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菅原遺跡第2論文の刊行!

表紙151-152_表紙_page-0001 05 浅川氏 抜刷表紙_page-0001


 菅原遺跡(奈良市)の円形建物復元に係る第2論文を収録した『古代』151・152号が昨年11月末に刊行され、本誌と抜刷が12月になって大学に送られてきました。以下、書誌情報です。

 著  者: 浅川滋男・武内あや菜・岡垣頼和
 論文名: 菅原遺跡円形建物SB140 の復元に係る再検討
       ― 発掘調査報告書の刊行をうけて ― 
 掲載誌: 『古代』第151・152合併号:pp.123-152 (審査付論文)
 出版元: 早稲田大学考古学会
 印 刷: 白峰社 〒170-0013 東京都豊島区東池袋5-49-6

 論文の抜刷pdfは以下のサイトよりダウンロードできます。期間限定ですので、早めにDLお願いします。
https://39.gigafile.nu/0415-c7ab94aff8f2f4e97786980ca074e1008
 パス: mars

 本論文刊行後、ただちにマース君に抜刷を送りました。彼の多宝塔説が成立しないことを多角的に論証したものであり、じつは論文の刊行とほぼ同時に、退任記念論文集『中後期密教/前密教の建築考古学と比較文化』の第3章に収録しています。論文集第3章と『古代』掲載論文の中身はまったく同じです。ただ、後者(オリジナル)はB5版、前者はA4版という違いがあるのみ。
 この論文の内容が1月13日大阪講演の主要部分であり、さらに東大寺頭塔、大野寺土塔にも触れる予定。要するに、骨格は10月5日鳥取三朝講演と同じですが、ようやく田中淡著作集書評という重責から解放されたので、明日よりパワポの質を一気に向上させます。乞ご期待!

切支丹灯籠を訪ねて(2)-観音院

0605観音院01キリシタン灯籠02 0605観音院01キリシタン灯籠05調査風景02採寸02


観音院と国指定名勝庭園

 6月5日(水)、鳥取市上町162の観音院を訪れ、切支丹灯籠の調査をおこなった。観音院は17世紀前期(1630年代前半)、僧宣伝により雲京山観音院の号で栗谷に開創したが、寛永16年(1639)ころ上町に移り、補陀落山慈眼寺観音院と寺号を改めた。本尊は聖観音菩薩である。 慶安3年(1650)、樗谿に徳川家康を奉る因幡東照宮が竣工すると、その別当寺大雲院(天台宗)の末寺となった。宝永6年(1709)には、鳥取藩主池田家の八ヶ寺の一寺に指定されている。
 源太夫山麓の傾斜地を生かした京都風蓬莱様式の池泉鑑賞式日本庭園は、東照宮供養の慶安3年から作庭が始まり、10年を費やして完成したものであり、昭和12年(1935)、国の名勝に指定されている(追加指定2006)


0605観音院02書院02調査風景02 観音院風景②
左:書院から庭を望む 右:本堂から庭と書院を望む。中央奥に織部灯籠がみえる


観音院の切支丹灯籠

 今回調査した切支丹灯籠は書院南側の散水外側、池の畔に置かれている。豊臣秀吉による伴天連追放令(1587)から切支丹弾圧緩和の令がでる明治5年(1872)まで、潜伏キリシタンたちが為政者の眼をのがれ、ひそかに信仰の対象とした十字架の代替である。鳥取県内には第一報で報告した興禅寺を含め計5基残存するが、この観音院の灯籠は尊像上部に刻まれるラテン語の裏文字のない形式で、迫害が一層厳しくなった寛永元年(1624)から江戸時代中期(18世紀)ころの作と推定される。切支丹灯籠は別名、織部灯籠というが、すでに古田織部なき時代の作品であったとしても、それなりの注目に値する。


0605観音院01キリシタン灯籠06ポラロイド集合01 0605観音院01キリシタン灯籠03 0605観音院01キリシタン灯籠04記念写真01 0605観音院01キリシタン灯籠05調査風景02採寸01


ポラロイドカメラを使った採寸・調査

 観音院では灯籠のスケッチ、採寸に加えて、新4年生にとっては初めてポラロイドカメラによる調査に取り組んだ。灯籠下部の竿は断面が縦190㎜×横230㎜、高さ490㎜であった。上部のふくらみ部分は上横幅195㎜、中央横幅300㎜、下横幅160㎜、高さ210㎜を測る。ポラロイド調査の流れは以下のとおりである。
  ①ポラロイドで対象物を撮影
  ②寸法などの情報を油性マジックで書きこむ
  ③その写真をデジカメで撮影し、バックアップとして全員に共有。
 ポラロイド調査では正面以外からも撮影することや周りの情報も写真に書き込む。


観音院灯籠ポラロイド画像1 観音院灯籠スケッチ画
ポラロイドカメラ撮影写真(左)、脇野スケッチ画(右)



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旧同僚との対話-行基関係遺跡の瓦をめぐって

 岩永省三さんは奈文研の元同僚で、いくつかの発掘現場で調査をともにした関係にある。奈文研有数の掘手であり、精密な論証・考察に定評がある。当時、わたしは遺構調査室、岩永さんは瓦を整理分析する考古第3調査室に籍を置いていた。ちなみに、1956年生まれの同い年、奈文研退職も200年度末(2001年3月)で同じである。2001年4月からは九州大学総合研究博物館の教授に異動され、2021年3月でご退官。同年5月には、奈良市文化財係長のご案内で、前園さん、岩永さん、前川さんの3人と菅原遺跡の発掘調査現場を見学した。
 元文研の報告書2023が刊行されてから、かなりな頻度でメールを交換するようになり、すでに匿名で何度かご意見を掲載しているのだが、このたび岩永さん本人の許可を得て、とくに出土瓦に関する部分を抜粋掲載させていただくことになった。以下、二つの話題に分け、時系列に沿って転載する。

1.1981年出土の隅切瓦が2020年検出の遺構に使用されたとみる問題

On 2023/11/13 11:20, 岩永 wrote:
 昨日ようやく元興寺でやってる菅原遺跡展を見てきました。あの遺跡が保存できなかったのは返す返すも残念です。建物の復原に関する展示の説明文で理解しがたい点があり、報告書を購入して読んでみましたが、特に屋根形態の根拠に、出土瓦の法量・形態を根拠にしてます。正方形の根拠は45°の隅切り平瓦の存在なんですが、45°の隅切り平瓦は2020年度調査地では出ていないにもかかわらず、1981年の奈良大調査地点の出土瓦(方形基壇建物の周囲で出土)が、2020年調査地点からの流れ込みで、本来2020年度地点で用いられたとみなして立論しています。しかし両地点は数十メートルも離れており相当無理な話。1981年度地点での45度の隅切り平瓦の出土状況を再検討する必要がありますが、1981年度地点での出土瓦は方形基壇建物の周囲に集中的に出ているようですからやはり方形基壇建物の屋根に葺かれ、その建物が正方形だったとする根拠に用いるべきでしょう。

On 2024/01/25 09:45, 浅川 wrote:
 《返信》 いま学生が卒論に取り組んでおり、仕上げの段階に入りました。それで、11月20日に送信いただいたなかで、「1981年の奈良大調査地点の出土瓦(方形基壇建物の周囲で出土)が、2020年調査地点からの流れ込み」という部分が、報告書からは探しだせなかったのですが、岩永さんのご覧になられた書籍をご紹介いただけませんでしょうか? わたくしどもの不注意で、報告書内の文章を見逃していたらお詫び申し上げます。なにとぞご教示をお願いいたします。

On 2024/01/25 12:07, 岩永 wrote:
 出典は『菅原遺跡』です。1981年地点出土の隅切瓦・小型瓦が2020年地点からの「流れ込み」と直截に表現してる訳ではありませんが、 『菅原遺跡』2023:p62 3~4行目「1981年の奈良大学の調査で出土した小型瓦が、現時点では、この建物に用いられていた可能性が高い。そこでは少数ながら隅切瓦が出土している。」 「この建物」はSB140を指している。隅切瓦は2020年調査区で出たとは書いてないので、「そこでは」は1981年奈良大調査区を指している。 p65 27行目「この構造体が支持する屋根は、隅切瓦および鬼瓦の存在から、平面は四角で隅棟をもつ形式と考える。」 ここでは、隅切瓦がSB140に伴うことを前提・自明とした記述になっている。 p78 5~7行目「この小型瓦については1981年調査時には、・・・、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SB140の上層に葺かれた可能性を想定することとなった。」 この記述からは1981年調査地点出土の小型瓦が1段上で数十メートル離れた2020年調査地点に由来する、つまり上の段からの流れ込みと見ていることが分かる。 p89 下から3行目「1981年調査では約45°の角度を持つ隅切瓦が出土しており、上層屋根正方形が想定される。」 1981年調査区出土の隅切り瓦も、上の段からの流れ込みと理解していることが読み取れる。以上総合して、
  1981年出土の小型瓦は上の段からの流れ込み。
        よって↓
  1981年出土の隅切瓦は上の段からの流れ込み。
         よって↓
  小型瓦・隅切瓦はともにSB140に由来する。
という形で論を飛躍させたことが判明。しかし、1981年地点で出土した遺物は、まずは1981年地点の建物の屋根復元に用いるべきでしょう。かりに屋根が正方形にならなくて長方形の寄棟ないし入母屋であっても、45°の隅切瓦は使えるわけですから。1981年地点内での瓦の出土位置の検討、基壇の周囲なのか、北側の崖の下なのかをきちんとした後でなければ、上の段からの流れ込みなどと安易に結論付けることはできないはずです。

On 2024/01/26 1:01, 浅川 wrote:
 《返信》 どうもありがとうございます。当方が心配していたのは、展示場で岩永さんが図録のような冊子を買っていて、当方はそれを見逃していたのかもしれないということでした。安心しました。いま学生は、遺構図に主要瓦(小型瓦、重要な普通サイズの軒瓦、西大寺系の瓦など)の分布を落としています。報告書にはこういう分布図も掲載されていないのですが、分布を確認すると、小型瓦は回廊から11点出土しています。円形建物の周辺からは何もみつかっていない。ましてや、数十メートル離れた地点で出土した小型瓦、隅切瓦を使うなどありえないことだと考えます。

On 2024/02/11 23:26, 岩永 wrote:
 パワポ拝見しました。ご教示有難うございます。あらためて『菅原遺跡』(2023)、『菅原遺跡』(1982)もチェックしましたが、2020年査地出土の小型瓦が出土地点から見て、SB140ではなく、回廊やSB150に葺かれた、という御説は良いと思います。問題は6711Bで、これも出土地点は、SB150・SD034・整地土なので、出土地点からすると、SB140に葺かれたと、直ちには言いにくい点が難点でしょう。御説では、6711BがⅢー2期(天平勝宝年間)の物で、2020年調査区では最初に用いられた瓦なので、区画施設所用ではなくて、最初に建設されたSB140の大屋根に葺かれたと推定していますが、出土量があまりにも少なく、SB140の大屋根を総瓦葺きと考えて良いのか躊躇が有ります。屋根の形が八角形は良いとして、檜皮葺きとは考えられませんかね?
 1981年調査区で多い6316Mー6710DはⅣー1期(天平宝字年間)。小型の6299Aー6765Aは時期を決めにくいが、出土量からみて6316Mー6710Dに伴う小型瓦とすれば、Ⅳー1期(天平宝字年間)でしょう。1981年調査の報告では、一つの屋根で部分によって中型瓦と小型瓦を葺き分けたと考えてますが不自然で、薬師寺の例から見て、大屋根用と裳階用と考えればよいでしょう。そうすると、1981年調査区出土の小型丸瓦・平瓦は方形建物の裳階用として吸収できるので、2020年調査区からの流れ込みと考える必要はますますなくなる。1981年出土の小型隅切瓦を2020年調査地で用いたものなどとは言えないことは明らか。建築構造論的には、内周土坑列を地覆の抜き取りと見るか、大壁基礎と見るかが一番の問題で、現地を見た奈文研の職員も、壁受け地覆では土坑間の隙間が上手く説明できないし、調査中の担当者も多角形基壇と説明していたのに、報告では大壁としていたので解釈の変化に驚いた、と言っておりました。円形の多宝塔にするという結論に、遺構・遺物の評価を強引に引き付けたのが原因と思われます。

On 2024/02/25 12:26, 浅川 wrote:
 《返信》 岩永さんのお考えとは少々異なるところもあるかと思います。すなわち、私どもは、建物の葺き材を以下のように考えております。
  SB140大屋根: 6711B型式軒平瓦(当初)+西大寺系瓦(修補・追加)
  SB140土庇: 檜皮
  回廊など周辺施設: 小型瓦(+檜皮もしくは板?)
 以前にご指摘されたとおり、瓦の出土量が少ないのは問題ですが、広隆寺八角円堂檜皮葺の例など示しながらも、今回はSB140は普通サイズの瓦葺きとしました。1981年調査区の方形基壇建物は、御説のとおり、木造層塔の大屋根が中型瓦、裳階が小型瓦と考えています。 


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大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討 -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-《2023年度卒論概要》

卒論スライド1(武内) スライド1


 こんにちは、武内です。2月7日(水)ポスター卒論研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。 卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。

題目: 大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討
    -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-
Continuous Re-examination on the Annex called Nagaoka-in for the Memorial Service of Archbishop Gyoki in the 8th Century
-Upon the Publication of the Formal Report on the Excavation of SUGAWARA Site, Nara City -
中間報告


1.研究の経緯と問題意識

 奈良市疋田町の丘陵上に所在する菅原遺跡は、2020年10月から元興寺文化財研究所(以下、元文研)が発掘調査し、2021年5月22日にその成果を一斉に報道した。菅原遺跡は菅原寺の西北約1kmの丘の上にあり、『行基年譜』(1175)の記載に一致するため、東大寺大仏の造営を指揮した大僧正行基(668-749)を追善供養する「長岡院」説が有力視されている。そこで発見された遺構は、同心円的平面を呈する十六角形建物を回廊・塀などが囲んでおり、国指定史跡の価値があると評価されたものの、遺跡の保存は叶わず、宅地造成により滅失した曰く因縁の奈良時代遺跡である。
 報道を受けてまもなく、研究室の有志は菅原遺跡を訪れて遺構を体感し、建築的復元を決意した。当時、ただ元文研がネット上にアップした速報があるだけで、その資料から復元に挑むのは早計の誹りを免れえないとは思いつつ、研究室が事を急いだのは以下の理由による。元文研が記者発表で使った「円堂」の復元パースは、空海が真言密教とともにもたらしたとされる「多宝塔」をイメージしたものだが、奈良時代の日本には存在しないというのが常識であった。復元パースの建物は、ネパールのストゥーパや北京の天壇を彷彿とさせる日本離れしたものであり、一般国民はこのような建築が奈良時代に存在したと勘違いしかねないので、できるだけ早く修正しなければならないという想いが強くなったのである。
 研究室の手法はオーソドックスである。十六角形という特殊な平面を、奈良時代の八角円堂のバリエーションとして捉え、四つの復元案を完成させ、記者発表と学会誌投稿などをおこなった。このとき研究室の卒業生、玉田花澄が卒論として考察している。その後、2023年3月に元文研が正式な報告書を刊行した。問題点はさらに悪化している。「多宝塔の初現形式」が空海帰国以前の奈良時代に遡ると断定し、円形建物の復元案が当初案以上に奇怪な姿を露呈しているからだ。こうした日本史/日本建築史に抗う見解を示すならば、予め学会誌で審査を受けるべきだが、そのような慎重なプロセスを経ることなく報道され、再び国民に歪んだ歴史観を与えかねない状況なので、急ぎ報告書を全面的に精査し、批評を試みる。


卒論スライド2(武内) スライド2


2.宝塔/多宝塔の歴史観-空海帰国以前と以後では形式が異なる

 宝塔・多宝塔の本来の意味は『法華経』見宝塔品に由来する。釈迦が法華経を説法していたとき、突然地下より巨大で美しい塔が涌き出で空中に浮かび、「釈迦の説法は正しい」と絶賛する大声が聞こえ、釈迦を塔の中に招きいれて並座する。この大声の主こそ、東方の宝浄国にいた過去仏、多宝如来である。法華経では、多宝如来の御在所を「塔廟」と呼んでおり、「宝塔」あるいは「大塔」とも表現している。煌びやかで大きいことに特徴があるだけで、具体的な姿は不詳だが、7世紀に遡る長谷寺銅板説相図の「多寶佛塔」は六角三重塔に描かれている。ほかにもバリエーションはあるが、ともかく平安時代以降の多宝塔とは全く異なることを知っておかなければならない。
 平安時代の初め(9世紀初期)に、空海が唐長安青龍寺での修行を終えて、密教の奥義を極め、多数の仏典とともに、日本に招来したのが宝塔・多宝塔とマンダラである。マンダラは円と正方形を組み合わせた図形の複合に特徴がある。そうした幾何学的造形は宝塔・多宝塔にも共通する。高野山金剛峯寺の根本大塔や同じ和歌山県の根来寺大塔 (1496)などの裳階付き宝塔は、平安初期には「大塔」と呼ばれていた。11世紀前期以降、釈迦・多宝如来並座の天台系の塔を「多宝塔」と呼び始め、現存最古の石山寺多宝塔(1194)は真言宗の本尊「大日如来」を祀っている。
 日本建築史の定義では、裳階のない円筒・伏鉢状本体だけのものを「宝塔」、それに裳階がついたものを「多宝塔」とする。仏教史的にはそうした区別はあまり意味がないようで、多宝如来を祀る宝塔を「多宝塔」と呼ぶ寺院もある。繰り返しになるけれども、空海帰国以前の「多宝塔」と帰国以降の「多宝塔」は形式を異にするという事実を認識する必要がある。


卒論スライド3(武内) スライド3


3.行基墓に係る文献記載-行基舎利は生駒山中にあり、長岡院とは関係ない

 我が研究室は、菅原遺跡で発見された十六角形建物を法隆寺夢殿のような供養堂だと考えている。一方、元文研はこれを多宝塔系と捉えている。その根拠として、行基の墓に関する記録に「多宝之塔」「塔廟」が含まれることをあげているが、さてどうだろう。
 鎌倉時代初期、文暦2年(1235)の行基墓発掘の記録を含む『竹林寺縁起』を要約してみよう。

  行基の遺命によって生駒山の東陵で火葬した。 ただ砕け残った舎利、燃え尽きた軽灰が
  あるのみ。 行基の舎利・遺灰を容器に収めて、多宝之塔とみなした。

 行基の舎利を埋めた生駒山竹林寺の陵墓を「多宝之塔」とみなしており、行基の没年(749)の段階で墓はあっても、追善供養の施設はまだ建立されているはずはなく、菅原遺跡の円形建物と「多宝之塔」は関係ない。また、嘉元3年(1305)に凝然が著した『竹林寺略録』の読み下し文は以下のようになる。

   勝賓から嘉禄に至るまで、ただ「塔廟」を建てて舎利を安置する。
     *天平勝宝:749~757年  嘉禄:1225~1227年
 行基の没年以降、鎌倉時代の初期まで「塔廟」を造営して舎利を安置していた、ということである。「塔廟」とは生駒山で行基舎利を納めた施設であり、追善供養を目的とする長岡院(菅原遺跡)とは別の場所の別の施設であったと考えられる。そもそも、「多宝之塔」「塔廟」は『法華経』からの引用であり、いずれも「多宝如来の御在所」を意味しており、行基を多宝如来に重ねあわせた表現とみるべきである。


卒論スライド4(武内) スライド4


4.円形建物SB140の遺構解釈-大壁の作為と十六角形土庇

 菅原遺跡の円形建物跡SB140の平面図を改めてみるとよく分かるのだが、後世の削平により、断続的な円形の溝状遺構とその外側にめぐる16個の柱穴しかない。研究室は内側の溝状遺構を基壇地覆石の痕跡とみなしていたが、元文研はこれを否定し、大陸風大壁の痕跡とした。しかしながら大陸風の大壁は、溝状遺構の中に多くの杭を打って分厚い小舞壁とするものだが、菅原遺跡の場合、杭跡は一つもなく、この基壇端に「大陸風の大壁」をつくることはできない。
 外周の16本掘立柱列について、元文研はこれを多宝塔の裳階と表現し、基壇端大壁と扇垂木でつないでいる。扇垂木を奈良時代に使う例は知られていない。円形の本体と貧相な外周掘立柱列に構造の一体感はなく、研究室は、この16本柱列を土庇とみなしている。土庇とは、石階などの上につくる向拝、すなわち玄関ポーチのようなものである。このたび研究室は16角形の向拝に覆われ、基壇全周にまわる石階の案を追加で設計した。この場合、基壇は面取り八角形、すなわち不整十六形になる。



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菅原遺跡報告書批評のための習作(18)

批評-1981年調査区の基壇建物跡と小型瓦の関係

 卒論発表会が明日に迫ってきて、最後の詰めをいろいろやっている。報告書2023の巻末に掲載されている遺物の一覧表で、小型瓦を再確認したところ、「小型瓦」は11点、「小型瓦?」は3点を数えた。「小型瓦?」は小型瓦かどうか分からないので排除し、書評では「小型瓦」の総数をこれまでどおり11点とする。学生は、その出土位置を遺構図に落とそうとして混乱した。一覧表にはSC150とSB150の両方があるからだ。SC150が誤記である。SCは回廊の記号であり、西面の回廊はSC160である。SB150は伽藍の北にある東西棟掘立柱建物で、法隆寺東院になぞらえるなら、舎利殿・絵殿に相当する。菅原遺跡南区の場合、南側にも東西棟らしき遺構の一部が検出されており、こちらは法隆寺東院の礼堂にあたる。こうしてみると、ますます菅原遺跡と法隆寺東院の平面配置が近しいものにみえるが、いちばん大きな違いは東面が回廊ではなく塀(SA)になっている点であろう。この塀の地盤はもともと傾斜面であり、そこを整地して塀を築いたものである。おそらく地盤が不安定であったため、回廊の建設を控え、塀に代えた可能性が高いと思われる。
 いずれにしても、小型瓦は西面回廊SC160と北面東西棟SB150で集中的に出土しているので、この瓦を円形建物SB140の所用瓦とみなすのは難しい。小型瓦はSB150・SC160に用いられたとみるべきである。報告書2023では、SB140の屋根は約80mも離れた1980年調査区でみつかった小型瓦で葺いたと決めつけているが、
報告書2023第4章第2節「出土瓦の検討」の執筆者も「1981年調査でまとまって出土した軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dのセットは、(略)1981年調査の基壇建物の所用瓦であると考えられる」この部分保留中
と述べている。それでは、方形基壇建物跡はどのような建築と理解されていたのか、報告書192を読んでみると、3つの平面の可能性を指摘していることが分かった。ここに引用する(1982:pp.41-42)。

   本遺跡で検出された基壇の上面は大きく削平をうけており、礎石、
   礎石抜き取り穴等は全く検出されなかった。また基壇縁自体の
   後世の削平のため、東西方向の基壇長は明確にすることはでき
   なかったが、南北方向はかろうじて両側縁を確認することができた。
   このような条件下であるが、残存する基壇、雨落ち溝、ピット等から
   基壇建物の復元を試みたい。
    まず、棟の方向により、以下の三案が考えられる。
   Ⅰ.正方形プラン建物:平坦面東側が大きく削平を受けており、
     東方3m近く伸びていたと考える。すなわち、基壇南北長、
     東西長共に約22mをもつ方形の建物を推定する。また
     平坦面東側の地形を考慮に入れると、建物は南面していた
     と考えられる。
   Ⅱ.東西棟建物:平坦面東側が大きく削平を受けており、平坦部
    がより東にのびていたと考える。すなわち、基壇南北長22m、
    東西長18m以上を測る桁行7間、梁行4間の東西棟建物が考えられる。
   Ⅲ.南北棟建物:平坦面東側はあまり削平を受けておらず、かなり旧状
    を保っているものと考え、基壇東西長は基壇南縁の現存長とほぼ等しい
    と想定する。この場合、基壇は南北長約22m、東西長約18mとなり、
    桁行5間、梁行4間の東面した建物が考えられる。

 以上の3パターンのうち、Ⅰ案は「奈良時代において正方形プランの建物の類例は認められないから積極的に肯定できない」、Ⅱ案は基壇の桁行総長が「35m~48m」にもなるので考え難いとして排除し、Ⅲ案は梁行総長が「16~18m」程度で納まるので最も可能性が高い、とする。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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