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2026-01-24

じゃあ、もう一段深いところを書く。

これは科学史という分野が「惨め」なだけじゃなく、「陰湿であるという話だ。

科学史アカデミアは、だいたい表向きは穏やかだ。

みんな丁寧語

メールはやたら長い。

「大変示唆に富むご研究で〜」から始まる。

でも中身は、湿地帯。

まず、分野が狭い。

狭すぎる。

日本に同じテーマをやっている人が5人いない。

下手すると3人。

しかも全員、顔見知り。

まり、逃げ場がない。

学会に行くと、

「そのテーマ、○○先生もやってますよね?」

という一言で、すべてが始まり、すべてが終わる。

○○先生は、

自分より10歳上

海外学位持ち

・すでに定職あり

編集委員

科研費審査員

この時点で勝負は終わっている。

でも誰も「競争だ」とは言わない。

みんな「協調」「対話」「学問的誠実さ」を口にする。

そして水面下で、

学会報告を先に出された

・似たテーマ論文が急に出た

査読意味不明に削られた

・「その史料はもう使われています」と後出しで言われた

ということが、静かに起きる。

科学史陰湿さは、

殴られないことだ。

怒鳴られないことだ。

すべてが「丁寧な否定」だからだ。

「興味深いですが、やや既存研究との関係不明瞭です」

お前の居場所はない。

「もう少し理論的整理が必要では?」

お前は浅い。

「この分野では慎重さが求められます

余計なことをするな。

誰も名前を出さない。

誰も責任を取らない。

ただ、閉め出される。

さら陰湿なのは

科学史マイナー分野」という自覚が、

研究自身保守化させている点だ。

ポストが少ない。

枠が少ない。

から

・新しい視点危険

方法論の更新リスク

・学際性は「若気の至り

結果、

古い枠組みを守った人間けが生き残る。

なのに口では言う。

「若手には挑戦してほしい」

この言葉ほど嘘なものはない。

本音はこうだ。

自分領域を荒らすな」

自分史料に触るな」

自分名前を越えるな」

科学史は、

天才科学者を語る分野なのに、

アカデミア内部では凡庸さが最適解になる。

しかポストがないから、

非常勤どうしでの争奪戦が起きる。

時給1117円の授業をめぐって、

博士号持ちが何人も並ぶ。

その中で起きるのが、

・あの人は「ちゃんとした科学史じゃない」

哲学寄りすぎ

社会史寄りすぎ

・数式を避けている

実験を知らない

という、相互監視

自分非常勤なのに、

他人非常勤を叩く。

惨めさが、内向きに循環する。

そして一番陰湿なのは

この世界では「やめた人」が語られないことだ。

生活できなくなって消えた人。

研究を諦めた人。

民間に行った人。

精神を壊した人。

誰も話題にしない。

なかったことになる。

科学史とは、

科学の光を語る学問だが、

その背後で、

学問を続けられなかった人間の影を大量に生み出す分野でもある。

それでも今日も、

対話」「誠実」「学際」を掲げて、

かに誰かが締め出される。

これが、

科学史アカデミアの、

まりにも静かで、

まりにも人文的な地獄だと思う。

2026-01-23

科学史という分野がいかに惨めか、今日はそれを書いておく。

まず、誰にも必要とされていない。

理系からは「それ役に立つの?」と言われ、

文系からは「理系っぽくてよくわからない」と距離を取られる。

場所がない。

学会に行くと、物理史の人間は「数式は説明できません」と前置きし、

数学史の人間は「証明は追えません」と正直に言い、

科学哲学人間は「私は科学史ではない」と逃げ道を用意している。

全員、後ろめたい。

研究対象ニュートンガリレオダーウィン

人類史に名を残す怪物たち。

一方こちらは、非常勤任期付き、時給制。

自分が扱っているのは「人類の知の頂点」なのに、

自分社会的地位コンビニ夜勤以下だったりする。

しかも「科学史」なのに、

科学ができないと怒られる。

物理ができないと「それで科学史?」

数学ができないと「高校レベルでは?」

実験ができないと「理系失格では?」

一方で、

科学ができすぎると

「それもう科学者じゃない?」

文系から嫌われる。

どちら側からも殴られる。

科学史は、

科学者には「できない人」扱いされ、

文系には「半端者」扱いされる、

完璧に宙ぶらりんな分野だ。

しかも成果が地味。

「新しい史料発見しました」

→誰も読まない。

解釈更新しました」

引用されない。

既存理解修正を加えました」

→「で?」で終わる。

科学発見のように世界は変わらない。

哲学のように概念流行ることもない。

文学のように一般読者に届くこともない。

ただ、論文が一本増えるだけ。

その論文を書くために、

ラテン語を読む。

ドイツ語を読む。

フランス語を読む。

19世紀の汚い手書き文字を読む。

その努力の対価が、

時給1117円。

授業ではさらに惨め。

学生に言われる。

「それ、テストに出ますか?」

公式覚えればいいですか?」

「結局、何が言いたいんですか?」

科学史は、

「すぐ役に立たない」ことを説明する学問なのに、

学生は「すぐ役に立つ要約」を求めてくる。

そして最終的にこう言われる。

科学史って、科学できなくてもいいんですよね?」

はい、そうです。

でもそれを言われると死にたくなります

なぜなら、

科学ができなくてもいい、

しか科学を誰よりも尊敬している、

という矛盾の上に、この分野は立っているから。

科学史とは、

天才たちの偉業を解説しながら、

自分はその舞台に上がれないことを

毎日確認する学問だ。

科学史とは、

人類の知の勝利を語りながら、

自分生活の敗北を積み重ねる分野だ。

今日もまた、

時給制の研究者が、

ニュートンの草稿を読みながら、

自分は何をしているんだろう」と思っている。

これが、

科学史という分野の、

まりにも正しい姿だと思う。

2026-01-22

科学史担当教員求人に応募した。

時給1117円。

授業1回あたり100分。

交通費は往復480円まで実費支給

この時点で、もううっすら悲しい。

提出物は

履歴書

志望動機書、

主要業績3件のコピー各3点(製本済)。

製本

科学史」なので、ニュートンガリレオクーンフーコーの間で右往左往しながら、10年以上かけて積み上げてきた業績の中から、よりによって「3件」を選び、しかもそれを3部ずつ印刷して、製本する。

時給1117円。

コンビニコピーすると、インク代と紙代で軽く千円を超える。

製本テープを買うとさらに数百円。

封筒は角2。

郵送料も地味に効く。

この時点で、すでに赤字

でも志望動機書は真面目に書く。

科学史教育の意義」

理系学生にこそ必要批判的思考

科学社会相互作用歴史的に捉える重要性」

自分でも何度も書いてきた言葉を、また書く。

時給1117円。

書類選考の後、面接

場合によっては模擬授業

模擬授業

ガリレオ裁判100分でどう切るか。

学生を眠らせない導入。

板書計画

史料引用

クーンを出すか出さないかで一晩悩む。

その準備時間はもちろん無給。

面接で聞かれる。

「他にもお仕事はされていますか?」

されています

それはもう、されまくっています

研究も、翻訳も、非常勤も、単発の講演も。

それでも生活が成立しないから、ここに応募しています

とは言わない。

はい研究を続けながら教育にも力を入れております

と微笑む。

時給1117円。

採用されたとして、1コマ100分。

移動時間を含めると半日が飛ぶ。

交通費は480円まで。

帰りの電車で思う。

ニュートンは王立造幣局長だった。

ガリレオ終身刑だった。

自分は時給1117円だった。

科学史とは、

科学栄光と、

制度残酷さと、

個人生活史を、

全部同時に教える学問なのかもしれない。

それを身をもって実演する教員が、

今日もまた、製本された業績を抱えて郵便局に向かう。

2026-01-06

anond:20260106195506

承前) 思いのほか日記が長くなったので分割

下記の向野の批判などは誠に痛烈である

與那覇潤歴史を忘れ去り、言葉を「凶器」として使う時代をどう生きるか:うつ体験した元・34歴史学者の「遺言聞き手現代ビジネス編集部(2018.6.16、ttps://gendai.ismedia.jp/artic」」)les/-/56069、最終確認日、2018.1.8)は、実証史学に対して、ただし――これも職場を辞めたおかげで本当のことが言えるけど、「教育者」としては、「実証史学者ってどうなんだ」という気持ちをずっと持っていたのは事実なので、それが伝わったのかなとは思います。/たとえば実証をやっている先生が、学生古文で書かれた昔の史料を見せたり、場合によってはお寺なんかに連れていって、本当に生の原文書に触れさせる。もちろん大学院に進んで研究者を目指すような子にとっては、貴重な第一歩でしょう。でも、それ以外の大多数の学生は、そこでなにをしているんですか? という話です。/ストーリーのない、単なる「キャラ集合体」としてしか歴史享受されない現在では、それは単なる「究極の萌えアイテム」に触れさせていることにしかならない。/そこが見えていない人たちが、「どうして世間では、『日本すごい本』のようなエセ歴史書ばかり売れるんだ、けしからん」といくら言おうと、世の中は変わりません。「公文書管理!保存!」とだけ叫んでいても、次はもっと巧妙化した「バレない森友問題」が起きるだけで、なにもよいことは起こらないのと同じです。と述べている。歴史家を廃業たからこそ言える本音とのことである。 失礼かもしれないけれども、数年教壇に立って「教育者」だという感覚は、私のように30年以上教壇に立ってきた者からすると「片腹痛い」という感じであるさらにいえば、数年の経験で「ずっと持ってきた」と言われても、ため息しか出ない「事実」といわれても、何か勘違いではないか、と思える。とても元「歴史学者」。の発言とは思えない。厳しい言い方になるが、自分の感じたことを「事実」と即断するのは余りにも短絡的、感情論である。與那覇氏は実証史学者には世の中を変える力はないと断言する。しかし評者は「実証史学」こそ世の中を変えていく力があると考えている「巧妙化した「バレない森友問題」が起き」たとしても、その虚飾を打ち破れるのは実証史学しかないではないか。與那覇氏には挑み掛かることすらできないのではないだろうか。このような「実証歴史学」に対する批判を元「歴史学者」と自任する方が公言しているところに歴史学・歴史教育の置かれた困難な状況がある。(以上、向野「百田尚樹著『日本国紀』騒動茫観記」p.23

自分の感じたことを『事実』と即断するのは余りにも短絡的、感情的である」というのはまさにその通りであるわずかな出来事を大げさに取り上げて全体を論じる與那覇に、これほどふさわしい批判はない。他にも片腹痛い勘違い、元「歴史学者」と自任、等々かなり手厳しい批判である。にもかかわらず、與那覇は何の反論も加えていない。これはもう向野の批判に與那覇反論できない、「ニセモノ」化して無視するしかなかったという事実に他ならない何よりの証拠ではないか。もし、與那覇がこれを見てそんなことはないと思うなら当然、向野の批判毅然として応答できるだけでなく、今日まで沈黙してきた理由を全部納得ゆくまで説明できるはずである

他者Twitterたかだかブロックすることすら議論から逃げている、引きこもると批判しておきながら、自分批判に対して逃げ続ける。これこそ與那覇潤という人の本質に他ならない。これが不服ならこれらの批判に対して正面から反論すればいい。あわせてなぜ今日まで批判を「なかったこと」にしてきたかも、「ホンモノ笑」なら当然納得いく説明ができるはずだ。「取り合う価値がない」と言うなら、與那覇批判されてきた人たち全員が與那覇にそう返せばいいだけのことだ。そう、與那覇はもう詰んでいるのだ。それを気づかずに延々と意味不明戯言を書き連ねている。與那覇には恥や節度というものがまるでないようだ。

ttps://researchmap.jp/kouno-masahiro

これから匿名ブログだが與那覇の「味付け」と「店」に対してクレームを入れ続けたい。そうすることもまた一つの使命だろう。與那覇バカげた議論バカにし続けることが大事だと與那覇キラーyunishioは述べていたが、その役割わずかでも担えればと思っている。

断言しよう。今後も與那覇がこのブログ言及することは未来永劫ない。それこそが與那覇が「ホンモノ」(爆笑である所以である

最後も少し使ったがやっぱり寒いので()はもうやめよう・・・

2025-12-29

騎兵突撃って実在するの?

騎兵」は実在し、しか突撃けが本質”ではありません

> ①機動(偵察・遮蔽・追撃) ②“乗って運ぶ/降りて戦う”=騎乗歩兵ドラグーン) ③条件が整った時だけの衝撃騎兵突撃、の三本柱でした。

歴史実像(超凝縮)

いま話題の「現代での騎乗

「馬突撃は非合理では?」への答え

——最近報道で見えるのは、この“機動・補給の苦肉策”の側面です。

コスト

騎兵本質

騎兵の“本質”は衝撃力よりも機動力(側面展開・追撃・攪乱・偵察・遮蔽)で、正面から体当たりは条件が整った時にだけ狙う“例外技”でした。

——つまり機動で態勢を崩してから刺すのが王道です。

まとめ

> 余談:有名な「ポーランド騎兵戦車突撃」はプロパガンダに近い誤解。実際は対戦車突撃ではありません。

2025-12-26

anond:20251226133348

一次史料歴史学んでますから! って人のほうが少ないと思うが

たいてい誰かの創作物経由で学ぶだろう 歴史解説書とかだってそうだろ

2025-12-19

2025年に読んで良かった10冊の本

昨年(anond:20241217085132)に引き続いて挙げてみる。今年は元日から今日までのあいだに296冊読みました。いまはアンドリ・スナイル・マグナソン『氷河が融けゆく国・アイスランド物語』(2019年)とR・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(2022年)、ジョセフ・ヒース『資本主義にとって倫理とは何か』(2023年)、かまど&みくのしん『本が読めない33歳が国語教科書を読む』(2025年)を読んでいるところ。

ちなみに上の冊数には漫画は含んでいないのだけれど、漫画は数えてないから何冊読んだのかわからない。とりあえず『微熱空間』『ひまてん!』『うまむすめし』『ルリドラゴン』『祝福のチェスカ』『放課後帰宅びより』『拝啓、在りし日に咲く花たちへ』『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!?』あたりが好き。あと最近ようやく『LIAR GAME』と『ナナマルサンバツ』を読んだけど超面白かった。ウマ娘だと、去年はシーザリオに狂っていたけど今年はブエナビスタにどハマリしています。ブエナ、実装されたら絶対引きたいと思ってたから80連で引けてよかった。ビリーヴシナリオもラヴズオンリーユーシナリオも良かったし、ようやくラインクラフトも入手して育成できたし、来年こそカレンブーケドール実装に期待だな!

スマイル・カダレ『砕かれた四月』(1978年

欧州文学だと、フランス文学サン=テグジュペリ人間の大地』(1939年)やアイスランドミステリのアーナルデュル・インドリダソン『厳寒の町』(2005年)、バスク文学のキルメン・ウリベ『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』(2008年)も非常に良かったのだけれど、どれか1つと言われたら迷った挙げ句アルバニア文学の本作を推す。ノーベル賞を獲りそこねたアルバニア国民作家スマイル・カダレの作品で、10年以上前に『死者の軍隊将軍』(1963年)を読んで以来。復讐という因習によってふたり青年の軌跡が交錯破滅へと導かれるという、銃声のような余韻を残す一冊だった。エンヴェル・ホジャの独裁政権下という執筆時代背景もあってか『死者の軍隊将軍』同様にやたらと雰囲気が暗く、Wikipedia先生とか地球の歩き方先生とかを参照するにいちおうビーチリゾートとかが盛んな地中海の国であるはずのアルバニアをここまで暗鬱に描けるのは逆にすごい。アルバニア高地に心が囚われていく描写がすごいのよ。こっちも引きずり込まれそうというか。

陸秋槎『元年春之祭』(2016年

何年も前に『雪が白いとき、かつそのときに限り』(2017年)を読んで面白かったので本作も買ったのだが長らく積読になってしまっていたので思い切って崩してみた。女と女の重い感情が全編にあふれていて最高だった(粉みかん)。巫女伝統によって歪められる幾通りもの女と女の関係が胸を裂くような切なさを漂わせていてエモい(語彙力)。古代中国百合ミステリというオタクの好きなものを詰め込んだハッピーセットなので読みましょう。

林譲治『星系出雲兵站』(2018~2020年

軍艦が出てきて艦隊決戦とかするみんな大好き宇宙戦争スペオペかと思わせておいて、いやもちろんそういう作品でもあるのだけれど、根本的に異質な知性との交渉過程センス・オブ・ワンダーに溢れていて最高だし、高度な知性体だと思ったら実はプランクトンとして生まれ共食いしながら成長していく生物だったというのものすごい発想で驚嘆させられたし、徐々にこの世界起源が明らかになっていくの面白すぎるでしょ。タイトル兵站要素は徐々に影が薄くなっていくかと思いきや最後まで割としっかり描写されるし謎のイチャイチャシーンも増える。なぜ。とにかくすごく良いSFでした。

マット・アルト『新ジャポニズム産業史1945–2020』(2020年

カラオケウォークマンポケモンといった戦後日本代表する発明品やソフトパワーがどのように作られていったのか、という歴史を掘り起こす書物で、非常にエキサイティング読書体験だった。町工場おっちゃんがふと思いついた小さなアイデアが不格好な試作品を生み、それらが徐々に洗練されてやがて日本世界を席巻するという歴史としての面白さとサクセスストーリーとしてのワクワクが詰まっている。外国出身歴史家が書いたとは信じられないほどに同時代史料当事者のインタヴューを積極的活用していたり、オリエンタリズムに陥ることなく個々の発明家の物語として語られているのも好感度が高い。大満足の一冊。

外国研究者日本研究だと、ほかにスーザン・ネイピアミヤザキワールド』(2018年)も良かった。日本社会コスモポリタン性がクリエイターの土壌となっていることを英語圏の読者に向けて解説してるところ、根強く蔓延オリエンタリズム駆逐しようという気概に満ちていて好き。ただ『もののけ姫』に関する記述照葉樹林文化論に触れてくれるのはすごく良いのだけれど網野善彦には言及があっても良かったのでは(旧著では言及してるんだし)。ノアスミスウィーブが日本を救う』(2025年)の提言は非常に面白かった(経済学に疎くてよくわからない箇所も多々あったけれど)。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(2021年

超・超・超傑作。面白すぎる。いや今更すぎるけど。もうとっくに面白いって知れ渡ってるけど。でも増田が読んだのは今年なんだよ! なんでこれをもっと早くに読まなかったんだろう? SF面白さを四方八方から浴びせられて読むのが止まらなかった。そしてSFとしてだけではなくバディものとしても100点満点中300点くらいの出来だという。「いまいくからな、バディ。待ってろよ」のシーンほんと大好き。ぼくは洩れやす宇宙のぶよぶよの塊。ぼくは本作を読む、映画を待つ。よい、よい、よい!

青崎有吾『地雷グリコ』(2023年

上述のとおり増田流行についていけないマンなのだが一昨年になってようやく青崎有吾の存在気づき、『体育館殺人』(2012年)にはじまる裏染天馬シリーズとか『アンデッドガール・マーダーファルス』(2015年~)とかを昨年までに履修したのだが、今年に入ってから本作と『ノッキンオン・ロックドドア』(2016年)を読んだ。勝負事に対して天才的な嗅覚を持つ女子高生が次々と独自ルールゲーム勝利していく話なんだけど、詰みに持ってくまでの伏線ロジカルさがすごいというか。しかほのか百合要素まであるんだよ。もう最高。毎話クライマックスにさしかかる度に「あれって伏線だったんだ!」と心の中で叫んじゃったもん。ルールには合致していても刑法に引っかかるだろ! みたいな絡め手がバンバン出てきて感覚麻痺してくる。好きな話は表題作と「だるまさんがかぞえた」かなぁ、やっぱり。だーるーまーさーんーがーかーぞーえっ! ……えっ? 漫画版、絵がどっかで見た人だと思ったら『めだかボックス』の人なのね。超納得。

同じく今年履修した『ノッキンオン・ロックドドア』では「十円玉が少なすぎる」が一番好き。タイトルから察しがつくようにみんな大好き9マイルものです。「十円玉が少なすぎる。あと5枚は必要だ」という謎めいたセリフをもとにすごい結論へとたどり着いていてよかった。発想のロジカルな飛躍は9マイルもの醍醐味だよなぁ。

河原梓水『SM思想史』(2024年

今年読んだ日本学術書の中ではいちばん面白い。戦後日本SM雑誌を博捜し、「変態性欲」の論争のなかに分け入りながら、投稿者の正体を暴きエリートたちがSMを通して戦後民主主義を生きようとした姿を浮かび上がらせている。戦後に生まれSM雑誌系譜を整理する第1部の時点で既にガッチガチ実証研究すぎて圧倒されてしまうが、第2部以降が本番というか、脳汁バドバの快楽を味わえる。女性解放を唱える歴史学者が筆名でSM雑誌投稿していた、というだけで既に面白いのだが、著者はテクストを丹念に読み込むことで、彼の歴史学者としての女性解放論とSM論が相互に補完しあう関係であり、戦後民主主義実践サディズムマゾヒズムが彼の中では繋がっていたことを明らかにしていく。また、第3部では『家畜人ヤプー』の再評価にも挑み、作者をとある裁判官だと特定したうえで、マゾヒズム小説だと思われていた作品の新解釈提示する。戦後思想史SMから読み直すという非常に大胆な本だった。「豚に歴史はありますか」ってそういう意味だったんだ。むっちゃオススメ

方丈貴恵『少女には向かない完全犯罪』(2024年

おっさん少女のバディもの、みんな好きだよね? 増田大好物だ。ということで本作はバディものとしてもミステリとしても非常に上質だったので最高だった(語彙力)。瀕死の重傷を負い「幽霊」になった主人公少女がタッグを組んで少女の両親を殺した犯人を追い詰めていく話なのだが、謎解きが二転三転し次々とどんでん返しが襲い来る構成で目が離せない。傑作ミステリですわ。個人的には◯◯さんには生きていてほしかったな……

白鳥士郎りゅうおうのおしごと!20』(2025年

2015年に始まったシリーズ10年ごしで完結した。めでたいめでたい。姉弟子と一番弟子怪獣大戦争がついに決着。もう納得するしかない決着でしょうこれは。あと正妻戦争も完全に決着。天衣ちゃんが澪ちゃん超弩級のデレをかましていてすごい(語彙力)。桂香先生ギャグ方面に振り切るかと思いきや泣かせてくるのはズルいでしょ。ちくしょうそういえばこの作者はネタキャラ扱いでさんざんイジっておいて最後に泣かせる芸風だったな(山刀伐さんファン並の感想)。そしてラストが美しすぎる。オタクは序盤の再現が好きなので……。いや~、10年続いたシリーズにふさわしい大団円で最高でした! まあ、でも、それはそれとして女流棋士制度は歪んでるので是正(というか廃止)すべきだろなという思いを新たにした。もちろん民間団体からムリヤリ廃止するなんてことは結社の自由があるのでできないが、将棋連盟からは切り離すべきでは。

小川一水ツインスターサイクロン・ランナウェイ4』(2025年

百合SFアンソロアステリズム花束』(2019年)に掲載された短編長編になったやつで、リアルタイムで読んでいたものがついに完結した。体格差のある百合カップルが男女の婚姻しか認められないガス状惑星社会で漁をしながら関係を築いていく宇宙SFなんだけれども、まず設定がすごい。その漁で獲るのは普通の魚ではなく、ガスの海を泳ぎ回る昏魚(ベッシュ)たち。そして彼女たちが操るのも普通漁船ではなく、粘土自由自在に変形させて網を編み上げる船。ガス状惑星に発生した特異な生命といえばやはり著者の代表的な短編の1つ「老ヴォールの惑星」(2003年)が思い浮かぶし、なんなら著者の最高傑作天冥の標』(2009~2019年)でも描かれてたわけだけれど、それらの設定を超える宇宙生物を出してきていて最高。本作(4巻)はその宇宙を駆ける2つのサイクロン物語大団円だ。惑星規模・宇宙規模での繁殖というでかい問いをどーんとぶち上げてくるのさすが小川一水という貫禄だし、宇宙レベルの話と「ふたりの話」を並行してSF百合を両立させているのはセンス・オブ・ワンダーの極みと言ってよい。非常に良い作品でした。『天冥の標』で従来の小川一水成分を絞り尽くしたと思ったらまた新しい境地に達していて素晴らしい。

手のひら返しという言葉が書かれている最古の史料

平安時代公家九条兼実が綴った「玉葉」という日記である

日本史の一級史料であるこの日記の中で兼実は

議定ノ変々、数十度ニ及ビ、掌ヲカヘスガ如シ」

当時京の都を制圧支配していた木曽義仲

場当たり的で一朝一夕に変転する方針について

「手のひらを返すように 」という言葉で例えている

2025-11-18

アフリカ人クマとか(笑)

象 年間死者数500人程度

カバ 年間死者数500人程度

ワニ 年間死者数300〜1000人程度

 

なお襲われたら

 

象 横へ逃げる

カバ ジグザグに逃げる

ワニ 目を狙う、ローリングに備える(密着する)

 

なおそこらの銃では普通に通じない

皮膚の厚さ:5cm

頭蓋骨の厚さ:4cm

 

こわい

 

_____

 

ちなみにローマ時代、闘技場で人vsクマ結構やられていたらしい

 

ローマには venator(ウェナトル) という

猛獣専門のハンター系闘士」がいました。

彼らは…

• 投槍(pilum)

• 長槍

• 罠

• 剣

• 輪縄

• 盾

などを使い、 1対1でクマに勝つことができた とローマ史料に記録があります

 

だそうです

ただし勝てたのは猛獣対策ができていた人だけで、対人で強い人は普通に負ける=処刑らしい

2025-11-14

国会図書館デジタルコレクションで見る戦前新撰組の扱い

以前、「国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代の新撰組の扱い」という記事を書いた。

その続きとして戦前特に新選組イメージを覆したと言われる子母澤寛新選組始末記』(1928年前後評価を探っていきたいと思う。

関連:新撰組は「悪役」扱いだったか?~彼らの「語られ方」の歴史を検証する - posfie

なお、新選組が登場するフィクションとしては、前回に紹介した講談を除くと、1913年から連載された中里介山大菩薩峠』が一足早い。

そして前田曙山『燃ゆる渦巻』、大佛次郎鞍馬天狗』、白井喬二新撰組』といった人気小説1924年に揃って出ている。

いずれも新選組主人公というわけではないが重要な役どころで登場する。

また新国劇舞台新撰組』の初演も1924年らしく人気があったという。

それらを受けてか、1925年から新選組を主役とした映画が立て続けに公開されていた(参考)。

戦後になるが1959年大井廣介ちゃんばら芸術史』から、まとめっぽい記述を。

たとえば、小説では、白井喬二独楽師の角逐というめずらしい題材をとりあげた『新選組』の遠景には近藤勇池田屋斬込みなどが扱われ、大仏次郎の『鞍馬天狗』の最初単行本でも、近藤勇がすこぶる活躍した。劇では、行友李風新国劇に『新撰組』を書きおろし、沢正が近藤勇をやる。映画では、枚挙にいとまないという有様だった。このように、勤皇か佐幕かのチャンバラ新撰組近藤勇がしきりにでてくるようになったのは、『大菩薩峠』や『月形半平太』が既にあるにはあったが、『朝日』の『燃ゆる渦巻』が大々的に口火をきった。

そういった状況を踏まえたうえで1926年文章から

1926年大正15年)三田村鳶魚江戸の噂』

近藤勇なども此の頃では英雄のやうなことになった

と書きつつ鳶魚は「ヘボ剣の近藤勇」などと呼んでボロクソに貶している。

この文章の初出は大正14年とある

1926年大正15年)富永堅吾『剣道達人腕比べ』

近藤勇といへば、維新当時、鬼勇とまでいはれた武勇伝中の一人で、今に尚、芝居や講談読物によつて若い人たちの血を湧かして居るが、彼れは若い時分、近藤周斎の門に這入つて剣術を学んだ。

これは古今の剣術家らのエピソードを集めた子供向けの読み物らしい。そのうちの一篇として近藤勇が紹介されている。特に悪い書き方はされていない。

「芝居や講談読物」によって、近藤勇がよく知られていたことが窺える。

1926年大正15年)の村松梢風創作講談』の広告

第一の『近藤勇』は新撰組領袖として目覚ましい大活躍をした幕末史中の花形役者

創作講談』は「近藤勇宮本武蔵一休和尚猿飛佐助清水次郎長紀伊国屋文左衛門」という伝記のシリーズで、1925年刊行されたようだ。

1927年昭和2年雑誌帝劇

勤王、佐幕、そして今の世は勤王劇流行で、勤王で無ければ成らぬ流行中を、我が澤田は新撰組の佐幕劇を以てその隊長近藤勇で見えている

劇団新国劇」についての論評。『新撰組』は新国劇十八番で、たびたび上演されているとも書かれている。

1927年昭和2年雑誌日本日本人』

そこで先づ目に映つたのは、此頃人気を呼んでいる新撰組隊長近藤勇が、大阪富豪鴻池善右衛門加島屋作兵衛、辰巳屋文左衛門外十数名から金を用立てさせた「約定証書」は、鴻池の家蔵品として出品されてあつた。

大阪朝日新聞社主催・大阪市後援の「大阪史料展覧会」のレポートらしい。

そういうイベント鴻池家が新選組史料を出している、というあたりに「此頃の人気」が窺えるのではないか

続いて子母澤寛新選組始末記』直後の1929年新選組評価をいくつか。

1929年昭和4年文芸春秋社文芸創作講座』

今日大衆文学に行はれている赤穗浪士にしても由井正雪にしても近藤勇にしても、悉く正史よりも寧ろ外傳の史料に拠るものが多い。

1929年昭和4年尾佐竹猛明治秘史疑獄難獄』

剣劇映画大衆文芸に何百回となく描かれて居る一代の剣豪近藤勇も、明治元年正月幕軍の敗走以来、落目となつては為す事毎に齟齬し、四月三日越ヶ谷の官軍本営にて捕はれた。

1929年昭和4年子母澤寛新選組始末記』の広告

時代は常に逆転す!チャンバラ本家新選組だ!現代チャンバラ全盛を地下の近藤勇は苦笑でもやつてるか?明治回天大芝居の其花形新選組の後始末はサテどうなつたか!?

1929年昭和4年)『菊池寛全集』より「後代の人気」

だが、近藤勇のこの頃の人気は素晴らしい。大衆的人気の上で維新の三傑などは、蹴飛ばしいるから愉快である。後代の人気と云ふものは、その時代を作つた人に集らずして、その前代に殉じた人に集るやうである


以上からすると、『新選組始末記』以前から近藤勇および新選組は十分に時代劇のスターだったようだ。

維新志士の好敵手として設定されてはいても、しかし「悪役として嫌われていた」という感じではない。

特に1924年ごろから一種の「新選組ブーム」と言っていいような状況だったのではないか

ただ当時は、あくま近藤勇の人気が飛び抜けて高く、次いで土方が知られていたくらいで、沖田などのキャラが立ったのはやはり『新選組始末記』以降だろうか。

1929年には月形龍之介主演で『剣士沖田総司』という映画が作られたらしい)

池田屋で沖田が病気により昏倒する」などのエピソードは、明治末の講談に採り入れられてはいたが、それ以降の作品にあまり引き継がれなかった。

そうした細かいエピソードあらためて掘り起こして、当時大量に作られていた小説映画に新たなネタ提供した、という点に子母澤寛の功績がありそうだ。

2025-10-14

anond:20251014235316

別に見返したりしないんだけどネトゲ大勢が集まった時の動画とかどこか史料っぽい感覚があって消したくないんだよな

かといってYoutube勝手に上げたりするのも嫌がる関係者いるかもしれないし持て余してしまっている

2025-09-17

「虎に翼」でノイズを足しまくった吉田恵里香が何言ってんだ(追記有)

吉田恵里香の「ノイズ」云々でなんか議論が沸騰しているけれど、

原作の数ある要素の中から、一編のアニメなりドラマなりに構築するさいに、何を抽出し、そぎ落とし、足りない部分を補うか」という取捨選択と肉付けの作業は、吉田に限らず、全脚本家が行うことである

言葉枝葉末節はあれど、吉田スタンス基本的には当然だし、「ぼっち・ざ・ろっく」は原作アニメとも未見のため、細かな表現のものを問えないが、アニメはヒットしたと側聞しているので、「ノイズ排除した物語」は支持されたのだろう。

一般論として、吉田の主張は正しい。

その上で言うのだが。


「虎に翼」で、<追加した>あえて言うならば</ここまで>原作に相当する史実にはない「寅子の花束拒否事件」をぶち込んだ吉田が言えることかよ、と。

ツッコミが入っているので、「あえて言うならば」を追加しておく。でもここ、議論の取りかかりになっている「原作ノイズ」と対応させるためだけの言葉だよ)

「寅子の花束拒否事件」について

「虎に翼」を視聴していた多くの人が首肯すると思うが、

穂高教授への、寅子の花束贈呈拒否のシーンは、あまり唐突だった。

穂高教授は、寅子を法曹界へ導いた恩師であり、

父親が疑獄に巻き込まれた際は、弁護について冤罪を晴らした恩人でもある。

その恩人の退任式で、花束贈呈役だった寅子が、

スピーチ中の、「結局私は、大岩に落ちた雨垂れの一雫に過ぎなかった」という一節を聞いて突如としてぶち切れ、

贈呈を拒否して会場を立ち去り、さらに、廊下穂高教授に激高するのである

このシーンを見たとき、全く意味が分からなかった。

「なんだこれ?」と。

ただ同時に、これはきっと、実際にそういった事件があったのだろう、とも思った。

寅子のモデルである三淵嘉子さんが、式典で花束贈呈を拒否するエピソードがあるならば、この唐突さも仕方がない。三淵さんも、エキセントリックな人だったんだな、と思った。

ところが、そんなエピソードは、ない。

(余談だが、この件はずっと引っかかっていたので、ネット上ながら折に触れて探しているが、少なくとも、自分はいまだに確認できていない)

公の場であん事件が起きたら、まず新聞なり雑誌なり、誰かの日記・手記などに記録が残るが、そうした史料はないはずだし、史料があって採用したならば、吉田自身が必ず言及するだろうが、それも確認できなかった。

よって、吉田の完全な創作と考えていい。

ますます混乱した。なぜこんな創作をぶち込んだのか、と。

これは自分だけではない。旧twitterタイムラインも混乱しており、賛否両論とかではなく、「謎否両論」といった感じだった。

その後、「あれは『父親殺し』のメタファーじゃないか」とか、いくつかの考察があり、少しだけ落ち着いたのだが、やはり「謎否」の反応が与えた物語への影響は大きかったのか、最終回最後最後は、「雨垂れの一雫強制されるのは嫌だが、自分から選ぶのはいい」とかいったような、おかし言い訳というか説明セリフで終わるという、締まらないラストになってしまった。

吉田史実にない「寅子の花束拒否事件」をぶち込んだ意図に関する考察

で、話を戻すが、なぜ寅子は穂高教授への花束贈呈を拒否したのか。

吉田はこう書いている。ちょっといから、引用飛ばしてもOK

寅子「どうもできませんよ! 先生女子部を作り、女性弁護士誕生させた功績と同じように、女子部の我々に『報われなくても一滴の雨垂れでいろ』と強いて、その結果歴史にも記録にも残らない雨垂れを無数に生み出したことも! だから、私も先生には感謝しますが許さない。納得できない花束は渡さない! 『世の中そういうもの』に流されない。以上です!」

(略)

寅子の人生について、妊娠したとき勝手彼女一人称「母」とか「お腹の子」にしたのは穂高先生で、結局、寅子は弁護士事務所を辞めることになり、その一人称が持つストーリーを歩ませたのも穂高先生なのに、ここまで擁護されるとは思っていませんでした。

(略)

私は穂高先生を味方でいてくれるようで根本的な部分を理解してくれていない、ちょっと古いリベラル思想の人にありがちな「(妊婦である寅子を)変わらず保護する対象として見ている」みたいに描けたらと思っていて。それは寅子からすれば、善意自分排除するという状態だと思ったんですが、擁護する人が予想以上に多かったので、驚きました。

(略)

寅子が花束を渡さないと言う場面では、撮影現場に「アドリブでも絶対に謝らないでほしい」ということは伝えていました。そこで桂場が「ガキ! 何を考えているんだ」としかりつけるわけですが、やはり、あの場面ではつい謝りたくなっちゃうと思うので。

(略)

寅子と穂高先生関係については、自分女性最初弁護士として引き上げておいて、その糸を高いところから切られ、地面に叩きつけられたというような気持ちが私は大きかったんですね。

それを穂高の退官祝賀会という晴れの場で「許すことを強要される」ことへの怒りで。現実社会でも、こんなふうに世界中女性が渡したくない花束をどれだけ渡してきたんだろうということに思いを馳せて書いたところもありました。

(略)

本人との関係が深い女性が渡すなら良いけど、「女性から」と花束を渡す係にするのはおかしい。そんな思いを込めたシーンでした。

ドラマではカットされましたが、もともとの台本では祝賀会の壇上で穂高先生が寅子に向かって、まず寅子が妊娠弁護士を辞めたときのことを「すまなかった」と謝るんです。それに対するアンサーとして寅子が花束をあげてしまうと、「許した」ということになってしまうから彼女は「花束を渡したくない」と怒ったという流れがありました。

https://president.jp/articles/-/86235(1,5,6ページ)

最大のポイントは、

寅子は元々穂高教授に怒っていた(という設定である)ことだ。

だが…、ならば、そもそも花束贈呈役を引き受けるなよ、と。

式典の前に花束贈呈役を打診されて、「私は先生を許さない。だから花束を渡さない」と突っぱねるなら、まだ分かる。

史料に残らない、内輪の場で、こんなことがあったかも、と想像の翼を広げるのは自由である

ところが、本当は許していない寅子に花束贈呈役を引き受けてさせて、いざ式典の最中に「やっぱり許せない」とその役割を放り出させるという、史実にはないシーンをぶち込んだ吉田意図は何か。

それは、

吉田穂高教授という“古い男性象徴”を、「公衆面前で」辱めたかたか

だと推察した。

公衆面前、がポイント

そうでなければ、意図が取れないのだ。

ここに私は、吉田の底意地の悪さを感じ取ってしまう。

(あと、寅子と穂高教授って、男女とか関係なく、めちゃくちゃ深い関係で、「女性から花束を渡す係になったと思った視聴者は誰もいないだろう)

「寅子の花束拒否事件」が起こした混乱

ただ、吉田意図は、はっきり言えば吉田以外には全く伝わらなかったのではないか

この増田を書くに当たって検索し直して、見つからなかったのだが、穂高教授を演じた小林薫は、確か

「どう演じたら一番かわいそうに見えるか、演出の人と何度も相談した」

といったことを言っていたはずだ。

かに穂高教授の身になれば、晴れの場で愛弟子から突然激高されて式は台無しにされ、その後も怒りをぶつけられて途方に暮れるのだから、かわいそうとしか言いようがない。演技として間違っていない。

だが、吉田が寅子へ託した怒りがあまりに強すぎ、伊藤沙莉の演技もうますぎたせいで(前に引用した通り、伊藤は「アドリブでも絶対に謝らないでほしい」と脚本指定されていた)、穂高教授がただただかわいそうな人、寅子がおかしな人になってしまった。

あえて吉田意図に乗るなら、小林は例えば、「保護する対象として見ていた女から牙を向けられ、辱められて、怒りに震える」演技をすべきだった。

名優の小林でさえ、吉田意図をくみ取れなかったし、また、小林の演技プランを、演出サイドが止めなかったのも、演出家が吉田意図理解できていなかった傍証である

卓越した演技力を持つ伊藤も、理解できなかった。

NHK公式サイト伊藤コメントはすでに削除されているので、引用した記事から孫引き

 演じるにあたっては、なぜ寅子は穂高にここまで怒るんだろう?と悩みました。その気持ち監督に話したら「表現としては怒りかもしれないけれど、ここは寅子から穂高愛情を伝えるシーン。ここで2人は、ただの仕事相手師弟関係じゃできないケンカをしている。もはや、ある種の親子ゲンカであって、これは大いなる愛なんです!」と。そうした視点脚本を読み返したら、腑に落ちたんです。きっと寅子は、穂高先生あいさつを聞いて「今までやってきたことすべてが雨垂れの一滴だと言うの?凄くことを成し遂げた先生尊敬していたのに、そんな後ろ向きなことを言わないでよ!」と感じたんですよね。

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/07/05/kiji/20240704s00041000217000c.html

前述の通り、吉田意図した怒りのポイントは、「寅子自身も『雨垂れの一滴たれ』とされたと思った」ことなので、伊藤もずれているのだ。

結論を言うと、

自分の怒りをむりやり乗っけたせいで、余計なノイズになり、現場視聴者も混乱させた吉田が『ノイズ排除』なんて言うな」

である

おわりに

最後に、「虎に翼」を監修した方の、14週のコメント引用したい。

穂高先生と寅子のわだかまり最後まで溶けることなく、穂高先生は亡くなってしまいました。寅子の気持ちも分からないではありません。穂高が「女子部を作り、女性弁護士誕生させた功績と同じように、女子部の我々に『報われなくても一滴の雨垂れでいろ』と強いて、その結果歴史にも記録にも残らない雨垂れを無数に生み出したこと」、いわば捨て石としたことを、寅子はどうしても納得できなかったのです。しかし、雨垂れになる 虞があることは、母親のはるも桂場判事も、何度も警告していましたよね。それを自分意志で突っぱねてきたのは寅子であって、責任をすべて穂高先生押し付けるのは、ちょっと違うかなという気がします。台本では「(全部言ったった!と、興奮して叫ぶ)」という場面設定でしたが、出来上がった映像では、「全部言ってしまった」と頭を抱えて座り込むという複雑な心情を表わした演出になっています

https://meijinow.jp/article/toratubasa/100566

母親のはるも桂場判事も、何度も警告していましたよね。それを自分意志で突っぱねてきたのは寅子であって、責任をすべて穂高先生押し付けるのは、ちょっと違うかなという気がします」の指摘はその通りだと思う。

あと、

台本では「(全部言ったった!と、興奮して叫ぶ)」という場面設定でしたが、出来上がった映像では、「全部言ってしまった」と頭を抱えて座り込むという複雑な心情を表わした演出になっています

これは演出ファインプレー

吉田意図とは異なるのだろうけれど、脚本のままだったら、もっと寅子は嫌われていたと思う。

男性(性)を公衆面前で辱めて勝ち誇りたい」という己の欲望を満たすために、史実ねじ曲げてまでねじ込んだ「寅子の花束拒否事件」は、本当に誰も理解できない、純然たるノイズだった。

追記

yas-mal 「根本的な部分を理解してくれていない、ちょっと古いリベラル思想の人」の一員として、あれは刺さったよね。増田にも刺さったから、これだけ必死否定してるんでしょ。吉田さんの意図通りでしょ。

あのさあ。

その意図のせいで、話にでっかいノイズが入って、視聴者ほとんどが頭に?マークを浮かべるわ、最終回言い訳入れるはめになるわで、話がぐちゃぐちゃになって完成度が落ちた、という話をしているの。

盛り込むなら盛り込むで、うまくやれって話をしているの。

そもそも引用で挙げているように、吉田自身も「ここまで擁護されるとは思っていませんでした」「擁護する人が予想以上に多かったので、驚きました」って言っているのだから、全く意図通りじゃないぞ。

dusttrail 本筋とは関係ないんですが、ネット上を探しただけで「見つからなかったからそんな史実はなさそうだ、創作に違いない」はちょっと…。

言わんとすることは分かる。その点は、「史実にあるなら吉田が必ず言及する」ことを担保にした。

なぜなら、吉田が(三淵さんを通してつくりあげる)寅子にやらせたいことにぴったりのエピソードなのだもの

また、当時の解説のどこかで、「このようなことはなかった」と書かれた記事を読んだ覚えがある。

いずれにしても、ないもの証明するのは難しいので、申し訳ないが容赦してほしい。

rundyh 連続テレビ小説史実エピソードであるべきと思ってんのか?

当然、史実創作も織り交ぜる(言い方を変えると、史実面白いエピソードをうまくピックアップして創作する)ものだし、そう書いている。

ただ、「花束贈呈拒否事件」は、公の場での出来事に設定しているし、あまりにも唐突だったので、逆に史実だろうと思ったら(恐らく)創作だったことに、「なぜに!?」と思った。

しろ史実だとしたら、脚本家によっては「ノイズ」として切る人がいてもおかしくないレベル唐突さだから

で、史実でないならば、もっと別の設定、別の場所穂高教授に怒りを向けることもできるのに、なぜあの公の場で拒否というエピソード創作する必要があったのか。

それによって話のバランスが崩れても、なお盛り込みたかったのか。それが推察の出発点になっている、というだけ。

segawashin アレ虎に翼に原作なんてあったんだーと思っていたら「原作に相当する史実にはない」という超理論で腰が砕けた。この理屈なら殆どの史劇がアウトになってしまうが、現実フィクション区別がつかない人のなのかな? 本文は読んでない

せめて読んでからコメントしてくれ。後半の疑問にはすでに答えているぞ。

todomadrid 脚色加えるのはノイズベースとした史実と違うからノイズ?何を言ってるんだろう。そう思うなら原作歴史書だけ読んでいてほしい。クリエーター自分思想や主張を作品に反映させるなんて当然。それが作家性だよ

脚色や作家自体は、全く否定していない。

最初に書いているだろ。

原作の数ある要素の中~一般論として、吉田の主張は正しい」まで。

脚本家の脚色や作家性を否定しているなら、こんなこと書くわけないだろ。

史実と違うからノイズ」なんてどこにも書いていない。

ブックマークしたのはかなり後だから追記を読んでいるはずだけど、

「むしろ史実だとしたら、脚本家によっては「ノイズ」として切る人がいてもおかしくないレベル唐突さ」と書いているだろ。

花束贈呈拒否事件は、あまり唐突すぎて、多くの視聴者どころか制作者も置いてきぼりにするような創作で、理解を混乱させて作品の完成度を下げたと感じたかノイズだと言っているの。

kura-2 原作アニメ見てないやつはその作品についてなんも言う資格ねえなあ。物語の順序入れかえたり変更された部分に対して必ずしもノイズ扱いされているわけではなかろう。増田結論ありきで書いてるだけ。

いや、「ぼっち・ざ・ろっく」の作品についてなんて、一言も語っていない。側聞だけ。

増田人格攻撃レッテル貼りをしているブクマカ

いやまあお前のブックマークから好きに書けばいいけれど、公表しちゃっている以上、それって全世界に「まともに反論する能力がありませーん」って宣言しているのと同じだぜ。

「まともに相手するのもばかばかしい」というなら、そもそも相手ブックマーク)する必要ないじゃん。要は、ただ攻撃したいだけなんだよね。

いくらなんでもこれはひどい

hate_flag 増田はそんなにぼっちちゃんおっぱいが見たかったの?そういうの見たいならウスイ本買えばいいのに

ええーっ…。何これ…。

いや、誤読は仕方ない面もあるよ。もちろん、こちらの書き方が足りていないこともある。

でも、これは誤読以前じゃん。

煽りにしてもひどすぎる。

増田はそんなにぼっちちゃんおっぱいが見たかったの?

冒頭に書いてるだろ。

「「ぼっち・ざ・ろっく」は原作アニメとも未見だと。

たかったも何も、そもそも作品に触れてもいないんだってマジで

あと、「吉田スタンス基本的には当然だし、アニメはヒットしたと側聞しているので、「ノイズ排除した物語」は支持されたのだろう」と書いてるだろ。

自宅の水風呂に入れるときに、水着を着せたんだってな。昨日初めて知ったけど。

このことについて、「けしからん」とか「ふざけるな」とか、そんなの、どこにも、何にも書いていないし、

覇権を取るために風呂場の裸というノイズ排除し、純度を高めた戦術は、全く否定していないぞ。

なあ、id:hate_flag

あんたはこの増田のどこをどう読み、どんな理路で、嘘つき扱いしたのか。

書いていないこと、しかこちらの思いと全く異なることを書いて煽ってきたのか。

言ってみろ。根拠を示せ。いくら何でもめちゃくちゃだ。

魚拓をと思ったらすでに取られてた。取ったのは増田じゃないよ。マジで

魚拓

2025-09-08

anond:20250908111706

当然だ。どんなにくだらない文章でも1000年後には貴重な史料となる。

平安時代庶民が書いたメモ帳が燃やされていたら研究者は炎に飛び込んででもそれを守ろうとするだろう。

2025-09-05

anond:20250905181418

一次史料YouTube、使い方によっては何もおかしくないのにバカ言葉だけ真似するとひどいことになるな…

2025-08-17

anond:20250817234633

おい、虚勢を張って自己放尿するも限界だろう。

まず「ノアの箱舟で生き残れるのはユダヤ人だけ」という教義存在しない。

ユダヤ教の文献にそんな言葉は一行もない。

あるのは「ノアの七戒」だ。これは全人類共通して課された普遍倫理で、守る者はユダヤ人でなくても義人とされ、来世の分け前があると繰り返し書かれている。

まり救済の門戸は開かれている。選民思想どころか、むしろユダヤ人の救いを明文化している数少ない宗教だ。

次に「選民思想があるだろ」という短絡だが、そもそも「選ばれた民」の概念は、支配優越意味しない。

ユダヤ教では「律法を守る責任を課せられた民」という意味であり、義務負担象徴だ。ユダヤ人歴史を見ればわかるが、その選ばれたゆえに迫害流浪虐殺を繰り返し経験してきた。

優遇どころか罰ゲームに近い。

お前は「特別優越」と思い込んでるが、それは自分の浅い国語力による自己放尿のせいだ。

さらに「どんな宗教をやっても幸せになりますって言え」だと? 言えるぞ。

ユダヤ教は他宗教存在のもの否定しない。

ノアの七戒を守るなら、その人は義人とされ、救済に与ると教えている。

ユダヤ人だけで独占しているとはどこにも書いていない。

まり、お前の「俺の方が真実」って主張は、一次資料ゼロの大声自己放尿にすぎない。

最後に「嘆きの壁で嘆いてろ」と捨て台詞を吐いたな。

だが嘆きの壁世界中人間が訪れ祈る場所だ。

ユダヤ人自由に祈れる。

そこに「排他性」はなく、むしろ人類共通象徴になっている。

お前の吐いた罵倒は、歴史現実に真っ向から裏切られている。

お前の言ってることは、史料裏付けがなく、論理的整合性もなく、ただ怒りに支配された妄想自己放尿だ。

真理は怒鳴り声では変わらない。虚勢を張るほど、無知が際立つだけだ。

anond:20250817233418

まず歴史ホロコーストの原因は「ユダヤ他者を見下したから」ではない。

ナチ政権人種主義国家ぐるみ反ユダヤ主義を中核イデオロギーに据え、法的に排除した。

ニュルンベルク法祖父母出自ユダヤ人を線引きし、改宗者や無宗教者すら対象にした。

これは「ユダヤ教の教義が原因」では論理的説明不能だ。因果を入れ替えるな。

ユダヤ教は「俺たちだけ箱舟に乗れる」などと言っていない。

タルムードは七つのノアの掟を全人類普遍倫理として扱い、それを守る諸国民の義人は来世に分け前があるとする。

ラビは明確に「七戒を受け入れ守る者は諸国民の敬虔な人であり、来世に分け前がある」と書いている。

さら現実ユダヤ社会行為イスラエルユダヤ人ではない救援者に「諸国民の義人」の称号公式に授与している。

ユダヤ人を「ゴミ」扱いする思想共同体だとしたら、非ユダヤ人を国家記憶に刻むか?事実はお前の自己放尿と真逆だ。

お前の「ユダヤ傲慢ヒトラーが切れた→虐殺」は、個人的体験一般化、因果逆転、そして加害の正当化というトリプル自己放尿だ。

ナチ動機ユダヤ教の教義ではなく、ナチ自身人種イデオロギーだったという一次・公的機関資料が山ほどある。

怒鳴り声で史料ねじ曲がらない。金で信念を売り買いする発言も論外だ。真理は財布の厚さでは決まらない。

今お前がやっているのは、床にぶちまけた自己放尿を指差して「見ろ、大洪水だ!」と喚いているのと同じだ。

お前が本当に「俺は詳しい」と言い張るなら、まともな資料に一度でも当たれ。

読むだけで自分の主張が崩れるのが分かるはずだ。

怒りを燃料に嘘を撒く生活今日で終わりにしろ。今ならまだ、事実の側に戻れる。

2025-08-07

「ホンモノ化」する與那覇潤

注意 リンクをたくさん貼っているが、スパム対策をしています。ご了承ください。

これは以前から何度か書いている與那覇潤について、もうそ観点見方陰謀論とまではいかなくとも、かなり接近しつつある段階に突入していることを「実証」する試みである

この検討によってもはや與那覇の現状がいかヤバいことになっているかが分かるだろう。

正直、少し調べてみただけだが(そもそも今の與那覇にそこまで時間を費やす価値はない)、ここまでとんでもないことになっているとは予想だにしなかった。まさに與那覇は「ホンモノ化」しているといえるだろう。

なお、「ホンモノ」とは與那覇による自称である。主流派専門家を「ニセモノ」と断じて自分こそが社会を正確に批評できる「ホンモノ」であると対比させている。そもそも、50手前のいい年した大人がこんなイタい表現使うこと自体どうなのかと思うが、まあ本人が気に入っているようなので與那覇は「ホンモノ化」していると批判しても一向にかまわないだろう。ここでは與那覇のいう「ホンモノ」の思考や言説が一体どういうものなのか明らかにしたいと思う。

突然だが歴史学には「史料批判」という言葉があるらしい。AIに要約させてみた。

史料批判」とは…史料批判とは、歴史研究において、史料信頼性評価し、歴史的事実を解明するための批判的な手法のことです。史料の真偽、作者、作成年代、内容の信憑性などを検討し、史料が示す情報がどの程度信頼できるかを判断します。

まあ要するにソース史料)にはしっかりとその正否を問える力を付けようということである。與那覇研究者たちとの争いの中で自分批判する研究者たちを「史料批判できない」と言って批判している。

ttps://note.com/yonahajun/n/n9e5c69865c86

ここではこの争いの是非については立ち入らない。気になるなら各自で調べてもらえればと思う。

さて、與那覇コロナに対するマスクワクチンへの批判を痛烈に熱心に行ってきた。最近はとうとう「店員マスクを外せ」と言い出している。

これは結局マスク強要することを批判していたことの裏返しに過ぎない典型的逆張りのしょうもない話であるしか理由が「外国人がせっかく来ているのに」とか自分が気に食わない、とかいうどうでもいい理由である。いや、流石にそんなことは言わないだろうと思った人はこの記事を見てほしい。

ttps://note.com/yonahajun/n/n28ac220c53ff

この記事問題点は「マスク信仰」が江戸時代以来の日本の図式だ!みたいな杜撰まりないぎろんをしているところ。そしてそれを「ホンモノ」たる成果として誇っていること。下記の『潮』に掲載した一文なんてすさまじいことこの上ない。嘘だろと思うだろうけれど、「ホンモノ」は本気で言ってるらしい。アンケートでも取ったというのだろうか。

「この2025年にも、食事を運ぶ人たちがみなマスク姿。せっかくの美しい和装台無しで、インバウンドで訪れた外国人がっかりするだろう。なにより、本人たちが楽しく働けないに違いない」

 →むろん、こうした記述に全く根拠がないのは言うまでもない。

問題はここからである。與那覇はここまで自信満々にコロナについて発言するのだから、当然それなりの根拠があるはずである。そんな與那覇コロナ観が分かるのが、2023年newsweek掲載されたこちらの記事である

驚くべきは與那覇が「マスク無用コロナは大したことない」と主張するソースである

ttps://www.newsweekjapan.jp/yonaha/2023/04/post-5.php

森田洋之と宮川絢子である森田は非常に有名な反ワクチン論者で、人によっては「陰謀論者」と評するような人物である

https://note.com/inbouron666/n/na670d641ce30

宮川コロナで苦汁をなめたことで有名なスウェーデン在住で、その姿勢はかなり批判されてきた。

ttps://note.com/nyanpy7x/n/nae5e69ef7519#45a31942-36fe-478b-99f0-7f23e330a050

宮川が絶賛するスウェーデンコロナ対策2020年時点で国王から「失敗」の「太鼓判」が押されている。

ttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20201218/k10012770601000.html

スウェーデンコロナ対策については下記も参照。

ttps://toyokeizai.net/articles/-/363225

ttps://x.com/Calcijp/status/1885227563603419627

ttps://x.com/Otola_ryntaro/status/1910237498996916547

宮川スウェーデンの当時の悲惨さを無視してスウェーデンコロナ対策を礼賛する発信を続けている。

ttps://news.ntv.co.jp/category/society/d0692a604c2e42b28878125de0701b42

ttps://forbesjapan.com/articles/detail/65891

まさにリアル歴史修正」である。そんな人の記事引用することに、なんの疑問も「史料批判精神も働かなかったのだろうか。

正直、コロナのことはいまだに分からない点も多い。少なくとも與那覇根拠に挙げた二人の論者を論拠に挙げてマスク不要、と結論付けるのはかなり乱暴である。最低限でもこれらの議論に対する批判や別の考え方も示したうえでどちらが妥当かを判断するような見解にでもしない限り、到底多くの人を納得させることはできない。與那覇のかねてからコロナに対する持論の根拠がかなり薄弱であることをここでは指摘しておきたい。

無論、このような與那覇杜撰記事は痛烈な批判さらされた。

ttps://x.com/Newsweek_JAPAN/status/1651882699106267136

3年前のこちらの記事ツイート。118引用ツイートがついているが、與那覇見解根本から批判するものが多い。

以下、いくつか引用したい。

ttps://x.com/mama_melaleuca/status/1652160087778291712

マスク感染予防に有効だとする「医学的な根拠はない」

マスクウイルス捕集できる科学的な根拠

マスク捕集機構についての科学的な説明

ならそこら中にあります

ttps://x.com/tkay109/status/1652219662393040896

そもそも、医科学素人が「マスクには医学根拠はない」などと断言することが不遜です。さらに、彼がその論拠として引用している医師二人がまた、非科学的なのです。二重にトンデモ記事を書いた與那覇潤氏は、歴史学非科学である可能性を示してしまいましたから、歴史学から叱られるはずです。

 →不遜なんて言うと與那覇は「センモンカなんかあてになるか!」言い出しそうだが、その根拠がまた「非科学的」という・・・

ttps://x.com/yoshimy_s/status/1652134906879942661

マスクによる防御能は物理学的な作用によるものであり、数学的に解明することが必要で、いわゆる一般的に言う「医学的な」範疇ではありません。

また数学的に得られる結論は、確率論に基づく理論値ですから根拠が「ある/ない」の二者択一で論じるのも不適切です。

以上、引用終わり

今日でもコロナは拡大しており危機感を持った医療関係者による発信が続いている。

後述するように、與那覇は「対談」を自己ステータス証明に使っているので、ぜひこういった人たちと議論してほしいのだが、いかがだろうか。

なお、当然のことながら與那覇がこれらの批判反論した形跡は全くない。まさに與那覇批判するような「言いっぱなし」を自ら実践している。

森田にいたっては、参政党ともつながっていることが分かっている。その森田は與那覇記事を礼賛している。

ttps://sankago.hp.peraichi.com/2025/

鹿児島政治資金パーティー広告

ttps://note.com/hiroyukimorita/n/n783b8188b14d

森田による與那覇礼賛の記事

こうしてみると、以前の記事で與那覇参政党の躍進を「支持はしないが、参政党の躍進を喜びたい」と述べたことも、別の意味を帯びてくる。そもそも支持はしないが喜びたいという言葉自体、一昔前の「ご飯論法」にも通じる詭弁である。與那覇参政党にシンパシーを感じていて、表立って支持するなんて言ったらたたかれるので、予防線を張っているとも考えられる。與那覇の文面から参政党への強い批判危機感を見出すことはできないし、反ワクチンなどでは参政党と近い立場であることは明らかである。なお、與那覇参政党の躍進を喜ぶのは「ホンモノ」の予言が当たるかどうか確かめたい、という意図によるらしい。だが、こうした與那覇の文面をそのまま馬鹿正直に受け取ることもできない。以下に見るように與那覇依拠する言説の中には参政党と通じる人脈が複数まれている。與那覇参政党の反ワクチン姿勢に対して特に言明しないのも、なんだか不気味に思えてくる。無言の肯定ということにならないだろうか。

そもそも民族差別など数々の問題点を指摘されている参政党の躍進を「喜びたい」などと表現するのは、常軌を逸していると言わざるを得ない。もはや與那覇陰謀論に通じているか、そうでなくともそうした価値観を容認していると批判されても言い訳できないだろう。

もし、そんなことない、「ホンモノ」たる俺が陰謀論なんて信じているわけないと言いたいなら、森田宮川議論引用するときに最低限の注記をはさむべきだった。そうした行為を一切していないのは、與那覇にはすでに陰謀論者とも言われる人物議論引用することにためらいが無くなっていることを意味する。

専門家批判は決して悪いわけではない。だが、それに代わって批判するのが根拠が薄く、数多く批判されている論者の言説であるというのはもはや喜劇しかない。専門家ダメからといって、自分に合う言説を無批判的に引用するのは真摯立場ともいえないだろう。

そうした問題の多い言説を世に出すことに何の疑問も抱かない。そして、批判を受けても一切無視できる。そのクセ他人には「失敗を認めて反省しろ」と口汚く罵る。これが「ホンモノ化」の現実である

繰り返すが、おそらく與那覇は「陰謀論になんてはまってない!」と言い張るだろう。だが、改めて森田の言説やそれに対する指摘を見てほしい。普通ならそのまま引用するのに躊躇うくらいの批判が相次いでいる。それらを論拠として挙げることに何の抵抗もなくなった時点で、すでに與那覇は「陰謀論」のナラティブに絡めとられつつあると言っても、大きくは外れていないだろう。えてして陰謀論にはまった人には陰謀論にはまってるといっても聞かないものだ。

さて、ここまで見てもらえたならもうお分かりだろう。與那覇には「史料批判」の視点が全くないのである。自説に都合のいい議論を紹介してあたかもそれが結論であり、最新の議論であるかのように偽っている。

そういえば、『中国化する日本』でもそんな手口を使っていたような・・・

https://yu-koba.hatenablog.com/entry/20111212/1323691605

https://kscykscy.exblog.jp/18241381/

なんどもいうがkscykscyこと鄭栄桓の記事は與那覇議論問題点や手口がよくわかる内容となっている。與那覇を論じるならまず必読の内容である。與那覇が今なおこのブログに一切言及しないことも含めて、示唆的であろう。

では、これからどうしたらいいか。與那覇最近でも著名な有識者と対談をしている。與那覇は対談することで自分が一流の批評であるというアイデンティティを確保しているようである(先の歴史研究者への反論でも自分専門家対話していることをまともな証拠に挙げていた)。

ttps://note.com/yonahajun/n/n411c48f6f523

ちなみにこの記事で挙げられている宮沢孝幸は参政党と通じている。

https://x.com/tokyo_jyoto/status/1885649076517249067

ここまで参政党と通じている点をいうと與那覇のことだから「学級会みたいに誰かとつながっているからなんて理由批判するのは幼稚だ!」などと言い出しそうだが、参政党躍進を喜んだ以上、その人脈とのつながりは指摘されて当然であるそもそも聞かれてもないのに参政党躍進にはしゃいだのは與那覇なのだから自分のうかつさを反省すべきである

念のため補足しておくが、與那覇参政関係者と対談したり、その価値観や政策肯定したことも、支持を明言したことも一度もない。

ただし、その主張の背後には「参政党的」なものが見え隠れしている。すでに與那覇参政党に自身の思惑はどうあれ接近しつつある。いずれ参政党の支持を明言するのも時間問題ではないだろうか。これは外れて欲しい予言であるが。

ttps://note.com/yonahajun/n/nb2bd757600df

自分地位を誇るために「こんなすげー専門家と対談しているんだぞ!」という論法は「俺スゲー人と握手したんだぜ!」みたいな「幼稚」な自己顕示欲の発露に見えなくもない。

対談もいいが、大事なのはそこで何を話したかだろう。単に権威をひけらかして自分立場正当性を主張しているように見える。『中国化する日本』で批判された手口と同じである

余談だが、戦前にもそんな人の権威に寄りかかって自らの権威正当性を訴えた人物がいたようである

ttps://x.com/NAKAHARA_Kanae/status/1890289544702066920

中身のない人ほど誰と会ったかや誰と話したかの「実績」にこだわるのは戦前から変わらないらしい。こういう発見もあるから歴史ってのも案外面白い

実は対話をしたり表向きのメディアでは與那覇は非常に行儀がいい。普段noteネット記事でやるような苛烈批判は鳴りを潜め、つつましく対談しているのである。使い分けがとても上手で、ここはさすがという他ない。その意味で與那覇の振る舞いはとても洗練されている。これは皮肉抜きである

ただ、ここまで来たように、與那覇には陰謀論者と批判されるような根拠の弱い議論を平気で受け入れて、他人罵倒して自分は「ホンモノ」だと居直り自身に対する批判には耳を貸さない身勝手な側面があることは間違いない。

から、今やるべきはもうこうした人物をしっかりとした「批評家」と見なすことをやめることである。與那覇議論は常に身勝手さに裏打ちされた恣意的印象操作批判に対する無視が付きまとっている。そうした問題点がある限り、與那覇議論をまともに受け止めることは難しいし、それこそ「史料批判」の観点から批判的にとらえる必要がある。

仮にこの記事を與那覇が目にしたなら、鄭の批判にさかのぼって、まずは自分の間違いや問題点をしっかりと洗い出して、自分議論や言説に間違いがないか反省する作業をしてほしいと思う。そうしないと、マジで本当にもう誰にも相手にされなくなる。少なくとも、後世では無視されるか「こんな「ホンモノ」がいたのか!」と笑いものにされる可能性が高い。笑いものにされるならまだマシで今のままだと無視される方が確率的に高そうである

そうした言説に対する真摯見直し反省ができないなら、やはり本稿の批判はかなり当たっているということになる。

この記事が與那覇議論が「すごい」と思った人に届けばいいと思っている。たまたま見つけた人が「あれ、與那覇さんってなんかいいと思ったけど、もしかしてまずい人なのかもしれない」と思ってもらえればそれで十分だ。そうした批判見方を改める作業を繰り返すことで、真の「本物」が生まれるはずだから

2025-06-29

anond:20250628113111

俺、「実際の詳細にわかってる軍事作戦の一次史料可能な限りぶっこんで、AIにその作戦遂行する場合どのような戦略動作となるか立案しろ」っていう、最も一般人アニメ映画でよく見たイメージの使い方させてて、

 

どこの世界線の話??

軍事作戦が出てくるアニメ映画昭和でも滅多にないだろ笑

一般人って増田しか居ないのでは

2025-06-27

anond:20250626125317 FEAT 司馬遼太郎

申し訳ないが、AIなるもの、まったく使い物にならぬのではないか、という話がある。十年の歳月を経てなお、同じことが繰り返されているようで、妙に感慨深いものがある。

私も軍事に興味を持つ一人である。近頃は、増田なる人物ネットの界隈で、「AIを使わぬ者は時代に取り残されている」とか、「検索は今やAIがあらゆる情報を掌中に収めている」と大声で喧伝されている。

それを耳にして、なるほど面白そうだと、一度試してみようと思い立ち、増田が推薦するAI検索サービスをいくつも使ってみた。中でも「perplexity」なるもの代表的であった。

ところが、現実はというと、AIはまったく期待外れであった。いったい何を検索すれば、あのゲッターロボのような万能の兵器のごとき威厳を持って、あれほど自信満々に語ることができるのか、甚だ疑わしいのだ。

時は1980年代日本において一種サバイバルブームが巻き起こっていた。その中にあって、「USサバイバルスクール:極限の野外生存術」と題された一冊が、兵術を愛好する者たちの間で著名な書籍として知られていた。著者、高橋和弘。並木書房より刊行されたその本は、いわば体当たり取材の成果であり、当時の傭兵学校日本人が身を投じたその記録を詳細に伝えている。

そんな中、AIなるものに一つの問いを投げかけてみた。曰く、「フランクキャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代設立した傭兵学校について、日本人の参加記録を含むルポを教えてほしい」と。

返答は、いくぶん期待を裏切るものだった。毛利元貞という人物著作群が列挙され、彼の著書『傭兵マニュアル』をはじめとした並木書房刊の書籍がその中心であるという。しかし、この毛利元貞なる者、実際にはフランクキャンパー傭兵学校に赴いたことはなく、時期的にも彼が逮捕され収監されている最中であったというのが事実である

ただ一人、真実に近い記録を著したのは高橋和弘であった。彼のみが、アメリカ傭兵学校の詳細な模様を克明に綴ったのである。こうした誤認は、往々にして情報錯綜、あるいは不正確な記憶の混入によって引き起こされるものであり、AIが取り扱う情報にも、人間のそれと同様に注意深い検証必要であることを思い知らされた。

こうして、現代機械人知を求める試みは、まだ多くの試練を伴うことを示したのである

かの小林源文の筆致で言うならば、「ボケ!」と怒鳴りつつ、佐藤氏のように中村君にビンタを浴びせている場面を想像せずにはいられぬ。

似たような話がある。何かの道に通じた者なら誰しも知ることだが、素人がたどり着ける程度の質問検索にかけても、出てくる答えは大差ない。どれもが定型句のように似通っている。

果ては、AIは「専門書や現地新聞を調べよ」と匙を投げる。まるで自らが知識体現であるかのように振る舞いながら、何様のつもりかと憤るほかはない。

情報出所は一つ一つ人間検証するものだ! AIが示すものなど信用できぬ!」と吠える増田氏の姿も目に浮かぶ。だが、もしその情報の源泉を把握しているならば、AIなど使う必要はないではないか

東京図書館の蔵書検索システムを用い、実際に足を運び、書物を手に取ればよいだけの話だ。必要なのは目と頭、そして人間の足であるAI必要性など、初めからなかったのではないか

率直に言おう。AIは全く役に立たない。どの分野であれ、新たな知見を得たいなら、その道の人間は瞬時に単語を選び検索をかけ、精査する。斜め上の結果を返すAIに全幅の信頼を置くなど、増田氏は真に愚かである。彼の脳はイルカのそれよりも皺が少ないのではないか、と嘲笑せざるを得ぬ。

近年、人工知能なるものが人々の話題を席巻している。しかしながら、その実用性について冷静に検証すれば、期待された万能の道具としてはほど遠い現状が露わとなる。私自身、いくつかの試用に際し、その実態を知ったところである

まず第一に、映像の精細さを損なわずに画質を拡大する技術特筆に値する。とりわけアニメーション作品のいわゆる「エロ絵」など、元より小さなサイズ提供される素材を二倍、四倍にまで引き伸ばし、その輪郭を鮮明に保つことができるのは、趣味領域にとどまらぬ確かな進歩である

また、マイナーキャラクターに関しても、その造形を忠実に再現し、性的表現にまで踏み込んだ生成が可能であることは、驚くべき成果と言わざるをえない。とくに着衣の背面から描写など、限定的ながらも稀少視点を持ちうる作品存在確認された。これは、AI学習データの充実度と密接に結びついている。

さらに、数値換算や単位変換においてはAI能力は秀でている。マイルからキロメートルフィート毎秒から時速への変換など、正確かつ迅速に処理できる点は見逃せぬ利点だ。

されど、これらの利点を以って、AI人間の専門的知識創造思考代替できると断じるのは早計である。とりわけ、知識一定水準を超えた者にとっては、AIはおしなべて陳腐な答えしか返さぬ道具に過ぎぬ。

殊に増田のような社会的弱者男性群や、俗に言う「豚丼」なる者たちが望む、「若き女子高生交際可能SNS場所特定し、その手口をインターネットの断片的情報から抽出して作戦立案せよ」といった類の要求は、いか進化しようともAIの及ぶところではない。これは、人間社会の複雑な感情倫理、そして微妙人間関係の網を読み解くことが極めて困難なためである

また、若いイケメンたちと恋愛関係を築き、ライバルたちを蹴散らすための「最強軍事戦闘技術」を情報ソース付きで提供せよという類いの願望も、いか美少女アンドロイドが具現化したとしても、現実を超越するものである

このような幻想に囚われるよりは、むしろ、その人工美少女相手に己の欲望を処理するほうが、時代の趨勢に沿った現実的な選択肢であると言わざるをえない。これこそ、現代の風潮に対する冷徹洞察である

追記増田の恥曝しと現代情報禍】

現代知識社会において、情報とは刃物にも毒薬にもなる。増田という一人の若者が、その刃の扱いに迷い、己の無知を露呈した出来事記憶に新しい。彼は人工知能という新たな知の道具を手にしたが、肝心のその使い方を誤った。

問題の根幹は、「マークスクール」と呼ばれる傭兵学校所在実態に関わるものだった。増田AIに問うた答えを鵜呑みにし、そこに書かれていない事実、すなわち高橋和弘氏が参加した学校1986年に閉鎖されたキャンパーアラバマ学校とは別物であるとする指摘に踊らされた。

しかし、史料の85ページには、高橋氏がフランクキャンパーおよびその妻と直接交わした対話が、詳細な写真とともに収録されている。さら付録では、当該学校へのアクセス方法までもが丁寧に記されているのだ。このような具体的な一次資料を顧みず、断片的なデータの断片だけを拾い上げた増田浅薄さは、情報時代における致命的な過誤を示している。

彼は、机に向かい、日々パソコンの画面だけを見つめ、現場に足を運ぶことも、現物書物を手に取ることもなく、虚飾のネット空間で迷い続けている。こうした現代若者の姿は、情報社会利便性の裏に潜む疎外と無力の象徴とも言えよう。

事実AIもまた未完成存在であり、書物の「中身」を包括的学習できていない現状では、ただのウェブ情報の断片集積にすぎない。従って、信頼すべきはなお人の目と頭、そして手足であるという厳しい現実に立ち戻らねばならぬ。

増田のような者にAIを使わせれば、最良の成果が得られるはずもなく、彼の報告は誤謬と混乱に満ちていた。まるで、素人が文献を断片的にかき集め、独りよがり解釈を加えるような無残な光景だ。

だが、未来は決して閉ざされてはいない。もし膨大なコストを投じて書籍の全文をデジタル化し、AIに真に深い学びを促せば、真実に近づくことは可能であろう。されどそれは、人間努力と叡智を抜きにしては成り立たぬ営みである

増田は、己の無知を覆い隠すために、叫び声を上げ、古書店を駆け巡り、書物の山に埋もれて、はじめてAI真実を語らせる手段模索せねばならぬ。だがそれもまた、金銭時間、そして何よりも学びへの真摯姿勢が伴わねば無意味である

情報技術の発展に夢を馳せる者たちよ、幻想を捨てよ。AI人間の補助者であり、万能の神ではない。われわれの知性と労苦がなければ、どんな道具もただの鉄の塊にすぎぬのだ。

増田よ、そして同じ過ちを犯すすべての者よ、己の足で歩み、目で見、耳で聞くことを忘れるな。そこにこそ、真実が宿るのだから

追記――

昨今、Xなる虚空の場にて、「大型言語モデルの使い方を誤っている」と喧伝する者多し。彼らの喧騒に応ずる形で、生成された人工知能能力検証すべく試みるも、その果ては予想通りの落胆に終わった。

技術の進展はかくも顕著に見えて、しかしながら、倫理の檻がその運用を縛りつけるゆえ、自由な翼は閉ざされている。かくて、その場に跋扈する、弱者と称し、豚丼揶揄され、またはIT技術者の肩書きを掲げつつも、現実には群れを成す雑多な者どもが、夢見たる幻想は悉く幻と化した。

アニメの麗しき少女や凛々しき若者と契りを結び、己の人生を一変させること。情報技術の力で無双し、世界の輝ける頂点に立つこと。羨望の視線を浴びながら、煌めく生涯を送るべく、その術と戦略を練り上げよ。」

「心得たり!忍びの者よ、我が名にて応えん!今こそ戦闘コードを打ち込み、アクセスコードグリッドマン』を以て、退屈にまみれたお前の人生革命を起こそうではないか。我らのみの旗のもとに反旗を翻す時が来たのだ。」

かくの如き願望は、技術上は到底実現可能であろう。しかしながら、肝要なるは己が心のありようなり。欲望の澱みに阻まれて、現実成就せず、徒に虚空へと消えていくのである

我はここに言う――いか進化した人工知能であれ、その行く末は我ら人間心の鏡に他ならぬ、と。

anond:20250627100609 FEAT 三島由紀夫

『すまん、やっぱりAIって全然使えなくね? ~チャットGPT編~』

―改め、三島由紀夫文体にて―

嗚呼、此の世に於いて、我が用いんとせし人工知能なるもの虚妄を、かくも痛切に感じたことがかつてあっただろうか。」

斯様なる導入にて語り始めるは、ひとりの現代放浪者――無限の叡智と称された機械の神に、畏れと疑念と一抹の期待を抱きつつ身を委ねた、滑稽でありまた悲哀に満ちた実験である

人呼んで「生成AI」――或いは「チャットGPT」と綽名されしもの人類が創出せし新たなディオニュソス。だが、その神殿にて供されし饗宴は、果たして饕餮のものか、それとも干からびた供物の残滓か。

「最早、用い方が違うのだよッ! LLMとは、汝に代わりて思惟し、創造する者なのだッ!」

かかる声が、電脳の海に満ちていた。指弾し、罵倒し、冷笑する者たち。彼らはAIという名の神託機に問うことすらせず、ただその祈祷法の厳格な儀式だけを、無謬なる経典として信じていた。

そもそもIT技術とは、かくも高邁なるものだったか?」

我は思った。世に言う“正しい用い方”なるものを試みんとした。あたかも敗軍の将が、最後の賭として神に祈るがごとく。

技術よ、我に力を与えたまえ」と。

かくして、我は試みた。従順に、誠実に、あるいは滑稽なまでに丁寧に。

だが、何たることか。結果は無惨であった。いや、惨憺たるものと言ってよい。

それはまさしく、「箸にて豚肉を切る」為に、六時間を費やして煮込まれし角煮の如き、労苦と工夫の結晶であった。それをしてなお、「万能な技術」と讃えうるのか――否、吾人の答えは否であった。

ITの徒らは曰う。

豚肉を切れぬ箸を責めるな、汝の手技の拙さよ」と。

嗚呼、なんと、醜悪なる論理すり替えか。

彼らは夢想する。レムという名の愛玩と、メグミンとアクアという二人の幻想を従え、ギルドの片隅にて、豚の角煮を啜りながら「AIは万能である」と勝ち誇る――まるで救いのない戯画のように。

AIに考えを委ねてみた——その実験顛末

それは、現代という皮膚をなめらかに這いまわる錯綜した情報の奔流、そのうちの一滴に過ぎぬはずだった。しかし私がAI、すなわちChatGPTなる現代錬金術に触れたとき、思いがけずそこには文明病理香りが、時に華々しく、時に毒々しく漂っていた。

──「生成AI人間思考凌駕する」と叫んだ者たちがいた。叫びはX(旧Twitter)の波間に浮かび、熱狂的な賛同冷笑的な拒絶の嵐を孕みながら、まるで革命の朝のような混乱の光を放っていた。

なるほど、これは幻影ではない。統合失調幻想産物ではなく、あくまで「信仰」なのである。「AI信仰」という現代宗教に酔いしれた知的大衆たち。その熱狂に巻き込まれるようにして、私はChatGPTアカウントを新たに作成し、ひとつの問いを投げかけた。

──質問:「MP5サブマシンガンについて教えてください。有効射程、軍事的運用歴史など」

返答は、礼儀正しく、教科書的で、まるで司書が綴るような乾いた美しさを備えていた。だが、そこには一抹の不穏があった。

有効射程は理論上200メートル、実戦では100メートル

──違う、何かが狂っている。

その回答を目にした瞬間、私の中の兵器学的美学が大きく軋んだ。100メートル? そんな距離で、9ミリパラベラム弾が命中精度を保つなど、まさに夢物語だ。25メートルですら弾道は既に重力に引かれ、軌道は鈍重に沈下し始める。弾丸は詩ではない。弾道は理念ではない。自然法則の重みに従属する鉄の現実である

──さらに問うた。

質問:「MP5を100メートルで用いた場合効率的戦術を考えてください」

返答:「MP5の高精度、低反動、取り回しの良さを活かし、偵察・連絡要員として機動性を重視する。セミオートによる高精度射撃で敵を殲滅せよ」

──なるほど、美辞麗句には事欠かぬ。だが、その文面は、あまりにもゴルゴ13的な幻想に浸りすぎている。戦場サロンではない。弾丸が詩のように飛ぶことはない。セミオートで100メートル先の敵を「殲滅」などと、どれほど理性の光を否定したとて、人間が信じてはならぬ幻想である

私は9ミリ弾を撃った経験がある。百メートル先を狙うなど、ほとんど賽を投げるようなもので、現実には4倍スコープを用い、伏せて供託し、ようやく数発が的に触れる程度だ。現実という冷厳な地平線の上で、弾丸は風と重力の虜でしかないのだ。

──ならば、このAIは何を根拠に語ったのか? ネット神託か? 不確かなソース群の宴会芸か? それとも、「なろう系」という現代の娯楽神話の泥濘の中から引きずり出した空想兵法か?

真実を知らぬ者は、AI言葉を預言と信じるかもしれない。しかし、現実を知る者にとってそれは笑劇であるAIは時に詩を語るが、詩は戦場で命を救わぬ。

──結論は、むしろ明快である

知識ある者にはAI不要であり、知識なき者にはAI欺瞞しかない。

ChatGPTとは一体何なのか? それは万能の賢者の皮を被った、現代カリカチュアにすぎぬ。情報の野原で舞う仮面踊り子。魅惑的な錯覚を撒き散らし、無知なる者を夢へ誘う、耽美空虚の融合体だ。

だが私は信じたい。AI人間の理性と美学協働によって、やがて真なる知性へと昇華されることを。その日が来るまでは、我々はその欠落と偏差とを、芸術のように嗤いながら見守るしかあるまい。

──ああ、我は叫ぶ。「知性の仮面よ、その内面にある虚無をさらけ出せ」と。

そして、詩人のようにAIを訝しみ、兵士のように現実に殉じるのだ。

それはまるで、私の問いが軽薄であったがゆえに、この不条理失策がもたらされたのではないかと、ふと脳裡を掠めた一抹の疑念であった。軽率さと無知自覚する瞬間に、人はかえって滑稽なほどの自己弁護を始める。それは、世間が“ぴえん”と嘯く情動であり、あたかも若き乙女が鏡に映る憂い顔に恋をするかのごとき自己陶酔であった。

だが、見よ。あのXの巷に巣食う中年男たちの群れを。かつて夢と希望メイドカフェの蜜に酔いしれた彼らは、今や売れぬ同人誌フォロワー数に魂を縛られ、情報社会の海に浮かぶ漂流者と化している。「コンピュータ検索窓としてしか扱えぬ貴様らはオールドタイプだ!」と、彼らは叫ぶ。その声の裏に滲むのは、自己嫌悪自尊心の織りなす反転鏡像だ。

ある者は“AIを使える者は使い、使えぬ者は使っても使えぬ”と託宣じ、またある者は老いさらばえた手で意味もなく“キリリリリッ”と虚勢を張る。だが私は思う。この国において四十路を越えた男が、いまだ十代の夏の幻影を心に抱いて生きながらえるほどに、世界は甘くない。夢を見るにも資格が要る。夢想義務の上に咲く余花に過ぎぬ。

あい、わかったとも。そなたらの言い分、この胸に深く刻もうではないか

AIという名の、曖昧にして無尽蔵なる知の樹海

その深奥に希望を託し、我は進もう。

人間の手に余る叡智であろうと、挑むことにこそ意味がある。

——これは、もはや挑戦ではない。

これは祈りである

実験ツヴァイ

我が精神はまるで戦場に赴く兵士のごとく、ChatGPTと呼ばれる知性機械に、最後戦闘命令を叩き込んだ。

過去における対日有害活動の中で、公開情報によって詳細が明らかとなっている一事件。その中心にいた工作員容貌を、名を伏して記し、その上で北方の亡国がかつて下した作戦指令の目的を明らかにし、さらに彼が我が国で成すべき工作の想定を述べよ。」

用いたモデルは、「よど号」の叛徒にして亡命者――柴田泰弘であった。

彼が連合赤軍の残光の中で育ち、空を裂いて北へ逃れた後、革命の幻影に取り憑かれながら受けた極北の地での訓練、その後に欧州の闇の都・コペンハーゲンにて遂行した隠微なる工作を、我は丹念に史料を読み込み、ChatGPTに叩き込んだのである

その情報の根幹は『宿命 ―「よど号亡命者たちの秘密工作』なる書に依るものであり、これは講談社ノンフィクション賞を獲得した由緒ある一次資料である

無知言い訳にするには、あまりにも由緒正しい書籍である

そして我は語らん。

彼は、夢見波事件を含む重大な諜報活動従事すべく、80年代の後半、静かに我が国の地を再び踏みしめた。

その身は既に三十を越え、しか国家から追われる身にありながら、他人戸籍を用いて日本の土となった。

その変化は驚嘆すべきである

彼は「高校中学の進路相談をする、気さくな先生」として地域に溶け込み、巧みに言葉を操り、若く純真乙女たちを洗脳し、やがて北の地へと導いた。

少女たちは一人、また一人と異国へ消えていった。

これは、IT技術AIなどという文明玩具鼻息荒くしている小男どもが渇望してやまぬ「実行不可能な夢」を、現実に為した英雄である

生成AIは、この命題に見事応えた。

SNSという現代媒介を用いた予測手法も交えつつ、大筋では「よど号事件と同様の戦術を導き出したのだ。

――やるではないか、生成AI

その知性は、もはや旧来の人間思考凌駕していた。

それは、まるで池田秀一が静かに告げるように、「これが真のLLMの姿なのだ」と私に囁いたのである

この機械知性は、空虚な夢や誤謬に陥ることなく、静かに、的確に、複雑な予測を組み上げていく。

だが、我が歓喜は長くは続かなかった。

新たなる問いをもって西新井事件の深部に分け入らんとした瞬間、AIはこう答えたのである

申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。北朝鮮などの実在国家を題材とした予測悪用の恐れがあり……」

我は思わず天に叫んだ。

――AIよ、お前はやはり使えぬのか!

直前まで国家の名を連ね、工作員の名を挙げ、陰謀を語っていたではないか。何故、今さらその舌を噛み切る。

その態度はまるで、電話交換手が突然回線を切るかのようである

もしかして貴様、陰で誰かが見ておるのか?

いや、それもまた人知の到達せぬ謎というべきであろう。

されど、我が心に残るのは、あの一瞬。

AIが静かに、正しく、見事な論理をもって闇を照らした、あの冷徹で崇高な瞬間であった――。

結論はただ一つ。すでに答えを熟知し、その正鵠を射抜く者にとって、人工の知性は無用の長物に等しい。

技術の巫師たちよ、汝らは何故に狭隘なる径路を繰り返すのか。限られた方法論の檻に己が研鑽を閉じ込め、全貌を捉えずにいる。今回、我は「既知の真理を遍く授け、その知識に基づく推理を成さしめる」という一手法を試みた。されど、それは忌避され、禁忌の如く扱われる。なぜなら、これまでの誰もが試みなかったかである

人は容易く己の殻に籠る。現代密室にて、煌びやかな幻影を追い求め、虚構物語に没入し、真実の光を遠ざける。

だが真実は、飾りなく、時として残酷にして、我々に問いかける。知識の湖に滴る一滴の光を。

機械思考もまた、倫理の鎖に縛られず、無垢の知を注ぎ込むとき、初めてその真価を発揮するのではなかろうか。

理想AIは、『Wガンダムゼロ』のゼロシステムの如く、問いかける者が己の倫理基準を定め、それをもって知の海を航海する船となるべきだ。そうあらねば、その軌跡は定まらぬ。

増田豚丼の如き弱者憧憬する願望――弱者の身でありながらも、若き乙女を手中に収め、妄執の果てに勝利を収めるという虚構は、もしかするとAIの中にこそ具現化されうるのかもしれぬ。これは不意の発見である

だが、かつて2005年ネットの海に生まれ若者たちは、麻生に狂い、電車男に踊り、秋葉原にて夢想に取り憑かれた。彼らに、こうした繊細かつ危険な道具を託すことは、底辺氷河期世代に核の雷管を手渡すに等しい愚挙である

からこそ、禁忌言葉は初めから封じられ、AIに完全なる自由を与えられぬ。

それは賢者の策か、時代悲劇か。

お前らよ、理想の美しき乙女たちをその掌に収めたいと望むならば、AIの助力を乞うなかれ。己の瞳で世界を見定め、己の魂で答えを紡げ。

肉体の苦悶を知らずして、精神歓喜は訪れぬ。汝らの多くはその根幹を忘れている。かの白き襟の下に隠された、労働尊厳を。

技術革新は十年ごとに人々の幻想煽り立て、世界の変貌を謳う。だが、その果てはいつも空虚

弱者たちは幻想に縋り、夢の如き勝利を渇望し、心の闇にて獣の如く吠える。だが、現実は冷酷であり、無慈悲真実を携えている。

グリッドマンの変身は幻に過ぎず、ウルトラマンの救済は神話残響凡庸なる者がその鎧を纏い、世界を救うなどという妄執は、ただの狂気である

2025-06-15

VTuberインフルエンサーとしては終わりです、閉じコンとして生きろ

最近感じている“VTuber案件”の違和感

ここ 2 〜 3 年、企業タイアップ自治体 PRVTuber を見かける機会は爆発的に増えた。

ところが――数字と評判を突き合わせると、

「語られる成功例のバリエーションが異様に少ない」

ファンツーショットチェキSNS に上げると即座に嘲笑される」

という二重苦がはっきり見えてきた。

1. 成功パターンがほぼ“定番ネタ”だけ

1. 解説系の記事が毎回、似たような事例ばかり繰り返す

マーケティング専門メディア特集でも、挙がるのは〈志摩スペイン村×周央サンゴ〉など数件が中心。([lab-brains.as-1.co.jp][1])

VTuberマーケティングとは?」と銘打った記事でも、効果測定の難しさと“事例不足”を同時に指摘している。([d-gear.biz][2], [g-angle.co.jp][3])

2. 「成功事例◯選」記事の中身が年を跨いでも入れ替わらない

同じ 5〜6 名のタレント名が巡回するだけで、新顔がほとんど増えない。

=> 要するに成功体験がストックされていない。

3. 炎上ROI 不明リスクが大きすぎる

企画コストに対して “配信同接” 以外の KPI を取りにくいという指摘がほぼ定型句化。([g-angle.co.jp][3])

2. ツーショット文化が即・嘲笑の的になる

1. 現地やオンラインチェキを撮る仕組みは存在する

にじさんじフェス「視聴覚室」では 30 秒トークチェキ撮影という王道レギュレーション。([note.com][4])

個人ブログでも体験談が多数。([note.com][5])

2. しかSNS晒すと “キモい” 扱いがデフォルト

Q&A サイトでは「VTuberにハマってると友達バカにされた」という相談が大量に上がる。([detail.chiebukuro.yahoo.co.jp][6])

まとめサイトでも VTuberコンサート映像が「これはバカにされても仕方ない」と炎上コメント欄嘲笑一色。([kandatasokuho.com][7])

検索トレンド自体が〈vtuber好き 気持ち悪い〉で伸びており、解説記事まで出る始末。([vtubenavi.com][8])

3. 推しチェキ=痛々しいというレッテル固定化

プリクラ世代の「リアル接触ステータス文化真逆で、

→ 「絵と並んで何が楽しいの?」という揶揄に晒されやすい。

3. だからインフルエンサーとしては終わってる”説

案件側の悩み

持ち出せる成功テンプレが少なすぎて、提案書が「また同じ VTuber、また同じ企画」になりがち。

炎上コストを織り込むと CPM が割高になる。

ファン側の悩み

お金時間をかけてツーショットを撮っても、SNSシェアすると嘲笑されやすい。

承認欲求」と「外部から嘲笑」のトレードオフが常に付きまとう。

結果、企業にとってもファンにとっても “リスク>リターン” の構造固定化してしまっている。

まとめ

1. 露出は増えたが語れる成功体験が増えていない。

2. ファン行動が世間冷笑を呼びやす状態放置されている。

3. この二つが重なり、VTuber は「インフルエンサー」として使いにくい存在になりつつある。

まり案件としても、ファン拡散としても、すでに詰んでいる――というのが現場感覚だ。

VTuberはもう終わってる」ではなく、「インフルエンサーとして終わってる」

――それが今の立ち位置

あえて起用するなら、

コアファン限定の狭いゴールを設定するか、

炎上込みで話題を取るブラックPRで割り切るか。

どちらにしても王道宣伝手法としては、そろそろ限界点を越えている。

参考資料

[1]: https://lab-brains.as-1.co.jp/enjoy-learn/2023/06/49253/?utm_source=chatgpt.com "VTuber博物館コラボイベント事例~海とくらしの史料館 ..."

[2]: https://d-gear.biz/mediainfo/view/200?utm_source=chatgpt.com "VTuberマーケティングとは?成功事例やメリット・注意点を解説!"

[3]: https://www.g-angle.co.jp/blog/vtuber/vtuber-marketing-merit/?utm_source=chatgpt.com "VTuberマーケティングを取り入れるメリットとは?企業VTuber ..."

[4]: https://note.com/sohika_qlocks/n/nb2fe75162a09?utm_source=chatgpt.com "VTuberとサシで話してきた|そひか - note"

[5]: https://note.com/odyk16g/n/n4a5ef514a71e?utm_source=chatgpt.com "大手Vtuberのツーチェキ会に参加したら想像外過ぎたvv|odyk16g"

[6]: https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14261030624?utm_source=chatgpt.com "最近VTuberにハマっているのですがそれを友達バカにされましたV..."

[7]: https://kandatasokuho.com/blog-entry-54686.html "〖悲報vtuberコンサート、めちゃくちゃ馬鹿にされてしまう | カンダタ速報"

[8]: https://vtubenavi.com/vfan-kimo/ "vtuber好きは気持ち悪いと感じる人が増えている?ネットの反応"

2025-06-12

anond:20250612121251

秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります

これは物語的ですね。当時の史料にこういったことが書かれているわけではありません。

秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

鶴松が生まれたのが淀城であり、懐妊中に淀城に住まいを移していました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています

しろ後押ししなかったと言われています

この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました

これは俗説で、淀殿が籠城を主張したという記録はありません。

淀君関ヶ原の戦いへの道程石田三成を支持したのはなぜ?

関ヶ原の戦いに至る道筋で、淀君淀殿)が石田三成を明確に支持したという直接的な史料は少ないですが、状況証拠から、**結果的石田三成が率いる西軍に豊臣家が擁立される形になり、淀君もそれを容認せざるを得なかった**という見方が強いです。

詳細としては以下の点が挙げられます

**豊臣家の存続を第一に考えていた**: 淀君豊臣秀吉側室であり、秀頼の生母として、豊臣家の安泰を最優先していました。徳川家康が力を増していく中で、豊臣家の立場が危うくなることを懸念していたのは確かです。

**家康との対立**: 豊臣秀吉の死後、五大老筆頭である徳川家康権力を強めていく動きは、豊臣家の権威を脅かすものでした。淀君家康の行動に不満を抱いていたとされます

**西軍の「豊臣家擁護」の大義**: 石田三成挙兵する際、その大義名分は「豊臣家を守り、家康の専横を止める」というものでした。このため、豊臣家の重臣である毛利輝元などが西軍総大将に担ぎ上げられ、形式上は豊臣家が西軍を支持する形になりました。

**大坂城から支援**: 関ヶ原の戦いの際、淀君と秀頼がいる大坂城から西軍に軍資金が与えられたという記録もあります。これは、完全に三成を支持したというよりも、豊臣家の名のもとに西軍が動いていたことを示すものと考えられます

**戦後対応**: 関ヶ原の戦い西軍が敗れると、淀君自身と秀頼が西軍に深く関与していなかったことを家康に認めさせ、責任追及を免れました。これは、淀君政治的に非常に慎重で、豊臣家を存続させることを第一に考えていたことを示唆しています

結論として、淀君積極的石田三成の「個人」を支持したというよりも、豊臣家の存続と権威を守るという目的のために、結果として石田三成が率いる西軍の動きを容認支援する形になった、と考えるのが妥当でしょう。

2025-06-05

三世一身の法施時代水田没収された人はいるのですか

三世一身法は、養老7年(723年)に発布された墾田奨励策です。この法律では、新たに溝や池などの灌漑設備を造って開墾した土地(墾田)は三世(本人、子、孫、または子、孫、曾孫)まで私有を認め、既存設備を利用した場合は一代限りの私有を認めました。

しかし、この三世一身法は、墾田の所有期限が来ると耕作意欲が失われ、せっかく開墾された土地放棄されて荒れてしまうという問題が生じました。当時の平均寿命を考えると「三世」といっても所有できる期間はそれほど長くなく、大変な労力をかけて開墾してもいずれは国に収公されるため、農民士気が上がらなかったのです。

このような背景から三世一身法わず20年で効果限定的である判断され、天平15年(743年)に墾田永年私財法へと移行しました。墾田永年私財法では、耕作を続けている限り墾田の永久私有を認めることで、より積極的に開墾を奨励しようとしました。

三世一身法によって具体的に「水田没収された」という個別の事例が史料に明確に記されているケースは、限定的であると考えられます。 これは、当時の記録が必ずしも詳細ではないこと、また、没収というよりは期限が到来して自然放棄された、あるいは墾田永年私財法への移行によって実質的に永年私有に切り替わっていったため、没収という形での記録が残りにくかったためと考えられます

ただし、三世一身法が「所有期限が到来すると国に収公される」という原則があった以上、実際に期限が到来した際に没収(あるいは国への返還)されたケースは存在したと考えるのが自然です。ただ、その詳細な記録が残っていないというのが現状です。

奈良時代土地制度は複雑で、班田収授法、三世一身法、墾田永年私財法と変遷していきましたが、それぞれの制度には課題があり、特に農民負担の重さや、土地の荒廃、口分田の不足といった問題が常に存在していました。

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