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ウシガエルの褌-夏の和歌二首

 残暑お見舞い申し上げます。
 オンライン講義も残りわずかになってきました。深夜の友はウシガエルです。夜になると、ぼぉ~ぼぉ~という鳴き声がうるさいぐらい聞こえてきます。最初は、本物の牛が鳴いているのかと思うほどでしたが、我らがアパートと隣のアパートの境界に結構幅広で深めの溝を発見。水草が繁茂しており、カエルの住処としては最高の環境なのだろうと納得した次第です(カエルの姿はみてません)。ウシガエルというのは、外来種の食用蟇のようですね。留学時代、福建・広東あたりでさんざん食べましたよ。

 ウシガエルのぼぉ~ぼぉ~という鳴き声は、窓を振動させながら室内に響きわたり、オンライン講義用のパワポにまでかすかに入り込んできており、なんとも長閑な講義資料となっております。私は、柄にもなく、それを歌にした。

 ウシガエル
    ぼぉぼぉと鳴く
 夜の窓
    求愛の声(ね)も
 ほどほどに
   
 ちょうどそのとき、最終講義のスペシャル・バージョンとして「寅さんの風景」を録音しつつあったのですが、第44作「寅次郎の告白」(鳥取篇1991)のDVDジャケットに、「いいか、恋というものはな、ほどほどに愛するということを覚えなきゃいけない」と書いてある。そうしなければ、恋は長続きしない、と寅さんは満男に諭す。しかし、若い二人にはそれができない・・・まぁ、これの返しの歌を詠んだわけです。


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後記-時は消え去りて

 昭和49年(1979)刊行の『鳥取県の民家』に掲載された指定候補39件の追跡調査に昨年来取り組み、いまようやく一応の目途が立ったので報告書としてまとめることにした。一つの背景としてコロナ禍がある。例年数回国外に脱出している身として、この感染症の絶望的状況を打開する光明がどうにもみえてこない。それならば、執筆・編集活動に邁進するしかない、ということである。こういう決断をして一年を過ごしつつある研究者は少なくないだろう。とりわけ海外の安定したフィールドに頼っている者は執筆・編集以外なにもすることのない一年になりそうだと我ながら思う。
 幸い本学特別研究費に申請した「文化遺産報告書の追跡調査からみた過疎地域の未来像-民家・近代化遺産・町並みの持続可能/不可能性をめぐって」が採択されたことで、若干の展望は開けつつある。個人的にはいま一度全国緊急事態宣言を発してもらいたいと願っているが、その結果として、国内の過疎地を訪問することさえ叶わなくなるとしたら、研究はお手上げである。万歳三唱し、年度末には研究費を返上するしかない。

 さて、本文で冗長に語り続けてきた内容は以下の4点に要約される。
 1)鳥取県の民家で「指定」解除4件、秋田の近代化遺産で「登録」抹消10件以上を確認したように、文化財保護法の「指定」や「登録」の制度はすでに破綻の兆しをみせている。過疎の嵐は地域社会をカスタマイズせんばかりに勢いを増しており、とりわけ財政的支援基盤のない「登録」の制度は今後さらなるダメージを受け、制度の改革を強いられるかもしれない。
 2)こうした社会的状況を鑑みるならば、新規の「指定」「登録」には慎重に臨まなければならない。指定・登録によって歴史的建造物の持続可能性が保証されるとは限らないからだ。むしろ、指定・登録済みの建造物の保全に全力を尽くすというスタンスに徹すべき時代に移行してきている。
 3)この場合、未指定・未登録文化財は消滅への道を歩むことになるが、後継者不在・アメニティ(住み心地の良さ)欠如・財政難にあらがってまで保全する意味はなく、むしろ安寧な「終活」のあり方を具体的に構想しなければならない。すでに一部の民間会社が実践しているように、民家を丁寧に解体して、古材・建具・家具等を骨董品店や工務店などに売却し、撤去費の軽減を図る。リサイクルに供しつつ、撤去の負担を抑えようというアイデアである。こうした取り組みを洗練させ、行政も見て見ぬふりをするだけでなく、側面からしっかり支援できる体制を整える必要がある。この場合、古材バンクは不要であり、解体と同時に古材・建具類を業者に引き渡すミニマリスト(物をもたないことを心情とする人々)的システムが最善と思われる。
 4)無住化した古民家(空き家)を移住・定住と関係づける発想が常識のようにしてはびこってきたが、そうした思考は幻想であり、「リフォームブームも今は昔のこと」だと専門家は指摘する。安定感のある移住・定住を期待するならば、むしろマンションや新築家屋に住んでもらうほうが効果的である。そのことに早く気づかなければならない。リフォームに十分な補助金を拠出できない現状にあっては、老朽化した木造建築はアメニティの低い住まいでしかなく、早期の転居を導きかねない。


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20171028河原町文化祭40周年02 図73 河原町文化祭40周年記念講演「寅さんの風景」(2017年10月)


5-6 おかえり寅さん

 2019年末から今年(2020)にかけて、映画界は「男はつらいよ」50周年第50作で湧きかえるはずだった。公開初日は年末27日。その何ヶ月も前から、テレビやネットで第50作「おかえり寅さん」の広報に接し、期待に胸は膨らむばかり。2020年は新作の話題一色になると思っていた。しかし、新型コロナの嵐は寅さんまでも吹き飛ばし、その勢いは今でも已む気配をみせていない。唯一の救いはBSテレ東の「土曜は寅さん!4Kでらっくす『男はつらいよ』」シリーズの放映である。4Kデジタル修復された鮮やかな画像の寅さんを性懲りもなくまた全巻録画している。修復された画像だけでなく、くるまや(旧とらや)の店員、三平ちゃん(北林雅康)をMCとする冒頭のイントロ(寅さん裏話)はマニア必見の情報群である。さて、「お帰り寅さん」について語る前に、どうしても触れておきたい作品がある。


20171028河原町文化祭40周年 図74 同左客席最後列


(1)虹をつかむ男
 「男はつらいよ」シリーズは昨年(2019)の今ごろまで全49作と言われていたが、第49作「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」(1997)は第25作のリメイク版であり、「男はつらいよ」を一人の俳優が演じた世界最長の作品と認定するギネスも、公式記録としては全48作としている。
 平成8年(1996)、四国を舞台とする第49作「寅次郎花へんろ」が構想されつつあった。しかし同年8月4日、主役の渥美清さんが亡くなったことで制作は中止を余儀なくされ、シリーズそのものも打ち切りとなる。「花へんろ」は、マドンナに田中裕子(2回目)、特別ゲストに西田敏行を迎えることが決まっていたが、撮影はまだ始まっていなかった。「虹をつかむ男」は西田敏行と田中裕子を主演に格上げし、「男はつらいよ」常連キャスト総出演で渥美清追悼のために制作された正月映画である。


図73 脇町劇場(オデオン座) 図75 脇町劇場(オデオン座)

図76 重伝建「脇町南町」(徳島県美馬市・1988選定) 図76 重伝建「脇町南町」(徳島県美馬市・1988選定)


 舞台は徳島県脇町のオデオン座。「うだつの町並み」で知られる美馬市の重伝建「脇町南町」(1988選定)とは川を挟んで対岸にある。オデオン座の正式な旧名称は「脇町劇場」で、創業は昭和9年(1934)。戦後、歌謡ショー等で多くの芸能人が公演し、地域に欠かせない娯楽の殿堂となっていたが、平成7年(1995)に老朽化などの理由により閉館された。映画「虹をつかむ男」を制作した翌年にはすでに使える状態になく、映画館としての内部は別の建物で撮影したという。
 「虹をつかむ男」の好評を受けて、取り壊し予定であったオデオン座は市の文化財に指定され、修復後、脇町劇場(オデオン座)として活用されている。「うだつの町並み」と対照的な昭和戦前の擬洋風建築(近代化遺産)として、いまでは観光の目玉の一つになっている
 「虹をつかむ男」の主題は映画である。田舎町の古ぼけた映画館(オデオン座)で世界中の名作をみせたいカッチャン(西田)の奮闘と叶わぬ恋を描いた人情喜劇。父親と喧嘩して家出した亮(吉岡秀隆)は、安い賃金に不満をこぼしながらも、カッチャンをとりまく人間模様と映画の素晴らしさに目覚め、オデオン座でのアルバイトを楽しむようになっていく。映画館では、「雨に唄えば」「禁じられた遊び」「東京物語」「野菊の如き君なりき」などの名作が次々上演されるが、経営は火の車・・・カッチャンはマドンナ八重子にも失恋し、ついに店じまいを決心するが、映画仲間に助けられて危機を乗り切る。


20170325法連寺(ブータン山寺)01 図77 法連寺講演「男はつらいよ-ブータン山寺放浪記」(2017年3月)


 新装開店とともに亮を実家に帰すことになり、最後に二人でみることになった送別の映画が・・・「男はつらいよ」第一作。二人はこの作品を鑑賞しながら、大声で笑い続けた。しかし終盤になると、その笑い声が聞こえなくなる。カッチャンは涙にむせんでいた。探偵ナイトスクープ前局長のあの演技は、これが源流かと思うほどの泣きっぷりである。
 翌日、亮を空港まで送った帰途、かっちゃんは一人寂しく車を運転しながら、「俺がいたんじゃお嫁にゃ行けぬ・・・」と鼻唄を歌う。その車が走り去った直後、衝撃のシーンがあらわれる。突然、寅さんが鄙びたバス停から出てきてぐるっと一まわり。ほんの10秒余りのCG映像に心臓がばくばく鳴って、動悸がとまらない。涙腺は緩む。これが、寅さん没年に制作された映画であり、事実上の第49作だと私は思っている(ギネスは認定しないだろう)。
 こうした過去の作品の取り込みやCGの活用は、翌年公開された「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」でも散見される。そうしたコラージュ手法を究極のレベルまで進化させたのが第50作「おかえり寅さん」なのだと思う。


20170325法連寺(ブータン山寺)02 図78 同左客席(法連寺庫裏)


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図66《再現》鍛冶町1丁目「ひろせや」の前を歩む老婆 図60《再現》鍛冶町1丁目「ひろせや」の前を歩む老婆


5-5 倉吉発見

(1)寅さんは文化庁に先行する
 歴史都市としての倉吉を発見したのは山田洋次監督だと私は思っている。倉吉は、打吹玉川重要伝統的建造物群保全地区(重伝建)があるから全国区の町に少しばかり近づいた。コロナの直前まではインバウンドの旅客でも賑わっていた。しかし、映画との前後関係をよく理解しなければならない。「寅次郎の告白」上映は平成3年(1991)、打吹玉川地区の重伝建選定が同10年(1998)であり、7年遅れて(部分的ながら)町並み保全が成就したことになる。若桜鉄道安部駅に至っては、国登録有形文化財になったのが同20年(2008)であり、映画から17年を経ている。こうした年代関係から、私は複数の授業において「寅さんは文化庁に先行する」と講じている。さほどに映画「男はつらいよ」シリーズでの映像化は広報的価値が高いものだと感謝しなければならない。映画館の上映では1本につき200万人以上の客を動員し、その後の反復的TV再放送やビデオの視聴者は無限大のひろがりをみせる。寅マニアはおそるべき数に及び、全国のロケ地を訪問したいという欲求にかられている。


図60 倉吉陣屋町エリアと重伝建地区 図61 倉吉陣屋町エリアと重伝建地区


 その点、打吹玉川重伝建地区と若桜鉄道安部駅は映画撮影時の景観と現状にほとんど変わりがなく、マニアにとって極上の訪問地だと言える。しかし、倉吉の場合、寅さんを慕い懐かしむ熱気は河原宿や安部駅ほどではないという印象をがある。河原宿で学生たちがヒアリングすると、60代以上の町民の多くは熱く長くロケの想い出を語ってくださる。ヒアリング用紙から溢れんばかりの情報がもたらされ、それでも話が足りなくて、翌日も聞き書きに出かけたことさえある。写真やパンフ、サインなどの資料の提供を受けたことも一度や二度ではない。一方、倉吉人はどこか冷めている。「寅次郎の告白」ロケは印象深い出来事ではあったが、すでに記憶の彼方に飛んでいってしまっており、突出した経験として身体化しているわけではないと感じてしまうのである。風景と係わる場面の差かもしれない。改めて『寅次郎の告白』における突出した風景場面をあげるとすれば、以下になるであろう(登場順)。

  一、八東川堰堤前における満男と泉の会話の場面
  二、「出会橋前」バス停での寅と女将の別れの場面
  三、鳥取を離れる若桜鉄道安部駅の場面

 この3つの場面は「男はつらいよ」全50作を通しても抜きんでたシーンと言える。しかし、倉吉の風景は含まれていない。倉吉の麗しい町並みはスクリーンに何度も映し出されるが、視聴者に感銘を与えるほどの「場面」ではなかった、と言えば言い過ぎであろうか。あえて取りあげるとすれば、駄菓子屋のおばあちゃん(杉山とく子)が深夜の自宅で「貝殻節」の弾きかたりをするシーンが印象深いけれども、いくぶん演出過多の匂いもあり、おまけにあのシーンはロケではない。大船撮影所大道具セットでの芝居だと思われる。


図61 打吹玉川白壁土蔵群 図62 打吹玉川白壁土蔵群


 さて、倉吉における泉の行動も以下のようなパッチワークになっている。

  〈1〉打吹公園(城跡)→〈2〉ひろせや(鍜冶町1丁目・図63)→〈3〉玉川土蔵群→
  〈4〉河原町西地蔵(鉢屋川対面)→〈5〉駄菓子屋(玉川対面)→
  〈6〉角地の八百屋(鍜冶町2丁目)→〈7〉玉川で子どもたちの魚取り→
  〈8〉玉川の三叉路で寅さんと再会→〈9〉駄菓子屋に宿泊(三味線「貝殻節」)

 こうして登場順に並べてみると、やはり風景地相互の地理的連携性は希薄だということが分かる。打吹山麓の玉川地区と市街地西端の鉢屋川地区を行ったり来たり、現実にはありえない道筋だが、良い風景ばかり集めて並びを変えているのだから、物語の背景として効果的でないはずがなかろう。


図62 鉢屋川(河原町)と旧小川家土蔵(鍛冶町2丁目) 図63 鉢屋川(河原町)と旧小川家土蔵(鍛冶町2丁目)



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図52 河原宿背戸川に沿う蔵通りの町並み


(2)過去への旅路
 1987年の論文で上方往来河原宿の町並み保全度を示した(図12)。当時、上方往来沿いには大型の和風住宅が3軒残っていたが、今は1棟のみで無住化しており、中小の町家・しもたやの類もかなり撤去・改築され、町並みの質はあきらかに劣化した。「寅次郎の告白」時代の面影を残すのは新茶屋と森下医院以北など限られている。一方、裏通りにあたる背戸川沿いは「蔵通り」と呼ぶべき風情をよくとどめている(図52)。因幡の蔵通りとしてまっ先に思い浮かぶのは若桜駅前の小路だが、妻入土蔵が軒を連ねる若桜に対して、河原は平入の土蔵群になっている。上方往来の宿場、用瀬の背戸川沿いにも土蔵が群集するけれども、すでに空地化が目立ち、河原ほどの連続性を感じない。河原の場合、背戸川は大井出から取水し、千代川へ水を流し込む江戸期開削の用水路であり、近代以降は複数の料亭が背戸川沿いに店を構えており、「御茶屋」の風情を伝えている点も軽視できない。こうした歴史性を景観として保存しているのが背戸川沿いの河原の土蔵群であり、若桜に比肩する県東部有数の町並みだと町民には自覚していただきたい。
 「寅次郎の告白」でも終盤のほんの一瞬、背戸川の洗い場があらわれる。アユの選別と野菜洗いの風景である。たしかに子どものころ、千代川の鮎は背戸川まで遡上してきて、それを手づかみで捕えるのを楽しみにしていた。洗い場での再現撮影にももちろん取り組んだ(図53)。ただし、登場人物はおかしな格好をしている。石橋の上にしゃがみこむ人物は、どういうわけかベトナムの椰子葉編み帽子をかぶっている。なぜベトナムの円錐帽かといえば、たまたま研究室から持ち出しただけなのだが、現場で配役を決めるにあたり、順番で女子学生があたってしまい、その性別を曖昧にするため帽子を活用したのである。


図55《再現》背戸川の洗い場 図53《再現》背戸川の洗い場


 この周辺には同じような洗い場がいくつも点在している。どの家も屋敷の裏木戸(背戸)をあければ石造りの洗い場と小橋があった。少し北にあがると、自分の住んでいた家の洗い場が昔と同じ姿であらわれる(図54)。すでに売却した家なので、中に入ることは叶わないけれども、こうして背戸川の対面から眺めるだけで感慨深い。アルバムを探すと、河原の町に引っ越してきた直後と思しき洗い場の写真を発見した。少し成長してからは、千代川で鮎やシラハエ(オイカワ)を釣った後、この洗い場でさばいてから煮たり焼いたりしたし、我が子の幼少期には背戸川でメダカやドジョウを掬って遊んだことを思い出す。
 こうして「寅次郎の告白」という映画に導かれながら再現撮影を繰り返していると、自分の過去に突き当たる。ニール・ヤング風に言えば「過去への旅路」(1972)であり、ボブ・ディラン風に言えば「マイ・バック・ページ」(1964)だと感じ入り、沈思黙考。しかし、昔を懐かしんで考えあぐねたところで、何かが変わるわけでもなかろう。ディランはくりかえし歌いかける-あのころの俺はとても老けていて、今の自分はあのころより若いのさ。


図56 背戸川の洗い場(A家)-1 図54 背戸川の洗い場(A家)



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図45「寅次郎の告白」ロケ地・関係地の位置-1 図44「寅次郎の告白」ロケ地・関係地の位置


5-4 寅さんの風景-再現撮影

(1)風景のパッチワーク
 「寅次郎の告白」の風景地・関係地の分布を図44に示した。市内若桜橋・鳥取駅・駅前、砂丘、倉吉、河原宿・出会橋、稲常(円通寺墓地)、片山(八東川堰堤)、若桜鉄道安部駅がロケ地であり、佐治谷(紙漉き業者の大型車)も関係地として扱える。再現撮影は2017年度前期が河原宿・出会橋、稲常、市内若桜橋・駅前、2018年度前期が倉吉、片山、阿部駅であり、鳥取駅構内と砂丘の2ヶ所だけは未だ撮り終えていない。衣装は柴又で購入した寅さんのTシャツと腹巻以外は寄せ集めである。小道具については、「出会橋前」駅のバス停標識板、寅さんのカバン、赤電話などを学生が自ら廃棄物を活用して制作した(図45・46)。購入したのはカチンコのみ。撮影のたびに「シーン12、テイク3、カァ~ット」などと号令をかけ、再現撮影のムードを盛り上げようとした次第である。
 すでに物語のあらすじを述べるにあたり、相当数の再現撮影写真を挿入している。たいした代物ではないと思われたにちがいない。ただし、これらの写真を映画のシーンと対照できれば面白みがじわっと滲みあがってくる。著作権の関係上、そうした操作ができないことを残念に思う。


図46 再現撮影のための小道具とかカチンコ 図45 再現撮影のための小道具とカチンコ

図47 再現撮影のための衣装と小道具-4 図46 再現撮影のための衣装と小道具


 さて、映画をよく知る人ならば当たり前なのかもしれないが、ロケ地相互にはほとんど関係性がない。ここがドキュメンタリーとの決定的な違いである。スタッフは風景のよい場所を厳選している。その風景をパッチワークのように順不同でつなぎあわせて場面を展開させていることがよく分かる。Aというロケ地に後続するBというロケ地はA地点から思いっ切り離れていたりするのである。また、すでに何度か説明したように、風景地そのものに現実との矛盾が露呈している。ただし、その矛盾に気づくのは地元の地理に詳しい人物に限られる。だからというわけでもなかろうが、制作側は大胆なつぎはぎに挑むのかもしれない。


図38《再現》別れの出会い橋バス停(1) 図47《再現》別れの「出会橋前」バス停


 こうした風景の切り貼り、もしくは現実との乖離については、前節までに①秋のしゃんしゃん祭り(実際は盆踊り)、②出会橋手前の土手道上に置かれたバス停留所(道交法上大型車両通行止/図47)、③寅さんが県外へ向かう列車に乗る若桜鉄道安部駅(若桜を終着駅とするので県外に抜けることは不可能/図48・49)の3点を指摘し、とりわけ②③の場面が絶大な効果をあげていることを指摘した。この作品を名作たらしめている要因の大きな部分を、②③のシーンが占めているように思われてならない。


図49 若桜鉄道安部駅での集合写真(2017) 図48 若桜鉄道安部駅での集合写真(2017)

図50 案山子の寅さん(安部駅) 図49 案山子の寅さん(安部駅)



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図48《再現》上方往来からみた「出会橋前駅」のシーン 図38《再現》上方往来からみた「出会橋前駅」のシーン


(4)物語の終わり
  いよいよ別れの朝がきた。出会橋のたもとにある停留場で女将は寅と満男と泉を送る(図38・39)。道路交通法では大型車通行禁止になっている土手の道。バス停が実在するはずはない。それでも別れの場所をここに設定したのは河川敷に対する制作者の愛着からであろうと思う。「寅次郎の告白」では江戸川が一度も登場しないが、千代川(智頭川・八東川)が見事にその代役を果たしている。「男はつらいよ」シリーズではストーリーの転換点で必ず江戸川などの河川敷があらわれる。揺れる寅さんの心情を浄化する場面としての役割を河川敷が担っているのである。ありえるはずのない場所に別れのバス亭を設定することで、刹那い恋の幕切れを爽やかに演出するのだが、その奥に透けてみえる寅と女将の悲しい涙。我慢強い二人の姿に日本人の美学を感じ取れるシリーズ有数の名場面に仕上がっている。


図39《再現》別れの出会い橋バス停(2) 図39《再現》別れの出会橋バス停


 鳥取駅から山陰線特急「あさしお」に乗る満男と泉をプラットフォームで見送った寅さんは、駅前で宿を探す(図40)。駅前の旅館に泊まるなら新茶屋にもう1泊すればいいものを、それができない自分を責めているのであろうか、顔色はいまひとつ冴えない。一方、泉は名古屋の家に帰って母親と融和しあい、満男は柴又の家に戻ってご機嫌斜めの母親に「おじさんの顛末」を報告する。翌日、電話が鳴る。さくらが受話器を取ると、寅さんの声がした。


図41《再現》駅前で宿を探す寅さん 図40《再現》駅前で宿を探す寅さん



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図28《再現》佐治紙業の車に乗って駄菓子屋を出発 図28《再現》佐治紙業の車に乗って駄菓子屋を出発


(3)物語の遷ろい
 翌朝、「因州佐治」紙漉き業者の大型車で倉吉を出発(図28)。さくら(倍賞千恵子)を通して満男の待機場所を知った二人は海岸線沿いに車を走らせ、砂丘をめざす。砂丘に到着するや否や、寅さんを残したまま泉は車を飛び出し、砂丘の馬の背に向かう。果たして、そこでは満男が待っていた。狂喜する若い二人・・・へたる寅。


図29《再現》新茶屋に帰宅した女将の聖子 図29《再現》新茶屋に帰宅した女将の聖子


 その後、いきなり場面は河原宿の「新茶屋」に変わる。合流した三人は鮎尽くしの割烹料理を二階座敷で食べている。まもなく女将の聖子(吉田日出子)が帰宅し(図29)、三人と面会。寅さんは恋敵だった板前の亭主が1年前に千代川の暴れ水で死んだことを知らされて驚き、自分のふざけた口ぶりを女将に謝罪する。「仏ほっとけ」を口癖とする寅さんが、このときだけは顔色を変え、急ぎ墓参りへ(図30・31)。墓参後、すっかり日が暮れてしまい、女将の熱心な誘いもあって、三人は新茶屋で一泊することを決めた。その夜、お客が消えて従業員を早めに帰らせ(図32)、女将と寅さんは差しつ差されつつ酒を酌み交わし、酔った女将が色仕掛けで寅さんに迫ろうとするその瞬間・・・二階から覗き見していた満男が前のめりになりすぎて手すりを壊し、中庭の池に急降下。水しぶきとともに濡れ場は水泡に帰す。


図30《再現》墓参り(円通寺墓地) 図30《再現》墓参り(円通寺墓地)

図30《再現》墓地に向かう参道(稲常) 図30《再現》墓地からの帰り道(稲常) 

図31《再現》帰宅する新茶屋の従業員たち 図31《再現》深夜、帰宅する新茶屋の従業員たち



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図22 倉吉鍛冶町2丁目「ひろせや」前でのロケ風景 図22 倉吉鍛冶町2丁目「ひろせや」前のロケ風景(小林房江さん提供)


3.寅次郎の告白

(1)平成へ-主役・マドンナ二人体制へ
 鳥取を舞台とした第44作「寅次郎の告白」(1991)は「男はつらいよ」シリーズ晩期の作品である(図22~24)。従来、盆と正月の年2回上映されてきた同シリーズが年末(~正月)1回になったのが平成元年(1989)。その年まで遡って作品を確認してみると、前半が第41作「寅次郎 心の旅路」(マドンナ竹下景子3回目)、後半が第42作「ぼくの伯父さん」(同檀ふみ2回目+後藤久美子1回目)である。第41作は寅さんがウィーンまで旅する異色の作品であり、ここで一人主役のシリーズが事実上終わったと言っていい。第42作からは甥の満男(吉岡秀隆)とそのマドンナ、泉ちゃん(後藤久美子)が前面に出て、寅さんは満男を暖かく見守る後見人のような役にシフトしつつ、全体としては二重主役、マドンナも二人体制になる。第43作「寅次郎の休日」(1990)では、寅さんのマドンナが夏木まり、満男のマドンナが後藤久美子、第44作「寅次郎の告白」では、寅さんのマドンナが吉田日出子、満男のマドンナが後藤久美子である。
 こうした上映回数と体制の変化は、時勢の変化を反映するものではあった。時代は平成に踏み入り、とりわけ若者の指向する映画や音楽の作風が昭和40~50年代とは変わってきていたのである。国民的美少女、後藤久美子の抜擢はその時流への適応とみるべきであろう。そうした世の遷ろいだけでなく、寅さんを演じる渥美清さんの体調悪化が映画づくりに影を落としていた。渥美さんは癌を患っていた。ネット情報によれば(http://dear-tora-san.net/?p=125)、渥美さんが最初に肝臓癌の告知を受けたのは1970年代の中頃であったという。最高傑作の呼び声高い第17作『寅次郎夕焼け小焼け』(マドンナ太地喜和子)等で絶頂を極めたころである。その肝臓癌が肺に転移したと告知されたのが平成3年(1991)、すなわち「寅次郎の告白」撮影の年である。実際、ロケを見学したり、休憩の世話をした方々にお話をうかがうと、渥美さんは科白を語るとき以外、不機嫌にみえるほど無口であったという。身体の不調は誰の目からみても明らかであり、長時間の撮影には耐えられなくなっていた。それを補ったのが満男である。満男は若き影武者のようにして、寅さんの代役を担った。以下、「寅次郎の告白」のあらすじを再現撮影の写真と照らしつつまとめてみる。


図23倉吉河原町鉢屋川前でのロケ風景01 図23 倉吉河原町鉢屋川前でのロケ風景(小林房江さん提供)


(2)物語のはじまり
 泉ちゃんが就職活動で名古屋から上京してくるということで、満男は朝から浮かれていた.。ちょうどそのタイミングで寅さんも柴又に帰ってきて、いつものとおり、みんなで楽しい夕餉の食卓を囲む。泉は別れ際に寅さんに訊ねる。

  「こんどはいつあえるのかなぁ?」

 寅さんは答える。

  「泉ちゃんがな、オレにあいてぇなぁ、と思ったときだよ」

 なんの変哲もない平凡なやりとりにも聞こえるが、この会話は本作の肝というべき重要な伏線である。
 翌日、泉は満男に伴われ、銀座の楽器店を訪ねるが、雇用についての返事は芳しいものではなかった。「高卒の学生は推薦以外雇用しない、短大を出てからでないと受け入れられない」という担当者の冷たい言葉に落胆する。高校転校3回、父母の離婚、母親の仕事などが影響して、今後の就職活動も容易ではなかろうと不安な気持ちにさいなまれながら、泉は名古屋行きの新幹線に乗る。そして帰宅するとまもなく、母親(夏木まり)がクラブの客を連れて帰ってきた。母親はその客と再婚する気になっており、両親の現実に耐えきれない泉は部屋に閉じこもって、だれも寄せつけなくなった。数日後、柴又の満男のもとに鳥取砂丘の絵はがきが届く。

  日本海が見たくて 
     鳥取に来ました。
  私の寂しさを 
     吸い込んでくれるようです。  泉

 慌てた満男が名古屋の自宅に電話すると、泉は3日前に家出したと母親から聞かされ、矢も立てもたまらなくなって家を飛び出し、鳥取に向かう。


図24 鳥取市若桜橋近くでのロケ風景(山根皆子さん提供) 図24 鳥取市若桜橋近くでのロケ風景(山根皆子さん提供)


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噂の茶室-盃彩亭

茶室01正面


魯班好みの二畳内坪

 こんにちは。お久しぶりになりました、お嬢です。
 8月4日(火)の卒論ゼミで、いまや伝説と化している噂の「廃材でつくる茶室」に行きました。この茶室は環境大学1期生~4期生がゼミ活動・卒論・プロジェクト研究の合同活動で一から作り上げました。セルフビルド&ゼロエミッションをテーマに、「材料は買ってはならない」というルールのもと、すべて廃棄物または貰い物(寄付して頂いたもの)で築かれています。2014年度のプロジェクト研究では本格的な修復もおこなわれており、この茶室で大々的な発表会兼茶会を催したそうです。我々四年生もゼミに入る前の「住まいと建築の歴史」講義で茶室の存在は知っており、いつか訪ねてみたいと思っていました。


茶室02内部


 カメラや飲み物を用意していざ裏山へ……ところが、茶室へ続く道の入口が完全に雑草で覆い尽くされており、どこから入ればいいのか全くわかりません。先生の勘を頼りに、草をかき分けて入山。トゲのある草木に邪魔されながらも斜面を降りると、茶室への山路が痕跡をとどめていました。茶室の前に着くまで木の葉に隠されて茶室の姿は一切見えなかったので、突然大きな建物があらわれて本当に驚きでした。
 想像以上に茶室は大きく、4年生のテンションは一気に上がりました。風雨などによって茶室の付近や内部は荒れていましたが、茶室の壁・床・屋根はしっかりとそのまま残っていました。2014年になした屋根・壁の防水処理が功を奏しているとのことです。
 この茶室は「盃彩亭」といい、二畳+内坪(一畳は土間)の魯班(ルパン)好みで、基礎には千代川の河原から集めてきた人頭大の石が組み上げられています。少し荒れていましたが、床の間・掛け軸・炉はそのまま残っており、先生が東南アジアやブータンでで仕入れてきたマニ車、ガルーダ、カウベル等のコレクションも健在でした。


0804ガルーダ01


 四年生が歓声を上げながら写真を撮っていると、まるで何でもないように先生が「それ、摩尼山で発掘した五輪塔」と、石(?)の塊を指さしました(↓)。「蹴ると悪運に見舞われるんだよ」と先生は朗らかに笑っていましたが、まさかそんな大事なものが山に転がっているとは思わない私達は、(蹴ったり乗ったりしなくてよかった……)と胸をなでおろしました。冷や冷やでした。


茶室03五輪塔



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図07 樋口神社祭礼-昭和30年代(1) 図08 樋口神社祭礼-昭和30年代の町並み(東側)


(4)古写真と分布図にみる町並み
 昭和30年代前半の河原の町並みを写した古写真が残っている(図08)。樋口神社祭礼で氏子が踊りながら御輿を曳き街中を練り歩く。家々の軒先に竹を立てて注連縄をつないでいる。東側の住宅は下見板の高二階ばかりで、昭和の建築と思われる。反対側には平屋の建物が多く、図09は実家の北隣にあった小料理屋「ゑびや」の軒先である。屋根はみえないが鉄板で覆われた茅葺きであり、元は町長宅だったという私の旧実家も当初は茅葺きであった。こういう平屋の茅葺き民家は明治期よりも古い可能性がある。幕末にまで遡るかもしれない(後述)。


図08 樋口神社祭礼-昭和30年代(2) 図09 樋口神社祭礼-昭和30年代の「ゑびや」軒下


 拙論(1987)では、三つの分布図を作成した(図10~12)。図10は商業系施設の分布図。スクリーントーンで、①店舗併用住宅、②近十年の間に移転もしくは廃業した店舗、③商業専用施設を色分けしたつもりだが、その差は鮮明な仕上げになっていない(反省)。これらのうち、とりわけ「御茶屋」としての遺伝子を受けつぐ料亭・旅館(▲)と小料理屋・レストラン・喫茶店等(●)を特記している。図11は、鉄筋・鉄骨系の大型建物・看板建築・空き家・駐車場の分布を示す。昭和29年ころまで国道53号線に沿って公共施設の建設ラッシュが続いたが、町村合併により1町1中学校の方針となって、学校の統廃合が続いた。その後、国道沿いから公共施設は姿を消し、50年代には国道西側に商業ゾーンが形成される。昭和54年には河原小学校跡地にショッピングセンター「リバー」が誕生。反面、旧道沿いの商店街は衰退し、移転ないし廃業する店が増加した。鳥取市街地から12kmの河原は国道53号を経由する格好のベッドタウンであり、周辺地域から転入してくる世帯が多い。街道に沿う歴史的居住区では後継者に恵まれない老夫婦、独居老人だけの世帯がかなりの割合を占める。そのため、空き家化したり、駐車場になっている宅地が増えた。旧街道地区は、周辺農村と同様に人口減少と老齢化が顕著になる。


図10 店舗併用住宅と商業施設の分布(河原1987)
↑図10 店舗併用住宅と商業施設の分布(河原1987)

図11 近代建築と空き地(河原1987)
↑図11 近現代建築と空き家・空き地の分布(河原1987)



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5-2 上方往来河原宿

(1)御茶屋としての河原
 八東川と智頭川が合流して千代川となるY字地形の南岸に河原集落は位置する。「河原」という地名はいうまでもなくこの場所に由来している。「河原」は正式にはカワハラと読むが、通称はカワバラで、土地のひとはそれをカーバラと発音する。文字通り、中世以前のこの地はただの川原にすぎず、おそらく水田さえ開墾されていなかっただろう。江戸時代の河原は「御茶屋」と呼ばれた。
 さて、「御茶屋」とはいったい何か。参勤交代に利用された上方往来は、智頭街道とも呼ばれ、以下のようなルートをとった。鳥取城下から富安、吉成、叶、国安、円通寺、「下の渡し」(千代川の渡し船)、袋河原、河原、渡一木、「上の渡し」、高津原、釜口、鷹狩、用瀬を経て智頭に至る。智頭からは駒帰、志戸坂峠を経て山陽道に連絡する。山陽側は大原、平福を経由し、三日月、千本、觜崎と続いて姫路城下町に至る。鳥取からみれば「智頭街道」、山陽側からみれば「因幡街道」と呼ばれたゆえんである。
 鳥取側の中継集落のうち、用瀬と智頭に「宿場馬次」が置かれ(後に釜口、駒帰にも増設)、叶、河原、用瀬、智頭、駒帰は「御茶屋」を設けていた。「宿場馬次」はたんに「宿」ともいい、旅宿のほかに大名の宿舎として御陣所が置かれた。また、伝馬人足の継立所があり、公共の手形をもつ旅行者に駄馬及び人夫を無償で提供する義務があった。これに対し、「御茶屋」は食事・休憩・遊覧のための施設であり、伝馬人足を置いてはいけなかった。河原の「御茶屋」は鳥取から四里と廿六丁も離れた用瀬の「宿」との中継地、とくに「下の渡し」と「上の渡し」の間にある休憩所として重要な役割を担っていたであろう。
 幕末の文久3年(1863)と慶応4年(1868)の二度にわたり、藩は河原を「宿」に昇格する命を下したことがある。用瀬と鳥取との距離が遠すぎる、というのがその理由であった。しかし、「馬次」としての人馬の供給がままならないため、二度ともその命はあっけなく取り下げられてしまった(在方諸事控)。つまり河原は、地理的な有用性から「御茶屋」として重宝されていたにも拘らず、「宿駅馬次」を務めるに足るだけの経済的基盤をいまだ蓄積していなかったことになる。

(2)樋口のサラヴァスティ
 戦国時代の因幡に武田高信(1529?-73?)という武将がいた。これがなかなかの曲者で、鳥取城主の山名氏と激しく争い、一時は鳥取城を我が物にしたのだが、毛利氏や尼子党との関係は複雑極まりなく、紆余曲折のすえ山名氏との争いに敗れて無惨な最期を遂げる。高信は鳥取市玉津にあった鵯尾(ひよどりお)城の城主であったが、因幡各地に拠点的な山城をいくつかもっていた。大振袖山城もその一つとされる。曳田と谷一木の境にあったとされるが、その小山(海抜130m)を訪れた経験はない。河原城(丸山城)は大振袖山城の出城だと伝承されている。当時の河原城はもちろん板城であり、犬山城をモデルとした城山展望台のようでは決してなかった。掘立柱に板の壁、板の塀の素朴な山上の館だったと思われる。それが鳥取城を攻める羽柴秀吉の陣になった。嘘か本当か知らないけれども、幼いころからよくその話を聞かされた。
 次に重要な出来事は大井出(おおいで)用水の開削である。関ケ原直後の慶長7年(1602)ころ、ときの鹿野城主亀井滋矩は、鳥取城主池田長吉に千代川河口の賀露港を与える代償として袋河原村を領地とし、現在の河原の地に千代川からの取水口も設け、四里半に及ぶ用水路を切り開いた。これによって、八上郡、高草郡の多くの農地が潤うことになった。明暦年間(1655-57)には、城山の東麓にあたる千代川からの取水口(樋口)に市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀る社を築く。イチキシマヒメは宗像三女神の一柱であり、水の神である。水神を祭るこの神社は江戸時時代を通して「弁財天社」と呼ばれた。本地垂迹説である。宗像の女神イチキシマヒメは弁財天の仮の姿であり、それゆえ神社に仏教天部神の名前を使ったのであろう。もっとも、天部諸神はヒンドゥ教起源の神ばかりであり、弁財天ももとはサラヴァスティというヒンドゥ教の女神であった。明治元年、弁財天社(以下、「弁天社」と記載)は境内の稲荷大明神を合祀して「樋口神社」と改称された。現場に行って社殿を確認してみたところ、木造の社殿は明らかに近代の造作である。ただし、石灯籠に天保11年(1840年)の銘を発見した(図03)。
 

図●樋口神社の社殿と石灯籠 図03 樋口神社の社殿と石灯籠


 城山の東麓に樋口を開き、その傍らに弁天社を奉祀した一連の土木・建築事業はまさしく近世河原の起源というべき画期だが、寛文年間(1688頃)の『因幡民談記』をみても「河原」に類する地名は含まれていない。すなわち、18世紀も後半に入った宝暦11年(1761)の『御順見様御案内懐中鑑』になってようやく「川原」の戸数32、人口137という具体的な記載があらわれる。これを『因幡民談記』と対照するならば、河原は18世紀の前半ころから「集落」の体をなし始めたと推定できよう。
 寛政7年(1795)の『因幡志』には「河原村(上ノ茶屋)」とみえ、戸数が40まで増えている。現在でも河原はカミ・ナカ・シモの概念によって空間的に3分割されており、上流側の神社周辺がカミにあたる。また、昭和40年代まで神社の近くに「お茶屋」という名の旅館が経営を続けていた。つまり、河原は弁天社の門前町として発展し、弁天社の近くに御茶屋があったと考えたい。19世紀に入ると、享和3年(1803)に谷一木の新田として幕府に登録されたとあり(『鳥取藩史』「民政史」十)、元治元年(1864)の『因幡郷村帳』にも「新田河原」の名前がみえる。格付けとしては谷一木の新田にすぎないけれども、他の中世農村集落とはまったく異質な近世新興の町場として発展を遂げていく。
 図04は17世紀の状況を推定した復元図である。近世初期にあっては、弁財天社とその門前に建つ御茶屋からなる程度のものであった、と思うのだが、御茶屋がこの時期に遡ることを証明できるわけではない。1987年に作成した図04には明らかな間違いがある。この図に背戸川を描くべきではなかった。背戸とは屋敷の裏木戸、背戸川は背面川の水路を意味する一般名詞である。集落が形成されていない段階だとすれば、家屋敷はもちろんのこと、背戸も背戸川も存在したはずはなかろう。


図03 河原集落の発展模式(1)-17世紀 図04 河原集落の発展模式(1)-17世紀



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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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