岩永省三さんは奈文研の元同僚で、いくつかの発掘現場で調査をともにした関係にある。奈文研有数の掘手であり、精密な論証・考察に定評がある。当時、わたしは遺構調査室、岩永さんは瓦を整理分析する考古第3調査室に籍を置いていた。ちなみに、1956年生まれの同い年、奈文研退職も200年度末
(2001年3月)で同じである。2001年4月からは九州大学総合研究博物館の教授に異動され、2021年3月でご退官。同年5月には、奈良市文化財係長のご案内で、前園さん、岩永さん、前川さんの3人と菅原遺跡の発掘調査現場を見学した。
元文研の報告書2023が刊行されてから、かなりな頻度でメールを交換するようになり、すでに匿名で何度かご意見を掲載しているのだが、このたび岩永さん本人の許可を得て、とくに出土瓦に関する部分を抜粋掲載させていただくことになった。以下、二つの話題に分け、時系列に沿って転載する。
1.1981年出土の隅切瓦が2020年検出の遺構に使用されたとみる問題On 2023/11/13 11:20, 岩永 wrote:
昨日ようやく元興寺でやってる菅原遺跡展を見てきました。あの遺跡が保存できなかったのは返す返すも残念です。建物の復原に関する展示の説明文で理解しがたい点があり、報告書を購入して読んでみましたが、特に屋根形態の根拠に、出土瓦の法量・形態を根拠にしてます。正方形の根拠は45°の隅切り平瓦の存在なんですが、45°の隅切り平瓦は2020年度調査地では出ていないにもかかわらず、1981年の奈良大調査地点の出土瓦(方形基壇建物の周囲で出土)が、2020年調査地点からの流れ込みで、本来2020年度地点で用いられたとみなして立論しています。しかし両地点は数十メートルも離れており相当無理な話。1981年度地点での45度の隅切り平瓦の出土状況を再検討する必要がありますが、1981年度地点での出土瓦は方形基壇建物の周囲に集中的に出ているようですからやはり方形基壇建物の屋根に葺かれ、その建物が正方形だったとする根拠に用いるべきでしょう。
On 2024/01/25 09:45, 浅川 wrote:
《返信》 いま学生が卒論に取り組んでおり、仕上げの段階に入りました。それで、11月20日に送信いただいたなかで、「1981年の奈良大調査地点の出土瓦(方形基壇建物の周囲で出土)が、2020年調査地点からの流れ込み」という部分が、報告書からは探しだせなかったのですが、岩永さんのご覧になられた書籍をご紹介いただけませんでしょうか? わたくしどもの不注意で、報告書内の文章を見逃していたらお詫び申し上げます。なにとぞご教示をお願いいたします。
On 2024/01/25 12:07, 岩永 wrote:
出典は『菅原遺跡』です。1981年地点出土の隅切瓦・小型瓦が2020年地点からの「流れ込み」と直截に表現してる訳ではありませんが、 『菅原遺跡』2023:p62 3~4行目「1981年の奈良大学の調査で出土した小型瓦が、現時点では、この建物に用いられていた可能性が高い。そこでは少数ながら隅切瓦が出土している。」 「この建物」はSB140を指している。隅切瓦は2020年調査区で出たとは書いてないので、「そこでは」は1981年奈良大調査区を指している。 p65 27行目「この構造体が支持する屋根は、隅切瓦および鬼瓦の存在から、平面は四角で隅棟をもつ形式と考える。」 ここでは、隅切瓦がSB140に伴うことを前提・自明とした記述になっている。 p78 5~7行目「この小型瓦については1981年調査時には、・・・、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SB140の上層に葺かれた可能性を想定することとなった。」 この記述からは1981年調査地点出土の小型瓦が1段上で数十メートル離れた2020年調査地点に由来する、つまり上の段からの流れ込みと見ていることが分かる。 p89 下から3行目「1981年調査では約45°の角度を持つ隅切瓦が出土しており、上層屋根正方形が想定される。」 1981年調査区出土の隅切り瓦も、上の段からの流れ込みと理解していることが読み取れる。以上総合して、
1981年出土の小型瓦は上の段からの流れ込み。
よって↓
1981年出土の隅切瓦は上の段からの流れ込み。
よって↓
小型瓦・隅切瓦はともにSB140に由来する。
という形で論を飛躍させたことが判明。しかし、1981年地点で出土した遺物は、まずは1981年地点の建物の屋根復元に用いるべきでしょう。かりに屋根が正方形にならなくて長方形の寄棟ないし入母屋であっても、45°の隅切瓦は使えるわけですから。1981年地点内での瓦の出土位置の検討、基壇の周囲なのか、北側の崖の下なのかをきちんとした後でなければ、上の段からの流れ込みなどと安易に結論付けることはできないはずです。
On 2024/01/26 1:01, 浅川 wrote:
《返信》 どうもありがとうございます。当方が心配していたのは、展示場で岩永さんが図録のような冊子を買っていて、当方はそれを見逃していたのかもしれないということでした。安心しました。いま学生は、遺構図に主要瓦(小型瓦、重要な普通サイズの軒瓦、西大寺系の瓦など)の分布を落としています。報告書にはこういう分布図も掲載されていないのですが、分布を確認すると、小型瓦は回廊から11点出土しています。円形建物の周辺からは何もみつかっていない。ましてや、数十メートル離れた地点で出土した小型瓦、隅切瓦を使うなどありえないことだと考えます。
On 2024/02/11 23:26, 岩永 wrote:
パワポ拝見しました。ご教示有難うございます。あらためて『菅原遺跡』(2023)、『菅原遺跡』(1982)もチェックしましたが、2020年査地出土の小型瓦が出土地点から見て、SB140ではなく、回廊やSB150に葺かれた、という御説は良いと思います。問題は6711Bで、これも出土地点は、SB150・SD034・整地土なので、出土地点からすると、SB140に葺かれたと、直ちには言いにくい点が難点でしょう。御説では、6711BがⅢー2期(天平勝宝年間)の物で、2020年調査区では最初に用いられた瓦なので、区画施設所用ではなくて、最初に建設されたSB140の大屋根に葺かれたと推定していますが、出土量があまりにも少なく、SB140の大屋根を総瓦葺きと考えて良いのか躊躇が有ります。屋根の形が八角形は良いとして、檜皮葺きとは考えられませんかね?
1981年調査区で多い6316Mー6710DはⅣー1期(天平宝字年間)。小型の6299Aー6765Aは時期を決めにくいが、出土量からみて6316Mー6710Dに伴う小型瓦とすれば、Ⅳー1期(天平宝字年間)でしょう。1981年調査の報告では、一つの屋根で部分によって中型瓦と小型瓦を葺き分けたと考えてますが不自然で、薬師寺の例から見て、大屋根用と裳階用と考えればよいでしょう。そうすると、1981年調査区出土の小型丸瓦・平瓦は方形建物の裳階用として吸収できるので、2020年調査区からの流れ込みと考える必要はますますなくなる。1981年出土の小型隅切瓦を2020年調査地で用いたものなどとは言えないことは明らか。建築構造論的には、内周土坑列を地覆の抜き取りと見るか、大壁基礎と見るかが一番の問題で、現地を見た奈文研の職員も、壁受け地覆では土坑間の隙間が上手く説明できないし、調査中の担当者も多角形基壇と説明していたのに、報告では大壁としていたので解釈の変化に驚いた、と言っておりました。円形の多宝塔にするという結論に、遺構・遺物の評価を強引に引き付けたのが原因と思われます。
On 2024/02/25 12:26, 浅川 wrote:
《返信》 岩永さんのお考えとは少々異なるところもあるかと思います。すなわち、私どもは、建物の葺き材を以下のように考えております。
SB140大屋根: 6711B型式軒平瓦(当初)+西大寺系瓦(修補・追加)
SB140土庇: 檜皮
回廊など周辺施設: 小型瓦(+檜皮もしくは板?)
以前にご指摘されたとおり、瓦の出土量が少ないのは問題ですが、広隆寺八角円堂檜皮葺の例など示しながらも、今回はSB140は普通サイズの瓦葺きとしました。1981年調査区の方形基壇建物は、御説のとおり、木造層塔の大屋根が中型瓦、裳階が小型瓦と考えています。
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