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雲のかなたへ-白い金色の浄土(16)

0918谷神02


余 録

 西北雲南調査の時刻と海抜高度をまとめておきます。作成された会長に感謝!

9月12日
 14:00 新潟発
 23:50 昆明楓葉王府酒店着 EL1985m
9月13日
 09:00 昆明楓葉王府酒店発
 09:50 雲南省博物館着 EL1800m
 11:00 雲南省博物館発
 11:30-12:40 パークエリアで昼食(ビュッフェ)
 16:03 大理インター EL1956m
 16:30 ホテル「三昧別院」着 EL1963m 崇聖寺~大理古城
 22:30 ホテル帰着
9月14日
 08:20 三昧別院発
 08:50 喜洲古鎮着 EL1900m 重点文物保護単位「厳家大院」
 09:30 喜洲古鎮発
 10:30 牛街停車区(給油)  EL2018m
 12:00 麗江インター EL2379m
 12:30 麗江古城着 EL2300m
 14:00 麗江古城発
 15:00 金沙江の橋(布達)  EL1800m
 17:40 香格里拉着 EL3160m
 17:45 ホテル「源鑫閣」着 EL3150m
9月15日
 09:15 源鑫閣から徒歩で発
 09:25 迪慶蔵族自治州博物館
 10:05 松賛林寺へ
 10:20 松賛林寺駐車場 EL3100m
 10:50 松賛林寺山門 EL3014m 松賛林寺本堂前 EL3128m
 12:04 松賛林寺発
 12:35 昼食(扎西卡达蔵餐)
 13:50 香格里拉の民家
 14:20 徳欽へ向けて出発
 15:50 奔子欄(金沙江沿い) EL2029m
 16:50 東竹林寺 EL2600m
 17:45 峠(白馬雪山1号トンネル) EL4000m
 18:25 徳欽市街地着 EL3155m
 19:00 ホテル「飛来神韵大酒店」着 EL3313m



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雲のかなたへ-白い金色の浄土(15)

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雲南民族大学校門にて-抗日戦争勝利記念日
 
 9月18日(火)。雲南省の最終日です。朝8時半にホテルを出発し、まずは何大勇さんの勤務する雲南民族大学に向かいました。本来なら午前に教授の講演会があり、副校長さんたちとの昼食会が予定に組まれていましたが、抗日戦争勝利記念日のイベントがあるので中止となったことを一方的に通達され、大学博物館などの見学どころか、キャンパス内への立ち入りすら躊躇われる状況であり、門前での写真撮影が精一杯でした。講演会を企画した何さんも立場が苦しいところでしょう。


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↑↓廻龍寺
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三教合一寺院「廻龍寺」

 空港に直行するには時間が早いので、最初は浄土伽藍で有名な円通寺を訪問しようと考えていたのですが、方向が真反対なので、空港と同方向にある廻龍寺の視察に切り替えました。廻龍寺でまず目につくのは、門の軒反りです。とても印象的でした。門の組物の彩色は群青を基調とし、獅子や鳳凰を表現しています。門をくぐると小太りの達磨大師像が迎えてくれます。その両脇には四天王が二体ずつ対称に立ち並びます。教授によれば、建物は民国時代のものではないか、ということです。あるいは文化大革命後の再建かも?


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 門を抜けると、中庭を建物が囲む四合院となっており、本堂(大雄宝殿)は門の向いに位置します。本堂には3体の釈迦仏が並んでいます。本堂の正面右側には脇院があり、鼎(カナエ)と呼ばれる中国古代の青銅器を中庭におき、その奥の堂屋に儒教と道教の尊格を祀っています。廻龍寺は仏教・儒教・道教を併祀する三教合一寺院なのです。有名な寺院ではないそうですが、とても新鮮に感じました。


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朴とアナ




渚のうわさ

 たまにはギターのことでも書きますか。
 女性のクラシック・ギタリストには少々拒否反応がありまして、それはおそらく、連さんのCDを聞いたり、ライブに行ったりしたことが影響しているんだと思います。ジャズの克己さんとともに、クラシックの連さんは、私のハートにまったく響かない。音楽が分かってないんじゃないか、とまで思うことがあります。
 朴葵姫(パク・キュヒ)という名前は前々から聞いていたのだけれども、連さんのライバルだとしたら放置しておけばいいと思って時間が過ぎていきました。それが一月ばかり前、コペルニクス的転回をおこした。ユーチューブでアルハンブラを聞き、驚きました。これは凄いということで情報を集めていたところ、朴葵姫のライバルはアナ・ヴィドヴィチというクロアチアの女性ギタリストであることがみえてきました。ユーチューブを視る限り、朴とアナは連に大差をつけて前を走っている。その差は、アクセス数に露骨にあらわれています。ジョン・ケージやデレク・ベイリーが山下洋輔と克己さんに大差をつけているのと同じ現象であり、聞く人はちゃんと聞いているんだな。
 というわけで、朴とアナのCDを一枚ずつ注文したのが10月初日。2日後に届いたものの、あまりに忙しすぎてずっと聴けなかったんですが、先週ようやく車中でじっくり味わいました。世評では、アナ>朴>連の序列を主張する声もあるようですが、これにはちょっと韓国に対する嫉妬もあるんじゃないだろうか。少なくとも私は朴さんの方が気に入りました。どれくらい気に入ったかというと、いつか紅葉コンサートに呼びたい、という気持ちがふつふつと湧いてきたほどです。ただし、会場を摩尼寺にするのは難しいでしょうね。どこか相応しい場所を探さないと・・・夢のまた夢ですが。

 さっそくコンサート情報を検索したところ、11月25日(日)に大和高田市で「朴葵姫 ギターリサイタル」が開催されます・・・傍系親族の結婚式と重複しているな~

朴葵姫 ギターリサイタル
https://l-tike.com/classic/mevent/?mid=361137

2018/11/25(日)14:00開演 奈良・大和高田さざんかホール
【曲目】  タレガ:アルハンブラの思い出    ソル:エチュード 作品6-11
ディアンス:「リブソナチネ」より第3楽章 フォーコ  ヒナステラ:ギターソナタ ほか



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紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(7)

 チラシが完成して摩尼寺を訪れた際、住職代理から「西院(さい)の河原和讃」本をご提供いただきました。和讃とは、仏や菩薩などの偉業をたたえる賛歌です。この場合の「和」とは日本語を意味します。仏教では声明(しょうみょう)の曲種の一つとされますが、民俗学的には口訣あるいは歌訣の類と考えられるでしょう。文字を読めない人たちが、技能や神話を伝承するために覚えやすい歌にしたものであり、後にそれが文章化されたということです。11月10日のイベントと係わりが深いので、3年生にデータ化してもらいました。

  [凡例] ①繁体字については、現行の簡体字に改めて転載します。
 ②平仮名も現行の表記に改めています。③振り仮名は原本においてほぼすべての漢字に
 振られていますが、ここでは難読文字のみ( )付きの送り仮名としています。④冊子のページに即して
 パラグラフを分けていますが、文章が分断されているわけではありません。



西院の河原和讃
                   帝釋天王出現霊場・中国観音特別霊場 摩尼寺

是(これ)は此世(このよ)の事ならず
しでの山路(やまぢ)の裾野なる
さいの河原の物語り
聞くにつけても憐れなり
二っや三っや四っ五っ
十(とお)にもたらぬ嬰子(みどりご)が   *嬰子:乳飲み子。十歳ならば童子(わらべ)が相応しい?
さいの河原に集りて
父こいし母こいし  
恋し恋しとなく声は
現世(このよ)の声とは事変(ことかわ)り   *事変わり:様子が違っている

悲しさ骨身を通す也
彼(かの)嬰子(みどりご)の所作として   *所作:身・口・意の三業(さんごう)が発動すること。
川原の石をとり集め
是にて回向(えこう)の塔を組み    *回向:自らの徳を他者に転回すること。あるいは追善供養。
一重(いちじゅう)くんでは父の為
二重(にじゅう)くんでは母の為
三重(さんじゅう)くんでは古里の
兄弟我身と回向して
昼は独(ひと)りで遊べども
日も入相(いりあい)の其のころは   *入相:陽が山の端に入るころ。黄昏(たそがれ)時。
地獄の鬼が現われて
やれ汝等(なんぢら)は何をする
娑婆(しゃば)に残りし父母(ちちはは)は

追善(ついぜん)ざぜんの勤(つとめ)なく
只あけくれの歎(なげき)には   *あけくれ:明けても暮れても(何かに)専念する
惨(むご)や可愛や不愍(ふびん)やと
おやの歎きは汝(なんぢ)らが
苦患(くげん)を受くる種となる    *地獄におちて受ける苦しみ
我を恨むる事勿(ことなか)れと
くろがねの棒をのべ   *くろがねの棒:地獄で使う焼けた鉄の棒。尻から頭まで串刺しにされ業火であぶられる。
積みたる塔を押崩す
また積々(つめつめ)と責めければ
稚子(ちご)余りの悲しさに      *稚子:6歳くらいまでの幼子(おさなご)。「ちのみご」の略か。
実(まこと)優しき手を合わせ
宥(ゆる)し給(たま)へと伏(ふ)し拝む
汝等(なんぢら)罪なく思うかや
母の乳房(ちぶさ)が出(いで)ざれば
泣々(なくなく)胸を打つときは

八万地獄に響くなり 
母は終日(ひねもす)つかれにて    
父が抱かんとする時は
母を放れず泣く声は
天地奈落に響くなり    *奈落=地獄
云いつつ鬼は消失せる
みねの嵐の音すれば
父かと思うて走登(はせのぼ)り
谷の流れを聞く時は
母かと思うて走下(はせくだ)り
四辺(あたり)を見れども母も無し
誰(たれ)とて添乳(そいぢ)を為可(なすべき)や  *誰も添い乳をすることなんてできない
西や東にかけまわり
石や木の根に躓(つまづ)いて

手足は血潮に染乍(そめなが)ら
幼な心のあじきなや             *あぢきなし:はかない。無常な。
砂をしきつついし枕
泣々(なくなく)寝入る折からに
又清涼のかぜふけば
皆一同に起きあがり
此処(ここ)や彼処(かしこ)と泣き歩く
其時(そのとき)能化(のうげ)の地蔵尊   能化:衆生を教化する指導者。「化」とは「教える」の意。
動(ゆる)き出でさせ給(たま)ひつつ
何をか歎(なげ)く幼な児よ
なんぢら命短(いのちみぢ)かくて
冥途の旅に来たるなり
汝(なんぢ)が父母娑婆(しゃば)にあり
娑婆と冥途は程遠い

吾(われ)を冥途の父ははと
思うて明暮(あけくれ)頼めよと
幼なきものを御衣(みころも)の
裳(もすそ)の内に掻きいれて
愍(あわ)れみ給(たま)ふぞ有難(ありがた)き
未だ歩まず幼な子を
錫杖(しゃくじょう)の柄に取付(とりつか)せ
忍辱(にんにく)慈悲の御膚(みはだ)へに   *忍辱:種々の侮辱や苦しみを耐え忍び心を動かさないこと
抱(いだ)きかかへて撫擦(なでさす)り
大悲の乳房を与(あたえ)つつ         *大悲:大いなる菩薩の慈悲
泣々(なくなく)寝入る憐れさは
譬(たと)え難(がた)き御(おん)なみだ
袈裟や衣(ころも)に浸(ひた)しつつ
助け給ふぞ地蔵そん

紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(6)

1024空撮0001


生まれてくるんじゃなかった!?

 昨日報告されたように、24日の摩尼山登山の目的は二つあって、一つは小石を集めての供養塔づくり、もう一つは「賽の河原」の空撮です。わたしは予め先生から送信されてきた復元建物の線画CGをスマホで確認しつつ、ドローンの撮影アングルを院生のザキオ先輩に指示する役割でした。
 ドローン撮影の内容を報告するまえに、石集めトレックの感想を述べておきます。


嘎嘎嘎20181024-11 嘎嘎嘎20181024-12


  摩尼川源流に沿う山道を歩きながら、石積みトレック大会で大勢がたむろして石拾いができるスポットを探しました。川と道が近くて、さらに小さな河原があるような足場のいい場所は結構あります。そこで、ゼミ生はネット袋の中に石をいれて行きました。路肩の土砂崩れが激しくて、道の路面が極端に狭くなっているところもありますが、山や遺跡の風景にわくわくしました。11月10日は落葉樹の葉が色づいて、紅葉真っ盛りになっているでしょうからとても楽しみです。
 しかし、石が重い! 鷲ヶ峰までの道のりの三分の二にあたる「奥の院」までですでにずいぶん汗かきました。ここで一休憩。


嘎嘎嘎20181024-14  1024空撮0009奥の院


 この日は快晴ですが、暑くなかったので、そんなに疲れたわけではありません。しかし、石が重い! 
 「奥の院」で自然の風景と遺跡をみて元気になり、自分のパワーが補給ができたと個人的には感じました。自然からもらった心のセラピー的感覚でした。そして残りの三分の一を頑張ろうと思ったとたん、「奥の院」の巨巌の崖に驚き、怖れながらロープにサポートしてもらい岩を歩きました。途中で石積みのネット袋がちぎれてしまいました。焦って巨巌から落ちそうで怖かった。やはり、百均のネット袋は頑丈ではなかった!!(外野から「中国製じゃないの?」の声あり)。巨巌の二階部分には岩陰仏堂があり、中に五輪塔を祭っていました。それからシダ群落のなかを一路立岩をめざして進みます。
 10分ばかり送れて、先生が鷲ヶ峰にあがってきました。おもわず、「生まれてくるんじゃなかった!」の科白が聞こえて爆笑!


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紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積塔づくり(5)

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「賽の河原」供養塔の試作

 10月24日(水)。今回のゼミは11月10日(土)に行われる石積みト レック大会のルート事前調査に加え、「賽の河原」ではドローン を使ってフォトスキャン用の重ね撮りと、供養塔の試作を行いました。院生1名、3年4名、先生の計6名での活動となりました。
 まず、トレッキングルートの事前調査のために摩尼川の源流にあたる渓流に沿って古参道を遡行しました。ト レック大会当日、参加者を複数のグループに分けて川岸の小石を拾う想定をして、何ヶ所かポイントを選定しました。


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 半時間あまり登って摩尼寺「奥の院」遺跡で小休止。発掘現場から頂上までは岩場と急斜面が続きました。前日の雨で足元がぬかるんでいたり、岩が濡れて滑りやすくなって いる箇所も見られたりと、結構登るのに苦労しました。当日は晴れることを願うばかりです。


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 出発から1時間半足らずで鷲ヶ峰立岩前の「賽の河原」に到着し、ここからはドローン空撮班と供養塔試作班に分かれての活動になりました。前者については明日別のメンバーが報告します。わたしは供養塔試作班として活動しました。最初はとりあえず拾ってき た小石を積むよう指示を受けました。この段階では同じような大きさの小石を積 み上げたものができましたが(↓右)、供養塔にはテーパー(逓減)をつけなければいけないそうです。つまり、下には基礎となる大きい石を置き、上にいくにしたがって石を小さく積んでいくのです(↓左)。


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↑(左=1号)チベット式チョルテン (右=2号)ブータン式チョルテン  ↓1号・2号完成記念写真
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二人の感想-ブータンから西北雲南の旧チベット領まで

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 昨日お知らせした「たくみ21」11月例会のスピーカーを務める二人の学生が、この夏の刺激的な体験の感想をまとめてくれましたので、掲載します。上下に散りばめたパノラマ写真はラオルオが提供してくれたものですが、みれば分かるように、今回の調査のスナップではありません。1993~95年の西北雲南チベット・ビルマ語族の調査時の写真です。背景に映る湖は濾沽湖。この湖の畔に、民族学上有名なモソ人母系社会が形成されています。
 運転手はもちろんラオルオ(40代)、同行者は何大勇(20代)、わたしたち日本人は30代でした。年齢も半分なら、体重も半分だ。では、二人の感想文を。


覆された中国のイメージ

 これまで『世界に於ける佛教徒』を翻訳して能海寛の思想に触れてきました。思想自体は過激で、現代の私たちにはとても称賛できるような内容ではないと思います。しかし、自分の考えをただ口先だけで述べるのではなくて、その本質を確かめるために、危険を承知で、実際に行動を起こしたことは偉業であると思いました。そんな彼が歩いた、チベットへの道のりは車でも険しいものでした。車もない明治の時代、殺害の危険が常につきまといます。そしてお金は底をつき、四川から雇った付人を手放してもなお、能海はひとり西北へ進みます。山や川など当時から変わってないであろう自然の風景を見ながら、能海も同じ景色を見たのだろうかと想像しつつ、彼はこのときどんな気持ちだったのだろうと考えさせられました。私だったら絶望してあきらめてしまうかもしれません。しかし彼は妻への最後の手紙に、これからもチベットを目指してさらに西北に進むと書いています。恐怖や不安はあったにちがいありませんが、ひたすら前を向いて歩いていったのだと思うと、能海の並々ならぬ覚悟を感じました。

 また、私は今回の調査で、初めて中国に行ったのですが、行く前と後では中国に対するイメージが結構変わりました。メディアでは食の安全が偽装されていたり、環境汚染がひどかったりなど、中国に対してネガティブな情報ばかり流れている気がします。また、中国人は自己主張が激しいとか、おおざっぱだというイメージもありました。実際はどうなんだろうと思う中、雲南省に行ってまず感じたのは、皆がオープンな雰囲気だということです。道を尋ねれば、全員立ち止まって教えてくれました。中国語はまったくわからないのですが、教授やラオルオがほかの中国人と話しているとき、まるで知り合いであるかのような雰囲気に感じました。きっと曖昧な表現の多い日本語とストレートな表現の多い中国語の違いも関係してくるとは思うのですが、最初に持っていた、自己主張が激しいというイメージではなく、皆が親切でオープンな感じに見え、私的にはそれがすごくいいなと思えました。 一方でおおざっぱなイメージは覆されませんでしたが、個人的には、ちょうどよい感じに雑というか、私の性格もおおざっぱなところがあるので、いろんなことにきっちりし過ぎている日本より意外と合うのかも…なんて思いました。でも、16日の事故の後、渋滞に巻き込まれたときのあの雑さはさすがに驚いたし、もう経験したくないなと思いました。今回の旅はこの渋滞のほかに、関空の水没から始まり、交通事故にも遭い、その他諸々のハプニングが起こるなど、特に交通の面でついてないことがたくさんありました。しかし、誰にもケガはなかったので、不幸中の幸いだったと思っています。そして、海外に行った経験が少ない私にとって、自分が住んでいる国と異なる国の文化を実際に見て感じられたことや、能海の足跡をたどれたこと、梅里雪山を見れたことなど、様々なアクシデントも含めて、普段体験できないことを体験できたので、行って良かったなと思いました。 (あやかめ)


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たくみ21 2018年11月例会のお知らせ

たくみ21sam たくみ21web


ヒマラヤの魔女とファルス信仰

 2日前、今秋イベントのチラシを飲食店に置いてもらうための営業活動をしていたところ、ある主人がチラシをじろじろ眺め、スケジュールあいてますか、これしゃべってください、って頼ってくるので、えっ、シンポジウムのネタを先にしゃべるのん、そんなことしたらお客が集まんないじゃないのん、ってなことで、どうすべえか少々考えあぐねておったんですが、よおく考えてみれば、今回我われには二人のスーパーエースがいるではないの。ブータンと西北雲南で活躍した女子学生2名のことが頭に浮かんできた。彼女たちと組めばおもしろい話になるのは必定、おまけに12月1日シンポの準備にもなる。これは一石二鳥だ。さっそく主催者に提案したところ快諾されました。というわけで、また「たくみ21」でスピーチすることになりました。速報で概要をお知らせします。

「たくみ21」11月例会
 日時: 平成30年11月20日(火) 午後6時30分~9時(講演45 分)
 場所: たくみ割烹店(0857-26-6355)
 主催者: 公益財団法人鳥取民藝美術館
 
 講演題目: ヒマラヤの魔女とファルス信仰
       -ブータンから西北雲南の旧チベット領まで-

 講演概要: ヒマラヤ山脈周辺を魔女が支配しています。チベット、ブータンなどでは古くか ら自然崇拝を重視する「ボン教」が信仰され、土地の隅々に精霊や女神が息づい ていました。7世紀、仏教がヒマラヤに入ってきます。仏教はボン教を邪教とみ なし、自然災害や不幸が生じると、ボン教の「魔女」や「悪霊」が原因だとし て、それらを浄化(調伏)し「谷の守護神」として仏教側にとりこんでいきま す。この浄化の過程で有力な手段となったのがファルス(男性器)です。講演で は、前半でチベットを代表する神山「梅里雪山」との出会いを述べ、後半でブー タンに躍動するファルス信仰を紹介します。
 


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上方往来を描く-智頭宿(1)

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上方往来ファイナル

 今秋も人間環境実習・演習A(旧居住環境実習・演習Ⅰ)が始まっており、さてどの町並みを描くべきか悩んでいました。これまでの経験に照らすと、用瀬が演習には最適の集落だと認識しています。その場合、「二度目の用瀬」になるわけですが、それはそれで意味がないことではない。ただ、気になっていたのは智頭宿です。河原・用瀬宿に比べて町並みの保全度は高く、上方往来スケッチのファイナルに値する場所であるのは間違いありません。ただし、河原・用瀬宿ほど大学に近くない。
 10月1日(月)、さっそく大学から智頭宿まで行って来ました。目的は二つ。一つは所要時間の計測、いまひとつはスケッチ場所の選定です。結果、片道の所要時間は約35分であり、現場でのスケッチ時間を90分前後確保できることが分かりました。スケッチ場所もほぼ決めることができ、智頭の上町・下町を描こうと決断した所以です。


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 2日後の10月3日(水)、後期初ゼミの時間を利用して3年生・院生で正式な撮影に向かいました。その後、約1週間は院生・3年生が写真の整理と学生との対応図・エクセルを作成してくれました。
 そして、10月16日(火)、2年生30名のスケッチを迎えました。快晴です。智頭宿上町・下町をE区(東区)、W区(西区)、S区(南区)に分けて、中型・小型の建物は一人1棟、大型の邸宅は二人で1棟担当してもらいました。昨年と同じく、コンベックスや定規などは一切使わず、身体感覚で建物の正面を描き上げます。


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↑↓良好な町並みを残すS区。10月3日撮影
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雲のかなたへ-白い金色の浄土(14)

0917adunsi01.jpg 阿墩子2


阿墩子古城

 9月17日朝8時40分、ホテルを2台の車で出発しました。1台は孫ドライバーの2号車で大学の3名が乗り、もう1台は壊れた1号車の代わりにラオルオがチャーターしたタクシーで、運転手はチベット人の女性です。こちらには会長さんのほか、何さん、ラオルオも乗り込みました。9時には「阿墩子古城」に到着。古い町並みを残す集落ですが、城(城壁のある都市)というには大げさであり、鎮(まち)という規模にふさわしくて、「古城」ではなく「古鎮」という表現が適切だと教授はおっしゃいますが、バス停や標識などの表記はみな「古城」となっています。


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 いちばん極端な反応をしたのは何さんで、「ここは最近映画セットのために作った街だ(から訪れても意味はない)」と会長に言われたそうです。実際には古い建物と新しい建物が混ざり合った生活感溢れる場所であり、小路に沿う住宅の前で牛の乳搾りをしているおじいさんがいて(↑)、なんだかほっこりしました。


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 教授の見立てによると、軒を連ねる町家等は清末~民国時期のものだろうとのことです。町家は2階が石畳の小路側にせりだす「跳楼」形式の二階建で、垂花柱(吊束)で二階の庇を支えています。北京の四合院住宅の中門で常用される宙に浮いた短い柱でして、下端に花や蕾の紋様を彫りこむことから「垂花柱」の名があるそうです。この装飾的な吊束は江南を中心に南中国漢族地域の跳楼形式の町家で多用されるようで、阿墩子もそうした江南型の都市住宅を受容したものであろうと教わりました。とすれば、チベット族の領土に生まれた中華的世界であり、ナシ族の麗江、ペー族の大理に匹敵する場所と言えますが、年代は新しく、規模は小さいです。敢えて言うなら、徳欽の「小麗江」というところでしょうか。


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 集落の入口は宗教のるつぼです。町並み端部の角地には薄緑色の大きなモスク「徳欽清真寺」が建っています。雲南には回族(ムスリム)が多いそうですが、徳欽のような奥地までその分布が及んでいることが分かりました。再び教授によると、回族は一定の民族集団ではなく、イスラム教を信じる複数の民族から構成され、他の少数民族とはちがって都市部に住み、回民食堂でおもに生計を維持し、清真寺(モスク)を心の拠り所としているそうです。あるいは阿墩子古城は回族が主体となっている街なのかもしれません。いずれにしても、チベット仏教との衝突は避けられないところですが、果たして、モスクが面する大きな広場の中心部にはチョルテン(ストゥーパ)が鎮座しています。この広場は回教と仏教がせめぎ合う前線でもあるのです。チョルテンの近くには、木造の仏堂らしき建築もありましたが、近づいてみるとかなり新しい建物であることが分かりました。
 

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雲のかなたへ-白い金色の浄土(13)

梅里雪山5 梅里雪山


朝焼けに輝く金色の浄土

 9月17日(月)早朝。前日から引き続き飛来寺神韵大酒店に泊まり、今日こそは朝焼けに輝く梅里雪山の全貌が見たいと、どきどきしながら目を覚ましました。部屋のカーテンを開けてみれば、少しだけ空が明るくなり始めています。急いで準備して屋上まで行くと、薄暗い空気のむこうに梅里雪山が頂上まで姿を現していました。夢中でシャッターを切り、カメラにその姿を収めます。昨日も何枚も写真に撮りましたが、雲に巻かれていた姿とは全然ちがう。そう思って、ずっと撮影していました。


梅里雪山3
↑↓主峰カワクボ(太子峰)
梅里雪山2 梅里雪山


 そうこうしているうちに反対側の山から朝日が昇ってきて、ついに待ちわびた瞬間がやってきました。梅里雪山の峰々が朝日を映し出し、金色(こんじき)に輝く姿へと変わったのです。関空水没から昨日までに起きた事故や渋滞などの不運な出来事がすべて吹き飛んでしまうほどの感動的な光景でした。最初からずっと屋上にいたホテルのマネージャーさんが語りかけます。「もう2ヶ月以上、このような姿をみていません。雲南省の知事(省長)は3度ここに来て、いちども遥拝できませんでした」。わたしたちがどれだけ幸運だったかということです。
 一通り写真を撮り終え、皆満足した様子でした。私はあと一時間ぐらい撮りたい気分でしたが(笑)、ずっと撮っているわけにもいかないので、撤収して朝食会場に向かいました。
 朝食後、荷物をまとめ、ロビーにいると、会長さんからホテルを出て、道路を渡って雪山の方を見てごらんなさいと言われました。表にでてみれば、通りの奥にまたまたきれいな梅里雪山を仰ぎ見ることができました。こちらは雲一つない真っ青な空に雪山が浮き上がっています。二日間でいろんな表情を見せてくれた梅里雪山でしたが、どれも本当に美しかったです。


0917町からカワクボ001 梅里雪山
↑街からみた主峰カワクボ


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紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(4)

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雨天時の対応が変わりましたので、お知らせします。

 10月18日(木)午前、完成したチラシをもって摩尼寺と門前の茶屋を訪ねた。一通り内容を説明した後、「雨の場合はどうするんですか?」と問われ、チラシ記載のとおり、「小雨決行・大雨中止」の前提を述べたのですが、「茶屋で講演したらいいんじゃないですか」という提案を受けて、なるほどと感心し、そうすることにしました。
 また、晴天の場合でもトレックの前に茶屋でミニレクすることにしました。


日時: 平成30年11月10日(土)
10:00 摩尼寺門前 門脇茶屋の前に集合。茶屋広間でミニレク。
     【門脇茶屋】鳥取市覚寺619-1 ℡0857-24-6630        
10:30 トレッキング開始 摩尼川源流を遡上
11:30 鷲ヶ峰「賽の河原」で小石を積み供養塔づくり
12:00 昼食
12:40 摩尼寺境内にむけて下山
13:30 門脇茶屋前で解散
雨天の場合は茶屋広間で講演(1時間弱)。昼食休憩後、摩尼寺境内を参観。
 登録文化財「本堂・鐘楼・山門」、市指定文化財候補「庫裡」、県指定保護文化財「仁王門」
 などについて現場で説明します



【連載情報】
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(7)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(6)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(5)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(4)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(3)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(2)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(1)

2018卒業論文中間報告(3)

環オホーツク海沿岸狩猟民族の罠技法に関する比較研究
Comparative study on the trap techniques of the hunting people in the coast areas around the Okhotsk sea                             
                                         SATO Yumi

1.環オホーツク海の諸民族と生業
 筆者はオホーツク海に近い北海道北見市の出身であり、アイヌ文化と狩猟採集の生活様式に早くから興味をもっていた。こうした理由から、北海道アイヌ以北の、おもにオホーツク海沿岸域に住む諸民族の狩猟文化を卒業論文の対象とする。これら極東の諸民族は、古アジア系とツングース系に大別できる。古アジア系民族とはこの地の先住民であり、北海道・樺太・千島のアイヌに加えて、チュクチ、コリヤーク、ニブフ(ギリヤーク)など極北沿海域に散在する集団である。アメリカ大陸先住民とも人種系統が近いとされる。対して、ツングース系民族は、モンゴロイドが寒冷地適応によって進化した新しい集団である。エヴェンキ、エヴェン、ウデヘ、オロチ、ナーナイ、ウリチ等の民族が含まれ、朝鮮民族もツングースが強く漢化したものと推定されている。 
 これらを生業との係わりからみると、沿海域やアムール(黒龍江)等の大河川流域で漁労を主生業とするグループ【A】は定住性が強く、竪穴住居に住んでいる。オホーツク海沿岸域の古アジア系民族に加えて、アムール沿岸域のツングース(ナーナイ、ウリチ等)も【A】に含めてよい。【A】の場合、漁労に重きをおきながら狩猟もおこなう点、注意を要する。一方、内陸山間地域に住むツングース(エヴェンキ、エヴェン等)のグループ【B】は狩猟を主生業とするため移動性が高く、テントに居住する。 
 本論では、オホーツク海沿海域を対象とするため漁労を主、狩猟を従とする【A】がおもな対象となるが、データベースには部分的ながら【B】資料も含めて広範囲に考察を加えたい。なお、本論の対象は弓や銃等の飛道具ではなく、伝統的な「罠」に限定する。動物に裂傷を与える度合いの低い技術を評価してのことである。各地の博物館等で標本を調査し、実際に罠を制作し実験考古学的な分析を試みる。

2.標本の調査と罠具の制作
 昨年来、北海道博物館、平取町二風谷アイヌ文化博物館、北方民族博物館、ところ遺跡の館、ところ埋蔵文化財センター、網走市立モヨロ貝塚館、国立民族学博物館(民博)を訪問し、標本調査とヒアリングを積み重ねた。標本データは51点に達し、データベース化している(論文には個別に詳述)。その使い方は、ヒアリングと文献から考察する。また、そうした考察が机上の空論にならないようにするため、実際に罠具を制作し仕掛けを試みたい(資格取得済)。民博収蔵庫で調査した標本のうち、①ヤクートとエヴェンのオコジョ用罠、②アイヌのテン用罠は、後述するように、現代日本の罠具に類似しており、すでにその模型を制作している。

3.考察と課題
 宇田川洋(1996)「アイヌ自製品の研究-仕掛け弓・罠-」(『東京大学文学部考古学研究室研究紀要』14:pp.27 -74)によると、罠は「仕掛け弓型」「圧殺式罠」「くくり罠型」に分類できる。データべース化した51件の罠具をみても、この分類は基本的に妥当と思われる。程度の差こそあれ、罠具の形状や捕獲方法は類似点が多い。対象動物は小型から大型まで多様だが、食用以上に毛皮の獲得を重視しているので、毛皮に傷をつけないよう捕獲する手法が求められる。また、罠具は現地調達が可能な自然素材(枝やツル)が使用され、その場で作れて構造も単純なものが多いことが分かった。
 今年6月、智頭町板井原集落を研究室のメンバーとともに訪問し、「火間土」という山菜料理店を経営する老夫婦(80歳代)に少し前まで使われていたハリガネの罠具の制作と使い方の実演をしていただいた。その罠具は、データベースに含めた上記①②の罠具と類似しているところがあり、今後の実験考古学的研究にヒントを与えるものとして刺激をうけた。板井原は平家落人伝説のある山間集落であり、今は「限界集落」化しているが、昭和40年代まで焼畑をおこなうなど伝統的な文化をよくとどめている。そうした地域で用いられた罠の技法が北方ユーラシアの狩猟民族と共通する点についても背景を考えてみたい。

2018卒業論文中間報告(2)

重要文化財「河本家住宅」の幕末家相図をめぐる基礎的考察
Basic study on the illustrated divination map of the late Edo period owned by Important cultural property "the Kawamoto Residence"
                                     SASAKI Kana

 河本家住宅は鳥取県琴浦町(旧赤碕町)に所在する江戸時代の古民家である。鳥取県は昭和49年3月にオモヤとキャクマを県の有形保護文化財に指定した。その後、昭和53年のオモヤ屋根葺き替えの際、貞享五年(1688)の棟札がみつかった。17世紀にさかのぼる民家の棟札は全国的にも珍しいものである。平成15年度になって、浅川研究室が屋敷内の土蔵群を視察した結果、それらの付属建物も高い文化財価値を有することが判明したため、町は平成16年度事業として研究室に建造物の総合的な調査を委託した。その成果が『河本家住宅-建造物調査報告書-』(2005)であり、2010年には敷地に建つ十数棟の建造物が国の重要文化財に指定された。

1.河本家の家相図
 家相図とは、住宅などの建造物の敷地平面図に一定の方位観を記した絵図をさす。河本家では、2006年10月に土蔵から一枚の紙本彩色の家相図が発見された。絵図を納める紙袋表紙の記載によると、嘉永七年(1854)9月の制作である。畳二畳(227.5×142.5㎝)ほどもある家相図には、河本家の屋敷全体の建物配置、建物内の間取り、庭の植栽等まで精密に描写されている。保存状態としては、乾燥した糊の接着部分が弱って剥がれている箇所も少なくないが、彩色は良好に残っている。河本家は原本を土蔵に保管しつつ、家相図の複写版を土間中央柱間に額入りで展示している。
 発見後十年以上経過するが、家相図の調査研究は全く進んでいない。家相図は特殊な(呪術的)方位観による未来計画図の場合がしばしばあり、一般的な指図とは違って、平面復元の根拠とは必ずしもならないからである。しかしながら、研究室のメンバーが本年2月と5月に河本家を訪問し、土間に展示されている複写版を下見調査したところ、復元資料としての価値もあることがみえてきたので、5月訪問時に複写版を借り受け、複写版を複写し、研究の基礎資料とした。その後、8月4日に6名で詳細調査をおこなった。絵図については、複写版に映っていない縁まわりを含めた全景の撮影をめざしたが、規模や傷み具合を考慮して断念した。代わって絵図部分を重ね撮りし、フォトスキャンによるオルソ写真によって全景を再現する予定である。

2.平面の異同と復原
 幕末家相図と現状の平面・配置の異同を確認したところ、家相図は嘉永七年当時の状況を反映している可能性が高いことが分かった。家相図が現状と大きく異なる部分は以下の3ヶ所である。
【ハナレ】 南側四畳の東半を土間とし、竈をおいていた。奥の八畳座敷は六畳であった。現状は三座敷の続き間で第二の客間のようにみえるが、幕末はある程度独立した世帯が生活していた可能性が高い。
【オモヤ広間】 式台から入る前側の玄関は十畳で、四枚障子を挟んで奥側の広間も現在は十畳だが家相図は十五畳半となっている。奥側の新装ダイニング境の四枚障子は後付けであり、当初はダイニングも広間の一部であって、土間側に突き出た部分も含めた凸凹形が幕末の十五畳半であったと推定される。
【オモヤ納戸】 最も複雑に変化し、矛盾が露呈しているので、今後細かく検討していきたい。

3.家相図の方位観
 河本家の家相図には二つの方位観が描かれている。一つはオモヤ広間のイロリ近くを中心とする24方位(A)、もう一つは裏庭に中心点をおく8方位(B)である。Aは十干・十二支・八卦の複合型で直径二畳ほどの範囲に正八角形を描き24字によって細かい方位を示す。それぞれの文字は方位に対応するだけでなく、運気の成長/衰退の序列的な意味を担っている。一方、Bは八卦のみの方位観である。屋内を中心点とするAは建物内部の間取り、戸口(開口部)・カマド等の位置を規定するのに対して、裏庭のBは土蔵・雑舎等の配置に影響していると考えられる。この風水的配置の問題もこれから細かに検討していきたい。紙袋の中には家相図から剥がれた貼紙が数点残っており、それがどこに貼り付けられていたかも残された課題の一つである。(参考文献省略)

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雲のかなたへ-白い金色の浄土(12)

091600雪山国家公園02 091600雪山国家公園01看板01


梅里雪山国家公園

 16日(日)午後4時半、ようやく山道の渋滞を抜け、一時間ばかり走って飛来寺の街に戻った。海抜3300mの高地である。孫ドライバーには、ホテルではなく、飛来寺という寺院に直行してほしいとお願いしていた。孫さんは、ホテルより手前のチケット売り場のある大きな門の前で車を停めた。「ここでいいだろう」と彼はいう。その言に従い、4名は車を下りた。
 高価な入場券を買い敷地に入ってうろうろ探し回るが、仏教寺院の堂宇らしきものはどこにもみえない。ただ広場の中央谷寄りに小さなストゥーパが等間隔に並んでいた。ここは寺ではなく、「梅里雪山国家公園」であり、晴天ならばストゥーパ群の向こうに梅里雪山を望むビューポイントであることがまもなく分かった。ビューポイントといっても、雪山には相変わらず雲が巻かれているのだから、高い入場券を買った意味などない。それよりなにより午後6時が迫ってきている。飛来寺境内の閉門が気にかかる。


091600雪山国家公園03記念01 091600雪山国家公園01看板02


飛来寺

 会長が猛烈なスピードで歩き始めた。高地が苦手でいつもはふらふらしているのに、この時に限っては、まるで競歩の選手のように高速で飛来寺へ向かう。お寺に目がないのである。飛来寺は近いようで遠い距離にある。たぶん500mほど歩いて、ようやく伽藍を発見した。会長に遅れること100m以上、残りの3名もようやく寺に辿り着いた(午後5時50分頃)。


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 飛来寺は明の万暦42年(1614)に創建された仏教寺院であり、雲南省文物保護単位に指定されている。釈迦を本尊とし、インドからチベットに密教をもたらしたパドマサンババ(ブータンのグルリンポチェ)やゲルク派の開祖ツォンカパなどチベット仏教の聖人・活仏を祀っているが、儒教・道教の尊格をも併祀して漢族世界との融和をも表現しているようだ。なにぶん写真撮影が禁止されており、内部については扉の外からとらえるしかなく(↓右)、時間も限られていたので、記憶が曖昧になっている。


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 本堂にあたる海潮殿のほか孫殿、関聖殿、四配殿などを配する崖寺であり、海潮殿の奥壁は崖を切り出している。快晴ならば、ここでも梅里雪山を遥拝できるが、雪山は相変わらず雲に巻かれていた。ちなみに、境内には1991年に遭難した日中合同登山隊の慰霊碑がながく設置されていたが、いまは明永氷河の入口に慰霊碑を新設していて、嘘かほんとか知らないけれども、日本人の名前を削除しているという噂を聞いた。正直なところ、建造物にさほどの迫力がなくがっくりしているところに、孫ドライバーがあらわれた。「すまない、ごめんなさい、寺がこちらだとは全然知らなかった。迎えに来たので車にのって」と言われて、ご好意に甘え、飛来寺神韵大酒店に戻ったのが午後6時13分のことである。


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雲のかなたへ-白い金色の浄土(11)

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交通事故

 口内を真っ赤にしながらの昼食を終え、いざ出陣。寺の境内から俯瞰したポラロイド写真を片手に、陸屋根のチベット族民家を探そうと意気軒昂になっている。ともかくまだ1棟もまともな伝統的チベット族民家をみていないし、況や仏壇をや・・・なんとか1棟だけでも調査して、ブータンのデータと比較したい。そうすることがわたしの今年度の主要な研究課題なのである。


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 わたしと学生2名を乗せた1号車は会長の乗る2号車を待つため、集落内道路の下り坂に車を停めた。正面に大きなトラックが停車している。荷台には高さ3m以上もトウモロコシの茎束が積み上げて載せてあり、その荷物の上に5人の農民が坐り込んでいた。その山積みトラックが突然、バックを始めた。背後に2号車が控える1号車は袋の鼠だ。運転するラオルオは、クラクションを何度も強く押す。しかし、その効果はまったくなく、トラックは後進をやめない。むしろ加速する一方であり、助手席のわたしは「あっ、あ~っ、あぁ~っ」と叫び声をあげながら両手で頭を抱え、上半身を猫のように丸めるしかなかった。トラックのバンパーが乗用車のボンネットを破壊したところでもう駄目かと覚悟を決めた。荷台満載のトウモロコシ束がミシミシミシッとフロントガラスにめり込んできた。しかし、幸運なことに、茎束がクッションになってガラスは割れなかった。割れなかったことが奇跡だと思った。


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 唖然としながら車を下りる。トラックの乗車口に近づくが、運転手は一向に下車する気配がないので、誰かが「下来!」となんどか叫んだ。運転手は重い腰をようやくあげ、座席を離れた。壊れた車のボンネットを呆然とみつめている。自分がやったことの重大さを目の当たりにして途方にくれているのだろうが、被害者に対してまったく謝罪の言葉がないので、また誰かが「謝りなさい」と指示すると、そっぽをむいたまま小声で「すいません」と呟いた。
 ラオルオはただちに110番に通報した。同時に、周辺の農民が続々集まってくる。多勢に無勢である。一部の農民は、なぜトラックの後進を回避して右前にでなかったのか、とラオルオを責める。そんなスペースも時間もなかったことは助手席にいた私がいちばんよく分かっているので、非難者に対して意見を述べようとしたが、2号車の孫ドライバーから前に出ないよう嗜められた。ここは我々のホームではない。完全アウェイの状況であることを踏まえて行動しなければならない。ただでさえ、漢族とチベット族の関係は険悪であり、日本人4名は(心の底でチベット仏教側を支援しているが)所詮漢族の大学教員が連れてきた赤い体制側の集団でしかない。火中に栗を拾うような行為をして、日本人が民族対立に巻き込まれるのは賢明でないという思いやりであろう。


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 わたしと会長は、帰国のことを考え始めていた。2台のうち1台の専用車が失われた。4人の日本人はどのようにして帰国すればいいのか。幸い大きな荷物は飛来寺のホテルにおいている。第2車に4名全員乗り込めば、とりあえず飛来寺のホテルに帰ることはできるし、そこでタクシーをチャーターすればシャングリラまで移動できる。シャングリラから昆明まで飛ぶ翌日(17日)のMU5940便は16時の離陸なので、遅くとも15時までに空港に着けばボーディングに間に合うだろう。その場合、16日のうちにシャングリラまで戻ったほうがいいのか、それとも、16日は飛来寺に宿泊して明朝シャングリラに向かえばいいのか。選択肢をひろげるために、ともかく早めに飛来寺に戻ろうということになった。
 事故現場にはラオルオと何さんが残る。警察や村人との交渉は困難を極めるだろうと思われた。いつもは頼りない大勇が、このときだけは頼もしく思えた。動揺していないのである。いつものとおり、ニコニコニヤニヤして平然と構えている。会長やわたしのように、そわそわおろおろしていない。有事にあって不安の色をみせない点、大器の片鱗をみせたといえば評価のしすぎかもしれない。空港の送迎には平気で遅刻するし、日本人を連れていくレストランは最悪に近く、講演会も突然キャンセルするなど、平時はいい加減きわまりない男の平静さに少し救われた気持ちになった。


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雲のかなたへ-白い金色の浄土(10)

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心向北京

 飛来寺のホテルを出て二時間半あまり車に乗り、16日の午前10時45分、一行は升平鎮阿東村に着いた。海抜2580m。まずは表敬の礼を示すべく村政府をめざすが、あやかめさんが遅れ気味で心配になる。動物好きの彼女は、通りを練り歩く牛の群れの撮影に熱中していた。これもまた大事な観察の一つである。牛追いに追われて町並みを足早に走りすぎる牛たちは純粋なヤクではない。ヤクとカウの混血種と思われる。カウベルの音がやわらかで微笑ましい。


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 村政府の役人さんたちはとても親切であった。3人の職員すべてがチベット族であり、恒例のポラロイド撮影儀式を経て意思の疎通をはかってからヒアリングを始める。マニタイのことを詳しく教えてくれたし、これから調査すべき民家を推薦してくれた。気になるのは戸口のマグサ上に貼りつけられた「心向北京」の大きな四文字である。赤くぬられている。その下中央の看板に注目すると、「中国共産党阿東村総支委員会」と書いてあり、その文字色はやはり赤い。「北京に心を向けよ」とは、「中国共産党の思想・政策に従え」と同義のメッセージであろう。もっと噛み砕いていうならば、「ラサではなく北京を向け」、つまりチベット仏教の法主たるダライ・ラマではなく、共産党中央に従え、ということである。金沙江以北の地に住む蔵伝仏教信者たちは、今なお(あるいは今だからこそ)赤い支配者たちへの反発を根強くもっている。そのことの裏返しとして「心向北京」の赤文字を読み取るべきではないか。


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プソナユン寺 

 村政府の隣に陸屋根の民家があり、訪ねてみたいと希望すると、職員の一人が戸口まで連れていってくださった。しかし、鍵がかかっていて内部にだれもいないことが分かったので、方位を反転させ、高台の上にある寺院をめざした。そこはまさに片田舎の山寺であり、ラマや僧侶は一人もいなかったが、マニ車をもつ3人の老婦が寺を周回している。さっそくポラロイド作戦を展開。ご機嫌は上々になるばかりか、人物や寺の名前を画像におさめることができた。寺名はプソナユン寺という。


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 プソナユン寺は崖に沿って建つチベット仏教の寺院だが、ブータンのように洞穴を伴っていない。二つの大きな仏堂風の建物の間にマニ車の覆屋を置く。老婦たちは、なんとか本堂を開けようとしてくれたが、鍵を保管する僧侶は消えうせており、内部の参観は叶わなかった。境内では、一人ひとりがマニ車をまわした(↑)。収穫は、境内からの眺望である。そこから集落の建物が隅々までみえる。瓦葺きの建物に混じっていくつか陸屋根の民家を俯瞰できたので、ここでまたポラロイドを使って撮影した。街まで下りて、ポラをみせれば、古民家のある場所まで連れていってもらえると期待したのである。


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↑マニ車をまわす  ↓境内からみた街中の民家
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雲のかなたへ−白い金色の浄土(9)

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雲を巻く梅里雪山

 9月16日(日)。運命の一日を迎えた。前夕、飛来神韵大酒店に泊まることになり、ロビーでチェックインを待っていると、シェフお薦めのメニューを記す黒板の上側に「日出 AM 6:57」と書いてあるのを発見した(↑右)。朝焼けに輝く梅里雪山の眺望を売りにしているホテルだけのことはある。会長の指示にしたがい、朝6時半ロビー集合が決まった。正しい判断ではあるけれども、個人的には厳しい宣告でもあった。体調が日に日に悪化していたからである。夕餉のあと、ほろ酔いで部屋に戻ると、そのままベッドで眠りに落ち、深夜2時ころに目が覚める。眠れなくなって、携行していた『評伝 河口慧海』かホップカークの『ラサ一番乗りをめざして』などをカバンから取り出し読み始めるのだが、なにぶん老眼が進んでおり、暗い部屋のなかで細かい文字を追うのに骨が折れる。結局、明け方まで眠れない。この反復に体は弱りきっていた。正直なところ、朝はゆっくりさせてもらいたいのだが、日の出は私を待ってくれない。


091601日の出02日の出前撮影 屋上の展望小屋


 それにしても6時半集合は早すぎたようだ。エレベータで7階まで上がり、そこから階段で屋上に出る。あたりは暗く、寒い。海抜3,300mの高地であることをひしひし感じる。寒いから時間が進まない。日の出ぎりぎりまで部屋で待つべきであった。街中にコケコッコーの時報が響き渡るなか、7時前になって、山と反対の方角が赤らんでくる。が、肝心の雪山は雲に巻かれたまま山頂部を露わにしない。ほんの一瞬、主峰カワクボと神女峰メツモの頂が淡く垣間見えたが、時間差をもっての出来事である。寒い思いをして半時間ばかり屋上に陣取ったものの、「神の山」は山腹のごく一部を露わにしたにすぎなかった。


091601日の出04 091601日の出05記念撮影01
↑曇よりした雪山の風景。↓主峰カワクボ
0916主峰カワクボ01 0916主峰カワクボ02メツモ01


 屋上から2階におりてレストランで朝食をとる。日本からもちこんだ梅干、ふりかけ、お茶漬け海苔などはブータンではまれに取り出す程度だったが、雲南では毎回必携の状態になっていた。とくに院生のザキオ君は百均のふりかけがなくてはならない人生を送っていたが、わたしなど、すでにそれにもあき始めていた。ブータンであれほど美味しく感じた乾燥日本食品を食べすぎた結果である。しかしながら、梅干だけは別格である。疲れた身体を浄化し、再生してくれる日本独自のピクルス。4人全員がこの酸味の強い漬物を好んでおり、わたしが持ち込んだ梅干は品切れ状態になってしまった。でもまだ会長の梅干がある。ほのかな甘みのする梅干である。


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 8時に阿東にむけて出発するが、曇り空に変化はない。半時間で峠に至る(海抜2,965m)。チベット仏教において、峠がこの世とあの世の境としての聖地であることはアムド(青海)でもブータンでも経験した。雲南の奥地でも同じであり、タルチョやダルシンやマニダルがその意味を語ってくれるのだが、雲南の峠にはいまひとつ清浄さがない。それも、梅里雪山が雲に覆われているからかもしれない。


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紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(3)

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大学・県教委のHPでも広報開始!

 表記イベントが大学ホームページで広報されました。また、チラシも細部で最終調整をおこないましたので、再掲載しておきます。

http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2018nendo/20181003/

 鳥取県教育委員会文化財課のHPでも広報されています。

https://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=280325#itemid1143741

 
 チラシはまもなく搬入されます。搬入後、新聞社などへの広報依頼をおこなう予定です。


雨天時の対応が変わりましたので、お知らせします。

日時: 平成30年11月10日(土)
10:00 摩尼寺門前 門脇茶屋の前に集合。茶屋広間でミニレク。
     【門脇茶屋】鳥取市覚寺619-1 ℡0857-24-6630        
10:30 トレッキング開始 摩尼川源流を遡上
11:30 鷲ヶ峰「賽の河原」で小石を積み供養塔づくり
12:00 昼食【*2】
12:40 摩尼寺境内にむけて下山
13:30 門脇茶屋前で解散
雨天の場合は茶屋広間で講演(1時間弱)。昼食休憩後、
 摩尼寺境内を参観



【連載情報】
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(7)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(6)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(5)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(4)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(3)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(2)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(1)

能海寛生誕150周年記念国際シンポジウム(予報3)

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こちらもチラシが完成!

 12月1日に開催する能海寛生誕150周年記念国際シンポジウム「雲南に消えたチベット仏教求法僧- 能海寛の風景と思想 -」のチラシも校了しました。というか、昨日お知らせした摩尼山「賽の河原」トレック(11月10日)と表裏になったチラシです。シンポの申し込みも、裏側にあたるトレック面の一番下の欄に書いていただくようにしています。チラシ(↑右クリック)と前報をあわせてご参照いただければ幸いです。

 日時: 12月1日(土)13時~17時
 会場: 公立鳥取環境大学 学生センター多目的ホール
 主催: 公立鳥取環境大学  
 共催: 能海寛研究会
 後援: 中村元記念館・鳥取県教育委員会・鳥取市教育委員会
*このイベントは平成30年度公立鳥取環境大学学長裁量経費特別助成によるものであり、宗教活動とは一切関係ありません。

イベント名称: 能海寛生誕150周年記念国際シンポジウム 
 主題: 雲南に消えたチベット仏教求法僧 - 能海寛の風景と思想 -
 次第: 12:30 開場
 13:00 開会の辞
    趣旨説明 眞田 廣幸
 13:10 第一部 能海寛の風景
  1.基調報告 岡崎 秀紀(能海寛研究会会長)30分
    「山陰から世界へ-能海寛と河口慧海の時代-」      
  2.招聘講演 何 大勇(中国 雲南民族大学教授)60分
     「チベットをめざして-能海寛の歩いた四川と雲南-」

 14:40 <ティーブレイク&スライドショー>

 15:00 第二部 能海寛の思想
  3.浅川 滋男・森 彩夏(公立鳥取環境大学)60分
    「能海寛を読む-世界に於ける仏教徒-」
  4.講評と質疑 60分
    [講評] 今枝 由郎(京大こころの未来研究センター特任教授)
   
 17:00 閉会の辞

【事務局(お問い合わせ先)】
公立鳥取環境大学保存修復スタジオ(鳥取市若葉台北一丁目1番地1)
FAX:0857-38-6775 電話(代表)38-6700 E-mail:[email protected]
*参加希望者は極力メールまたはファックスでご連絡ください。申し込み用紙は こちら の最下段にあります。


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紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積塔づくり(2)

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チラシ完成!

 ようやくチラシを校了しました。上右の画像をクリックすると詳細な内容を読むことができます。以下は要約です。チラシと前報をあわせてお読みください。
 国登録記念物「摩尼山」鷲ヶ峰の立岩(たていわ)に近接する平場周辺を「賽の 河原」と呼んでいます。幼くしてこの世を去った子どもたちが親を偲んで小石を 積み上げ供養塔をつくるのですが、鬼がやってきて塔を壊そうとします。地蔵菩薩がその鬼たちを追い祓い、巨大な賽の神(陽物=ファルス)が辺土を浄化します。18世紀末の『因幡志』には石を積み上げた小塔が「賽の河原」に散在する様が描かれています。明治期になると、地蔵堂や鐘楼が建設されますが、それらも今は基壇を残すのみになっています(大きなファルスは今も祀られています)。 このたび登録記念物「摩尼山」の歴史性と景観を回復させるプロジェクト【*1】の一環として、鷲ヶ峰に石積みの小塔をつくり「賽の河原」の原風景を再現することを目的としたトレック大会を開催します。ご家族・友人等お誘いあわせの上、ふるってご参加ください。定員は30名です。

主催: 登録記念物「摩尼山」活用整備委員会
共催: 摩尼寺・摩尼寺保存会
後援: 鳥取県教育委員会・鳥取市教育委員会

日時: 平成30年11月10日(土)
10:00 摩尼寺門前 門脇茶屋の前に集合。茶屋広間でミニレク。
     【門脇茶屋】鳥取市覚寺619-1 ℡0857-24-6630        
10:30 トレッキング開始 摩尼川源流を遡上
11:30 鷲ヶ峰「賽の河原」で小石を積み供養塔づくり
12:00 昼食【*2】
12:40 摩尼寺境内にむけて下山
13:30 門脇茶屋前で解散
雨天の場合は茶屋広間で講演(1時間弱)。昼食休憩後、
 摩尼寺境内を参観


事務局(お問い合わせ先)
公立鳥取環境大学保存修復スタジオ(鳥取市若葉台北一丁目1番地1)
FAX&TEL:0857-38-6775   E-mail:[email protected]
*参加希望者はファックスまたはメールでご連絡ください。
  
【*1】 このイベントは2018年度公立鳥取環境大学学内特別研究費助成「登録記念物『摩尼山』の景観整備に関する基礎的研究-賽の河原と地蔵堂の復元を中心に-」によるものです。研究プロジェクトの概要は こちら を参照してください。  
【*2】 昼食弁当は各自ご持参いただいて結構ですが、地域振興のため、できるだけ門前茶屋の精進弁当(お茶・田楽付き税込1,080円)をお買い上げいただければ幸いです。ご注文については、事務局で承りますが、門脇茶屋に直接ご連絡いただいても結構です。  (門脇茶屋℡)0857-24-6630


【連載情報】
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(7)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(6)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(5)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(4)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(3)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(2)
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(1)

雲のかなたへ-白い金色の浄土(8)

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世界遺産「三江併流雲南保護区」

 15日14時30分、民家の視察を終え、雨季で増水したナパ海を左手に見ながら北に約100㎞離れた徳欽に向かう。ナパ海は春から夏の雨季の増水期に現れる湖らしい。所々に裸麦の穂が干したままになっているが、これは乾季を想定したものであって、とくに水上に作る意味はないと何さんは説明した。道は国道214号線、よく整備されており、車は快適に走る。すぐにトイレ休憩しようということになり、ガソリンスタンドに車を停めた。道路の対面にフルーツ売りの露店があり、ラオルオが自腹で全員のリンゴを買った(何さんがそういうことをするのは一度もなかった)。教授は教授で、おおきなザボンをみつけ、九州出身のあやかめさんが食べたことないと聞くと即座に買いあげ、それをラオルオが手持ちのナイフで即座に切り分け、みんなで食べた。とてもおいしいザボンであった。あやかめさんがおいしそうに食べるのをみて教授はご満悦でした・・・ちなみに、ザボンは漢字でただ「柚子」と書く。孫ドライバーは「柚子を食べたことない?」と怪訝顔をしていた。


0915ナパ海003ザボン 


 1時間半ほど走り、金沙江沿いの小集落奔子欄(ベンツラン)で休憩する。対岸は四川省という。ふと気づくと空のペットボトルがひしゃげていた。高度計は約2000mになっており、納得する。集落を出ると九十九折の登り道になる。尾根に上がつた所に展望台があり、「金沙江第一湾」、「世界遺産・三江併流雲南保護区」と案内標示がある。この辺りは長江上流の金沙江、瀾滄江(ベトナム等のメコン川上流部)、怒江(ミャンマーのサルウィン川上流部)が交わることなく流れているようだ。


金沙江 対岸が四川省9月15日 0915三江04sam
↑奔子欄(対岸は四川) ↑↓その他は「三江併流」
0915三江02 0915三江01sam


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雲のかなたへ-白い金色の浄土(7)

0915鬼の仮面03警備 博物館前 「唐蕃会盟碑」レプリカが右端に移る 9月15日


デチェン・チベット族自治州博物館

 9月15日(土)。少々頭痛がして目が覚める。まだ夜が明けていない。時計をみると午前6時(日本時間の7時)。高度計は3200mを表示している。朝食時に水餃子がでた。店の女主人は黒龍江省ハルピンの出身で水餃子を得意としており、店の看板メニューとしている。「ここに来てもう15年になる」が口癖のマダムである。朝食後、支払いで少々揉めた。どうも何さんのやり方が教授はお気に召さないようで、担当がラオルオに変わった瞬間、事態は解決した。この日はラオルオの親しいチベット族女性研究者のアツゥイさん(蔵族研究所)が参観先の手配をしてくださることになった。
 朝食後、ホテルの「源鑫閣」を徒歩で出発。近くのデチェン(迪慶)藏(チベット)族自治州博物館に向かう。博物館前の広場には舞台がつくられ、何かのお祭りの会場になっているようだ。警察は無論、軍隊が警備にあたっている。


0915鬼の仮面01 0915鬼の仮面02sam


 博物館の入口近くに、昨年訪問したラサ大昭寺門前に建つ「唐蕃会盟碑」のレプリカを教授が発見する。唐蕃会盟碑は9世紀に唐朝と吐蕃の間で成立した講和条約の内容を漢文とチベット語で刻んだもの。館内に入り少数民族関係の展示と、チベット(蔵伝)仏教関係の展示を見学する。民族展示では少数民族ごとにカラフルな衣装を着たマネキンが並ぶ。その中に仮面が展示してあったが、ブータンのツェチェ祭で使用される仮面と共通性がありそうで、興味深く感じた。上の写真は「羌姆」舞踏に使う仮面と衣装である。


「擦擦」の展示 下段に抜き型9月15日 (1) 「擦擦」の展示 下段に抜き型9月15日 (2)


 続く仏教関係の展示室には、粘土を型押して作られた小型の仏像や仏塔が数百点並ぶ。おなじみのツァーツァ(擦擦)である。ブータンのツァーツァは遺灰を混ぜて作る超小型の塔で裏側中心部に経典を差し込んでいる。チベット側のそれは、7世紀代の吐蕃王朝期にインドからもたらされたという。小塔だけでなく、塼仏も含めて「擦擦」と称する。これを制作することで善行功徳を積むことができるとされ、塔の中に置かれるか、寺院などで祀られるようだ。
 館から出ると、広場の舞台では、大音声の音楽とともにチベット族の民族舞踊が踊られ、多くの観客が集まっていた。軍の兵士が会場の上空にドローンを飛ばし看視しているのが眼に入る。


松賛林寺の前で9月15日


小ポタラ宮-ソンツェリン寺

 いったんホテルまで帰り、車で郊外のソンツェリン(松賛林)寺に向かう。入場ゲートは寺院から離れた場所にあり、シャトルバスで移動する。松賛林寺はチベット仏教ゲルク派の寺院で、ラサのポタラ宮を造営したダライ・ラマ5世(1617 - 82)が雲南に創建した「小ポタラ宮」である。漢語では「帰化寺」ともいう。明末(17世紀末~18世紀初)の建築。文化大革命で破壊されたが再建されたという。


松賛林寺 参道からの眺望9月15日 (1) 松賛林寺参道からの眺望


 バスを降り、山門を入ると長い石段の参道が続く。参道の両側には院坊が並ぶ。高度計は3200mを指す。石段がきつい。なんとか本堂前の広場にたどり着く。頭痛がする。広場に面して「ツォンカパ大殿」(アムド出身のゲルク派開祖)、扎倉大殿、釈迦牟尼大殿が並ぶ。扎倉大殿の三層目に上がり、テラスから周辺の景観を眺める。その後、僧侶が店番をする売店でマニ車を衝動買いする。


松賛林寺本堂前広場 9月15日 
↑本堂前  ↓扎倉大殿
松賛林寺扎倉大殿の屋根 9月15日 松賛林寺扎倉大殿内部 9月15日


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雲のかなたへ-白い金色の浄土(6)

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金沙江をこえて

 14日は大理を出発して、喜洲・麗江を経由し、午後3時に金沙江の畔に到着しました。橋の名称は不明ですが、「普達(プーター)」という看板が目を引きます。麗江の海抜が2300mまであがっていたのに対して、この谷筋では1800mまで下がっていますから、山間部ながら昆明より標高が低いことになります。金沙江は長江最上流部の一部であり、青海西部の崑崙山脈中に源を発し、チベットと四川の省境を南下して雲南に入り、玉龍ナシ族自治県の石鼓鎮あたりを分水嶺として南から北へ流れを反転させます。その後、四川の宜賓で岷江と合流して長江となります。チベット東部のカム地方を東西に二分する川であり、川底から砂金を採取したことから金沙江の名がついたといいます。


0914金沙江02 0914金沙江01


 コンクリート橋の対岸には大きなストゥーパ(チベット式チョルテン=多宝塔)がみえます。橋を渡り終えると、そのストゥーパの前側には大きなヤクの彫像が複数展示されていました。大理・麗江はそれぞれペー族とナシ族の居住区ですが、これから先はチベット族の世界であることを強く印象づけています。一説に、能海寛は金沙江をこえ、徳欽から阿東あたりまで進んで行方不明になった言われていますが、同行した何大勇さんは何の根拠もない、とにべもありません。むしろ能海は金沙江をこえることができなかったと推測しています。当時、金沙江に関所が存在したからです。金沙江の対岸は今は雲南省の一部ですが、実質的にはチベットであり、大理で付人と離れ一人で行動していた能海が関所をこえるのは難しかったろうと何さんは考えています。どちらの考えが正しいにしろ、この場所は能海を研究する上でとても重要な場所だといえます。
 その後車をしばらく走らせると、玉龍雪山の背面が見えてきました。麗江の町なかでみることのできなかった玉龍雪山が背面とはいえ視界に収まったのはラッキーでした。


0914玉龍雪山背面01 
↑玉龍雪山背景


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雲のかなたへー白い金色の浄土(5)

0914大理喜洲001 0914大理喜洲001samレンガ01


喜洲バオバオ

 9月14日(金)。朝、ホテルを出発し、まずはペー(白)族の古い町並みを残す全国重点文物保護単位「喜洲白族古建築群」を見学しました。路地の道端では土産物売りがひしめいていて、とてもいい雰囲気です。日干しレンガの壁(↑右)に囲まれた石畳みの道を歩いていくと「四方街」に行き着きます。日本流にいうならば四つ辻でしょうか。まず、運転手の羅さん(以下、ラオルオ)が喜洲(シーチョウ)バオバオを買ってご馳走してくださいました(↓)。焼きパンのなかに餡をいれたものですが、甘い餡と塩辛い餡の両種があり、あやかめさんのご希望によって前者を食べることになりました。香辛料の効いた甘さで、日本人はみな満足しています(ラオルオは甘すぎるとコメント)。バオバオといえば、麗江(リージャン)バオバオが有名ですが、とても脂っこいので、ラオルオは喜洲をお薦めです。その作り方をみてみると、枠付きの大きな丸い鉄板に炭をのせて燃やし、その上に同形の鉄板をおいてパン生地をのせます。そして、さらにその上から同形鉄板を被せ炭を焼くのです(↓右)。 


0914大理喜洲002バオバオ01 0914大理喜洲002バオバオ02sam


 バオバオを食べながら少し街を歩くと、何やら道路面で米や香のようなものが焼かれています(↓左)。通りすがりの人に訊ねたところ、これはペー族の民間信仰で、願い事をかなえるための供えものだそうです。町並みを眺めると、ほとんど全ての住宅の大門に秦叔宝(しん・しゅくほう)と尉遅恭(うっ・ちきょう)という武将の絵が貼りつけてあります。こうした歴代の名将は住宅の門神として崇められているのです。そういえば、ホテルの門にも貼られていました。ただし、こうした門神の習俗はペー族独自のものではなく、あきらかに漢族のものです。喜洲古建築群が漢族以上に漢族的であるように、こうした民俗も漢族の影響をまともに受けているのです。


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巌家大院博物館

 つぎに、市の文物保護単位「巌家大院博物館」を見学しました。この建物はいわゆる四合院住宅です。建物の色彩は赤と黒を基調としいてとても綺麗です。内部には多くの美術品が展示されており、古民家を改装した博物館となっています。とくに教授は脇の中庭に置かれていたヒンドゥーの祭祀物に注目されました。これはヒンドゥ教寺院の本尊「リンガとヨニ」です。リンガは男根ファルス、ヨニは女陰であり、両者の複合形がヒンドゥの主祭神なのです。ただし、リンガはすでに失われていました。おそらく骨董品として収集されたものと推定されます。ブータンでファルスを多く見たこともあり、南アジア的な宗教世界とのつながりを感じましたが、リンガを見ることができず残念でした。そういえば、バオバオも南アジアや中央アジアの粉食に通じないこともありませんね。


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↑巌家大院博物館  
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↑(左)巌家大院内庭のヨニ (右)車窓に映る洱海

喜洲古鎮 海抜1900m


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ヒマラヤの魔女(1)

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バレーさん大活躍!

 10月4日(木)、1・2年の総合演習「プロジェクト研究2&4」が始まりました。一世一代のオリエンテーションに年甲斐もなく緊張感を隠せません。主題を「ヒマラヤの魔女」としています。魔女の浄化(調伏)にはファルスが必要です。ファルスに係わる英語の短文を読んでほしいと心から思っていたのですが、1・2年生(の女子)にうまく説明する自信はなし。さんざん考えたあげく、ブータン調査に参加した3年のバレーさんに肝要な部分についての説明を依頼しました。彼女は別の授業のオリエンテーションを抱えていましたが、担当教員とくりかえし交渉し、解説係を快諾してくれました。イントロのパワポが始まり、すでに紋きり型になりつつある雲南阿東での交通事故から梅里雪山の遥拝に至る経緯を述べ、チメラカン周辺のファルス信仰(↓)を簡単に説明したところで、バレーさんにバトンタッチ。彼女は、ファルス信仰はブータンに根付いている文化なので、偏見をもたずにプロジェクトに臨んでほしい、と下級生に訴えました。うまいもんです。わたしだけでなく、最後列に陣取った院生やあやかめさんも感心しきり。その大役を果たし、彼女は出席すべき別の講義に消えていきました。改めて深謝申し上げます。


2018(後期)ヒマラヤの魔女02チメラカン01 2018(後期)ヒマラヤの魔女03ファルス01


 プロジェクトの概要と授業計画は以下のとおりです。

<テーマ> ヒマラヤの魔女-自然と人間の関係を考える
<概要> ヒマラヤ山脈周辺を魔女が支配しています。チベット、ブータン、ネパールなどの国々では古くから自然崇拝を重視する「ボン教」が信仰され、土地の隅々に精霊や女神が息づいていました。7世紀、仏教がヒマラヤに入ってきます。仏教はボン教を邪教とみなし、自然災害や不幸が生じると、ボン教の「魔女」や「妖怪」が原因だとして、瞑想修法により、それらの悪霊を浄化(調伏)し「谷の守護神」として仏教側にとりこんでいきます。この浄化の過程で有力な手段となったのが金剛=ファルスです。ファルス信仰は日本でも盛んであり、たとえば摩尼山(鳥取市覚寺)の「賽の河原」にも巨大な道祖神(賽の神)の木彫が祭られています。本プロジェクトでは、チベット仏教と日本に共有される山の信仰を学び、自然と人間の関係について考察します。
 キーワード: ヒマラヤ 魔女 妖怪 チベット仏教 能海寛 摩尼山
<授業計画>
①10月04日 オリエンテーション-チベットの魔女について【1・2年合同】
②10月11日 文献輪読A【2年2コマ】第1回
③10月18日 文献輪読B【1年2コマ】第1回
④10月25日 文献輪読A【2年2コマ】第2回 
⑤11月01日 【休講】(11月10日及び12月01日イベント参加のため)
⑥11月08日 DVD鑑賞「チベット 死者の書」(NHKジブリ学術ライブラリー)鑑賞後、
摩尼山トレッキング準備【1・2年合同】
11月10日(土)【代講⑤】摩尼山「賽の河原」トレッキング
⑦11月15日 文献輪読B【1年2コマ】第2回
⑧11月22日 文献輪読A【2年2コマ】第3回
⑨11月29日 文献輪読B【1年2コマ】第3回
12月01日(土)【代講⑩】 シンポジウム「雲南に消えたチベット仏教求法僧」参加
⑩12月06日 【休講】(11月10日及び12月01日イベント参加のため)
⑪12月12日 資料整理→パワーポイント作成(1)【1年2コマ】
⑫12月19日 資料整理→パワーポイント作成(2)【2年2コマ】
⑬01月10日 発表会リハーサル(1)【1・2年合同】
⑭01月18日 発表会リハーサル(2)【1・2年合同】
⑮01月24日 発表会

2018(後期)ヒマラヤの魔女04チラシsam
↑(左)1110摩尼山「賽の河原」トレック (右)1201能海寛生誕150周年国際シンポジウム ゲラです。正式なチラシではありません。


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新刊紹介-田中淡著作集1(その四)

中国建築の特質―田中淡著作集1  アマゾン


『建築史学』第71号に掲載!

 こんどは別のブログ執筆担当者が長期の風邪症状のためまたピンチヒッターです。後期が始まって驚いたのですが、西北雲南調査に参加した4名のうち3名の男性はみな帰国後床に伏しており、先述のように、それがまだ癒えていない者もいる。わたしは健康診断アウト!状態でして、元気に生活しているのは女性1名のみであることがわかりました。彼女は旅行中前半に体調を崩しておりましたが、今はとても元気で、男性陣から驚愕と羨望の眼差しを集めております。
 それはさておき、Lablog 2Gで3回にわたり連載した『田中淡著作集1』(2018)の新刊紹介が『建築史学』に掲載されました。文献情報は以下のとおりです。

  『建築史学』第71号(2018年9月30日刊)「新刊紹介」(pp.294-298)

   田中淡 著(編集担当:藤井恵介)
   『田中淡著作集1 中国建築の特質』
   2018年3月 中央公論美術出版 A5版 280頁 5,500円+税

 Lablog 2Gでの連載情報は以下のとおりです。

《連載情報》田中淡著作集書評
第1巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1828.html
第1巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1855.html
第1巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1856.html
第1巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1906.html
第2巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2960.html
第2巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2961.html
第2巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2962.html
第2巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2963.html
第2巻(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2964.html
第2巻(6)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2965.html
第3巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2966.html
第3巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2967.html
第3巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2968.html

《関係サイト》
発掘された『田中淡著作集』第2・3巻
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2821.html

 この本は読みやすい。中国建築史の基礎を学べます。ぜひともお買い上げください。
   

雲のかなたへ-白い金色の浄土(4)

0913雲南省博物館02青銅器04石漢墓05 石寨山前漢墓家形銅飾背面


雲南青銅器文化展示へようこそ

 昨日の会長の記事によると、わたしは雲南省博物館において、南詔~大理の仏教美術にみとれていたことになっていますが、ちょっと違いますね。わたしが熱中していたのは雲南青銅器文化展示です。雲南とドンソンの青銅器文化には、長く食べさせていただきましたが、こんなにたくさんコレクションをみるのは初めてことでウキウキしました。
 ここにすべてを掲載することなど不可能ですので、建築系のミニチュアと復元建物をまとめてご紹介しましょう。


(1)祥雲大波波家形青銅棺 -戦国時代


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(2)晋寧石寨山前漢墓-家形銅飾


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雲のかなたへ-白い金色の浄土(3)

0913雲南省博物館01 新しい省博物館 海抜1800m


新しい雲南省博物館
 
 9月13日(水) 昆明楓葉王府酒店の朝食会場で、今回の調査で運転手を務めていただく羅さん、孫さんと顔を合わせる。羅さんは、教授が若いころにおこなわれた西北雲南チベット・ビルマ語族少数民族調査の際にも運転手を務めた元雲南省社会科学院の職員だった方と聞く。
 午前9時、羅さんの車に教授と学生二人が、孫さんの車に何大勇さん(雲南民族大学教授)と私が乗り、ホテルを出発する。昆明市は雲南省の省都である。標高1900mほどの高地だが、年をとおして気候が穏やであり「四時如春」と讃えられる町のようだ。ただし、この日は少々蒸し暑く感じた。


雲南省博物館青銅器9月13日


 しばらく走り、雲南省博物館に到着する。2015年5月に市の中心部から移転新装された博物館という。なかなか堂々とした外観の建物である。入館料は無料。大きな階段を上り2階の常設展「遠古雲南」に入る。雲南省で出土した恐竜の化石やジオラマからはじまり、人類誕生から旧石器時代の資料が展示してある。次に「青銅文明」の展示室に進む。昆明市の西に位置する「滇池(てんち)」周辺の遺跡から出土した紀元前3世紀代を中心とする青銅器が並ぶ。その展示はなかなかの圧巻。展示室を後にして、エスカレーターで3階に上がる。3階は「南詔大理国」と8世紀から10世紀に雲南地方で勃興した王国の仏教美術品が並ぶ。ブータンとの関係をうかがわせる小金銅仏が多く展示されており、教授は盛んにシャッターを切っている。続く展示室は「雲南少数民族の風俗」などの展示だった。パネルやキャプションに書かれている説明は漢字を拾い読みする程度であり、十分に理解することはできないが、展示は工夫されており見ごたえがあった。なお、図録を入手しようとしたが、かなり高価な写真集しかなく断念した。手ごろな展示解説があればと惜しまれる。


雲南省博物館小金銅仏9月13日


 博物館を後にして車は杭瑞高速道を大理に向けて走る。教授が雲南地方で調査をおこなっていた1990年代に高速道路はなく、一般道を8時間をかけて大理まで移動したが、車窓にひろがる棚田や段畑の美しい風景に感動したといわれる。その風景を私達に見せたいが、高速道路では叶わないと残念がっておられた。高速道路を淡々と進む。楚雄のあたりの山沿いに小集落を見ると、方形で壁が黄色く塗られた民家が多い。何大勇さんいわく、少数民族の彜族(イ族)の集落という。



0913楚雄あたり01伝統
車窓からみた楚雄あたりの風景 ↑イ族(もしくは漢族)の伝統的集落 ↓新建農村住宅
0913楚雄あたり02新建


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雲のかなたへー白い金色の浄土(2)

へぎそば1 


片木蕎麦礼賛

 9月11日(日)夜、私とガキオ先輩は鳥取から夜行バスに乗り、東京へ向かいました。関空水没さえなければ、9日に大坂から上海へ飛んでいくはずでしたが、旅行社が中国東方航空公司(MU)と必死に交渉した結果、3日遅れの新潟空港出発便がなんとか確保されたのです。まさか、の出来事でした。学生2名は、鳥取から東京まで夜行バスで向かい、12日の早朝、新幹線で新潟まで北上します。じつは、夜行バスが初めてだった私。緊張もあってか、まったく眠ることができませんでした・・・それでも朝はやってきて、東京に到着し、東京駅のコインロッカーCエリアで先生たちと合流し、駅構内のカフェでリゾットとパンという謎の炭水化物セットを朝ごはんでいただきました。


へぎそば2


 ここから新幹線に乗り換え、新潟に向かいます。二階建ての新幹線だったので驚きました。バスで眠れない分、新幹線では爆睡してしまいました。そうこうしているうちに新潟に到着。初の新潟です。新潟を堪能しているひまはないですが、空港内のレストランで名物の「へぎそば」をお昼ごはんにいただきました。普段食べる(安い)お蕎麦とちがって食感はすごくつるつるとしていて、歯ごたえがありおいしかったです。これは布海苔をつなぎに使っているからなんだそうです。また、へぎそばの「へぎ」は漢字で「片木」と書き、お蕎麦がのっている器のことを指します。この片木に、お蕎麦が一口大に丸めて盛り付けられていました。おいしかったのでまた食べたいです。
 さて、いよいよ中国へと飛び立つときがやってきました。搭乗手続きを済ませ、午後2時発のMU便に乗りこみます。約2時間半で上海浦東空港に着陸。ここで入国審査があり、急いで国内線に乗り換えました。直行便なら上海-昆明は3時間半ですが、安いチケットなので、わたしたちの乗ったMU国内便は貴州省の六盤水月照空港を経由して昆明の長水空港に至ります。3時間ばかり乗って、その便はいったん下降を始めましたが、六盤水月照空港周辺の濃霧がひどく、飛行機は再び上昇していきました。まもなくアナウンスがあり、客席で歓喜?のどよめきが起こりました。先生が客室乗務員に確認したところ、六盤水月照空港への着陸を回避し、結局そのまま昆明へ向かうことになったのでした。



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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