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円堂ノート(4)

4.八角円堂と行基
(1)円堂3案の比較
 以上、回廊・掘立柱塀等の囲繞施設で囲まれた伽藍の中央に建つ「円堂」の復元を三案示した。A案は基壇上の八角堂の本瓦葺き屋根と土庇状の裳階の十六角形檜皮葺き屋根が錣葺きのように近接しあう。訪問者の目線からは「円」に近い裳階の造形が目立ち、八角堂は裳階に隠れてしまい幾分印象が弱くなる。建具有B案はずんぐりしたプロポーションになるが、建具無B案は薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔の造形に近くなる。C案は最も美しい八角堂と称賛される興福寺北円堂を意識した復元案であり、単体としてみると「円」状裳階の上の八角堂上部が際立ってみえる。A案→建具無B案→C案の順で、軽やかさ・華やかさが増している。一方、伽藍全体の俯瞰図をみると、C案と建具有B案は囲繞施設に対してヴォリュームがやや大きい。囲繞施設と整合性のある比例となっているのはA案であり、建具無B案がそれに次ぐ。単体でみれば建具無B案やC案に分があるものの、伽藍全体との整合性から評価するならば、A案や建具無B案が秀でている。発掘調査された遺構のサイズを軽視するわけにはいかないので、妥当な復元案はA案及び建具無B案ではないか、と考えている。

(2)平城宮東院庭園出土「五角斗」雛形の応用
 平城宮東院庭園跡で「五角斗」の雛形が出土している[箱崎・浅川・西山 1999 ]。奈良時代に設計図はなく、1/10の模型を制作してから、現寸の建築を造営した。このような1/10の雛形を様(ためし)と呼ぶ。東院庭園で出土した五角斗は大斗の様とされ[川越編2003 ]、八角小堂の柱頭に据えられていたものと推定されている(図18)。八角形建物の場合、桁などの隣接しあう水平材は135°で交差する。その接点に置かれる斗は左右両方の水平材に対してほぼ垂直に収まるので、斗は末広がりの五角形を呈する。東院庭園の模型制作から復元事業にあたり、当初は隅楼を八角屋根に復元する予定であり、五角斗を使用する可能性もあったが、再発掘調査の結果、隅楼はL字形を呈することが判明したので、敢えて八角斗を使用する必要はなくなった。東院庭園出土の五角斗の場合、五角斗に両側から接する水平材は138°で交差するが、今回の復元案では151°となった。裳階が正十六角形ではないため角度の開きが大きめになったと思われる。
 菅原遺跡円堂復元の場合、A案・B案では裳階の隅木を支える2列の巻斗のみ五角斗とし、C案では八角堂側柱上の大斗も五角斗とした。平城宮跡東院庭園出土の五角斗データを用いた復元設計は、おそらく今回が最初になるだろう。


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円堂ノート(3)

3.建物跡の復元
(1)基準尺の割り出し
 天平の建築および建物跡では柱間10尺を単位とし、その倍数で設計されることがしばしばある。菅原遺跡円堂跡の場合、内側の基壇の径を30尺(10尺×3)、土庇の直径を50尺(10尺×5)とみれば、上記の原則にあてはまるのだが、実際の寸法は微妙な値を示している。外側をめぐる土庇(裳階)の径は対辺間距離(内接円直径)では145.3㎝、対角線距離(外接円直径)では148.6㎝となる。前者を49尺、後者を50尺とみた場合、設計寸法の基準尺(1小尺)=296.5㎜という奈良時代後半にふさわしい寸法が得られる。この1小尺が菅原遺跡の基準寸法と考えている。一方、基壇地覆(抜取外周)の場合、対辺間距離(内接円)は978㎝、対角線(外接円)は1,001㎝(33.81尺)であり、33~34尺とみるべきかもしれないが、35尺(1,036㎝)の誤差と理解することもできる。以上から基壇建物を敢えて「円」としてとらえる場合、基壇径=35尺、土庇径=50尺が理想的な設計寸法であった可能性があるであろう(図03・10 )。
(2)円堂3案
 発掘された出土遺構から得られる情報は十分なものではなく、とりわけ円堂については、前代未聞の遺構なので、復元案は確定的なものになりえない。以下の3案を図化する。 
 A案(栄山寺八角堂を意識した復元案)
 B案(薬師寺玄奘三蔵院八角堂と安楽寺三重塔を意識した復元案)
 C案(法隆寺夢殿と興福寺北円堂を意識した復元案)

A案(栄山寺八角堂を意識した復元案)図11
  八角円堂: 基壇十六角形 平屋建本瓦葺 平三斗(または出三斗)、二軒(地方飛方) 柱径1.5尺
   土庇(裳階): 檜皮葺・建具無 柱径8寸 繋虹梁・間斗束  全体を赤色塗装
 すでに述べたように、菅原遺跡円堂跡の類例として最も重要な建造物は栄山寺八角堂である。造営年代が近接し、夢殿に比べて縦長の造形が裳階を収めるにふさわしい。柱の入側筋に4本柱を立て、側柱筋は正八角形に8本の柱を立てる。柱自体も正八角形であり、対辺間寸法で1.36尺、対角線で1.47尺となる。これを「円」としてみるならば、φ=約1.5尺と理解できるかもしれない。入側筋を正方形としつつ側柱筋を正八角形にするには、入側柱-側柱の柱間を7尺(厳密には7.1=10/√2尺)にする必要がある。土庇の柱間も10尺を基本とし、それと平行な位置の基壇上に入側筋の4本柱を配する。八角堂本体を構造的にみると、栄山寺八角堂のプロポーションでもなお、土庇をつけると低平な造形となるので、柱高及び柱間建具を約1.2倍にした。土庇の垂木掛けとなるのは、八角堂本体の内法長押である(法隆寺西円堂及び興福寺南円堂の向拝・裳階を参照)。この位置に垂木を渡すと裳階屋根の上面は本体の頭貫のあたりで納まり、上下屋根の全景は錣葺きに近い外観となる。八角堂の柱上組物は平三斗だが、地隅木を受ける関係上、手先方向にも肘木と斗がせりだすので、外見上は出三斗と言うべきか。小壁には壁付きの通長押をめぐらせ、中備は間斗束とする。基壇高3.5尺、本体側柱の柱高16.4尺、宝珠頂部までの総高35.1尺。
 土庇の柱を八角堂の側柱とつないでみると、屋根見上図では長方形に収まる部分(柱間10尺)と三角形に収まる部分(柱間10.8尺)が入れ替わる。前者では平行垂木、後者では配付垂木となる。こうした十六角形の屋根の葺材としてふさわしいのは檜皮であり、瓦や板を葺くのはほぼ不可能である。本体の基壇を円形ではなく、十六角形としたのは、地覆抜取跡で直線状のものが複数あったことに加え、土庇(裳階)屋根との平行関係を示したかったからである。しかしながら、復元CG(口絵1 ・図12 )にみるように、十六角形の檜皮葺き屋根は限りなく「円」に近くみえる。なお、八角屋根の隅木に吊した風鐸は南側の敷地で発見された遺跡の報告書[奈良大学1982]に掲載された風鐸の残欠をベースにして、平城宮第一次大極殿の復元で採用した風鐸を参照してデザインした(A・B・C案とも)

B案(薬師寺玄奘三蔵院八角堂と安楽寺三重塔を意識した復元案)図1 3
  八角円堂: 基壇八角形 平屋建本瓦葺 平三斗(または出三斗)、二軒(地方飛方) 柱径1.5尺
   土庇(裳階): 檜皮葺・建具無 柱径8寸 繋虹梁・間斗束   全体を白木(塗装なし)
 昭和に新築された薬師寺玄奘三蔵院の玄奘塔は裳階のある八角堂という点で無視できない存在である。菅原遺跡円堂の場合、裳階の柱は基壇外側に掘立とするが、玄奘塔では基壇上面に収まる。菅原遺跡の円堂を玄奘塔のイメージに近づけるためには、八角堂本体の柱を2尺ばかり高くすればよいのだが、それだけだとA案と差別化し難いので、法隆寺金堂や安楽寺三重塔にならって裳階に建具を入れた(図14 )。また、塗装を施さない白木造にして赤色塗装のA案・C案と差別化した。ただし、裳階の建具については、より慎重に考察した。裳階に建具をいれるB案を「建具有B案」、建具を入れないB案を「建具無B案」とする。長野県上田市の安楽寺三十塔(12世紀末ころ)では、大日如来像の鎮座する初重は、八角堂(初重)側柱は開放であり、 裳階のみに建具をいれる。これを参照し、建具有B案も八角堂側柱筋に建具を入れない。一方、建具無B案は八角堂の側柱筋に建具を入れ、裳階は吹き放ちとする。建具無B案(図15 )には玄奘塔に近い外観であるけれども、A案と差別化が難しい。建具有B案は軽やかさ、爽やかさは失われてしまうが、A案・C案との差別化には成功している。基壇高3.5尺、本体側柱の柱高18尺、宝珠頂部までの総高36尺。

C案(法隆寺夢殿と興福寺北円堂を意識した復元案)口絵2 ・図1 6・17
  八角円堂: 基壇十六角形 平屋建本瓦葺 二手先(または三手先) 二軒(地方飛方) 柱径1.5尺
   土庇(裳階): 檜皮葺・建具無 柱径8寸 登梁   全体を赤色塗装
 最も美しい八角堂と称賛される興福寺北円堂の造形を取り入れたいと考えた。A案は栄山寺八角堂をベースにして復元したが、全体的に低平なイメージがある。この比例に近い法隆寺西円堂を南から見上げたとき、正面の向拝ばかり目立って八角屋根の印象が希薄になっている。これに対して、興福寺の北円堂や南円堂は柱上の三手先(尾垂木なし)の効果があり、八角堂としての姿が凛としている。菅原遺跡の円堂でも、裳階上に柱を立ち上げて二手先もしくは三手先で軒を荘厳すれば、八角屋根もまた際立つであろう、と考えた。組物には二手先を採用することにした。周知のように、奈良時代の建造物遺構には二手先を用いる例はないが、二手先が存在しなかったわけではなく、現存しないだけのことと思われる。その証拠に、西安の慈恩寺大雁塔楣石(7世紀中期)に刻された「大殿」図の組物は二手先を表現している。筆者が1992年に携わった平城宮第一次大極殿院1/100模型の設計では、閤門(南門)の組物として大雁塔楣石の二手先の再現を試みた[浅川1994 ] 。今回の菅原遺跡円堂の復元では、大極殿院閤門で復元設計した二手先をもとにして、手先にひろがりのない二手先を隅の柱上に採用した。この場合も地隅木等を支えるため、さらに肘木を一手前方にせり出すので尾垂木のない三手先と言うべきかもしれない。
 こうした二手先組物を実現するためには、入側-側柱筋には放射状に繋虹梁を渡す必要があるので、円堂の平面を法隆寺夢殿型(入側筋も八本柱)に改める必要がある(柱間4尺等間)。側柱、入側柱の柱径はA・B案と同じにした。この場合、小屋組と屋根も夢殿風に変えなければならないが、当初の夢殿の小屋組は不詳であり、修理工事報告書の復元図に倣うほかないと判断した。その小屋組を隠すため、天井を全面に張る。屋根の棟飾も夢殿に倣い火炎宝珠として、A案・B案と差別化した。基壇高3.5尺、本体側柱の柱高16.4尺、宝珠頂部までの総高41.8尺。
 土庇の構造は敢えて登梁式とした。A・B案では繋虹梁としたものの、八角堂本体の柱は八角形断面であり、外側の相接する2面に虹梁を大入するのはやっかいな仕事である。当初から繋虹梁無しの構法を模索しており、C案では思い切って登梁を採用してみることにした。敢えて登梁としたのは、細身の掘立柱にふさわしい構法と考えたからである。また、繋虹梁を用いないことで裳階屋根を低めに抑えることができる。登梁の出現は江戸期からとも言われているが、中国建築史及び東南アジア民族建築の立場からみると、登梁は古式である。南方中国の伝統的木造建築に常用される穿斗式構法はさほど古いものではなく、以前はベトナム・ラオスなどの近隣地域で普及している登梁が用いられていたと推定される。大仏様の遊離尾垂木もルーツを探れば登梁の圧縮形と考えられる。


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円堂ノート(2)

2.復元の前提と類例

(1)速報にみる円堂の復元イメージ
 菅原遺跡の南隣接地で1981年に発掘調査がおこなわれ、『菅原遺跡』(奈良大学平城京発掘調査報告書第1集・1982)が刊行されている。前掲速報「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」(2021)によると、今回発見された遺跡は、1981年調査でみつかった仏堂跡(瓦や風鐸を伴う基壇建物)を含む山林寺院の一部であり、円形建物跡の性格は明確ではないが、多宝塔や八角円堂などの円堂建築であることは間違いないとする。さらに円堂建築については、個人を供養する機能が推定され、円形の多宝塔を想定する案が有力である。その傍証として敦煌莫高窟の壁画には円形の仏塔が描かれており、こうした中国の情報をもとに造られた建物かもしれないとして復元パースを描いている(図〓)。ただし、円形基壇の上に八角堂をおく案や、インドのストゥーパのような土饅頭構造の周りを柵で囲っていたという案も記されており、上部構造についてはなお検討の余地がある。以上が速報段階の見解である。
 速報の図4として示された復元パースは、空海がもたらした平安密教(真言宗)の多宝塔を彷彿とさせるものだが、奈良時代の日本に宝塔/多宝塔の類が伝来していたという証拠は存在しない。また、敦煌莫高窟の壁画では宝塔と断じてよい画像を確認できるものの、多宝塔については「多宝塔に似た二重構造の建造物」を描いているにすぎない(蕭黙『敦煌建築研究』1981・文物出版社)。それらは「多宝塔風」にみえるだけであって、宝塔に裳階をつけた多宝塔だと確定しているわけではないのである。また、建築的にみた場合、速報の復元パースでは、本体の大屋根および裳階屋根が円錐形を呈している点に最も不自然さがある。平安期以降の多宝塔では大屋根・裳階屋根とも方形(あるいは宝形)の形式であり、いずれの屋根も本瓦を平行に葺きおろす。ところが、速報の復元案では、屋根が円錐形になるため、本瓦は天壇(北京)の屋根のように台形状を呈し、棟から軒に向かって末広がりにならなければならない。こうした瓦は、残念ながら、古代日本ではみつかっていない。円錐形の屋根を瓦や板で葺きあげることは不可能である。円錐形屋根がつくれないからこそ、日本では「六角円堂」「八角円堂」などの正多角形平面の堂宇が円形建物の代替として出現し、屋根は隅棟が放射状に伸びるものの、一般部の瓦は平行に葺かれたのである。
 宝塔/多宝塔以外の考え方として、「円形基壇の上に八角堂をおく案や、インドのストゥーパのような土饅頭構造の周りを柵で囲っていたという案」も速報で取り上げている。後者については、おそらくサーンチの仏塔(インド中部・前3世紀)のような墳墓状の初期ストゥーパを意識しているのであろうが、時代・構造などからみて論外というほかなく、可能性として残るのは「円形基壇の上に八角堂をおく案」のみと思われる。なお、速報では「多宝塔や八角円堂などの円堂建築」として一括しているが、多宝塔と八角円堂は似て非なる建築である。八角円堂は物故した個人を供養する「廟」のような施設であるのに対して、真言密教のシンボルというべき多宝塔は大日如来や多宝如来などを祀る非舎利塔系の仏塔であり、両者を混同することはできない。

(2)円堂遺構の特徴-平城宮第一次大極殿との類似性
 菅原遺跡円堂跡の出土状況は平城宮第一次大極殿跡と非常によく似ている。第一次大極殿の跡地は、奈良時代後半に「西宮」が造営されたことで削平・攪乱が激しく、基壇土はすべて失われ、基壇・階段の地覆の据付溝と抜取穴のみ残し、柱位置は不明である。幸いなことに、階段の地覆の痕跡が検出できたので、階段位置から柱位置を推定した。これについては、さらに藤原宮大極殿跡や大官大寺金堂・講堂跡などを参考にして検証もした。
 菅原遺跡の円堂跡も、先述のように、基壇地覆石の抜取穴を11ヶ所に残すのみであり、階段の地覆は未検出ながら、北側に2ヶ所抜取穴のない部分があり、南側正面にもやや短いが同様の部分がある。基壇の高さはおそらく4尺以上あり、礎石の据付穴の深さは3尺程度に収まるので、基壇土とともにすべての据付穴・根石が失われたものと推定される。基壇面の柱配置は遺構から直接復元することは不可能であり、奈良時代の八角円堂である法隆寺夢殿や栄山寺八角堂を参考とする以外方法がないと思われる。
 基壇周囲の土庇(裳階)状の掘立柱列は小規模なものであり、柱間は10~11尺程度で環状に並んでいるが、等間とは言い切れない。柱間に寸法差が生まれる理由については、復元の過程で説明する。日本全国に古代~近世の八角円堂が現存するが、土庇や裳階をもつ例はない(薬師寺玄奘三蔵院の八角堂は現代建築)。土庇ではないが、裳階を伴う八角形建物としては長野県上田市の安楽寺三重塔がある。菅原遺跡円堂の場合、土庇状の裳階を有する八角堂という点は特異であり、既存の八角堂の寸法・比例等を採用するにあたって一定の操作・介入が必要となるであろう。


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不在者投票

 不在者投票に行ってきました。これまで何度か期日前投票をした経験はあるのですが、不在者投票は初めてです。これもそれも忠犬騎士のおかげだね。選挙前倒しで、現住所登録している奈良市に戻れる時間がなくなってしまった。
 それにしても、昨夜の参議院議員補欠選挙・静岡の結果には勇気づけられました。野党分裂でも勝っちゃうんだから、野党合同候補の選挙区ならどうなるんだってことです。いま130前後の小選挙区で与野党僅差だそうですが、浮動票は明らかに反自民のベクトルを向いているので、選挙結果にワクワクしております(鳥取1区は例外的につまらない)。国民はもう3Aの顔をみたくないのですよ(俺も加えたら4Aか)。総裁選では何でもありだったが、総選挙ではああいう不法・腐敗はまかり通りませんからね。なにより、ネット上にオバQのCMが氾濫しなくてほっとしています。
 権力をながくもつとろくな事にならない。どこでも同じ。



ダイアナ・クラールとニール・ヤングで乾杯! 与党は完敗!!

円堂ノート(1)

1.菅原遺跡「円堂」の発見
(1)菅原遺跡の報道と視察
 2021年5月22日(金)、奈良市疋田(ひきた)町の菅原遺跡に係わる報道があった。行基が没した菅原寺との位置関係からみて、『行基年譜』にいう長岡院に比定できる可能性が高く、しかも遺跡の中心に建つ遺構が円形を呈することから、「行基の供養堂」説が浮上し注目を集めたが、大規模宅地開発のため遺跡は取り壊されると聞いた。円形平面の建物は、平安密教のシンボルというべき宝塔/多宝塔を例外とすれば、日本建築史上例外的な存在であり、とりわけ奈良時代以前においては類例がない。この点だけをみても、菅原遺跡は特筆すべき文化財価値を備えている。これだけ価値の高い遺跡が消滅することを知り、遺跡を供養するためにも、復元研究に取り組むべきと考えた。

(2)本研究の目的
  5月22日の視察後、復元の構想について池田係長に打ち明けたところ、調査主体である(公財)元興寺文化財研究所に連絡をとるように示唆されたので、発掘調査を担当した村田裕介氏に連絡した。村田氏によれば、発掘調査の正式な報告書の刊行は令和4年度事業となるが、元興寺文化財研究所HPに速報「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」(参考サイト1)が公開されており、その資料を活用する復元研究を禁ずるものではない、という回答をいただいた。本研究は、この速報と遺跡視察の成果に基づき、円堂を中心とする菅原遺跡建物跡群の復元を試みるものである。

2.菅原遺跡の概要と遺構
(1)菅原遺跡と行基の長岡院
 菅原遺跡は平城京西京極の外側に位置する(図01)。平城京二条大路の西の延長線と西三坊大路の交わるところに喜光寺(菅原寺)があり、その西北約1kmの丘陵頂部に菅原遺跡が所在する。菅原遺跡と喜光寺の位置関係は『行基年譜』(1175)にいう「長岡院 在菅原寺西岡」の記載に一致し、東大寺大僧正行基(668-749)の創建にかかる「長岡院」の可能性が高いとされる。喜光寺の本堂は行基が東大寺大仏殿を建立する前に大仏殿の圧縮モデルとして試作されたものとされ、行基は喜光寺で生涯を終えた。丘陵上の菅原遺跡から東南方向に喜光寺の境内を俯瞰でき、東の遠方には若草山麓の大仏殿を遥拝できる(図02)。毘盧遮那大仏鋳造を指揮した行基にとって絶好の場所であり、この場所に建つ建物が行基の供養堂と目される所以である。そして、それは『行基年譜』にいう長岡院であろうという推察を否定しえない。

(2)囲繞施設の遺構
 菅原遺跡の中央に鎮座する円形建物(円堂)は東側と北側東半を回廊(単廊)、北側西半と西側を掘立柱塀で囲まれている。北回廊は5間×2間の東西棟堀立柱建物(柱間10尺等間)にとりつく。南側は不詳ながら、同様の東西棟掘立柱建物の北西隅の柱堀形らしき遺構がみつかっている。南北対称の位置に東西棟が存在した可能性がある。
 北側と西側を画する回廊(掘立柱の単廊)の柱間は等間ではなく、7.5尺、7,7尺、8.3尺、10尺と多様である。筆者が奈良文化財研究所在職中に参加した薬師寺西回廊の発掘調査でも、柱間は等間ではなく、ごく一部で柱間に乱れを確認したが、菅原遺跡の場合は柱間のばらつきが著しい。丘陵地形に対応した可能性がある。回廊の柱堀形は80~100㎝四方であり、直径1尺程度の柱痕跡を確認できる。
 北東と東側の掘立柱塀の柱間も7尺、10尺、11尺、12尺など多様だが、とくに注目すべきは北側東西棟(5間×2間)の東脇の柱間が12尺と広いことであり、ここに脇門が存在した可能性がある。また、東側の掘立柱塀のほぼ中央には柱間20尺の部分があるのだけれども、その中間に小さなピットも存在する。円堂からこの方角を望むと、東大寺大仏殿を遥拝できる。ここに柱間2間(10尺等間)の棟門が存在した可能性がある。それは、伽藍への出入口というよりも、遠方の大仏殿を荘厳する装置であったかもしれない。
 北側の回廊・掘立柱塀にとりつく東西棟(5間×2間)は桁行・梁間とも10尺等間であり、柱堀形は回廊とほぼ同規模である。一方、南側の推定「東西棟」は先述のように、北西隅の柱堀形しか検出されていないが、その堀形の北側で検出された南側回廊の雨落溝の位置関係から考えると、梁間の柱間を12尺にとるべきかもしれない。この場合、南側の東西棟の方が北側の東西棟より梁間規模がやや大きくなる。
 回廊・掘立柱塀・東西棟等で構成される囲繞施設の規模は推定ながら南北38.5m×東西36.4mを測る。回廊・東西棟等はいずれも掘立柱ながら、聖徳太子を供養する八角円堂「夢殿」を中心に据えた法隆寺東院の伽藍配置を彷彿とさせる。菅原遺跡の円堂を供養堂と推定する一因である。上述した南北の東西棟の機能は不明ながら、法隆寺東院と比較するならば、南側は「礼堂」、北側は「絵殿・舎利殿」に相当する。


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開学20周年記念 同窓会報 挨拶文

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不思議な夏の随想

 8月上旬、浮かぬ顔で本学の玄関をくぐり、仮停めしていた車に乗り込もうとすると、ある人物が駆け寄ってきた。本学同窓会長のKさんである。今年の同窓会報の挨拶文を書いてほしい、とのことで、正直逡巡した。約一月半におよぶ病気休業の直前であり、心身とも不調に陥っていたからである。しかしまぁ、700字程度ということで、得意の短文ではあるから、当然のことながらお受けすることにした。
 〆切は8月16日。盂蘭盆会を迎えても体調は回復しておらず、とりわけ労働意欲の減退に苦しんでいた。ある夜決心し、下書きしてみたものの、家内に読んできかせると、「暗い」の一言。一両日の間に書き直して、もう一度家内に読んできかせると、「まぁいいでしょう」とのお許しを得た。それがこの挨拶文である。「不思議(不気味)な夏」を主題としている。

 10月下旬、同窓会報が届きページを開くと、この号(vol.17)は開学20周年記念号に値するものであることが分かった(20周年事業の話題をふんだんに盛り込んでいる)。私もまた、この大学で20年働いたということだ。開学当初から勤務する教員は、すでに数名にまで減っている。同窓会長に挨拶されたとき、心労の最中でもあり、いくぶん冗談混じりに「老教師は虐待されている」とこぼして驚き笑われた。そんな私に開学20周年記念の同窓会報の挨拶文がまわってきたことを少々愉快に感じている。
 とにもかくにも、ご笑覧いただければ幸いです。以下、文献情報。

  浅川(2021)「人類が現代史で経験したことのない災禍を超えて」
    『鳥取環境大学同窓会報 Re;TUES NEWS』 vol.17:p.2、鳥取環境大学同窓会、
    2021年10月 

img014同窓会報01sam img015同窓会報02sam クリックすると画像が拡大します



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二つの新刊紹介-能海寛と宇内一統宗教

 いまは遠い昔・・・になってしまいましたが、この春に新刊した『能海寛と宇内一統宗教』の新刊紹介が学術誌で連続してありました。以下のとおりです。評者は小林さんと前川さんです。

・小林克(2021)「浅川滋男編著『能海寛と宇内一統宗教』」『古代文化』vol.73:p.145、古代学協会


2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0001 2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0002


・前川歩(2021)「浅川滋男編『チベット仏教求法僧 能海寛と宇内一統宗教-明治の国粋とグローバリズム-』」『建築史学』第77号:pp.205-209、日本建築史学会


2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0003 2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0004 2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0005 2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0006 2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0007 2021年10月新刊紹介(小林・前川)_page-0008


《関係サイト》
現代に生き方のヒントを-書評(1) 【日本海新聞】
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2406.html
書評(2)-空海は東大寺の別当でもあった 【山陰中央新報】
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2409.html

2021年度卒業論文‐中間報告(5)

租界島マカオのエッグタルト-西洋食文化の中国への定着と変容
Egg tart of concession island Macao
- Fixation to China and its transformation of the Western food culture

1.中国語を和訳する新手法
 2020年度、研究室では有志数名が上海を訪問し、同済大学との交流を準備していた。結果として、コロナ禍により海外出張は叶わなかったが、4月から予備作業の一部として、中国語を読む訓練を始めていた。中国語の場合、Weblio翻訳やGoogle翻訳に頼ると、とんでもない日本語に変換されることが少なくなく、教授は中国語学習経験のない日本人がかなり正確に中国語の翻訳ができる独自の方法を考案されている(以下)。
 1) 中国語を漢文風に変える:楽訳中国語翻訳(http://www.jcdic.com/chinese_convert/)等のサイトによって中国語文を日本語の漢字群に置換する。この文字変換により、高校までに学んだ「漢文」に近似した文章になる。
 2)変換した「漢文」を読み下しする。本格的な読み下し文である必要はなく、「読み下し」もどきで十分。
 3)読み下し文を平易な現代日本語に改稿する。
以上の工程により翻訳した訳文はWeblio翻訳やGoogle翻訳よりもはるかに優れていることを確認した。
 筆者は、アヘン戦争後の南京条約(1842)で開港された上海租界地区のうち「外灘」の近代建築の翻訳を3年次に担当したので、以下にその一部を紹介しておく。『百度百科』掲載の「日清ビル」の冒頭部分である。

【原文】 
 日清大楼,又名:海运大楼,全国重点文物保护单位。 日清大楼 (外滩)是上海外滩建筑群中的一座建筑。
1)中国語の簡体字から日本語の漢字に変換
 日清大楼,又名:海運大楼,全国重点文物保護単位。 日清大楼 (外灘)是上海外灘建築群中的一座建築。
2)読み下し文(翻訳力向上後は省略可)
 日清大楼,またの名を海運大楼,全国重点文物保護単位。日清大楼 (外灘)これ上海外灘建築群中の一座の建築。
3)現代日本語訳
 日清ビル、別名海運ビルは全国重点文物保護単位である。日清ビル(外灘)は上海外灘建築群の中の一棟の建築である。

2.租界都市マカオとポルトガルの統治
 一年が過ぎ、今年度(2021)より研究室にマカオ都市大学からの留学生を迎えた。その留学生はマカオ(澳門)の景観保全計画に取り組んでおり、上海と同じ租界都市であったので、私も興味を持ち、共同で澳門に係わる中国文献を翻訳することとなった。
 前期は百度百科の「澳門」https://baike.baidu.com/item/%E6%BE%B3%E9%97%A8/24335 を共同で翻訳した。まず留学生が日本語に翻訳し、筆者がその日本語をならしたものを教授が最終的に校正する作業を繰り返した。この翻訳に基づいて以下の年表を作成した。

《マカオ年表》
 1553年 ポルトガルが明よりマカオの居留権を取得。
 1849年 ポルトガルがマカオの独立を宣言
 1851年 ポルトガルがタイパ島を占領
 1862年 天津条約により、中国はマカオがポルトガル植民地であることを認める。
 1864年 ポルトガルがコロアネ島を占領。
 1941年 太平洋戦争勃発、マカオは中立港として繁栄。
 1966年 一二・三事件(↓)が起こる
   (マカオ政府と中国共産党支持者の対立が原因で起こったマカオ史上最大の暴動)
 1974年 ポルトガル本国でカーネーション革命(Revolução dos Cravos)が発生し、
     海外植民地放棄を宣言。「リスボンの春」ともいう。軍事クーデターにより、
     ヨーロッパ最長の独裁体制「エスタド・ノヴォ」をほとんど無血に終わらせた。
 1979年 中国・ポルトガル外交関係樹立。
 1987年 マカオ問題に関する中国ポルトガル共同声明発表。
 1999年 マカオ返還、特別行政区成立。



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2021年度卒業論文 -中間報告(4)

『金閣寺』と『金閣炎上』
Two novels concerned with arson of the Golden Pavilion -Kinkaku Buddhism Monastery and Kinkaku combustion      

 2019年10月31日、沖縄県那覇市の首里城正殿が全焼した。首里城は世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部をなす国指定史跡であり、国民全体に衝撃が走った。火災原因は不明であり、正殿1階の照明器具で何らかの異常があった可能性が指摘されている。こうした文化遺産の火災としてとくに有名な先行例は、法隆寺金堂の火災(1949)と鹿苑寺金閣(金閣寺)の炎上(1950)である。現存する法隆寺金堂と金閣は、いずれも1950年代以降の再建であるという事実を後ろめたいと感じている日本人は少ないかもしれない。筆者はとくに金閣の火災に興味を覚えた。金閣寺の火災は、大学生でもあった若い修行僧による放火だったからである。卒論では、この問題を、三島由紀夫と水上勉の小説等から再考しようと思っている。資料としたのは以下のとおり。

《小説》
 三島由紀夫(1956)『金閣寺』新潮社
 水上勉a(1962)『五番町夕霧楼』新潮社
 水上勉b(1979)『金閣炎上』新潮社
《評論》
 酒井順子(2010)『金閣寺の燃やし方』講談社
《映画・ドラマ》
 市川崑監督(1958)『炎上』
 田坂具隆監督(1963)『五番町夕霧楼』
 高林陽一監督(1976)『金閣寺』
 山根成之監督(1980)『五番町夕霧楼』

 以上の諸作品については、3年次のゼミ演習で一通り鑑賞し感想文を書いているが、このたびの卒論では、それらを見直し、体系的な批評に仕上げたいと思っている。

1.金閣寺史要
 鹿苑禅寺は臨済宗相国寺派の寺院である。応永4年(1397)足利義光が山荘「北山殿」を造営したのが始まりであり、義光の没後、鹿苑寺と改名して仏寺となる。その後、三階建の舎利殿、すなわち金閣が応永5年(1399)に竣工した。明治30年(1897)には古社寺保存法の国宝に指定されたが、昭和25年(1950)7月2日、21歳の修行僧、林養賢が舎利殿に放火し全焼した。同時に国宝の指定解除となる。5年後に再建竣工。現在では金閣寺庭園が国の「特別史跡」「特別名勝」の指定を受け、1994年「古都京都の文化財」の一部として世界文化遺産に登録されている。

2.金閣寺放火事件を題材にした小説と映画
 上述のように、昭和25年(1950)の金閣寺放火事件を題材にした小説が3篇ある。三島由紀夫の『金閣寺』と水上勉の『五番町夕霧楼』『金閣炎上』である。三島の『金閣寺』は二度映画化され(市川監督→高林監督)、水上の『五番町夕霧楼』は一度映画化され(田坂監督)、後にドラマでリメイクされ、さらにもう一度映画化された(山根監督)。
 小説『金閣寺』『金閣炎上』はいずれも金閣寺放火事件の犯人、林養賢を主役としており、金閣寺の修行僧はなぜ金閣放火を実行したのか、犯人の人間性や性格・思考などが作者の想像も込めてフィクション又はノンフィクションで書かれている。『金閣寺』は、林養賢の人間像が三島由紀夫の感性で解釈され、「美」について苦悶する描写が少なくない。「女性の美」か「金閣の美」か、金閣の美が女性に対する性欲や女性の美を否定し彼を悩ませた。放火事件を素材にしているとはいえ、完全なフィクションであるが、三島の死生観や審美的感性が作品に貫かれており、後の「切腹」に至るプレリュードとして理解することも可能と思われる。ところが、これを原作とする市川崑監督の映画『炎上』では、金儲けの道具に金閣が使う禅寺の堕落や、金閣(作品中では「驟閣」)の美を汚すことに憤り放火する筋書きに変わっている。この筋書きは水上の『金閣炎上』に類似するところがある。最も異なるのは終盤である。三島の原作(小説)では、放火後の林養賢が「生きよう」と思ったのに対して、映画『炎上』では林は自殺してしまう。三島は小説執筆時にこの問題について悩んでいたようで、小説では「生」、監修した映画では「死」を選択した。なお。市川崑は炎上というカラフルな映像をモノクロ映画として仕上げており、その出来栄えは黒沢明の『羅城門』に比肩しうる傑作として称賛を集めている。
 水上勉の『五番町夕霧楼』は三島の『金閣寺』を一部継承した大衆小説である。映画は、比較的原作に忠実に撮られているが、1963年版では放火の動機を吃音による寺からのいじめや軽蔑から性格が歪んだのだろうとしているのに対して、1980年版では禅宗の腐敗が主な動機となっている。1980年版は『金閣炎上』をも参照にしているからではないか、と私は思っている。
 水上の『金閣炎上』は小説というよりも、むしろドキュメンタリー(ノンフィクション)に近い。水上は同じ丹後出身である林養賢の個性に興味をもっており、林養賢や関係者に詳細なインタビューをおこなった。林養賢は禅宗に対する強い思いがあり、金閣寺で修行するうちに禅宗の腐敗や無意味性を感じるようになった。その気持ちと社会への不満が抑えきれなくなり、放火に至ったように思われる。水上は林養賢の性格を生まれた育った舞鶴の風土性と関連づけている。日本海側(裏日本)の陰湿とした風土性が人格形成に影響していると水上は分析しているが、日本海沿岸で生まれ育った人間はみなそのような性格になるはずもなく、結局は個人の資質の問題ではないか、という意見のほうがむしろ妥当であろう。


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2021年度卒業論文 -中間報告(3)

荒金鉱山と岩井町営軌道―岩美町の近代化遺産として―
Arakane mines and Iwai municipal railroad tracks-As the modernization heritage in Iwami town-

 岩美町の荒金鉱山は、昭和46年(1971)の廃鉱後、排水の汚染により、公害の巣窟のようにみなされ、衛生工学的な処理ばかりに注目が集まってきたが、歴史的にみるならば、鳥取県の近代化に貢献した産業遺産、すなわち「近代化遺産」としての文化財価値も備えている。本研究は荒金鉱山及び鉱山と関係の深い岩井町営軌道の歴史を明らかにするとともに、今に残る近代化遺産としての価値を検証しようとするものである。

1.荒金鉱山の歴史
 日本最古の鉱山についての記録は奈良時代の正史『続日本紀』に登場する。文武天皇二年(698)三月五日、「因幡の国より銅鉱を献ず」とみえる。厳密に言うならば、この銅鉱が岩美町の荒金鉱山に比定される確証はないけれども、和銅年間(708~712)には因幡国から元明天皇へ銅を献上し、鉱(あらかね)すなわち荒金と命名されていたようである。
 その後の展開は近代にまで下る。明治22年(1889)岩美町法正寺にある宝得鉱山を経営していた山添貞三が、宝得鉱山の裏側にあたる荒金鉱山の古い坑道で、旧小田村の小倉勝次郎に採鉱を命じた。明治30年(1897)銅の露頭を発見し、数人で採掘を始めたが、成果は芳しいものではなかった。ここから本坑を開き、それが荒金鉱山の出発点となって、まもなく鉱山は島根の星野氏所有となる。
 大正2年(1913)鉱山は星野氏から、島根津和野の豪商・堀藤十郎の手に渡る。堀は諸々の設備を整えて経営に尽力し、鉱山は隆盛期を迎えた。しかし大正9年(1920)、財界に大変動が起こり、荒金鉱山は一時休山状態に陥る。大正12年(1923)荒金鉱山は久原鉱業株式会社に委譲される。久原鉱業は日本鉱業株式会社と社名を変更し、一層の設備更新を図る。昭和4年(1929)の従業員は530名余に及び、銅の最高生産量を記録した。
 隆盛期を迎えたこの頃、従業員の社宅が山上に建設され、寄合・演劇・映画上映に利用された集会所、理髪店などの福利厚生施設が鉱山周辺に存在し、鉱山町を形成していた。
 昭和18年(1943)9月10日、鳥取大地震が発生し、坑道内の施設が壊滅的な被害を受け、採掘中止を余儀なくされる。この時、地震により堆積した鉱泥が荒金鉱山下部に流れこみ、朝鮮半島出身の鉱山労働者や荒金集落の住民たちなど、多くの命が犠牲になった。死者とともに、鉱山町を形成した住居なども破壊された。
 震災を機に、会社は百名ほど人員を削減し、従来からの副業である沈殿銅の採集に転換したが、昭和27年(1952)から沈殿銅の品質が低下し、銅の生産量が減少に転ずる。
 昭和30年(1955)頃から経営はさらに悪化し、昭和32年一月末日限りで操業停止、中国鉱山株式会社に鉱業権を譲渡した。集会所や理髪店などの施設も次々と売却され、鉱山町は徐々に空洞化していった。中国鉱山株式会社はその後も人員削減を繰り返しながら操業してきたが、昭和46年(1965)4月5日、鉱業権を破棄し会社は消滅した。事実上の閉鉱である。


荒金鉱山S10(平井) 昭和10年頃の鉱山の様子


2.岩井町営軌道の歴史
 岩井町営軌道は、岩井村営軌道として大正15年(1926)1月頃から運営を開始した。当初は旅客送迎のみだったが、4月には、荒金鉱山から岩井温泉まで馬車軌道で運び出された鉱石を岩美駅まで貨車に荷出していた。駅まで運ばれた鉱石は鉄道省線に積み替えて、姫路市飾磨港まで運ばれ、九州の佐賀関まで輸送していた。
 昭和2年(1928)の町制施行により、町営軌道となる。町による運営は成功するかと思われたが、昭和8年頃からの自動車の普及に伴い、軌道収益が減少し始め、経営が悪化していく。同時に、鉱石の運搬も、鉱石の採掘量減少に伴う運搬費節約のために、トラックに取って代わられる。
 翌年、昭和9年(1934)6月6日の岩井大火、同年9月19~21日の豪雨大水害により、岩井温泉は壊滅状態に陥り、蒲生川河岸の軌道も流出するなどの被害があり、町営軌道は営業停止を余儀なくされた。昭和11年に営業再開。翌年、日中戦争が始まり、軍需優先政策から鉄の不足が深刻になって、軌道の取り換えや修理が困難になる。軌道の劣化によって列車の速度が遅くなり、運賃も値上がりした。昭和19年(1944)に戦中の企業整備により運休、事実上の廃業となる。その後、昭和39年(1964)3月27日付で岩井町営軌道は廃止となった。



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2021年度卒業論文(2)-中間報告

古民家再生による限界集落の活性化-カール・ベンクス氏の周辺
Activation of depopulated villages by the reproduction of old folk houses
- around the works of Mr.Karl Benks

 2019年以来、研究室全体で『鳥取県の民家』(1974)掲載古民家の再訪に取り組み、指定解除や撤去などの衝撃的な事実に驚かされた。過疎地の民家集落が持続可能な状態にあるとは到底考えられず、自治体そのものが「終活」の時代を迎えつつあるとの思いを強くした。ところがあるとき、鄙びた山間部に店を構える蕎麦屋が繁盛し、客を集めている事実に気付き、昨年度はこの問題について考察した。古民家を改装した蕎麦屋は通う場所としては人気が高いものの、その場所に「住みたい」わけではない。結局、集落としての持続は不可能かと思っていたところ、新潟の限界集落「竹所」に25年以上住みながら古民家を再生し、人口を倍増させている建築家の存在を知った。その人物は東ドイツ出身のカール・ベンクスさん(78歳)である。
本稿では、ベンクス氏がどのようにして竹所を復活させたのか追跡していく。また、研究室が10年以上前から主フィールドにしている摩尼山・摩尼寺の門前精進料理茶屋の衰退が著しく、その再興にベンクス氏の手法を援用できないか検討を進めたい。これにあたっては、福祉系地域起こしを人選している青年海外協力協会(JOCA)や佛子園の活動も参考にする予定である。

1.カール・ベンクス氏の経歴
 ベンクス氏は1942年に東ベルリンで生まれた。ベンクス氏生誕の2ヶ月前にソ連で父親が戦死している。父親は日本文化の愛好家であり、その遺品に触れることでベンクス氏も日本に関心を抱くようになる。とりわけ、来日経験のある建築家ブルーノ・タウトの『日本の家屋と生活』(1966)には影響を受けたようである。20歳の時、ベルリンの壁が築かれた。東ドイツの徴兵制から逃れるため単独でシュプレー川を渡り、西ベルリンに脱出した。
 その後、空手と柔道を学ぶためパリに移住し、1966年には日本を訪れ、本場での修行を続ける。その際、日本の職人や工務店と交流し、日本の伝統技術の高さに魅入られる。7年後、和風建築を広めるためヨーロッパに戻り、本格的に建築デザインの仕事を始める。一方、ベンクス氏は夫婦で隠棲できる住処を求めていたのだが、1993年新潟県十日町市竹所の見学を薦められた。そこで古ぼけた中門造の古民家をみて衝動的に購入し(150万円)、自ら再生に取り組み、「双鶴庵」と命名した。妻のクリスティーナさんとそこで暮らしている。
 1999年には建築設計事務所「カールベンクス&アソシエイツ㈲」を設立した。2010年には十日町市松代の老舗旅館を買い取り、2階を建築デザイン事務所、1階をカフェ「澁い-SHIBUI」として再生した。これまで竹所を中心に十日町周辺の古民家再生を60軒手がけおり、2017年には夫婦で内閣総理大臣賞を受賞した。

2.ベンクス氏の古民家再生-日欧融合
 ベンクス氏の古民家再生手法は文化財修復型とはまったく異なる。和風の小屋組・軸組は古材を再利用して復元するが、外観はドイツのカラフルなハーフティンバー式に改変し、内装にはヨーロッパの古式な家具などを取り入れている。大変おしゃれな数寄屋風の骨董品的風貌があり、アメニティ(住み心地の良さ)も向上させている。また、豪雪地帯の寒さ対策として、壁に厚さ10㎝の断熱材を入れ、床暖房を設置し、窓にはドイツ製のペアガラスを用いている。ベンクス氏は竹所ですでに8軒の古民家をカラフルに再生し、移住によって人口を倍増させている。


双鶴庵(東)  



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2021年度卒業論文 -中間報告(1)

大僧正行基と長岡院 -菅原遺跡を中心に-
Gyoki as an Archbishop and his Annex called Nagaoka-in – Focusing on the Sugawara ruins-

 2021年5月22日、奈良市疋田(ひきた)町の菅原遺跡に係わる報道が各紙いっせいにあった。『行基年譜』(1175)にいう長岡院に比定できる可能性が高く、しかも遺跡の中心に建つ遺構が円形(もしくは正多角形)を呈することから、「行基の供養堂」説が浮上し注目を集めたが、大規模宅地開発のため遺跡は取り壊されるという。円形の建物は日本建築史上例外的な存在であり、突出した文化財価値を備えている。研究室(OB含む)では遺跡供養のためにも復元研究に取り組むことになった。

1.行基略歴
 行基は天智天皇7年(668)、河内国大鳥郡(後の和泉国家原村=現在の堺市)で生まれた。天武天皇11年(682)15歳の時、大官大寺で得度し、持統天皇5年(691) 24歳で高宮寺徳光禅師のもと受戒する。このころ道昭(629-700)を師とし法相宗を学んだという。道昭は唐で玄奘三蔵に師事した遣唐留学僧であり、玄奘からインドの情報を吸収していたと想像されるが、道昭と行基の邂逅に係る記載には潤色を含むという指摘もある。
 大宝4年(704)、和泉の生家を「家原寺」という小寺に改めるも、40歳で生駒山の草野仙房に移住し修行する。養老元年(717)「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、人民を妖惑している」とあり、行基集団は僧尼令に違反するとして、朝廷からの弾圧を受けた。また天平2年(730)、平城京の東の丘陵で妖言を吐き、数千人以上の民衆に説法し惑わしているとして批判された(続日本紀)。このように奈良時代前期にあって、若き行基は反体制の立場から貧民救済を実践し朝廷から弾圧を受けていたが、天平3年(731)朝廷は弾圧を緩め、翌年から河内国狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年(736)インド僧菩提僊那や林邑(チャンパ)僧仏哲、唐僧道璿とともに来日した際、大宰府で行基が出迎え、平城京に導いた。三人の外国僧は大安寺に住したという。  
 天平10年(738)朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)が授けられた。天平12年から聖武天皇の勅命により毘盧遮那大仏建立に協力する。当時、都は恭仁京(現京都府木津川市)にあり大仏鋳造は甲賀の地で着工された。天平15年(743)、行基は大仏像造営の勧進に起用される。その2年後、都は平城京に戻り、大仏は東大寺に場所を変えて造営が進んだ。行基は天平17年に朝廷より仏教界における最高位「大僧正」の位を最初に贈られた。しかしながら、大仏開眼を前に天平21年(749)、喜光寺(菅原寺)で入滅(享年81歳)。

2. 行基四十九院と土塔
 仏教における「四十九院」の原義は、弥勒菩薩の居所である兜率天の内院にある49の宮殿を意味する。行基は生涯にわたって49の寺院を建立したと言われる。ただし、49という数字は「四十九院」や「四十九日」との語呂合わせであって、行基四十九院の場合、寺院数が実態を反映しているのか疑わしい。49院の名称や所在地が詳らかなわけではなく、行基四十九院に含まれることが確定しているのは、大野寺(大阪府堺市)、隆福院(奈良市大和田町)、昆陽施院(兵庫県伊丹市)、隆福尼院(奈良市大和田町)、発菩提院(京都府相楽郡山城町)などに限られている。大野寺はとくに有名で、730年頃に造営された土塔は十三重塔の最上部に「円」形の粘土ブロックを残すモニュメントであり、屋根も壁も本瓦を直葺きしていた。日本建築史上類をみないこの建築は、インド的な巨大ストゥーパを日本化したもののようにみえる。


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ソバ食のフードスケープ(1)

プロ研2&4開始!

 先週9月30日(木)から後期のプロジェクト研究2&4(1・2年の演習)が始まっています。いつもなら、夏休みから新しいアイデアが湧き出してくるのですが、今年はさっぱりでした。苦しみぬいたあげく、昨年の4年生が卒論で取り組んだ「ソバ食のフードスケープ」に再び挑むことにしました。初回のオリエンテーションは、なんかいい感じでした。「たかや」でバイトしている学生もいたりして・・・また今年もがんばります。

《概要》 全国各地の山間部で人口減少が進み、集落の限界化→廃村の流れがとまりません。ところが、鄙びた山間部に店を構える蕎麦屋が点々とあり、繁盛しています。たとえば、大山山麓や丹波篠山などにミシュラン一つ星やビブグルマンの蕎麦屋があり、予約客等で賑わっています。このプロ研では、「なぜ日本人は蕎麦食を愛好するのか」という問いかけから出発し、「山中の蕎麦屋はなぜ繁盛(持続)しているのか」という問題を考えます。また、もう一つのソバ食文化圏であるチベット・ブータンにも光をあてます(私のメインフィールドはこの地域です)。ブータンの蕎麦実が日本に輸出され、地域振興に貢献しているのですが、その活動はブータン高地の貧農支援と日本の障碍者支援を背景としています。蕎麦をめぐる国際交流と地域貢献の有り方を学んで下さい。

《授業計画》
01(0930)オリエンテーション【1・2年合同】4限(+α)のみ
02(1007)ソバの文化史-日本【1年】4~5限
03(1014)甘蕎と苦蕎-ソバの比較文化【2年】4~5限
04(1021)ネットで探る出身地の蕎麦屋(1)【1年】4~5限
05(1028)ネットで探る出身地の蕎麦屋(2)【2年】4~5限
06(1104)摩尼寺門前訪問-精進料理とソバ食【1年】4~5限
07(1111)そばカフェ「みちくさの駅」訪問【2年】4~5限
08(1118)ブータン蕎麦料理レシピの翻訳(1)【1年】4~5限
09(1125)ブータン蕎麦料理レシピの翻訳(2)【2年】4~5限
10(1202)調理実験(1)-ソバガキ(日本)とパンケーキ(ブータン)【1年】4~5限
11(1209)調理実験(2)-ソバ粉のギョウザ「モンモ」(ブータン)【2年】4~5限
12(1216)山中の蕎麦屋はなぜ繁盛しているのか-データ解読【1年】4~5限
13(1223)ブータン蕎麦の輸入と地域振興―仏師園とJOCAの活動【2年】4~5限
14(0113)発表会リハーサル
15(0120)発表会
*コロナの感染度等によっては日程・内容を変更する可能性があります。

行基ノート

記者発表にむけて

 菅原遺跡の円形建物に係わる復元検討web会議を6回重ね、復元案も煮詰まってきました。そこで、県庁記者クラブとスケジュール調整した結果、以下の日時・会場で記者発表をすることとあいなりました。書き留めておきます。

 10月18日(月)午後1時~
 @奈良県庁内・文化教育記者クラブ

 以下は研究成果ではなく、某課に提出した書類です。 最近あまりブログを更新していないので転載しておきます。

 新政権には落胆しっぱなしですが、私たちにも影響が及んでいます。総選挙前倒しの影響で以下に日時変更しました。

11月8日(月)午前11時~
 @奈良県庁内・文化教育記者クラブ



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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