はてなキーワード: タッチとは
性的指向のカミングアウトがやたら重要視される文化もここから来ている。
“何に対して欲望するか”がアイデンティティとして扱われているわけだ。
欧米、特に米国の一般市民は上記の認識でガチガチに固まっている。
「私はロリコンだけどまともな人格です」という言説は受け入れられないわけ。
彼らは「ロリコンであるならば、人格が破綻していなければおかしい」という認識を持っているの。
だから「性犯罪者の更生」という概念も、建前上の制度としてはあるが、本音では信じられていない。
私はクレカマニアではないし、何か特定のカードを売り込みたいとか、全く思っていない。
みんながどういう理由でクレカを選んでいるかを知りたいので、まずは自分のを説明してみようと思ったのだ。
JAL JGCとANA SFCというステータスがあり、かつ、家族で結構国内旅行いくので、マイルたまるのが重要。
あと、航空会社のラウンジを使うと妻がむちゃくちゃ喜ぶのでこれも重要。自分が出張行くときもラウンジは待ち時間便利。私と妻と子供がラウンジ入れるようにする。
今使っている、JALとANAのカードは、いずれも10日引き落としだった。だから、すべての引き落としを10日で統一したい。
理由は、この日で統一されていないと、口座への入金を忘れたりするからだ。
仕事上、多い時で月に200万円とか決済されたことがあるので、引き落とし日が決まっていることは重要。
この理由で、引き落とし日が10日ではないAmazonクレカをあきらめている(一度作ったが解約した)。
年会費17600円。
JALのマイルをためてラウンジを使うカード。裏側はDC Cardと東急カード。
なぜマスターかというと、入会時にキャンペーンでポイントもらえたから、VISAじゃなくてマスターにした。こだわりはない。
東急カード系なのは、マイルとは別に東急ポイントが勝手にたまり、数年に一度セブン銀行のATMで数千円分のPASMOチャージができるという二重取りだから。
しかし、この東急ポイント二重取りが昨年末で終わってしまったので、別なJALカードに乗り換えてもいいと思っている。いいものがあれば教えて。
また、DC Cardは昨年末のシステム統合までは、張りぼてみたいなシステムで、決済時のスマホ通知もないというがらくただった。
新しくなって、通知とかできるようになったのだろうか。
あと、このカードはGoogleウォレットのスマホタッチ決済に対応していないのがだめ。やっぱり乗り換えたい。
年会費16500円
ANAのマイルをためてラウンジを使うカード。ブランドはJCB。
なぜJCBかというと、使う金額が多いと、翌年追加15%分(だったとおもう)のマイルをもらえるから。
JCBのシステムは優れているので、とてもいいと思う。Androidタッチ決済にも対応。決済したらすぐメールも来る。
ちなみに、ANAのマイルが足りなくなってきたら、ANAカードを優先的に使い、JALマイルが足りなくなってきたら、JALカードを優先的に使うようにしている。
どちらのカードに寄せない理由は、特典航空券でJALでしか行けない場所、ANAでしか行けない場所があること。そして、特典航空券で「ANAは空いてないがJALは空いている(またはその逆)」が結構あること。
こないだ作ったカード。マイルたまるカードがメインで、こちらはサブ。これを選んだ理由は下記。
(1)最近JALやANAの同伴者のラウンジ利用が厳しくなっているので、バックアップとして持ちたい。このカードは国内空港のラウンジ利用箇所が結構ある。同伴者のラウンジ利用は妻の満足度に大きな影響を与えるので重要。
(2)ahamoユーザーだが、このカードで決済すると、毎月30GBに追加で5GBおまけでもらえる。とはいえ、毎月の30GBを使い切ることはめったにないのだが。
(3)決済日が10日。この条件がゆえに多くのカードを外さざるを得なかった。
(4)先日、海外で仕事の決済が多くて、JALカードMasterの限度額に到達したところで、JCBが使えないのに遭遇して、やはりVISAも一枚ないと困ると思った。
まだ使い始めたばかりなので、どんなものか様子見。
VRChatを2年くらいやってる。多様なゲームワールドで遊んだり、有志が開く音楽イベントとか演劇とかを楽しんだりしている。ボドゲも釣りもアクションもFPSもできるし、イベントの類は全部無料。もちろんフレンドと話すのも楽しい。現実ではないもうひとつの社会を毎日謳歌している。
そうして健全にVRChatを楽しんできた人間が、なんでかVR上でセックスをするようになった。
個人的に興味深いテーマなのだが、誰にも言えないのでこっそりとここに記しておく。
VRChatでの性行為(Justなどと呼ばれる)は、端的に言ってしまえば相互オナニーに過ぎない。相手と接触があるわけでもなく、気持ち良くなれるかはお互いの想像力にかかっている。それなら1人でマスかくか現実で誰かとする方が気楽ではあるが、また違う良さがあるのも事実だ。
Justでは動きと言葉が要になる。突然脱ぐとかベロチューするとかではなく、相手の肌や顔、服の上でまずはゆっくり手を滑らせる。早く動きすぎると相手がVR酔いを起こしかねないし、まずリラックスさせるのが先決だ。
触覚はどうしても与えられないので、言葉や音のギミックで補完する。相手の胸に手を当てて「どきどきしてる?」とか言ってみたり、ゆっくり抱きしめたら心音が聞こえるギミックを入れたり。
触覚の補完以外に、頭や顔を撫でて「かわいいね」「好きだよ」と優しく話しかけるのも効果的だ。
人間の脳ときたらチョロいので、こうやって視覚と聴覚を責められるとすぐ認識がバグる。触れられているような、人肌が温かいような気がしてくる。やっている方も相手に集中するので、本当に相手が愛おしくてたまらなくなったりする。
ちなみに、嘘こけwwwと積極的に冷笑する人間ほど、歴戦の猛者に出会うとコロッと陥落させられていることが多い。
さていざ本番となっても、局部を弄るのは自分の手だ。ある程度相手のリズムに合わせつつ、あとは自分の良いように手を動かす。相手が気持ちよくなっているところを見て自分も気持ちよくなり、お互いに高め合って果てることができるわけだ。
現実だとガシマンやらガン突きから逃れる術がないので、下手なプレイは自分の肉体で受けざるを得ない。が、VRならノーダメージだ。激しい責めを受けつつ自分の方はソフトタッチで終わることもできる。
バーチャルセックスは性行為における「コミュニケーション」の部分だけをいいとこ取りしている、とも見ることができる。
互いに性感染症の心配もなく、傷つきもせず愛し合えるのだ。だからか、深みにハマる者は多い。
冒頭のようなキラキラ明るい界隈がVRChatの表側なら、性愛のいろいろは裏側に当たる。
本来VRChatでは、NSFWコンテンツを公の場で出してはならない。スケベな自撮りも性行為も恋人探しも、往来ではなくマッチングの場などを経て、自分と特定フレンドしか入れない場所でひっそり行われる。みんな、VRでまで恋人(お砂糖と呼ばれる)を作ったりセックスの真似事をしてみたりする。
日本のVRChatコミュニティに関してはこういうセンシティブな部分が取り上げられやすい。自分としてはロールプレイイベントや演劇、ライブイベントなどにバズってほしい。
それでも先日不思議な縁でお砂糖ができ、"センシティブな部分"そのものを体験して、なるほどこれも悪くないな、と感じた。
要は現実と変わらないのだ。みんな人肌恋しい。みんなエロいことがしたい。相手を慈しみ、可愛がり、腕の中に閉じ込めたい。傷つく肉体がない分奔放になりすぎるだけなのだと思う。
興味が出たらデスクトップからでも、スマホからでも始めてみると良い。
沼の底で君を待ってるよ。
施設の方たちもお客さんも、きっと全員がココアを傷付けることなく、大切にしたかったはずなのにね。
愛し愛されて、次の世代に繋がるようにしていくはずだったのに、こんな悲しいことになってしまったね。
言葉の通じる人間同士ですら仕事や組織の目標に組み込まれて、責任感に潰されて病気になったり、怪我をしたりするんだよ。
あなたは、種の保存や繁殖実績というすごく高い目標の中に組み込まれていたんだね。
拒否権もなく、言葉も通じないまま、知らない場所に連れてこられたね。
室内展示から、外展示に来て、初めて本物の生きてる海と、雨と、風を感じたね。池に葉っぱも落ちてきたね。
他の生き物の声が聞こえたね。お父さん以外の雄のアザラシが隣にいたね。
寂しくないようにか、お姉さんのモモちゃんも一緒に池に来て、過ごしたね。お客さんとの距離も少し離れて、アクリル越しじゃなくなったね。
ココアちゃん、生きていたら、あなたにはもっともっと楽しいことや発見があったはずだね。
自分は施設にお金払って、生き物の写真を撮ってるただの来場者だけど、己の無知をこれほど恨んだ事はないよ。
お引越ししてからずっと苦しかったのかな、わたしが元気と思いたかっただけなのかな、とあなたの顔を思い出すだけで涙が出てくるよ。
あの時、かわいい、かわいい、と思うことしか出来なかった自分に腹が立って仕方ないよ。ごめんなさい。
わたしは経験豊富なプロの飼育員でもなければ、水族館や保護施設を作れるほどの大金持ちでもない、ただの人間だよ。でもね。
少しでも自分が変われたら良いなと思ってあなた達のことについて勉強することにしたよ。
勉強から逃げ続けて来たような人生なのに、独学でなんて今更無駄だと思うかもしれないね。
生物に関わる仕事をしているわけでも志してるわけでもないのに、何の意味があるの?って思うかもしれないね。
でもやらなきゃいけないんだよ。
だってココちゃんに抱き締められて浮かんだり、オガくんやワカちゃんと一緒に泳ぐココアはもういないから。
お口の中にもゴマ模様があるよって飼育員さんに見せてくれたココアはもういないから。
アクリルへの吻タッチをこっそりサボって、お魚をもらえずもう一回やらされるココアはもういないから。
カブトくんと柵の間に顔を埋めてお互いを観察するココアはもういないから。
失敗から何かを学ぼうとしても、生き物が関わると一つの失敗でもう何もかもの取り返しがつかないことが多いね。それが一番しんどいよ。
いつかわたしが向こうへ行ったら勉強したこと聞いてね。だいすきだよ。
エキナカ自販機限定ドリンク目当てに改札タッチしてドリンクだけ買って出るのは法的にあり?
dorawiiより
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現在のパートナーとは約三年一緒に居り、平均週一くらいの頻度でセックスしているのだが、
今回のセックスは最後まで気分が乗らず、あまり濡れないし痛みも伴い★☆☆☆☆だったな、とか、今回のセックスはオーガズムに達してはいないものの満足度が高く★★★★☆だな、とかセックスの質にばらつきがある。
しかし、欲を言うと毎回★★★☆☆くらいのクオリティを維持したセックスがしたい。
低クオリティセックスはフィニッシュ後に少しセックスがトラウマになり、しばらくセックスへの意欲が低下するためである。
そこで個人的にクオリティの高かったセックスを振り返ったり、必要条件と思われる条件を挙げていくことにする
服の上から乳首を優しく30分ほどマッサージされ、満を辞して下の愛撫にうつり、しっかりと手マンされた後に挿入されたセックスである。
個人的に長時間微弱な刺激を与えられたことによる「焦らし」が効いたのではないかと推測する。
騎乗位で挿入時ポルチオを突かれオーガズムに達することができた。
普段はお互いの家でセックスをしているが、旅行先でふと目に留まったラブホテルで何回か致したことがある。
セックス専用空間という非日常感が効いたのか特に前戯をしなくても充分に性器が潤っており、入室後即挿入が可能であるほどスムーズで、特に普段と変わらないピストンであっても速やかにオーガズムに至ることができた。
パートナーとは普段あまりキスをしないが、この日は性器への刺激そっちのけで舌を絡ませるキスに時間をかけたところ、手マン無しでも痛みなく挿入が可能だった
いわゆる種付プレスの体勢で挿入時もキスを続けたがオーガズムには至らぬものの精神的充足感が強く、ハイクオリティセックスになったと考えている。
④セックスするつもりはなかったが寝起きにボディタッチをしていたところ盛り上がり挿入に至ったセックス
セックスする予定ではなかったが自然とボディータッチで互いに気分が高まっていき満を辞して挿入となったセックスである。騎乗位での挿入となったが硬い性器がぼこぼこっと膣内を押し進んでいく感覚が楽しめ、オーガズムにも達することができた。
まず①体が清潔なこと ②行為中の崩れた顔が見られない程度の薄暗い空間 ③パートナーの射精のタイミングである。
特に自分にとって①は重要であるらしく、清潔な状態でないとパートナーに不快な思いをさせるのではないかと考えてしまい、性器が濡れない。
ちなみにオーガズムとセックスの満足度はあまり相互関係がなく、
一度はオーガズムに達したものの、イッてから③の期間が長く、性器が乾いた事例もあるし、
オーガズムには達していないものの終始性器がびしょ濡れで満足したセックスも幾度もある。
今後の展望
自分は非日常的な空間という特殊なシチュエーションや、挿入までの焦らしを時間を好む傾向があることが分かった。
その傾向を踏まえ、車内でディープキスを続けて満を辞して挿入するカーセックスや、秘宝館デートでじっくりムラついた後にラブホテルに直行し入室後即挿入ガンガンピストンなどのシチュエーションでは非常に満足度の高いセックスが望めるのではないかと感じた次第だ。
しかし今のご時世、カーセックスはなかなか難しいものがあるし、毎回性交渉を★★★☆☆のクオリティで維持していきたいという主旨からもズレてしまった。反省している。
中学高校のころ、サンデー連載と単行本をリアルタイムで読んだ。そのころだって、比呂や英雄になれないことくらいわかっていた。木根や、野田だって、とんでもない天才たちだ。
自分も大人になれば、脇役の柳や佐川、島や大竹、そして古賀監督みたいな、なにか一芸で主人公たちから一目置かれるような人にはなれるのではないかとどこかで思っていた。
全然そんなことなかったよ。自分なりに仕事も家庭も頑張ってると思ってるけど、一芸どころか周りについていくのが精一杯。
あいつら、漫画になってないところで、どんだけ努力してるんだろうな。
そんなことを思って読んだけど、やっぱり面白い。
野球というスポーツをここまでハイコンテキストに伝えることができた時代の共通性。
選手も審判も描かずに、ファーストミットにボールが収まるだけで、アウトと表現するのは、今読んでも美しい。
ファーストミットが独特の形をしているのは、この漫画のためかと思った。
自分は、この漫画の連載中に主人公たちの年を追い越し、最終話を読んだのは大学生の頃だったと思う。
そうして、大人になるにつれ、柳や佐川どころか、島や大竹にもなれなかったことに気がつき、身近には比呂や英雄はもちろん、野田や木根もいなかったことにも気がついた。
でも、この漫画をリアルタイムで読めたのは幸せの1つだと思った。
「タッチ」のあとの「MIX」みたいに、何十年後の続編、読みたいな。
千川高校の30年後、柳校長、野田監督、佐川が千川の教師で野球部の顧問だったり。
木根の子どもは男の子だろうか、女の子だろうか。どっちにしても、綺麗な髪の毛なんだろうな。
水着の絵もいいけど、野球の守備のシーンが、かっこいいんだよな。
明和一の監督が、「バカやろ。おまえらだけに17歳があるのならうらやましいかもしれんが、俺にもあったんだぜ、17歳は。」と英雄にいうセリフがあった。
「プロレスでタッグを組むなら、アントニオ猪木か?それともダイアン津田か?」について議論して。
A:……あの、今回はさすがに怒りますよ。高市さんの時はまだ「言葉」という共通言語がありました。でも今回はプロレスです。アントニオ猪木ですよ? 死線を幾度も超えてきた「世界のプロレス」の象徴と、ダイアン津田を並べるなんて、猪木さんにビンタされるだけじゃ済みませんよ。
B: まあ、落ち着いてください。もちろん、純粋な戦力で言えば猪木さんでしょう。でも、考えてみてください。猪木さんとタッグを組むということは、対戦相手だけじゃなく、「隣にいるパートナー」とも戦わなきゃいけないということなんです。あなたはリング上で、猪木さんのあの眼光に耐えられますか?
A: 耐えるに決まっているでしょう。それがレスラーの矜持です。猪木さんと組むということは、彼の「風」を感じ、彼の「怒り」を共有するということ。たとえ試合中に猪木さんから鉄拳制裁を食らったとしても、それは「闘魂の注入」であり、レスラーとしての格を一段引き上げてくれる儀式ですよ。津田さんと組んで、何が得られますか?
B: 「生き延びる喜び」ですよ。猪木さんと組んだら、下手したら試合後に命を削られています。でも津田さんはどうですか。彼がリングに上がって、対戦相手の巨漢レスラーに詰め寄られた時のあの「怯え」。そして放たれる渾身の「ゴイゴイスー!」。その瞬間、殺伐としたリングに一筋の光が差す。観客は「津田、頑張れ!」と一つになる。この一体感は、猪木さんの殺気では作れません。
A: プロレスは「頑張れ」でやるもんじゃない、「殺す気で来い」でやるもんです。猪木さんのタッグは、常に緊張感の連続です。タッチ一つとっても、そこには哲学がある。津田さんのタッチなんて、ただの「助けてくれ」という悲鳴でしょう。そんな情けない背中を見て、誰が熱狂するんですか。
B: 現代のプロレスファンは、強さだけを求めているわけじゃないんです。弱者が強者に立ち向かう「不憫さ」にこそ、自分の人生を投影する。津田さんがジャーマンスープレックスで投げられそうになっている時、パートナーのあなたが助けに入る。その時の「待ってました!」という大歓声。猪木さんが強すぎて一人で解決してしまう試合より、よっぽどタッグマッチとしてのドラマが成立していると思いませんか?
A: それは「介護」であって「タッグ」じゃない。猪木さんと組めば、自分の限界以上の力が引き出される。猪木さんの「出る前に負けること考えるバカがいるかよ!」という一喝。あれを隣で聞けるだけで、アドレナリンが沸騰する。津田さんの隣で聞こえるのは「もう無理や」「帰りたい」「岸大介呼んでくれ」……そんな言葉で、あなたの闘争心は燃えますか?
B: 逆に燃えますよ。「俺がこの男を守らなきゃいけない」という、一種の父性本能が爆発する(笑)。それに、猪木さんと組むと、どうしても「猪木の引き立て役」で終わってしまう。でも津田さんと組めば、スポットライトは二人に均等に当たる。津田さんがボコボコにされている間に、自分が逆転のチャンスを伺う。戦略的にも、津田さんは「最高のデコイ(身代わり)」なんです。
A: 猪木さんを「引き立て役」にするくらいの気概がなければ、そもそもタッグを組む資格がないんです。猪木さんは常に、パートナーにも「いつ俺の首を獲りに来るんだ?」という視線を向けている。その緊張感の中で、お互いの魂をぶつけ合うのがプロレスの至高の形です。津田さんにあるのは、魂じゃなく「脂」でしょう。
B: 脂の何が悪いんですか! あの必死の形相、あのテカテカした肌、あれこそが「生」の証明です。猪木さんが「道」を説くなら、津田さんは「迷い」を体現している。今の時代、どっちが切実かと言えば、僕は津田さんの迷いの方だと思う。
A: 迷っている間に3カウント取られますよ。……ただ、少しだけ認めましょう。猪木さんと組むのは、精神的なコストが異常に高い。試合が終わった後、精神がボロボロになっているのは確実だ。
B: そうでしょう? 一方で津田さんは、試合が終われば「お疲れ様でしたー!」って、すぐにいつもの楽屋のノリに戻れる。この「切り替えの良さ」も、巡業を続けるプロレスラーには大事な資質じゃないですか。
A: 巡業……。確かに、毎日猪木さんと一緒に移動するのは、地獄以外の何物でもないかもしれない。……いいでしょう。では、第2ラウンドでは、リング上での「演出」と「リアリズム」について。猪木さんの「環八理論」と、津田さんの「バラエティの掟」が、リング上でどう衝突するかを突き詰めましょう。
(続き)
A: 先ほど「移動が地獄」なんて軟弱なことを言いましたが、やはり撤回します。プロレスのリングは、日常を忘れるための場所なんです。そこに津田さんのような「日常の象徴」を持ち込むのは、ファンへの裏切りですよ。猪木さんはリングに上がる時、自分の人生、思想、そして「怒り」の全てを乗せてくる。あの殺気こそが、チケット代に見合う価値なんです。
B: でも、今のプロレス界には「多幸感」も必要なんです。猪木さんのプロレスは、観る側に「覚悟」を強いる。それは時に苦しい。対して津田さんのリングはどうですか。彼がロープに振られて、戻ってくるときに盛大に転ぶ。それだけで会場は爆笑と歓声に包まれる。猪木さんが作った「環状八号線の外側まで届く殺気」も凄いですが、津田さんが作る「隣の家まで届く笑い声」だって、一つの立派な興行ですよ。
A: 笑い声でチャンピオンベルトが巻けますか? 猪木さんと組めば、世界中の強豪と渡り合える。「イノキ・アリ状態」のような、ヒリヒリするような真剣勝負の地平が見える。津田さんと組んで、一体誰と戦うんですか。彼にラリアットを一発食らわせたら、そのまま引退会見ですよ。
B: 誰と戦うか……。それは「人生の不条理」ですよ。自分よりデカい相手、理不尽な状況。それに翻弄される津田さんを、パートナーのあなたが「これぞプロレスだ!」と鼓舞しながら、奇跡の逆転勝ちを収める。これはもう、ロッキー・バルボアを超える感動のドラマです。猪木さんのタッグは「勝って当たり前」の強者の論理ですが、津田さんとのタッグは「負けからの再生」という弱者の論理なんです。
A: 再生、ね……。確かに、猪木さんはあまりに巨大すぎて、パートナーの存在が消えてしまう。猪木さんの隣にいると、観客は猪木しか見ていない。でも、津田さんと組めば、観客は「隣で困り果てている自分」に同情し、注目してくれる。……皮肉なことに、レスラーとして目立つのは、津田さんと組んだ時の方かもしれませんね。
B: そうなんです! 猪木さんの隣は「修行」ですが、津田さんの隣は「プロデュース」なんです。あなたが津田さんをどう動かし、どう守り、どう輝かせるか。その手腕こそが、プロレスラーとしての知性を証明する。猪木さんのような太陽の隣で影になるか、津田さんという未完の素材をプロデュースして新しいジャンルを創るか。
A: ……認めましょう。もし私が、プロレスという枠組みを使って「社会への問い」を投げかけたいなら、津田さんを選ぶかもしれません。彼がリングで流す涙や、叫ぶ「ゴイゴイスー」が、プロレスのリアリズムを根底から揺さぶる「毒」になる。一方で、もし私が「男の美学」を貫き、死ぬ瞬間に後悔したくないなら、猪木さんの隣で鉄拳を食らいながら戦いたい。
B: 究極の選択ですね。「歴史に残る地獄」か、「記憶に残る混沌」か。猪木さんの隣で闘魂の炎に焼かれるのも本望、津田さんの隣で「なんで俺がこんな目に!」と叫びながら爆笑をさらうのもまた、レスラーの幸せな最期かもしれません。
A: 結局、タッグを組むというのは、相手の人生を背負うことですからね。猪木さんの「重すぎる十字架」を背負う覚悟があるか、津田さんの「軽すぎる十字架」を重く見せる才能があるか。
B: どっちを選んでも、リングを降りた時には、見たこともない景色が見えているはずです。……さあ、ゴングを鳴らしましょうか。
多和田葉子さんの『献灯使』を読まれたのですね。あの独特の「地続きの現実から、いつの間にか現実離れした場所へ連れて行かれる感覚」は、多和田作品に共通する特徴でもありますが、確かに「近未来SF」としてのリアリティを期待して読み進めると、肩透かしを食らったような、あるいは狐につままれたような気分になるかもしれません。
この作品が「何が言いたいのか」という点について、いくつかの角度からその趣意を紐解いてみます。
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この小説の最大の特徴は、「老人が死ねず、若者が極端に虚弱」という設定です。
通常、SFであればその科学的理由(放射能の影響、遺伝子操作など)を説明しようとしますが、多和田さんはそこをあえて突き詰めず、「言葉や社会の変化」として描き出します。
多和田さんは「言葉」に対して非常に敏感な作家です。この作品での「SF的な仕掛け」は、ガジェットではなく「言葉の消滅と変化」にあります。
彼女にとって、世界が変わるということは「物理法則が変わること」ではなく、「言葉の使われ方が変わること」なのです。そのため、後半に進むほど現実の論理(リアルタッチ)よりも、言葉が連鎖して生まれるイメージ(幻想的展開)が優先されていきます。
震災後の日本を彷彿とさせる設定の中で、日本が再び「鎖国」を選ぶという展開は、非常に風刺的です。
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この小説は、一つの明確な結論を提示する物語ではありません。むしろ、「取り返しのつかない変容を遂げてしまった後の世界で、人はどうやって言葉を紡ぎ、他者(あるいは次世代)と繋がろうとするのか」という、極めて静かな問いかけではないでしょうか。
後半の幻想的な展開は、「もはやかつての論理的な言葉では、この歪んだ世界を記述できなくなった」という、著者なりのリアリズムの表現だったとも捉えられます。
某iPhone修理店にフロントガラス割れのiPhoneを持ち込み、ガラス交換
修理後、数週間でゴーストタッチ(触っていないのに勝手にタッチされた状態になる。非常に困る)が発生
保証書を持って行くが、「画面に傷があるので保証対応は無理」と言われる
かなり細かいこすれ傷だったのでごねると「"特別に"今回は保証で対応させていただきます」と再度ガラス交換
1週間後、ロック画面から復帰時に数十秒操作が全く聞かない(ロック画面から復帰できない、電話がきても取れない)になる
次からはケチらずにちゃんとAppleCareに入る!!!!!
・GoogleMap口コミを見る限り、細かいキズで保証を突っぱねるのはやってそう
千葉運転免許センターで免許の更新を行い、マイナ免許証に切り替えた。
免許センターに入る前から入口に日本語と中国語のみで注意書きがある。「免許手続き以外の方は駐車禁止」と。
ストリートビューの履歴を見ると2021年から中国語が追加された模様。千葉県警の苦慮が伺える。
外面切り替えが2025/10から厳格化されたとのことだったが、外面切り替えの窓口は大盛況(に見えた。以前はもっとだったのかもしれない)。自分の予約時間まで間があったので外面切り替え窓口近くのベンチに座ってると、どうやら外面切り替えの人たちは名前を呼ばれる際に国名もセットで呼ばれる
(ベトナムの〇〇さんー、中国の◇◇さんーとか)ようで、しばらく座ってるとその時間帯は中国、ベトナム、ネパールの人が多目に感じた。
受付時間が来たので予約のQRコードを読み取り機にかざすと、マイナンバーの4桁の数字の利用者証明用暗証番号の入力を求められるのだが、お年寄りに配慮しているのか、画面にデカデカと押下した番号が黄色く光り、後ろに並んでいると4桁なんてはっきりと見えてしまう。
この後あちこちの窓口に提出する受付表が印刷されるのだが、この受付表にもデカデカとマイナンバーカードの4桁の暗証番号が記載されていて、その後費用の支払や視力検査、写真撮影等並んでいる間にも周囲も、周囲からも暗証番号見えた状態でいるのが不安でその部分を親指で隠していた。
また、最後まで使い道が無かったが、受付表と同時に「暗証番号カード」なるレシート用紙も印刷され、これにもデカデカと4桁の暗証番号が印字されているのである。
千葉運転免許センターと言えば、今年の9月の講習の際に「外国人は映像を見るだけでいい。日本人は真面目に聞くように」の発言があったとして話題になっていたが、是正されたのか優良運転者講習だったからなのか、そういった発言は無く、普通に30分の講習は終わった。
1. 運転免許のみ
の3パターンから選べて、それぞれに講習後の受け取り方法が違うのだが、私は 2. マイナ免許のみ のため、マイナンバーカードに免許情報を書き込む手続きをするための窓口に並んだ。
窓口では多くの人が並んでおり、一部で揉めているようなので話を聞くと、ネットワーク障害が発生していて手続きが始められないとのこと。後に予定が控えているという男性は困っているようだったが、職員の方も困っているようだった。
復旧までの間にラミネート加工された手続き説明の冊子を回し読みするよう配られたのだが、近くにいた外国人の女性が「ニホンゴヨメナイカライラナイ!」と大きな声で言っており、「日本語読めなくてもマイナンバーカードって持てるのか」と調べてみたら3か月の滞在許可があれば持てるようだった。
何となく日本国籍が必要なんだろうと思っていたが、思っていたよりは所持ハードルは低いものだった。
ちにみにその女性は、隣に座った親切な日本人女性に手続き説明冊子を読み聞かせてもらっていた。
ネットワークが復旧し、手続きが始まったがやたらと進みが遅く、窓口を見ていると、ここではマイナンバーカードの4桁の利用者証明用暗証番号ではなく、6桁~16桁の英数字の署名用暗証番号が必要で、その暗証番号が解らず詰まる人が大量に居て、手続きに時間がかかっている模様。
ラミネート加工の手続き説明冊子にも記載があったし、窓口のそばで延々と音声でもその旨をループ再生で説明されているのになぜ・・とも思うがこれを毎日一日中対応している職員は慣れているようで「ダメなら後日手続きできる」旨を伝えて次に行こうとするも、粘る運転者・・「次間違えるとロックされますよー」と言って諦めさせる職員といった攻防が見られた。
マイナ認証アプリなどで署名用暗証番号入力できた人から手続きさせるようにすればどちらもずいぶん楽に、早くなるのではないかと思った。
ただ、この署名用暗証番号の窓口での入力も気になるところで、Surfaceのようなものを使うのだが、最初の受付同様、お年寄りへの配慮なのか、どデカいソフトウェアキーボードで、タッチした箇所が黄色くビカビカ光るのと、周囲から丸見えな場所で打つためとても気になる。
職員もガン見しているのも気になる。飲食店や小売店のレジでクレカの暗証番号入力するとき、店員は明後日の方向を向いたり、後ろを向いたりと配慮してくれるものだが、千葉県警ではそういった配慮は無いようである。
警察官なんだから安心しろ・・ということなのだろうか。たとえ悪用されなかったとしても、ちょっと恥ずかしいパスフレーズを使っている私などはあまり見られたくないのである。ちょっと恥ずかしいので。
だらだらと雑に書いたが、とにかくマイナンバーカードの暗証番号についての扱いが雑過ぎるのではないかという部分が気になった一日だった。
グローバル化が進み、日本とは大きく違った文化で育った方も多くいる今の日本で、性善説を基に秘匿性の高い暗証番号を雑に扱うことは見直すべきではないかと思う。
タフでもなくクールでもないので、せめてヒューマンタッチではあろうと努める毎日であるが、そこは両親共に末っ子でその二人の間に生まれた末っ子の俺、つまり末っ子のサラブレッドには生来の「愛されて当然」気質があり、与えたならばその10倍は与えてもらわないとねという思いを是消し去れず、結局のところはヒューマンタッチどころか過剰報酬待ちの課金ユーザーのようにクレーマー予備軍じゃなかろかワシ、なんて思いを抱えながらそれにつけてもカネの欲しさよ、というのは人間関係の潤滑化にはなんでこんなにカネがかかるのか、時間を費やすのは残りの人生にたいした目標なきワタクシにとっては些事でございますオホホと余裕ぶっこけるもカネは有限、有限是憂鬱也と昔の偉い人は言ってないが、命もお金も人間関係も有限であるからには(以下略、仏教入門本でも読んでいてください)、つまりあれだグフ特区/ゴーンjoke、そんで何の話かっていうと「ウケる」って言葉ね、あれ悲しくないですか?悲しくない、そうですか、俺は悲しい。
大して笑いもせぬままにウケるという言葉を発しているのを見て、なんでそんなに自分の状態を客観的に記述したがるのか不思議に思い、本来ならウケているなら自らを分析できぬような忘我状態であってもいいはずのところをこの冷静な言説、たとえればこれは「俺はキレたぜ」とかと同じでアカギさんに無表情でピストルでぱんぱん撃たれて「キレた線は繋がったかい?」と嘲笑されてしまうような自己言及、実は制御可能な感情でつまり本来的なウケではないのであり、そのように自分の状態を表明することで自らの感情を無理矢理定義づけ、ともすれば醒めてしまいがちな自分を必死に鼓舞し、本当はウケることなど何一つ無くなってしまった世界を何とか誤魔化していこうとしているのかもなぁと悲しくなる。
なんでしょうね、あれ、自分の感情的な状態を努めて客観的に描写しようとするの、「推し」とかもそうで、定義が先に立つというか、そういう感情を持っていなければならないという何だかよくわからない社会的要請を勝手に感じて自らの感情を制御してるみたいに見えんのね、オッサンには。
https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5
https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5
「なぜはた」の明確な問題点は「タイトルの主語が大きすぎること」です
<以下本文>
まず大前提として、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々」という特定の層が抱える悩みについて、それが個人的な問題ではなく社会構造上の問題であることを論じた本です。
→大前提となる、「『かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々』という特定の層」が存在することをデータで示さないと、「実感」としてそういう層の存在を主張したとしても議論が始まりません。
「この神聖な水飲んだらがんが治ったんだもん」とデータなしに主張しても、そこから先の議論に至らないのと同じです。
これに対し、飯田さんは国民全体の平均値であるマクロデータを持ち出して「全体で見れば変化はない」と反論しました。が、これはいうなれば、「日本人の平均寿命は伸びているから、あなたの今の病気は存在しない」と言っているのに等しい議論です。
→この例えは明白に誤りです。なぜなら前者は「全体の読書量」と「特定の層の読書量の推移」を比較する主張であり、後者の「寿命」と「特定の疾患の存在」とは評価対象が異なるからです。
あえて寿命で例えるなら、「日本人の平均寿命は延びているから、喫煙者の平均寿命も延びている」などがあります。これならば「全体」と「特定の層」を共通の評価軸である「寿命」で比較できますし、「日本人の平均寿命が延びていること」を示しても「喫煙者の平均寿命が延びていること」を示さないのはその通りで、これならば矛盾と言えます。
(しかしその仮説を論じるなら、タイトルを「喫煙者の平均寿命~」とするべきで、主語を日本人全体としたり、明確に示さないことが明らかに誤りであることは誰にでもわかると思います。)
全体平均の中に埋もれてしまっている「特定の属性の変化」に光を当てるのが拙著の役割です。マクロデータのみで個人の実感を否定することは、分析の手法として適切ではありません。
→マクロデータのみで個人の実感を否定すること。確かによくないですね。
おじいさんおばあさんの中には、煙草を決してやめない人がいます。「私は煙草を吸っても今まで病院のお世話になったことないんだから、それでいいの」 大変結構だと思います。
こういう人たちに、「タバコは健康に悪いからすぐやめなさい」と言っても、個人の経験則を否定することになり、もめます。
マクロデータの目的は、「特定の属性の実感」を否定することではなく、全体を解析して現状やその傾向を把握することです。分析の手法として、データで示されない実感を大切にすることは重要ですが、解析の結果「実感」を否定する結果になってしまうことはままあります。
だからこそ、「実感」を前提とする議論をするならば、実感の存在そのものをデータとして示す必要があるのです。
拙著で統計データを多用することは本題からそれてしまうため(何度も書きますが、私の書いた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はマクロデータで語ろうとした本ではありません)必要最低限にとどめていました。が、本稿ではあえて氏の提示したものと同じデータソースを用いて反論を試みます。
→繰り返しになりますが、主張には前提が必要で、前提が正しくなければ主張も意味を成しません。したがって、前提をデータとして示す必要があります。それが必要最低限に至っていないということなのです。
飯田さんは「高校生の時点で読書量は減っており、働き始めてから急に減るわけではない」と指摘されています。しかし、この主張は「誰を対象にするか」という分析対象のセグメントを見誤っています。
まず、拙著が対象としているのは「元々読書習慣があった人々」です。では、統計的に見て「読書習慣がある人」とはどのような層を指すのでしょうか?
次図「読書習慣のある人」の月平均読書冊数を見ると、過去約40年にわたり、本を読む習慣がある人の読書量は月平均3-4冊の間で安定して推移しています。つまり、統計的な定義として、「月3-4冊読む」という行動こそが、日本の「読書習慣がある人」の姿であるといえます。
→対象としているのが「もともと読書週間があった人々」なら、なぜ書籍のタイトルが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」と主語が示されていないのでしょうか。ここが反論とその反論の大きなズレの原因です。
ちなみにこの統計、データ(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/94111701_03.pdf)が35ページ目(pdfだと39ページ目)にあるんですが、16-19歳の調査人数、なんと83人なんですね。
これだと1人減ったら1.2%割合が動くことになるんですよ。以下に書き起こしたものを記載してみます。
<16-19歳の読書数>
0冊=66.3%
1-2冊=22.9%
3-4冊=8.4%
5-6冊=1.2%
7冊以上=1.2%
あれ?1.2%が二つ。つまりこれ、5-6冊、7冊以上の人は1人ずつでしたね(笑)
3-4冊の人も1人減ったら7.2%になり、2人減ったら6%になって20歳代の人と同等になっちゃいますよね。
おおよその割合をみるには使えると思うんですけど、「16-19歳とその他の世代の比較」には非常使いにくいデータだと思いませんか?もし複数回同じ手法で調査したら、ひっくり返っちゃったりすることもあり得そうです。
しかも、令和5年の大学、短大、専門学校の進学率を合わせると約8割、大学に限ると約6割で、ちょうどこの統計の年齢階級を跨いじゃってるんですね。
だから、このデータで「働くと読めなくなるかどうか」を議論するのって、そもそも無理なんですよ。
ご覧の通り、「1,2冊」というライト層では加齢による減少は見られませんが、「月3-4冊読む習慣のある層」においては、労働期間中(生産年齢)に数値が底を打ち、退職後に回復するという明確な「U字カーブ」を描いています。
学生時代の読書減と社会人の読書減を同列に語ることはできません。なぜなら、このグラフが示すように、「労働から解放された世代(70代以上)」では、数値が学生時代の水準まで回復しているからです。 もし「加齢による文字離れ」や「スマホ普及」だけが原因であれば、高齢層でここまで数値が戻ることは説明がつきません。
もちろん、今回のような一時点の調査である以上、厳密には加齢による変化とコホート効果を切り分ける分析が必要です。しかし、データの限界を差し引いてもなお、この「労働期間中にのみ、特定の読書層が凹む」という事実は、労働環境がまとまった読書習慣を構造的に阻害している可能性を強く示唆しています。 全体平均にならすことで分布の特異性を捨象してしまう飯田さんの分析は、データに表れた当事者ーー働いていると本が読めないのだとほんとうに感じている人々ーーの痛みを見落としていると言わざるを得ません。
→この主張も前述したように、1人動くと1.2%動くデータで示唆するのは無理があります。
U字カーブ? あなたは70歳以上の人が自在にスマホをいじくってネットサーフィンしているのを想像できますか?
交絡(データに影響を与える別の要素)がありすぎて、単純に就労の有無だけを結果の原因として求めるのはちゃんちゃらおかしいと思いませんか?
「痛み」ですか、はあ。タバコ吸っても健康でいられると思ってる人の痛みを想像したことありますか?(笑)
一見すると、「書籍の読書冊数と市場規模は相関しないが、雑誌は相関する」という飯田さんの主張は正しいように見えます。しかし、ここで気を付けなければならないのは、市場規模の根拠として用いられているデータの定義です。これは「出版販売額」、つまり新刊市場の推移にすぎません。
雑誌のみが市場規模と相関する主要因は、書籍と雑誌の読書習慣の違いというより、市場構造の違いにあると考えるのが妥当です。 書籍は図書館での貸出や、古書店・メルカリ等の二次流通市場といった新品購入以外のタッチポイントが豊富です。
→なるほど、たしかに書籍は図書館や古書店で接触がある分、新品市場だけで語ると乖離が出そうですね。
つまり、「読書数の総量=新品購入+レンタル・中古」になるってことですな??
ということは「読書数>新品購入の勢い」が成立するということだ。ふむふむ。
こうした「読む」と「買う」を短絡的に結びつける考え方はよく見られる。しかし、読む量と買う量は単純にイコールにはならない。イコールになるなら「積ん読」という言葉は存在しない。
→えーっと、積読があるから「読書数<新品購入市場の勢い」もありえると。
……市井氏は積読があるから「読書数<新品購入市場」と言い、その反論として三宅氏は中古やレンタル市場があるから「読書数>新品購入市場」と言っている!かみあってない!
まわりくどいんだけど、結局どっちも「書籍の読書数と新品購入に相関がない」が「雑誌は読書数と新品購入に相関がある」というのが主張で、一致している!反論すると見せかけて同じことを主張するという高等テクニックである。
また、拙著の「雑誌や自己啓発書を中心として、労働者階級にも読まれる書籍は存在していた」という記述に対し、飯田さんは「雑誌と書籍の区別がついていない」と批判されています。しかし、拙著の記述は明治時代の出版状況についての記述であり、いうまでもないことですが雑誌はコミックや週刊誌の割合も時代とともに変わっていきます。明治の雑誌出版に関する記述を、現代の雑誌と同様の枠組みで捉え、区別がついていないとするのは、論理が通らないのではないでしょうか。
以上のように、構造的に相関の低い「新刊販売額」を指標として用いて「書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき」と主張するのはデータの選定として不適切です。本来であれば、図書館の貸出しや二次流通市場におけるタッチポイントも考慮したうえで読書冊数との相関がないことを示すべきです。また時代によって役割の異なるメディアを十把一絡げに扱うのは、妥当性を欠いていると言わざるを得ません。
→えーと、前半の文章は市井氏の引用した部分が明治時代の話をしているから不適切ってことだな。うむ作者が言うならそうなのだろう。
後半は……
構造的に相関の低い『新刊販売額』を指標として用いて『書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき』と主張するのはデータの選定として不適切」
あれ、あなたも書籍読書数と販売数は相関しないけど雑誌は相関するって言ってましたよね?
市井氏のnoteをみると、扱っているデータは70年代以降のもので明治時代の話はしてなさそうですけどね。
それに市井氏の
なお、『読書世論調査2016年度』には書籍の読書率について「戦後、読書世論調査の開始以来、多少の変動はあるものの、おおむね5割前後で推移している」と書いてある。『なぜはた』は読書世論調査を引用しておきながら、読書世論調査サイドの「長年そんなに変化がない」という見解とは異なる「本離れが進んでいる」という主張をしている。
この部分に関する反論はしなくていいんですかね。マスデータだから?
引用元の文献(黒田祥子・山本勲「長時間労働是正と人的資本投資との関係」)を見る限り、これは事実ではあるものの、解釈と適用先が間違っていると考えられます。
というのも、ここで引用されている論文が測定している「自己研鑽」と、拙著が指摘する「自己啓発書の読書」は、行動の質が全く異なります。論文が指すのは資格取得やスキルアップのための「能動的な学習」であり、これに対して『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が論じているのは、新自由主義的な不安に駆られた人々が救いを求めて読む「自己啓発書の消費」です。むしろ、「労働時間が減っても、能動的な学習に取り組むほどの気力や体力は回復していない」という論文の結果は、人々が手軽な「やった感」や「効率的な正解」を得られる自己啓発書(=ファスト教養)に流れるという拙著の仮説と矛盾しません。
「キャリアアップのための能動的な学習」の機会が減ったからといって、「手軽なノウハウ本」のニーズがないことの証明にはならず、このデータを根拠にするのは的はずれです。
→確かに「自己研鑽の時間が減ったから」といって「手軽な自己啓発本を読む時間が減った」とは言えない。それはその通りだ。まあ手軽な方が増えたとするのはあくまで仮説で、それを証明する手段もそうないよね。
飯田さんは「市場規模において、依然として小説は自己啓発書より大きいため、自己啓発書へのシフトという説は誤りである」と主張されています。
第一に、議論の焦点は、現時点での「絶対量」ではなく「変化の方向性(トレンド)」です。たとえパイの大きさが小説の方が大きくとも、書店の棚構成の変化や、人々の意識における効率性の重視といったトレンドの変化を否定する材料にはなりません。
第二に、ここで飯田さんの論理には明確なダブルスタンダードが存在します。 飯田さんはこれまでの議論において、「市場動向と読書実態は書籍においては必ずしも一致しない」と主張されました。 しかし、ここでは一転して、「小説の方が推定発行金額(市場規模)が大きい」ことを根拠に、「小説の方が読まれている」と結論付けています。
→いったん整理すると、
<三宅氏の主張>
読書の方向性が手軽な自己啓発書にシフトしているから読書量が減った。
<市井氏の主張>
小説の市場規模の方が大きいので自己啓発書の読書量に対する影響は大きくないはずだ。
市場規模では確かにそうだが、トレンド(推移)は見てないですよね?だからその論は否定の根拠にはなりません。
さっき書籍と雑誌の比較で「市場規模と読書量は相関しない」って言ってたのに、自己啓発書と小説を市場規模で比較するのはおかしい!ダブルスタンダード!
→
反論①については、たしかにトレンドはそうかもしれないけど、象に犬がキックしても効かないように、市場における小説の占める割合の方が圧倒的に大きいのだから、自己啓発書のトレンドがまあまああっても全体のムーブには影響しにくいっていうのは確かなんじゃないですかね。
反論②については、雑誌と書籍の比較と、小説と自己啓発書(どちらも書籍に含まれる)の比較は全然別だから、まずダブルスタンダードとは言えないのは明らか。これは間違いない。
ご自身にとって都合の良い時だけ売上と読書実態を切り離し、別の場面では売上を読書実態の根拠とするのは、論理的一貫性を欠いています。
→これは完全にどっちもどっちと言わざるを得ません。データ分析を仕事にしている人ってこのレベルなんですね。というかそもそもデータの部分よりも文章の方が蛇行運転になっていて、上記したように論理が合わない箇所がいくつかあります。心配になりました。
<お わ り>