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2025-05-25

トイストーリー4に対する憎悪がいまだに消えない

こんなことをどこに書くべきか何もわからなかったので、とりあえずここに垂れ流すことにした。

ぜひこの記事に「トイストーリー4 嫌い」とか「トイストーリー4 駄作」とか、なんだったらこれ以上の被害者を出さないためにもトイストーリー4 評価」とかで検索してたどり着き、この感情に任せた書き散らしがひどいことになる前に止めたいと切に願っている。

件の「トイストーリー4」(以下トイ4)が公開されたのは、2019年。これを書いてる時点でもう6年も月日が経とうとしている。それでもなお、いまだに私はトイ4に対する強い憎しみを覚えているし、内容も昨日の事のように思い出せる。1回しか観てないのに、だ。もしかたらこれを読んでいる人は「1回じゃ良さがわからいから、ちゃんともう一回見直せ」 「6年も経ってるなら新しい発見があるかもしれないだろ」と言うかもしれない。

教徒め。

私はあの悪夢に魂まで焼かれ、わずかに残っていた企業に対する信頼すらすべて失わせるほどの苦しみを与えられたのだ。今更もう一度なんて絶対に観ない。観たくない。

じゃあそもそもなんでこんな書き散らしをしているのかといえば、Xで「トイストーリー5が作られるらしいよ」という情報を目にしたかである

おいまじふざけんな。

ももそトイ4だってなかったことにしたいんだぞこっちは。なんでここで5を出すんだよ。お前らも4気に入らなかったってことじゃないか。気に入らなかったら続編を作って、最新作の良さで駄作評価し直して金稼ごうってか。世間制作会社配給会社が許しても、私の心はそれに「いいね」なんて言えない。火あぶりにされても絶対に言えない。

そんなわけで、ネタバレたっぷりでトイ4の何が悪かったのか、私が何に対して憤りを感じているのか、書いていく。読んでもいいし、読まなくてもいい。

そもそも、あの美しく完結したトイストーリー3の続編を作ろう、というのが気に入らない。私が人生で初めて映画館で見た映画トイストーリーだ。記憶は定かではないが、記憶が定かでないような年齢の子供が映画館アニメ映画を1本まるまる見て、それでいて親に「あれがお前と人生で初めて一緒に観た映画だよ」なんて語られるんだから、相当静かに見入ってたに違いない。我が家にはトイストーリーVHSもあり、それをセリフを覚えるまで何度も何度も何度も何度も観た。多分、観てない時間の方が短かったんじゃないかというくらい観た。なんだったら当時はアメリカ暮らしだったので、英語で見た。子供の頃にはわからなかったジョーク(例:ポテトヘッドが口を取り外して自分の腰あたりにペタペタ押し付けるモーションがウッディの最初演説中に入るが、あれはkiss my ass、黙れとか消えろとかうぜぇとかそういう意味)が理解できたのは相当後になってからだった。とにかく、それくらい繰り返し観た、私の魂の映画だと思ってもらって構わない。

それが2を経て、なるほどバズとウッディの立場を逆にしたというか、1ではバスおもちゃとは、を説くのがウッディだったのに対して、その構図がひっくり返ってるの、相当上手だなとひどく関心してた。3では自分と同じように年を重ねたアンディの気持ちが痛いほどわかって、ひどく辛く、そして優しく、嬉しく、豊かな気持ちになって映画館を出た。素晴らしい映画で、トイストーリーシリーズは傑作だと思った。

それがどうだ。トイ4。あれはゴミ箱行きにしてほしい汚点だ。トイストーリーシリーズに対する侮辱だ。けもフレ2だ。

あんなに優しく、大事にするんだよって念押ししながら渡したウッディの扱いがこれか。いや、子供なんだから仕方ない。そう、3におけるボニーのウッディに対する執着が、トイ4時点でコロっと変わるのは、もう、「子供は飽きっぽいかしょうがない」 「興味が移るのは子供の成長の証」と思うし、納得できないところではない。だからこそ仮面ライダーとかプリキュアだって毎年やってるし、当時の子供たちが大人になったタイミングリバイバルとして新作映像作品に登場したりする。これは当然だ。うん、わかる。

その「興味の先」がフォーキーってなんだ。

あいつは正しく自分を自認していた。ゴミだよ、言っちゃ悪いけど。そりゃあボニーは大事にしていたかもしれない。でも、他にいくらでも遊ぶおもちゃ選択がある中で?ぬいぐるみだっていろいろ持ってたじゃない?ジェシーだっているのに?男の子向けのおもちゃが興味持たれないのは当然だろう。ただ、じゃあ自分女の子向けのおもちゃよりも優位に立つだろうか?

「でも、学校には持っていけないじゃない」

そりゃあそうだ。でも、寂しさや疎外感を紛らわすなら、先割れスプーンで作った人形とかではない気がする。そんなので遊んでたら余計仲間外れにされるだろ……アメリカ日本とは常識が違うとかじゃない、アメリカだろうと日本だろうと、先割れスプーンで作った人形でずっと一人遊びしてる子は仲間外れにされる。ボニーはそんなことわからないのは当然として、これを読んで反論をしようとしたトイ4に賞賛意見を持つ異教徒でも、それくらいは理解してほしいと思う。

で、ゴミ箱身投げしようとするフォーキー子育てする父親よろしく甲斐甲斐しく世話をしていくウッディ。

わかるよ。ボニーが泣いてるの見たくないよな。子供はいだって笑っててほしい。でもごめん、先割れスプーンで作ったなれ果てみたいな人形一つを失くしてギャン泣きしたら、多分翌日にはボニーはケロっとしてる。ウッディに対する執着のなさを見ていると、そうとしか思えない。だってトイ3であれだけウッディを可愛がっていた……はずなのに、トイ4ではあんなに興味ないんだぞ。多分、もとより興味が移りやすい子なのかもしれない。その中で執着を覚えたのがフォーキーなのかもしれない。

それでも、そんなフォーキーを「世話しよう」と決めたのはウッディだ。なんで疲れて弱音吐いてんだ。生きがいとしてやるって決めたのお前じゃねーか。私はこの時点で「もしかして制作陣は過去作を一つも観たことがないのでは……?」という不安に苛まれ始め、バズの言動でそれを確信へと変えた。

バズ。あぁバズ。スペースレジャーと思い込んでアンディの部屋にやって来た、思い込みが激しく人一倍信念が強く、実はウッディよりも仲間想いのバズ・ライトイヤーよ。

お前、トイ4では自分セリフが一つもないんだな。

トイ4を観る、という苦行を行った同士ならご存知かもしれないが、この映画、バズの登場シーンが他と比べて少ない。なんだったら、過去作のおもちゃの登場シーンはひどく少ない。なんというか、「バズを出す必要があったから出したけど、本当は出したくなかった」とすら感じてしまうほどだ。

極めつけはトイ4の中で、何か意思決定をする時に「心の声」とやらにしか従わない点にある。何、心の声って。英語だとinner voiceとかvoice inside youとか言ってたかな。要は「自分が正しいと思ったことをしろ」ってことなんだけど、それを音が鳴る機能の部分と勘違いして、それに従ってしまう。

第一に、バズの音声バリエーションはそんなに多くない。これは現実おもちゃを触ってたからこその話なんだけど、でも作中だとスペイン語切り替えスイッチがあるし、結構高性能なおもちゃなのかもしれない。ならプレバン限定おもちゃみたいに「40種類の音声バリエーション!」みたいな感じになってても不思議ではない、のかもしれない。

だが第二に、仮にそうだとして、過去作のバズならそんなことはしない。バズはスペース・レンジャーであり、即座の判断力に長けたおもちゃである。これはトイ2で、2種類のバズを比較してわかることだ。我らがアンディバズは、アルのアパートにやって来た際に、すぐに通気口から仲間たちが侵入したことに気づいた。描写としてはレックス足跡と外された通気口の格子を見ただけ、というもの。この瞬間的観察力と判断力は、ウッディとジェシー飛行機貨物から飛び降りる時にも、ウッディの軽い指示だけで受け止める準備をした様子からも見て取れる。

Al's Toy Barnで出会った新バズも、ウッディが襲われてると勘違いしたレックスに「どうしよう?」 (What do we do Buzz?) と問われて、即座に「頭を使え」(Use your head)と即答していた。その一連の流れ自体ギャグシーンなのだが、この判断力はさすがバズであるといえる。エレベーターで昇るのが無理になり、半重力システムを使うという判断をする際も、かなり思い切りがよかった。それこそ、他のおもちゃたちが止めても決行したほどに。

トイ2から引用だけで申し訳ないが、この通りバズは思い切りの良さと判断力が強いキャラクターなのだ。それを「心の声に従わせて動いてもらおう」は、あまりにもバズというキャラクター理解していないのみならず、理解しようという努力すら放棄していることの証左であるだって観たらわかるんだから。観てわかることをあえて行わないのだとしたら、それはもう反逆と言わざるを得ない。なんでそんなことしたんだ。

文句はまだまだある。ボー・ピープに関してもだ。

まず、アンディの家は、アンディはもちろん、母親おもちゃに対する理解をかなり示す人である引っ越し前にウッディとバズをなくして落ち込むアンディに「きっと出てくるよ」と優しく声をかけたり、アルが「いくら!?」と交渉を持ち掛けても「ウッディは家族おもちゃで売り物じゃない」と突っぱねるなど、おもちゃと、それで遊ぶ子供に対して非常に理解のあるお方なのだ

それをほかの人に譲るだろうか……?

いや、これはよくない。ボーがいなくなったのは2と3の間で、4とは関係ないのだ。今やりたいのは重箱の隅をつつくことじゃなく、トイ4を批判することだ。

2019年ごろのディズニーは、他の映画製作会社の例にもれず、というかアメリカ社会流行である、強い女性社会進出だとかLGBT有色人種への配慮だとかSDGsだとか、そういうものにあふれていた。今も溢れてるのかもしれない……実写版白雪姫の評判を聞いている感じだと。

とにかく、その流れの中で「強い女を出そう」ということになったのは火を見るより明らかである。それも「過去に”女”というキャラクターで出されていたやつを、強い女へと昇華して”あげる”」という傲慢甚だしい考えがあったに違いない。それこそが白人の思い上がりというか、まぁそれはいいとして、キャラ改変されて再登場させられた。そこに元あったボーの華やかさとかお淑やかさとか、カウボーイに対するヒロインイメージはない。ボー・ピープのアイデンティティ破壊というか塗り替え、完了ってか。そうして「強く自立した女を出した」ことで、それが評価されてるの、本当に駄作を作る才能に長けているとしか言いようがない。

これ以上書き続けても本当に細かい呪詛がたくさん出てくるだけだし、そろそろ眠くなってきたので最後にウッディについて。

彼こそ、一番の被害者と言ってもいいかもしれない。

いや、話の流れ的にはウッディは綺麗だよ。おもちゃとしての心であったボイスボックスをギャビー・ギャビーに差ししたことで、ウッディ自身おもちゃとしての役割から解放されてしまい、仲間の元を去る。それはわかる。結果としてギャビー・ギャビーはおもちゃとして受け入れられていくことになった。いい話だ。ギリギリね。本当にギリギリ

悪いけど、過去作のウッディならギャビー・ギャビーも一緒に連れて行ってるでしょう。ボイスボックスダメになったくらいでおもちゃを見捨てるようなウッディじゃないし、なんだったら私はあのクライマックスのシーンでそれを期待していた。期待はいとも簡単に裏切られたけどな。

音の鳴らなくなったウィージーを見捨てることがなかったウッディは、たとえおもちゃが壊れてようと仲間として迎え入れる懐の広さとカリスマ性を併せ持つ最高のおもちゃなのだシド魔改造されたおもちゃとも心を通わせられるカウボーイなのだ。ギャビー・ギャビーだってその例外ではないはずだ。

だがトイ4のウッディは説得ではなく、ギャビー・ギャビーの願いを叶える形を取った。美しくはある。だけどそれをトイストーリーという土台でする必要は全くない。ゼロ

それなのにその決断をしたというのは、これはもう「トイストーリーのこと何もわかってません」と言ってるようなものだと思う。

それで最後にウッディが下した決断が、仲間たちと別れること?

トイ1で、トラックの下でバズになんて言ったか覚えてないの?覚えてないなら私が思い出させてやりたい。

ウッディは "You are a TOY! A child's play-thing!"って言ってたんだ。お前はおもちゃだ、子供が遊ぶやつだ、と。

ウッディの認識は、おもちゃ自分たち)=子供が遊ぶものである。だから博物館に入ることにも価値はない、とトイ2でも帰還を目指す。トイ3でも同じ行動理念を持って、あの絶望的な保育園からの脱却を図る。

なんでその理念をトイ4で忘れたのか?答えは簡単制作陣が過去作を観てないか、嫌いだったかである

トイストーリーとしての当たり前に守るべきルールはまだまだああるが、どれ一つとして守れていない。トイストーリー4は純度120%のアンチトイストーリーであり、黒歴史であり、駄作であり、観る価値のない作品の一つで、これを観る暇があるなら騙されたと思って初代トイストーリーを見て欲しいと思う。

そして、トイストーリー4を名作だと思っている異教徒の皆様へ。

悔い改めてトイストーリー1を見るか、自分の魂を形作った作品の、ゴミのような続編を同じ気持ちで見てくれ。

2025-05-24

内田樹研究室> 内田樹による「内田樹の墓碑銘」

序:言論の場に吹く風の変化を前にして

世の中には、時代というものがあって、それは時にゆっくりと、時に急激に、人の心のありようや言葉の響き方を変えていく。2010年代の初め頃、私の書くものや語ることは、どこかで多くの人に「なるほど」と頷かれ、共感の輪を広げていたように思う。『日本辺境論』や『街場の教育論』が、ある種の教養を求める人々の心に響き、ブログ内田樹研究室」は、専門の知と日常感覚を橋渡しする場として賑わっていた。しかし、2020年代に入り、世の風向きが変わった。私の言葉が、かつてのように多くの人に届かなくなった気がする。これは、私一人の問題ではない。日本言論空間そのものが、大きく揺らいでいるのだ。この揺らぎを、時代と人の関わりの変化として捉え直し、知識人役割がどう変わりつつあるのか、考えてみたい。

一:時代という風が変えた言論の地平

世の中は、技術と人の暮らしの変化によって、目に見えない形でその土台を揺さぶられる。2015年からスマートフォンSNSの普及は、まるで川の流れを変えるように、情報のやりとりを一変させた。XやYouTubeといった新しい「広場」では、短く、鋭く、心に刺さる言葉が求められる。私の書くような、じっくりと論を重ね、哲学歴史を織り交ぜた文章は、こうした新しい場では、どこか「遠い話」に聞こえるのかもしれない。Xの投稿を見ると、「内田樹の話は高級すぎて実用的でない」との声がちらほら聞こえる。これは、言論が「消費財」となり、注目を奪い合う「経済」の一部になったことを示している。

この変化は、技術けがもたらしたものではない。東日本大震災コロナ禍という、世の中を揺さぶ出来事が、人々の心に「今、ここで生きる」ことへの切実さを植え付けた。経済格差が広がり、若い世代は「明日をどう生きるか」を考えることに追われる。私の言う「脱成長」や「日本辺境性」は、こうした現実を前にすると、どこか「悠長」に映るのだろう。たとえば、Xでは「内田低所得層には冷淡だ」との批判も見られる。また、グローバルな課題——気候変動やAI進化——に目を向ける若者たちにとって、私の日本中心の話は、どこか狭く感じられるのかもしれない。時代は、ゆっくり考えることより、即座に答えを出すことを求める風に変わった。

二:知識人の立つ場所の揺らぎ

かつて、知識人とは、世の中の大きな流れを俯瞰し、歴史哲学を糸口に、人の生き方を照らす存在だった。私も、レヴィナスの「他者への責任」など先人の智慧を借りながら、世の中のありようを解きほぐそうとしてきた。しかし、今、言論の場は多様化し、誰でもが発信者になれる時代になった。XやYouTubeで、専門家でもない人が、専門的な知をわかりやすく語り、共感を呼ぶ。こうした「インフルエンサー」と呼ばれる人々は、街場の語り部のように、身近な言葉で人々の心をつかむ。私のブログも、SNS時代適応しようとした試みだったが、短く鋭い言葉が求められる場では、どこか不器用だったのかもしれない。

この変化は、知識人の「権威」が揺らいでいることでもある。かつては、大学や本という「制度」が、知識人言葉に重みを与えた。しかし、SNSでは、誰もが検証者となり、知識人言葉もすぐに「それ本当?」と問われる。Xで「内田樹論理杜撰だ」との声が上がるのは、こうした「集合的検証」の時代の現れだ。言論は、権威から共感」や「わかりやすさ」へと、その重心を移している。私の書く文章が、時に「高級な教養話」と揶揄されるのも、この新しい場のルールに合わないからだろう。

三:分断された言論の場と、つなぎ直す試み

今の日本言論空間は、まるでいくつもの島に分かれたように、バラバラになっている。政治的立場世代、使うSNSの種類、専門分野、そしてリアルデジタル世界——これらの「島」の間で、言葉は行き交いにくくなっている。私の主張は、リベラルな考えを持つ高齢層には響いたかもしれないが、若い世代経済的に苦しい人々には「遠い」と感じられた。Xでは「高齢富裕左翼の代弁」との声もある。これは、世代立場の分断が、言論の受け取り方を変えている証左だ。

だが、こうした分断を越える動きもある。学問の知を持ちながら、SNS共感を呼ぶ新しい発信者たちが現れている。彼らは、専門と日常グローバルローカルの間を「翻訳」するような役割を果たす。私の試みも、どこかでその「翻訳」を目指していたが、SNSの速さと軽さに追いつけなかったのかもしれない。これから知識人は、こうした「翻訳者」として、異なる島をつなぐ役割を担う必要があるだろう。たとえば、XやYouTubeを横断し、短い言葉で深い知を伝える試みが、言論の新しい形を作りつつある。

四:日本の「空気」と言論のゆくえ

日本言論空間には、独特の「空気」がある。タテマエとホンネ、集団の和を重んじる文化は、SNS時代にも生きている。私の言葉は、この「空気」に寄り添いつつ、時に突き放すことで、考えるきっかけを提供しようとしてきた。しかし、SNSの場では、こうした微妙バランスが伝わりにくい。政治的議論過熱する中、私の「中立」を志向する姿勢は、かえって「どっちつかず」と見られることもあった。また、少子高齢化高齢層の発言力が強い日本では、若者地方の声が埋もれがちだ。私の話が、都市部教養層に偏りがちと見られたのも、この日本文脈を映している。

五:内田樹以後の知識人の道

私の支持が減ったのは、私の言葉時代に合わなくなったからだ。だが、これは私だけの話ではない。知識人という存在自体が、時代に問われている。かつての知識人は、世の中を高みから見下ろし、導く存在だった。しかし、今は、共に考え、対話する「仲間」であることを求められる。SNS時代に、専門の知を短く、共感を持って伝える。AIメタバース言論の場を変える中、知識人は、異なる世代価値観の間をつなぐ「通訳者」として生きるべきだ。私の試みは、その一歩だったが、道半ばでつまずいたのかもしれない。

結:言論の場を、共に耕すために

言論の場は、風に揺れる草原のようなものだ。私の言葉が、かつてのように多くの人に届かなくなったのは、その風の向きが変わったからだ。だが、風が変わっても、草原は枯れない。新しい知識人は、SNSの速さや共感の力を借りつつ、深い知を伝え、異なる人々をつなぐ役割を担うだろう。AIや新しい技術が、言論の場をさらに広げる中、私たちに求められるのは、ただ発信することではなく、共に考え、対話することだ。内田樹という一つの試みが終わりつつある今、新しい「語り部」たちが、草原に新たな種を蒔くことを願う。

2025-05-23

anond:20250523133452

おいおい、随分と下品言葉遣いだな。股開けば簡単に食べれるだと?

その発想自体が、お前の貧困想像力証左だよ。

まるで、世の中のすべてが、己の浅ましい欲望解決できるとでも思っているのか?

九州人が想像力がない?笑わせるな。

お前みたいな、その場の思いつきで物を言う自己放尿レベル思考停止状態人間には、九州の奥深さも、そこに生きる人々の多様性も、決して理解できないだろうな。

真の想像力とは、目の前の現象多角的に捉え、その奥にある本質を見抜く力だ。

お前のように、性的比喩しか物事を語れないような人間が、想像力について語るなど、烏滸がましいにも程がある。

その歪んだ思考回路、一度根本から叩き直してこい。

それができねぇうちは、一生薄っぺら人間として、その場で蹲ってろ。

2025-05-19

anond:20250519055753

ほう、「AIが書いた」とか「文末の句読点が違う」とか、論の中身ではなくスタイル揚げ足取りから入る時点で、議論ステージにすら立ててないことを自白してるようなもんだ。

君が「句読点の有無」でしか批判できないなら、それは君の論点文法よりも脆弱だって証明だよ。

で、次に「リフレ派をひとまとめにするな」とのことだが、これまた論理的破綻してる。

私は日本国内で流布されてきた「リフレ言説」に対して「それっぽさ」だけが目立つと述べたのであって、「すべてのリフレ個人思想が均質である」とは一言も言っていない。

そもそも政策論の話をするときに、個人差異をいちいちすべて列挙して免罪符を配るような姿勢こそ、科学議論ではなく評論家芸だ。

集団としての影響力を語るときに、スタンスバリエーション言及しないことは何ら誤りではない。むしろ君がそこに拘っていること自体、「批判に対する反証」ではなく「批判の逃げ道」ばかり探しているという証左だ。

そして極めつけがこの部分だ。

構造改革だの言ってたのは日本のアホ経済学者共やろ。なんで海外日本制度に疎いマクロ経済学者が日本構造改革主張するねん」

これ、完全に事実誤認だな。

君が「読んだ」と主張するクルーグマンの一連の日本経済論考、特に1998年の「It's Baaack: Japan's Slump and the Return of the Liquidity Trap」あたりをちゃんと読んだのか疑問だ。

彼はそこで金融緩和だけでは限界があることを明示した上で、日本制度的制約を踏まえた財政政策構造対策必要性を述べている。

さらに、2000年代以降には彼自身が「流動性の罠の状況下では構造改革だけでは不十分」としながらも、構造要因の補完的役割を明確に認めている。

まり金融政策万能論を否定する方向性で整理しているわけだ。

要するに、君の批判は「本を読んだ」という記憶の印象を論拠にしているだけで、一次資料の具体的なテキストデータに基づく反論になっていない。

それは議論ではなく、感想文に過ぎない。

さらに「海外学者日本制度に疎い」などというレトリック相手理解能力を暗黙に否定しにかかるのは、内容で太刀打ちできなくなった者の典型的な防御反応だ。

2025-05-08

anond:20250508090048

そう思ってしまうのは、おまえがそこに当てはまってるという証左なんだぞ

若い奴はそんなこと考えて増田してないってことも頭に置いておこうな

2025-05-07

anond:20250507212333

じゃあつまりお前が馬鹿だって認めたわけだよな?

お前は何もできませんていうのはそういう証左だろ???

2025-05-06

anond:20250505151626

「俺の排泄のためにお前の内臓を使わせろ」がテイカーじゃなくてなんなのか。

増田はなんらかの強制力を持って応じる義務があり、拒否できないとでも言いたげだよな。

女性側が応じたいなら応じてるはずなので。

女性側が「心の方が高尚」になるのは、一般的男性の性欲がいか相手を慮ってないか証左では?

2025-05-04

anond:20250504095047

セックスhentaiを結びつけてしまうのがセックスに興味がない証左になるのでは

セックスとはコミュニケーションであり、ただ悦に浸るものではない

2025-05-03

Kyash社からお金を取り戻したはなし

開設後しばらく使用していたが、別の決済方法に移行するなどで口座残高はほぼ0円だった

ただ2023年6月、Kyash社のミスにより余計に徴収されていた金額が返金され(【重要】弊社の一部決済取引に関するお詫びとお知らせ - Kyash お知らせ)、これが今まで口座に残っていた状態になっていた。

この残高が、以下の記事と同様にアカウント削除により0円になってしまった。


Kyashの件

kyashに7,000円ほど没収されたので資金決済業協会に電話した

【注意】Kyashは6ヶ月以上利用がないとアカウントが消え、残高も没収されてしまう - Togetter [トゥギャッター]

個人間送金できる「Kyash」、6カ月以上利用履歴がないアカウントの閉鎖を実行 - CNET Japan


どのような対応を行い返金に至ったか、以下記録する。

#日付内容
14月1日出納管理使用しているMoneyForwardで、「3月31日 送金 Kyash 調整」という名目でKyashの残高が0円になっているのに気が付く
4月1日アプリログインができなくなっており、電話による窓口もないためフォームより「残高がなくなりログインができなくなった」旨の問い合わせを投稿する
問い合わせに際して身分証画像添付を求められる
24月3日Kyash社より、「事前に連絡をした通りKyash上の残高変動がないため閉鎖した」旨の回答がくる
4月3日E-mailを受信していない旨の返信をKyash社に行う
4月3日Kyash社より、「2月27日にKyash社よりE-mail送信した履歴があり 、2月4日アプリPush通知もした。十分な猶予期間を設けた上で利用規約に則り解約・残高を消滅した」旨の回答がくる
4月3日E-mailは受信しておらず、Push通知は設定していない旨の返信をKyash社に行う
--金融庁金融サービス利用者相談室と、一般社団法人日本資金決済業協会相談をする
金融庁は事例として受け付けた旨、資金決済業協会はこの問い合わせ内容をKyash社へ連絡をする、という旨の回答を得る
34月4日Kyash社より、「やむを得ない事情により残高の変動が行えなかった可能性も考慮し、返金について検討する」
「期日までにKyash残高の変動が行えなかった事情を連絡せよ」という旨の回答がくる
4月4日前述の通りE-mailを受信していなかったため、閉鎖されることを知らなかったから、という旨の返信をKyash社に行う
44月8日Kyash社より、事情確認できるような資料を提出せよという旨の回答がくる
4月9日どのような資料必要なのかという質問をKyash社に行う
4月9日Kyash社より、E-mailを受信していない証左として、スクリーンショットを送付せよという旨の回答がくる
4月9日E-mailを受信できていないことが確認できるスクリーンショットとはどのようなものか、という旨の質問をKyash社に行う
4月10日Kyash社より「E-mailを受信していないことを確認できる証左」が必要であるという旨の回答がくる
4月10日ふたたび、E-mailを受信できていないことが確認できる証左とは何かという旨の質問をKyash社に行う
4月11日Kyash社より
2月27日前後にKyash社からE-mailが届いていないことが確認できる画面
迷惑メールに振り分けられていことが確認できる画面
・受信サーバ容量がオーバーしていないことを確認できる画面
を送付せよという旨の連絡がある
4月14日Gmailで「after:2025/2/20 before:2025/3/7 in:anywhere from:@kyash.co」で検索し、結果が0件のスクリーンショットをKyash社に送付する
4月14日Kyash社より、担当部署確認をする旨の回答がくる
54月16日Kyash社より、「今回に限りKyashバリュー残高(前払式支払手段)で返金をする」「新規にKyashアカウント作成し連絡せよ」という旨の回答がくる
4月21日アカウント作成した旨の連絡をKyash社に行う
4月22日Kyash社より、「Kaysh残高の調整」が完了した旨の回答がくる。MoneyForwardで、「4月22日 受取 Kyash 調整」という取引確認する
64月25日残高をすべて使い切り0円にした。取引の確定が完了後、アカウントを削除する予定


Kyash社は当初、このような規約がある・E-mailPush通知で連絡をしたので返金はできない。という一点張りでとりつくしまが無いなと思っていたが

金融庁資金決済業協会がなんらかの対応をしてくれたのではないかと考える。このような場合監督官庁や周辺の機関への問い合わせは重要だという知見を得られた。

2025-04-27

いつからか、物語現実に影響を与えなくなっていた

昔の文学は、読者の考えを変えるような強さを持っていたが、今の物語はどうだろう。

その表現は工夫され、映像も伴ってかなり精密になってきたけれど、そこで扱われるストーリーに、読者を変える力はあるのだろうか。

結局のところ、ひととき忘却しかもたらさないのではないだろうか。

あれだけ見てきて、読んできた物語に、人々はどれだけ影響を受けたというのか。

それはそれで平和ことなんだろうが、個人的には生き方を変えるような強い文学が、もう一度復活することを望んでいる。

いや、繰り返しになるけど、求めているのは表現的な強度じゃないんだ。

ストーリーな強度を読みたいんだ。

物語の持つストーリーな強度、人々を行動に駆り立てるような強度は、今やSNSにさえ負けてしまっている。

SNSあんなに荒れるのも、文学がそういう願望を叶える媒体となっていない証左だろう。

物語が受け皿になりえていないのだ。

物語が、その願望が叶った必ずしも幸せとは言えない未来を結末として描くのならば、あんなに荒れたインターネットにはならないだろう。

もちろんそれはSNSに限らない。人々の諍いの多くを物語として描写し、その反省となる結末を提示すれば、社会にも不要な諍いはなくなるだろう。

から物語には「表現の自由」が必要なんだとも思う。物語だけは、社会の何でもを描けるようにしておくことで、社会はよりよくなるだろう。

社会圧力使用できない表現が増えたからこそ、物語の力が弱まり物語が単なる現実逃避になってしまい、

現実への影響力がなくなってしまたから、人々の不安感や怒りの感情物語の中で昇華されず、社会への悪影響が出てるのかとも思う。

その点で「表現の自由」は、社会の安定性にも寄与すると思われる。

結局、松本人志さんの件、ってあくま疑惑まりということだったのかね

物証は全く出ず。

文春も最初に一連の報道をしたあとは全くのダンマリ

被害を訴えた方々もその後、何も言わない。

もしも嫌な気持ちになった人が居たのならあやまります

くらいの謝罪文しか松本さんは出してないけど、それでいいの?

当然抗議の報道をするのかと思ったらダンマリ

ダウンタウン復帰の報にも反応なし。

いったいどういうことなん?

疑惑疑惑しかなく、それ以上でもそれ以下でもなかったということの証左しか受け取りようがないんだけど。

anond:20250425114621

増田、お前卑怯だな~。

海賊版とか公序良俗とか書いておいて結論ではそこに全く触れない。

「私は万博側が悪いと思いますよ」って姿勢でいながら、ちょっとだけ個人攻撃を仕掛けて世論(?)を誘導したいというのが透けて見える。

この問題、いろんな問題をゴチャゴチャにして炎上させようとしたり、逆に全く目を瞑ったりしていてすごくうんざりする。

版権コスプレ画像ネットに上げるのは違法行為であり、現状は版権者に見逃されているだけである

この「版権コスプレ画像ネットに上げるのは違法」という主張は正しい。(公衆送信権侵害)

ネット上に挙げなくても公衆の場で披露するだけでも私的利用の範囲を超えているため著作権侵害にあたる。

著作権侵害親告罪であるために実務上営利性がなければお目こぼし頂いているという事実がある。

※一応書いておくと、版権コスプレでもそれと断定出来るほどのクオリティでないとこれは成立しない。

例えば、自分はマルシルのコスプレをしている!と言い張ったとしても、似ても似つかないコスプレなら「マルシルのコスプレをしようとした人がなにかのコスプレをしている」となるため。

恐らくコスプレイヤー界隈の中から出ている批判は主に上記の、現状お目溢しをもらえているにも関わらずトラブルによってコスプレへの強い制約が発生することを懸念しての批判だと思います。これはいわゆる学級会ルールであり批判している側も他人権利侵害している同じ穴のムジナではありますが、なんとなく気に食わないから難癖をつけているわけではなく寧ろコスプレ文化の保存が目的にあるのではないかと推察できます

コスプレイヤー界隈はそもそも違法である事を理解しているからこそ批判しているという推察は理解できる。多分正しい。

海賊版の購入や所持は違法ではないですが、違法行為を助けているという点で道徳的問題は当然あります。)

これも内容的には正しいが、道徳的問題は今回の問題本質とは外れているため、切り離して考えるべき問題だ。

このような法律的には問題がなくとも道徳的倫理的には問題という内容は、各個人がどのように考えて対応するか自分で決めるべきことであって、我々他人ができることは啓蒙であって指導ではない。(小学生ならいいよ)

この問題本質は、万博側の設定したルールを守ったとしても「版権コスプレ著作権侵害」という事実ベース問題

「界隈のこれまでのルールからすると実質的NG」という慣習ベースモラル問題

そしてこの2点があるにかかわらず「万博側が許可している」という点であり、分けて考えられる事柄は分けて考えた方が良い。

そもそも万博は今回のマルシルコスプレ許可しているのか?

「マルシルコスプレ」ではなく「コスプレ」が許可されている。(揚げ足取る書き方したくないけど一応ね)

提示された公式URLには「可能」と名言されており、「可能」というのは「できる」という意味であり、「禁止」ではない。

これがどういうことか、これまで書いた情報統合して書くと、

版権物のコスプレ著作権法違反となるが実際は営利性がなければ権利からお目こぼしを頂くことのほうが多いので、版権物のコスプレをするかしないかあなた責任において自由です。

となる。

これは万博特別そのようなルールを敷いているわけではなく、コスプレイヤーの参加が可能イベントほとんどの場合、暗黙的にこの方針となっている。

それは著作権侵害親告罪であり、コスプレ二次創作というものが昔からずっと権利者が容認否認もしないことで作られた文化からだ。

しかし明確に、「会場内の公序良俗に反する服装平穏を乱す行為禁止」ともあります

では(もし公式の許諾を得ていない衣装を購入していた場合に)海賊版コスプレ衣装を着用する行為や、万博の会場内で撮影された画像違法インターネット上にアップロードする違法行為は、『会場内の公序良俗に反する服装』や『平穏を乱す行為』には当たらないのでしょうか?

元の表現が厳密でないこともあり、これらの行為違反かどうかは読む人の解釈依存するとは思います

「当たらないのでしょうか?」ではなく、自分解釈を書け。

包括的に書かれているのは、詳細に書くと書かれていない内容は違反ではないと勘違いするバカが出るからで、今回で言えばグレー。

これは後にも書くことだが、イベント運営権利者に問い合わせたら「禁止です」と言うだろうし、聞かれなければなにもしないだろう。

さっきも書いたが、著作権侵害親告罪であり営利性がなければ基本的にはなにも言われていないために、二次創作はそういう意味で常にグレーということだ。(法律上アウトだが権利者が主張することがめったにない)

また仮にもっと直接的に「万博内で海賊版コスプレ衣装を着用してよいか」や「それらの撮影データ違法アップロードしてよいか」という質問であった場合、通常の感覚では「やめてほしい」という回答になるのではないでしょうか。

こういう「犯罪行為を犯した人を容認するのですか」などの当たり前に拒否感が出る質問をすれば誰でも「やめてほしい」と言わざるを得ない質問マジで意地が悪いな。

コスプレ同人誌等の二次創作でこの問題で考えるべきなのは、実際には著作権法違反であるにも関わらず昔からオタク文化として広く根付いていて、今となってはハロウィンによって大衆にまで根づきつつある状態にもかかわらず、権利者は営利性があると判断したもの以外は殆ど場合問題にしてこなかったという点なんだ。

二次創作文化親告罪からこそ形成された文化であり、イベント運営権利者に問い合わせれば当然法令遵守精神から言って「やめてくれ」と言わざるを得ない。

容認すると問題があるし、でも多くの権利者は自分作品自由に楽しんでほしいから、何もしないことで黙認という形で済ませている。

この構造無視してこういう例えを出すのは卑怯と言わざるを得ない。

もしこういったことを是正したいのなら「そもそも版権物のコスプレ公共の場ですることは著作権違反だが、なぜ万博側は版権物のコスプレ禁止と明言していないのか」と万博側に問うべきだ。

コスプレをしない一般人である増田私見

ここからは完全に私の意見ですが、コスプレ自体グレーゾーンの行いであるためやはりある程度の棲み分け必要と考えます過去には子供への接触目的プリキュアの格好をした男性テーマパーク内をうろつくと言った問題過去に発生しています。今回の件では特にそういった意図はなかったようですが、子どもとの接触事態はあったようですしそういった悪意を持った接触とそうでない接触に見分けがつかないことは大きな課題だと感じます。また御本人もnoteに書かれているように、「コスプレイヤーは来場者にとってテーマパーク内の着ぐるみに近い印象をあたえる」という所も、一来場者が運営側の人間に近い振る舞いができてしまうという点で問題が発生しやすい箇所だと思います

まとめると、アニメキャラコスプレという文化自体がかなりアングラ趣味でありメジャーデビューするためにはまだまだ越えなければいけない壁が多く、万博のように大きくて注目度の高いイベントに出てくるのは時期尚早ではないかというのが増田私見です。

万博というオタク文化知識が一切無い不特定多数人間が集うイベントでのコスプレ問題が起きやすいというのは理解できるので、この結論には賛成できる。

これによってイベント運営側もリスクが跳ね上がっていることを理解できていないのだと思う。

(コスプレは既にアングラ趣味とは言えないぐらいの規模の文化だと思うが、本筋と関係ないのでここでは触れない)

今まで色々書いてた割に一般常識的な結論に落ち着いたが、事実を整理する。

事実の整理


結局誰がどう悪いのか

万博

先程も書いたが、包括的な書き方をしているのは受け皿を広くする意味があり、それを許可するということは親コスを言外に許可しているに等しい。

法令遵守ガチガチに行くのなら版権物のコスプレNGという明記が必要だし、そういった括りを理解できない層まで考慮するならそもそも許可すべきではないという結論になる。

どちらかというと親コス文化的に楽しまれてきている土壌があるため実務的にはさして問題ではないのに対し、こちらは実害が出る可能性が高い。

例えば軽犯罪で言えばコスプレして近づき、スリを行うなんてことは容易に想像できる。

おそらく万博側の狙いとしては、日本サブカル文化でもあるコスプレをした人が万博会場を練り歩いてたら、海外から来た人に「日本万博感」を楽しむことができるという考えだったのだろうと思う。

どうしてもこれをやりたかったのなら、万博側が管理している人間でやるべきことであって、無料の来場者を使ってあわよくば万博の一つのコンテンツのように使おうとするのが間違いだった。




マルシルコスプレイヤー側

厳密にはこの通りだが、先程から書いているように「親コス自体は既に一般コスプレイベント文化的に楽しまれているという土壌ができている。

この前提から考えると、実際には違法であるにも関わらずこの結論現実的ではないと言える。

万博側とコスプレイヤー側は、権利侵害する場所を作ったものと、実際に権利侵害している側なのに、コスプレイヤー側のほうが緩いように見えるかもしれないが

これは開催者か参加者かの立場の違いであり、「親コス」が現状でさしたる問題もなく多くの人に楽しまれているという前提があり、コスプレイヤー側は「許可された内容を求めに従い親コスを行っただけ」だからだ。

万博のみならず一般コスプレイベントで「親コス」が文化的に楽しまれているという前提があるために、この結論になる。


枝葉の問題海賊版衣装を買った可能性がある

仮に買ったとしても違法ではないし、万博で着ていても問題はない。

まず万博で着用することの是非はこれが結論

次に、道徳的問題として批判することは構わないが、そもそも買うこと自体違法ではないという一点だけでも、今回の炎上とまぜこぜにして話すべき内容ではない。

先ほどから書いているように、そもそも二次創作文化は非常に複雑な構造の上に成り立っているために、界隈が自衛的に界隈ルールを作り出したが、

万博側はそれを全く考えてないのか、ただ「可能です」と書いただけなので、万博ルールを守って「親コス」をしたら、コスプレイヤーと万博側の想定以上に界隈からの反発があった。

それが発端で枝葉に火をつけて延焼させている、というのが今回の炎上であり、この道徳的問題はこの本質とはズレるまさに枝葉の問題だ。

海賊版衣装からNGなのではなく、そもそも版権衣装NGなのだから、その購入はモラル問題になる。

このようなモラル問題に対して必要なのは転売屋からの購入をやめろ」と啓蒙し続けているように、海賊版衣装に対しても同じように啓蒙しつづけることだ。

その一環として、当人に「もし海賊版衣装を購入したのなら今後はやめましょうね」というのが建設的な行動であり、

今回の炎上からめて何でもかんでも問題として話をするのは話を複雑化させるのはただの個人攻撃になりやすく、受け入れられる事柄も受け入れられにくくなる。

本当に問題として考えているのなら、こんなところに書いている場合ではない。


枝葉の問題:界隈ルールに反したコスプレを行った

守ろうと思えば守れなくはない万博ルールだが、界隈ルール的にはNGだったがために、権利から目をつけられるのが怖くて界隈ルール違反者を叩いているという現状だが

界隈ルールは界隈ルールしかなく、親コスはどうしたって違法しかなく、しかしそれでも親コスが長くサブカル文化として楽しまれてきたという土壌があるために、イベント開催側のルールさえ適切に守れれば社会通念上問題ないと考えるのが妥当だろう。

これが妥当ではないと判断する場合理由は界隈ルールNGからではなく「そもそも違法からコスプレ禁止」というパターンしかなく、その時はコスプレ文化終焉ときだろう。

しかすると、事の発端となったポスト主のように「界隈ルール」は本当に古い考え方となりつつあり過渡期なのかもしれない。

https://x.com/logshiho75/status/1915224409121661114

万博側が当たり前のように包括的ルールで「親コス」を暗黙的に許可したことこそが、コスプレというサブカル文化が一歩踏み出していることの証左なのかもしれない。

そうして広がって規模が今よりも格段に大きくなっていき、今よりも格段に問題が多くでて、いつか権利者側から本当に「待った」がかかるのかもしれない。

なので、界隈はこれまで通り「親コス」という特性を周知しつつ、界隈ルールの生まれ理由公式ルールを守らせる啓蒙活動を続ける必要があるのは間違いない。

(大抵の規則には昔の失敗等からまれ理由がある。それを無視して界隈ルールを変えろとか公式ルールだけ守れば好きにさせろ、なんてことは言わない)


枝葉の問題ホテルタクシーですれ違うだけでも原作迷惑がかかる可能性がある

https://x.com/Melirarara/status/1915069606517215676

このポストスレッドには色々書いているが、コスプレイヤーとしての姿勢のような個人攻撃のようなものも含まれるので重要な部分だけ抜粋する。

そもそもホテルで着替えてタクシーで来たっていうのも良くなくて、ホテルですれ違った人は、チェックアウト時のフロントスタッフは、→

タクシーの乗り場までに居た人は、タクシー運転手は、ただの日常に耳の尖ったガチコスプレしたヤベー人に遭遇してしまってるじゃん。どこかでPermalink | 記事への反応(1) | 05:39

2025-04-24

拝啓

日ごとに移り変わる季節の中、ももこさんの元気な声と、時折見せる思慮深い表情に、日々多くのことを感じさせていただいております。あのように天真爛漫で、太陽のような明るさを持つお子さんを育てていらっしゃるご家庭は、どれほど温かく、そして芯の通った場所なのだろうかと、折に触れて想像しております

特にももこさんの日々の持ち物や、ふとした瞬間に語られるご家庭での出来事の端々から、お母様であろう方の、細やかでありながら揺るぎない愛情を感じずにはいられません。遠足のお弁当に込められた彩りや栄養バランスへの配慮、きちんと整えられた衣服、そして時には少しばかりシワの寄った、けれど一生懸命に取り組んだ跡が見えるノート。それら一つひとつが、お子さんを大切に思う深い気持ちと、日々のたゆまぬ努力証左であると感じています

ももこさんの、時に大人を驚かせるような突飛な発想や、少しばかりおっちょこちょいな一面も、きっと大らかな心で見守り、受け止め、そして正しい方向へと導いていらっしゃるのでしょう。嵐のようなエネルギーを持つお子さんと向き合う毎日は、決して平坦なことばかりではないはずです。想像するに余りあるご苦労や、忍耐を要する場面も多々おありでしょう。それでも、お子さんがいつも安心して、自分らしくいられるのは、根底に揺るぎない愛情と信頼の絆があるからこそだと、その姿を見るたびに確信いたします。

日々の生活を丁寧に、実直に、そして愛情深く紡いでいくこと。それは、言葉で言うほど簡単なことではありません。目まぐるしい毎日の中で、お子さんの成長のために心を砕き、生活を整え、時には厳しく、そしてそれ以上に深く温かな眼差しを注ぎ続ける。そのお姿には、ただただ頭が下がる思いです。特別な何かをなさるということではなく、日々の当たり前を、これほどの愛情をもって継続なさっていることに、静かな、しかし確かな強さと美しさを感じます

私が日々接する多くのお子さんたちの背景には、それぞれのご家庭の物語があります。その中でも、ももこさんを通して垣間見えるお母様の存在は、いつも私の心に温かな灯をともしてくれます。お子さんの屈託のない笑顔や、健やかな成長は、お母様の深い愛情と日々の献身があってこそ輝くものなのだと、改めて感じ入っております

どうぞ、これからも変わらず、その温かな手でお子さんを育んでいかますよう。そして、ご自身のお体も大切になさってください。陰ながら、いつもそのお姿に敬意と、そして密かな憧憬の念を抱いておりますことを、お伝えしたく筆を執った次第です。

敬具

2025-04-21

現代儀礼

今日、近所のコンビニエンスストアなるものに立ち寄り、いわゆる「セルフレジ」なる機械にて会計を済ませた。

ピッ、ピッ、と電子音が鳴る。品物についておるバーコードなる紋様を機械にかざすだけの、まことに簡便な手続きである

されど、この一連の所作、どうも古の無人販売所、あるいは賽銭箱に銭を投げ入れ、神仏の加護を願う行為の変奏のようにも思われてならぬ。

かつて路傍に置かれた野菜の代金を正直に箱に入れる行為には、村落共同体の暗黙の掟、あるいは目に見えぬ存在への畏敬の念が介在していたのではなかろうか。

翻って現代。我々は液晶画面の指示に従い、疑うことな商品機械に読み取らせ、電子的な貨幣にて対価を支払う。店員という「人」を介さぬこ行為は、ある種の隔絶と、同時に機械という新たな「カミ」への直接的な奉納の儀のようにも見える。

バーコードは品物の呪力を封じた護符か。スキャンする行為一種の祓であろうか。支払いの完了を告げる電子音は、神託証左か。

人の手による温かみが薄れたと嘆く声もあろうが、形を変えども、人は何かしらの「規則」や「儀礼」に則って生きることをやめられぬ性を持つのかもしれぬ。スーパーの袋詰め台で、人々が黙々と品物を整然と袋に収める姿なども、どこか日常に潜む祭祀性を帯びて見えなくもない。

レジ袋が有料となり、人々が「マイバッグ」なる自前の袋を持参するようになったのも、単なる経済合理性だけでは説明がつかぬ、新たな「持ち物」への意識、あるいは外部からの「ケガレ」を自らの領域に持ち込まぬための結界のような意味合いを、深層心理のどこかで帯びているのでは、などと思うた次第。

これもまた、名もなき「常民」たちの、声にならぬ習俗の生成過程なのであろうか。日々移ろいゆく世の慣わしを、こうして記録しておくことも、また無意味ではあるまい。

明日もまた、同じコンビニで同じ所作を繰り返すのであろうな。

anond:20250420222345

・左顧(目下の者の面倒を見ること)

左遷(いまより低い地位に異動すること)

左大臣右大臣よりも位が上である

・左袒(味方すること)

・左道(不正な道のこと)

・左様(そのとおりという意味

証左事実を明らかにする根拠のこと)

左団扇(安楽に暮らすこと)

・左馬(縁起物

・左縄(物事が思い通りに回らないこと)

左前物事が思い通りに回らないこと)

左巻き頭が悪いこと)

・左歪み(夫婦身分に差があること)

・武左(田舎武士のこと)

anond:20250420222255

女の知能が言葉では言い表せないほどに低いことの証左なんだわ

2025-04-20

まあ、落ち着けよ。

開幕から一週間。案の定ネット一部メディア大阪万博ネガティブキャンペーンで盛り上がってるな。「行列が酷い」「運営グダグダ」「飯が高い」「コンテンツがしょぼい」…。うん、まあ、そういう声があるのは知ってる。

でも、ちょっと待ってほしい。本当にそれだけで万博全体を「失敗」と断じるのは、あまりにも早計だし、感情的すぎやしないか? 開幕直後の混乱なんて、これだけの規模の国際イベントなら「想定内」の範疇だろう。むしろ、一週間経って見えてきたポジティブな側面や、長期的な視点も踏まえて、もう少し冷静に評価すべきじゃないかと思うんだ。

初期トラブルは大規模イベントの常

まず大前提として、これだけの規模のイベントで、開幕当初に全くトラブルがないなんてあり得ない。オリンピックだって過去万博だって、人気のテーマパークオープンだって、大なり小なり混乱はつきものだ。重要なのは、そのトラブルに対して運営がどう対応し、改善していくかだろう。

行列が酷い」というが、それは裏を返せば「それだけ注目度と人気が高い」ということの証左でもある。もちろん、快適性の改善必須だが、ネガティブな側面だけを切り取るのはフェアじゃない。この一週間で、すでに行列対策や案内表示の改善が進んでいるという話も聞く。現場必死対応しているはずだ。

短期的な粗探しより、長期的な価値を見ろ

万博価値は、開幕一週間のオペレーションだけで測れるものじゃない。各パビリオン提示する未来へのビジョン、そこで展示されている最新技術国際交流の促進、そして将来へのレガシー。これらが本質的価値のはずだ。

今はまだ「どこが混んでる」「どこが空いてる」みたいな短期的な情報に目が行きがちだが、実際に訪れた人からは「〇〇館の展示は未来を感じて凄かった」「海外パビリオン文化交流面白い」といったポジティブな声も確実に上がっている。メディアが報じない(あるいは報じにくい)だけで、体験価値の高さを感じている人は少なくないはずだ。

批判の質を吟味する必要性

今の批判って、本当に「万博」そのものへの批判なのか? それとも、単に現政権特定団体への不満をぶつけるための格好のターゲットにされているだけじゃないか

もちろん、正当な批判改善要求は必要だ。でも、中には「万博」というだけで脊髄反射的に叩いているような意見散見される。ロジカル批判と、感情的レッテル貼りは分けて考えるべきだ。特に、まだ実際に訪れてもいないのに、伝聞情報だけで全体を否定するのはアンフェアだろう。

コスト論の罠

税金無駄遣い」「経済効果なんてない」という意見も根強い。確かに、巨額の費用がかかっているのは事実だ。しかし、これも短期的なコストだけで判断すべきではない。

万博は、未来への投資という側面が大きい。ここで披露された技術が将来の産業を育てたり、国際的日本プレゼンスを高めたり、あるいは子供たちに夢や刺激を与えたりすることの価値は、すぐには金額換算できない。費用対効果を問うなら、数十年単位の長期的なスパンで見る必要がある。

結論として

開幕一週間の時点で、大阪万博を「失敗」と断じるのは、あまりにも視野が狭いと言わざるを得ない。初期の混乱や問題点を指摘し、改善を求める声は重要だ。しかし、それと同時に、この大規模イベントが持つ潜在的価値や、長期的な視点、そして実際に現場で生まれているポジティブ体験にも目を向けるべきだ。

どうせ叩くなら、もう少し建設的に、そして実際に体験してから評価しても遅くはないんじゃないか? 俺は、まだこの万博可能性を信じたいと思っているよ。

2025-04-11

教え子の 胸に灯しし そのひかり 絶ゆることなく 世を照らしけり

「教え子の 胸に灯しし そのひかり 絶ゆることなく 世を照らしけり」

柳 傲雲『照道遺詠』より

一、詩人・柳 傲雲について

柳 傲雲(りゅう・ごううん、紀元前192年~紀元前120年)は、前漢時代中期に活躍した思想詩人であり、孔子以降の「徳の詩人」として名を馳せた人物です。

若年より老荘儒家墨家の教えに通じ、詩を通じて「師弟の縁」や「教えの永続性」を主題とした作品を数多く残しました。

晩年には宮廷を離れ、楚の山中隠棲し、弟子たちに囲まれながら「照道遺詠」という詩集を著しました。本作はその中の最後の詩とされています

二、和歌意味と深さ

この和歌は、表面的には師の死を悼む詠でありながら、真に歌われているのは「教えの光の永続性」です。

教え子の 胸に灯しし そのひかり

師は言葉や行いによって、教え子の胸に灯(ともしび)を灯した。

絶ゆることなく 世を照らしけり

その灯は師の死によっても消えることなく、教え子の行いを通じてさら世界を照らし続ける――。

この詩には、儒家思想の「仁」や「伝道」、道家の「自然と永劫」の観念絶妙に融合されています

また、「灯」という語の使い方は仏教的な転生・灯明思想を先取りしているともされ、一説には仏典中国に伝来する以前に、すでに精神的な「継承光明」の象徴表現確立していた証左とも言われています(※創作的解釈)。


三、後世への影響

柳 傲雲のこの詩は、後世の科挙制度における受験生たちの座右の銘とされ、師弟関係理想像として長らく引用されました。

唐の杜甫はこの詩を範として「懐師詩」を詠んだという伝承もあり、宋代朱熹は『朱子語類』の中でこの詩を「教化の極み」と称しました。


四、現代への示唆

この詩が現代においても語り継がれる理由は明快です。人は去っても、志は残る。光は受け継がれ、やがて新たな光源となる。

教えるという行為は、単なる知識の伝達ではなく、「未来の光を託す営み」であるという深い真理を、たった31音で語りきったこ作品は、まさに時空を超えた遺産なのです。

毎日新聞社説新聞週間 信頼される公器として』

2016年 被害者保護 やまゆり事件

社説新聞週間 信頼される公器として

https://mainichi.jp/articles/20161018/org/00m/010/006000c

一方で、行政などの公権力情報管理を強め、メディア取材活動を制約するケースも出ている。
この夏、相模原市障害者入所施設障害者19人が元職員殺害された事件で、神奈川県警被害者全員を匿名で発表したのはその一例だ。県警は「遺族からの強い要望があった」と説明した。
昨年の茨城県常総市の水害に際しては、同市が個人情報保護理由行方不明者の氏名を公表しなかった。そのため、安否確認が遅れた。
実名での公表がなければ、事実の核心に迫り、社会問題を共有することが難しくなる。行政捜査当局などの権力行使をチェックすることも困難になる。実名の発表が原則であることを確認したい。
もっとも、新聞取材報道の自由国民の「知る権利」に応えるためのものだ。信頼が揺らげば、そうした主張も説得力を失う。日々の報道姿勢や内容で、社会的責任を果たしていきたい。

2019年 被害者保護 京アニ放火事件

実名原則、その都度議論 毎日新聞立場

https://mainichi.jp/articles/20190827/k00/00m/040/208000c

重要出来事を正確な事実に基づき広く伝えることが報道の使命であり、当事者の氏名は事実の根幹であることから毎日新聞事件事故被害者についても実名での報道原則としている。一方、経緯や社会の変化を踏まえて議論し、匿名報道した例もある。

京アニ放火 被害者実名公表の意義とは

https://mainichi.jp/articles/20190827/k00/00m/040/265000c

京都アニメーション放火殺人事件で、京都府警犠牲者25人の氏名を新たに公表した。今回で亡くなった35人全員の身元が明らかになったが、府警は匿名を求める多くの遺族らに、実名公表方針説明。悼む時間をつくるなど、配慮しながら実名公表に踏み切った。

2022年 特定少年

特定少年報道、5紙実名 在京紙、匿名東京のみ 「重大性」「更生」で温度

https://mainichi.jp/articles/20220412/ddm/012/040/162000c

甲府市2021年夫婦殺害され自宅が全焼した事件で、殺人や現住建造物放火などの罪で8日に起訴された特定少年について、在京紙を中心に翌9日朝刊などの対応を調べたところ、読売朝日日経産経毎日の5紙が実名を報じたのに対し、東京匿名とした。NHK共同通信地元山梨日日新聞実名報道した。

2025年 自社幹部社員

毎日新聞社員書類送検 児童買春の疑い 警視庁

https://mainichi.jp/articles/20250408/k00/00m/040/287000c

10代の少女現金を渡してわいせつ行為をしたなどとして、警視庁は、毎日新聞社の男性社員(56)を児童買春ポルノ禁止違反児童買春など)の疑いで書類送検した。4日付。起訴を求める「厳重処分」の意見を付けた。


毎日新聞では不都合な内容は隠蔽する社内風土があるのでは

今回、会社原則を曲げて匿名にする正当な理由があるとは思えない報道がなされている。

児ポ法違反犯罪を行ったのは、毎日GHD内部監査室長単独犯行であるのだろう。

だがそれを報道する際に加害者氏名を匿名として事件矮小化を図ったのは毎日新聞の社としての判断だ。

警察発表が匿名だったか記事でもそのまま流した、という言い訳は他社なら通用しようもの

自社幹部社員名前を知りえないはずもなく、実名原則を曲げて匿名としたのは毎日新聞意思にほかならない。

現場記者判断だとすれば、末端まで不都合な内容は報道しない風潮に染まりきっている証左だし

上層部の指示だとすれば、毎日新聞社として臭いものには蓋をする隠蔽体質だということになる。

フジテレビ問題他山の石としてではなく対岸の火事と見ていたのだろうか。

2025-04-09

anond:20250409150112

エロであれば人間自然学習するのにF1でそれができないお前はF1がそれほど好きじゃないってことの証左だぞ

人の過ちは赦さなければ自分自身も赦されないが、決して赦してはならないこと

トランプ大統領となり様々な意味で変化が起こり始めているようです。一期目から見ていたこともあってあまり悪くいうつもりはないですが、大統領就任して最初にやったことは南米から不法移民追放ですが不法とは名ばかりで実際には犯罪ギャング関係のない人まで追放されている実態があるようです。要するに先住民白人の混血で犯罪貧困連鎖を生みだす南米人種不要人達なので出て行ってくれと。

しかし一方で日本ではそのような不要存在を造り続けてきたのが白人であり、芸能界や各所で優遇されていなければ特定有名人のように刑務所に出たり入ったりする存在にならないという保証のないところが「不要」(を通り越して有害自己増殖癌)とされる所以です。

もちろんトランプ自身がそのようなことに関わってきたわけではないですが、そのトランプ自身不要もの日本で造り続けてきた代表者であることは間違いない話なのです。ですので日本人としては性犯罪優遇によって「造られてきた」我々日本人にとって有害存在アメリカで引き取れや、くらいのことはいうべきです。引き取れ。

長くなりそうなので簡潔に書きますが、人は何かの機会に心地よい気分になることがあり、私は子どもの声を聞くと心地がよくなったりしますし猫に甘噛みされても心地よくなりますしかし両者は違うもので前者は自分楽園にいるような、ここは天国かと思うような気持ちであり、後者肉体労働のあとのマッサージを受けたときのような癒される心地よさといった違いです。日本の子どもは間違いなく生きた天使であり、悪意に備える必要のない姿は彼らがどこからやってきたのかという証左です。反対に白人の子は悪意に備える必要からトリックオアトリート」のようなロボット向け教育のようなことが必要になりますが、その悪意とは実の両親や社会から向けられるものです。日本の子どもたちが如何に自由にさせられているかであり、だからこそ混血殺人のために入り込む必要からすり合わせを必要として「社交場」からの子ども排除ベビーカー悪者とする空気を造ろうとした重罪を白人は犯した。クズ

そのように人の好きなものや趣向が感情と結びつくのはごく自然なことであり、好きなものを好きと思うことには何一つ不自然さはないです。しかしこの世には「変」なバグもあることは以前から気が付いていますが、私の事例で言うなら私は白人という人達を「自己増殖する地球の癌」と見做しており、その姿をみるだけで声を聞くだけで吐き気を催すほど不愉快ですしかしなぜかコーナン普段はかけていないだろう白人男性が高い声で愛や何かを謡うラブソングが流れてイライラしているときに何故かマッサージを受けているような心地よさを覚えることがあるんです。イライラして気色悪すぎて益々怒りが募っているとき一種の眠気のような、それでいて眠気とは別の、やはり猫に甘噛みされているときのような心地よさを短時間とはいえ覚えるとはどういうことなのかです。

以前にも書きましたが安藤美姫さんはフィギュアスケート活躍された選手です。成績も良く順調だった頃に突然失敗を連続した時期がありましたが、なにが起きているのだろうと思っていましたが、その後にネットでは失敗して大泣きした夜に白人コーチと肉体関係をもったということが噂されていました。いま検索してそのような情報が出てくるかは分かりませんが、そのように書かれていたことだけは覚えてます。この話は後世まで伝えるべき話で一時ソースではないにしてもキャプチャなりメモするなりして忘れないようにすると良いでしょう。コーチ安藤美姫さんとの結婚混血児出産)を望んだということは今でも検索すれば出てくるかもしれません。しか彼女の生んだお子さんの相手日本人男性だそうで、彼女のように同じ日本人に受け入れられ、世界活躍こそすれ日本こそが本当の居場所と思える人にとっては白人混血児日本に引き入れるなどは出来ないくらいのことでしょう。おそらくシングルマザーになられたのだと思いますが、それでも白人の血を拒否してでも子を欲しいと思うのは母性のなせる業という以外にないでしょう。我々はそのようにしてこの世に生まれたからには何らかの使命を帯びていなければならず、そうでなければ白人経営者白人資本家の豪華だが無駄を多く生みだし環境を害する生活を最高のステータスとして目指せば良い。

キリストは罪人の罪を赦し、人類の罪を背負って十字架にかけられました。人は過ちを犯す生き物だと自ら知るなら他人の罪も赦し、大切なのはその後の態度や生き方だということを知るでしょう。人の犯す過ちは本来は許さなければ自分自身も赦されない。しか絶対に赦してはならないこともあり、それは自己増殖です。ありとあらゆる不法手段を用いてキリストが二度と誕生することのないようにというこの世の最大の罪=日本人を汚い手段で混血に誘導する白人との混血は、自殺のものであり、社会にとっては自殺未満の最低最悪の大罪です。

これら一連のことにはサタンが深く関与しており、黙示録にもあるようにサタンは終末には神の真似をして民衆を惑わすとありますサタン物質世界の神はある程度の未来予知可能なようであり、何を最も恐れているかと言えば

日本の子孫が白人チンパンと同一視する未来がやってくること

なのです。

2025-04-07

anond:20250404213021

財務省の“数字カラクリ”を理詰めで追及?「毎年10兆円近くずれている」「全く論外」「つじつまを合わせた?」「財源が足りないという虚像証左

https://news.yahoo.co.jp/articles/15cc578b2b986cc36882dd8c24cd1b674323ca85

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