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入梅前のこと(1)

 活動記録がずいぶん途切れてしまった。いちばん影響したのは、先週末に大学時代の友人がなくなって浜松まで日帰りしたことで、そのあと学生と三徳山に登ったのだが、体調不良でまさかの雉打ちとなり、おまけに相も変わらず週2回の講義の準備に追われているからである。今年は受講者が多く、両講義とも100講義室でおこなっているが、昨年とは対照的に相性がよいようで、採点→正解者発表→問題作成が苦にならない。平均点が10点満点の8~9点なんだから恐れ入る。BRDの成績がこんなに良い年も記憶にない。やはり方法に尽きるね、教育は・・・


『魏志』倭人伝に係わる、もう一つの解釈

 6月7日(金)、環境大学OBの先輩教員が大阪から日帰りで本校を訪問された。田中先生は税制の専門家であるが、日本における税に係わる最初の記録が魏志倭人伝の「租賦を収む、邸閣あり」であることに注目され、2012年に「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」(『税』67巻3号:p.156-180、2012)と題する論考を発表され、LABLOGで取り上げた。その後も魏志倭人伝に関する興味は深まるばかりであったようで、このたび以下のご論文を発表され、それをわざわざ鳥取までお持ちいただいたのである。

   田中章介
   「『魏志』倭人伝に係わる、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して-」
   『大阪学院大学 人文自然論叢』第77-78号:p.1-23、2019年3月

 驚いたことに、邪馬台国の位置論にまで言及した労作であり、以下に構成を示す。これからどこかのファミレスにしけこんでじっくり読んできます。

はじめに
Ⅰ 陳寿『魏志』とその先行史書
Ⅱ 『広志』逸文の解析
 1.『広志』序説-3つの論点
 2.邪馬嘉国と伊都国の位置関係
 3.重要熟語「女国」-「邪馬嘉国」の代名詞
Ⅲ 『魏略』および『太平御覧』の参酌
 1.『魏略』に学ぶ-「女国」と「女王国」の分別記述
 2.『太平御覧』の参酌-「女国」、そして「邪馬臺国」の名称登場
 3.「邪馬臺国」に至る別行程「南水行30日陸行1月」の理解
Ⅳ 『魏志』倭人伝による総括
 1.卑弥呼の時代背景
 2.「邪馬臺国女王所都」の解釈
おわりに 


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ギシルコーヒー(3)

0617珈琲03ギシル01


ソウルツリーの再生へ

 それにしても、鉢植えの珈琲の樹は元気がなく、葉はしなだれ、未だ蕾もついていない。あまりにみすぼらしいので、父の日イブにホームセンターに出向き、最大サイズの鉢を買って植え替えた。効果は即あらわれた。翌日から新緑の若葉が一気に増えたのである。遅きに失してしまったかもしれないけれども、今年もまた白い華凜な花を咲かせてほしい。


0617珈琲03ギシル02 0617珈琲03ギシル03焙煎


 ここまでして鉢の植え替えをするなら地植えしたほうがいいんじゃないか、と思われるかもしれないが、室温20℃以上の場所で育てなければならないから、11月以降寒気が増す冬季には鉢ごとリビングに入れてしまうので、他の植木とちがって鉢植えから逃れることができない。珈琲の樹はいまや我が家のソウル・ツリーであり、なんとかおか二年前の元気を取り戻してもらいたい。マカビーストのような肥料が必要なのかな(笑)。


0617珈琲00全景02 0617珈琲00全景01縦


焙じギシル

 ギシル・コーヒーも飲んでみました。昨年は乾燥させた皮をそのまま茶葉としてポットに熱湯を注いだが、正直、生臭かったので、今年は3分ばかりフライパンで焙じてみた。大変効果があった。味が濃くなってこくがうまれ、生臭さは消えたが、薬草風の風味は残った。昨日、移動がなかったら、もっとゆっくり飲めたのに・・・まだ焙じ珈琲皮は半分残っていて茶筒につめておいたから、今度の週末が楽しみだ。 【完】


0617珈琲01腰巻01
↑↓腰巻が年々増えていく。こうしないと、根株全体を土で覆えないのである。
0617珈琲02腰巻01

父の日

0616焙煎04完成


白い珈琲実の焙煎

 昨夜、父の日を祝ってもらった。こんなにたっぷりお祝いしてもらった記憶がない。すこしは父親の有難さをわかってきたのかな・・・・というほどのことをしてやっているわけではありませんがね。
 食事のデザートに私が育てた珈琲を焙煎して飲んだ。二年ぶりのことである。二年前は大成功で、二株から四人分の珈琲をドリップできたが、昨年は鉢の植え替えをしたにも係わらず、いくら待っても実が赤くならないまま萎んで落下してしまい、乾燥した皮ごとギシル・コーヒーにして飲んだ。美味いといえるほどの味ではなかった。


0526珈琲採取02 0610珈琲皮むき01


 今年は2株のうち1株には実ができなかった。すでに鉢の養分が薄れ、根が張り尽くしてしまったのだろう。いくら追肥をしても1株には実はならず、もう1株の実は今年も赤くならなかった。上の写真(左)にみえる赤い実はイシランメであり、残念ながら、その背景の引き立て役になっているのが珈琲の実である。5月下旬、赤くなっていない実を採取した。すぐに実をむけば良かったのだが、2週間放置して乾燥し、6月10日の皮むきには手間取った。皮を歯で食いちぎりながら実をむき、窓際に新聞紙とキッチンペーパーを敷いて、種(珈琲豆)と皮(ギシル)を日陰干しした。


0610珈琲皮むき02乾燥01


 1週間たち、父の日の夕食のデザートにあわせて豆を焙煎した。2年前は40分以上かかったが、なにぶん豆の量が少ないので、20分足らずで炒りあがった。それでも香りはいい。ミルで豆を挽き、コーヒーメーカーでドリップした。たぶん1.5人分の豆を二人分の水で抽出したので、味は薄かったが、新鮮な苦味のあるブラックコーヒーをデミタス風に味わえた。【続】


0616焙煎02終了01 0616焙煎01開始01
↑(左)焙煎[終了←開始]   ↓ミル[後←前]
0616焙煎03ミル03紙 0616焙煎03ミル01前

『鳥取県の民家』を訪ねて(13)

0612江津01松本家01主屋01 0612江津01松本家01主屋02紫陽花


№029⑨松本家住宅 

 6月12日(続々)。県立中央病院の北にひろがる江津(えづ)は、伝統的集落と新興住宅区が融合した広範囲の自治区です。『鳥取県の民家』掲載の№029⑨松本家住宅は、事前に住宅地図等で情報を得ており、カーナビに誘導され迷わずたどり着けました。敷地の大きな庄屋の宅地に茅葺き屋根を道路から遠望できるのですが、まわりは新しい住宅街になっていて、両者のギャップに驚きを禁じえません。先生が何度か玄関でインタフォンのボタンを押され、104に問い合わせて電話もかけてみたのですが、ご不在でしたので、広大な屋敷地の外側をぐるりとまわることになりました。


0612江津01松本家01主屋03背面01 


 松本家は戦国時代に武家が帰農して大庄屋なった家柄ですが、主屋の建造は幕末に下ります。当初、平面は六間取りでした(↓)が、改修激しく、調査時では九間取りになっていました。構造形式は入母屋造平屋建で、正面側は下屋(庇)を桟瓦葺きにしていますが、背面側は広い範囲が桟瓦葺きになっています。『鳥取県の民家』(1974)を確認すると、昭和47年の調査時でも断面図をみると、背面側は今と同じ広さが桟瓦葺きであったことが分かります。


江津01松本家02主屋02復原平面01 江津01松本家01配置図


 すでに述べたように、№029⑨の近隣はニュータ ウン化しており、マンションやアパートが軒を連ねています。こうした新興勢力との関係からなのか、監視カメラが各所に設置されており、コンクリートブロックや金属の塀柵により屋敷の防御性を高めています。ただし、長屋門や土蔵は報告書の状態を維持しているようにみえました。この日までに『鳥取県の民家』掲載の東部民家10棟をすべてみたことになりますが、こうした開発地区で旧状を維持しているのは№029⑨のみであり、今後ヒアリングなどの再調査が必要になるかもしれません。(八木部長)


0612江津01松本家02周囲01 0612江津01松本家02周囲02
↑土蔵とその周辺 ↓長屋門と周辺の宅地
0612江津01松本家02周囲05長屋門 0612江津01松本家02周囲04宅地03


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『鳥取県の民家』を訪ねて(12)

0612赤子田01西尾家01長屋門01 0612赤子田01西尾家00大井手


№023⑧西尾家住宅

 6月12日(続)。3年生たちがNo.011②木下家住宅調査を開始した直後、私たち4年生3人は赤子田(あこだ)に向かいました。No.011②の位置する河原町布袋から1キロほど北西に進むと 赤子田(あこだ)に着きます。『鳥取県の民家』(1974)によると、赤子田は鳥取藩池田候の参勤交代の街道が通り、西尾家は大庄屋であると同時に本陣としても機能したと伝えられています。また、文政年間(1804-1831)に西尾家で火災があり、1972年に調査した主屋は火災後のものと判断されます。


西尾2web 赤子田01西尾家03長屋門写真


 赤子田ではさっそく№023⑧西尾家住宅を探しました。事前に住所が特定できなかったので、まずは集落内で出会った方へのヒアリングから始めました。一人目の方はNo.011②と同姓の西尾さんというご婦人でしたが、「知らない」とのことで、すぐに会話は終わってしまいました。二人目のご婦人はお 出かけになるご様子で、最初は「他の家のことはあまり分からないから」 と発言を躊躇されていましたが、次第に慣れてこられて、No.011②のことを思い起こされ、その位置をほぼ確定することができました。会話中に先生や3年生も赤子田に到着され、無事合流しました。二人目のご婦人は、しきりに「そこにね、今もね、いらっしゃるから」と生い茂る屋敷林を指さされます。全員で、大井手(一番上の写真右)に沿う道路の側から向かうと長屋門のあたりにご主人を発見しました。報告書に記載されている西尾さんのご子息です。


0612赤子田01西尾家02主屋跡02 0612赤子田01西尾家02主屋跡01


 残念なことですが、主屋は撤去されていました。基礎の跡がはっきり残っており、庄屋時代の建物規模の大きさを偲ばせます。撤去したのは6~7年前のことだそうです。コボチ屋がやってきて、「安くするから」と声をかけられ、その誘いにのったのだそうです。現在は主屋跡の裏側に新しい住まいを建ててお住まいになっています。。1棟だけ残る土蔵は瓦屋根が崩れかかっていて、今後の維持が難しいようにみえました。


赤子田01西尾家04主屋写真 赤子田01西尾家01復原平面図01


 入口には梅の樹があり、梅を漬けて梅酒にする話で盛り上がりました。昨日報告した岩美町外邑の米山家住宅である。No.006①でも梅の収穫は進んでいましたが、主屋を撤去した屋敷の状況も近似しています。


西尾7web 赤子田01西尾家05配置


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『鳥取県の民家』を訪ねて(11)

0512布袋01木下家02門02正面01 0512布袋01木下家02門02正面02全景


No.011②木下家住宅

 6月12日(水)、晴れ。今週もゼミ生一同、『鳥取県の民家』(1974)で調査報告された民家を訪ねるフィールドワークに出かけた。まず、私たちが訪れたのは鳥取市河原町布袋のNo.011②木下家住宅(県指定1974)である。予め電話連絡がとれていたため、ご主人に丁寧にご対応いただいた。外観だけでなく、土間など内部の撮影や、ドローンによる空撮も許可をいただいた。ヒアリングに対しても大変優しくお答えくださり、実際に生活されている方のお話をうかがうとても貴重な経験となった。


0512布袋01木下家01正面01風景02 0512布袋01木下家01正面01風景01


 『鳥取県の民家』によると、木下家は江戸時代初期において鹿野城主亀井家の本陣をつとめた旧家で、亀井家の転封後も大庄屋などをつとめて家格を保ってきたという。主屋は報告書刊行の昭和49年に県の保護文化財に指定されており、案内板には「非常にきれいな状態の入母屋造平入平屋建住宅で江戸時代中期の大庄屋の家構えを今に伝える」とある。


0512布袋01木下家01正面02屋根up 内部 梁web


 今年の4月に主屋の茅葺屋根の一部を刷新した。県市の補助もあるが、自費負担も結構かかる。屋根はこうして一気に葺き替えるのではなく、10年ほどの周期で部分葺き替えや刺し茅をしているのこと。道路に面する茅葺きの門もとても立派で、教授は「長屋門とはいえない」規模だと言われたが、ほとんどの方は「長屋門」と呼ぶのに対して、家人はただ「門」と呼ばれるそうだ。

内装kamado web 0512布袋01木下家02内部01流し


 主屋平面はいまは整形六間取だが、広間型五間取に復原できる。特別に内部を見せていただくと、昔からの柱や梁だけでなく古式のカマドや囲炉裏、石板をくり抜いてつくられた流し台などがあり、江戸時代の風情をよく伝えている。教授によれば、きちんと整備すれば十分公開に値するとことである。調査を終えた後も優しく送り出してくださり、とてもありがたく感じた。(月市)
木下家復元平面図 鳥取県の民家 _1974-32木下家 当時

 《教師補遺》 内部の部材は一部不朽が進んでいるが、古材や建具・民具をよく残しており、国指定に格上げする価値の民家ではないか、と思った。鳥取県の指定民家は、これまで調査した福田家、矢部家などに代表されるように、指定して修理の際に補助金を出すだけで、「公開」や「活用」に対して考慮がなされていない。重文及び県指定の民家について、真剣に「公開」「活用」の方法、及び指定文化財民家のネットワーク(スタンプラリー等)を練り上げるべきではなかろうか。


0512布袋01木下家01背面01 0512布袋01木下家02門01背面01

空撮写真web




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令和元年度公立鳥取環境大学特別研究費に採択!

四川高原カム地区のチベット仏教と能海寛の足跡に係る予備的調査研究

 ようやく体調が人並に回復してきております。GWあけが締切だった今年の学内特別研究費申請には体調不良のため苦しんで提出しましたが、昨日、正式な通知があり、満額回答の採択通知をいただきました。

   研究題目: 四川高原カム地区のチベット仏教と能海寛の足跡に係る予備的調査研究
   助成経費: 1,000千円

研究の背景
 2012年以降、科研費等の助成によりブータンの仏教(チベット仏教ドゥク派)と崖寺・瞑想洞穴に係る調査を進めてきた(計7回)。ブータンでの活動を継続する一方、チベット(西蔵)・アムド(青海)・カム(雲南・四川の境域)等のチベット仏教圏を包括的に対象とする競争的資金の獲得を目標に据え、これまで3回、中国側の青海・西蔵・雲南を訪問している。 1回目は、2015年度本学教育研究特別助成によって、青海省の西寧~青海湖周辺の主要なチベット仏教ゲルク派の僧院を視察した。2回目は、2017年度本学特別研究助成により、青海湖から鉄道で南下してラサに至り、僧院・宮殿の視察後、さらに南下してツェタンを訪問した。ツェタンはチベット最古の王朝「吐蕃」の初代国王ソンツェンガンポ(581-649)の故郷であり、蔵王墓群や城壁・寺院・城跡が残り、城下町にあたる民家集落の保全状態も良好である。一方、国内では、島根県浜田市出身のチベット仏教求法僧、能海寛(1868-1901?)の著作『世界に於ける仏教徒』(1893)の口語訳と批評に取り組み、昨年度(2018)の本学学長裁量経費特別助成によって12月1日に能海寛生誕150周年記念国際シンポジウムを開催した。また、昨年度の本学特別研究助成により西北雲南を訪問してカム地方の仏教遺産を視察するとともに、能海最期の地となった大理~徳欽の関係地を訪れた。
 このときマニタイ(摩尼堆)と呼ばれる卒塔婆の群集を発見したのは新たな収穫であった。チベット仏教では五種類の葬制があるが、輪廻を重視するため遺体に執着しない。肉体は衣服と変わらないものであり、霊魂は新しい肉体を求めているので遺灰を山水に廃棄し、墓を設けないのだが、墓標に似た極彩色の卒塔婆が存在することを初めて知った。今後の重要な課題だと考えている。これらの研究成果を継続的に発展させる必要がある。

研究目的
 本研究は西蔵自治区等での活動を継承し、四川高原西部(カム地方)におけるチベット仏教の状況を把握することを目的とする。昨年に続いてカム地方に拘るのは、まず第1にブータン国教ドゥク派の開祖パジョ・ドゥゴム・シクポがカム地方の出身であり、生態系もブータンに近似するからである。これまでどおり、おもに仏教遺産と民家仏間に焦点を絞り比較研究を進めていくが、今回とくに注目しているのは、上に紹介したマニタイである。ブータンではみたことのない独特の物質文化であり、輪廻思想との絡みから宗教的背景と地域分布を正しく理解する必要がある。第2に、能海寛による明治31~32年の第1回チベット行(四川ルート)がこの地を経由している。成都より西行し雅安、康定、雅江から巴塘に至るルートを能海は歩いた。当時の日誌が『能海寛遺稿』に残っている。能海は金沙江手前の関所で足止めされ、チベット領に入境できなかった。巴塘は西蔵自治区と接する甘孜藏(カンゼ・チベット)族自治州の辺境拠点であり、昨年訪れた雲南省徳欽とも金沙江を挟んで近い位置関係にある。多くのチベット族が居住し、チベット仏教の盛んな地域である。巴塘を中心にして『能海寛遺稿』の地誌的記録との対照を試みたい。
 こうしてフィールドデータを蓄積するだけでなく、昨年末に開催した国際シンポジウムの成果を整理し、能海の著作『世界に於ける仏教徒』の口語訳とこれまでの調査成果を総合した報告書を完成させる。また、昨年に引き続き、中国のチベット研究者と交流を図る。研究会については、中国で開催するか、日本で開催するかは、研究の進捗をみて判断する。四川の受入機関は、昨年共同研究した雲南民族大学を通して四川省民族研究所に打診し、内諾を得ている。

『鳥取県の民家』を訪ねて(10)

0605佐治谷民話の里02(福園から移転) 0605佐治谷民話の里01(福園から移転)


佐治歴史民俗資料館

 6月5日(続)。佐治歴史民俗資料館は鳥取市佐治町(旧佐治村)加瀬木にあります。佐治川を挟んで佐治町総合支所(旧村役場)の対岸です。資料館はふるさと歴史館、民話の館、展示館(土蔵)の三館で構成されています。民話の館は茅葺屋根民家を近隣の福園という集落から旧家を譲り受け、移築復元されたものだそうです。建物は幕末のものと言われおり、入母屋造平入平屋建です。


0605⑤(21)谷上家02側面01 0605⑤(21)谷上家03アルミサッシ01


№021⑤谷上家住宅

 『鳥取県の民家』には佐治村余戸の№021⑤谷上家住宅が掲載されており、佐治村民話の館はその移築復元かもしれない、ということで急遽訪ねたのですが、教授が総合支所に自ら赴いて確認したところ、谷上家とは別の建物であることが分かりました。支所で№021⑤谷上家住宅の番地と電話番号を教えていただき、さっそくカーナビに情報を入力して余戸に向かいました。
 №021⑤谷上家も入母屋造平入平屋建ですが、茅葺屋根に鉄板を被せていました。奥様に少しだけ話を聞くことができたのですが、平成になってから鉄板で覆ったそうです。『鳥取県の民家』によると、谷上家は屋号を「大寿屋」といい、はぜから蝋を作る仕事をされていて、主屋の建設は元禄年間(1688-1704)にまで遡り、妻床形式の「広間型三間取り」に復原できると言います。


0605⑤(21)谷上家01外観01 0605⑤(21)谷上家04鉄板屋根sam
↑現状  ↓復原(広間型三間取り 茅葺屋根)
00谷上家01復原平面図01 00谷上家02茅葺屋根01



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『鳥取県の民家』を訪ねて(9)

0605⑦(27)福田家05斜前方から01 0605⑦(27)福田家01案内板01sam


№027⑦福田家住宅

 6月5日(水)、快晴猛暑。ゼミ生全員で『鳥取県の民家』を訪ねるフィールドワークにでた。はじめに鳥取市紙子谷にある№030⑦福田家住宅を訪れた。これまで研究室として何度か訪問したようだが、原則として公開されていないので、内部に入った経験があるのは教授だけらしい。今回は玄関があいており、前庭から土間が見通せる状態になっていて、教授が何度も声をかけられたが返事はなく、やはり外観からの撮影や調書取りにとどまった。
 福田家住宅は『鳥取県の民家』刊行直前の昭和49年(1974)2月5日、国の重要文化財に指定されている。案内板によると、以下のような由緒と建築上の特色がある(若干改訂)。


0605⑦(27)福田家02小屋組01 00福田家01復原平面図01


 福田家は古くからこの地に住み、江戸時代には旧津ノ井村の大庄屋を20代も務めた旧家である。江戸時代以前はこの地方の在地土豪であったが、帰農したと伝えられる。住宅の建築年代は、木柄の太さや手斧(チョウナ)はつりの加工痕跡からみて、江戸時代初期以前の建築と推定され、県内に残る住宅建築のなかで最古級の一つと考えられる。現在は改造がみられるものの、当初は四八(間口八間×奥行四間)の「広間型三間取り」であった。①側柱の間隔が不規則で、構造上無理のない位置に配されていること、②後世には省略される入側柱が残ること、③大黒柱が細く側柱のサイズとほとんど変わらないこと、など随所に古い要素を残す。製材してない曲がった部材をそのまま柱とし、そのままチョウナで削った痕が明瞭にみえるなど、主要部材に当初のものが比較的残っている。
 教授の説明によると、主屋が大壁構造になっているところも古式であり、斜め前の庭の塀は新しい真壁になっていて対照的である。構造形式は入母屋造茅葺平屋建平入。


0605⑦(27)福田家04正面01 0605⑦(27)福田家03GPS01sam



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『鳥取県の民家』を訪ねて(8)

0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_37


2019年度人間環境実習・演習B中間報告会(5)

5 フィ―ルドワークの成果と今後の課題

 【若桜郷土文化の里と三百田家住宅】 私たちは5月15日のゼミの時間を使って最初のフィ―ルドワークに出かけた。まず若桜町屋堂羅にある「若桜郷土文化の里」を訪れた。そこには、第三次調査番号4番の三百田家住宅主屋が移築公開されていた。もとは同じ若桜町の吉川(よしかわ)という集落に三百田家はあったが、昭和58年(1983)に建物は若桜町に寄贈され、平成5年(1993)屋堂羅に移築復元された。『鳥取県の民家』刊行に先行する昭和39年(1964)に県の保護文化財に指定されていた。主屋の平面は、オクノマ、ナンド、ヒロマから構成される典型的な広間型三間取となっている。


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 【間による寸法の体感】  私たちは「間」という伝統的な長さの単位を良く知らなかった。「間」は畳の寸法に対応している。畳の長い辺が1間(6尺)、短い辺が半間(3尺)である。三百田家住宅の場合、接客室にあたる「奥の間」だけに畳が敷かれている。そこで、「間」の寸法を実感するために、オクノマの平面図を3年生全員が描く実習をおこなった。三百田住宅のオクノマは六畳敷であり、規模は二間四方になっている。


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 【GPSデジカメ撮影とデータ処理】 次に、GPSデジカメで外観と内部を撮影した。このカメラで写真を撮ると、その写真ファイルには、撮影場所の北緯と東経の座標が表示される。さらに、撮影された写真をパソコンで読みこむと、写真の右側にグーグルマップの位置情報が示される。


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 【ドローン空撮演習と3Dモデル】 ドローンによる空撮演習もおこなった。先輩の指導のもと、3年生もドローンを操縦し上空からの撮影を試みた。ドローンで撮影した数十枚の空撮写真データをフォトスキャンというソフトで加工すると、自動的に3Dモデルが作成される。この写真はオルソ写真といって2次元モデルだが、一般写真のような歪みはなく、縦横(たてよこ)比が正確である。


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『鳥取県の民家』を訪ねて(7)

0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_25 図1


2019年度人間環境実習・演習B中間報告会(4)

4 『鳥取県の民家』のデータ化(続)

 『鳥取県の民家』に記載されている情報を整理し、データベースを作成しつつある。 Fire Maker Pro というデータベース専用ソフトを使用している。なぜデータベースをつくるのかというと、民家の重要情報を理解し比較しやすくするため、また、民家情報の検索や一覧表への転換が容易であり、卒論でもデータベースを応用できると考えたからである。


0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_27 図2


 【データベース】 『鳥取県の民家』第三次調査29件すべてを対象としている。データベースの項目は以下の18項目ある。

  民家No.(第三次・第一次)  本文出典pp.  住宅名
  住所(現在、旧)  所有者  建築年代(根拠)
  在方(農家系)   町方(町家系)
  構造形式  主屋規模  主屋平面  付属屋
  普請関係資料  指定登録の有無  GPS座標
  備考  データ記入日  データ記入者

 図2の赤線部分が第三次調査と第一次調査の対象民家の番付、本文出典ページ、住宅名を記載した部分である。


0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_28 図3

 
 図3の青線で囲んだ部分に民家主屋の写真を貼り付ける。上側が報告書掲載の写真、下側が現状の写真である。家屋写真が記載されている。図4の緑灰色線の部分には、現住所と旧住所、所有者、建築年代とその根拠を入力する。


0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_29 図4


 

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『鳥取県の民家』を訪ねて(6)

0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_18


2019年度人間環境実習・演習B中間報告会(3)

3 『鳥取県の民家』のデータ化

 『鳥取県の民家』のデータ化について説明する。最初に、調査対象となった民家の具体的な数について紹介する。民家調査は第一次~第三次までであり、第一次調査は108件、第二次調査では80件、第三次調査では39件が調査対象になった。第三次調査の対象になった39件から保存対象の候補に15件が絞られ、最終調査がおこなわわれた。
 東部・中部・西部にわけて一次から最終調査までの件数を下に示す。重要な民家は西部に多いことがわかる。

  東部: 30件(第1次)→20件(第2次)→10件(第3次)→4件(最終調査)
  中部: 28件(第1次)→26件(第2次)→12件(第3次)→3件(最終調査)
  西部: 50件(第1次)→34件(第2次)→17件(第3次)→8件(最終調査)


0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_19


 【一覧表のエクセル入力】 本書には調査対象民家について、間取り形式や建築年代などの多様な情報が一覧表や分布図として掲載されている。一覧表はExcelに入力し、民家分布図は正確な位置を示す図にバージョンアップ、民家解説文をWord入力した。また、第三次調査対象の39件についてデータベースを作成中である。
 最初にExcelの入力データから説明する。『鳥取県の民家』の調査対象民家一覧は108件すべての民家の重要項目を表にしている。これらの一覧をExcelに入力し、備考欄と第三次調査番号の追加をし、一目見てわかりやすいものを作成した。こちらが鳥取県東部のExcel一覧になる。第一次調査番号の左側、枠外に第三次調査対象の民家の番号を振り、後ほど説明する分布図やデータベースの番号と一致するようにした。また、右側に備考欄を追加し、国または自治体の指定や登録を受けている民家はそこに追記した(↓)。


0529(最終校正)鳥取県の民家ブログpdf用改変_20



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『鳥取県の民家』を訪ねて(5)

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2019年度人間環境実習・演習B中間報告会(2)

2 昭和49年(1974)の日本

 『鳥取県の民家』は昭和49年(1974)に発行された。私たち学生は平成生まれのため、この時代をよく知らない。令和になってふりかえるに、平成は「停滞」の30年、昭和戦後は「成長」の40年と評されている。そこで、昭和戦後の一断面として昭和49年周辺を切り取り、当時の日本の概況を調べてみた。


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 【政治】 昭和47年(1972)7から2年半ばかり、田中角栄が総理大臣を務めた。戦後の宰相では最もエネルギッシュと言われた人物であり、首相就任直後、大平外相とともに自ら北京に赴き、毛沢東・周恩来と会談して日中国交回復の共同声明を発表した。戦後政治史に残る快挙であろう。翌年、田中首相は『日本列島改造論』(1973)を出版して国土開発を称揚する。しかし金権体質の批判が強まり、昭和49年末に内閣総辞職。昭和51年にはロッキード事件で逮捕された。ロッキード事件は、航空機受注をめぐる大規模な汚職事件である。田中角栄の後に首相に選ばれたのはクリーン派の三木武夫であり、1976年にはロッキード事件の徹底究明を主張したが、自民党内で猛反発にあい、同年12月に内閣総辞職を強いられる。


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 【経済・国土開発・人口】 昭和30年代以降、日本は高度経済成長の道を歩んでいたが、1973年の中東戦争に伴う石油危機により戦後初のマイナス成長となった。しかし、田中角栄首相が構想する列島改造は着々と進む。中国道が少しずつ西方向にのびてゆき、山陽新幹線も路線の敷設が進んだ。 日本の人口は1960年代末に1億人を超え、1974年は約1億1千万人。その後も人口は増え、2010年ころピークになって約1億2800万人となるが、そこから減少に転じ、令和元年5月現在、1億2620万人となっている。一方、鳥取県の人口は昭和49年に約57万8千人だったが、5年後の昭和54年(1984)より60万人を超え、昭和60年代に61万6千人に達したが、平成20年(2008)に60万人を割り、現在は56万人をぎりぎり維持している状態です。日本全体に比べ、鳥取は10年早く人口減少が進んでいる印象をうける。 (3年K.Y)


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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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