はてなキーワード: 相関関係とは
社会学には2つの極端なアプローチがあります。一方は、統計的・因果推論的に厳密にデータと解釈を分離し、反証可能性を担保する科学的手法です。
もう一方は、自分のイデオロギー・ナラティブ(構造的抑圧、弱者発見、権力批判など)を支えるためにデータを「都合よく選ぶ」(cherry-picking)手法です。この記事では後者を「ストーリーテラー(Storyteller)」と分類します。
統計・大規模調査・因果推論手法(差の差法、操作変数法、傾向スコアマッチングなど)を用い、相関関係と因果関係を明確に区別。
データ事実(Results)と研究者の解釈(Discussion)を厳密に分け、矛盾するデータも提示し、反証可能性と頑健性(robustness)を担保する。社会科学として「科学」の基準を守る。
「社会科学」の看板を借りて、自分のイデオロギー・ナラティブ(物語)を広める人。データはあくまで「自分のストーリーを魅力的に補強する道具」に過ぎず、都合の良い部分だけ選び(チェリーピッキング)、相関を即因果にすり替え、解釈をデータに混ぜ込む。文学的・運動的アプローチが強く、X(旧Twitter)やメディアで声が大きい loud minority として目立つ。
自説に有利な数字・事例だけか、全データ範囲と感度分析を示すか。
相関を即「構造的抑圧が原因」と断定し、因果推論手法名を明記しない。
結果セクションですでに文学的なナラティブ(「これは権力の証左」)が入っていないか。
質的研究・批判理論(Foucault、Butler、上野系)が先行し、計量・因果推論論文の引用が少ない。
批判されると「文脈が違う」「差別者」とレッテル貼りするか、データで再検証を提案するか。
X・メディアで構造批判・弱者発見・PC擁護が熱く、エンゲージメントが高い。
論文・発言・X投稿をチェックすれば、9割以上見分けられます。
ストーリーテラーは、社会学を「科学」ではなく「物語を語る運動の場」に変える存在です。彼らはデータを使いつつも、最終的に一貫した
を構築・拡散します。これは、イデオロギーを補強するための選択的物語化です。データは「証拠」ではなく「感情を揺さぶる小道具」として機能し、矛盾データは無視するか、「より大きな構造のせい」として相対化されます。
• 1970-90年代の「質的転回」(qualitative turn)でインタビュー・参与観察・理論解釈が主流化した歴史的土壌がある。
• X・メディアでは「弱者発見」「構造批判」といった感情に訴えるストーリーがエンゲージメントを稼ぎやすい(loud minority効果)。
• 結果、学問の「科学性」が薄れ、活動家ごっこのイメージが強まる(古市批判の核心)。
「弱者が弱者のままで尊重される社会を」「頑張っても報われない人がいる」 → 努力や個人の責任を「環境・構造のせい」に還元し、永遠の被害者像を描く。
例:東大入学式祝辞のような「恵まれた環境のおかげ」強調。データ(合格率差)を使っても、逆差別や努力差はスルー。
「家父長制・資本制・権力構造がすべてを決めている」 → 格差・ジェンダー・移民問題を「システムのせい」に帰結。解決策より批判が優先。
例:家事=「不払い労働」、教育格差を即「構造的抑圧」と断定。
「日本人は多文化に耐えられない」「加害者性・反省不足が原罪」 → 戦後教育の延長で、日本人全体を「構造的加害者」に位置づけ。
例:日本社会の「単一民族神話」批判や、歴史問題での自虐的ナラティブ。
「異性愛規範・性二元制がマイノリティを抑圧」「性自認尊重が正義」 → ポリティカルコレクトネスを「進歩の物語」として語り、反対意見を「差別」と一蹴。 例:女子枠反対を「弱者男性のワガママ・ミソジニー」とレッテル貼り。
「政府・権力の干渉が学問の自由を脅かす」「新政権のツッコミどころ」 → 学術会議問題などで「権力 vs 専門家」の二元論を展開。
「相手は差別者・歴史修正主義者・ミソジニー」 → 都合の悪い女性政治家を「中は男」と属性攻撃するなど、二重基準を隠した攻撃的ナラティブ。 ラベリング理論を武器化。
結果、社会学は「文学の亜流」や「運動の道具」と見なされやすくなります。
代表的発言:「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」(2019年東大入学式祝辞)
代表的発言:「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」(2026年頃、女子枠反対論に対するnote引用・投稿)
代表的発言:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」(2024年、立憲民主党集会での高市早苗氏批判)
代表的傾向:「病ませる社会」が弱い人を症状化させる(近年、人生相談・社会病理関連発言)
代表的発言:「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」(2020年、学術会議任命拒否問題時) → 権威主義・体制批判。
ネット右翼を「1%未満の愉快犯」と矮小化するなど、日本社会の構造・歴史ナラティブ批判。
「学術会議法人化法案が可決されてしまいました。日本は、アカデミーの自律性を弱めることに加担した国の列に加わりました。」(2025年、X投稿) → 学問の自由危機ナラティブ。
大規模調査データで家族・格差を統計分析。因果推論を意識した学術告知中心。
X・メディア・学術会議・ジェンダー/PC分野で目立つのは圧倒的にストーリーテラー。彼らのナラティブは感情に訴えやすく拡散されやすい一方、実証派は論文・データで静かに勝負するため声が小さい。結果、社会学は「科学」より「物語を広める運動」が強まりやすい構造になっています。社会科学を本当に科学に戻すには、実証派がもっと積極的に声を出していくことが重要です。
まず、因果推論全般では、「相関がある/ない」と「因果関係がある/ない」を同じ軸で考えない。
相関は、観測されたデータ上で見える関係である。因果は、一方を変えたときに、もう一方が変わると考えられる関係である。
なお、「相関がない」と書くと完全に無関係であるように読めるため、以下では原則として「相関が見える/見えない」と書く。
そのため、全体像としては、次のような2×2で整理するとわかりやすい。
| 分類 | 因果関係がある | 因果関係がない |
|---|---|---|
| 相関が見える | A. 因果関係が相関として見えている | B. 見かけ上の相関 |
| 相関が見えない | C. 因果関係はあるが、相関として見えにくい | D. 関係が見られない |
ここでいう「相関が見えない」は、「その観測方法・分析方法では相関が確認できない」という意味であり、完全に無関係であることを直ちに意味しない。
この表は、あくまで全体像を示すための地図である。因果推論では、相関が見えるかどうかと、因果関係があるかどうかを分けて考える。
Aは、相関が見えており、因果関係としても説明できる場合である。
Bは、相関は見えているが、それが因果関係を示しているとはいえない場合である。いわゆる擬似相関はここに入る。
Cは、因果関係はあるが、単純な観測データでは相関として見えにくい場合である。非線形の関係、時間差のある関係などが該当する。
Dは、相関も見えず、因果関係も想定しにくい場合である。ただし、相関が見えないことは、完全に無関係であることを直ちには意味しない。
したがって、因果推論全般では、相関が見えるからといって因果とは限らないし、相関が見えないからといって完全に無関係とも限らない、という両方の注意が必要になる。
一方、高校教科「情報」で扱う範囲は、因果推論全般そのものではない。
高校範囲で中心になるのは、散布図や相関係数をもとに、今見ている2つのデータの関係をどう読むかである。具体的には、散布図や相関係数を使って、2つのデータに直線的な関係が見えるかを確認する。そのうえで、「相関が見えるからといって、因果関係があるとは限らない」という点を学ぶ。
先ほどの分類表を高校「情報」の範囲に寄せると、次のように整理できる。
| 分類 | 高校範囲での扱い |
|---|---|
| 直線的な相関が見える | 高校1:因果関係として説明できる場合/高校2:擬似相関の場合 |
| 直線的な相関が見えない | 高校3:相関が見られない。ただし、完全に無関係とは限らない |
高校1は、直線的な相関が見え、背景知識などから因果関係として説明できるもの。これは、全体表のA「因果関係が相関として見えている」にあたる。
高校2は、直線的な相関は見えるが、因果関係として説明できないもの。これは、全体表のB「見かけ上の相関」にあたる。擬似相関はここに入る。
高校3は、直線的な相関が見えないもの。高校範囲では、いったん「相関が見られない」と整理されることが多い。ただし、これは完全に無関係であることを意味しない。非線形関係、時間差、しきい値のように、別の見方をすれば関係が見える場合もある。
高校範囲で中心になるのは、「直線的な相関が見える」場合である。つまり、その相関を因果関係として説明できるのか、それとも擬似相関なのかを考えることが主題になる。
一方、「直線的な相関が見えない」場合については、基本的には「相関が見られない」と整理する。ただし、これは完全に無関係だと断定することではなく、高校範囲では深く扱わない発展的な関係が隠れている場合もある。
相関関係とは、2つのデータの増減に一定の傾向が見られる関係のこと。
高校範囲では、主に散布図や相関係数で確認する。そのため、ここでいう相関は、基本的には直線的な相関である。
片方が増えるともう片方も増えるなら、正の相関。片方が増えるともう片方が減るなら、負の相関。増減の関係がはっきり見られないなら、相関が見られない、と整理する。
ただし、ここでいう「相関が見られない」は、少なくとも散布図や相関係数では、直線的な相関が見られないという意味である。
現実には、曲線的な関係、時間差のある関係、しきい値のある関係などが隠れている場合もある。したがって、「相関が見られない=完全に無関係」とは言えない。
因果関係とは、一方の変化が、もう一方の変化を引き起こすと考えられる関係のこと。
ここでは、原因側のデータ項目を X、結果側のデータ項目を Y と書く。
・X → Y
これは、X が Y に影響している関係である。現実の例で言えば、「気温 → アイスの売上」のような関係である。
この場合、気温の上昇がアイスの売上に影響していると考えられる。
ただし、2つのデータに相関が見えるだけでは、因果関係があるとは言えない。因果関係を考えるには、少なくとも以下のような項目を確認する必要がある。
なお、高校範囲で「因果関係」と言う場合は、多くの場合、X → Y のような単純な関係を念頭に置いている。X → M → Y のような間接因果については、後述する。
擬似相関とは、2つのデータに相関が見えるが、その相関が因果関係を示しているとはいえないものを指す。
ここで注意したいのは、擬似相関は「相関がない」という意味ではないこと。多くの場合、相関は実際に見えている。擬似なのは、相関そのものというより、因果関係があるように見える解釈のほうである。
つまり、擬似相関は、その相関だけでは因果関係を示しているとはいえない相関と考えるとわかりやすい。実際、「擬似」という言い方だと相関そのものが存在しないように誤解されるため、「非因果相関」と呼ぶ方がよいと考える人もいる。
擬似相関の原因には、主に以下のようなものがある。
それぞれ整理すると、次のようになる。
交絡因子による擬似相関は、次の形で表せる。
・Z → X
・Z → Y
2つのデータ X と Y の両方に、第3の要因 Z が影響している場合である。このような第3の要因を、交絡因子という。
・気温 → アイスの売上
・気温 → 熱中症の発生数
このとき、アイスの売上と熱中症の発生数には相関が見えるかもしれない。しかし、次のような因果関係があるわけではない。
実際には、気温という Z が、アイスの売上 X と熱中症の発生数 Y の両方に影響している。
高校範囲では、擬似相関の典型例として、この交絡因子による説明がよく使われる。
特に、たくさんのデータを比べていると、本当は関係がなくても、偶然よく似た動きをする組み合わせが見つかることがある。
この2つが、ある期間たまたま似た増減をしたとしても、それだけで因果関係があるとは言えない。これは、意味のある関係ではなく、偶然相関して見えただけである。
時系列データでよく起きる。2つのデータが、どちらも時間とともに増えている、または減っているだけで、相関があるように見える場合である。
・スマートフォンの普及率
どちらもある期間に増加していると、相関があるように見えるかもしれない。しかし、それだけで、次のような因果関係があるとは言えない。
この場合、両方が「時間の経過」とともに増えているため、見かけ上の相関が生じている。
データのまとめ方によって、相関があるように見えたり、逆に相関が消えたりする場合である。
たとえば、10年分のデータ全体ではほとんど関係がないのに、ある3か月だけを切り取ると、2つのデータが同じように増えているように見えることがある。
これは、特定のトレンドが見えている期間だけを切り取ることで、相関があるように見える場合である。意図的にやれば「都合のよい期間の切り取り」になるし、意図せず起きることもある。
また、全体で見るか、グループ別に見るかで、関係が変わる場合もある。
・学校全体で見ると、学習時間が長い生徒ほど成績が高いように見える。
・しかし、学年別に分けると、その関係は弱かったり、違う傾向が見えたりする。
この場合、学年、クラス、地域、年齢層などの分け方によって、見える相関が変わっている。
さらに、個人単位で見るか、都道府県単位で見るか、国単位で見るかによっても、関係が変わることがある。個人レベルでは成り立たない関係が、都道府県ごとの平均値で見ると相関して見える場合がある。これは、専門的には生態学的誤謬に近い話である。
また、割合で見るか、実数で見るか、平均で見るか、合計で見るかによっても、相関は変わる。
たとえば、人口が多い地域では、店舗数も事故件数も多くなりやすい。そのため、単純な件数同士で見ると相関が出ることがある。しかし、人口あたりの件数に直すと、その関係が弱まる場合がある。
つまり、集計方法の影響とは、期間、集団、単位、指標の取り方によって、相関があるように見えたり、消えたりすることである。
高校情報の教科書では、間接因果は独立した中心概念としてはあまり扱われない。
高校範囲で重要なのは、まず、相関関係が見えても因果関係があるとは限らないこと、そして交絡因子による擬似相関に注意することである。
そのうえで、間接因果については、補足的に考えればよい。
間接因果とは、X が別の要因を介して Y に影響する関係である。中間に入る要因を M と書くと、次のようになる。
・X → M → Y
この場合、「勉強時間」と「点数」の間には、「問題演習量」を介した因果関係があると考えられる。
これは直接の因果関係ではないが、比較的近く、説明しやすい間接因果である。そのため、高校範囲では次のように丸めて説明しても、通常は問題ない。
つまり、近い間接因果は、広い意味で因果関係として扱える場合がある。
・大型商業施設ができる
→ 人の流れが変わる
→ 通学経路や交通混雑が変わる
このような関係は、完全にありえないとは言えない。
しかし、途中に入る要因が多く、他の要因も大量に関わるため、単純な相関関係からこの因果経路を説明するのは難しい。
さらに遠い因果経路まで含めると、ほとんど何でも何かに影響している、という話になってしまう。
そこまで広げると、バタフライエフェクトのような話になり、高校範囲の「相関関係と因果関係」の整理としては扱いにくい。
そのため、間接因果は次のように考えるとよい。
・比較的近く、説明可能な間接因果は、広い意味で因果関係として扱える。
・一方、因果経路が遠すぎるものや、途中の要因が複雑すぎるものは、高校範囲では擬似相関に近いもの、または発展的な話題として扱うのが自然である。
つまり、間接因果は、高校情報の中心的な分類ではなく、発展的な補足として考えるのがよい。
高校範囲では、まず「直線的な相関が見える場合」に、その相関を因果関係として説明できるのか、それとも擬似相関なのかを考えることが重要である。間接因果は、その後に考える発展的な補足として扱えばよい。
高校「情報」で中心になるのは、「相関関係」「因果関係」「擬似相関」を区別して考えることである。
「相関関係」は、2つのデータの増減に一定の傾向が見られる関係である。
「因果関係」は、一方の変化が、もう一方の変化を引き起こすと考えられる関係である。
「擬似相関」は、相関は見えているが、それだけでは因果関係を示しているとは言えない関係である。典型例は、第3の要因である交絡因子が2つのデータの両方に影響している場合や、たまたま似た動きをしただけの偶然の一致である。
ただし、高校範囲で扱う相関は、主に散布図や相関係数で見る直線的な相関である。そのため、「相関が見られない」と整理される場合でも、完全に無関係とは限らない。非線形関係や時間差のある関係のように、別の見方をすれば関係が見える場合もある。ただし、そうした見方は高校範囲では基本的に深く扱わず、大学以降の専門的な範囲に入る。
また、間接因果は、高校情報の中心的な分類ではなく、発展的な補足として考えるのがよい。
要するに高校範囲では、相関が見えてもそれだけで因果とは言えず、相関が見えなくてもそれだけで無関係とは言えない、という点を押さえるのが重要である。
ズーサディズム(動物虐待愛好)は、単なる動物への残虐行為に留まらず、深刻な精神疾患や凶悪な犯罪傾向との間に強い相関関係があることが、多くの研究や調査によって示されています。
ズーサディズムは、特定の精神病理やパーソナリティ障害の兆候として位置づけられています。
動物虐待は、将来的な対人凶悪犯罪の予兆となることが多く、法執行機関も重視しています。
「リンク(The Link)」と呼ばれる概念は、同一家庭内で動物虐待、DV、児童虐待が同時多発的に起こる関係性を指します。
動物への殺傷行為から対人暴力へとエスカレートしていくという考え方は「卒業仮説」として知られています。
猫の悲鳴が人間の子供や女性の声質に似ているため、子供を傷つけたい欲望を持つ「ペドサディスト(小児加虐愛好家)」が、猫を子供の代用品として虐待するケースもあります。これは、自身の暴力的なファンタジーを現実化させる前段階としての役割を果たしています。
俺は別にモテるわけでもモテないわけでもない普通の30代だが、進化心理学(evolutionary psychology)のオタクだ。ピンカー、トリヴァース、ダンバー、バス、このあたりの本は原著で読んでる。日本語で読める本もだいたい読んだ。
で、最近またTLに「若者の恋愛離れが深刻」「日本の恋愛は終わった」みたいな記事が流れてきて、そのブコメが地獄みたいになってるのを見て、もう我慢できなくなったので書く。
まずこの前提からして間違ってる。
1960年代まで日本の婚姻の過半数は見合いだ。見合い。当事者の恋愛感情で結婚してたんじゃなくて、制度的マッチングシステムが高効率で回ってただけ。昔の高い婚姻率は「恋愛力」の高さじゃなくて、社会的圧力の強さを反映してたにすぎない。
つまりお前らが「昔はよかった」と思ってるのは、認知心理学でいう衰退主義(declinism)——過去を自動的に美化する脳のバグだ。ついでに言えば「未婚率3割!」みたいなショッキングな数字ばかり記憶に残るのは可用性ヒューリスティックのせいだ。お前らの直感は二重にバグってる。
進化心理学の基本中の基本だが、人間の配偶者選択(mate choice)は自由にやらせるとアソータティブ・マッチング(似た者同士の組み合わせ)を強く志向する。知能と知能、社会経済的地位と社会経済的地位が引き合う。
見合いシステムはこの自然な選好を部分的にオーバーライドしてた。「とにかく結婚しろ」という圧力で、本来ならマッチングしなかった組み合わせまで婚姻に押し込んでた。
それが消えた。
見合いの消滅は「恋愛力の低下」じゃなくて、抑圧されてた個人の選好が解放されたプロセスだ。選択の自由度が上がった結果としての非婚は、多くの場合、合理的な意思決定の帰結。これを「問題」と呼ぶなら、お前は自由そのものを問題だと言ってることになる。
ここからが本題。ブコメで「男がだらしなくなった」「女が高望みしすぎ」って言い合ってるやつら、両方間違ってる。
トリヴァースのパレンタル・インベストメント理論(1972)。哺乳類のメスは妊娠・授乳という巨大な生物学的投資があるから、配偶者選択においてより選り好みする(choosier)。これは人間でも同じ。
で、女性が経済的に自立して結婚の「必要性」が消えた社会で何が起きるか。女性の選択基準は下がるんじゃなくて上がる。もう生存のために妥協する理由がないから当然だろ。
一方の男性側は、かつて「安定した職と収入」だけで市場に参入できたのが、それに加えて「情緒的知性」「家事育児へのコミットメント」「身体的魅力の維持」まで要求されるようになった。
出生動向基本調査(2021)の「交際相手のいない未婚男性が約7割」ってデータ、これは怠惰な若者の増加じゃなくて、配偶者市場の参入障壁が構造的に上がったことを反映してる。ジェンダー平等の進展がもたらした論理的に不可避の帰結であって、誰が悪いとかそういう話じゃない。
ここで「じゃあ男を鍛えろ」とか「女は妥協しろ」とか言い出すやつ、お前は進化の力学に対して精神論で対抗しようとしてる。無理だ。
これ言うやつ多すぎるので潰しておく。
反証その1。マッチングアプリの利用率が日本よりはるかに高い欧米では、未婚率の上昇は日本ほど劇的じゃない。テクノロジーが原因なら、より浸透してる社会でより深刻になるはずだろ。なってない。
反証その2。リクルートの調査では2020年代に結婚したカップルの約4分の1がアプリ経由。テクノロジーは出会いを殺すどころか、出会いのチャネルを史上最大に拡張した。
「でも選択肢が多すぎて決められないんだよ」って反論が来るのはわかる。バリー・シュワルツの選択のパラドックス。確かにそれはある。だがそれは豊かさと自由の副産物であって、テクノロジーの「罪」じゃない。選択肢が少ない時代に本気で戻りたいやつ、いるか? いないだろ。
ここが一番言いたいこと。
「草食系男子」は2006年に深澤真紀が作った言葉だが、国内外のメディアで「男性性の衰退」「覇気のなさ」の象徴として消費されてきた。
ピンカーが『暴力の人類史(The Better Angels of Our Nature)』で論じたテーゼ。人類社会における暴力の長期的減少は、共感力の拡大と自制心の文化的涵養によって達成された。男性の「攻撃性」の低下と性的な積極性の低下は同じコインの裏表だ。
つまり「草食化」は男性の劣化じゃなくて、文明化プロセス(civilizing process)の日本的な発現だ。ノルベルト・エリアスが中世ヨーロッパの宮廷社会で記述したのと同じ力学——衝動の抑制、他者の感情への配慮、暴力的手段の忌避——が、21世紀の日本の若い男性にかつてなく深く内面化された。
ハラスメントの感度が上がり、同意(consent)の概念が浸透し、「しつこく口説く」ことが社会的制裁の対象になる社会で、男性がアプローチに慎重になるのは正常で合理的な適応(adaptation)だ。病理じゃない。
それを「覇気がない」って笑うやつ、お前は暗に「もっとハラスメントしろ」って言ってるのと同じだぞ。気づいてるか?
言葉が強くなるのは許してほしいが、これは本気で言ってる。
出生率の低下は恋愛頻度よりも、養育コストの経済的・心理的上昇とはるかに強い相関がある。合計特殊出生率が高い先進国——フランスや北欧——は「恋愛文化が活発だから」じゃなくて、充実した育児休業、公的保育、住宅政策で養育コストの社会的分散を実現してるから出生率が高い。
日本の少子化対策が自治体の婚活イベントやマッチング事業に予算を突っ込んでるの、あれはパイプの漏れを直さずに蛇口の水量を増やしてるのと同じだ。子育てのコストとリスクが個人(とりわけ女性)に集中する構造を変えないかぎり、出会いの場をいくら作っても出生率は動かない。
ここにブコメで「正論」ってつけるだけじゃなくて投票行動に反映してくれ。頼む。
ここまで読んで「じゃあ全部終わりじゃん」って思ったやつ、待て。俺は進化心理学オタクであって悲観論者じゃない。
データをちゃんと見ると、日本は親密性(intimacy)の新しいモデルを世界に先駆けて実験してる社会だ。
その1:非婚パートナーシップの多様化。 事実婚、週末婚、LAT(Living Apart Together)。法制度が追いついてないだけで、実態としては着実に広がってる。「結婚できない」じゃなくて「結婚という制度がニーズに合ってない」ことへの合理的応答。
その2:親密性のポートフォリオ化。 恋愛的親密性のすべてを一人のパートナーに集中させるモデルから、友人関係、オンラインコミュニティ、趣味のつながり、ペットとの関係など、複数ソースから情緒的充足を分散調達するモデルへの移行。投資理論のポートフォリオ分散と同じ構造。リスクヘッジとして合理的。
その3:テクノロジー媒介型の親密性。 VTuber、推し活、AIコンパニオン。「代替恋愛」「現実逃避」って嘲笑されがちだが、人間の脳は社会的絆を形成するとき、相手が物理的に存在するかどうかを厳密には区別しない。オキシトシン系の神経回路は声や文字のやりとりでも活性化する。テクノロジー媒介型の親密性を「偽物」と断じるのは、社会脳(social brain)の可塑性を舐めてる。
二つだけ確実に言えることがある。
1. 婚姻率と出生率が1960年代に「回復」することはない。 個人の選択の自由が拡大した社会が自発的にその自由を返上した前例は歴史上ほぼ存在しない。社会は新しい均衡点を見つけるのであって、古い均衡に戻るんじゃない。
1. 恋愛が消滅することもない。 ロマンティック・ラブの神経基盤——腹側被蓋野(VTA)のドーパミン報酬系、前帯状皮質の愛着回路——は数十万年の進化で配線されたものだ。数十年の社会変動で消えるわけがない。変わるのは恋愛の「インフラ」であって恋愛への「衝動」じゃない。
日本の恋愛の未来は、崩壊でも回復でもなく、再構成(reconfiguration)だ。進化が俺たちに与えた欲求と、文明が俺たちに与えた選択肢のあいだの、終わりなき交渉の最新章にすぎない。
そしてこの交渉の結果を、あらかじめ「衰退」と名づけてしまうのは、人間という種の創造性に対する、あまりにも安い賭けだと俺は思う。
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追記:ブコメで「お前がモテないだけだろ」って書くやつが絶対いると思うので先に言っておくが、俺の交際ステータスとこの分析の妥当性は独立事象だ。それを混同するのは人身攻撃の誤謬(ad hominem fallacy)な。進化心理学の前にまず論理学やってこい。
「背が低い人がクリームパンを好む」というお話ですが、実は統計学的なデータや医学的な根拠として、身長とパンの好みの間に直接的な相関関係は認められていません。
もし周囲にそういった方が多いのであれば、いくつかの「心理的な連想」や「偶然の重なり」が理由かもしれません。考えられるユニークな視点をいくつか挙げてみます。
クリームパンの丸みを帯びた、ふっくらとして可愛らしい形は、一般的に「小柄で愛嬌のある人」というポジティブなキャラクターイメージと重なりやすい傾向があります。そのため、無意識に「似合っている」と感じ、印象に残りやすいのかもしれません。
クリームパンはカスタードという濃厚なクリームが詰まっており、サイズに対して満足感(エネルギー量)が高い食べ物です。
効率的な補給: 小柄な方は一度に食べられる量が限られていることも多く、少量でしっかり満足感を得られるクリームパンが好まれる……という仮説も立てられます。
例えば、背が高くガッシリした人がクリームパンを食べているよりも、小柄な人が食べている方が、周囲に「イメージ通りで可愛い」と思われやすく、その記憶が「背が低い人はみんな好き」というバイアス(思い込み)に繋がっている可能性もあります。
特定の身体的特徴と食べ物の好みが結びつくことは稀ですが、「甘いもの(クリーム)が好き」という趣向は老若男女問わず非常に多いものです。
随分昔に証明されてる話でしょこれ
暴力的な男性にはより多くのセックスパートナーがいる」との研究結果
男性の性的魅力には容姿や知能、性格などのさまざまな要素が含まれていると考えられていますが、「暴力的・攻撃的な行動」も一種の魅力となっている可能性も以前から指摘されています。合計で1万人以上の被験者を追跡したデータを分析した新たな研究により、「暴力的な傾向が強い男性はセックスパートナーが多い」との結果が示されました。
動物の群れでは最も強いオスがリーダーとなり、多くのメスと性的交渉を結ぶケースがよく観察されます。そこでアメリカ・ペンシルベニア州のメアリーウッド大学で社会学や犯罪学について研究しているPatrick Seffrin准教授は、人間でも暴力的な傾向が性的交渉の成功に結びつくのかどうかを調べる研究を行いました。
Seffrin氏は今回の研究で、現代の人間では祖先と同じく肉体的な攻撃行動が性的魅力を持っているのか、それとも暴力性より知性に魅力を感じるような社会的変化が起きているのかを突き止めようとしたとのこと。Seffrin氏は、「知性と暴力性は人々の中で負の相関関係にあるため、性交渉の成功にこの2つの要因がどう相互作用するのかを知ることは興味深いと考えました」とコメント。また、暴力性や知性がパートナーの数に及ぼす影響の男女差についても、今回の研究における関心の対象だったと述べています。
研究チームはアメリカで行われている縦断研究・National Longitudinal Study of Adolescent to Adult Health(青年期から成人期の健康に関する全国縦断的研究)のデータベースから、1994年〜2009年にかけての調査に参加した男性5636人と女性6787人のデータを抽出して分析しました。
被験者らは15年にわたる調査期間中に合計で4回の調査に参加し、研究の一環として言語的な知能テストを受けたほか、暴力・犯罪的行動や学業、性生活などに関する質問にも回答したとのこと。研究チームは肉体的な魅力や健康状態およびその他の要因を制御した上で、暴力的な行動がセックスパートナーの数と関連しているかどうかを調査しました。
分析の結果、男性では暴力的な傾向がセックスパートナーの数と有意に関連している一方、女性の暴力的な傾向はセックスパートナーの数と関連しないことが判明したそうです。男性の場合、前回の調査よりも暴力性が増すにつれてセックスパートナーの数が増加しましたが、女性では暴力性の増加が性的交渉を結ぶ相手の増加につながりませんでした。また、教育レベルの上昇は男性のセックスパートナーの数と長期的に関連していたものの、言語的な知能および高校における学業成績は、セックスパートナーの獲得につながらなかったとのこと。
Seffrin氏は今回の調査結果について、女性が依然として暴力的な行動を性的な魅力と結びつけており、知性は暴力性よりもセックスパートナーの数との相関関係が小さいことを示していると指摘。「したがって、現代の産業社会では高い知性を持っていることがステータス的な報酬につながるにもかかわらず、暴力的な男性は同等の知性と肉体的な魅力を持つが攻撃性が低い男性と比較して、より性的交渉の成功で報われ続けます」と述べました。
なお、今回の研究は異性愛的な規範を基にしたものであり、LGBTQの人々にも同様の結果が当てはまるかどうかは不明だとのこと。また、知性や暴力性がもたらす性的魅力については議論が行われている最中であり、今回のデータはあくまでも理論的な領域にとどまるものだとSeffrin氏は指摘しています
Brains, brawn, and beauty: The complementary roles of intelligence and physical aggression in attracting sexual partners - Seffrin - 2021 - Aggressive Behavior - Wiley Online Library
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/ab.21934
Longitudinal data suggests physically aggressive men tend to have more sex partners
中華料理店における定食(セットメニュー)の構成要素として、卵スープは不可欠な付随物である。しかし、主菜たる炒め物や米飯が一定の高温状態で提供されるのに対し、スープの提供温度には著しい個体差が認められる。消費者は往々にして、火傷を誘発するほどの高熱状態を期待するが、現実には摂食に支障のない、あるいは「ぬるい」と形容せざるを得ない中温帯での提供が散見される。本稿では、この温度偏差が発生する構造的要因と、それが消費行動に与える確率論的影響について考察する。
スープの温度が常に最高値に設定されない理由は、調理学的な最適化の結果である。スープの「美味しさ」という多変量関数において、温度 T は重要な独立変数であるが、その寄与は単調増加ではない。
即ち、提供温度 T を最大化しようとする試みは、スープ全体の官能的評価(Total Palatability)を減じるという負の相関関係を持つ。店主は、顧客の求める「熱さ」という単一の効用と、料理としての「品質保持」という全体的効用のトレードオフに直面しており、その結果として加熱を断続的に休止せざるを得ない。
消費者側にとっての問題は、当該店舗の加熱サイクルに関する情報の欠如、すなわち「情報非対称性」にある。
スープの状態は、大鍋における再加熱プロセスの時間的フェーズに依存する。しかし、消費者は厨房内部の加熱スケジュールを事前に知り得ない。また、消費者の来店タイミング t_arrival も、店舗側の加熱周期 f(t) に対して独立した変数である。
この状況下で、提供されるスープの温度 T_served は以下の特性を持つ。
特に「熱々のスープ」という属性に対して高い負託を寄せる消費者にとって、この事態は深刻である。期待される効用 U(T) が T の高値付近に集中している場合、低温度帯の抽出は期待値からの大幅な下方乖離(損失)を意味する。
結論として、中華料理屋における卵スープの摂食は、消費者の意思決定と店舗側の供給サイクルが確率的に交差する地点で発生する「期待値への賭け」に他ならない。不確定なパラメータに基づき、自身の満足度を賭してレンゲを運ぶその行為は、構造において極めて賭博的な性質を帯びているのである。
中華料理店側も、このスープの温度における不確実性が顧客満足度を毀損し得るリスクを経験的に認識している。しかし、その解決策として選択されるのは、精緻な温度管理システムの導入ではなく、往々にして「体育会系男子学生」的価値観に基づく量的補償である。
しかし、消費者の加齢に伴う生理的変容はこの均衡を崩壊させる。消化機能の減退により「ドカ食い」が困難となった層にとって、過剰なボリュームはもはや恩恵ではなく、身体的負担という名の負債へと転じる。
ボリュームによる埋め合わせは、特定のライフステージにおける一時的な宥和策に過ぎない。消費者が成熟し、質的な安定を希求する段階に移行した際、スープの温度という「ギャンブル性」は、もはや許容し難いリスクとして顕在化する。
店側がこの体育会系的解決に固執し続けることは、長期的には優良な顧客層の離反を招き、顧客生涯価値(Lifetime Value)の著しい減退を招来するのではないか。中華料理屋のスープが、単なる確率変数からの抽出を超え、一貫した熱力学的信頼性を獲得することこそが、次世代の持続可能な経営課題であると断じざるを得ない。
興味深い自己分析の問いですね。あなたが「外国人=治安悪化」という思い込みを持たなかった(あるいは疑えた)理由を、いくつかの可能性から考えてみましょう。
考えられる要因
1. 情報収集の習慣
主張に対して「データはあるのか?」と問う習慣
2. 批判的思考力
「みんなが言っているから正しい」と思わない
感情的な主張に対して一歩引いて考える
4. 教育的背景
5. 性格的傾向
6. 情報環境
より深い問い
ただし、重要なのは**「なぜ自分は見抜けたのか」を考えることで、さらに別のバイアスに陥らないか**という点です。
注意すべき「逆方向のバイアス」
優越感のバイアス: 「自分は他の日本人より賢い」という思い込み
確証バイアスの逆転: 今度は「保守的な意見は全て間違い」と決めつける
自己分析を深めるために、以下を考えてみるといいかもしれません。
この問題以外ではどうか?
経験的背景は?
あなたができること
「正しい/間違い」ではなく「一緒に考える」姿勢
あなたが見抜けた理由は、おそらく複数の要因の組み合わせです。ただし、大切なのは:
「自分は正しい認識を持っている」という自信は持ちつつ、「だから他の人は間違っている」という優越感には陥らない—このバランスが重要です。
東京近辺においてチームみらいに投票した比率は、子供のいる家庭の比率と一致します。(都内の子育て世帯≒年収1000万超えです。)
「ママ」の多くは高齢者をヘイトし、高齢者の医療費自己負担額を上げろ、老人を殺せガス室に送れと叫んでいます
「ママ」は未来が大事なのでチームみらいに投票します。過去の遺物である老人は、汚物は消毒します。
戦争で子供や若者が死んだら困るが、老人が死ぬなら大歓迎です。
このマップを見れば分かるように、チームみらいを支持して口減らしとして老人虐殺を望んでいるのが、#ママ戦争の清繭子さんのような東京在住高学歴高所得層の「ママ」達です。
@ShinagawaJP
色がついた地域にはいわゆる専門系ホワイトカラーの住民が多くて、まさに「都市型政党」だなぁ・・・と。
@ShinagawaJP
チームみらいの得票率と「世帯年収1,000万円以上(子育て世帯)」「専門系ホワイトカラー比率(30代)」の相関関係(関東地方1都6県)。
※とはいえ、「金持ちほどみらいに投票した」とは言い切れないことに注意が必要。(生態学的誤謬)
@ShinagawaJP
今回、チームみらいが注目を集めたことで「年収と相関!」みたいな話題が延々と流れてくるけど、2025参院選や2024都知事選(安野さん出馬)でも同じ傾向でした。
2025参院選で「みらい」が票を集めた地域では、2026衆院選でも票が伸びた。
@ShinagawaJP
逆に、やや減速傾向となったのが国民民主党。
もともと東京近郊で若者を中心に得票していたところ、都心周辺で「みらい」に流れたようだ。
なんで確率を全部掛け算してるの?馬鹿なの?商店街のくじ引きでガラガラポンするんじゃないんだから、それぞれの条件に関連性があるだろ。
https://president.jp/articles/-/74294
身長と仕事の成功に関して、数多くの学術研究の蓄積があります。
まず、所得との関係を見ると、身長が高い人ほど所得が高いことがわかっています。この傾向は国によって異なっており、欧米と比較してアジア地域ほど上昇幅が大きくなっています(*1)。具体的には、アメリカでは身長が10cm高くなると、所得が約4%伸びますが、アジア地域では所得が約9%伸びることがわかっています。
Dine社長より
http://blog.esuteru.com/archives/9668855.html
掲題の件、悲しい現実を書きたいと思う。
理由はただ1つ。
教訓:
見た目をどんなに頑張っても身長が無ければ終わり。骨延長手術するか来世に期待しろ
セックスするなら毛の処理だけは怠るな。毛だるまは相手のサービスの質が落ちる
容姿が終わってるけどセックスしたいならtwitterに行け。twitterにおいては身長以上に金が正義だ
相手は選んで合法に楽しめ。ツイ援使って業者とアンダーを排除しろ
マッチングアプリ人気上位をユーザーを調べた結果、男性にとってはかなり厳しい世界であることがわかりました。
30代は8割が年収600万円以上
95%が身長170cm以上
デートで割り勘をしない
婚活のプロです。女性のおっぱいに相当する男性の特徴は筋肉です。女性は一般的におっぱいが大きい方がモテますが、なくても大幅減点にはなりません。一方で男性の身長は低いと大幅な減点に繋がるため性質が異なります。なくても大幅減点にならないけどあったらモテる男性の身体要素は筋肉です。
婚活において男性の「身長」に対応するのは女性の「顔」です。女性は男性の身長に男性は女性の顔にこだわるので、低身長男性の需要の無さは、ブス女性の需要の無さに対応するという話を書きました
//note.com/konkatsu_consul/n/n12fecd62f220
政策の良し悪しとかいう次元ではなく、状況感知と意思決定の運用能力の低さという個人資質の次元で、国のトップを務められると国民としては恐ろしいレベルで、無能(無謀)。
前提として、衆院選での与党獲得議席率には首相支持率どころか与党支持率ですら正の相関関係を持たない(うっすら逆相関の気配すら見えるほど)。
これには幾つかの理由があって、主なものとして、支持率調査の回答者は統計確率としてどうしても「どうせ選挙にいかない層」が100% - 投票率 = 日本の衆院選で言えば半数近くが占めることや、同様に人工分布から回答者が都市部在住者(1票の価値が低い人たち)に偏りがちなことや、小選挙区制 = 接戦の2位と大差で敗北した3位以下が全て同じ落選という結果であることや、小選挙区議席数に対して相対的に少ない比例議席数であることや、(特に浮動層の)投票者が小選挙区と比例代表で投票先を変えることでバランスを取ろうとしがちということなどが挙げられる。
また、十分な党内調整なしでの議会解散は、解散前に比べて選挙後の獲得議席数がよほど躍進しない限り、首長の党内求心力を急速に低下させる。
これは当然で、小さくないコストとリスクを一方的に押し付けてきた上でもたらす結果が現状維持±微差程…というリーダーに進んでついていきたい人は少ないからだ(その逆は大勢いる)。
憶測だが、今回の衆院選後に高市総理が党内求心力を維持できる最低ラインは単独過半数獲得、つまり現在の議席数から+約40議席の大躍進が「最低ライン」として求められるだろう。
では、それが可能か?というと、厳しい。
直近の衆院選結果から、公明党の選挙協力がないと現在自民党が議席を持っている多くの選挙区で接戦化やほぼ確で負け…というのが数値で見えている。公明の票が立憲に流れた場合(実際にそうなりそうな気配濃厚だが)はこれまでは勝利を疑わずに済んでた区ですらほぼ確で負ける区が出てくる。
さて、本題というか、なぜ高市総理が無能(無謀)なのかの説明はここから。
ここまでに書いたようなことは選挙アドバイザリーやコンサルタントなら誰でもが同意するいわば常識の類なのだ。
だから、高市総理の選挙アドバイザリーも、聞かれればほぼ確実に上記のような懸念とともに、まずは得がないからやめとけと伝え、止めるのが無理ならせめて党内調整はしっかりやっとけと伝えるはずだ。
なのに高市総理が衆院解散の意思を固めてそれを公表してしまったということは、選挙アドバイザリーもつけられないような体制整備の不如意さか、自分が詳しくないことを専門家に相談することができない無能さか、専門家から指摘されたリスクを英雄的思考で無視して進んでしまう無謀さか…という、どれをとってもリーダーとしては致命的な欠陥の少なくともいずれか1つ以上を高市総理が保持していることの表れである。全部かもしれない。
この厳しく不安定な世界情勢下で自国のトップがそんな無能(無謀)さを備えた人物であることが国民としてはとても恐ろしく、日本終わってる感が半端ない。
有能なリーダーによる独裁とリーダーが無能な民主主義となら、それは銀英伝を始めとしてこすられまくったテーマではあるけれど、まだ議論や勝負の余地がある。
しかし今回の衆院選は無能なリーダー(高市)による独裁と、リーダーが無能(立憲)な民主主義という戦いなのである。
やれやれ。
どうせ学生じゃなくなった後は学歴じゃなくて成果で評価されるわけだから特に大学教員になるなら現役で受かる大学に行っとくのが正解なんだよな。たとえfランと呼ばれるところでもね。
でも塾予備校が定めるランクはともかく名門校かどうかとランクは多少相関関係あるだろうからfランはさすがにやばいのかね。名門校じゃないと教授の質が明らかに低いっていうけど。
dorawiiより
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https://www.youtube.com/watch?v=xU8KiNYXmw0
令和の玉音放送って言ってる人いて吹いた
なんで冬に言うんだよ
雪は涙を隠せない
今日なぜか暖かかったんだよ
実はバキ童は画面の前の俺らだったという衝撃の最終回
うまトマチキン冷めちゃった
ああ、お前は春の暖かさを知っているのか。俺は空の高さしか知らないのに。
ピーターが急に興味失ったら笑う
あんなに一緒だったのに
夕暮れはもう違う色
小さい時親は死なないと思ってた。
バキ童はね、彼女なんかできないんだよ。
今年のクリスマスはなんだかさむいな
喪失なんです。
バキ童「彼女できました」
俺「置いてかないで‥俺を大人にさせないで‥」
敢えてクリスマス直前に公開することによって、クリスマス当日の童貞達に「ぐんぴぃは今頃性なる夜を過ごしているんだ」という思考を過ぎらせて絶望を与えるの悪魔すぎるだろ
35歳→バキ童ライン
なんでだよ
誠実かよ
アイドル声優Vtuberに彼女彼氏がいて発狂するやつを笑っていたけどバキ童に彼女がいるのは悲しくなった
俺はアイツラを笑えない
夫がぐんぴぃの童卒と熱愛にキレ散らかしていて、そんなに彼の事を好きだったのかと困惑している。
これもう寝取られ報告だろ
寂しい
寂しい
猫で空いた穴は猫でしか埋められないと聞くけど
バキ童を失って出来てしまった穴は一体何で埋めれば
いいんだろうね。私の心には今ぐんぴぃの形をした穴が空いているよ。
ぐんぴぃはサラッと報告して
バキ童にしがみついてたのは俺らの方だったんだな、、、、
アイドルの彼氏バレとかって祝福してやればええやんって思ってたんだけど、みんなこんな気持ちだったのか…
今までごめんな
表題のとおりです。
事の発端は、12月12日に飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田の批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。
これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田の批判に対する反論を試みました。
このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判と三宅反論の論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます。
まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います。
なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書)https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html からの抜粋であることを念の為補足しておきます。
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📰 0. 三行要約(問題点)
・飯田批判は、特に「三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないからダメだ」という主張に相当問題があると思う。
・三宅反論は、そもそも「反論」できてない。言い換えると、飯田の論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。
・三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたかも飯田のデータ処理の問題にすり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。
以下、飯田批判と三宅反論についてより詳細に検討していきます。
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飯田の批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います。
理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。
・直接的には指摘ではないものには「◯」
また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます。
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(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人の読書量は減らない」の節)
◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。
しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。
<主張1-1の論証>
根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。
これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。
<論証おわり>
--------------------
◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。
<主張1-2の論証>
*根拠1-2-2. データ: 紙の書籍の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。
<論証おわり>
--------------------
◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である。
<主張2-1の論証>
*根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。
<論証おわり>
---------------------
◎主張2-2. 三宅本では、書籍と雑誌の区別ができていない。
<主張2-2の論証>
根拠2-2-1は、三宅本において雑誌と書籍を区別できていないことを示している。
<論証おわり>
--------------------
[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌と書籍を区別するべきである。]
(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)
---------------------
◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である。
<主張2-4の論証>
*根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間」である。主張2-1から、雑誌の接触時間は減少傾向であると推察されるので、
「読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である。
*根拠2-4-2. そもそも「読書時間」もそれほど減っていない。
*根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.
根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。
[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍の読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、
また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-1. 三宅本は、日本人が現在も長時間労働であることを前提にしている。
しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である。
<主張3-1の論証>
*根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年~2023年)の労働時間の推移についての考察」
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:
(ii) 自己啓発(労働による自己実現)のための読書(=「情報」摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.
(iii)代わりに、人文書や小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)時間が減少した
(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例のグラフを描く
<主張3-2の論証>
*根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的な根拠はない(提示されていない)
根拠3-2-1から、労働者の 「自己研鑽」 = 「学習・自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。
これは(ii)を否定する。
主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)
根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発書市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。
言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:
(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。
<主張3-3の論証>
根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。
しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場は小説市場よりはるかに小さいということを意味する。
これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。
<論証おわり>
--------------------
[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]
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以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。
●飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別は本質的か?
主張2-4の背後には「書籍と雑誌は分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。
三宅本の「読書」から「雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。
といっても自分は出版業界の人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。
(間違ったこと言ってたらごめんなさい)
「書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。
ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定の編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである。
これは、1985年のユネスコの出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。
("図書、新聞及び定期刊行物の出版及び配布についての統計の国際的な標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm)
より実際的な取り扱いは, "既存の雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/
によれば、
そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。
一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります。
ということらしい。(しかし、これはあくまでコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)
「書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。
日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコードや雑誌コードを持っている。
その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである。
("「雑誌」の定義と出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/)
ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠に雑誌コードが付いているかどうかだったりである。
コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系の雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。
さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリ』シリーズの書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的に単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍」である)
一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。
このように「書籍」と「雑誌」の区分はそもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分が出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。
この区分はかなり表面的、形式的なものであると見るべきだろう。
・以上を踏まえて、飯田の批判、つまり「書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したことの妥当性ついて吟味してみよう。
それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である。
そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、
特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているからである。
ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。
飯田はその直前に「「書籍の読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌の読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいるものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。
ともかく、飯田の批判の妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。
三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書や小説などのような(「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。
したがって「読書離れ」は「人文書や小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書、ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである。
転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。
要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル(文芸・歴史書・哲学書・理工書・サブカル・ゴシップ・ファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである。
もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションやゴシップが支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通における Permalink | 記事への反応(0) | 20:21
なろう系が多すぎて消費側からすればあえて非なろうを狙いでもしなきゃクズには当たらない。
非なろうをわざわざ漁るってことはクズに当たることに対する相応の覚悟を持ったうえで面白いのを探すってことだからってことで作者には独自性求めてもらっても消費側としては困らんってこと。
結局は実験的精神がなきゃ大成功は生まれない。それはジャンプがベテランだろうがアンケ結果少しでも悪けりゃ容赦なく切って新人への枠として確保することで定期的に大ヒット作を出してきたってことが証明してる。
大ヒット作が出せることは作者は当然読者にとってもウィンウィンなので、クズが多少増えようが大歓迎だ。
そもそも面白さへのマイナス影響がでかいと断言する立場をとるなら売れたさへの影響がゼロなわけないだろう。面白さと売れたさにこそ相関関係があるのは誰もが認めることだろう?
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251212163950# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaTvG3AAKCRBwMdsubs4+ SIDJAP9c8jGk0Gz+n1v+DGl4SuZ5L2NrJNGz4uZP4KPRSenKBQD/ThsyPIGw3578 Mh/+mpMxK3VdStJCDv9Tiwv3JV9TKQQ= =r4YL -----END PGP SIGNATURE-----
ドルベースGDPという物差しで見ると、この数年の日本の経済状況はインフレ率(物価上昇)よりも為替の減価(円安)のスピードが遥かに速く、国全体としてはシュリンクしているという残酷な現実を突きつけられます。
ドル建て名目GDP: 2012年頃は6兆ドルを超えていましたが、現在は4兆ドル台へ転落。ドイツに抜かれ世界4位になりました。
つまり、国内のインフレ(物価上昇)を遥かに上回る勢いで通貨の価値(円安)が落ちたため、国際的な購買力や経済規模はむしろ縮小したというのが、ドルベースで見た現実です。
リフレ派の人たちが「あほ」に見えてしまうのは、彼らが意図的にドルベースの指標を軽視(あるいは無視)しているからです。彼らの理論的支柱には以下のロジックがあります。
GDPの大部分は国内の活動です。彼らにとって最重要なのは雇用の確保と国内の名目賃金・売上の増加です。海外旅行に行きにくくなっても、国内で仕事があり、給料(額面)が上がれば、失業地獄よりマシという考え方です。
日本の公的債務(1000兆円以上)は円建てです。インフレを起こして円建ての名目GDPを膨らませれば、対GDP比の借金比率は下がります(インフレ税)。ドル建てでどうなろうと、円建ての借金の重みが減れば財政破綻は遠のく、という計算があります。
インフレ率を上げれば失業率が下がるという相関関係(フィリップス曲線)を重視するため、とにかくインフレ率をプラスに持っていくことが是とされました。その副作用としての過度な円安による国力低下は、想定以上だったか、軽視されていた可能性があります。
インフレ率と無関係なほどドル建てGDPが落ちた最大の要因は、リフレ派の想定以上に悪いインフレ(コストプッシュ型)と為替の暴落がセットで来てしまったことです。
| 視点 | リフレ派の期待した世界 | 現実(ご指摘のドルベース視点) |
| インフレ | 需要が増えて価格が上がる(良いインフレ) | 貨幣価値低下で価格が上がる(悪いインフレ) |
| 為替 | 円安で輸出企業が儲かり、国内に還元される | 円安で輸入コストが激増し、実質賃金が目減りする |
| GDP | 円建てで増えれば、国民は豊かさを感じるはず | ドル建てで激減し、国際的な地位と購買力が低下 |
リフレ派が「名目GDPは成長している!アベノミクスは成功だ!」と言うとき、彼らは「国内の借金返済能力と、額面の数字」を見ています。
一方で、私たちが「日本貧しくなったな(iPhone高いな、海外行けないな)」と感じるとき、それは「ドルベース(国際購買力)」を見ています。
国際競争力を失い、通貨価値が暴落して『安い国』になることを許容してでも、国内の数字上のインフレを作り出したかったというのが、結果から見たリフレ政策の正体だったと言えるかもしれません。
その意味で、ご指摘の「ドルベースで見ればインフレなんて無関係(むしろマイナス)」という見方は、今の日本の閉塞感を的確に表しています。