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吾輩は猫である(3)

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六辺形珈琲店

 吾輩は猫である。名前は五月。2夜の孤独を楽しんでいる。
 大晦日は主人の誕生日。かの地は晴れて、午前から路地めぐりでシノワズリを漁る。
 吉臣酒店(アンバサダ・ホテル)からタクシーで地下鉄「衡山路」の駅まで行くと、永平里の弄(路地)再開発区が近くにある。新天地ほど大げさではない静閑な保全的再開発で好感がもてる。周辺の町並みにも、租界時代の里弄住宅が軒を連ねており、主人は貯金もないくせに「ここなら一軒買ってもいいな」などと大口を叩く。


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 いちばんお気に召したのは、ウルムチ南路の角地に建つカフェ「六辺形珈琲店 HEXAGON COFFEE」らしい。六辺形とは、角地の隅を面取りしたいびつな形状の敷地を六角形にみたてたものでありましょう。ヨーロッパの古い町並みでは、鋭角的に交差する二つの道の間に三角形平面のビルを立ち上げることが多く、日本では角地に台形平面の歪んだ町家ができることがある。これらは概念上「六辺形」なんでしょう。思い起こすのは、「寅次郎の告白」(1991)で映し出された倉吉市河原町の八百屋だ。寅さんといずみちゃんはこの角地の八百屋に泊まってばあさんの三味線で貝殻節を聞く。


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 あの八百屋のような敷地にたつ小さなカフェに目がとまり、またたくまに吸い込まれたようだ。中には猫(の人形)がうようよいる。店内は単純な長方形で、中二階の奥にプレーヤーらしき機械を置くが音楽は流していない。メニューはイタリア系で、エスプレッソ、カプチーノ、ラッテ、アメリカーノなどを提供する。珈琲以外のメニューはない。
 面積がちょうどいい。主人の物色する土蔵や長屋門ぐらいの面積で、15席程度に飲み物と音楽を提供する。ぴったりだ。開業は2004年で、すでに13年も続いているのだから、あまり好きな用語じゃないけれど、まさに「持続可能」な経営というほかなかろう。


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↑↓金田に似ている常連客
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吾輩は猫である(2)

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静安寺の摩天楼

 12月30日(土)。吾輩は猫である。名前は五月。一人の夜を過ごした。
 かの地は小ぶりながら雨模様だ。ホテルから歩いて40分のところにある静安寺を最初に訪れている。三世紀に遡るという縁起のある江南有数の古刹ではあるけれども、主人の留学中は鄙びた里の寺でしかなかったが、いまはご覧のとおり。政府や華僑などが投資した結果であろうが、主人は係員に対して「国家重点文物保護単位を更新してはいけない」と絡んでいた。あの宋代建築はどこに行ってしまったのだろうか。国家文物局がよく許したものだと思う。というか、国家文物局の力が及ばないほど大きな権力が動いたということなのだろうね。


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↑↓黄檗宗系の禅宗様。密教の道場なんだって?
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吾輩は猫である(1)

12261吾輩は猫である


アールデコから見下ろして 

 吾輩は猫である。名前は五月。
 12月29日(金)。2~3日前から映画「ホームアローン」の録画をテレビで流していたが、今朝の騒動はまるでホームアローンのようだった。ひとり家においてきぼりされるのは吾輩だ。居間に炬燵がつくられた。吾輩の住まいである。
 夕方になってテレビが突然点いた。南京東路の和平飯店のようだね。八階の上海料理店で、浦東の夜景を眺めながら夕食をとっているみたいだ。主人が留学時代から愛用しているお店だが、当時の数百倍の値段になっている。和平をでてバンドを歩けば懐かしい風景が戻ってくる。マルなどは「凄い、すごい」の連呼。人が集まるわけだ・・・
 わたしの夕食はオートシステムになっている。水は少しずつ蛇口からこぼれてくる。


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仏教徒も共産主義者もノエルです
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↑たしか1905年ころの建築だったように記憶する。ネオ・クラシズムのアールデコ。


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(7)

摩尼寺新聞記事web 摩尼寺新聞記事doc


焼けた地蔵堂

 摩尼山鷲ヶ峰の立岩脇に建っていた地蔵堂は昭和13年(1938)に参拝者の失火により焼失している。その記事が『因伯時報』昭和13年11月12日に掲載されているので、このたび翻刻した(下線筆者)。
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 摩尼寺奥の院 
   地蔵堂全焼 
     いつ焼けたか誰も知らぬ
      貴重な仏像も灰に

 因幡の名刹、鳥取市覚寺大字立岩摩尼寺奥の院地蔵堂が何時の間にか全焼してゐることを、茸取(きのことり)が発見届出でにより鳥取署より千熊巡査部長が十日午後現場に出張調査したところ、全焼した地蔵堂は間口二間、奥行二間、木造平屋建黒瓦葺一棟で、外に山林約十歩をも焼失しており、損害は地蔵堂三百円、木製座像丈三尺二寸の本尊地蔵大師百円、木製立像丈三尺五寸の左脇立帝釈天百円、松の雑木三円計五百三円で、出火時刻は去る八日午後六時頃と認められてゐる。
 地蔵堂には常に参詣者があり去る六日の日曜日の如きは一日に五十人の参詣者があって、其の後も一日に十名余の参詣者があったが、この堂には堂守はおらず、堂にはろうそく立ての設備なきため参詣者が堂前側木製格子戸の辺りにろうそくを立て、これに火を点いたまま下山し、其火が格子戸に燃え移り、遂に堂を全焼したものと見られてゐるが、地蔵堂の焼失中を発見した者はだれ一人としてなく、焼失後松茸狩人が発見したものであって、木像窃取の上これが犯跡をくらますための放火ではないかと疑問もあり、堂内の木像安置箇所を掘返したところ金属製の像の宝冠及び持物等が現はれたので、窃盗の疑問も解消、全く参詣者の失火と見られてゐる。
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2018県環申請プレゼン資料(浅川)_01地蔵堂01


 かくして摩尼山鷲ヶ峰(賽の河原)の地蔵堂は昭和13年11月8日に焼失したのだが、その後復旧され、昭和40年ころまでこの地に建っていたと聞く。明治の絵葉書にみえる地蔵堂(↑)は焼失前の状況を写したものであり、上の記事の記載に対応するはずである。そこで、古写真と新聞記事の内容から明治期の地蔵堂の構造形式等を整理してみた。

  地蔵堂: 間口2間×奥行2間、木造平屋建黒瓦葺1棟
   正面中央間 格子戸  正面両脇間 花頭窓
   側面建具 舞良戸    妻飾 木連格子
   向拝一間 繋虹梁=海老虹梁
  仏像: ①木製座像丈三尺二寸の本尊地蔵大師
      ②木製立像丈三尺五寸の左脇立帝釈天
  注意事項: 鐘楼は焼けていない。三十三観音石仏11基も切妻瓦葺屋根に覆われる。


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大根島-仏のクリスマス(4)

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仏ほっとけ、クリスマス

 12月24日(日)、大根島の中村元記念館で第12回中村元思想文化カフェに参加し、「21世紀において医療と仏教の協働は可能か」という講演を聴いた。
 会場入りするとクリスマスイブ一色で、館のスタッフはみなサンタさんの装いをしているし、式次第のペーパーはクリスマス・カードのよう。サンタさんや雪だるまの人形が壁に貼り付けてある。畏れ多くも、日本を代表する仏教学者の記念館をかくもキリスト教的に飾ってよいものか、と案じたわけではありませんが、中村元先生の奥様は敬虔なクリスチャンだそうで、愛読されていた聖書が展示されておりました。べつに全然よいと思っています。仏ほっとけ、と申しますしな(寅)、みんな楽しいのがなによりです。


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 さて、仏教学と生命倫理学を専攻する講師によれば、「医療者も仏教者もともに<死の臨床>の傍らにいつづける人」であり、医療も仏教もともに「人生を深める為という共通性がある」という。アメリカのチャプレン(病院・介護施設・軍などで働く聖職者)を引き合いにだし、日本の仏教者が病院でメンタルケアしたっていいじゃないか、という発言をされたが、正直、私個人としては違和感を拭えなかった。日本の仏教は「葬式仏教」に傾斜しすぎてますからね。死んだ直後の葬儀を仕切る住職(的人材)に病院をうろうろされても不吉でしかないから。お坊さんが似合うのは、お寺と仏壇とお墓であって病院ではありません。病院にはメンタルケアの専門家がいてやさしく話を聴いてくれればそれでいいんじゃないか、と。ちなみに、昨年の母の葬儀は無宗教の家族密葬であり、そういうこじんまりとして暖かいやり方を支持し、選択する日本人が増えています。


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大根島-仏のクリスマス(3)

世界に於ける仏教徒web 世界に於ける仏教徒



 日御碕を離れ、大根島の八束に向かう。23日から24日にかけて宍道湖を一周する格好になったわけだが、くどいけれども天気がよく、その穏やかな風景を堪能した。気分は最高。伯耆の大山、出雲の宍道湖は風土の核というべき自然環境であり、そのような存在に人々は畏敬の念を抱いている。神話の重要な舞台になるぐらいだからね。残念ながら、因幡には核というべき自然の名勝地が見当たらない。だから、羨ましい。

能海 寛『世界に於ける仏教徒』輪読会

 23日午後の目的は岡崎秀紀氏が主催する東方学院松江校の定期講義「能海寛『世界に於ける仏教徒』を読む」の輪読会にオブザーバーとして参加することであった。会場は八束公民館第1講義室。中村元記念館の隣の隣に建物はある。輪読の参加者は5名。偶然にも、我らが『民家のみかた 調べかた』輪読会の参加者と同数である。講義にせよ、ゼミにせよ、野外演習にせよ、少数がいい。なにより学問に集中できる。
 能海寛(1868-1903?)は島根県浜田市出身のチベット探検家、真宗大谷派の僧・仏教学者である。若いころから英語を始めとする外国語の習得に力を注ぎ、明治26年(1893)に『世界に於ける仏教徒』(哲学書院)を出版している。漢籍の素養も深く、文体は漢文の読み下し体になっていて読みやすい。能海関係の著作は他にもあって、『能海寛遺稿』(五月書房・1998)と江本嘉伸『能海寛 チベットに消えた旅人』(求龍堂・1999)を取り寄せたが、肝心要のテキスト『世界に於ける仏教徒』は入手できないので、岡崎氏の指示に従い、国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816791)から50頁ばかりダウンロードした。23日は以下の第6~9章が4名により輪読され、わたしはそれを拝聴した。
  第6章 道徳上ノ仏教(戒律論)   第7章 比較仏教学
  第8章 サンスクリット(梵学)   第9章 仏教国ノ探検-西蔵国探検ノ必要
 内容はただただ驚くばかりである。能海は、明治中期の段階で、書名のとおり、世界に視野をひろげて仏教をとらえようとしている。それも、中国・西域・西蔵・インドなどにとどまらない。第1章「宗教ノ革新」を読むだけでも、アメリカ人宣教師ドレッパー、統計学者レラニレビ(国籍不明)、ノルマンディのフランシスカ・アラーンデル女史、ルソン島米国領事ラッセル・ウェップらを引用してキリスト教の形骸化を指摘しつつ、アメリカの神智学者オルコット、アイルランドのジョンストン女史、ドイツの哲学者ショッペンハウエルらの名を挙げて、西欧社会における仏教徒の増加と仏教の思想的影響を述べている(参考:『世界に於ける仏教徒』難解文字簡易解説)。
 能海の視野はかくも広大であったが、第9章で説くように、そのフォーカスはチベット(西蔵)に絞られている。古代インドのサンスクリット・パーリア語経典が著しく散逸した状況にあって、直訳に近いチベット語経典(蔵経)の重要性はどんなに重くとらえても重過ぎることはないからだ。能海は25歳にして『世界に於ける佛教徒』を自費出版して蔵経原典入手の意義を強く説き、明治31年(1898)に四川経由、2年後に青海経由でチベット入りを試みるが、いずれも失敗に終わる。翌34年、雲南省大理経由でチベットをめざすという手紙を投函した後、消息を絶つ。能海は明治36年(1903)ころ、チベットに近い雲南の省境で土賊に襲われ死んだらしい。これを後に現地で確認したのは建築史学の大先達、伊東忠太であった・・・と書いたら、岡崎氏より反論を頂戴した。

   能海最期に(伊東)忠太は関わっておりません。忠太の貴州・雲南省あたりの絵日記を
   調べたことがあります。大谷探検隊の一行と忠太が行き合ったことはありました。が、
   能海との関わりは資料では発見できませんでした。この件についてはいろいろ物語が
   あります。詳しくは、江本著『旅人』(P259以降)や『遺稿』(P245以降)をご覧ください。

 いやはや、ウィキペディアなんぞ信じるな、と日ごろ学生に吹いている自分がウィキに頼って伊東説を引用し、大恥をかいてしまいましたね。いま江本さんの本を読んで伊東非関与説を理解しました。
 大理は懐かしい街だ。ほんとうに綺麗だったころの、つまり80~90年代前半の大理や麗江を知る者は著しく少なくなってしまった。能海が訪れたころはさらに美しかったかもしれない。しかし、大理や麗江にはまだチベット仏教の匂いはしない。母系社会で有名な永寧モソ人の住むロコ湖畔に至ってようやくチベット仏教とポン教の空気に包まれる。
 民家の屋根にはタルチョが棚引き、チベット仏教の火神ザバラをカマドに祭る。島にはゲルク派の僧院があり、葬儀・法要の際には黄色い袈裟を着たラマたちが渡海して村を訪れ、家々をめぐり歩く。葬儀では、薪を積み上げて死体を荼毘にふすあいだ僧侶は読経を永々と続け、女たちは泣き続ける。
 こうした空気を能海は吸って死んだのか否か、気になるところだ。


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チベット仏教求法僧・能海 寛(1868-1901)生誕150周年 記念事業
  日時 平成30年7月7日(土)~8日(日)   会場 島根県浜田市金城町波佐 ときわ会館
第1日  第24回年次大会 & 第6回チベットセミナー
 13:00~14:00 年次総会  14:00~16:30 会員研究発表
第2日  記念式典 & 記念シンポジウム
 10:00~11:30 式典  13:00~14:00 基調講演(江本嘉伸)
 14:00~16:30 シンポジウム テーマ「能海寛が描いた世界平和」
http://hazaway.com./culture/noumi-yutaka/



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大根島-仏のクリスマス(2)

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日御碕 の 崖

 12月23日(土)、さらに快晴。午前はヒマだったので、日御碕神社を訪ねることにした。40代前半、わたしの活動拠点は奈良だったが、毎夏日御碕に赴いては洲浜で石ころ投げをした。そんな日御碕をおとずれたのは十数年ぶりのことである。出雲大社以上に日御碕を懐かしく思うのは何故だろうか。海に面している風景の差異からくるものだろうと思う。衝動的に日御碕に行くことをきめるや、記憶に失せたせつないバラードが頭を駆け巡りはじめる。

  海辺の紫陽花 あなたが生まれた町
  さびしさを抱きしめて 今日もひとり来た
  わたしは忘れない 雨上がりの午後
  たがいの目に映った 密やかなふれあい
  今さら あなたが 恋しいなんて


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 子どものころ、NHKに「銀河テレビドラマ」というシリーズがあり、家族と一緒に毎晩みていた。曖昧な記憶だが、たしか9時のニュースを受けて21:40からの20分番組だった。そのなかで今でも唯一記憶に残っているのが酒井和歌子主演のドラマであり、その主題歌が上の歌詞の曲である。ただ、番組名も主題歌名もとっくに忘れてしまっている。


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↑外側から境内を一望し、これは「内裏」だなぁと思った。檜皮葺きに赤い柱という建築の色彩だけでなく、楼門がどうしてもひっかかるのである。平城宮を何年も発掘し復元調査に携わって、門の構造形式でしばしば揉めることがあった。ある時期からわたしは大極殿あるいは朝堂院正面の門が「楼門」であろうと思うに至る。出雲大社、春日大社、石上神宮など、どこを訪れても楼門が本殿の前に建っている。本来は鳥居であるべき場所に楼門を建てているのは、決して仏教建築の影響ではなく、神社の境内を「内裏」に見立てているからだろうと考え始めたからだ。日御碕もまた小さな内裏なんだと思う。


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大根島-仏のクリスマス(1)

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 メリークリスマス! 
 22日から24日にかけて松江方面を旅していました。拠点となった場所は大根島(松江市八束)の中村元記念館です。ノエルのクライマックスを大好きな出雲で過ごしてご機嫌でした。何回かにわけて報告します。
 12月22日(木)、秋晴れのような日差しで暖かい。とにもかくにも、まずは八雲庵で蕎麦をたくる。鴨汁で有名な蕎麦屋だが、通としてはザルです(↑)。ザルにも鴨汁は付くしね。空は晴々、蕎麦をくらえば心も晴れて、少し歩いて小泉八雲旧居へ。


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八雲の数奇屋

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(1850-1904)は際立って国際的・多重文化的人生を生きた文筆家である。ギリシアの離島に生まれたが、父はアイルランド人であり、幼少期にダブリンに戻り、成長期をイングランド等で過ごし、アメリカではジャーナリストとして活躍。西インド諸島の旅行もよく知られている。日本文化との接触は1884年にニューオーリンズで開催された万国博覧会に遡る。その後、1890年に来日。英語教師として同年8月末、松江に赴任するが、翌91年11月には熊本に異動するので、ハーンが松江にいたのはわずか一年あまりなのだが、なにぶん「八雲」なる和名が古代出雲に由来し、妻の小泉セツが松江士族の娘であることから、ハーンといえば松江の印象が強い。


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 八雲旧居は松江城の御濠端にあり、セツと結婚後、約半年間暮らした住まいである。旧士族根岸家の武家屋敷を借家したもので、様式的には江戸時代後期の数奇屋に属し、住宅を3方から囲む庭園も見事であり、国の史跡に指定されている(熊本の旧居は県指定)。八雲はここで『知られざる日本の面影』など初期の代表作を書き上げた。建築的に細かいことを書くのは避けるけれども、こぶりながら瀟洒きわまる住まいであり、ここに住んだハーンのことをただただ羨ましく思った。
 因みに、ハーンは子どものころからキリスト教嫌いだったそうである。これが、ひょっとしたら異文化社会への適応のベースなのかもしれませんね。ノエルにこんなこと言っちゃいけないか・・・


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稲常の町並み(6)

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門の形式分類

 12月20日(水)、今年最後の合同ゼミになりました。前週から、稲常の町並みデータベースを修正しているのですが、やはり城下町や宿場町の町家とは違い、民家(農家)の場合は違う要素が入ってきます。表どおりに面するものとしては、とくに土蔵や長屋の有無と棟数、門の形式が重要です。今週はまず門の形式を演習室でおさらいし、以下の5タイプにわけることにしました。

  棟門・腕木門(木戸門)・薬医門・四脚門・長屋門

 上の図は左側4タイプを模式化したものです。


171220 門


 先生のミニ講義のあと、4年2名+3年2名の計4名で久しぶりに稲常を訪れました。稲常は豪農の集落であり、武家屋敷の要素を受け継いだ大型の農家が軒を連ねています。土蔵は高大で数も多い「分限者」ばかりです。門も通常なら腕木門程度のところが多いのですが、ここでは武家か社寺かにみまがうほど立派な門構えのお宅が少なくありません。しかし、形式の差異は微妙です。写真や立面スケッチをみているだけでは判断し切れないものばかりなので、現場訪問となったのです。ところが、いくら女子学生と雖も、なかなか門を内側から見ることはできません。敷地内にお邪魔するのははばかれるのでギリギリのラインで撮影させていただきました。傍から見ると不審者に・・・(笑)
 上は長屋門の一種ですが、門のみの構造形式は棟門です。棟門の場合、2本柱だけで建つので、構造的には不安定であり、両側を土蔵や長屋の壁でサポートする必要があります。


171220 佐々木ちゃん


 上は腕木門です。薬医門と似ていますが、控え柱が梁に達しません。控え柱の頭は宙に浮いているので、いわば主柱のフライング・バットレス(カヌーで言えばアウトリガー)ということになります。 
 上は四脚門です。民家に四脚門とは驚きですね。江戸時代なら贅沢禁止令が出されていたはずですからありえないと思います。近代の作と考えるしかないのではないでしょうか。四脚門の場合、文字どおり4本柱で屋根の重みを受けるのですが、扉のラインは梁間の中間となり、柱筋ではありません。そこに立つ壁付の柱は方立のようなものです。
 今回の調査で門の形式分類は終わったので、今後は建物保全度・景観貢献度のクロスチェックを行いたいと思います。寒い中お疲れ様でした。来年も頑張りましょう!  (ぱでぃ&あやかめ)


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パリンカの夢、もういちど(4)

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美梅子-広岡農場物語(2)

 12月20日(水)。先生、会長さん、4年男子2名の計4名で広岡農場を再訪しました。きびたろう君も行きたそうで、駐車場までついてきていましたが、卒論の遅れを何度か指摘され、断念。他の3・4年女子は門の形式確認のため稲常に行っていて、ちょうど駐車場の出入口ですれ違い、農場行きを誘ったのですが、軽く振られました(後で後悔してましたが)。先生以外の3名は初めての訪問です。
 農場に到着すると、専務さんが出迎えてくださったのですが、先生は女子学生を連れてこなかったことを少々反省されていました。早速、ログハウス風の事務所で、梨ワイン「梨美子(リコ)」と梅酒「美梅子(ウメコ)」を試飲させていただきました。もちろん運転者2名以外の試飲です。「梨美子」は先週の忘年会で飲みましたが、「美梅子」は初めてです。その梅酒は、甘みがやや強めながら上品な味わいで、上質な梅酒という感じがしてとても美味しくいただきました。専務さんのお薦めもあり、500mlの「梨美子」1本を早いペースで飲んだため、先生と私は結構酔っぱらってしまいました。


1220hirooka001.jpg パリンカ試飲


 ところで、農場の果実酒を飲むことが再訪の目的ではありません。先生が春にハンガリーから買ってきたハンガリーの洋梨パリンカを専務さんに試飲していただくことがいちばんの目的だったのです。その感想は・・・風味については大変ご満足いただきましたが、50%というアルコール度数がやはり日本人には高すぎる、というものでした。日本で販売するなら30%程度まで度数を下げる必要がある、というご意見です。しかし、パリンカの製造・販売については意欲を示されています。先生が、春にハンガリーまで酒を買いにいこう、と提案されると、首を縦に振って頷かれました。今後の展開が楽しみです。


1220hirooka002.jpg 171220 広岡農場03


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FCセクストン東西対抗オフサイド講座 レポート(まとめ)

縄文人の多様性と特殊性-篠田謙一氏講演「日本人の起源」レポート

 12月8日の篠田氏講演「ここまでわかった! 日本人の起源」のレポートが本学HPのTUESレポートに掲載されました。

http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/

 前回のブログの内容を圧縮し、最後に質疑応答の部分を付け足しています。

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 12月8日(金)、本学第14講義室で、DNA分析による日本人起源論の第一人者、篠田謙一氏(国立科学博物館・分子人類学)の講演会「ここまでわかった! 日本人の起源」がおこなわれました。講演の前座として、主催側の浅川滋男教授(本学環境学部・建築考古学)も「古墳時代前期の大型倉庫群-松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から」と題するミニ講演をされました。広報期間が2週間弱と短いなか、学内外から約50名の聴衆が集まり、最新の人類学・考古学の成果に耳を傾けられました。

ここまでわかった! 日本人の起源

 日本人の起源論については、埴原和郎氏による「二重構造説」がよく知られています。縄文時代の日本列島にひろく拡散していた古モンゴロイドと、主として弥生時代以降に朝鮮半島から渡来した新モンゴロイドの混血として現代日本人を理解する考え方です。こうした二重構造説は人骨を対象とする形質人類学の研究によって導かれましたが、篠田氏はミトコンドリアDNAの系統解析をもとに新たな成果と視点を続々と呈示されています。講演の構成は以下のとおりです。

  1.はじめに  2.日本人の起源  3.ミトコンドリアDNAの系統
  4.ミトコンドリアDNAから見た日本人  5.縄文人のミトコンドリアDNA
  6.縄文人と弥生人のゲノム解析

【講演要旨】 日本人の有するミトコンドリアDNAのハプログループは、朝鮮半島や中国東北部の集団と共通している。これらは弥生人にも共有されていることから、現代日本人のもつ多くのハプログループは、弥生開始期以降に稲作農耕とともに列島にもたらされたと推測できる。ミトコンドリアDNAの分析結果は埴原氏の「二重構造説」を概ね支持する結果となったが、北海道の先住集団であるアイヌは沿海州の先住民と共通のDNAをもっていることも判明しており、沖縄や北海道を本土日本の周辺地域としてみるのではなく、それぞれを独自の成立史をもつ地域として捉える複眼的な視座が求められている。一方、縄文人の系統には地域差があることがわかってきている。とくにミトコンドリアDNAのM7a系統では地域差が顕著であり、均一な縄文人像は見直す必要がある。2010年以降、古人骨に含まれる核のDNAの分析も可能になっており、そのゲノム解析から、縄文人は現代の東アジア人と大きく異なっていることが明らかとなったが、その特殊性については未だ定説がない。この問題を解決するためには、縄文相当期の東アジアの古人骨を調べるとともに、一万年以上続いた縄文時代の各地の人骨から得られたゲノムを丹念に解析していく必要がある。

オホーツク文化とアイヌ、ニブヒの関係

 以上の講演に対して、青谷上寺地遺跡出土人骨から採取したサンプルの位置づけの予想やDNAサンプル採取方法について質問がありました。最後に浅川教授から「北海道アイヌの文化は擦文文化(蝦夷 えみし?)とオホーツク文化(粛慎 みしはせ?)の融合として成立したと考えられるが、その一方で、オホーツク文化の担い手をニブヒ(別名ギリヤーク:アムール下流域・樺太に分布する古アジア系民族)の祖先として理解する説があるけれども、人類学的にはどう理解されているか」という質問がありました。篠田氏はニブヒ、コリヤーク、チュクチなど極北の古アジア系民族は遊牧エヴェンキ(新モンゴロイド系)に攪乱され、さらにロシア化も進んでいるため、残念ながら、現状では固有のDNAを抽出しにくいと答えられました。


【関連サイト】
FCセクストンとは何か
古墳時代の大型倉庫群-松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から
ここまでわかった! 日本人の起源

パリンカの夢、もういちど(3)

171213忘年会1


たけちゃんで梨美子

 12月13日(水)、ゼミ終了後に急遽忘年会が開催されました。広岡農場から帰学してしばらくは、1週間後の20日(水)に板井原での開催を調整していましたが、2~3名のスケジュールがあわないのと降雪の予想から、その日の夕方に開催となりました。きっかけの一つは、広岡農場さんが前日、焼肉の「たけちゃん」で忘年会をしたという話を聞いたことです。「たけちゃん」は先生の下宿に近いところにあり、先生も常連客なので、「たけちゃん」を介して、先生と農場の専務さんは遠い知人関係にあることが分かっていたのです。専務さんは、「たけちゃん」のマスターから、ブータンの梨酒を応用したがっている環境がいるときいたそうな・・・
いや、ブータンじゃなくて、ハンガリーの梨焼酎です、ということで、世間は狭いと盛り上がっていました(笑)


201712191nasi91642d52.jpg 171213忘年会3



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上方往来河原宿の調査(3)

171214用瀬2 用瀬


背戸川の町並みフォトスキャン

 12月14日(木)、前日は雪模様でしたが、この日はなんとか曇り空で用瀬と河原の背戸川沿いの撮影に行きました。さくさくと進めて余裕がありましたが、時間がかかっていたら日が暮れていたかもしれないです。途中から合流した先生には、もっと早く出発したほうがいいと言われました。

 用瀬に久しぶりに行きましたが、鳥取市街地から遠いせいか開発の波はさほど激しくないようで、あまり町並みは変わっていませんでした。山際なので、大学のある若葉台より雪が残っていて、屋根から雪が落ちてきてもう少しで体に当たるところでした。背戸川の水がとても綺麗だけど魚影がまったくみえません。微生物ごと流されていっているのでしょうか。


171214用瀬1 用瀬


 河原の背戸川沿いは3年前の写真(2014)と比べてもほとんど変わっていないように思えます。表通りは安田開発による開発が強烈で、町並みが削り取られています。いまや残すべきは背戸川沿いしかない状態です。
 来週は3年生も連れて稲常の「門」について学びにいきます。毎日寒いので防寒はしっかりしていきたいです。 (みひろ)


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↑河原 現在 →2014年 

パリンカの夢、もういちど(2)

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イニエスタ・ドゥルセ・コラソン・ロサード 2014

 昼前に郵便局から電話があり、不在通知の届け物を12~14時にもって行くと告げられた。兄からのお歳暮返しらしい。その後まもなく門のチャイムが鳴る。寝間着のまま庭にでて驚いた。
 門の向こうに立っているのは郵便局員ではない。内蔵助が手にワインボトルをもっているのだ。お歳暮だというので、さらに驚き、まぁ中に入ってお茶でも飲んで、と何度も誘うのだが、「いいえ、いいえ」の一点張り。「イニエスタのお父さんが農場ワイナリーをやっていて、そこで作ったワインなんです」と口早に説明するや否や、駆け足で車道のほうに消えていった。イニエスタとは、もちろんFCセクストン、じゃなかったFCバルセロナでメッシと組んでいる中盤の世界的名手のことである。
 イニエスタはラ・マンチャに ボデガ・イニエスタ Bodega Iniesta というワイナリーを所有している。創立は2010年というから比較的新しくできたワイナリーだが、内蔵助の説明に従うと、おそらくイニエスタの父(及び祖先?)がその地で葡萄栽培をしていたのだろう。


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もういちど、ハーバーライト




1-4 vs. 4-1

 今夜のネットは炎上中です。ホームで1-4の完敗。引き分けで優勝という条件のなか、大敗した監督は「最初から相手が格上だと分かっていた」と発言し、火に油を注いでしまった。格上の相手にホームで引き分けるために策を練るのが監督の仕事ではないのかな。国内選手ばかりのJリーグ選抜では負けても仕方ない、という火消しの意見を目にしたが、一年前の鹿島アントラーズは日本人ばかりで南米代表を破り、レアルとの決勝を延長にまでもちこんだ。鹿島には個として突出した存在はいないが、確固たるチームの精神とスタイルがある。柴崎と小笠原を共存させる昨年末のチームは世界レベルに近づいていたのだ。
 ハリルホジッチ監督は同じレベルの日本人選手を使いながらチームのスタイルを構築できていない。そうした批判を受け入れることなく、「わたしは2勝したのだから良い成果」だとも述べている。協会長はご機嫌斜めのようだが、韓国にホームで1-4の大敗を喫してなお更迭の気配がない。サッカー界の常識からは考えがたいことだ。日本人の温情に感謝すべきだろう、ハリルさんは・・・
 鹿島の昌子や植田も不調だった、という反論もあるかもしれない。わたしに言わせれば、その責任も監督にある。植田を右SBで起用して中国戦で光明がみえた。その結果を踏まえて韓国戦でも先発させたが、前半をみればフィットしていないことはだれでもわかる。ならば、後半からは昌子-植田-三浦の3バックに変更する手もあった。システムを3-5-2にすれば、2トップになって前線からのプレスがかけやすくなっただろう。それにしても、サイドバックは日本代表の悩みの種だね。内田の招聘が現実味を帯びてきたような気がする。


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パリンカの夢、もういちど(1)

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梨美子-広岡農場物語(1)

 12月13日(水)、雪のなか大学から車で進むこと約20分、私たちは広岡農場に到着しました。ここは梨の栽培をしている農事組合法人ですが、農業にとどまらず、ワインの本場フランスでも絶賛される果実酒を作りあげた醸造元でもあるのです。ログハウス風のオフィスに通していただき、そこで専務さんのお話を聞かせていただきました。窓外には近景に梨畑、遠景に鳥取の街が映り、とても美しい雪景色に包まれていました。

 専務さんは、もともとお酒に強いわけではないのですが、あるときタイのビアホールでシードルを飲んだところ、お酒の飲めない人でも飲みやすいと思ったそうです。 しかし、シードルはやはり食前酒であり、何杯も料理に合わせて飲めるわけではないので、そこから梨を使って料理にふさわしい飲料を、と思ったのがお酒作りのきっかけでした。今まで、日本の梨をお酒やケーキの素材にすると、風味が出ないことを欠点だと私たちは思っていましたが、 逆に考えれば、それは長所でもあったのです。
 地域の材料を使ってお酒を作る特区(規制緩和対象)は県内にも少なくありませんが、それらは必ずしも持続可能ではないと専務さんは仰っていました。それで、お酒を作るからには「道の駅」におくレベルではなく、本場フランスのミシュランで星をとっているようなレストランにおいてこそ一流であり、持続可能な商品として生き残る方法だと考えられたのです。ワインの本場に果実醸造酒で打って出るというのはハードルが高いと躊躇されてきましたが、味のわかる国で挑戦しないかぎり意味がない、と発想を逆転されたわけです。


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民家のみかた 調べかた(5)

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せめるより許す心とおもいやり

 12月12日(火)、4・5限の人間環境実習演習Aは今回も郡家(こうげ)にある古民家カフェにお邪魔しました。前回までに『民家のみかた調べかた』で学んだことを活かして、いよいよ平面図を作成しました。
 はじめに学生4人で5部屋を分担して、ひとり2部屋ずつ描きました(重複する部屋が3室あります)。何とか仕上げて先生に見ていただくと、畳1枚を1cm×2cmではなく、5㎜×1cmで描いていることが分かりました。これでは縮尺1/200になって図面が小さすぎるので、1/100で描きなおそうということになりました。また、仏間や座敷の裏側にも部屋がありそうな気配が…


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 おやつの杏仁豆腐(手作りで超美味!)をいただいた後の後半戦になって、カフェの奥様にうかがうと、仏間・座敷の裏にも部屋があることが分かりました。見せていただけるかお願いすると、特別に先生だけ裏側の部屋に入って図面を描いてもよいことになりました。
 全員が担当分を1/100で描ききった後に各々の平面図を描き合わせてみると、建物の全体図をはっきり確認することができました。平面図が描けたところで、今度は実測(採寸)です。柱から柱にコンベックスや巻尺を渡してみんなで協力しながら測定しました。実測のコツは「通し」で採寸することです。


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 最後に家の方に部屋の名前(呼称)をうかがいました。部屋の名前を質問するときのポイントは「ここは○○ですよね?」と聞くのではなく、「この部屋は普段何と呼ばれていますか?」と質問することだと教えられました。前者だと誘導的になってしまうので調査方法としてはよくないとのことでした。部屋の名前は必ずカタカナで実測図に書きこむことも習いました。
 前回まで読んでいたテキストの内容を活かしつつ平面図を描いてみて、建物を目で見るだけではなく、実際に描く方が建物の空間構造をしっかり把握でき、新たな発見があることがわかりました。
 次回は今回描いた実測図を清書して完成させる予定です。(谷)


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↑昭和16年にこの場所で火事があり、茅葺きの住まいが焼けてしまった。旧八東町安井(?)から古民家をここに移築した。その建物は瓦葺の中二階形式であった。移築に際してどの程度の増改築が行われたのかは不明。奥の角屋も当初の物か、移築時の増築かは不明だが、屋根裏に湾曲する梁を残しており、それは隣の土間(炊事場)にまで及んでいるので古い可能性がある。

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↑みんなで採寸

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FCセクストン東西対抗オフサイド講座 レポート(3)

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 最後にトリを務めた篠田健一さんの講演要旨をお届けします。篠田さん作成の講演配布資料テキストをそのまま転載しますが、図版については一部差し替えています。

ここまでわかった! 日本人の起源

 20世紀後半から始まった分子生物学の発展によって、今世紀のはじめには、われわれホモ・サピエンスがおよそ20万年前にアフリカで誕生し、10万年より新しい時代に世界に拡散したということが明らかになった。そして現在では、DNAの情報に基づいた人類の起源や拡散についての議論が、世界の各地で行われるようになっている。遺伝子の系統解析は、現生人類(ホモ・サピエンス)の起源と拡散の経路に関するシナリオを構築し、集団の遺伝的な組成の比較は、従来の化石の研究とは異なる手法で、地域集団同士の近縁関係を明らかにしつつある。
 20世紀の終わりまでは、現生人類はおよそ2百万年前にアフリカを出た原人が世界の各地で独自に進化して、地域集団を形成したと考えられてきた(多地域進化説)。この学説に従えば、いわゆる「人種」は非常に長い歴史的な背景を持つことになるが、DNA分析の結果はこの学説を支持しなかった。DNA研究からは、アフリカを出たわずか数千人の人類が、数万年をかけて人間が居住可能な世界の隅々まで拡散したことが明らかとなっている(新人のアフリカ起源説)。このことは世界中に展開する現生人類は遺伝的には比較的均一な集団であるということを示している。この結果は、「全ての文化は同じ才能を起源として生まれ、基本的には同じ潜在能力を持っている」という認識の遺伝的な背景をなし、多様な社会を理解する際に重要な視点を提供することになった。
 日本人の起源に関しても、これまでは特定の地域からの渡来を想定していたが、アフリカ起源説が定説化したことで、発想を根本的に変える必要があることは明らかである。


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図1. DNAと考古学的な証拠から導かれた人類の世界拡散


1.日本人の起源
 地域集団の由来や成立の歴史を知ることは民族のアイデンティティと直結するため、古代から人類はその答えを求めてきた。日本列島集団に関しても、その成立史を明らかにするために広い学問分野で様々な研究が行われてきたが、最近では遺伝子研究が詳細なシナリオを提供している。従来の日本人の起源に関する研究の多くは、その起源地を特定するものだった。しかし、人類がアフリカで誕生し、世界に拡散したという事実を踏まえれば、この問いは「過去10万年間に、アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、いつの時代にどのルートを通って日本に到達したか」という設問に置き換えて考えることになる。更に言えば、日本人の起源はアフリカを出た集団のアジアにおける拡散の中に位置付けられるものであり、東アジア集団の成立の歴史の一部として捉えるべきものなのである。

2.ミトコンドリアDNAの系統
 これまでに行われた集団の由来を解明するための多くのDNA研究は、ミトコンドリアDNAの系統解析をもとにしている。ミトコンドリアDNAは約16,500塩基の環状のDNAであり、1981年にはその全塩基配列が決定されている。ミトコンドリアは細胞質中に存在するので、卵子に由来するDNAが子に伝わることになり、従ってその解析は母系の系統を追求することになる。ミトコンドリアDNAは突然変異を起こす確率が核のDNAに比べて10倍以上高いと言われており、人類集団の中にも多量の変異が蓄積している。そのため、これまで世界中の集団で変異が調べられており、変異の系統関係が確立していて、集団の起源を追求するのに適している。ミトコンドリアDNAの遺伝子を記述している領域にある1塩基多型(SNPs)の組み合わせをハプログループと呼ぶが、この変異は人類が世界に拡散する過程で地域集団の中に生まれたので、ハプログループにも地域特有のものが存在し、それらの関係は人類の拡散の様子を再現するための手掛かりとなる。


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図2. 日本列島及び周辺集団のミトコンドリアハプログループの頻度


3.ミトコンドリアDNAから見た日本人
 図2は、日本人の持つミトコンドリアDNAのハプログループと周辺地域および縄文、弥生人と比較したものである。日本人の持つハプログループは朝鮮半島や中国東北部の集団と共通していることが分かるだろう。これらは弥生人にも共有されていることから、現代の日本人の持つ多くのハプログループは、弥生開始期以降に稲作農耕と共に列島にもたらされたものだと推測できる。現在では、現代日本人は在来の縄文集団に大陸から渡来した弥生集団が混血して成立したと考える二重構造説が主流となっているが、ミトコンドリアDNAの分析結果も概ねこの学説を支持している。ただし、最近行われた北海道集団を対象とした地域研究は、北海道の先住集団であるアイヌは沿海州の先住民と共通のDNAを持っていることを明らかにしており、列島集団の成立は単純な二重構造説では説明できていない。その由来を正確に知るためには、沖縄や北海道を本土日本の周辺地域としてみるのではなく、それぞれを独自の成立史を持った地域として捉える複眼的な視座が必要であることが指摘されている。


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FCセクストン東西対抗オフサイド講座 レポート(2)

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古墳時代前期の大型倉庫群
-松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から-


1 松原田中遺跡の布掘建物
 湖山池南西部の平地に位置する松原田中遺跡で古墳時代前期の造営と目される布掘の掘立柱建物跡が多数みつかった。2010年度に2区で1棟、2013年度に3・4区で5棟、さらに2015年度に盛土3・5・6区で9棟が検出され、これら15棟は布掘建物0~14と番付されている(↑右)。15棟のうち8棟(布掘建物0・3・4・6・7・10・11・12)の布掘掘形に地中梁が残っている。ASALABは2014年度、布掘建物0・1・3・4の復元に取り組んだが、今年度ようやく報告書が刊行されることになり、正式な論文として大改稿したところである。じつは本日(12月8日)が入稿日であり、まさにほやほやの研究成果をここにお届けする。
 この研究は布掘遺構の復元的考察を試みるものだが、とりわけ気になるのは遺構の年代観である。布掘掘形から出土した土器片などから古墳時代前期の造営年代が示唆されているが、地中梁の年輪最外資料が弥生時代後期の年代を示しているからである。このため上部構造の復元にあたっては、青谷上寺地遺跡出土建築部材(弥生中後期)の復元研究との関係もあり、弥生時代後期の上屋構造をベースとして設定し(弥生後期様式)、それに4~5世紀の家形埴輪の様式・要素を加味することで古墳時代前期の姿(古墳前期様式)を模索する。


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2 布掘建物の年代と遺構変遷
(1)遺構の年代と変遷
 いずれの布掘掘形においても弥生土器の細片が多く出土するが、少量ながら古墳時代前期の土師器の破片を含む。発掘調査では掘形と抜取穴を区別せず、両者一体の遺構を「溝」と認識しているだけなので、包含される遺物が造営年代(掘形)を反映するものか、廃絶年代(抜取)の上限を示すものかは不明である。その一方で、たとえば布掘建物3(4区)の場合、布掘溝に切られるいくつかの土坑などからも古墳時代前期の土器が出土しており、布掘建物3は古墳時代前期(以降)に造営され、廃絶したと考えられるという。ただし、6棟の布掘建物はすべて共存したわけではなく、3期程度の遺構変遷を想定すべきであろう。遺構の重複関係と方位を重視する場合、たとえば、
  4区1棟(布掘建物5)→2・3区3棟(布掘建物0・1・2)→4区2棟(布掘建物3・4)
という変遷が想定される。一方、竪穴住居と複合する建物0を古式とみなす場合、たとえば、
  2区1棟(布掘建物0)→3・4区3棟(布掘建物1・2・5)→4区2棟(布掘建物3・4)
という変遷を想定することも可能かもしれない。


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(2)地中梁の年輪年代測定
 布掘建物3の掘形で出土した地中梁(№1870・1871)から厚さ約20mmの輪切り資料を3点得た。うち1点は年輪数171を数え、材はスギの芯去・心材型である。これを奈良文化財研究所が計測した結果、最外年輪の年代は西暦66年と判定された。心材型であるため、西暦66年は伐採年代の上限として捉えられる。輪切り資料のうち2点は総合地球環境学研究所にも送付し、酸素同位体比年輪年代測定を依頼した。測定の結果は、№1870(103年輪)が西暦15年、№1871(137年輪)が西暦56年であった。3つの年代はいずれも弥生時代後期にあたり、年輪数の多寡を踏まえれば、奈文研と地球研の測定値はほぼ一致をみたと言える。
 紀元1世紀代という年輪年代の測定結果は土器の編年によって推定された古墳時代前期という年代観とあまりにもかけ離れている。№1870・1871の最外資料の外側にさらに200~250年の年輪が存在したことになる。両木材は心材型の芯去材であり、そのような木取りは難しいけれども、ありえないわけでもない(↓)が、それにしても、年輪年代と土器年代の差は遠すぎる。一部の布掘建物については、古墳時代前期に納まらず、弥生時代終末期(以前)にまで遡るのではないか、と思う所以である。3期ほどに変遷する布掘建物のうち、最古の時期にあたる遺構は弥生終末期(以前)に造営された可能性を完全に否定できないのではないか。


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FCセクストン東西対抗オフサイド講座 レポート(1)

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 12月8日(金)午前10時40分より、本学第14講義室で篠田謙一氏(国立科学博物館)の講演会を開催した。実質2週間ばかりの準備で、広報に手間取ったが、地元紙にとりあげられた6日以降、参加申込者が急増し、会場には50名以上の聴衆が詰めかけた。主催者としてホッとしている。篠田氏の講演内容はもちろん質の高いものであり、評判も上々であった。
 講演会の概要を3回にわけてレポートしたい。まずはイントロから。

FCセクストンとは何か

 篠田さんとわたし(浅川)が大学に入学した1974年、ふたりとも別々にどこかの同好会でサッカーをやりたいと考えていました。その候補の一つが京都大学文学部サッカー同好会だったんです。名前からしてすでに弱そうな印象が拭えませんね。当時、文学部サッカー同好会は廃部寸前の危機的状況にあったんです。メンバーは文学部6回生が数名のみで、とても1チームを構成できるような状態ではなかった。ちなみに、6回生というのは、少なくとも文学部においてさほど珍しい人たちではありませんでした。学生運動の余波もありますし、なにより授業料が年間36,000円という安さだったものですから、あせって社会に出る必要はない。のんびり大学生活を送って作家でもめざすか~ぐらいの緩い雰囲気が文学部にはありました、確実に。
 そうしたなかで、学内再弱同好会チームの再建に先輩方が乗り出した。そして、新人募集のチラシコピーを考えたんです。これが強烈でした。

   電話イッパツ即レギュラー!

 たしか『サッカーマガジン』か『イレブン』に掲載されていたサッカーショップの広告をもじったコピーだったと記憶するのですが、新入生の多くは、このチラシに目をまるくして飛びついた。我先にと電話をかけてしまったんですね。そうして、この学年の優秀な経験者が文学部サッカー同好会に集結した。週に1~2回だけ農学部グラウンドで練習する同好会なんですが、このチームは本当に強かったんです。県代表クラスの学生が数名いたのと、監督を務めた6回生の萩原茂さんという先輩が、当時の日本では例外的といえるほどのサッカー通で、人心掌握が上手かった。結果、連戦連勝のチームに生まれ変わり、京都大学学内リーグ(春季・秋季)を何度も制覇していったのです。
 その後、京都社会人リーグに加盟して4部から1部にまで駆け上がるのですが、加盟にあたって新たなチーム名を考える必要があった。そのチーム名称が「F.C.セクストン」です。イングランド・リーグの老舗、チェルシーやQPR(クィーンズ・パーク・レインジャーズ)で監督を務めていたデイブ・セクストンの名前を拝借したというのですが、わたしなど、セクストンのセの字も知らなかった。このチーム名をめぐり、ある朝事件が勃発します。
 社会人4部リーグに加盟したばかりのころ、戦績が京都新聞に掲載されていたのですが、そこには「FCセックスマン」と書いてある。みなひっくり返り、こりゃ不味いぞってことになりまして、チーム名を改めた。改めたといっても、FCセクストンをドイツ語読みして、「FC(エフツェー)ゼクストン」に変えただけなんですが、その後は変態チームと勘違いされることもなくなりました。


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 このさいですので、デイブ・セクストンという人物について少し調べてみました。彼はプロボクサーの息子です。ぼくさ〜 ボクサーの息子なんだ、、、なんちゃって(独笑)。サッカー選手としては、ウェストハムでデビューし、その後、ルートンタウン、レイトンオリエントなどを経て、クリスタルパレスで選手生活を終えています。最高の成績は3部リーグ(今の2部?)での優勝だったとのことですから、選手としては突出した存在とまでは言えなかったわけですが、アーセナルのコーチなどを経て、指導者として頭角をあらわします。


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民家のみかた調べかた(4)

 私たちの班は12月5日(水)の4限~5限、前々回と同じ古民家カフェ黒田でテキスト『民家のみかた調べ方』の輪読(音読)の続きをした。今回は2章の残りと3章の前半を読んだ。以下、そこで学んだことを整理する。

どんな要素で古さがわかるか-2章後半

 以下1~4は建物の古さを見極めるポイントである。

1、柱から考える
 あまり加工されておらず、曲がったり、丸みを帯びていたりする柱は古い。そして柱の断面が長方形の柱も古い。柱は掘立柱、土台がなく礎石の上に立っている柱、土台がある柱、の順で古くなる。また、一番古い掘立柱の家は残っていない。掘立柱はその名の通り、地面を掘って立てた柱で、倒れにくいが、柱が根腐れしてしまうので、古いものは残らない。
 [キーワード1] 礎石(そせき)…建物下にあり、柱を支える石のこと。礎石があることで柱の根腐れが起こらず、建物が長く持つ。この礎石の上に柱を立てて作る建て方を「石場建て」という。古くからある家を「千年家」と呼ぶことがあるが、中世期に周辺の民家は掘立柱であったのに、例外的に石場建てで建てられたことで永続性を獲得し、「千年家」と呼ばれるようになった。

2、貫の離れ方から考える
 小屋組の束をつらぬく梁行と桁行の貫が上下に大きく離れているものは古く、それが近づき上下に接するようになっているものは新しい。
 [キーワード2]貫(ぬき)…柱の中を水平に貫通している木材。壁などを補強するために使われている。
 *梁行と桁行: 基本的に棟と同じ向きであり、長い方を桁という。それと直交する、短い方を梁という

3、開口部の雨戸の位置、有無や柱間の間隔、開口部の溝の数から考える
 ①雨戸が縁の外にあるもの、②雨戸が縁の内側にあるもの、②雨戸を用いず一間ごとに板戸二枚と障子一枚のもの、④半間を壁にしてその裏に板戸と障子をおいたもの、の順で新しくなる。板戸二枚と障子一枚で作られている場合、開口部の溝が3本溝になるのでたとえ改造されたとしても、溝の数から元のやりかたを復原できる。開口部は年代が古くなるほど小さく、内部は暗くなって竪穴住居のイメージに近づく。

4、古民家の内部から考える
 古民家は暗く閉鎖的である。これは前々回に習った「軒が低く一間ごとに柱が立つこと」と、上に書いたように「開口部が小さいこと」からもわかる。そして古民家は間取りが単純で、寝間周りと座敷部分以外に建具を入れずに開放的になっている場合が多い。
 [キーワード3] 建具(たてぐ)…障子や窓、扉などの開閉できる仕切りのこと。


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民家のみかた調べかた(3)

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古民家バスツアー

 11月28日(火)4限から古民家ツアーに行きました。前回は少人数の輪読セミナーでしたが、古民家ツアーは人間環境実習・演習Aの履修者全員(27人)全員が参加しました。見学させていただくのは東伯郡にある二棟の重要文化財、尾崎家住宅(湯梨浜町・18世紀)と河本家住宅(琴浦町・17世紀)です。県内でも有数の貴重な古民家であるため、構造や意匠を学ぶことになりました。


1128尾﨑家01松圃園02座敷01


尾﨑家住宅と安楽寺

 まず環境大学からバスで60分ばかり走ると湯梨浜町の尾崎家住宅に到着しました。本当はもう少し早く着くはずだったのですが、山陰道(高速道路)青谷~泊間が工事中で地道を走ることになり、少し遅れてしまいました。尾崎家住宅は2016年に起きた鳥取県中部地震によりダメージを受けているため近々修復が始まるそうです。ですから、今回尾崎家住宅に入れるのは貴重な機会です。しかし地震被害の影響のため、いちどに大勢で入ると建物に負荷がかかってしまうので、15名前後の二班にわかれました。一方が住宅の屋敷から庭を眺め、他方は小路の対面にある安楽寺本堂を見学して入れ替わります。


1128尾﨑家01松圃園02座敷02 1128尾﨑家01松圃園02座敷03sam


 長屋門を通ると古民家のオモヤがみえました。『民家のみかた調べかた』に記されているとおり、古民家は軒が低く棟が高かったです。玄関をくぐると、土間に独立柱が並んでいます。前回の輪読セミナーで習ったように、土間の独立柱は江戸中期以前の特徴の一つです。土間から畳間にあがると式台があります。その奥の数奇屋造の奥座敷に案内されました。この座敷は、床・違い棚・附書院を伴う書院造をベースにしていますが、長押や柱が丸みを帯びた面皮(めんかわ)を使うなど風流があしらわれています。川の流れを表しているかのような欄間も美しかったです。この座敷は奥に独立してたつ仏間の座敷をイメージして作られたらしいですが、今回は被災中のため仏間を見学させていただくことはできませんでした。


1128尾﨑家01松圃園10中庭


 数奇屋座敷の縁から庭を眺めることができました。縁は二段になった落縁で南側を向いており、庭だけでなく、遠くの山並みも借景として一望することができました。庭には絹芝、糸芝が使われているらしく、手水鉢も置かれています。池の向こう側には陰陽五行五行の松が庭の中心にどっしり構えています。縁からみえる背景の山を含めたこの庭は国の名勝に指定されているようです。遠望できる山も今の季節は紅葉の赤色が際だって、とても綺麗にみえました。

[キーワード1] 
 式台…武家など高位の方々が使う玄関
 落縁…2段で構成されている縁側、庭を俯瞰しやすく、腰掛けることもできる。
 絹芝、糸芝…南国の芝


1128安楽寺01遠景01 安楽寺遠景



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ここまでわかった!「日本人の起源」講演のお知らせ(3)

篠田謙一氏講演 新聞web 篠田謙一氏講演 新聞


新聞広報 

 地元紙のカルチャーコーナーに広報がでました。執筆は会長さんです。おかげさまで、電話予約が10名近くありました。A紙も明日か明後日広報してくださるとのメールあり。明後日って、講演当日だよね、、、まぁ効果がないわけでないのでね、ありがたいです。
 A紙の担当者がおもしろいことを書いているの。講演者の篠田さんが前職の佐賀大にいた時の取材で借りた本を、まだ返していないんだって。というわけで、講演を聴きにきて、本を返すのだそうです。
 まだパワポできてません。前座、やるんじゃなかった・・・(笑)。


ここまで分かった 日本人の起源03_02web ここまで分かった 日本人の起源03_01doc

ブッダが説いたこと(六)

合理主義ユマニストとしてのブッダ-今枝由郎先生講演レポート


  11月18日の今枝由郎先生講演「ブッダが説いたこと」のレポートが本学HPのTUESレポートに掲載されました。

http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171124/

 前回の速報とあまり変わり映えしませんが、内容を転載しておきます。

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 11月18日(土)、2017年度公立鳥取環境大学学内特別研究費助成研究に採択された「中国青海省・西蔵自治区のチベット仏教僧院に関する予備的調査研究」(代表者・浅川滋男)の一環として、第3回仏ほっとけ会(ほとけほっとけえ)を開催しました。このたびの第3回はチベット・ブータン仏教史の大家、今枝由郎先生(京都大学こころの未来研究センター特任教授)をお招きして、「ブッダが説いたこと」と題する講演をしていただきました。地元鳥取だけでなく、島根・広島・岡山・兵庫など近隣諸県からも多数の参加者があり、80名以上の聴衆が講演を楽しまれました。
 講演は『池上彰と考える 仏教って何ですか?』(飛鳥新社・2012)の引用から始まりました。池上氏によると、日本人は仏教を非常に複雑で暗い、つまりネガティブな宗教として捉えていると指摘しています。ところが一方、欧米の知識分子はむしろ仏教を非常にポジティブな知的財産として高く評価しています。たとえば、ニーチェは「仏教は歴史が我々に提示してくれる、唯一の真に実証科学的宗教である」、アインシュタインは「仏教は近代科学と両立可能な唯一の宗教である」と述べています。
 こうした日本(東洋)と西洋の認識の異なりは、どこから来るのでしょうか。それは「お経」にあるのではないか、と今枝教授は考えられたようです。日本の仏教は「葬式仏教」とも揶揄されるように、お経に接するのは喪に服する法要のときのみです。僧侶の導くまま訳のわからぬ念仏を唱えるだけで、お経に書かれている内容については誰も分からない。僧侶もまたお経を暗唱しているにすぎないのです。仏教国であるはずの日本の仏教は、少なくとも民衆レベルでは形骸化している。

 ブッダが逝去して今に至るまで長い時間が流れ、伝承としてのブッダの言葉は成文化し、注釈され、漢訳されて難解な経典に変わりました。難解になりすぎて遂には意味のとおらぬ漢字の羅列になったと言っても言い過ぎではないかもしれません。こういう実態に疑問を抱いた今枝教授は古代インドの仏典を自ら読みこみ、その意味を理解しようと考えられました。今に残る最古の仏典「スッタニパータ」「ダンマパダ(法句経)」を日常の用語だけ使って自ら翻訳されたのです。驚いたことに、そこに書かれた内容はシンプルで明快なメッセージばかりです。「良い友達を作ろう」「命をたいせつにしよう」「楽しい人生を送ろう」など、難解な漢籍仏典との距離が大きすぎて唖然とするばかりです。仏典の英訳を読んだ欧米知識分子がシンプルで明晰な古代インド仏典に心酔したゆえんでしょう。
 ポジティブで理解しやすい古代インド仏典は科学者・哲学者だけでなく、欧米の経営者・起業家などの座右の銘ともなり、「成功者のバイブル」と呼ばれるようになりました。人が社会で上手に生きていく上でメンタルをコントロールし、トラブルに巻き込まれないエッセンスが凝縮されているからです。Appleの創業者スティーブ・ジョブズは仏教から経営の極意を学んだ代表者としてよく知られています。
 紀元前5世紀の社会を生きたブッダは、崇高に神格化された宗教を極めようとしたのではなく、人間の人生を楽しく生きることを突き詰めて考えた「合理主義ユマニスト」であったというのが今枝教授のお考えであり、従来のブッダのイメージを大きく覆すものです。今枝教授は以下の著書3冊を本学情報メディアセンター・市立図書館・県立図書館に寄贈されました。古代インドの仏典が大学の教職員・学生・市民・県民の人生をポジティブに軌道修正する触媒となるであろうことを期待されてのご恵与と拝察いたします。心より感謝申し上げます。

【今枝先生からの寄贈本】
 ワールポラ・ラーフラ(今枝由郎訳)『ブッダが説いたこと』岩波文庫、2016
 今枝由郎訳『新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』トランスビュー、2014
 今枝由郎訳『ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』トランスビュー、2013


関連リンク先:
 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1645.html



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信州富士

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因果朗報

 勤労感謝の日からの4連休を楽しみに奈良に戻ってきた直後、義父が入院したという電話があり、一家親族あげて結構な大騒動になり、一同鳥取へ移動。東京から長女もかけつけた。姉二人を送って息子は奈良-鳥取を二往復し、二回目の鳥取自動車道で飛石に遭って意気消沈。我らがハスラーのフロントガラスに小さな皹が入ってしまったのだ。飛石の経験はわたしもある。あれは腹が立つ。だれが悪いわけでもないのにフロントガラスの交換を強いられるのだから。


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 義父の容態が安定した先週末、鵯越を経由して奈良に戻ると、長野から林檎が一箱届いていた。FCセクストンの元エース、リベロ尚さんからの贈り物です。溢れんばかりの蜜が滴る信州富士。美味しいな。ありがとう! さっそくイオンに出向き、お返しのお歳暮を探すのだが、奈良は駄目だね。地産品といえば、奈良漬と地酒のみ。以前、奈良漬を下戸のお宅に送って嫌がられた経験があるので、慎重になったが、信州は酒も美味いだろうから、やはり奈良漬にした。本心を吐露するならば、鳥取から若桜の弁天娘を送りたかった。あれは良い酒です。


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 息子のほうはディーラーまで修理の交渉へ。保険を使う場合、通常の事故なら3級下がるが、飛石は1級のみ。3年契約なので影響はほぼないことがわかった。今回の場合、保険がうまく機能したが、最近いろんな保険を使うことが多すぎて少々呆れている。その息子に朗報が届いた。一年間の苦労が報われたのだ。県内での再就職が確実になった。徳を積んだおかげかもしれません。ここ数日、家内は我が家に泊まって病院に通ったが、息子は佐治に滞在して祖母を病院まで送迎し続けたんだから。それはそれは、おばあちゃんは喜んだ。そして、おじいちゃんは体に巻きつく機械から解放され、2階から6階の病室に移った。なんとか年越しできそうな気配になってきている。


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 各種ビールで息子の内定を祝った。いまやビールはご馳走だからね。我が家の定番はブラックニッカのハイボールです。息子は発泡酒のほうが多いかもしれん・・・いずれにしてもエビスやスーパープレミアムを家で飲むことなんてないから。ビールのアテは一口餃子とパスタ。これもみんな息子がつくってくれました(昼はわたしが人参菜のサラダなどつくったんだぜ~、田中淡さん譲りだぜ~)。テレビではM1のライブをずっとやっていたね。わたし個人の感想を述べると、準決勝の最初にでてきたゆにばーすという男女漫才がいちばんおもしろかった。名人と称する男のほうは、ゴッドタンで二度みた。昔の三四郎のような振る舞いではらはらしたが、いずれ売れるだろう、と見入った記憶がある。優勝したとろサーモンの面白さがよく分からなかった。和牛も技術的に上手いとは思ったが、腹の底から笑えたわけではない・・・3組のなかではミキにいちばん笑ったが、早口すぎて減点されたのかもしれない。演じる順番とか点数とか、なにやらモンゴル系八百屋さん相撲を彷彿とさせるところがないとも言えませんねえ~~審査員のうち、感覚として評価が近似するのは上沼さんでした。松本の評価には決め打ちの感もあったが、ジャルジャルを最高評価したい気持ちは理解できた。


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↑↓ 昨年に比べ、珈琲の熟しが早い。ただし、青赤でむらがあり、どうやって収穫しようかな?
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さざんか紅葉

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鵯越のオニギリ

 鵯越といえば義経だ。一ノ谷の逆落としで平家軍を壊滅に追い込んだ戦場として知られるが、谷の岩場はあまりに急なので、逆落とし自体を『平家物語』のでっちあげとみる説も根強い。いまはそこに広大な墓苑が営まれている。鳥取から二時間以上かけて墓苑に着いたが、親族はまだだれもいなかった。墓苑はほんに広大すぎて、いったいどこに祖先の墓碑があるのか分からない。土曜日なので管理事務所も閉まっている。頼りになるのは「さざんか」という地区名だけで、おろおろ車を進めロータリーに乗り入れた。おびただしい数の墓標が林立する。10分あまり歩いて、あるいて・・・左をみると・・・あっ淺川と書いてある。墓石の裏手にまわり、父の名前を発見した。大急ぎで草むしりを始める。素手の草むしり。


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 午後1時をすぎて、続々と親族がやってきた。ここで軍手を拝借し、草むしりがおおいに楽になった。しかしながら、ひとり丹後の姉の姿がみえない。いつものことである。時間感覚のない人は一生そのままさ。その姉もあらわれて、全員で母の遺骨を墓に収めた。その後、姉手作りのオニギリをコンクリートの亭(あずまや)にて舌鼓。神戸はまだ冬ではない。秋晴れの紅葉まっさかり。鳥取の感覚では、11月上旬から中旬の気候である。紅葉に抱かれながら、お茶とオニギリとお菓子で親族一同談笑し、満足して家路につく。
 高速道路の車窓に映る紅葉は、それはそれはみごとなパノラマである。瀬戸内と山陰でかくも風景が一変するのだね。分かってはいるけれども、羨ましい。


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ここまでわかった!「日本人の起源」講演のお知らせ(2)

ここまで分かった 日本人の起源03_02web


 講演会の広報記事が大学HPの「お知らせ」に掲載されましたので、転載しておきます。

http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2017nendo/20171129/


--
 DNA分析による日本人起源論の第一人者、篠田謙一氏(国立科学博物館研究ディレクター)が青谷上寺地遺跡出土人骨研究の関係で近く来鳥されることとなり、大学時代のサッカークラブ同門であった本学浅川滋男教授が、急遽、本学での講演を依頼されたところ、ご快諾いただきました。篠田氏の主な業績には、『日本人になった祖先たち』(NHKブックス・2007)、『化石とゲノムで探る 人類の起源と拡散』(別冊日経サイエンス・2013)、『DNAで語る 日本人起源論』(岩波現代全書・2015)などがあります。また、南米インカ帝国の考古学・人類学的研究も進められています。

FCセクストン東西対抗 オフサイド講座

 篠田氏と浅川教授が所属したFCセクストン(旧名:京都大学文学部サッカー同好会)の名称に因み、このたびの講演会は「FCセクストン東西対抗 オフサイド講座」と銘打たれております。ちなみに、先月21~22日に鳥取市でFCセクストン同窓会が開催されました。全国各地から20名以上の同門が集結し、還暦過ぎのメンバーによる東西対抗フットサル戦がおこなわれ、11-9で篠田氏の所属する東軍が勝利しました。講演会も東西対抗の体裁をとっており、前座として西軍代表の浅川教授が県内考古学の短い報告をされたあと、東軍代表の篠田氏がDNA分析による日本人起源論について最新の成果をお話しされます。

日 程
 平成29年12月8日(金)10:40~12:10
  10:40~10:50 FCセクストンとは何か
  10:50~11:10 前座 浅川 滋男
    「古墳時代前期の大型倉庫群ー松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から」
  11:10~12:10 篠田 謙一
    「ここまでわかった! 日本人の起源」

会 場
 公立鳥取環境大学 第14講義室(定員80名)
  *聴講希望者が多い場合、100講義室に変更します。

主催・お問い合わせ先
 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
  (鳥取県鳥取市若葉台北一丁目1番地1)
  FAX:0857-38-6775   E-mail:[email protected]
 ※参加希望者はファックスかメールでご連絡ください。

関連リンク先
 ここまでわかった!「日本人の起源」講演のお知らせ(1)



ここまで分かった 日本人の起源03_01doc
※画像をクリックするとチラシをダウンロードできます。

寅さんの風景-TUESレポート

 11月10日付で、大学HPのTUESレポートに河原町文化祭講演「寅さんの風景」(10月28日@河原町コミュニティセンター大講堂)のレポートが掲載されていましたが、LABLOGでは未報告だったのでここに転載しておきます。

 http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171106/

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浅川教授の凱旋講演ー寅さんの風景(河原町40周年文化祭)レポート
最終更新日:2017-11-10

 去る10月28日(土)、河原町文化祭40周年事業として浅川滋男教授(本学環境学部)の講演会「寅さんの風景-千代河原と上方往来河原宿の遷ろい-」が開催されました。山田洋次監督・渥美清主演の人気映画「男はつらいよ」は、世界最長の映画シリーズとしてギネス認定されていますが、その第44作「寅次郎の告白」(1991)は鳥取を舞台とした名作であり、倉吉、砂丘、河原宿、若桜鉄道などの美しい風景が次から次へとスクリーンに流れていきます。とりわけ上方往来河原宿と周辺の千代川・八東川の河川敷は映画の最後半時間の舞台として圧倒的な印象を残しました。
 その河原宿で育った浅川教授は、実家に所蔵される写真帖から町並み等の古写真を拾い出して町の歴史を述べた上で、ロケ地での再現撮影写真、エキストラを務めた方々から提供されたスチール写真などを駆使し、以下の構成による講演をされました。

  寅さんの風景-千代河原と上方往来河原宿の遷ろい
   0.私の寅さん-マイ・バック・ページ
   1.上方往来と河原(かーばら)
   2.2017前期プロジェクト研究1&3「寅さんの風景」
   3.第44作「寅次郎の告白」(鳥取篇・1991)
   4.ロケ再現撮影カチンコ勝負
   5.私の「渡良瀬橋」
   6.寅さんは文化庁に先行する

 あいにく雨の降りしきる悪天候ではありましたが、故郷での凱旋講演だけに150人を超える聴衆が河原町コミュニティセンター大講堂に詰めかけ、熱気と笑いと歓声に溢れる講演会になりました。ある来場者は以下のような感想を述べています。
 
  河原地区が上方往来の他の宿場町の町並み景観の保存状況に
  比べて遅れており『河原の現状を何とかしたい』という、浅川先生の
  強い郷土愛を感じました。そして、今まで映画(寅さんシリーズ)を
  みたことはなかったのですが、先生の『寅さんへの思い入れ』の一端
  に触れ、ストーリだけではなく、風景を意識して「一度、みてみよう」
  という気持ちになりました。

 今まで映画「男はつらいよ」をみたことのない人でも楽しめる講演内容となっており、県内の他のロケ地から早くも講演のオファーが届いているとのことです。

  関連リンク先(浅川研究室ブログ): 
  http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1632.html 
 
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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