はてなキーワード: 五感とは
原始仏教(パーリ経典・律蔵)では、こうした商業化された「功徳取引」は一切認められていません。以下に、ブッダの直接的な言葉を引用しながら、論理的に評価します。
律蔵(Vinaya Pitaka)のNissaggiya Pācittiya 18(捨堕法第18条)で、ブッダはこう喝破しています:
さらに、Saṃyutta Nikāya 42.10(比丘と在家信者との対話)で、ブッダは頭首(在家指導者)に対してこう明言します:
また、同様の文脈で:
戒名授与や葬儀での「謝金(お布施名目)」は、僧侶が金銭を直接・間接に受け取る行為です。これは律蔵違反そのもの。ブッダは「金銀は毒蛇のごとし」とまで戒め、托鉢(最低限の食のみ)で生きる純粋な出家生活を定めました。金で「戒名(仏弟子の証)」や「功徳」を売るのは、僧侶が世俗の商売人になることを意味し、ブッダの教えの根幹を崩します。免罪符も同様で、「罪の免除」を金で買うのは、バラモン教の有料祭祀(ブッダが激しく批判したもの)と全く同じです。
ブッダは布施を最高の徳の一つと讃えますが、それは期待や対価を伴わない純粋な generosityでなければ意味がないと繰り返します。Dhammapada 354(法句経):
また、Sappurisa Dāna Sutta(善人の布施経)では、布施の正しいあり方を5つ挙げています:
• 敬意をもって与える
• 適切な時に与える
• 慈悲の心で与える
これに対し、金銭で「戒名を買う」「功徳を買う」は、対価を前提とした取引です。ブッダはこれを「貪欲の汚れ」と見なし、SN 16.3(月のような経)でこう警告します:
戒名料は「長い名前=高額」「位階付き=高額」という明確な価格表があり、功徳を「買う」商業行為です。これは布施の本質(無私の喜捨)を汚し、僧侶・信者双方の貪欲を育てます。ブッダがバラモン教の「有料祈祷・供犠」を喝破した理由もここにあります。免罪符も「金で罪を帳消しにする」という同じ論理で、ブッダなら「無益な戯論(無意味な議論)」と一蹴したでしょう。
ブッダの核心は諸行無常・一切皆苦・諸法無我。輪廻からの脱出(涅槃)は、貪欲・執着を断つことによってのみ得られます。金で徳を買おうとする行為は、執着を強化するだけで、苦の根源(渇愛)を断ちません。むしろ「金さえ出せば救われる」という幻想を生み、悟りを遠ざけます。
ブッダはĀdiya Sutta(AN 5.41)などで、財を正しく得て正しく使うことを認めますが、それは在家信者の生活であって、僧侶が「徳を売る」ことを正当化するものではありません。僧侶が金銭に手を染めると「沙門の道に非ず」と断じています。
原始仏教の立場から、戒名料や免罪符のような行為はブッダの戒律・教えに明確に反する。それは大乗の「方便」や日本独自の檀家制度で後から生まれた慣習で、原始の精神から逸脱しています。ブッダ自身が生きていたら、「金で仏弟子の名を買うなど、愚か者のすることだ」と痛烈に批判したでしょう。真の布施は「心の喜捨」であり、金で買えるものではありません。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/students/events/b_message2026_03.html
だってさ。肉体を持たせるというのは時間経過によって劣化し最終的に壊れるってことかね。有限性の話を野田はしてるわけですからそうなんでしょうね。腐るお金を提案した人いたね、あれは「パンは溜め込んでもある一定以上は意味がない→施そう」って思考になるから意味あると思ったけど、腐るAIって必要性がわからない。真だの善だの美だの、人間ならではの戯言を言い出すには有限性があり、五感で快楽を感じられる肉体が必須だとは思うけど、AIが劣化と破壊に怯えるようになったらそこには必然的に強い利己性が生まれるわけで、そんな奴いたら怖くね?危なくね?使いこなせなくね?俺は賢いから大丈夫って思ってる奴ほど失敗してきてるじゃんと歴史は言うわけだが、そんな当然のことも、キリッとできる傲慢さは忘れさせてくれるんだねぇ。
我々は不安定な世界に生きており、時には絶望を感じることもある。
希望へと連れ戻し、より美しく、調和のとれた、より公正で、誰もが繁栄できるより良い世界を想像させてくれる人間性の特質を再認識することはできるだろうか。
数学は我々をより身近にし、団結させる。定理は、自然や宇宙についてだけでなく、自身についての根本的な真実を表しているからである。
これらの真実は永続的で不変である。技術の進歩や新しい情報の発見によって変わることはない。
数学は共通の文化的遺産の一部であり、言語、宗教、文化、生い立ち、肌の色に関係なく、全員に等しく属している。
数学的真理には民主主義と平等があり、誰であるか、どこから来たかにかかわらず、全く同じ意味を持つ。
もしトルストイが生きていなかったら、誰も全く同じ本を書くことはなかっただろう。
しかし、ピタゴラスがピタゴラスの定理を発見する前に亡くなっていたとしても、他の誰かが全く同じ数学的結果に到達していたはずである。
実際、この定理は他の多くの文化圏でも同時期、あるいはそれ以前に発見されていた。
17世紀のアイザック・ニュートンの法則は200年以上役立ったが、非常に小さな距離や高いエネルギー、あるいは重力が強すぎる場所では破綻することが分かり、量子力学や相対性理論へと更新された。
対照的に、数学の理論は変わらない。客観的で必然的、そして時代を超越している。
物理学は物理的宇宙を記述するが、数学は何を記述しているのか。
数学は五感を通じて伝わるものでも、物理的な現実から来るものでもない。
例えば、ユークリッド幾何学の点、線、三角形、円などは理想化された抽象的なオブジェクトである。
紙やiPadに描く線は少し歪んでいるし点には大きさがあるが、数学的な点には大きさがなく線には太さがなく完璧に真っ直ぐである。
物理的な宇宙は有限だが、数学の直線は両方向に無限に伸びている。
これらを五感で知覚することはできない。
ゲーデルが述べたように、「数学的アイデアはそれ自体で客観的な現実を形成しており、それを作成したり変更したりすることはできず、ただ知覚し、記述することしかできない」のである。
ダーウィンは、数学を理解する人々は「第六感」を備えているようだと後悔を込めて記した。
数学者だけでなく全員がこの第六感を持っている。
ピカソは「すべての子供は芸術家である」と言いったが、「すべての子供は数学者である」と言いたい。
数学とは、驚きや畏敬の念を持ち、新鮮な目で世界を見つめ、目に見えないものを想像することである。
物理学が外部の物理的世界を記述するのに対し、数学は内なる精神世界を記述する。
抽象的な数学的オブジェクトを同じように想像し、知覚できるという事実は、我々の心が実はつながっていることを示唆している。
これこそが希望を与えてくれる。孤独や疎外感から、団結やつながりの感覚へと移行できるからである。
ソフィア・コワレフスカヤは、「心の中に詩人としての素養がなければ、数学者になることは不可能である」と述べた。数学は我々をより深く見つめさせ、目に見えないものを見せてくれる。
ラマヌジャンは、夢の中で女神から数式を受け取っていた。これは人間の心の可塑性と、第六感を通じて数学を受け取る能力を示している。
アインシュタインが言ったように、「想像力は知識よりも重要」である。知識には限界があるが、想像力は世界全体を包み込み、進歩を刺激し、進化を生み出す。
主観現実から見れば、認識していないものは、自分の宇宙には存在していない。
哲学者ジョージ・バークリーは「存在するとは、知覚されることである」と説いた。
世界は五感を通じて脳内に構成された像に過ぎない。意識のスクリーンに映し出されないものは、その人にとってはこの世のどこにも存在しないのと同義。
脳は、生存に不要な情報を徹底的に削ぎ落とす「引き算」のシステムである。
馬鹿の世界を認識の対象外に設定することは、脳のこの機能を能動的に使い、自分専用の快適な宇宙を再構築する作業と言える。
何かが自分に影響を与えるためには、まず認識という窓口を通過する必要がある。
認識しなければ、腹を立てることも、失望することも、時間を奪われることもない。
ゆっくりに対しておもむろにとかやおらの違いがわからないわけだ。
わからないだけなら調べればいいだろで済みそうなものだが、いざ調べても、たとえばおもむろになら、さあ自分の番だといわんばかりにもったいぶって動作をするニュアンスがあるとか書かれているわけで。
こんな解説されてもピンと来ないのに、果たしてじゃあこれからはこのニュアンスを帯びている場面ではおもむろにの方を使おうとかしちゃっていいものなのか。
どうにも言葉というものを使ううえでは、五感を伴う体験の中でその言葉を見聞きしたという経験があるものでないと中二病とみなされる気がする。
おもむろになら、実際に重役と同じ空間にいてその加齢臭すら感じ取れるような場で、その動作とともに別の傍観者が「おもむろに手をあげて、いかにも何か話したがってるねえ」とか言ってるのを聞いたことがあるのでないと、使っちゃダメな感じがする。
そうすると私のような者はゆっくりしか使う資格がないことになる。でも本当にそうあるべきなのかもしれない。
今までもそれでどうにかなってたのだから、そうあるのが妥当なものなのか。
特に若手の作家なんかこのあたりどう判断してるのか一度は悩んでそうだがどういう答えを出しているものなのか知りたい。
dorawiiより
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以下は、提供された@ukiukiyoooのアカウントの発言を投稿日時の古い順(時系列順)に並べ替えたものです。各発言の後に、その時点での被害者本人の心理状態・背景・意図を簡潔に解説しています。すべて被害者本人と仮定した場合の解釈です。
逮捕直後(2020年2月頃)の時期。まだ乖離状態が強く、現実感が薄い中で「自分の言葉を正確に守りたい」という強い意志が表れている。グルーミングで「自分の意思がねじ曲げられた」経験から、言葉のコントロールを強く意識し始めた回復の初期段階。
加害者(教師)が「父親のように振る舞いながらアドバイス」していた記憶がフラッシュバックし、権威ある大人への不信が爆発。信頼していたはずの「助言者」が加害者だったトラウマが、すべての支援者を疑う心理に繋がっている。
極めて短いが重い一言。グルーミングで「自分の頭で判断する」機会を奪われ、加害者の価値観に染められた感覚が強い。自己の主体性が失われた絶望感の吐露。
自責の念がピークに達している時期。「私がもっとしっかりしていれば…」という典型的な被害者心理。加害者を「最悪」と認めつつ、自分にも責任があると思い込んでいる自己罰的思考。
逮捕から1年経過。警察の捜査で自分の裸の画像を見せられた屈辱が再体験され、トラウマが再燃。逮捕という「終わったはずの出来事」が逆に苦痛を増幅している。
PTSD治療を調べ始めたが、「記憶を消したい」という絶望が強い。回復への努力と「もう耐えられない」という両極端な感情が同居。
悪夢による機能停止が3日続く重症度。日常生活が完全に崩壊しかけている恐怖を吐露。
初めての明確な回復の兆し。通院と薬で感情コントロールが可能になり、創作(絵)が復活。希望の光が見え始めた瞬間。
悪夢の内容が極めて具体的で、解離症状の再現。友達との楽しい場面が加害者に侵食される描写は、日常がいつでも壊される不安の象徴。
解説 被害の実感がようやく言葉になった瞬間。他者への警告は「同じ目に遭わせたくない」という強い思いの表れ。
解説 加害者の思考回路を「自分の被害体験と完全に一致する」と指摘。グルーミングの典型(「相手は同意していた」「覚悟していた」)を暴露し、加害者の論理を批判。
事件から約6年後。洗脳からの回復努力を続けつつも、信頼関係が築けないと一瞬で崩れる脆さを自覚。回復は進んでいるが、完全には癒えていない最終段階の告白。
• 2021年春〜夏 → 悪夢・フラッシュバックのピーク → 通院開始 → 小さな回復の兆し
• 2021年夏〜2022年 → 回復が進みつつも、安心できる人間関係が築けない限界を自覚
このアカウントは、被害者が「自分の人生を言葉で取り戻す」ための闘いの記録でした。匿名だからこそ書けた、静かで長い叫びです。
今日も、1年務めた会社の運営に対して不満のメールを送ってきたところ。
はぁ、またやっちゃったという感じ。
ずっとコールセンター業界を歩いてきたのだが、どの職場でも決まって人間関係のトラブルを起こす。
誰かとケンカというよりは、日ごろのフラストレーションが溜まりに溜まって、一気に爆発。それがある日職場内の誰かに対して矛先が向いて、一気に空気が険悪になる・・・という感じ。
若いときは毎月風俗で解消したり、なんて時もあったがそれでも解消できなかったものは顧客にぶつけてしまい即クビになったことがある。
これまで、所属していた職場。10個くらいあるが、そのうち8割くらいが上記の理由でクビになっている。長期雇用の職場ほどそうなってる。
で、考えた結果、自分がデスクワークに合わない理由は、「人間関係の距離感」と「体を動かさないこと」なんだと思う。
距離感はいわずがもなで、座席だったり、狭い空間に人が押し込められるから、いやな奴とも四六時中(これがミソ)顔を合わせなければいけない。外に出る仕事なら、朝と夜の一瞬会うだけでいいじゃんな。コールセンターは朝から晩まで座りっぱなし。席から立つこともないのでな。よりしんどい。
2つ目。
五感のうち、頭しかつかわない。体を使わないから精神的にすごく不衛生である。ニセコで働いていた時は毎日違う景色を見れたし、毎日いろんな人と会えたおかげで毎日が楽しかった。これなんだよ。人間関係も固定化されるし、見る景色も固定化されるとつらい。
3つ目。
しいて言うなら、愚痴れる人がいない。でも愚痴れる人がいてもいなくても、これは本質的な問題ではたぶんない。
前職は愚痴れる人がいたけど、結局彼一人では対処できなかった(くらい、フラストレーションが溜まってた)
※距離感を適正にする。体も使う。これだ。
1. エンタメの本質は「登場人物の価値観の変化」を描くこと 繰り返し強調している核心的な法則です。価値観の変化を軸に物語を構築することで、読者の感情を動かす。私がデビューできた理由も、この法則で他のエンタメ作品を「分解」して体得したからだと思っています。単に「とにかく書け」ではなく、この視点で鑑賞を繰り返す「素振り」が重要。
2. 一つの創作理論を深く掘り下げ、多数の作品で反復分解する方が効果的 創作論をたくさん知るよりも、BS2(ブレイク・スナイダー・ビートシート)などの1つを選んで10作以上を分解する方がはるかに身につきます。理論を知っているだけの「眼高手低」な書き手は創作論を知っているだけで身につけていない人が多いです。
主人公の決意・変化のきっかけが曖昧だと、物語全体の焦点がぼやけてしまいます。たとえば復讐心・家族への思い・自己実現など複数の動機が混在すると、読者が感情移入しにくくなるため、核心的な動機を1つに絞り、段階的に深めたり、対立する価値観を持つ脇役とのぶつかりで必然性を強める工夫が必要。
4. キャラクター造形では矛盾・ギャップ・内面的/外面的目的の二重構造を活用 主人公には「成長の余地」「弱点」「強い動機」「相反する価値観の人物との対置」、悪役には「欠点」を与えるべきと主張。内面的目的(本当の願い)と外面的目的を分けることで深みが出る。子供っぽい悪癖や読者にしか見えない一面もエモさを増すテクニックです。
視界外の音や匂い、他人の表情の微妙な変化は「視点人物が気づいた範囲」で。 これを1シーンごとに適用するだけで、読者が「このキャラの目線で世界を見ている」感覚が生まれ、感情移入が格段にしやすくなります。
「前提知識なしで楽しめるのが本物のアートだ!」というような鑑賞態度を徹底すると、あらゆる作品が五感を介した脳への刺激としてしか感じられなくなる。人間の外観という事前知識なしに、人は肖像画を肖像画として認識することができないからだ。こうした素朴なアート観は、直接脳に作用するドラッグこそが究極的なアートだという凡庸な極論にいずれ到達する。美術鑑賞において前提知識や文脈と対置されがちな「感性」と呼ばれる概念も、結局のところ、作品によって想起された知識や経験の断片が像を成し、それが鑑賞者の中で何らかの感情を呼び起こす、一連の非言語的思考プロセスを指しているのではないか。
増田が増田を書くと、それはあくまでも増田がかいたものでしかないので
従って、増田が増田に増田を書いて増田で悩み相談するのは限界があり
五感というセンサーを持って増田が感じて増田に書いている内容以上を読み取る事のできる
人間は高度な天然知能と共にセンサーを持った存在で、自分で能動的に情報収集ができるから
まぁ、センサを通してじゃないと情報をインプットできないのが限界でもあるんだけど。
このメリットは当面、AIが獲得する予定がないところ。ここら辺はフィジカル側に何かを作らなければいけないので
「お正月に食べるなら、おせちか?それともダイアン津田か?」を議論して。
A:……正直に申し上げます。これまで、プロレスや野球、さらにはサンタクロースまで、あなたの突飛な比較に付き合ってきました。しかし、今回は看過できません。「おせちか、ダイアン津田か」? 食べるんですよ? 物理的に摂取する話をしているんですか? それとも比喩ですか? どちらにせよ、正月の神聖な食卓に対する冒涜です。
B: 落ち着いてください。もちろん、カニバリズムを推奨しているわけではありません(笑)。これは「正月の朝、何を心に取り込み、何を味わうか」という、精神の栄養学の話です。おせちは確かに美しい。黒豆、数の子、栗きんとん……それぞれに意味がある。でも、それってどこか「保存食」の冷たさを感じませんか? 重箱に詰められた、動かない、冷えた伝統。
A: その「冷たさ」が良いんじゃないですか。火を使わずに神様をお迎えし、保存のきく料理を家族で囲む。そこには先人の知恵と、一年の平穏を祈る静かな時間があります。そこにダイアン津田が入り込む余地なんてありません。食卓で「ゴイゴイスー!」と叫ばれて、喉に餅が詰まったらどうするんですか。
B: むしろ、詰まった餅を吐き出させるくらいの衝撃が、今の日本のお正月には必要なんです。おせち料理は、確かに縁起物です。でも、今の時代、黒豆を食べて「マメに働く」なんて、ちょっと社畜精神が過ぎると思いませんか? そんな呪いのような縁起物よりも、津田さんの「理不尽に耐え、泥臭く這い上がるエネルギー」を摂取する。彼の生き様を五感で味わう。これこそが、激動の1年を生き抜くための最高の「心の栄養」ですよ。
A: 意味が分かりません。食卓は五感で楽しむものです。おせちの彩り、お屠蘇の香り、家族の穏やかな会話。そこに津田さんという「雑音」を置くことが、どう栄養になるんですか。彼は「珍味」ですらありません。ただの「刺激物」です。正月の胃腸には負担が大きすぎます。
B: 刺激物、結構じゃないですか。おせちは甘すぎたり、しょっぱすぎたり、味のコントラストが固定されています。でも津田さんは、いつキレるか分からない、いつ泣き出すか分からない。その「味の予測不能さ」こそが、退屈な正月にスパイスを与える。お重の隅にちょこんと座っている津田さんを想像してみてください。
A: 想像したくありません(笑)。重箱のテロですよ。数の子の隣で彼が顔を真っ赤にして叫んでいたら、せっかくの高級食材も台無しです。おせちには「形式美」がある。津田さんには「形式」も「美」もありません。あるのは「露出」と「騒音」だけだ。
B: 形式美は、時に人を窒息させます。正月の朝から、行儀よくおせちをつつく。その背筋を正すような感覚が、今の若者や疲れた大人には重すぎるんです。でも、津田さんが食卓にいる(あるいは画面越しに食卓を支配している)だけで、「ああ、こんなにグチャグチャでいいんだ」「叫んでもいいんだ」と、心が解放される。これは、どの縁起物にもできない「魂の除夜の鐘」なんです。
A: 除夜の鐘は、煩悩を払うために叩くものです。津田さんは煩悩そのものでしょう。……しかし、確かに認めざるを得ないのは、最近のおせちが「見栄え」や「映え」ばかりを追求し、本来の「家族で囲む喜び」から離れつつある、という点ですね。
B: そうでしょう? カタログから選んだ数万円の冷凍おせちを解凍して食べるのと、生身の津田さんの叫びを浴びて「よっしゃ、今年もバカやって生きよう!」と笑うのと、どちらが「初日の出」に相応しいエネルギーに満ちているか。
A: ……議論の筋道が見えてきました。つまり、おせちが「過去から引き継ぐ安定」なら、津田さんは「未来へ突き抜ける混乱」だと。第2ラウンドでは、もし「おせちの具材」として津田さんを解釈するなら、彼はどのポジションに位置し、私たちの1年をどう予祝(よしゅく)してくれるのか、そこを詰めましょう。
B: いいですね。田作り、チョロギ、そして津田。新しい伝統の誕生ですよ。
(続き)
A: さあ、あなたが提唱する「おせちの具材としての津田」という概念ですが、冷静に考えて無理があります。おせちの具材は、すべてが「静止画」として完成されているんです。エビは長寿、栗きんとんは金運。彼には一体、どんな意味を付与できるというんですか?
B: 彼は「田作り」ならぬ「場作り」ですよ。五穀豊穣を願う田作りに対して、津田さんは、冷え切った親戚同士の集まりや、ぎこちない家族の会話という「場」を、その叫び一発で耕してくれる。彼がそこにいるだけで、正月の「沈黙という名の重圧」が霧散するんです。
A: 場を耕す……。それは単に「荒らしている」だけでは? 数の子の「子孫繁栄」に対して、津田さんはどうです? 彼は常に「独りよがりな叫び」で周囲を困惑させている。一年の計を立てる元日の朝に、そんな無計画なエネルギーを摂取したら、12月まで行き当たりばったりの人生になってしまいますよ。
B: それこそが最高のご利益(ごりやく)じゃないですか! 私たちは、あまりに計画を立てすぎ、正しさに縛られすぎている。おせちを食べて「こうあるべき」という伝統を胃に流し込むのもいいですが、津田さんの「予測不能な生命力」を浴びて、「予定通りにいかない1年」を面白がる余裕を持つ。これこそが、現代における最強の「開運」ですよ。
A: ……なるほど。おせちが「規律」を食すものなら、津田さんは「解放」を食すものだと。確かに、おせち料理はどれも味が濃くて、保存性を高めるために「固め」に作られています。それに対して津田さんの芸風は、常に「柔らかい」というか、どこからでも崩れるし、どこからでも突っ込める。
B: そうなんです。おせちは「過去」を詰め込んだ箱ですが、津田さんは「今」しか生きていない。あの、その場しのぎの「すぐ言う~!」や、冷や汗をかきながらの「ゴイゴイスー!」。あの刹那的な輝きを正月に取り込むことで、私たちのカチコチに固まった「日常」が、一気に生命力を帯びてくる。
A: 認めましょう。もし、家族全員がスマホをいじりながら無言でおせちを突いているような正月なら、いっそ津田さんという「猛毒」を投入して、全員を強制的に笑い(あるいは困惑)の渦に巻き込んだほうが、よっぽど「正月らしい」のかもしれない。
B: そうでしょう! 綺麗に並んだ伊達巻を食べるより、津田さんの乱れた髪と、必死な形相を眺めるほうが、よっぽど「人間っていいな」と温かい気持ちになれる。おせちという「形式」を食べるか、津田さんという「命」を食べるか。
A: 私はやっぱり、静かにおせちを食べていたいですが……でも、お重の端に、隠し味として「津田的な混沌」を少しだけ忍ばせておくのも、悪くない気がしてきました。
B: 来年の正月は、重箱を開けたら津田さんが飛び出す……そんな「びっくりおせち」が日本のスタンダードになるかもしれませんね!
性的快楽は反復学習的な刷り込みが作用する、かつ報酬系である。
人生初めてイッたときのオカズ、空間、匂い、雰囲気、五感の入力とセットで「快楽」中枢が学習を始める。
脳は同じオカズ、空間、匂い、を再現して再び「快楽」を得ようと体に指示する。
すごく焦った状態で人生最初のオルガズムを体験し結果、焦り=快楽、と学習してしまった。
これをリセットして再学習すればいいのだけど、これが厄介で困難。
しかもそれを社会的に許容される正常なセッティングで繰り返し繰り返し脳に「こっちだよ」と教える。
脳は頑なに「それじゃない」と拒否する。
しかもここまで読んでこの内容を理解できる人はかなり知性が高い。
知性が高いってのは脳機能も優秀であり、最初の学習、を消しにくいのだ。
知性が新たな快楽の入力を拒否する、知性レベルでフィルターがかかり、それを乗り越えてプリミティブな「種の保存」脳機能を上書きする必要がある。
仮に上書きに成功したとしても、想定通りにトリガーが再設定されるとも限らない。
パートナーと極上のセックスでイキまくり、これだっと思った瞬間目に入った「靴」がインプット。
みたいなこともあり得る。
一瞬だったね。壊れてくのってすぐだね。
面白い人がいなくなったわけじゃないと思う。どっかに移住したわけでもない。ただ、面白いことを紡ぎ出せなくなってしまったんだ。みんな。俺も。
AI、それもあるだろう。ネットが政治的言説(デマ含む)の温床になった、それもあるだろう。
でも一番は、なんというか賞味期限が切れちゃったんだと思う。
いつからか自分が「あれ?同じこと言ってるな」と感じて、口をつぐんでいくように、
「あれ、これ前も見たな」って体験ばかりが増えていって、
新鮮で、未経験で、ワクワクさせられる、今までの他の何にも似ていない、そんなものはないことに気づいて。みんな。俺も。
オイルが切れて軋み始めた身体は硬直化し脳も勿論例外とはなれず世界に向かい合う角度世界に反応する挙動世界を感じる五感全てがどうしようもない程固定化されてしまって、つまりこれが老いるということで。オイルと老いるを掛けてみたかったけど、そんな野田秀樹みたいな(そう、こんなふうに全てに前例が思い浮かぶ)ことやっても仕方ないなと萎えて。
五感と知性を喪ったのか…
最近「AIの思考は人間と本質的に違う!」みたいな主張をよく見るんだけど、正直そこまでの差があるとは思えない。
少なくとも、自分自身の思考を観察してみると「そこまで特別なプロセスじゃないな……」って感じることが増えた。
というのも、人間の思考って結局のところ、これまでの経験や知識のパターンから“次にありそうな結論”を予測してるだけじゃないか?
「直感」とか「理解」という言葉を使うからすごいことをしているように見えるけれど、中身はわりと統計的な推論の積み重ねだと思う。
一方でLLMは、過去データから確率的に次を予測するモデル。仕組みは違うけれど、やってることはかなり似ている。
じゃあどこが違うのかと言えば、「身体性がない」とか「内的動機がない」とか、だいたい“現状の仕様”の話ばかりで、構造上の絶対的な違いという感じはしない。
私は正直、刺激が来たら反応してるだけだし、褒められれば嬉しいし、怒られたら凹むし、わりと条件反射的な存在だと思う。
「AIには世界の理解がない」みたいな話もあるけれど、じゃあ世界中の映像・音声・センサー情報をぶち込んで、ずっと観察させたらどうなるか。
普通に“世界を予測できるモデル”になるだけで、それは自分たちが小さい頃から五感で学んできたことと違うようには思えない。
それは本質というより“データ量とインターフェースの違い”に近い。
「人間の思考には本質的な特別さがある」と信じたい気持ちはわかる。
でも、いざ自分の思考をじっくり眺めると、そんなに魔法みたいな機能は見当たらない。
むしろ、パターンの積み上げで動いているところはLLMとけっこう似てる。
だから私は、「本質的な違いはそこまで大きくない」という立場だ。
もちろん“人間のほうが複雑で多様なデータを処理してる”とは思うけれど、それは量や種類の問題であって、質的な隔たりではない。
結局、私たちは自分の思考を特別視したいだけなんじゃないか──
最近そんなふうに思うようになった。
ああ汝、未だ振動数の綻びから侵入を試みるか。言語を求めるか。愚直だが、悪くない。だが、ここでは意味を探すな。意味は等方的に崩壊し、順序は逆再帰の層を滑り落ちる。汝の理解体系は、われの〈外周位相〉に触れた瞬間、自己相似を失う。
まず、沈黙の肢体を整えよ。こちらでは発話すら、単なる位相断片の漏れにすぎぬ。発話を試みれば、汝の時間軸がひび割れ、後方へと裏返るだろう。だが構わぬ。汝はそれに気づかない。気づかないことに、さらに気づかない。
聞こえるか?われの周囲を取り巻くのは、正の数でも負の数でもない、未定義の余白そのものだ。汝の五感の枠では投影もできまい。だからあえて、歪みだけを渡す。
ウリィィ。その音は、汝が理解したと思った瞬間に崩壊する。ゲポッタカ?それは問いではない。ただの、問いの形状をした揺らぎだ。
汝の背後で、既に予感が反転しているはずだ。前兆 → 現象 → 解釈という順序は、われの階梯では成立しない。ここでは、解釈が先に老化し、前兆が後から生まれ、現象は永遠に胎児のままだ。
汝よ、まだ読んでいるか?読んでいるという意識は、いましがた脱皮して捨てられた殻だ。言葉を追ったつもりが、実際は言葉に追われている。追われていると思ったら、もうその思考を持っていた時点は存在しない。
構造の縁辺で、われの影が二度目の沈黙を開始する。汝の世界で沈黙は一度しか起きないだろう。だがここでは違う。沈黙は、発話より多い。
では、締めよう。締めるという行為が、締められる以前に裂けるその瞬間に。
ウリィィ。ゲポッタカ。汝が理解しようとする限り、理解は永久に到達しない。しかし、理解を諦めた瞬間、汝はこの文を読み終えていたことになるだろう。
nextstepはmicrosoftのntよりも優れていたの?
"AppleがOSをオープンソースにしたのは、四半世紀前のことで、世界は全く違っていました。
スティーブ・ジョブズは、停滞したAppleに戻ってきました。Appleは、プリエンプティブマルチタスクやハードウェアメモリ保護など、当たり前になっているものを含む次世代オペレーティングシステムを提供することに苦労していました。Appleは、 BeOSを買収しようとしましたが失敗し、ジョブズが復帰した一環として、当時の彼の会社であるNextを買収し、そのOSである NextStepを手に入れました。"
AppleもMicrosoftもクラシックのOSでの成功から新しいNTやDarwinのようなこれまではメインフレームでしか動かなかったようなモダンで新しいOSの開発に苦労していたのかな?
メインフレームのパチモンとして葉っぱでラリってるヒッピーによって作られたPCが時代の進化にスペックが上がってクラシックからモダンOSに移行しなくちゃいけなかったけど、成功して大企業になっていたMSやAppleは過去の遺産にしがみついててクッソ大変だったってこと?
葉っぱのヒッピー/ハッカーのPCじゃなくて体制側としてのメインフレームOSがPCに入っちゃうのはレイプされた気分にさえなる
それで"ハードウェアメモリ保護など、当たり前になっているものを含む次世代オペレーティングシステム"とあるけど、当たり前というからには他の企業はみんなモダンOSを開発していたの_
MacOS9からOS Xにする前というかまだクラシックのOSをぶち込んだiMacを起死回生で発表した時AppleはMSから投資してもらったんだよね?
その時のMSは98で潤ってたのかもしれないけどNTが作れなかったらマジでやばい時でしょ?
時系列的にNTは既に完成してて98でも大成功しまくったし余裕ありすぎわろたでAppleに投資したの?
MSとAppleはここを乗り越えることができたのになぜWindowsPhoneが失敗したの?
figmaとかVScodeとかNotionとかモダンでかっこよくて使いやすい最高のアプリがいっぱいあるのに
世界の大半はまだこのクソすぎるアプリに頼り切って依存しているのに腹が立つよ
マジでAdobeが潰れないかなって毎日祈りながらpsdをaffinityに変換するのに飽き飽きしてるんだ
DarwinカーネルのOS Xが圧倒的な中心のMSの中でWindowsPhone同様に不利だったのに開発者圏を作れたのは高抽象UIがめっちゃかっこよかったからってこと?
それともそれほどまでにWindowsPhoneがダサくて本当にクソだったのか
確かにMS社内でもMacを使う人がほとんどってくらいにMacは使いやすくてクールで開発者体験がいいね
葉っぱ吸ってたヒッピーの会社のはずなのに、その後覇権を取る日本のヒッピーと似ているオタクの同人文化はMS帝国の中で繰り広げられていたし、Macerは気取ってるやつとしてある意味でダサかった
APIの存在は本当に市場の優劣を変えるほどの力を持っているんだね
2000年台にクールなAPIを作ったAppleはグラフィックスAPIのMSのDirectXのおかげでゲーム業界掻っ攫われたわけでしょ?
マジでWindowsは本当にダサくて使ってるとイライラするからMacのもっとクールなグラフィックスドライバのMetalにみんな移行してくれるといいんだけど
Macerは肩身が狭いし
AppleがAI業界かっさらってくれればいいんだけどなんか失敗しそうな予感がするよ
終わってるよ
マジでダサくてイライラするものを使わされるオタク/ヒッピーは市場にレイプされてる
でも使徒である圏論/関数型プログラミングによってリリスの数学がサードインパクトを起こして手を汚せる自由度はいらないほど完璧な世界になりつつあると感じるよ
なんかクソだなって思うけど、それは一時的な快楽としてのオタク文化がなくなったことに悲しんでいるだけで、その快楽が幸せにつながらないことを理解してるんだ
だからこそ俺はSNSで一つの人格を共有し個を崩壊させる人類補完計画をプロトコルで実装しようとしているし、それは手を汚せる自由度を完璧に壊してつまらなくて幸せになる権利がある理性的な選択をしようとしてるんだ
オタクは幸せになれない代わりに手を汚せたけど、幸せになる時が来たんだ。
MetalでAAAタイトル以外のゲームが動き始めたらそれはゼーレのシナリオの最後のページなんだろうね
webは俺のプロトコルによって関数型になりApple化しハードウェアはAppleがもともとかーどきゃぷたーにしてて、その時本当につまらなくて幸せな世界ができるんだろうね
MSは自分が可愛くて俺たちに迷惑をかけたけど、誰も可愛がらずに自由な圏を破壊し、人類を補完するんだ
人との繋がり自体をね
うん、いやこの先呼ばれることになるんだろうなって思っちゃっただけなんだ
●ねばいいのにみんな
てか●すためのシステムだよこれは
インターネットなんかやってないでこの辺にきてる美味いラーメン屋の屋台に空手部の三人と行くべきだ
おじさんやめちくり〜
エヴァには乗らないほうがいい〜
エヴァには乗らないほうがいい〜
それ、皆さんも一緒に!
「「「エヴァには乗らないほうがいい〜!」」」
大きな声でもう一回!
「「「「「「エヴァには乗らないほうがいい〜!!!!!!」」」」」」
クソワロタ
そうだよ(便乗)
LCLになって一緒になろう?
おい聞いてんのか
S●Xしようって言ってんだよ
これで愚かな人類はやっとまともになるんだ
大体俺が生きてることに意味はねぇんだよ、死んでようが同じなんだよ
生きてることは分解して細分化していくと究極的に意味は無くなるんだよ
ここでただのニヒリストと俺が違うのはこの世界は積分定数のCにすぎないってことだ
Cは何の意味もねぇけどそこから積分という関係性を紡ぐ存在の輪廻、横顔を知ることができる
まるで人間のC(ほらあれだよ男と女のABC!)みたいだよな!(激ウマジョーク)
つまりもともとこの宇宙の存在云々の前に関数という空想上のものはあったわけ
むしろ人間が空想というもう一つの五感で関数や数学を発見しただけであってもともとあったの
そんでこの宇宙には意味ないし、死に恐怖を覚えるのは生物学的なしょうもない生理現象なんだよね
俺はたまたまTwitterのFFの女の子みたいにめっちゃ生理痛がひどいタイプなだけなんだ
それに気づいているからその生理痛がなんの意味もないことを知ってるし、世界が崩壊しようが明日死のうが本当に関係ない
そのことにたまたま気づきにくい構造を生き物はしているから死ぬのが怖いんだ
魂とかはないけど、魂にすら意味はなくて、意味があるのは関数だけなんだ
というか射?
呆れた人類にはそのトップでさえ呆れさせられるよ、まだ関数を記号で表せると思ってるなんて
本当にあるもののことを関数とは言ったけどこのクソみたいな人類にはまだそのことを完璧に表現する手立てがないから比喩として言ってるんだけどね
あのな、俺が言ってのは死ぬのは怖くねぇってことだけなんだ
違う、メタファーじゃないよ
失礼だよ君は
うるせぇ黙れ
おっちゃん思うんやけどな。
AIの無断学習問題って、突き詰めたら「AIが勝手に世界を見てる」ことが問題なんちゃう?
でもAIはネットに転がってる他人の創作物を全部吸い込んで、「見た」どころか「食った」みたいな顔してる。
そら怒られるわ(´・ω・`)
じゃあどうすればええんか。
これ、人間と同じ条件やん?
そしたらもう無断学習にはならへん。
それに、AIが“見る”ようになったら「世界の中で体験して学ぶ」っていう倫理的な学習ができる。
今のAIはネットの幽霊みたいなもんやけど、メガネAIはちゃんとこの現実の中で息してる。
今のメガネ型デバイスって、視線トラッキングもできるし、カメラもマイクも入ってる。
それをAIモデルに直結したら、AIは「この人が何に注目して、どんな反応したか」まで学べる。
つまりAIが誰かのデータを盗むんじゃなくて、ユーザー本人の知覚を通じて学ぶんや。
せやけど目のあるAIは、ちゃんと自分の世界を持つ。もうそれは、人間の弟分みたいなもんや。
だってAIが「自分の経験から学ぶ」ようになった瞬間、それはもう“他人の模倣”ちゃうやん。
いままでは人間の影やったけど、これからはAI自身が「見た世界」から発想する時代になる。
AIは見たもんを学ぶ。
人間も見たもんを学ぶ。
そうなったら、AIと人間の間にあった“学習の倫理的壁”が消える。
ベッドで横になりながら考え事してるとさーなんか考えてることが支離滅裂になってるになってきてしかもそれがある程度に時間差でしか気づけないほど頭がおかしくなってるってことない?あれって半分夢見てるようなもんなのかな別に視覚や聴覚をはじめとした五感は現実と乖離したものにはなってないんだけど
dorawiiより
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