5-2 上方往来河原宿(1)御茶屋としての河原
八東川と智頭川が合流して千代川となるY字地形の南岸に河原集落は位置する。「河原」という地名はいうまでもなくこの場所に由来している。「河原」は正式にはカワハラと読むが、通称はカワバラで、土地のひとはそれをカーバラと発音する。文字通り、中世以前のこの地はただの川原にすぎず、おそらく水田さえ開墾されていなかっただろう。江戸時代の河原は「御茶屋」と呼ばれた。
さて、「御茶屋」とはいったい何か。参勤交代に利用された上方往来は、智頭街道とも呼ばれ、以下のようなルートをとった。鳥取城下から富安、吉成、叶、国安、円通寺、「下の渡し」(千代川の渡し船)、袋河原、河原、渡一木、「上の渡し」、高津原、釜口、鷹狩、用瀬を経て智頭に至る。智頭からは駒帰、志戸坂峠を経て山陽道に連絡する。山陽側は大原、平福を経由し、三日月、千本、觜崎と続いて姫路城下町に至る。鳥取からみれば「智頭街道」、山陽側からみれば「因幡街道」と呼ばれたゆえんである。
鳥取側の中継集落のうち、用瀬と智頭に「宿場馬次」が置かれ(後に釜口、駒帰にも増設)、叶、河原、用瀬、智頭、駒帰は「御茶屋」を設けていた。「宿場馬次」はたんに「宿」ともいい、旅宿のほかに大名の宿舎として御陣所が置かれた。また、伝馬人足の継立所があり、公共の手形をもつ旅行者に駄馬及び人夫を無償で提供する義務があった。これに対し、「御茶屋」は食事・休憩・遊覧のための施設であり、伝馬人足を置いてはいけなかった。河原の「御茶屋」は鳥取から四里と廿六丁も離れた用瀬の「宿」との中継地、とくに「下の渡し」と「上の渡し」の間にある休憩所として重要な役割を担っていたであろう。
幕末の文久3年(1863)と慶応4年(1868)の二度にわたり、藩は河原を「宿」に昇格する命を下したことがある。用瀬と鳥取との距離が遠すぎる、というのがその理由であった。しかし、「馬次」としての人馬の供給がままならないため、二度ともその命はあっけなく取り下げられてしまった(在方諸事控)。つまり河原は、地理的な有用性から「御茶屋」として重宝されていたにも拘らず、「宿駅馬次」を務めるに足るだけの経済的基盤をいまだ蓄積していなかったことになる。
(2)樋口のサラヴァスティ
戦国時代の因幡に武田高信(1529?-73?)という武将がいた。これがなかなかの曲者で、鳥取城主の山名氏と激しく争い、一時は鳥取城を我が物にしたのだが、毛利氏や尼子党との関係は複雑極まりなく、紆余曲折のすえ山名氏との争いに敗れて無惨な最期を遂げる。高信は鳥取市玉津にあった鵯尾
(ひよどりお)城の城主であったが、因幡各地に拠点的な山城をいくつかもっていた。大振袖山城もその一つとされる。曳田と谷一木の境にあったとされるが、その小山(海抜130m)を訪れた経験はない。河原城(丸山城)は大振袖山城の出城だと伝承されている。当時の河原城はもちろん板城であり、犬山城をモデルとした城山展望台のようでは決してなかった。掘立柱に板の壁、板の塀の素朴な山上の館だったと思われる。それが鳥取城を攻める羽柴秀吉の陣になった。嘘か本当か知らないけれども、幼いころからよくその話を聞かされた。
次に重要な出来事は大井出
(おおいで)用水の開削である。関ケ原直後の慶長7年(1602)ころ、ときの鹿野城主亀井滋矩は、鳥取城主池田長吉に千代川河口の賀露港を与える代償として袋河原村を領地とし、現在の河原の地に千代川からの取水口も設け、四里半に及ぶ用水路を切り開いた。これによって、八上郡、高草郡の多くの農地が潤うことになった。明暦年間(1655-57)には、城山の東麓にあたる千代川からの取水口(樋口)に市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀る社を築く。イチキシマヒメは宗像三女神の一柱であり、水の神である。水神を祭るこの神社は江戸時時代を通して「弁財天社」と呼ばれた。本地垂迹説である。宗像の女神イチキシマヒメは弁財天の仮の姿であり、それゆえ神社に仏教天部神の名前を使ったのであろう。もっとも、天部諸神はヒンドゥ教起源の神ばかりであり、弁財天ももとはサラヴァスティというヒンドゥ教の女神であった。明治元年、弁財天社(以下、「弁天社」と記載)は境内の稲荷大明神を合祀して「樋口神社」と改称された。現場に行って社殿を確認してみたところ、木造の社殿は明らかに近代の造作である。ただし、石灯籠に天保11年(1840年)の銘を発見した(図03)。
図03 樋口神社の社殿と石灯籠 城山の東麓に樋口を開き、その傍らに弁天社を奉祀した一連の土木・建築事業はまさしく近世河原の起源というべき画期だが、寛文年間(1688頃)の『因幡民談記』をみても「河原」に類する地名は含まれていない。すなわち、18世紀も後半に入った宝暦11年(1761)の『御順見様御案内懐中鑑』になってようやく「川原」の戸数32、人口137という具体的な記載があらわれる。これを『因幡民談記』と対照するならば、河原は18世紀の前半ころから「集落」の体をなし始めたと推定できよう。
寛政7年(1795)の『因幡志』には「河原村(上ノ茶屋)」とみえ、戸数が40まで増えている。現在でも河原はカミ・ナカ・シモの概念によって空間的に3分割されており、上流側の神社周辺がカミにあたる。また、昭和40年代まで神社の近くに「お茶屋」という名の旅館が経営を続けていた。つまり、河原は弁天社の門前町として発展し、弁天社の近くに御茶屋があったと考えたい。19世紀に入ると、享和3年(1803)に谷一木の新田として幕府に登録されたとあり
(『鳥取藩史』「民政史」十)、元治元年(1864)の『因幡郷村帳』にも「新田河原」の名前がみえる。格付けとしては谷一木の新田にすぎないけれども、他の中世農村集落とはまったく異質な近世新興の町場として発展を遂げていく。
図04は17世紀の状況を推定した復元図である。近世初期にあっては、弁財天社とその門前に建つ御茶屋からなる程度のものであった、と思うのだが、御茶屋がこの時期に遡ることを証明できるわけではない。1987年に作成した図04には明らかな間違いがある。この図に背戸川を描くべきではなかった。背戸とは屋敷の裏木戸、背戸川は背面川の水路を意味する一般名詞である。集落が形成されていない段階だとすれば、家屋敷はもちろんのこと、背戸も背戸川も存在したはずはなかろう。
図04 河原集落の発展模式(1)-17世紀
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