東)に位置することである。
 下は、裏庭の八卦の中心と推定される場所である。絵図では石灯籠を描くが、家人によれば、かつて祠の置かれた神聖なところであるという。 【続】


0803河本01家相図04干支02八卦02 20180803河本家 8

【関係サイト】
2018年度卒業論文概要(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2012.html
2018卒業論文中間報告(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1919.html
河本家住宅家相図の研究
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1864.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1865.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1868.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1867.html
(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1998.html
琴浦町倉長家の家相図調査
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1957.html
フォトスキャンを活用した文化遺産の分析(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2011.html

河本家住宅家相図の研究(2)

0803河本01家相図04干支02八卦02up


イロリまわりの方位観

 河本家の絵図が「家相図」たる所以は、【A】干支(+八卦)と【B】八卦の二つの方位観が図中に示されていることにある。【A】の基点は広間のイロリと大黒柱の中間あたりに確認できる。直径2畳ばかりの範囲に正八角形を描き、全部で24の文字を記す。その文字は干支と八卦を構成する漢字である。
 さて、干支(えと/カンシ)とは、十干と十二支を組み合わせた数詞であり、10と12の最小公倍数が60になることから、60年周期で年季を勘定するのに用いられる。この家相図では十干と十二支の漢字を単独で用いている。さらに八卦(はっけ)も併用する。
  
  十干: 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
  十二支: 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
  八卦: 乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤

 十干、十二支、八卦の文字をすべて加えると30文字になり、24文字を6文字超えてしまう。実際に家相図の文字の並びを八角形の北辺から時計まわりに確認すると、

  【北】・子・  【北東】丑・・寅  【東】・卯・  【南東】辰・・巳   
  【南】・午・  【南西】未・・申  【西】・酉・  【北西】戌・・亥

となっていて、十二支のみすべての文字を使用しているが、十干は八文字、八卦は四文字のみ用いる。各文字は以下のように細かい方位に対応しているものと思われる。

 (ジン、みずのえ):北北西
 子(シ、ね): 北
 (キ、みずのと): 北北東
 丑(チュウ、うし): 北東北
 (ゴン、うしとら): 北東
 寅(イン、とら): 北東東
 (コウ、きのえ): 東北東
 卯(ボウ、う): 東 
 (イツ/オツ、きのと): 東南東
 辰(シン、たつ):南東東
 (ソン、たつみ): 南東
 巳(シ、み): 南東南
 (ヘイ、ひのえ): 南南東
 午(ゴ、うま): 南
 (テイ、ひのと):  南南西 
 未(ビ、ひつじ): 南西南
 (コン、ひつじさる): 南西
 申(シン、さる): 南西西
 (コウ、かのえ): 西南西
 酉(ユウ、とり): 西
 (シン、かのと) : 西北西
 戌(ジュツ、 いぬ): 北西西
 (ケン 、いぬい): 北西
 亥(ガイ、い): 北西北

 それぞれの文字はたんに方位を示すだけでなく、運気の成長/衰退の序列的な意味を担っている。その方位の意味が家相の原点になっているわけだが、河本家の場合、広間のイロリ-大黒柱周辺を軸として間取りの吉凶を占ったということであろう。下の写真は方位観の基点となった場所である。


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【関係サイト】
2018年度卒業論文概要(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2012.html
2018卒業論文中間報告(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1919.html
河本家住宅家相図の研究
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1864.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1865.html
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(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1867.html
(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1998.html
琴浦町倉長家の家相図調査
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1957.html
フォトスキャンを活用した文化遺産の分析(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2011.html

河本家住宅家相図の研究(1)

河本家 家相図 スキャン_01web 0803河本01家相図01縦sam


河本家家相図について

 東伯郡琴浦町箆津の河本家住宅は、1期生のタクヲが卒業論文で取り組み、その成果を編集して報告書を刊行した。その結果、敷地内のほぼすべての建造物が重要文化財に指定されたのだが、報告書刊行から指定に至る2006年ころに大きな家相図が発見された。これについては、坂本啓司さん(当時県博)が短い紹介文を残している。その書類から基本情報を転載しておこう。
  (1)材質 紙本彩色
  (2)法量 227.5×142.5㎝
  (3)年代 嘉永七年(1854)年9月 *袋表紙の記載
 発見後、十年以上が経過してしまったが、重要な資料であることは承知しつつ、一般的な指図ではなく、「家相図」ということで分析を躊躇していたところもある。しかしながら、今春より4年生のうち1名の卒業研究として取り組んでもらおうと考えはじめ、5月下旬に土間に展示されている家相図の複写を拝借し、複写の複写をさせていただいた。ところが、原図があまりにも大きいものであり、複写図は全体をカバーしていないことが判明した。また、就活のため担当学生が本格的に分析する時間も限られていたので、オープンキャンパス前に有志で原図を調査することになった。以下は卒論担当の小次郎さんの感想文を生かしながら、8月3日の調査成果をまとめたものである。(教師)


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卒論調査へ

 8月4日(金)、相変わらず日差しが強く暑い一日でした。私(小次郎)の卒論のテーマである河本家住宅の家相図の調査をおこないました。メンバーは先生、会長さん、院生、4年二人、3年一人の計6名です。私は河本家を訪れるのは今回が初めてです。門をくぐるとそこは別世界。茅葺の屋根にしばらく目を奪われました。
 元気で明るい奥様に挨拶をした後、畳二畳ほどもある実物の家相図の調査を始めました。想像していたより色が鮮やかで印象的でした。前日まで会長さんと先生は、この絵図の全体をどう撮影すべきか考えをめぐらされていたようで、研究室から数十ものクリップを持ち出していたのですが、結論から申し上げますと、全景の撮影は断念しました。部分撮影を重ねあわせフォトスキャンを活用し合成写真として仕上げるしかない、と判断したのです。真上から撮れないところは4方向から写し重ねることでなんとかオルソ写真を作りたいのですが、成功するかどうかは分かりません。


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 これまでフォトスキャンと言えば、何度もマックにバグを発生させ学生を苦しめてきましたが、前週末、フォトスキャン専用のハイスペック・パソコンが保存修復スタジオに搬入されたばかりです。今年はおもに摩尼山の空撮による地形・植生合成CG制作に使う予定を組んでいましたが、家相図のオルソ写真作成にも貢献してくれることを期待しています。現場での絵図撮影は時間がかかりました。下(↓)にみるように、自然光の濃度が室内は微妙にグラデーションしているので、LEDで2方向から照らしながら光をできるだけ均一化しつつ撮影したのです。
 午前中はこの作業に集中しました。途中、琴浦町教委のNさんが来られ、基礎資料をご提供いただきました。いままさに発掘現場に出てらっしゃるそうで、こんがりと焼けた肌から過酷な現場の様子が想像できました。ご本人が「タイ人か」と言われるとおっしゃると、先生が「タイ人はそんなに黒くないよ、パプア人レベルだ」と返されたぐらいよく焼けておられました。


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リバウンド

 健康診断はさんざんでした。昨年とはま反対で、体重5キロ増、ウェスト7センチ増。ところが血圧は50も下がっていた。つまり昨年は体重5キロ減、ウェスト8センチ減に対して、血圧が50以上あがっていて驚き、家に残っっている血圧降下剤を漁りまくって飲み、翌週ホームドクターに駆け込んだ。
 ワールドカップの影響が大きいのね。午前3時キックオフ、試合終了5時ですから。不規則人生の極致を一ヶ月続け、その余波でジムに行かなくなった。でも、昨夜は行ったんだ。すると、見たことのない風景が展開しており、目の保養に なった。嗚呼やっぱり退会なんかしてはいけない。とも思ったが、まもなく夏休みですからね。ほんと会費がもったいない。
 体重激増の事実を知り、退会にするか、休会にするか、悩んでおります。ちなみに問診してくれた女医さんによると、奈良では散歩、鳥取では自転車を習慣にすれば、ボクシングのような激しいスポーツをする必要はないとのことです。
 問題は習慣化できるか、どうか、だ。
 


↑脱退直前?のラリー・カールトン   フォープレイって助べな名前ね?
↓故チャック・ローブ

https://www.youtube.com/watch?v=ydVHC2zdvn8

プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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