建物名称の同定と仮称 平城宮で教材用の写真を撮っていたら、アジア系の若者と日本のマダムがバス停で会話しているのが目にとまった。若者は英語、マダムは日本語をベースとしており、話が通じているのか気になってしばし傍観していたのだが、とりあえずえ英語で会話に割って入った。近鉄奈良駅行バスの発車時間が「12時11分」であることを若者が理解していたので、マダムのボデーランゲーヂもたいしたものである。そこに、若い女性が戻ってきて、きわめて標準的な中国語で若者に話しかける。台湾のカップルであった。
その場所は、第一次大極殿背面のバス停であり、建設中の鉄骨の素屋根が遠望できる。「あれ、何なんですか?」とマダムに問われて、答えに窮した。「大極殿の門です」とだけ答えたが、はたしてこの門は何と呼ばれていたのだろうか。
平城宮の場合、奈良時代の正史『続日本紀』や木簡に記された殿舎名が十分な根拠を以て一定の遺構に比定された場合、その遺構の名称として初めて採用される。「大極殿」はそうした代表例であるが、内裏の正殿にあたる建物名称は不明であるから「内裏正殿」という仮の学術用語をあてる。平安宮以降の例に倣って「紫宸殿」と呼ぶことはない。
大極殿の南門は後者のケースにあたるので、「大極殿(院)正門」「大極殿(院)南門」「大極殿(院)閤門」などと呼ぶわけだが、「朱雀門」とか「壬生門」のような固有名称がなかったわけではないだろう。ただ、門名が記録に残っていないだけのことであって、さてこういう場合、どのようにして当時の呼称を推定すればよいのだろうか。傍証資料として有効であるのは、一に平安宮大内裏図であろうが、平城京が都市計画の模範とした唐長安城も有力な手がかりを与えてくれるだろう。盆休みで実家に帰っており、専門書は大学においたまま、ネットをぶらぶらして想いをめぐらせた。
第二次閤門前の元日朝賀1.
長安城太極宮をモデルとしてみる場合 長安城太極宮(西内)の場合、「朱雀門」が全域の正門であると同時に、それは皇城(役所ブロック)の正門とも考えられる。朱雀門はいうまでもなく、平城宮・平安宮の正門名称でもある。一方、西内(さいだい)の宮城正門は承天門という。承天門から嘉徳門、さらに太極門をくぐり、太極殿にいたる。承天門の左右脇の路肩に東西の朝堂を配する。この朝堂は日本流にいうならば、朝集殿(あるいは着到殿)のような待機施設であろう。東宮正門(重明門)にも朝堂が付属している。承天門から嘉徳門にかけての2ブロックが「外朝」であり、嘉徳門より内側の太極門前の左右に鼓楼と鐘楼を左右対称に配する。
太極門より内側の中朝(太極宮)に正殿の太極殿をおく。皇城南辺から太極殿に至るまで「承天門」「嘉徳門」「太極門」と並ぶわけである。太極殿の南門が太極門と呼ばれる点はとくに注意すべきであろう。これを平城宮と対比すると、承天門(朝集殿院正門)・嘉徳門(朝堂院正門)・太極門(大極殿院正門)となるか。平城流に修正するならば、大極殿(院)正門は「大極門」と呼ばれていた可能性を否定できないであろう。
さらに長安城西内の場合、太極殿北側の朱明門より奥が「内朝」であり、その正殿は両義殿といい、両義殿の南門を両義門と呼んだ。両義殿が内裏正殿、すなわち平安宮の紫宸殿に相当する施設である。
2.
大明宮をモデルとしてみる場合 太極宮は隋大興城の「皇城+宮城」ブロックとして都城造営当初から存在したわけだが、唐に王朝が移行してまもなく、地形が卑湿で不健康だという理由から東北方の高台に大明宮(北内)が築かれ、日常的な執政の場となった。第七次遣唐使の使者も大明宮で則天武后に謁見したと伝える。
大明宮の正門は、含元殿の正面西寄りにある丹鳳門である。陰陽五行からみれば、丹鳳=朱雀とみなしてよかろう。さて、大明宮の正殿は含元殿と思われがちだが、全体の平面構成を俯瞰すると、正殿と呼ぶべきは含元殿背後の宣政殿(中朝)であり、宣政殿背後には内裏相当の紫宸殿(内朝)があって、さらにその奥に太掖池を中心とする後苑がひろがり、池の西側の高台に麟徳殿を造営していた。宣政殿の南門は宣政門、紫宸殿の南門は紫宸門と呼ばれた。紫宸門は闕形式か?
含元殿が実質の太極殿相当施設として機能したのであろうが、それは外朝の一部であり、建築形式からみれば、故宮午門に似た門闕形式の巨大建築であることに注意すべきであろう。東西両観として、「翔鶯閣」(東)と「棲鳳閣」(西)を伴う点はとくに重要である。翔鶯閣と棲鳳閣の前方には東西の朝堂(朝集殿?)を配し、さらにその前方に鐘楼・鼓楼を建てる。
なお、大明宮に紫宸殿が存在したとすれば、奈良時代から内裏正殿を「紫宸殿」と呼んでいた可能性もあるだろう。
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