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2025-12-08

anond:20251208193942

近世以前

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日本において暦日を用いた新年概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年挨拶を伴った年賀状ルーツといえる[14]。

平安時代に入ると貴族間で年始挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚使用人を使った私的手段により年始挨拶文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。

明治時代

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明治維新後になると逓信省前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始あいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。

郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しか年末商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便特別取扱が始まった[20]。年末一定時期、具体的には12月20から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがき使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。

大正戦前昭和時代

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琉球郵政庁が発行した1957年2ドル年賀はがき

関東大震災1923年)や大正天皇崩御1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇昭和天皇崩御の年は実施されている。

年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年昭和10年)に私製はがき貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年昭和13年)に年賀切手の発行が中止。 さら物資節約のため1941年昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。

戦後昭和時代

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終戦後の1948年昭和23年12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手図柄干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年昭和24年)、お年玉郵便はがき年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。

→「年賀寄付金」も参照

お年玉郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年昭和36年から年賀はがき消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。

1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年昭和57年から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年平成元年からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。

平成・令和時代

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2007年カーボンオフセット年賀状200枚包装紙

イラストデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンプリンター作成印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンター印刷に適したインクジェット写真年賀はがきが発行されるようになった。

一方で2000年代からインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンライン手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月風物詩となった。

2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。

20176月1日郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったこから利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがき年賀はがきは同一の料金となった[28]。

2010年代になるとスマートフォンソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年挨拶オンラインで済ませる人がさらに増えた。LINE運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNS送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業TB名古屋市東区)は2017から高齢理由に、今年限りで年始挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。

また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に202410月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状フタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30

2025-12-06

江戸明治時代のごちそうは「餅」

これってすごいことだよなある意味(っ´∀`c)

白い餅がそれだけレアだったということらしい(っ´∀`c)

2025-12-03

なぜ運賃子供だと半額なのか

重さが軽いから?

大きさが小さいから?

じゃあ小柄な大人(俺)も半額にしてほしい!!

ブュッフェで子供が半額はまだ分かる

食べる量が少ないからね

でも運賃あんまり関係なくないか

特に電車だと、使用電気量が半分になる訳でもないし

調べたら、子供半額なのは明治時代からなんだって

昔の習慣が残ってるのかな

あと、子育て支援っていう意見もあった

そう考えると、優しいね

2025-11-30

anond:20251130164323

明治時代日本人口は3400万から5000万に増えた

人口減少に入ったとは言え、まだ日本人口は1.2億以上

anond:20251129220506

2025-11-23

今日特にやることがなかったので歩いて小一時間ほどのところにあるショッピングモール内のフードコートに昼食を食べに行った

そこには何か特別メニューがあるわけではなく食べたのは普通のおいしい昼食以上のものではないのだがもう一つの目当てのものがあった

導線から外れて人がほとんど通らない空いた空間にある写真である

写真付近の街の歴史明治時代から令和まで振り返るというテーマで並んでいる

明治時代大正時代のものは原っぱや果樹園や掘っ建て小屋のような駅舎の写真ほとんどが歴史モノの映画のワンシーンのような雰囲気でとても今の街並と連続しているとは思えないファンタジー世界のように見えた

そして昭和初期まで人力車が走っていたのがわかる

戦後の混乱期は道端や広場瓦礫や何かの資材のようなものが転がっていて活気がありつつも嵐の後のような荒々しい雰囲気がある

空爆被害を受けたのかそれとも別の災害や争乱によるものなのかは不勉強知識がないのでよくわからなかった

昭和30年代になると街並はまだ荒れているもの自分も知っている庁舎劇場などの大きくてモダン施設が建ち始める

昭和40年代には建物雰囲気レトロ風なもののここがどこか?と問われたら答えられるくらいには今の街並と地続きな感じの整った景色が完成されている

ネットを見ているとつい人類歴史ダークサイドばかり考えてしまうがこういう記録を見ると文明の強さや美しさなど明るい面を感じることができて良い経験だった

この写真展がいつまでやっているのかはわからないけど気が向いた時にまた見にこようと思う

2025-11-21

anond:20251121152023

左翼従属が嫌いだから日本支配する(基地がある)アメリカを嫌うし、与党も嫌う。クルド人に対しては、移民人権もあるかもしれないが、少数派で自分の上ではないからというのが実態に近いような気がする。過去には社会主義に憧れた視点ソ連中国を見ていたが現在それら国々が独裁国家であることはもはや誤魔化せず苦い過去になっている。社会主義がなくなったせいで中道自由主義が最左端になってしまった。中国は好きではないが過去戦争の手前を気にして強気にでられない。

右翼上下関係重視だからアメリカ様と与党が大好きで、外国人であるクルド人は少数派の格下だから鬱憤晴らしの道具にする。野党も上様に逆らうから嫌い。アジア日本より下とみなすの伝統重視で明治時代を引きずっているから、経済的にも軍事的にも負けてても見下すことができる。独裁が悪だから中国批判するというのは建前で、本当はピラミッド組織で固まって敵認定した相手国内でも国外でも叩き潰すのが一番気持ちいいと思っているし、人権なんてどうでもいい。

anond:20251120114153

現実的に「正義(の行使)」には核を含む軍事力経済力後ろ盾が不可欠。

アメリカ中国ロシアを見れば分かること。

明治時代の「富国強兵」は、そのまま、経済(産業)と軍事の話。

元々の日本の山の森ってどんなだったんだろう

今って変な時代でさ

江戸時代明治時代は木を全部薪にしてしまっていた時代

それを戦後植林していまの状態があるんだけど

今後メンテナンスがされなくなっていく

って考えるともう山や森は目まぐるしい変化をしているんだよね

2025-11-17

夏目漱石こころ」の先生って、メンクリ行ってたら死なずに済んだよな

夏目漱石の「こころ」読むたびに思うんだけど、あの先生ガチメンタルクリニック行ってたら100%死なずに済んだよな。

頭良すぎて、逆に自分の罪悪感を論理的に組み立てちゃってさ

Kの自殺自分が原因って思い込んで、自分自分を追い詰めてるじゃん

あれ完全に認知の歪みだよ

現代精神科医が見たら、強迫観念抑うつ状態自責思考って即診断して、SSRI出して診断書書いて認知行動療法始めるレベル

まず初診で「Kさんの死はあなたのせいだけじゃないですよ」って言われたら、先生泣いてるだろ。

あなたは裏切ったんじゃなくて、ただ恋してしまっただけなんです」とか言われたら、心がちょっと揺らいだはずなんだよ。

それかグループ療法とかに通って、同じように過去に誰かを死なせてしまった罪悪感で苦しんでる人と話せば、苦しんでるのは俺だけじゃないんだって気づけたかもしれない。

先生って結局、誰とも本音で話せてなかったのが最大の問題なんだよな。

遺書でようやく全部吐き出すとか遅すぎる。

明治時代から仕方ないって言われるけどさ、今だったら普通に生きてられたのにって思うと切なすぎる。

奥さんにすら話せなかったことを、カウンセリングで少しずつ言語化できてたら絶対違ったよ

俺もさ、ちょっとしんどいときにこの話思い出すと、思い詰めるくらいならメンクリ行こって思えるんだよな

みんなもヤバくなったらメンクリ行ってくれよな

2025-11-14

anond:20251114135831

日本領土ということになっているけど、なんにもしてないかロシアにとられそうだってなって、慌てて開発したのが明治時代

清の時代でも台湾は基本放置

でもまぁ日帝なら、江戸北海道に攻め込みそうだけど、特に変化が無いまま今に至ったら、現代人の感覚としてはどうだろうなーてね。

国会図書館デジタルコレクションで見る戦前新撰組の扱い

以前、「国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代の新撰組の扱い」という記事を書いた。

その続きとして戦前特に新選組イメージを覆したと言われる子母澤寛新選組始末記』(1928年前後評価を探っていきたいと思う。

関連:新撰組は「悪役」扱いだったか?~彼らの「語られ方」の歴史を検証する - posfie

なお、新選組が登場するフィクションとしては、前回に紹介した講談を除くと、1913年から連載された中里介山大菩薩峠』が一足早い。

そして前田曙山『燃ゆる渦巻』、大佛次郎鞍馬天狗』、白井喬二新撰組』といった人気小説1924年に揃って出ている。

いずれも新選組主人公というわけではないが重要な役どころで登場する。

また新国劇舞台新撰組』の初演も1924年らしく人気があったという。

それらを受けてか、1925年から新選組を主役とした映画が立て続けに公開されていた(参考)。

戦後になるが1959年大井廣介ちゃんばら芸術史』から、まとめっぽい記述を。

たとえば、小説では、白井喬二独楽師の角逐というめずらしい題材をとりあげた『新選組』の遠景には近藤勇池田屋斬込みなどが扱われ、大仏次郎の『鞍馬天狗』の最初単行本でも、近藤勇がすこぶる活躍した。劇では、行友李風新国劇に『新撰組』を書きおろし、沢正が近藤勇をやる。映画では、枚挙にいとまないという有様だった。このように、勤皇か佐幕かのチャンバラ新撰組近藤勇がしきりにでてくるようになったのは、『大菩薩峠』や『月形半平太』が既にあるにはあったが、『朝日』の『燃ゆる渦巻』が大々的に口火をきった。

そういった状況を踏まえたうえで1926年文章から

1926年大正15年)三田村鳶魚江戸の噂』

近藤勇なども此の頃では英雄のやうなことになった

と書きつつ鳶魚は「ヘボ剣の近藤勇」などと呼んでボロクソに貶している。

この文章の初出は大正14年とある

1926年大正15年)富永堅吾『剣道達人腕比べ』

近藤勇といへば、維新当時、鬼勇とまでいはれた武勇伝中の一人で、今に尚、芝居や講談読物によつて若い人たちの血を湧かして居るが、彼れは若い時分、近藤周斎の門に這入つて剣術を学んだ。

これは古今の剣術家らのエピソードを集めた子供向けの読み物らしい。そのうちの一篇として近藤勇が紹介されている。特に悪い書き方はされていない。

「芝居や講談読物」によって、近藤勇がよく知られていたことが窺える。

1926年大正15年)の村松梢風創作講談』の広告

第一の『近藤勇』は新撰組領袖として目覚ましい大活躍をした幕末史中の花形役者

創作講談』は「近藤勇宮本武蔵一休和尚猿飛佐助清水次郎長紀伊国屋文左衛門」という伝記のシリーズで、1925年刊行されたようだ。

1927年昭和2年雑誌帝劇

勤王、佐幕、そして今の世は勤王劇流行で、勤王で無ければ成らぬ流行中を、我が澤田は新撰組の佐幕劇を以てその隊長近藤勇で見えている

劇団新国劇」についての論評。『新撰組』は新国劇十八番で、たびたび上演されているとも書かれている。

1927年昭和2年雑誌日本日本人』

そこで先づ目に映つたのは、此頃人気を呼んでいる新撰組隊長近藤勇が、大阪富豪鴻池善右衛門加島屋作兵衛、辰巳屋文左衛門外十数名から金を用立てさせた「約定証書」は、鴻池の家蔵品として出品されてあつた。

大阪朝日新聞社主催・大阪市後援の「大阪史料展覧会」のレポートらしい。

そういうイベント鴻池家が新選組史料を出している、というあたりに「此頃の人気」が窺えるのではないか

続いて子母澤寛新選組始末記』直後の1929年新選組評価をいくつか。

1929年昭和4年文芸春秋社文芸創作講座』

今日大衆文学に行はれている赤穗浪士にしても由井正雪にしても近藤勇にしても、悉く正史よりも寧ろ外傳の史料に拠るものが多い。

1929年昭和4年尾佐竹猛明治秘史疑獄難獄』

剣劇映画大衆文芸に何百回となく描かれて居る一代の剣豪近藤勇も、明治元年正月幕軍の敗走以来、落目となつては為す事毎に齟齬し、四月三日越ヶ谷の官軍本営にて捕はれた。

1929年昭和4年子母澤寛新選組始末記』の広告

時代は常に逆転す!チャンバラ本家新選組だ!現代チャンバラ全盛を地下の近藤勇は苦笑でもやつてるか?明治回天大芝居の其花形新選組の後始末はサテどうなつたか!?

1929年昭和4年)『菊池寛全集』より「後代の人気」

だが、近藤勇のこの頃の人気は素晴らしい。大衆的人気の上で維新の三傑などは、蹴飛ばしいるから愉快である。後代の人気と云ふものは、その時代を作つた人に集らずして、その前代に殉じた人に集るやうである


以上からすると、『新選組始末記』以前から近藤勇および新選組は十分に時代劇のスターだったようだ。

維新志士の好敵手として設定されてはいても、しかし「悪役として嫌われていた」という感じではない。

特に1924年ごろから一種の「新選組ブーム」と言っていいような状況だったのではないか

ただ当時は、あくま近藤勇の人気が飛び抜けて高く、次いで土方が知られていたくらいで、沖田などのキャラが立ったのはやはり『新選組始末記』以降だろうか。

1929年には月形龍之介主演で『剣士沖田総司』という映画が作られたらしい)

池田屋で沖田が病気により昏倒する」などのエピソードは、明治末の講談に採り入れられてはいたが、それ以降の作品にあまり引き継がれなかった。

そうした細かいエピソードあらためて掘り起こして、当時大量に作られていた小説映画に新たなネタ提供した、という点に子母澤寛の功績がありそうだ。

2025-11-05

3周回って男性オナニー健全論が出てくる時期だな

明治前まで:好きにすればええやん

 

明治時代オナニーするとバカになるからダメ

 

第二次世界大戦後:女を買うくらいならオナニーしとけ

 

現代:性欲猿キッショ!!!!!

 

近未来:性加害するくらいならオナニーしとけ

 

オナニー君も大変だよな

時代に振り回され続けてる

2025-10-26

anond:20251026223327

ああ、ひつまぶしのあの感じ、めっちゃわかるわ!かに、立派な一枚うなぎがドーンと乗ったうな重の迫力に比べたら、刻んでごまかしてるみたいでちょっと物足りないよね。しかも、あの変な木箱みたいな入れ物でご飯をすくうの、毎回イラッとするし、三回に分けて「次は薬味! 次はお茶漬け!」って強制的に食べさせられるのも、なんかケチくさいというか、贅沢感が薄れるよな。「お茶漬けで!」じゃなくて、「最初から全部食えよ!」ってツッコミたくなるわ(笑)

でさ、なんでこんな食べ方が生まれたのか、ちょっと調べてみたんだけど、起源明治時代名古屋の老舗「あつた蓬莱軒」らしいよ。当時は出前でうなぎ丼を運ぶのに、陶器の器が割れやすいから丈夫な木製のおひつ(木の飯盒みたいなやつ)を使って、ご飯うなぎを混ぜて運んだのが始まり。 それで「ひつまぶし」って名前がついて、混ぜるのが「まぶす」から来てるんだって名古屋の「もったいない精神」が根底にあって、うなぎの旨味を最後まで楽しむために三回スタイルになったらしい。 お茶漬けの部分は、元々会席の締めとして「ご飯もの出して」って要望があって、最初お茶で試したけど臭みが気になってだし汁に変えたんだと。 つまり、運搬の工夫からまれ実用的な食べ方なんだけど、確かに今どきは「そんな手間かけなくてもいいじゃん」って思うよね。頭悪いってか、効率悪い(笑)

一方で、X(旧Twitter)見てみたら、ひつまぶし大好き勢がめっちゃ多いよ。例えば、名古屋駅近くの店で「黒毛和牛ひつまぶし」食べて「香ばしくて柔らかくて最高!」って絶賛してる人とか、 競馬場ひつまぶし食いながらビール飲んでる人とか、 黒豚バージョン作ってYouTubeにアップしてる料理家さんとか。 みんな「三回楽しめてお得!」って感じで盛り上がってる。批判的な声はあんまり見当たらなくて、むしろ名古屋ソウルフードとして愛されてるみたい。

結局、うな重派の君の気持ち、超わかるよ。シンプルうなぎの脂がジュワッと染みたご飯を一気に頬張るのが至福だもんね。ひつまぶしは「工夫の産物」としてリスペクトしつつ、俺はうな重一択でいくわ! 次はどっち食いに行く? もし名古屋行ったら、両方制覇して比べてみるのもアリかも(笑)

2025-10-21

国旗損壊表現の自由

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXZQOUA209Z90Q5A021C2000000/

日本国旗を対象にした損壊行為刑事罰対象とする国旗損壊罪を制定する方針が、自民党維新の会との連立合意書に明記された。高市自民党総裁としては従前から何度も法案を出してきた悲願の一つでもあり、今の日本において最も早期に行うべき施策の一つと考えているということだろう。その認識自体まりにばかばかしいが、普段創作表現の自由を声高に叫ぶ一部ブクマカ達に安易賛同されている様子で、その変わらぬ権威主義にほっとしたので少し反対意見を書いておきたい。なお、増田確認した時点で人気コメント趨勢違憲可能性を指摘するもの多数派であり、その意味でははてな全体ではまだ正気は保たれているようなので、別にこんなものを書く必要もないが、まあ、必要ものを書くなどという意義のある行為匿名ダイアリーなすべき仕事ではないだろう。

まず、高市氏が従前からしつこく主張を続ける、自国旗と他国旗との扱いの差だが、他国国章への損壊行為犯罪として定められているのは、他国への侮辱を防止することによる外交の円滑や国際的安全性保護などが目的とされており、自国旗にはこのような目的が成り立たないことが当然である以上、むしろ差を設けない方が不自然であると言えるだろう。なお、外国国章損壊罪適用については、条文上、訴追に当該国の請求を要するとされているだけでなく、「国章」の解釈について公的に掲げられたもの限定され、私的な所有物等は対象外とする等、慎重な運用を行うべきと解するのが学説の通説的見解とさており、実務上も事件化には慎重な姿勢が取られているようである

国旗国民統合象徴であるとともに、国家権力象徴ともみなされており、往々にして政治的デモ活動において、破壊行為対象となりがちであることは言を俟たないだろう。その視覚効果はあまりに雄弁であるデモ行為を野蛮なものや、「左翼」がやるようなものとして、自分と切り離している人間であっても、自国政府が例えば全体主義的な政治弾圧活動を行動を行いだし、自身も立ち上がらないといけないときが来た時に、抗議の意思国旗を燃やすという形でやるという考え自体がおよそ理解できないということはないのではないだろうか。この点で、国旗への損壊行為への処罰が、「表現」への規制ではない、国家への批判行為の委縮効果を持たない、というのはおためごかしに過ぎないことは理解できるだろうと思われる(まあ、とは書いたが、「国旗を傷つける必要はない」「むしろ国民のために立ちがるのであれば国旗を掲げるべき」というような反論をして満足する人も実際には多いだろう。する必要がない表現であれば刑事罰による規制をしていいのかは考えてほしいものではあるが。)。

これに対し、欧州各国等、先進国も含めた多くの国で自国旗の損壊処罰されていることを根拠に、問題がないという理解をしていると思われるコメントがいくつか見られるが、それぞれの国において当該行為処罰対象とすることにはそれぞれの国の歴史、経緯があるものと思われ、日本に当てはめる根拠とするのであれば、その必要性を別に議論するべきだろう。性的表現について規制をするのであれば科学エビデンスを出せという言論がよくもてはやされるが、その理屈を借りれば、日本において自国旗の損壊行為処罰すべき立法事実存在するのであれば、その「科学エビデンス」を上げるべきである日本人の名誉感情が当然害されるのだからそれでいいというのであれば、非実在児童ポルノ一般人性的羞恥心を著しく害し、性道徳を乱すのは当然であるので刑事罰対象としてもいいという暴論と変わらないだろう。まして、「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試み」た日本歴史を振り返れば、他国比較しても、国粋主義的な高まり批判するための自由が確保されることに、やり過ぎということはあり得ないのではないだろうか。なお、他国国章損壊罪に該当する規制明治時代から存在していたようであるが、これに対応する自国旗への損壊刑事罰は当時から存在していなかったようである

言論多様性はそれが保障されなければ消えてしまうかもしれない少数派、反体制派に対してこそ与えられるべきものであり、体制象徴である日本国旗を損壊する行為への規制は、そのような行為に出たくなる気持ち理解できない人であればこそより慎重に必要性を検討するべきものである。それを犠牲にして、一時的な国粋的な感情や、あるいは、「左派」を懲らしめてやったという感情を満足させておきながら、表現の自由重要性を恥ずかしげもなく掲げ続けるというのは私には理解できないところではある。

2025-10-10

anond:20251010141607

ばけばけを時代劇って言ってるの他でも見たけど

明治時代舞台なのを時代劇って言うのどうも抵抗あるんだよなあ

それだと坂の上の雲やいだてんも時代劇になってしま

まあばけばけは士族の話だしチョンマゲもしてるしだから時代劇って言われちゃうのかなあ

anond:20251010122627

逆だよ

江戸時代は「留(お留さん)」「梅(お梅さん)」という名前だったのが

明治時代にそこに「子」をつけるブームが来て「留子」「梅子」になったんだ

トメ」「ウメ」が前提で「トメ子」「ウメ子」は後付けな

2025-10-09

anond:20251009105239

俺は江戸時代明治時代庶民雑談とか読めたら嬉しいし、そんなのが残ってたら研究者も涎を垂らして喜ぶだろうと思うよ。

逆に江戸時代庶民が「俺の日記なんて価値ないだろ?」とか言って燃やそうとしてたら必死に止めるだろうね。

2025-10-01

anond:20251001100834

何で捕まえたの解放したがるのか意味不明なんだが

普通に適切な刑受けさせろよ

明治時代

2025-09-28

anond:20250928164343

# 郵政思想とは?

郵政思想(ゆうせいしそう)とは、郵便事業郵政サービスが持つ社会的役割価値観を重視する考え方を指します。日本では特に明治時代近代郵便制度確立した前島密(まえじま ひそか)が提唱した理念に根ざしています。彼は郵便を単なる通信手段ではなく、国家統一国民利便性向上、情報流通の促進を通じて社会の発展に貢献するものと考えました。

## 郵政思想の主な特徴

**国民全体へのサービス提供**

郵便都市部だけでなく、離島僻地にも等しくサービス提供することで、地域格差をなくし、国民平等情報アクセス保証する。

**公共性信頼性**

郵便国家社会インフラとして、信頼性が高く、公平で安定したサービス提供する使命を持つ。

**国家の発展への貢献**

情報物資流通を通じて、経済活動文化交流を支え、国家近代化や国際競争力の強化に寄与する。

**民間との協調**

郵政事業は政府が主導するが、民間ニーズ技術革新を取り入れ、効率性とサービスの質を高める。

## 歴史的背景

日本では、1871年前島密西洋郵便制度を参考に全国的郵便ネットワークを構築し、郵便局を「国民のための公共機関」と位置づけました。この思想は、郵便だけでなく、貯金保険事業(後のゆうちょ銀行やかん生命)にも広がり、郵政事業が国民生活に深く根付く基盤となりました。

## 現代における意義

現代では、郵政民営化2007年)以降、郵政事業の公共性民間企業としての効率性が議論の焦点となっています郵政思想は、単なる営利追求ではなく、地域社会国民全体への奉仕という理念を維持する重要性を強調します。特に過疎地域での郵便局の役割や、災害時の通信網の確保など、社会的責任が再評価されています

## 関連する議論

**民営化公共性バランス**

民営化により効率化が進んだ一方、僻地でのサービス縮小や利益優先の懸念が指摘される。

**デジタル化への対応**

インターネット時代において、伝統的な郵便役割が変化する中、郵政思想をどう現代適応させるかが課題

> もし特定の側面(例えば歴史現代課題)について深掘りしたい場合や、関連する資料分析必要場合は教えてください!

2025-09-19

「末代」を「最後の代」という意味で使うのは誤用なのか

近年、「末代」の誤用が指摘されることが増えてきた。

たとえば「子供ができないので私が末代だ」などの発言に対して「誤用である」と言うのである

「末代」とは自分が死んだあとの「遠い未来」のことであって、「最後の代」の意味はない、というのが誤用派の主張である

しかし、中国語では以下のような意味とされている。

末代_百度百科

末代,汉语词语,拼音mò dài,注音ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ,外文名the last reign of a dynasty,原指一个朝代的最后一代,最早记载于东晋王嘉《拾遗记·秦始皇》。

「末代」(中国語の語彙、拼音 mò dài、注音 ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ、英語 the last reign of a dynasty)は、もともと一つの王朝最後の一代を指す語で、最初記載東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に見られる。

王朝最後の一代」を指すというので、まさに「初代」の対義語としての「末代」である

たとえば、清王朝最後皇帝・溥儀を描いた映画ラストエンペラー』の中国語題が『末代皇帝であることからも、そうした意味流通していることがわかる。

ただ、もともとは中国でも「後世」という意味で使われることが多かったようだ。

初出とされている東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に書かれているのも「末代浮誣(後世のでたらめ)」といったような用法である

「末代皇帝」のような用法は、おそらく明代にはあったようだが、そこからどこまで遡れるかはわからなかった。

明代の『卜筮全書』の注釈に「桀 夏朝末代君主」とあったが注釈が後世のものという可能性はある)

さて、それでは「末代」は日本ではどう使われてきたのか。

「末代」という語は、平安時代から概ね「後世」の意味で使われてきたようだ。

そもそも日本には「王朝」は一つしかない。

王朝の末代」と言う場面がなく「末代天皇」などもいないのである

とはいえ日本に「末代天皇はいなくとも「末代将軍」なら存在する。

実際に、国会図書館DC検索してみれば、明治時代書籍に「足利の末代」や「徳川代将軍」のような言い回しを見つけることができる。

また、中国歴代王朝を紹介するのに、その初代と末代を書き並べているものなどもあった。

であれば「末代」を「最後の代」という意味で使うのも問題はないと考える。

もちろん「あくま日本では『後世』の意味メジャーなんだよ」という主張はできる。

しかし「最後の代」という用法も少なくとも「誤用」ではないし、わざわざ修正する必要もないと思うのである

なお、

死んでからのちの世。

という辞書説明を見て「末代」を「死後の世界あの世)」の意味だと早合点している人もいるようだ。

「末代」を「後世」とするか「最後の代」とするかは解釈問題であるが、「末代」を「あの世」とするのは完全なる勘違いであるので定着しないことを祈る。

2025-09-17

薩摩弁「ちぇすと」の由来について1898年以前の用例から考える

「ちぇすと」の由来については以下のnote記事に詳しい。

[研究] 謎の薩摩弁「ちぇすと」はどのように生まれたか――鹿児島谷山方言とロシア語が結びついて流行語になり、誤解から「興奮とくやしさを表す雄たけび」に変化|mitimasu

(1) 本来、「ちぇすと」は**鹿児島谷山町の方言で、「よっこいしょ」の意味**の言葉

(2) 明治時代の中頃に鹿児島谷山方言の「ちぇすと」と**ロシア語の「че́сть(名誉)」が結びついて称賛としての「ちぇすと」が鹿児島知識人流行語になった**

(3) 島津義弘関ヶ原正面退却や宝暦治水を**称賛する言葉として**「ちぇすと関ヶ原」「ちぇすと松原」(※宝暦治水千本松原のこと)が生まれ

(4) しかロシア語意味がわからない人が、(3)の使われ方から(2)を**悲しいとき・くやしいときに発する言葉だと誤解した**と思われる

(5) これらを踏まえて明治30年ごろに「ちぇすと」が**東京学生青年あいだで「気合を入れる言葉」として流行し**、広く世間に知られるようになった

(6) 流行がしずまり現実では(2)と(5)を使う人は減り、**フィクションの中の薩摩人ばかりが使う言葉になった**

(7) 鹿児島出身作家である**海音寺潮五郎が(4)の意味でさかんに使用**(海音寺氏は谷山から遠く離れた現・伊佐市の生まれ

(8) これが鹿児島県に逆輸入され「ちぇすと」が「くやしいとき気合を入れる時に薩摩人が発する言葉」だと**鹿児島県人が認めてお墨付きを与えてしまう**

(9) 司馬遼太郎をはじめ**多くの作家が(4)の意味使用し、(3)の意味は失われていった**

(10) 結果として「気合を入れるときの雄たけび」と「くやしいときに発する言葉」という**異なる意味が「ちぇすと」の中に共存し、よくわからない**ことになってしまった

(11) そもそも「ちぇすと」は「よっこいしょ」という意味しかない江戸明治期の谷山町の方言なので、**多くの現代鹿児島県人にとっても使わないよくわからない言葉**である

しかし、このnote記事では1936年辞書の「露語から来たといわれる」という一つの記述を、そのまま鵜呑みにしてしまっている。

また全体として推測が多すぎるため、いくつかの情報提示するとともに研究を補強したい。

「ちぇすと」の初出としては、1898年内田魯庵『くれの廿八日』が挙げられているが、これよりも早い用例はいくつかある。

まず、1888年の『青年之進路』。著者は鹿児島士族佐藤良之助とある

猿渡は傍若無人なりステッキを以て力任せに竹藪を叩きながら

然り然り卑怯者奴(め)……無気力(いくじなし)奴(め)チエストー

これは相手馬鹿にして煽っているシーンであり、この「ちぇすと」は少なくとも称賛の意ではあるまい。

ただ、ステッキを振るための掛け声なのか、相手威圧するための掛け声なのかはわからない。

同じく1888年の『女学雑誌』。

「さうダワ」「なくつてよ」のあどけない令嬢のみならんや「チエスト」と罵るこわからしき九州男児も「オオしんど」と言ふ裊娜(たほやか)なる西京佳人も以て一対の主人公なすに足らん

句読点がないからどこからどこまでが一文かわからないが、ともあれ「ちぇすと」は「罵り」だという認識があったことが窺える。

1889年の同じく『女学雑誌』。

膝ッきりの衣服に高下駄お国書生、是も二人連

「ドウモ奇絶ジャ…」「エライ人が駈をるナ…コレどふする…」

箪笥を擔で来る男「邪魔邪魔ダッ…」

「コリャどふする…エエ」お国訛にりきんでも突飛(つきとば)される「エエ…チエスト」。扼腕――是も苦笑となる。

田舎者上京してきて呆然としているところに箪笥をかついだ男に突き飛ばされて「ちぇすと」と扼腕する、といった場面。

ちくしょう」「なんてこった」などと同じような、思わず出てしまった言葉という感じがする。

1892年罪と罰』。ドストエフスキーの訳書だが、訳者が『くれの廿八日』の内田魯庵である

真向に鉈振上げて、婆アの頭脳を打砕き、腥血淋漓たる中に生血の滴る得物を手にし、錠を破し、金を盗んで、隠れやうとする自己だ。ちェすと!こんな事が出来るか?有るもんか?

英文からすると「ちぇすと」はかなり意訳っぽいが、やはり「なんてこった」という感じだろうか。

1893年『称好塾報』。称好塾は滋賀出身杉浦重剛という人が東京に作った私塾である

此頃より陰雲未た開けずと雖も細雨は既に跡を収め皆チエストと絶叫せり

其佳なる所に至れば「チエスト」と絶叫せしむ

前者は川船を漕いでいるときに雨が上がったところ、後者薩摩琵琶の演奏についての記述で、いずれにしても快哉を叫んでいるようである

薩摩琵琶はともかく、雨上がりに「ちぇすと」と叫ぶのは、すでに鹿児島出身ではない学生たちのあいだでも「ちぇすと」が定着していたのだろうか。

1893年少年子』。

此愉快なる、此呑気なる、此無責任なる、此無頓着なる生活写生に向って毛奴を奔らす、予輩も亦自らチエストー一声の下に案を叩いて四辺を一睨せさるを得さるなり

下宿暮らしの書生はあまり自由気ままだという話のオチの部分だが、よく意味がわからない。

とりあえず、気合を入れるための一声、という感じか?

1895年探偵実話 娘義太夫』。

「左様か教師が左様云ッたか……自分でさへ左様思ふもの……」と言つつ両眼に涙を湛へ「チエストッ鹿児島男児が」と一声高く叫びたり

自分が情けなくなってちぇすと。

溝口は下足番の招き声に風(ふ)と心注(こころづ)きて立止り「チエストー貴様おはん)は偽言と云ひ馬鹿なッ」と言捨しまま元来し道へ駈戻らんとせり

怒りのちぇすと。

彼が情厚の男子と己(おい)どんを今日まで思ッチヨルとは何たる事か夢か誠か、イヤ誠……此文……チエストー、アア愉快愉快ト喜び勇むも実に尤もなり

喜びのちぇすと。

薩摩人の「溝口」が女義太夫の「紋清」に惚れ込んで事件に巻き込まれていく話らしく、全体的に良くも悪くも感情が高ぶると「ちぇすと」と言う描写になっているようだ。

ただ著者は匿名だが、実は高谷爲之という刑事上がりの新聞記者で、東京出身らしい。

1896年『盍簪』「薩摩新風土記」。

チェストー、這は是れ感情鋭烈なる薩摩隼人が何事にか其の心を刺撃せられ感泉俄に湧て抑ゆるに由なく、一條の熱気思はば口端より迸出するの声なり、此感声の発する時、是れ彼れ等が掌を握り肉を震はすの時なり、ステキヲ揮ひ路草を薙ぐるの時なり、実に薩人の感情は激烈なり

ステッキで草を薙ぐというのは『青年之進路』の場面そのままだが、そんなに典型的な行動だったのか?

と気付いたが、note記事でも紹介されていた『薩摩見聞記』にもほぼ同じ文章が出てくるので、この「薩摩新風土記」を本にしたものが『薩摩見聞記』なのだろう。

この『薩摩見聞記』の著者は本富安四郎といい、新潟長岡藩出身だが鹿児島に数年ほど滞在したという。

1897年江見水蔭『海の秘密』。江見水蔭は先ほど出てきた「称好塾」の出身らしい。

「ちえッすと!」

殊に高く響いた此声を最後にして、多くの怪しの人影は散々に大王崎を去つて仕まつて、それからは寂として声が無い。

謎の集団が、その企みが失敗したのか「ちぇすと」と叫んで去っていった、というような場面。

と、こうしたあたりが1898年内田魯庵『くれの廿八日』以前の用例である

明治中期からしか用例がないということに変わりはないが、当初から明らかに「称賛」ではない例が多く見られる。

これは冒頭でリンクしたnote記事説明に反する事実である

薩摩新風土記」に書かれているように「何らかの感情が高ぶったときに出る声」というような説明適当ではないか

また、この頃の方言集や辞書も紹介する。

1906年の『鹿児島方言集』。

ちぇすと てすとに同ジ

てすと 感嘆詞快感

元は「てすと」なのか?

1912年山田美妙『大辞典』。

すとう[感] 九州地方方言。力ヲ込メテハゲマス語。或ハちえナドヲ添へ、ちえすとうナドトスル。

元は「ちぇ+すとう」なのか?

1933年方言誌』「鹿児島鹿児島谷山方言集」。

エスト よいしょ(掛声)

エツソ チエツソイケ それ見ろ

これについてはnote記事でも言及されていたものである

note記事では「ちぇすと」と「ちぇっそ」は無関係であろう、としていたが、

1977年かごしま民俗探求』の久保けんお「薩摩方言民謡」では、

チェストはおそらくエイクソの転化であろう。エイヨは薩摩ではチェイヨとなる。母音エに子音Tをかぶせてチェとするのであるエイクソがチェイクソとなり、促音化してチェックソ、クを省いてチェッソ…。チェッソを遠くへぶつけるには当然「チェスト」となるはずである


1979年井島六助『出水方言 カゴシマ語の一特異分野』では、

ちぇっそ 感動詞一般に知られているカゴシマ語としては「ちぇすと行け」など言って激励の語とされ、または、思わず感嘆する時の語とされているが、ここでは元来、「ちょいちょい」と同様、「ざま見ろ」という気持ちを現わす感動詞で、これに類する用例は、「ちぇすと行け」多用のずっと南にもあるようである。チェッソ、ユゴトセンモンジャッデ(ざま見ろ、言うようにせんもんだから)。語源については、英語zestからとか、露語yectbからかいうのがある。

説明されており、これらは「ちぇすと」と「ちぇっそ」には関係がある、としている。

これらの説明が正しいかどうかはともかく、多くの異論があるということであり、そのなかで一つの説を支持するならば、何らかの根拠必要になりそうである

2025-09-09

anond:20250909174236

あのねえ、だれでも明治時代偉人じゃねえの

漢訳なんてうかつに手を出しちゃだめなの

文系君はは読書感想文すらまともに掛けねえの

わかる?

2025-09-06

この手のバカってなんで自分が今住んでいる日本と作中に出てくる地域を同一視しちゃうんだろうな

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