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【速報】摩尼寺紅葉コンサート(1)-トレッキング

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第1部 摩尼寺「奥の院」遺跡トレッキング

 11月29日(土)午前0時、ヤホーの天気予報によると、6-12時の降水確率は40%まで下がっていた。どうやら雨は少し早めに降り出したようで、戸外の風は強く「冬一番」を思わせた。ヤホー天気図の雨雲移動をみると、午前に雨雲は海岸域から離れて動いている。あくまでシミュレーションにすぎないけれども、流体力学に基づく近年の予想は驚くべき精度を誇っており、「トレックできる」とそのとき確信した。わたしはまだ運をもっている。
 8時前に目がさめて、再度天気図を確認すると、降水確率は60%に再上昇していたが、10~12時の雨雲はやはり海岸域にみえない。各所に連絡し、「予定通りのスケジュールで」と指示した。


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 9時に門前到着。前日までに精進弁当は50箱以上の注文があり、トレック中止となると、予約キャンセル多発の危険性もあったが、雨雲は予想どおりの動きをみせた。申し込みのお客様が続々茶屋の前に集まってくる。まずは弁当代を払ってチケット購入。弁当は下山後、境内で受け取ることになっている。
 10時前から点呼にかかる。トレック申し込みは54名、天候を危惧したキャンセルが10名ばかりあったが、40名以上が隊列をなして微雨混じりの曇り空のもと「奥の院」をめざして出発した。その後、天候はみるみる快復し、「奥の院」から上では青空がひろがりはじめる。今日は疲れてまともな文章にできないので、トレックについては、写真のキャプションでお知らせします。誘導担当は私のほか会長、白帯、NOBODYの計4名でした。
 なお、LABLOGに先んじて、イベント会場でコメントを頂戴した光澤寺ご住職がブログで第2・3部の紹介をされています。ぜひ、ご参照ください。

   http://blog.livedoor.jp/sakurasakukoutakuji/archives/41557335.html


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↑前日(28日)の突貫工事で、1本丸太橋が2本丸太に変わりました。歴史的な1日です。

1129トレック05 1129トレック07縦01奥の院

↑↓出発から35分ばかりで「奥の院」到着。かの「化け物の樣な八十四翁」はこの段階で大きく出遅れ、途中下山されました。それにしてもたいしたものです。

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1129トレック09晴れ

↑岩陰仏堂を過ぎるころから晴れ間がのぞいてきました!


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近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(XⅡ)

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2014最後?の調査

 23日(土)、今年最後?の調査を八幡神社でおこないました。境内は銀杏の落葉一色。とても季節を感じられる風景でした。すでに蟇板の放射性炭素年代測定の結果がでていますが、その結果をうけて、追加のサンプル採取をおこないました。樹種同定に失敗し続けている拝殿側柱筋蟇股(A05)からチップを再々採取し、狛犬の左後ろ足の一番外側から5年輪目の年輪サンプルなども取らせていただきました。両方とも硬い材で採取はやっかいではありましたが、これまでの経験もあり、私もケントも慣れたものです。はじめ八幡神社を訪れたのが大学4年生の6月のことで、もう修士2年で論文の追い込みの時期であり、光陰矢のごとしと感じています。いよいよ修士論文の詰めに入ります。(白帯)


141122八幡神社サンプ4 141122八幡神社サンプ2

摩尼寺紅葉コンサート2014へむけて(Ⅷ)

天気予報とトレッキング

 10日前からずっと天気予報を注視してきました。それがぶれないんだ。「曇時々雨」のままついにイベントを迎えます。
 降水確率は、6-12時が70%、12-18時が40%。問題は午前のトレッキングです。
 トレッキングは人気が高く、「限定30名」を超える応募がありましたが、同行者を増員することで応募者全員を受け入れることにしました。「雨天中止」とも掲示しておりましたが、84歳の後援者から「小雨程度なら奥の院まであがろう」と声をかけられましてね。風邪の治り際で苦しんでいるのですが、84歳の先輩が上がろうとおっしゃるのですから、【小雨程度なら】上がります。
 これについては、60代の別の先輩から以下のようなコメントも頂戴しております。

    私が確か高校生の頃NHKテレビ英會話中級の講師を務めていらつしやつた
    先生が、去る25日、84歳で亡くなつていらつしやいますが、其の化け物の樣な
    八十四翁が登ると仰有れば、我々若い者としては否とは申せませぬな!

 もちろん中級以上の雨の場合はトレックは中止します。中止か否かの最終判断は直前になりますが、以下までお問い合わせください。

    摩尼寺保存会(門脇茶屋)   0857-23-5300    
    事務局(保存修復スタジオ)  0857-38ー6775

 小雨でのトレックの場合、雨具・防寒具・カイロ・飲料(2本)に加え、着替えの衣服を用意されるのが賢明かもしれません。ちなみに、トレックの同行者は私と会長と白帯です。東ブータン高地で使ったゴアテックスの登山着が思わぬところで役に立ちそうです。


摩尼寺雨景DSC_0931
↑小雨の摩尼もまたよい味わいです。2013年11月22日。


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近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(XⅠ)

141119籠守神社蟇股4


籠守神社の蟇股

 米子八幡神社拝殿側柱筋の蟇股と比較検討するため、これまで摩尼寺や長谷寺で蟇股の拓本を採取しました。11月19日(水)は湯梨浜町埴見にある籠守神社本殿蟇股(1700)の拓本を取りに行きました。籠守神社は本殿とともに墨書のある蟇股一枚が県の保護文化財に指定されています。
 案内板によると、この神社は底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を祀り、鎌倉時代の創建と伝えられ埴見集落の氏神で、子授け、育児など子供に関する信仰が篤いとされています。正嘉2年(1258)、東郷荘下地中分絵図に「土海宮」として社殿が描かれ、また宮司家に伝わる文書に「土海宮神主」と書かれていることから、かつては土海宮と呼ばれ、13世紀中頃にはすでに創建されていたと考えられています。

 本殿は、正面3間×側面2間(背面2間)の流造銅板葺で、建材には主に欅や栗が用いられています。蟇股は本殿の正面と側面にあり、背面には見られませんが、壁板の風蝕から、かつては背面にも据えられていたことが確認できます。拝殿内に飾られている蟇股の裏に「元禄13年(1700)11月11日 備前国赤坂郡 平岡西村 大工 横山益三」と記されています。この蟇股は材料や形から、現在の本殿のものと考えられ、備前大工の手によって建てられたことが分かります。元禄13年(1700)という年号から、現在確認されている中では県中部で最も古い神社本殿建築とされ、柱や梁、桁などの軸部には大きな改造はなく、様式的に装飾化が進む以前の、簡素な古い形を伝える貴重な建築であるとされています。
 
 調査は腐食で本殿の原位置から落ちてしまった木鼻の拓本とりから始めました。木鼻と虹梁の渦を見てみると正円に近く、18世紀初期という年代でよいと思われます。


141119籠守神社蟇股3 141119籠守神社蟇股6
↑籠守神社本殿左側面上部木鼻



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摩尼寺紅葉コンサート2014へむけて(Ⅶ)

20141121朝日新聞摩尼寺コンサート報道  141125日本海新聞11月25日(22面)


最終確認です

 先週末(21日↑左)に朝日新聞、昨日(25日↑右)には日本海新聞が広報してくださいました。メディアの効果は絶大ですね。週末の前後で、申し込み殺到中です。とくに重要な点を整理しておきます。

 1)第1部トレッキング参加者は午前10時前には門脇茶屋に集まってください。点呼あり。
   注意事項あり。茶屋で「精進弁当」(お茶付で1000円)を購入されるのをお薦めします。

 2)精進弁当については、現在予約受付中です。大変好評を博しております。
   第2部からの参加者もぜひお買い求めください。当日は即売り切れの可能性も
   あります。入用の場合、門脇茶屋もしくは事務局に予約の連絡をしてください。

 3)29日の天気予報は「曇り時々雨」(降水確率60%)となっています。第1部は降雨の場合、
   基本的に中止しますが、曇りで小雨混じり程度の場合、「奥の院」まで上がる可能性もあり
   ます。当日朝の判断は、摩尼寺もしくは門脇茶屋に電話でお問い合わせください。
   事務局のスタッフは朝早くから摩尼寺で準備しておりますので、事務局の電話はつながり
   ません。事務局代表の電話番号が知りたい方はメール等でお問い合わせください。  

 4)第2部・第3部は雨でも開催します。会場は善光寺如来堂です。

 5)駐車場は3ヶ所に分かれており、収容台数は60~70台です。自家用車をご利用の場合は、
   できるだけお誘い合わせの上ご来場ください。

摩尼寺コンサート(完成)チラシ01表01 摩尼寺コンサート(完成)チラシ02裏01
▲ 参加ご希望の方は上の右側の画像(チラシ裏面)をクリックし、必要事項を記載の上、事務局までご連絡ください。



 以下は広報中のサイト一覧です。

 1.鳥取環境大学HP

<学内から>
  http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/news/2014nendo/20141129/
<学外から>
  http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2014nendo/20141129/

 2.鳥取環境大学環境学部HP

 http://dem2.kankyo-u.ac.jp/teachersessay/98-manijiconcert2014.html
 http://dem.kankyo-u.ac.jp/essais/20141104/


 3.鳥取県教育委員会文化財課HP

 http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=241206 

 4.鳥取市HP

  http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1416192369737/index.html


メンバチョ-炎たつ湖(7)

141120 炎たつ湖 37 p37


 涙ぐんだ眼と悲嘆にくれた顔が怖れ疑いながらドドラをのぞき込みました。

    あなたは死んだものだと思っていました。

と、かれらは叫びました。
 
    私はここにいてとても元気だよ。

とドドラはみなに宣言しました。

    私はしばらくのあいだメンバツォの寺院を訪問しただけさ。

    神秘中の神秘だったよ!

 湖の中にある寺院をドドラが訪問した短い時間は、この世で21日間続いていたのです。


141120 炎たつ湖 38 p38


 純粋な心と不動の信仰心を持っているものだけが、驚異のタートン・ペマ・リンパの驚くべき異常な出来事を追経験できるかもしれない。
 そして、もしあなたがいつか「炎たつ湖」を訪れ、メメ・ドドラのように、心が純粋で信仰心が強いなら、ラッパや鐘をの音を聴き、湖の中の寺院を一目見ることができるかもしれませんね。 【完】


141120 炎たつ湖 39 p39



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メンバチョ-炎たつ湖(6)


141106 炎たつ湖 33 p33


 ドドラの竹編みの帽子と竹編みの縄は、木の株の上に置いてあったはずですが、そこにはありませんでした。彼は急いで家に帰りました。

 ドドラが家に戻った時、悲しみの場面が待ち受けていました。村人たちは誰かが亡くなって21日目の供養ゲワを催していたのです。

  「誰が亡くなったのかな?」

とメメ・ドドラは考えました。


141120 炎たつ湖 34 p34


 ドドラは村人たちが悲嘆にくれている人物が自分自身だとは気づいていません。ドドラが帰宅しないあいだ、家族は懸命にドドラを探しました。

    山を登ったり
           下ったり
    あっちへ行ったり
           こっちへ行ったり。

 家族が見つけることができたのはタン川の土手にある木の切り株におかれたドドラの帽子と竹編みの縄だけでした。


141120 炎たつ湖 35 p35


  メメ・ドドラは湖に落ちて溺れ死んでしまった、と家族は思いました。

    ドドラは死んであの世へ行ってしまったんだ

 家族はドドラの竹編みの帽子と縄を手に取りました。なぜなら、それらはドドラの残した唯一の遺品だったからです。それはドドラの葬式を行うために必要でした。 (米田) 【続】

141120 炎たつ湖 36 p36


近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(X)

141112摩尼寺庫裏向拝蟇股2 141112摩尼寺庫裏向拝蟇股3



摩尼寺庫裡蟇股の拓本採取

 米子八幡神社拝殿側柱筋の蟇股のAMS年代測定速報が17・18・19世紀のいずれにも対応する可能性を示しました。こうなると、様式に頼らざるをえないので、先々週、摩尼寺仁王門の拓本を取り八幡神社の蟇股の拓本を取り比較した結果、八幡神社に残る14枚の蟇股は18世紀後半にまでは下らないという結果を得ました。先週は摩尼寺庫裏の向拝蟇股と長谷寺仁王門蟇股の拓本を採取しました。摩尼寺庫裏は文政6年(1823)の棟札を残し、長谷寺仁王門蟇股(1680)は八幡神社棟札に「拝殿」の2文字が初見される延宝元年(1673)と同じ延宝年間の建立と知られています。
 11月14日(水)、摩尼寺庫裏の蟇股はユート指導の下、3年生のメンバーに拓本を取ってもらいました。摩尼寺庫裏の蟇股は板蟇股であり、比較の対象外かもしれませんが、形状は丈が低く脚部の勾配も八幡神社のものとはあまり似ていません。やはり、八幡神社の蟇股は19世紀に下るものではないと思われます。



長谷寺仁王門蟇股5 141114長谷寺仁王門拓本1


長谷寺仁王門蟇股の拓本採取

 11月16日(金)、倉吉の長谷寺で久しぶりの調査です。会長とともに長谷寺のご住職に挨拶を済ませ、脚立を借りて作業を始めました。長谷寺仁王門の蟇股は今まで取ってきたものより大きいため、二人係でないと和紙をうまく貼ることができません。止めているテープも風ですぐ剥がれてしまうため、画鋲を使って拓本を取りました。拓本したものを比較してみると脚部の太さと装飾は異なるものの、全体の形状は八幡神社に近いと判断されます。これまで取ってきた拓本の中で最も様式の類似する蟇股だと感じました。八幡神社拝殿側柱筋の蟇股は『拝殿』初見の延宝元年に制作された可能性が高いと言ってよいかもしれません。(白帯)


141112摩尼寺庫裏向拝蟇股1 
↑摩尼寺庫裏向拝蟇股

141114長谷寺仁王門拓本2
↑長谷寺仁王門蟇股

141105摩尼寺仁王門拓本02
↑八幡神社拝殿側柱筋蟇股(A05)

倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅢ)

141114 河原町調査①


東西地蔵尊と余白の実測

 11月14日(金)。倉吉での今年最後?の調査をしてきました。調査内容は既報の長谷寺仁王門蟇股拓本採取と河原町地蔵尊周辺の測量、そして河原町地蔵尊の平面実測です。最後の実測についてお知らせします。

 私とセツさんは以前から河原町地蔵尊の実測していたのですが、教授が地蔵尊を中心とした平面図を描いて欲しいと言っているにも拘わらず、周辺配置図や屋根伏を作成するといったミスを繰り返していたため、今回は気を引き締めて調査に臨みました。西地蔵(上)はセツさん、東地蔵(下)が分担して実測を開始しました。私が調査した東地蔵は五叉路の角地の町家と隣接しています。その町家は正面の通りに沿って真っ直ぐ建設されていてもおかしくありませんが、東地蔵と平行に建てられているのです。そのため路傍の辻ができ、「地蔵盆」などの祭礼の場や市場になることが平面図をとることでより鮮明に理解できました。


141114 河原町調査②

 
 この日は12月20日に開催される研究会の打ち合わせをおこなう予定だったのですが、IUJ大学の方が不在だったため「実験カフェ」などの話し合いをすることができませんでした。苗木店さんのご主人には予め会長さんからセッション・パネリストなどのお願いをしていましたが、私たちから再度お願いをさせていただきました。寒い中調査を手伝ってくれたみんなに感謝しながら、3年生が測量してくれた西地蔵(上)の配置図なども完成させていきたいと思います。(ユリ)


141114 河原町調査③ 141114 河原町調査④

インパルス測量研修(その壱)

測量 高後 圧縮01


 ASALABを4年間支えてきた白帯先輩の修了を間近に控え、先輩のもつ優れた技能である測量のノウハウを3年男子が学ぶことになりました。12日(水)に摩尼寺境内で先輩に直接指導を受け、14日(金)には先輩不在のなか3年生だけで倉吉河原町の地蔵尊周辺を測量しました。


摩尼寺境内での測量研修

 11月12日(水)は3班に分かれて活動をしました。先発班は先生と社長さんがコンサートの打ち合わせ、白帯さんと私が摩尼寺境内で測量研修です。その後、後発隊4人(いずれも3年)が合流し、測量研修と庫裡での蟇股拓本採取をおこないました。このほか、大学に残って6人が作業しました。
 以下、レーザー距離計による測量の手順です。
 
 1)全体が見渡せる位置を探して器材をセットしていきます。
 2)三脚に水平盤を据え、距離計を取り付ける。
 3)水平盤についている水準器の泡を真ん中にあわせます。
 4)タブレットを繋ぎ、機械を起動します。
 5)本体の位置を定め、配置図もしくはメモやレベルブックにBM1と座標を示す。(GPSカメラで測量器の真下を撮りNとSを記入)
 6)タブレットに測量する現場の情報を入力し、測量を始めます。

 上記の手順を踏まえて、魔尼寺先発隊が白帯先輩の指導で測量の練習をしました。後発隊はまず魔尼寺庫裡蟇股の拓本を採り、その後、測量研修に参加しました。その際、白帯さんがもういちど説明をてくださいました。その後、後発隊のメンバーがローテーションしながら測りました。(ココア)


測量 高後 圧縮02


 倉吉河原町での測量研修 

 11月14日(金)。私たちは4年生の卒業研究に係わる調査のサポートのため倉吉へ。天気は怪しく、雲が多く出ていたので雨が降りそうな感じはありました。4年生は自分たちの作業をして、3年生5人は白帯さん抜きで測量をしました。5人のうち2人は測量の手順について説明をうけていなかったので、まずかれらに説明し、作業に入りました。フィールドは東西の地蔵尊の界隈です。ここでも3年生5人でローテーションをして測っていきました。

 水曜日と金曜日に測量の訓練して、インパルス・レーザー測量器の使い方は少し複雑で覚えるのに時間は掛かりましたが、いったん覚えてしまえば、あとは測量するだけだったので作業自体は楽でした。しかし、きっちりと測らないと正確な数値が出てこないので緊張はしました。風が吹いて冷たかったので、手が悴んで配置図とレベルブックに数値を記入するのが大変でした。(ココア)


測量 高後 圧縮03 測量 高後 圧縮04


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メトの大冒険(5)


141114 メトの大冒険 27 141114 メトの大冒険 28 p27-28


 メトは背伸びをして顔をタイガーにすりよせました。

  「ありがとう」

とメトはささやきます。

  「あなたがどんなに親切にしてくれたか、決して忘れないわ」

 メトはタイガーがふりむいて丘を下っていこうとするとき、

  「また会えるかしら?」

と恥ずかしそうに尋ねました。

  「もちろんだとも」

 タイガーは歯を見せてにやりと笑いながら答えました。

  「おれはこれからも君のことを陰ながら見守り続けるよ」

 タイガーが小走りで去るのを、ふわふわした白い子犬はながめていました。門柱に座っているグレーの大きな猫はただ目をパチパチまばたきして見ていましたが、何も言うことはありませんでした。


141114 メトの大冒険 29 p29

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メトの大冒険(4)

141114 メトの大冒険 21 P21


 メトはすっかり歩き疲れて、とても喉が渇いていました。そのとき水たまりが目に入ったのです。メトはタイガーの近くにいるという約束事を忘れて水を飲みに行ってしまいました。
 メトはすぐそばでぶらついている男に気づきませんでした。メトが水を飲んでいるうちに、その男は忍び寄ってきて、メトをふいに捕まえました。メトは男の汚い上着の下に押しこまれたものだから、怖がってキャンキャン鳴きました。

  「かわいい子犬だねえ」

 男はつぶやきました。

  「たぶんこの犬は良い値で売れるだろう」


141114 メトの大冒険 22 P22


 はじめ、タイガーはメトが自分と一緒にいないことに気づいていませんでした。ちらりと後ろを見て、ふわふわした毛並みの白い小犬が姿を消していることに驚いたのです。タイガーはあたりを見まわしましたが、どこにもメトを見つけられませんでした。
 そのときタイガーはメトの叫び声を聞きました。メトの怖がっている叫び声を聞き、走って後戻りしました。タイガーは男が丘を早足に登っていくのを見ました。男の上着の下にもぞもぞ動く何かがいて、ふわふわとした白いしっぽが垂れ下がっていました。
 タイガーは男の上着に歯で噛みついて引き寄せ、きつくしがみつきました。(七野)


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141114 メトの大冒険 24 P24


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2014卒業研究中間発表(5)

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倉吉白壁小路 -赤瓦の町並みとドーナッツイン-

 私はASALAB唯一の卒業制作担当として中間発表に臨みました。副題に用いた「ドーナッツイン」のインはinn (宿)とin(中に入る)の掛詞です。ドーナッツは「(都市化によって)空洞化した市街地」というイメージだけでなく、設計する建物群のイメージでもあります。今回の発表は、しっかり落ち着いて終えることができたと思います。以下が発表の概要です。(ポール)

研究の目的と概要
 重要伝統的建造物群保存地区に選定されている倉吉の歴史的市街地ですが、その街並みに綻びをもたらしている空き地(駐車場)を敷地にして地域活性化を目的とした多機能観光施設を設計し、それによって市街地の空洞化に対する解決策の1つとする。これが設計の趣旨です。
 倉吉の歴史的市街地は、天神川の支流小鴨川と、標高204mの打吹山との間に形成された東西に細長い中世の城下町を元にしています。室町時代の初期、伯耆守護山名氏が打吹山に城を築いて城下町が誕生し、江戸時代からは陣屋町として商業が栄えました。そして現在、約9.2haが重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


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歴史的市街地の町並み
 本町通りの伝統的建造物は店舗併用住宅の町家で構成されています。主屋は、つし二階建てか高二階建てで、道路に面し隣接しながら建ち並んでいます。幕末~昭和戦前に建立された木造の町家から、1階前面はガラス戸に改造しているものの、二階には出格子などを残し、町並みと調和させているもの、また、昭和戦前に建築された鉄筋コンクリートの建物、町家の正面をおおった看板建築などが軒をつらね、町並みに変化を与えています。町家・酒蔵等を改修したお土産屋や喫茶店なども数多く見受けられます。玉川沿いの通りは、商屋の裏側にあたり、ご存知のように土蔵や酒蔵が軒を連ねる白壁と玉川が融合した川並みがひろがっています。「赤瓦」の店舗群はここに集中して賑わっています。
 このような2つの町並みを中心に、重要伝統的建造物群保存地区全体では、江戸時代末期から昭和前期までの伝統的建造物が100棟以上現存し、毎年数万人の観光客を集めています。


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町並みのほころび
 このように賑わっている一方、空き地の増加が問題になってきています。 原因は、地方都市の若者離れなどによって空洞化が進み、町家に住んだり、町家を管理する人が少なくなったことです。空家となった町家はいずれ取り壊され空き地となり、しばしば駐車場に転用されます。このようにして過疎にともなう町並みのほころびが進んでいきます。町家が街道に面して軒を連ねる景観が命の町並みに大変な危機が訪れているのです。
 成徳地区で76軒の空家が確認されています。重要伝統的建造物群保存地区の中では11件の町家が空家になっています。また空き地は大小合わせて14箇所ほどありますが、今回その中でも一番おおきな駐車場を設計場所に選びました。


20141112スライド3



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2014卒業研究中間発表(4)

141112 中間発表・藤井⑦


「地蔵盆」を未来へ伝えるために
-空洞化する歴史的市街地の無形遺産に係わる事例研究-


 私はセツさんと同じ河原町・鍛治町を対象としていますが、地域のコミュニティとそれが担っている祭礼をテーマとして卒業研究に取り組んでいます。中間発表2日前まではパワポを人様にみていただけるレベルに達していませんでしたが、なんとか当日には間に合わせうことができました。本番も、9分以内に収めることができたのでホッとしています。中間発表の内容は以下のとおりです。(ユリ)


141112 中間発表・藤井①


研究の目的
 河原町には町の東西端に「地蔵尊」が祀られています。毎年8月23日に開催される「地蔵盆」は河原町最大の行事であり、子どもたちが主役となってさまざまな活動を行います。ところが、現在河原町は少子高齢化が進み、担い手の子どもが極端に減少しています。空洞化する現状がありながらも、河原町は地蔵盆を廃止するどころか、地蔵盆を市街地活性化の核として未来に結びつけようとしているのです。そこで、地域組織と祭礼の視点から街づくりの問題を考察してみました。


141112 中間発表・藤井②


空洞化する歴史的市街地とコミュニティ
 上のグラフは倉吉市の地区別人口推移を表しており、上井地区(倉吉駅周辺)は、昭和60年以降人口にほぼ変動がありませんが、成徳地区(重伝建含む)と明倫地区(河原町含み)は昭和40年を過ぎると著しく人口が減少しており、その傾向は今も続いています。河原町は昭和35年が最も世帯数、人口共に最多であり、その昭和35年はまさに谷口ジローの漫画『遥かな町へ』の舞台になった時代で、アーケード商店街が賑わっていました。しかしそれ以降人口が急激に減少して地域の祭礼も大きな打撃を受けており、現在小学生以下の子どもは河原町にわずか5人しかいません。深刻な状況です。


141112 中間発表・藤井③


河原町の地蔵盆
 日本の地蔵菩薩は古来の道祖神信仰と結びつき、町や村の結界として、村はずれの街道に建立され、また事故が起きた場所や水子供養のためにお地蔵さまを建立したりします。日本における民間信仰では道祖神としての性格をもつとともに、「子供の守り神」として信じられています。地蔵盆では、道祖神信仰と結びついた路傍や辻にたたずんでいるお地蔵さまが対象となります。子どもと深くかかわる地蔵盆とは、古くから伝わる日本の風習の1つで、「地蔵菩薩」の縁日を中心にした3日間を指します。また、そのうちの2日間に渡っておこなう地蔵菩薩の祭りのことをいいます。
 旧暦7月24日前後に催された慣わしがいきており、8月23・24日におこなう地域が多く、倉吉もそのうちの一つです。河原町には上下に地蔵があり、小鴨川のそばの西地蔵が上(かみ)、鉢屋川沿いの東地蔵が下(しも)になります。現在、東地蔵は公民館主体、西地蔵は子どもたち主体で、西地蔵から出発する子供 たちがA・Bコースを交互に回り、鐘の鳴らし方も2つ使い分けています。大将(中学1年)、中将(小学6年)、少将(小学5年)という上下関係が形成されており、子どもたちが朝から夕方近くまで大きな数珠を輪にして鐘を鳴らしながら無病息災を願い、町の路地を歩き回ります。
 私たちも地域住民と一緒になり、巡回や読経に参加させていただきました。また「河原町地蔵祭花火大会」では焼き鳥屋台の手伝いや倉吉のキャラクター「くらすけくん」の補助などの手伝いをしながら、祭りの雰囲気を味わいました。



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2014卒業研究中間発表(3)

20141107中田中間発表風景

 
 松原田中遺跡で出土した布掘掘形を伴う地中梁の分析
   -古墳時代前期の大型高床倉庫に関する復元研究-



 私は松原田中遺跡で出土した布掘掘形と地中梁に関する復元的研究に卒業論文に取り組んでいます。中間報告会はなんとか乗り切ることができましたが、質問にきちんと答えられない場面もあったので、これから最終発表に向けて理解を深めていきたいと思います。以下、中間発表の概要です。(ユート)


20141107中田中間発表スライド1


松原田中遺跡の概要
 松原田中遺跡は国道9号線(鳥取西道路)の敷設に伴う事前調査で発掘調査されている弥生時代中期~古墳時代前期の遺跡です。 湖山池の南西岸湖畔から約600m内陸に位置しています。
 日本海新聞2013年12月4日の報道で松原田中遺跡から7.3mの巨大な地中梁を施した特異な掘立柱建物が見つかったと発表されました。 地中梁を伴う布掘りをもつ掘立柱建物の出土は佐渡の蔵王遺跡など数例しかなく、山陰地方では初めての確認となりました。基礎部分は建築部材を直角に接合する輪薙込みという仕口を反転したような地中梁に柱が直角に食い込んでいる形をとっています。


20141107布掘スライド


  松原田中遺跡では2010年度と2013年度の調査で布堀建物が6棟検出されました。6棟の布掘建物のうち「地中梁」が見つかったのは布掘建物1・3・4・0の4棟です。布掘遺構・埋土・地中梁などの類似からみて、古墳時代前期の建物と推定されます。遺構の重複関係もあり、すべての布掘建物が共存していたとは限りませんが、異なる構造と機能をもった布掘掘立柱建物が古墳時代前期にまとまって併存していた可能性が想定されます。遺構を精査すると、規模及び地中梁の構造に微妙な違いがあり、遺構ごとに異なった建物復元が必要となります。 本研究では上記4棟の布掘建物の復元考察に取り組みます。


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布掘建物3
 1間×3間の布掘建物です。地中梁が2点出土し、いずれも4箇所に削り込みが見つかりました。また削り込みが材の2辺、または3辺に認められることから、柱を輪薙込にして地中梁に落とし込んでいたと思われます。地中梁の削り込みから柱径は30Cmと推定されます。以上の分析から建物3の基礎部分の柱径は30Cm程度で、それを輪薙込みを反転して地中梁におさめたと推定できます。


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布掘建物1
 1間×3間の布掘建物。柱断面の長径が20cm前後で、写真のように建物の内側に向きを揃える「コ」字状の欠込があることから、地中梁は長押のように、横から柱材の欠口にはめ込む方式をとっていたと推定できます。布堀建物3に比べて柱が細いため横から地中梁をはめ込んでいるのでしょう。地中梁を受ける仕口が布堀建物3のような輪薙込みと異なるのは、柱材の断面寸法が小さいためだと思われます。梁間は3.2mであり、高床に復元できる寸法と考えられます。平面は1間×3間の中型高床倉庫でしょう。



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摩尼寺紅葉コンサート2014へむけて(Ⅵ)

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新聞記事とネット広報

 毎日新聞さんが記事にしてくださいました。上の右側の小さな画像をクリックすると拡大されて文字がきちんと読めます。一方、大学および県教委のHPにはすでにいくつかのサイトでご紹介いただいております。以下をごらんいただければ幸いです。

 1.鳥取環境大学HP

<学内から>
  http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/news/2014nendo/20141129/
<学外から>
  http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2014nendo/20141129/

 2.鳥取環境大学環境学部HP

 http://dem2.kankyo-u.ac.jp/teachersessay/98-manijiconcert2014.html
 http://dem.kankyo-u.ac.jp/essais/20141104/


 3.鳥取県教育委員会文化財課HP

 http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=241206 

 4.鳥取市HP

  http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1416192369737/index.html


摩尼寺コンサート(完成)チラシ01表01 摩尼寺コンサート(完成)チラシ02裏01
▲ 参加ご希望の方は上の右端の画像(チラシ裏面)をクリックし、必要事項を記載の上、事務局までご連絡ください。

摩尼寺紅葉コンサート2014へむけて(Ⅴ)

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コンサート会場視察

 摩尼寺本堂等国登録有形文化財答申記念事業への参加申し込みのFAXやメールは日々届いている。郵送も何通かある。市内雲山のNさんは申し込み用紙に自筆の手紙を同封されていた。あまりの達筆に嬉しくなり、ここに転載させていただきます(↑)。
 11月12日(水)、イベントに係わるスタッフが一同に会し、門脇茶屋で味噌田楽をつつきながら初の打ち合わせをした。協議事項は十項目ばかりあったが、順調に合意を得ることができた。
 その後、全員が茶屋のマイクロバスに乗り、斜路経由で境内へ。摩尼山・摩尼寺には何度となく上ったが、境内へつながるスロープを進んだのは初めての経験である。当日、「身障者・高齢者の方は門前より境内まで車で送迎します」とチラシに書いており、それを試してみたわけだが、一部には「トレッキング路としても優れている」という声があがった。


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 境内では、さっそくイベント会場となる善光寺如来堂へ。以前報じたように、コンサートは如来堂正面の縁と向拝を舞台とし、正面の広場を客席とする予定であったが、諸般の事項を勘案し、以下のような段取りをとることになった。

   1.トークセッションは如来堂内部の上段(↓左)を片づけて舞台とし、
     客席は外陣(↑右)とする。
   2.トリアンデスは正面広場(↓右)で演奏し、来場者は如来堂の縁から演奏を聴く。
     (そのあいだ如来堂上段を片づけて模様替え)
   3.棚橋さんは如来堂の上段で演奏し、聴衆は外陣にもどって演奏を聴く。
     (室内でPAは使わないが、来場者が多い場合、室内のマイクで音をひろい
      室外のスピーカーで演奏が聴けるようにする)

 ベストの選択になったと自負している。


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摩尼寺コンサート(完成)チラシ01表01 摩尼寺コンサート(完成)チラシ02裏01
▲ 参加ご希望の方は上の右端の画像(チラシ裏面)をクリックし、必要事項を記載の上、事務局までご連絡ください。
 

2014卒業研究中間報告会(2)

141110 ブータン 発表


フィールドワークに基づくブータン洞穴僧院の基礎的研究

 中間発表前夜、最後の発表練習で先生にチェックしていただいたのですが、修正する部分が多く、大幅にパワポも原稿も改訂を強いられました。その時先生から、「君はワープくんほどじゃないが、滑舌が悪いからゆっくり喋る」ように指示されました。自分でも、ある程度自覚していたことでしたので、大きな声でハキハキと話すことを心がけ、練習後も残って何度も原稿読みの練習をしました。本番では、練習の時ほど噛まなかったので、何とか乗り切ったという感じがします。中間発表の内容は以下のとおりです。(ケント)


141110 ブータンスライド 04


ブータンの歴史と宗教
 ブータンは大乗仏教を国教とする唯一の国です。8世紀にインドの僧、グル・リンポチェがチベット経由でブータンを訪れ、タクツァン僧院で瞑想し悟りを開きました。グル・リンポチェの宗派を古派(ニンマ派)と呼びます。このころブータンに国家はなく、宗教もヒマラヤ山麓にひろくボン教がひろがっており、仏教が優勢ではありませんでした。11世紀以降、チベット仏教の諸派がブータンに南下し布教を競います。13世紀になると、チベット仏教ドゥク派のパジョ・ドゥゴム・シクポがブータンに南下してきます。17世紀になると、サブドルン・ナワン・ナムキュルがドゥック派の座主(ジュケンポ)となり、ドゥク派がブータンを制圧することで、ブータンに初めて国家が生まれました。

研究の目的と概要
 私たちの研究は、高山の崖に形成された洞穴僧院に焦点をあてています。ドゥック派浸透以前のブータンには、仏像をまつる本堂ラカンは基本的に存在しませんでした。岩陰や岩窟を利用した瞑想修行に日々専念していたと推定されます。その伝統は本堂が中心となった現在でも継承されています。インドで仏教が誕生した紀元前5世紀ころは、経典も仏像も仏堂もなく、ただ瞑想修行こそが重要でした。17世紀以前のブータンは古代インドと似たような状況ではなかったかと想像し、調査研究を進めています。


141110 ブータンスライド 05


ニンマ派仏教開祖 グルリンポチェ
 ニンマ派仏教の開祖グル・リンポチェは、釈迦の生まれ変わりという伝承があります。チベット経由で2度ブータンを訪れ、パロのタクツァン僧院で悟りを開きました。ブータンでは釈迦以上に崇拝されています。グル・リンポチェが瞑想したとされるタクツァン僧院ですが、かれが瞑想したころに本堂はありませんでした。標高3000mの崖に形成された岩陰や洞穴で瞑想したのです。かれの弟子たちもこの周辺で修行を続け、ニンマ派を後世に伝えました。本堂は、あまりにも有名な建物ですが、周辺に点在している小さな洞穴僧院では今なお多くの僧が瞑想修行しています。
 ブータンの公用語であるゾンカ語の「ドラッ(drak)」という言葉は「崖」を意味します。このため崖に沿って建つ山岳寺院を私たちは「崖寺」と呼んでいます。崖寺の岩陰や洞穴にはドラフという瞑想施設が造られています。
 ブータンの仏教寺院は内部の調査・撮影は禁止されており、ごくまれにしか内部の調査が許されません。崖寺の空間構成を把握することに主眼を置き、ラカンとドラフの関係性など配置図作成に重点を置きました。


141110 ブータンスライド 14


 パロ地区にあるゾンドラカ寺の本堂は17世紀以降の建立です。本堂背後の崖上に瞑想施設ドラフがあります。白い壁のドラフは悟りを開くための瞑想施設ですが、黒く塗られたドラフは「悪霊の浄化」を目的としています。周辺の崖に無数の洞穴があり、これは廃墟になったドラフです。仏教にとって「悪霊」とは、アニミズム的性格の強いボン教の精霊の事です。悪霊浄化の場所として特に重要な寺院群があります。ティンプー郊外のチェリ・タンゴ・ドレイの三山です。3つの尾根と3つ川がぶつかる谷底には悪霊が集中しており、その悪霊を浄化するため、パジョ・ドゥゴム・シクポが13世紀に3つの尾根に僧院を造営しました。その後、17世紀に初代ジュケンポが三山に本堂を建立したのです。
 パジョの造営した三山の一つ、タンゴ寺は17世紀にサブドルン・ナワン・ナムキュルが建てた本堂ラカンを中心としますが、下の崖に小型のドラフが付属しています。ここでは小型のドラフの事をジャフと言います。タンゴ寺には巨巌があり、上に相輪をたてています。塔の一種とみなしているようです。巨巌の下にも小型の瞑想施設ジャフがあり、非常に危険な場所に立地しています。



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2014卒業研究中間報告会(1)

1107中間発表okada


倉吉市鍛治町・河原町の町並み景観に関する基礎的考察
-建築的・空間的課題と保全計画の展望-


 私は「倉吉市鍛治町・河原町の町並み景観に関する基礎的考察-建築的・空間的課題と保全計画の展望-」 という題目で卒業論文に取り組んでいます。11月7日(金)の中間報告会では、なんとか発表し終えることができました。一人の持ち時間9分という中での発表でしたが、40秒ばかり時間オーバーしてしまいました。最終発表では時間内で終わるように修正します。以下、中間発表の概要です。(セツ)


1107中間発表okada①


倉吉の歴史的市街地と重伝建地区
 倉吉市では、現在、聖徳地区の一部が重伝建地区に選定されています。本研究が対象とする鍛治町・河原町は現選定地に肩を並べる歴史景観エリアですが、重伝建選定に向けての動きはさほど顕在化していません。そこで、鍛冶町・河原町の新規重伝建地区選定を見据え、歴史的風致に係わる諸課題を建築的・空間的に把握し、保全計画の道筋を構想していこうと思います。
  既選定の打吹玉川伝統的建造物群保存地区があり、1998年に赤色の範囲約4.7ヘクタールが選定、2010年に青色の範囲約4.5ヘクタールが追加選定され、今では約9.2ヘクタールが重伝建の範囲となっています。重伝建とは、城下町・宿場町・門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存を目的に作られた制度であり、市町村が、伝統的建造物群保存地区を決定し、価値が高いと判断したものを重要伝統的建造物群保存地区に選定します。 重要文化財などの指定建造物に比べると、改築や修景にかかわる規制がゆるやかで、地方の過疎地域などでは「まちおこし」の切り札としてブランド化しつつあります。 現在、全国で108ヶ所が選定されており、近隣では鳥取県大山町所子や岡山県津山市城東などがあります。鳥取県では全国唯一の智頭町板井原集落が県の伝建地区に選定されています。


1107中間発表okada②


倉吉の街並み環境整備事業
 倉吉の町並み整備には文化庁が主導する重伝建とは別に、国交省の「街並み環境整備事業」(街環)も活用されてます。街環の制度は、生活道路等の地区施設が未整備であったり、住宅等が良好な美観を有していないなど、住環境の整備改善を必要とする区域において、住宅、地区施設等の整備改善を行うことにより、地区住民の発意と創意を尊重したゆとりとうるおいのある住宅市街地の形成を図ろうとするものです。倉吉市では平成18年から修景事業が実施され、平成26年6月末現在で65件の修景が行われていますが、鍛治町・河原町では鍛治町二丁目で1件が修景されたにとどまります。


1107中間発表okada⑥ 


鍛治町・河原町の歴史的風致 
 鍛冶町・河原町は旧陣屋町エリアの西端にあり、河原町は城下町の外濠である鉢屋川の外側、鍛冶町は鉢屋川の内側に位置するため、河原町は「町外れ」と認識されています。 以前、鍛冶町は職人町、河原町は造酒屋や農業用品店が軒を連ねる商人町として栄えていました。しかし、現在は、人口・世帯数ともに減り、空家・空地が増えています。また、重伝建地区から少し離れているため観光客もほとんどいないのが現状です。
 鍛治町・河原町の軸となる歴史的環境の一つに鉢屋川をあげることができます。町境を流れる鉢屋川ですが、以前から生活用水として活用されており、現在は、河原町自治会が共有する鯉が多数泳ぎ、河原町の住民交流の場であると同時に、観光名所の一つとなっています。鉢屋川沿いには、登録文化財である小川酒造の庭園・酒蔵、余戸谷町の旧倉吉水源地ポンプ室があり、良好な歴史的風致を維持しています。
 昭和13年(1938)元旦に行われた倉吉有名商店街双六ではゴールが河原町で最大の商家、小川酒造となっています。小川酒造は、明治30年代の建築であり、平成10年(1998)10月9日に登録文化財になりました。表側の八橋往来では、大型町家と洋館(応接室)、背面側は鉢屋川に沿う酒蔵と庭園が町並み・川並みの核となっています。


1107中間発表okada③


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上方往来を描く-河原宿(5)

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市の日

 今年の1111で七周忌を迎えた。河原宿での最後の実習・演習の日である。学生たちは前々週描いた背戸川沿いの土蔵立面図に3色ボールペンで寸法を入れていく。今回は本来の趣旨とやや違う工程を歩んでいる。昨年は建物正面図を歩測ベースで描いた。その手描きスケッチを最後に採寸したのだが、今年は1週目から学生たちは結構寸法を採っていた。現場で「測りすぎてはいけないよ」と注意したほどだったし、その後の作図も方眼紙に定規を使ってドローイングする学生が何名かいた。だから、改めて採寸と言われてもピンとこなかったかもしれない。現場では、窓枠や戸口などのディテールを描いて細部の寸法を書き込むよう指示した。
 

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 背戸川に鯉はもういない。中国に遊んでいたころ、長女は0~1歳の可愛いさかりで、祖父母に溺愛されていた。その孫のいちばんお気に入りの場所が錦鯉の泳ぐ背戸川沿いの小路だった。この路で子猫にでも出会おうものなら娘は一歩も動かなくなり、案内係の祖父母を困らせた。そんな想い出の場所にいて学生の演習指導をしている自分が不思議でならない。
 週末に長女は法事のため帰省することになっていた。土曜の夜、彼女が帰途につくのは今夜なのか明朝なのかと気をもみながら夫婦はまたしてもPAUSEにしけこんでいた。フロアを独占していたのだ。PAUSEは特養の近くにある。1109日曜日の七周忌の法要にあたって母(祖母)の外出書類を提出する必要があった。そして、特養を訪れた帰りにまたPAUSEに寄ってディナーをオーダーしたのだ(夕食の仕度が面倒くさいのね)。長女は東京にいるはずで、いつ奈良に戻ってくるのかわからない。電話をかけた。


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 「近くに居るのよ」と娘が電話越しに答えたとき、夫婦は驚いた。結婚したばかりの同級生に昼間あって学研都市公園をハイクしていたというのだ。その友達はほんに近所に住んでいて娘をPAUSEまで送ってくれることになった。
 かくしてPAUSEの占領者は3名になった。従業員と同数である。七周忌のためだけに家族が集結するわけではない。患者「閉塞」の快気祝いでもあり、法要翌日の1112は91歳になる母(祖母)の誕生日でもあった。おまけに、その1週間後に長女の誕生日を控えている。
 土曜の夜の運転手はわたしだ。赤ワインは母娘二人に譲るほかない。豚肉のバルサミコ煮と赤ワインは極上のハーモニーを奏でているようにみえた。近くて遠いヴィーノ・ティントに歯軋りしきり。食後、バースデーケーキの注文に少々足をのばす。


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メンバチョ-炎たつ湖(5)

141106 炎たつ湖 23 141106 炎たつ湖 24 p23-24


 もう一つのお話をしておきましょう。純真で、揺らぐことのない信仰心をもつ男の物語です。
 何年も何年も前、おそらく100年かそれ以上前のことです。メメ・ドドラという男は、どこかに消えうせた自分の雄牛をさがすため、ベブズール(カエルの背)丘陵の村から旅に出ました。ドドラは失くした雄牛を、山に登ったり下りたり、あちらこちら探しまわりました。そして最後には「炎たつ湖」のほとりにたどり着いたのです。


141106 炎たつ湖 25 141106 炎たつ湖 26 p25-26


  ドドラは(湖のほとりにいるのに)川のせせらぎや岩岸に打ち寄せるさざなみの音が聞こえませんでした。その代わり、お寺で使う角笛の深い音色やチリンチリンと鐘の鳴る音、ラッパの甘い旋律が聞こえてきたのです。
  ドドラは岩崖の下によどむ暗い色の水ではなくて、お祈りする僧や尼僧でごったがえしている寺院をみつけました。(荒川)


141106 炎たつ湖 27 p27


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メンバチョ-炎たつ湖(4)

141106 炎たつ湖 19 P19


 男も女もあらゆる注意をはらって、滑りやすい小径を歩いて下り、拍子をそろえながら呪文(マントラ)を唱えて、使い疲れた唇からため息がもれました。
 ランプ用のバター油が入ったヤカンを手にもち、握り締めた線香からでる煙に絡まれながら巡礼者はやって来ます。子どもたちははしゃいで追いかけあい、大昔の小径を神秘的な淵へと下りていくのです。


141106 炎たつ湖 20 P20

141106 炎たつ湖 21 P21


 だれもが、暗い淵の水を長いあいだじろじろ眺めます。ダルシン(経典を書いた旗{注釈参照})や聖なるストゥーパ(仏舎利塔=チョルテン)、そして寺院さえもが静かな暗い水の下で揺らめく不思議な光景を目にすることを願っています。それは純粋な心と不動の信仰心をもつ者だけが見ることのできるものなのです。(長尾) 【続】


141106 炎たつ湖 22 P22



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上方往来を描く -河原宿(4)

1104河原宿01上方往来01 


上方往来「茶屋」の町並み

 11月4日(火)、居住環境実習・演習(Ⅰ)の町並みスケッチで河原宿を再訪しました。前週は背戸川に沿う蔵通りの町並みを描きましたが、今回は上方往来の町並みが対象です。江戸時代、河原宿に陣屋はなく、茶屋が置かれていました。宿泊よりも休憩のための町だったわけで、地名も「河原」ではなく「茶屋」という記載が残っています。
 鳥取から3里の近場にあり、鮎で有名な千代川中流の町であり、「茶屋」や「料亭」でよく知られています。しかし、残念なことに多くの茶屋・料亭が閉店していました。町家の取り壊しも目立ち、ぼろぼろと歯抜け(空き地化)が進んでいて、昨年の若桜のように東面だけを描くのは難しく、河原では東面と西面を交互に描くことになりました。
 蔵通りの町並みスケッチの成果は授業開始時に製図室で提出されました。みななかなかの出来栄えでした。残念だったのは、一部の学生が定規を使っていたことでして、今回はあらかじめ「フリーハンドで描きましょう」という資料を配布しました。今回の課題は町並みの正面図を「製図」するのではなく、町並みの正面図をフリーハンドで「スケッチ」することを目的としています。 下手な絵だとしても、フリーハンドで描くから「町並み」の雰囲気が伝わるのです!
 というわけで、学生はみな定規を使ってはならないことを知ったので、次回の提出はさらにレベルが向上していると信じています。(組長)


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3年生は仕上げに!

 11月5日(水)。3年生5人は社長さんと河原宿へ。河原宿のスケッチを終えているテングサ君は白帯さんと摩尼寺へ。今回は二手に分かれての活動となりました。この日は快晴で、野外活動には最適のお天気でした。
 河原宿を訪れるのは今回が3度目で、細部の計測はすでに終わっていたのですが、個人差はあるものの細かい部分のスケッチができていなかったため、実際に建物を見ながらスケッチを進めまし。ですが、今回は河原宿に長居する時間がなく1時間半ほどの作業です。現場でのスケッチは最後なので大学に持ち帰り各自の作業となりました。


1104河原宿01上方往来05山陰合銀01


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近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(lX)

141105摩尼寺仁王門拓本01


摩尼寺仁王門の蟇股

 米子八幡神社拝殿側柱筋の蟇股を天沼俊一の『日本建築細部変遷小図録』(1944)所載の蟇股とつぶさに比較し、唐招提寺戒壇院南門蟇股(1696頃)に最もよく似ていることから、制作年代は17世紀後期と考えていました。しかし、最近届いたパレオ・ラボ社からのAMS年代測定速報で1665-1690(17.8%)、1729-1785(48.0%)、1793-1810(9.9%)、1926以降(19.7%)という測定結果が出たのです。予想していた17世紀後期も含まれていますが、パーセンテージでみると、18世紀以降に下る可能性がでてきたのです。これを確かめるべく、湯梨浜町の籠守神社本殿蟇股(1700)、倉吉の長谷寺仁王門蟇股(1680)などが候補に挙がり、早急に調査へ向かわなければなりません。

 まずは灯台もと暗し、で、18世紀後半と推定されている摩尼寺仁王門の蟇股を確かめてみることになり、3年生のテングサとともに摩尼寺を目指しました。門前の方々と挨拶を交わし、仁王門へ向かいましたが、蟇股は高い位置にあるため摩尼寺庫裏まで脚立を借りに長い階段を往復しました。ヘトヘトになりながら脚立を立ち上げ拓本を取りました。拓本をくらべると、八幡神社拝殿側柱筋の蟇股に比べて、少し縦長で装飾は控えめなもので、さほど似ていません。八幡神社の蟇股が18世紀後半に下るとは思えませんね。したがって、17世紀後半か、18世紀前半のどちらか、ということになるでしょう。

 テングサに手伝いの報酬として門前の味噌田楽をおごる約束をして、喜んでくれていたのですが、あいにく時間が無く帰途に就くことになりました。今度、他のもので埋め合わせをしてあげないといけないなと思っています。(白帯)


141105摩尼寺仁王門拓本03
↑摩尼寺仁王門下層中央間蟇股

141105摩尼寺仁王門拓本02
↑八幡神社拝殿側柱筋蟇股(A05)

メトの大冒険(3)

141030 メトの大冒険 16 P16


 そのとき恐ろしいことが起こりました。一匹の大きな黒犬が物陰から歩み出てきたのです。その黒犬の耳は裂け、黄色い目は下劣でで、大きな歯は牙のようでした。

  「ここはオレの縄張りだぜ」

と彼はうなって告げました。

  「消えろ!さもないと噛みつくぞ!!」

 黒犬の数はさらに増えていきました。黒犬たちはメトに少しずつ近づきながらうなり、噛みつこうとしました。
 メトはあまりにも怖くて動けませんでした。その恐ろしい犬たちからどうやって逃げればよいのか分かりません。メトはからだをすくめ、できるだけ小さくなるよう縮こまりました。(浦谷)


141030 メトの大冒険 17 P17


  「その子に手を出すな」

と野太い声が響きました。メトが見上げると、そばに大きな犬が立っています。広くて白い胸をもち、みごとな縞模様の毛並みをそろえたすごい犬です。 

  「私の後ろに隠れていろ」

と、いまやってきた来た犬はメトに言いました。

 メトは忍び足でその犬の後ろに隠れ、陽光の差し込む路地の方へと向かいました。メトの新しい味方は歯をむき出しにしました。噛みつこうと唸る黒犬の群れが近づきすぎるなら、「こちらも噛みつくぜ」と言わんばかりの姿勢を示しつつ、ゆっくり後ずさりしていきます。


141030 メトの大冒険 18 P18


 2匹の犬が獰猛な黒犬たちから無事に逃れたとき、メトは自分を守ってくれた仲間に感謝しました。メトは道に迷ったことを説明しました。大きな犬は自分の名前はタイガーで、帰り道をさがすのを手伝うと言いました。

  「あなたはどこに住んでいるの?」

とメトはたずねました。タイガーはそのときニヤリと笑い、ピンク色の舌をぺろりと出して曰く、

  「オレはあっちこっちどこにだって住んでいるだぜ」

 そして、

  「ここへ来るまでの道で何か覚えているものはないのかい?」

とタイガーはたずねたのですが、メトは首を横に振りました。

  「私は広い門のある大きな家を通り過ぎ、丘を下ってきたの」

とメトは答えました。


141030 メトの大冒険 19 P19


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メトの大冒険(2)

141030 メトの大冒険 09 141030 メトの大冒険 10 P9-10
 

 そのやんちゃな子犬は屋敷の門を押して抜けだし、一人で道路に沿って歩き出しました。初めに、メトは大きな屋敷や庭を足早に進んでいきました。メトは金色の屋根で覆われた白い寺院のある丘の下の方を通り過ぎていきました。そのとき、大通りは多くの車や人で混雑していました。


141030 メトの大冒険 11 141030 メトの大冒険 12 P11-12

 
 しばらくして、メトは街角に座り込んでしまいました。メトの足は舗装された道路を走ったおかげでくたくたになっていました。

  「どこにもチェチェイがいないわ」

とメトは嘆いて言いました。

 「おうちに帰って、ボウルに入った冷たい水を飲んだり、台所にあるなにかおいしいものを食べたいな」

と。その道を上ったり下ったりしている車はとてもやかましく、通り過ぎる人があんまり多いので、メトはめまいを感じました。「家に帰りたい」とメトは言いましたが、辺りを見渡したとき帰り道を思い出すことができませんでした。(福田L)

    メトは道に迷ったのです。



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松原田中遺跡を訪ねて

20141029松原田中遺跡小山さん説明 20141029松原田中遺跡土器


土器にドキドキ・・・

 10月29日(水)、3限に4年だけのゼミが始まりました。中間発表を9日後に控えており、一度めのプレゼン練習となりました。90分で2~3名が発表する予定でしたが、最初のセツさんで70分を費やし、2番手の私が発表するところで一旦休憩。先生は渋い顔をされています。私の発表がおそろしい程の棒読みだったからです。「白帯よりさらにひどい」というコメントを頂戴したところで、授業を終えた3年生が演習室に戻ってきました。
 ここで、松原田中遺跡に向け全員で出発です。プレゼン失敗に落胆している暇はありません。松原田中遺跡こそが私の卒論対象だからです。
 松原田中遺跡に到着すると、Kiさんがお出迎えしてくださり、Koさんが遺跡の案内と説明をしてくださいました。おもに現在調査中の4区の説明をしていただきました。私は遺跡の発掘現場をみるのは初めてでしたので驚くことばかりでした。実際に発掘現場におりてみて、土器が大量に出土していることにまず驚かされました。現場のあちこちに土器が点在しており、踏みつけないように注意して歩きました。
 この場所は3世紀の終わり~6世紀にかけてずっと川が流れていたそうで、古墳時代前期~後期の土器が大量にみつかっていました。このように良い状態の土器が残っているのは、地下水が豊富で、酸素がシャットアウトされていたためだそうです。土器に触ってみると、本当に古墳時代のものなのか疑ってしまうほど良い状態でびっくりしました。普段はガラスケースに入れられていてなかなか触ることのできないものをにさわることができ、非常に貴重な経験になりました。


20141029松原田中遺跡謎の構造物 20141029松原田中遺跡謎の構造物柱


謎の水上構造物

 少し移動し、川の中に築かれた謎の構造物を見せていただきました。五本の柱で構成されています。私には一体なんなのかさっぱりわかりませんでした。厠(川屋)説や橋説などの意見が決め手がないなかで、東郷池の漁労小屋(↓)が候補のひとつにあがっているそうです。このように発掘したものが何なのかをいろいろ考えながら検証していく研究はとてもハードですが、やりがいのある面白い仕事だと感じました。(ユート)


20141029東郷池辺の水上高床倉庫① 20141029東郷池辺の水上高床倉庫②


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京大生同行記(Ⅳ)

1101石谷家門  1101石谷家門中


初めての石谷家住宅

 10月27日(月)、京大生N君の案内4日目。最終日に智頭方面の案内をしました。残念ながら、この日は天候が悪く、午前中は雨が降っていたのですが、予定の1時には小降りになり、なんとか出発できました。まず私たちが向かったのは智頭にある国の重要文化財「石谷家住宅」です。じつは私も石谷家住宅を訪れるのは初めてで、とても楽しみにしていました。車を停めて町並みを歩いていると、雨上がりでまだ曇っているというのに、たくさんの観光客を見かけました。
 智頭往来に面して建つ石谷家住宅は面積が広く、門構えも非常にしっかりしており、さすがは重要文化財だとN君とともに驚きました。門を入ると石畳の通路が土間まで続いていたのですが、外壁や土蔵に囲まれていて、まるで路地のようだなと思いました。 まず土間に入った我々でしたが、屋根が非常に高く、Nくんはこれにも驚きを隠せないようで、しきりに写真を撮っていました。二人で敷地内を見て回りましたが、部屋の多さや池泉回遊式の庭園、細部に施された装飾などどこを見ても飽きない建物でした。


1101石谷家庭園  1101石谷家土間


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2014卒業研究中間発表会

建築環境デザイン学科最後の卒業研究

 2014年度建築・環境デザイン学科卒業研究の中間発表会が下記の日程・会場で開催されます。14年間続いた建築・環境デザイン学科(旧環境デザイン学科)最後の卒業研究の幕が切って落とされたのです。なんて、感傷に浸っている余裕はありませんね。だって、出来がよくないもん。もう少し出来る学年だと思っていた私が甘かった。その兆候は昨年のインターンシップ~ブータン調査から感じていましたけどね・・・
 中間発表までの練習はあと1回だけ。それ以上は頼まれてもやりません。自分の尻は自分で拭け。


  日時:  11月7日(金) 13:00~  
  会場:  論文(26講義室)  制作(28講義室) 
  持ち時間: 12分/人(発表9分+質疑3分)
  次第(ASALAB関係のみ):  

 13時26分~ 山家 拓臣(制作)
  倉吉白壁小路  -赤瓦の町並みとドーナッツイン-
Kurayoshi Whitewall Alley - Townscape of Red Roof Tiles and Doughnut Inn -

 14時43分~ 岡田 知佳(論文)
  倉吉市鍛冶町・河原町の町並み景観に関する基礎的考察
   -建築的・空間的課題と保全計画の展望-"
Basic Study on the Townscape of Kajimachi and Kawaramachi in Kurayoshi city
 - Some spatial and architectural problems and the perspective of the conservation planning-

 14時56分~ 中田 優人(論文)
  松原田中遺跡で出土した布掘掘形を伴う地中梁の分析
   -古墳時代前期の大型高床倉庫に関する復元研究-
Analysis of underground beams with the ditch-shaped pillar holes excavated in Matsubara-Tanaka Ruins -Reconstruction study on the large-sized raised floor warehouses in the early Tumulous period.-

 15時09分~ 藤井 祐里(論文)
  「地蔵盆」を未来へ伝えるために
   -空洞化する歴史的市街地の無形遺産に係わる事例研究-
Toward the succession of "Ksitigarbha Festival" to the future
 - A case study on the intangible heritages in the hollowing historic city area ―

 15時22分~ 吉田 健人(論文)
  フィールドワークに基づくブータン洞穴僧院の基礎的考察
A basic study of the Bhutanese cave monasteries based on the fieldworks


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上方往来を描く-河原宿(3)

1028蔵通り(河原)01 1028蔵通り(河原)02



 2週間雨で順延となった居住環境実習・演習Ⅰ(2年次)の町並みスケッチがようやく始まった。3年生はすでに2度河原宿を訪れて上方往来沿いの町家を描いているが、2年生は初訪問で背戸川に沿う土蔵を一人1棟ずつ描いていった。
 天気はよく、気持ちよく活動はスタートした。まずは3本しかない高さ測り器が奪い合いになった。「あまり点を取りすぎてはいけない」と何度か注意した。建物を概形が描ければ、あとは目分量のほうが味がでる。定規を使うのもいけない。フリーハンドだから木造らしい雰囲気を表現できるのだ。


1028蔵通り(河原)06



 前期の環境学フィールド演習は滅入るけれども、後期の居住環境実習・演習Ⅰの町並み調査はとても楽しい。20名あまりの少人数だし、なにより町並みを描きたいという学生が集まっている。いやいやフィールドに出ている学生は一人もいない。
 ただし、日が落ちてくると、女子学生たちは「寒い」を連呼する。おなかに貼り付けているカイロをみせてくれた学生までいた。山陰地方のつるべ落としは寒いから厚着してくるよう指示しておいたのだが、「こんな寒いとは思わなかった」と言って帰りのバスに乗り込み、「バスってこんなに暖かかったんだ」と喜んでいる。
 来週はもっと厚着してきなさい。そうだ、コンベも忘れるなよ。


1028蔵通り(河原)08 1028蔵通り(河原)03




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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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