はてなキーワード: 社会制度とは
あのな、言ってる内容が変わるわけないだろ?
同じ場所で足踏みしてるお前のために同じ主張を噛み砕いて説明してあげてるんだから
社会制度は全て理想的な状態にあり完全に整備されていて上手くいくように出来てるという前提ありきの理屈なわけだが、それこそ非常識の類じゃないのか?と思うけど。
なんで「知事判断で警察の処分を撤回できないだろう」と考えるのにそんな極端な前提が必要だと思った?
「仮に知事判断で警察の処分を撤回できたらこういう困ったことになりますね?でもそういうことが起きてる様子はないですね?警察の中立性を守るという基本原則とも合わないですね?」という推定を積み上げていくのに、そこまで極端な前提はいらないだろ?
確信度が100%じゃなくても「知事が政治判断で処分を撤回すべきだった」という主張を書いたり、それに賛同したりする前に立ち止まるには十分だろ?
お前がろくに考え慣れしてないというか、これまでの人生で自分の頭を使わない言い訳を並べて逃げ続けていた人間なのが透けて見えるよ
やっぱ理解できてないんだな
「ちょっと考えたら分かるでしょ?ほら、こうやって考えるんですよ」というお手本まで見せられてるのに
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🌸 季節・天候・生活感
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🧾 1週間分の総括
そこに食事・娯楽・軽口が重なり、重さと軽さが共存する会話構造になっている。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
インターネット社会の自由を守る議論には、驚くほど多くの自己放尿が含まれている。
ここでいう自己放尿とは、自由を守るつもりで行動しながら、実際には自分の自由を自ら縮小させる愚かな行動を指す。
インターネット政策の多くはまさに制度設計における自己放尿の場になっている。
社会制度の評価は意図ではなくインセンティブ構造で判断すべきである。
価格システムが情報を伝達し行動を調整するという基本原理がある以上、自由な社会は中央の善意によってではなく、分散的な意思決定の結果として成立する。
ところがインターネット政策の議論では、この価格理論的直観がしばしば忘れられる。その結果、自由を守ると言いながら制度的自己放尿が頻発する。
多くの政府は「偽情報対策」「安全なインターネット」「プラットフォーム責任」という旗を掲げて規制を拡大する。
しかしこれは典型的な知識問題の無視である。中央の規制当局が「何が有害情報か」を決める時点で、分散した情報を持つ社会の判断メカニズムを破壊する。
結果として起きるのは次の連鎖だ。
3. 利用者は萎縮
つまり自由を守るつもりで情報市場を自分で破壊する自己放尿になる。
自由社会は過度に政府に依存してはならない。政府権力は常にルールで拘束されるべきであり、裁量は最小化されるべきである。
多くの政策論者はこう言う。「巨大IT企業が強すぎる。だから政府が規制すべきだ。」
しかし価格理論的視点では、ここで重要なのは市場競争の動学である。巨大プラットフォームが存在する理由は、多くの場合ネットワーク効果と規模の経済にある。
結果として社会は「独占批判と規制強化のダブル放尿」という制度設計に到達する。
これは一見合理的に見えるが合理的無知の概念を思い出す必要がある。
社会の多くの参加者は、政治的発言のコストと利益を計算して行動する。匿名性はそのコストを下げる制度である。
これは自由社会の最も重要なメカニズム、すなわち分散的監視システムを自ら破壊する自己放尿である。
インターネット社会の自由を脅かす最大の要因は、国家でも企業でもない。
自由社会の歴史は、外敵との戦いよりもむしろ内部の自己放尿との戦いであった。
したがってインターネット社会の自由を守る最も重要な政策は一つしかない。
「余計なことをしない」
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1週間分の総括
この週のチャットは、日常雑談を中心に「健康・社会・趣味」がバランスよく混ざる典型的なコミュニティ会話だった。
健康面では咳やインフルエンザ、家族の入院などリアルな体調の話題が多く、互いにアドバイスや体験を共有する流れが目立った。
一方で、ゲーム・アニメ・麻雀といったサブカル話題や、ビリヤニなど食べ物の話がコミュニティの潤滑剤となっており、軽い雑談とやや重い社会議論が同居する空気が形成されている。
また、経済・税制・宗教問題・企業動向などの話題も散発的に登場し、参加者の関心が生活実感から社会構造まで広く及んでいることが特徴的だった。全体としては、日常の小ネタをベースに、健康・社会・趣味を行き来するゆるい知的雑談の1週間であった。
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それは「人間が未熟だから、ルールやシステムで行動を矯正する必要があるのではないか」という考えである。
しかしまさにその発想こそが自由社会の仕組みを誤解している可能性が高い。
むしろ人間が未熟で、感情的で、時には愚かな行動をする存在だからこそ、中央から道徳や行動を管理する仕組みではなく、分散的な自由な制度が必要になると考える。
つまり「人間が未熟だから統制が必要だ」というのではなく、「人間が未熟だからこそ統制に権力を集中させてはいけない」という方向になる。
多くの人が感情に流されて叩きに参加する現象は確かに存在する。しかしそれは自由社会の欠陥ではなく、むしろ自由社会の通常の副作用に近い。
自由とは、人々が賢明な発言をする自由だけではなく、愚かな発言をする自由も含むからである。
もし「恥ずかしい行動をする人がいるから」という理由でシステム的統制を強めるなら、そのシステムを誰が設計し、誰が運用し、どの価値観で言論を制限するのかという問題が必ず生じる。
そしてその権力はしばしば、個人の自由を守るためではなく抑圧するために使われる可能性がある。
市場や社会制度には、中央の命令ではなく自発的な相互作用によって秩序が形成される側面がある。
価格が情報を伝達し人々の行動を調整するのと同様に、社会的評価や reputational cost もまた行動を調整する仕組みとして働く。
つまり炎上、批判、名誉毀損の訴訟、アカウント停止、社会的信用の低下などの結果を通じて、人々は学習していく。価格が資源配分を調整するように、社会的反応が行動を調整するのである。
この観点から見ると、「人間が育たないならルールを増やすしかない」という発想は、社会が自発的に学習し調整していく能力を過小評価している可能性がある。
自由社会では、人々の行動がすぐに改善されるとは限らない。しかし、長期的には試行錯誤と経験によって行動様式が変化する余地が残されている。その余地こそが自由の価値である。
SNSでの炎上や愚かな言動は確かに不快かもしれない。しかしそれを理由にルールや統制を強化するなら、その統制が誰の自由を奪うのかという問題が必ず生じる。
自由社会の本質は、人々が必ずしも賢く振る舞わないことを前提に、それでもなお個人の選択の自由を守る制度を維持することにある。
社会制度を観察するとき、最も興味深いのは「善意の制度がどれほど愚かな結果を生むか」という問題である。
ここでいう自己放尿とは制度が人間を合理的に振る舞えない状況に置き、結果として自分自身に不利益な愚かな行動を自発的に繰り返してしまう状態を意味する。
計画経済とは、まさにそのような制度化された自己放尿の体系である。
価格は単なる数字ではない。価格は社会に分散した知識を伝達する情報装置である。
価格があることで、人々は他人の知識を利用しながら合理的な選択を行える。
ところが中央計画はこの装置を停止させる。結果として、社会は巨大な情報遮断の場になる。
そして人々はどうするか。
彼らは合理的に振る舞おうとする。しかし制度が愚かなので、合理的な努力が自己放尿的行動に変換される。
これは制度分析の核心である。問題は人間の愚かさではなく、愚かな制度が合理的な人間を自己放尿させる点にある。
例えば、計画経済では価格が政治的に決められる。すると資源の希少性が社会に伝わらない。
企業は利益シグナルを失い、生産は需要と切り離される。店には物がなく、倉庫には売れない製品が山積みになる。
ここで登場するのが典型的な計画経済の現象、生産計画と現実のダブル放尿である。
官僚は統計上の成功を報告する。企業は計画達成を報告する。しかし消費者は何も手に入らない。
これは嘘ではない。全員が合理的に行動した結果である。つまり、制度が社会全体に自己放尿のインセンティブを与えているのである。
さらに興味深いのは、自己放尿が連鎖する点だ。間違ったインセンティブ構造は行動を体系的に歪める。
官僚は責任回避のため計画を過大に設定する。企業は罰を避けるため数字を操作する。労働者は努力しても意味がないので手を抜く。
こうして社会は新しい均衡に到達する。それは自己放尿均衡である。誰も満足していないが、制度が変わらない限り合理的に行動すると全員が自己放尿する。
このような社会病理の原因が道徳ではなく制度であるという点だ。
もし制度が市場価格という情報装置を認めれば、人々は突然賢くなる必要はない。普通の人間が普通に行動するだけで、社会は自己放尿から脱出できる。
しかし中央計画の世界では違う。そこでは善意の官僚、勤勉な労働者、真面目な市民がすべてそろっていても、制度が一つの結論へ導く。
つまり社会全体が合理的に行動した結果として、集団的自己放尿が生まれるのである。
自由市場とは、完璧な制度ではない。だが少なくとも一つの重要な機能を持つ。それは社会を恒常的な自己放尿状態から救い出すことである。
人生を「ゲームの設計」で考えると、いくつかのレイヤーが重なっているという見方ができる。
下(変えられない性質)の層ほど強い制約になり、上(個人の制約)の層ほど変えやすいと考えられる。下は「どんなゲームがそもそも作れるのか」を縛り、上は「具体的にどんなゲームになるのか」を決める。
人は報酬に反応し、他人の評価を気にし、協力と競争を同時に抱えている。地位争いや集団への帰属、公平感覚といったものも、この層に近い。
ランキングや名誉、承認がやたら効くのはそのせいで、いわばゲームの基本UIみたいな部分がここで決まっている。
同じ人間でも、どれくらい競争を重視するか、個人と集団のどちらを大事にするか、成功をどう捉えるかは文化によってかなり違う。
アメリカなら上昇や成功のゲーム、日本なら役割や調和のゲーム、ヨーロッパなら市民社会のゲーム、という差が出るかもしれない。文化は長い時間をかけて出来上がった「プレイスタイル」に近い。
ゲームのルールセットそのものだ。資本主義なら市場競争のゲームになり、社会主義なら分配のゲームになり、民主主義なら投票のゲームになる。勝ち方や得点の仕方、罰則の仕組みがここで決まる。
ただし制度は、誰かが一から設計したというより、長い社会のプレイの中で少しずつ最適化されてきたルールに近い。
家庭や教育、資産、人脈といったものは、ゲームで言えば初期ステータスやチュートリアルの違いにあたる。ここでスタート地点の差が生まれる。
生物学は何万年も変わらない基本仕様で、文化は何百年、制度は数十年単位で動き、個人環境は一世代ごとに変わる。短期で見れば制度や環境がいちばん効いているように見えるけど、長い時間で見ると文化や人間の性質がじわじわ効いてくる。
今、かなり速いスピードで変わっているのは、このどの層でもなく「ゲームのインターフェース」部分だと思う。
スマートフォンやSNS、AI、アルゴリズムが、承認や評価、競争の仕組みを直接いじるようになっている。制度を変えるより速い速度で、人の行動を変えてしまう。
まず前提として、企業が前科のある人を再び雇うかどうかを判断する際に、被害者へ「許すかどうか」を直接確認する手紙を送るというような手続きは、通常ほとんど考えにくい。
企業が判断するのは基本的に法的責任や社会的リスクであって、被害者に「許可」を求めるような形で責任を委ねるのはむしろ不適切だからだ。
仮に被害者の意向を確認する必要がある場合でも、通常は弁護士などの専門家を通じて慎重に配慮された形で行われる。
あなたが想定しているような、「YESかNOかで加害者の人生が決まる」ような直接的な圧力を被害者にかける手続きは、倫理的にもリスク管理的にも現実的ではない。
また、「被害者が反対したら加害者が仕事を失い、その結果無敵の人になって襲われるかもしれない」という発想も、かなり飛躍している。
加害者の将来や生活の責任は、基本的に本人と社会制度の問題であって、被害者が背負うべきものではない。
被害者が「許さない」と感じることは自然な感情であり、その判断が誰かの人生を左右する責任だと考える必要もない。
むしろ、被害者の心身への配慮という観点から見れば、加害者の再起の議論に被害者を直接巻き込まない形で進めることの方が重要だろう。
加害者の更生や社会復帰の問題は、司法制度や社会全体で考えるべきことであって、
「被害者が許すかどうか」という個人的な判断に背負わせるようなものではない。
何か失敗した人を見ると、すぐ「自己責任」と言う人がいる。クソボケである。この言葉、便利すぎる。なぜなら考えなくて済むからだ。馬鹿は脳みそを使わないから馬鹿なんだよな。
本当は「なぜそうなったのか」「同じことは他の人にも起きるのか」「仕組みに問題はないのか」を考えないといけない。でも自己責任と言った瞬間、全部終わる。原因も背景も消えて、話が片付いた気になれる。無責任なのはお前だカス。
頭がおかしいのは、全く同じことを同じプロセスでやっても結果で評価が変わるところだ。成功すれば「挑戦した勇気」、失敗すれば「無謀な判断」。やったことが同じでも、結果次第で人格まで書き換えられる。お前らは運という言葉を知らないのか無知が。
つまり自己責任論は正論ではなく、後知恵だ。馬鹿がそれっぽく自分は分かってます感を出して言っているが中身は空っぽのバカだ。
それでもこの考え方が好まれるのは安心できるからだ。「失敗したのはあの人の問題」と思えば、自分は安全側にいる気がする。世界が運や偶然に左右されると認めるより、そのほうが楽だから。馬鹿は複雑なことを考えられない。
でも本当に全部が自己責任なら、社会制度はいらないはずだ。保険も福祉も教育も、「各自どうぞ」で終わる。でも現実には誰もそんな社会を望んでいない。つーか親に甘えて育ってた時点で自己責任はどうしたという話だよ、生まれた時点で自己責任じゃないのか?オムツ自分で変えたんだろうな、うんこした責任とれよ。
結局、みんな知っている。知らんふりしてるだけ。人生が自己責任だけで説明できないことを知らんふりしてるかクソバカ。
自己責任論の異常さは冷酷さじゃない。複雑な問題を、理解した気分だけで終わらせてしまう、その手軽さにある。クソバカは永遠にそれに気付かずクソバカなんだろうな。死ね。
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https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
でも時間が経つとどうなるか。
在来種が減る。
生態系が変わる。
池のバランスが壊れる。
そして最後に言われる。
もちろん魚の話じゃない。社会の話だ。
でも不思議なことに、
日本はよくこう言われる。
「多様性」
「共生社会」
「国際化」
便利な言葉だ。
便利すぎて、**議論が一瞬で終わる
たとえばこんな感じ。
なるほど。
つまり、
これはなかなかすごい社会だと思う。
でも日本では静かだ。異様なくらい静か。
池の話に戻る。
ある日突然変わるわけじゃない。
10年
20年
30年
政治家は言う。
企業は言う。
メディアは言う。
「多様性です」
でも不思議なことがある。
この政策を決めた覚えが
そして気づくのはだいたい最後だ。
あれ?日本ってこんな国だったっけ?
一度生態系が変わると、戻らない。
もしこの話が杞憂なら、それでいい。でも少なくとも
これくらいの議論はあってもいいと思う。
それだけだった。
AIやロボティクスが進めば、自動的に社会制度までひっくり返る、というわけではない。ただ、いまの資本主義が前提にしてきた「労働と価値の結びつき」は確実に変化していくだろう。
労働の必要性が下がり、生存はベーシックインカムで保証され、人は必ずしも働かなくてもいい、という未来像は、マルクスが描いた最終段階の社会に似ている。
生産力が極限まで発展し、必要最小限だけ働けばよい世界。AIがその生産力の爆発を現実味のあるものにしているから、「共産主義っぽい」とも見える。
でもAIはあくまで生産手段であって、制度そのものではない。問題は、それを誰が所有し、利益をどう分配するか。
巨大テック企業がAIを握り、労働の価値が下がり、富がさらに集中する未来も十分あり得る。いわば「テック封建制」で、これは共産主義とは真逆。
AIで生まれた収益に課税し、再分配を強化し、ベーシックインカムを広げる方向もある。これは福祉国家のアップデート版に近い。
AIインフラやデータを公共財として扱うモデルまで進めば、ようやく共産主義的な要素が濃くなる。でもそこまで行くかどうかは、技術の帰結ではなく、政治の選択だ。
資本主義は「労働して賃金を得て、それを消費する」という循環で回ってきたが、AIが知的労働や創造的領域まで代替し始めると、「人間が働くこと=価値を生むこと」という前提が弱くなる。
歴史的には、蒸気機関も電力もITも、資本主義を壊すどころか強化してきた。資本主義はかなり柔軟で、技術を飲み込みながら姿を変えてきた。AIも「資本主義2.0」に吸収される可能性は高い。
現実的な未来像は、全面的な共産主義でも、完全な自由放任でもない。
一部の職種が消え、高度スキル層に富が集中し、社会不安が増し、その圧力のなかで最低所得保障や再分配が少しずつ強まる。つまり、より強い再分配を組み込んだ資本主義に近づく、という線がいちばんありそう。
前からここで主張しているけど、自民党は中道左派だと認めるべき
特に経済政策は世界的にもかなり左派的で、自民党以上に左派的な経済政策をアピールするのは現実的じゃないと思う
ついでに、日本維新の会はヨーロッパでいうリベラル政党だと認めるべき
日本で使われるリベラルは定義がかなり曖昧でほぼほぼ反自民みたいにしか思えないから、その定義だと維新がリベラルなわけねーだろって言うんだろうけど、ヨーロッパのリベラルと日本維新の会はかなり近い
近いというか強く意識していると思う
ヨーロッパのリベラルは日本のリベラル像とかなり違うのもあって認めにくいと思うけど
じゃあアメリカのリベラルと日本のリベラル像が近いかっていうと、これも遠い
自民党の経済政策はアメリカ基準なら民主党よりずっとリベラルだし
(ニューヨークと東京の予算を比べたのがバズってたけど、東京はニューヨークの半分の予算でよりリベラルを実現できている現実を認めるべきでしょう)
で、自民党にも維新にもないリベラルの余地は社会制度くらいしか残されていない
リベラルとしてアピールするなら夫婦別姓と同性婚くらいで、9条とか安保法制とか世界ではリベラルかどうかは無関係な議題
日本のリベラル自認が主張する安全保障は世界のリベラルとは正反対まである
(国が個人の自由の後ろ盾にならなきゃいけないのに自衛権を制限する方向はリベラリズムとは逆)