はてなキーワード: 柳田國男とは
ここ数年、ブックサンタはこの時期になるとそれなりに話題になるので知ってる人も多いと思うけど、色んな事情でクリスマスプレゼントを貰うのが難しい子供に本をプレゼントするっていうNPO法人の活動で、協賛書店で本を買ってレジで「ブックサンタです」って言うとその本を預かってくれるというものがある。
去年やってみたんだけど、あまりにも選書に悩み、自分以外の人が何を選ぶのかも知りたすぎたので、次は友人を集めていっせーのでやってみたいと思っていて、それを今年やった。
友人と自分の計5人で本屋に集まり、ヨーイドンで本を選びに散って、決められた時間に集合して手札を晒し合うという感じにして、友人の選書を見せてもらった。
私は今回、『谷川俊太郎質問箱』にしようと思っていたけれど、書店に行って見たら取り扱いがなかった。
ので、悩んだ結果『小学館こども大百科キッズぺディア』にした。
これは、私が小さい頃父親に誕生日プレゼントとして欲しいものを聞かれて「面白い本が欲しい」と答えたところ『21世紀こども百科』を貰ったという経験があって、そしてそれを暗記するまで貪り読んだ記憶があるので、やっぱりこういうものを読むのって物凄く世界が広がるよね、という思いがあるので。
ただ、最近の百科事典や図鑑は分類分けされての発行が殆どで、「いきもの」「歴史」「音楽」とか、特定分野の百科事典はあれど、全てを網羅するタイプの百科事典は実は全然並んでおらず、『小学館こども大百科キッズぺディア』は2011年発行で結構古くて、でもこれ以外にそういう百科事典がなかった。もうそういう百科事典は出版されないのかな。『21世紀こども百科』で世界の広さを知った身としては、多少項目が少なくても全分野を網羅した百科事典こそが子供の可能性を広げてくれるんじゃないかと思ったりするけど。
友人1
2歳向けの絵本。
送り先の子供に2歳児を想定していなかったので、これは私にはない選択肢だった。
友人2
友人曰く、これを読んだ誰かから第二の柳田國男が生まれるかもしれないしとのこと。確かに本を贈るのは投資でもある。
友人3
この本って中学年向けなんだ、というのがちょっと意外だったけど、確かに内容としてはそうかもしれない。
友人4
400色近い色の名前となりたちを綺麗なデザインでまとめた小さい本。
多分読む子供を選ぶけど、好きな子には凄く刺さりそう…というか、私がちょっと欲しかった。これがプレゼントで自分だけのものになったらきっとすごく嬉しかったと思う。
これらの本はレジで書店に回収されるので手元には勿論残らないけど、友人の選書の過程を眺められたのは結構面白かったし、やっぱり皆だいぶ悩んでいた。対象年齢も性別もよくわからないというのもあるし、最近のトレンドもわからないし。
青い鳥文庫の棚を見ても、私達が子供の頃とは雰囲気が少し違って、『パスワードシリーズ』とか並んでなかった。自分の思い出の本を贈るのも楽しいけど、でも今時の子には面白くないかも、というのもある。
私が最後まで百科事典と悩んでいたのは、女児向けに「おしゃれ」「友達付き合い」「マナー」等をかわいいイラストで手引きするタイプの本で、これが結構棚の面積をしめていた。この手の本、実際すごく役に立つのでバカにもできないのだ…結構分厚いけど、パラパラ読むと私もこども時代にこの本読みたかったなと思う。
「しごと図鑑」みたいなのも迷ったんだけど、これは、世の中にはこんなに沢山の仕事があって、皆には職業選択の自由がある、何にでもなれるっていうのを子供に伝えたいという気持ちがあるためで、なんかそういう気持ちだけ贈り物の本を選ぶことに若干の躊躇いを覚えたのでやめちゃった。
役に立つとかそういうのじゃなくて、面白いかどうかで本を選びたいんだよな。
ブックサンタをやったことがある人、やる予定の人、どんな本を選んだのかな。他の人のも聞いてみたい。
ていうかこういう本の選び方で合ってるのかな。
本当にこれで子供達に喜んでもらえるんだろうか。
母親が生まれたばかりの我が子を、鬼になって口と尻を押えて絞め殺す様子が描かれた絵馬で、柳田國男が紹介し有名になった。
彼は「その意味を私は子供心に理解し、寒いような気持ちになった」と述べている。
https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/tenji/kyodoshiryotenji/3178.html
https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/siteibunkazai/ema.html
私は子供を妊娠出産した経験があるが、個人差もあるだろうが、生まれた我が子を見た時に脳内に今まで感じたことがないほどの恋愛とか幸福とかの時に感じるような幸福なホルモンが溢れて、母親は本能的にホルモンの働きで赤ちゃんを愛おしく感じるように出来ていると感じた。
その母親に死ぬほど苦しい妊娠中の悪阻や出産をさせた後すぐに赤ちゃんを縊り殺させていたとしたらあまりと言えばあまりでは。
せめて母親の目の前で殺さないくらいの思いやりはないのか、産んだばかりの満身創痍で自分の手で殺して、しかも鬼女として絵馬に描かれていましめられるってキツくないか。
産婆さんに任せるとしても飢饉の時はどの家でも殺すだろうし、取り上げて殺すを繰り返したら病みそうだ。
何にしても男は関わってなさそうだが、思いやりにかける役立たずにもほどがあるだろ。
中絶を女だけの罪のように語ったり、母親が産後鬱でも育児に関わらずノイローゼで殺したら揶揄しまくる今の男にも通じるものを感じる。
「地下のナマズが暴れると地震が起きる」説はいつごろ廃れたのか、について調べていた
おおよその流れは掴めてきたので一旦ここにまとめる
結論から言うと、明治元年(1868年)ごろから急速に地震鯰信仰は失われたと思われる
オランダの辞典をもとに、地震がなぜ起きるかを科学的に説明した内容を翻訳した
鯰絵が大流行した
しかし「鯰絵が流行した=民衆は地震の原因を鯰だと信じていた」と等号で結んでいいのか?という点はちょっと怪しいと思っているのだが……
というのも江戸時代末期の時点で、江戸の町民はお化けや妖怪の実在をどうやらあまり信じていなかったように資料を見ていると思えてくる
お化けや妖怪の実在を信じない人が地下の大鯰を信じるというのは不自然に思える……という感覚は21世紀に生きる人間の感覚だろうか
『泰西地震説』は学者が読むような専門書で、一般民衆にはあまり読まれなかったのだろうか?
江戸時代にもいくらかは民衆が読むような蘭学書が流通していたようなのだが、地震の原因を科学的に解説するようなものはなかったのだろうか?
当時は陰陽五行思想を信じる人が多かったはずなのだが、この思想では地震をどのように説明している?
鯰絵について語られた本でKindleで買えるものが無いため、追加調査は図書館か本屋で資料を入手してからになる
小幡篤次郎、後の慶應義塾長、『学問のすゝめ』を福澤諭吉と共著した人物
地震の原理について、『泰西地震説』で解説された内容とだいたい同じ説明がされている
こういう本をわざわざ出版する必要があったということは、これに書かれた知識は当時広く知られていなかった……とみることができるか
西欧に追いつこうという強い意欲が見える気がする
明治初期の就学率は今と比べると低くはあるが、この本によって一部の若者に対して啓蒙が行われた
これによって明治に生きた若者は地震鯰を迷信と見なすようになったのであろう
「私の父は地震鯰のような俗説を信じていてやれやれだ」みたいな記述がこの時代にもし存在すれば嬉しいのだが……
また、教科書ではなく大人が読むような啓蒙本はどのようなものがあったのだろうか?
民俗学方面からばかり攻めていたが、明治維新に関する読み物を探すのもありか?
M5.5程度で揺れはそこまで大きくなかったようだ
この地震を体験したジョン・ミルンというイギリス人が地震研究に関心を持ち日本地震学会を創設した
濃尾地震
科学者が地震調査のため派遣された、のような記事が新聞に載っている
ただ「鯰絵が描かれた=民衆が地震の原因を鯰だと信じていた」にはならないだろう
『江花叢書』第1巻
当時のエッセイ的な読み物
関東大震災に対する四方山話からの流れで「地震と大鯰」という題が名付けられた項がある
一部引用する
鯰説の根拠は物識りに聴かなければ確かとしたことは分らぬけれども、志那傅來であることだけは疑ひもない。大地の下には大鯰が生棲して、平生は辛抱強くじつとして動かぬけれども、どうかした拍子に其の尾鰭を動かすと大地が震動するのであると云ふので、我邦では正直に之れを信じ、
「正直に之れを信じ」という表現から、今は信じる人はいないというニュアンスを読み取る
「おじいちゃんが子どもの頃は地震の原因は鯰だと思っていてね」と語る人がいてもおかしくない年数だ
科学とか西欧合理主義が流行った結果、地震鯰信仰のような俗説が廃れたんだろうなあ
ひと段落したら明治大正を生き延びた俗説で何か面白いものがないか調べてみたい
先に読んだ方が民俗学的視点が備わって調査の全体の見通しがたつかもしれない
---
明治時代より前の時期の日本において、「なぜ地震は起きるのか?」のような原理の解明を目指した学者がどうにも見つからない
あるいは調べ方が悪いのか……
幕末の日本人は地震ナマズを信じていなかった、ではいつ頃まで信じられていたのか?
もしそうだとすると「地震の原因がナマズというのは俗説だ。本当はこのようなメカニズムだ」という探求が行われていてもいいではないか
見つけることができない以上、ナマズ説を信じていたのかもしれないと消極的にだが認識せざるをえない
儒教においては「陰だか陽だかの気が地面から噴き出る時に地面が揺れる」のような説明がされているらしい
日本の儒学者はそれを信じていた?だとすると江戸の民衆のその説をどの程度認知していた?
あるいは「ナマズが原因ってことはないだろうけど、本当の原因が何かと聞かれると分からんなあ。詳しいことは学者先生に聞いてくれ」というスタンスが大多数か
日本人の宇宙観を調べた時にも思ったが、当時の天文方は観測と暦の作成にばかり注力していて「なぜ?」という問いを立てない
調べることだらけだ、学生の頃に日本史や世界史を選択しておけばよかった
---
また、火山、雷雨、地震の3つセットを司る龍神がいるという信仰もある
ナマズが俗説ってそういうこと?
---
しかし本来は本業に関する勉強をして給料を増やす努力をすべきなのだろうが、仕事と関係ない本ばかり買って読んでしまう
悲しいね
---
トラバやブコメにあまり反応しないようにしているのだが(そこそこの確率で不毛なので)、今回は必要を感じた
鯰絵はアマビエブームと近いものを感じるという意見には強く同感
ただ、いろんな本や資料に「昔の日本人は本気で地下にいるナマズが地震の原因だと信じていました」と書かれているんだよな……
これに強い疑いを抱く
しかし、アマチュアの私が思いつくようなことをプロの研究家が思いついていないわけがない……
なにか根拠があるはずと信じる
清書の予定は……調査がひと段落したときにあるいはありえるかもしれない
追加調査は資料入手待ちとか頓挫とか色々な理由でできていないことが多い
追加調査の結果を追記しようとすると買った本の内容丸写しみたいになりかねず、倫理的にどうなの?という気分を拭えず自分の中だけで調べた結果を味わうこともそこそこある
---
先行研究
神や仏に敬虔に祈りを捧げない一方で迷信深い、この点は現代日本と地続きに感じる
この庶民の信仰の深部に最も接近した欧米人は、明治に来日したアメリカの女性教育者、アリス・ベーコンであろう。彼女は「村を見おろしている岩の頂上は天狗が作った」。「天狗はもうこの森から去って今はいない」。さきほど「山の神様の使いである大きな黒蛇が、いましがた、ここを通った」と説明する陽気な老女に接し、「神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど」、「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を私たちの心に湧きあがらせてくれた」と表した。
考えてみれば迷信深いお婆さんは昔は迷信深い若き女性だったかもしれないわけで、幕末だとその考えがスタンダードだった可能性があるわけだ
この引用箇所は別の文献からの孫引きになるのでこういうことするのは本当はよくないのだが……
該当箇所は『逝きし世の面影』という本からの引用……kindleあるじゃないか、買います
これを書いた渡辺京二という方の著作はすべて読んでもいいかもしれない
---
現代を生きる信心深いキリスト教徒にとって「神は実在する」と「妖精/人魚/ドラゴンは実在しない」の考えは矛盾なく両立するのではないか
(「実在」という言葉の定義をしっかり言語化しないととまずい気配を感じる……)
同様に幕末の江戸町民にとっても「神/仏/龍神/大鯰は実在する」と「妖怪/お化けは実在しない」の考えは矛盾なく両立する可能性がある
なんかの形で時代の淘汰から免れてきたものが有名になるんだよね。理由はいろいろ複雑なことだし、今更無理にラベル貼ったり剥がしたりしなくていいと思う。なんであれ面白みや普遍性を見出されたなら、それは重要なものだから。小林秀雄は柳田國男が役人をしていた頃の事件の記録、山の人生(山の木こりの子どもたちが手ずから斧を研ぎ、生活に困っている父に「俺たちを殺してくれ」と頼んだという話)を引き合いに出して、田山花袋の小説はウソのくせにコセコセして小生意気で、こんなものが本当の文学であるはずがない、柳田さんなら鼻で笑うだろう、と詰っていた。ものを作るときや、それを認めたりなじったりするには時間とエネルギーが必要で、ものは向けられたそれらを溜め込む性質があるのだと思う。君の目に蒲団を叩き込んだのは田山花袋というか、昔の人々の時間のでっかい塊だよ。奥付のむこうに人がいっぱい立っていて、一番奥に紫式部が座っている。彼女の権威を信用しろ。
オシラサマ思い出した
Japaaanマガジン 歴史・文化 なんと馬と結婚した女性の末路…「遠野物語」より、オシラサマのエピソードを紹介
@2019/08/18
世の中は実に広いもので、結婚と一口に言っても人間同士とは限らず、イルカや抱き枕など、様々な相手と結婚した方のニュースにふれると、愛情の形は実に色々あるものだと実感します。
と言っても別に昨日今日の話ではなく、日本でも人間と人間以外のパートナーが夫婦となったエピソードが残されています。
そこで今回は柳田國男『遠野物語』から、オシラサマの話を紹介したいと思います。
あまりに馬が好き過ぎて……
むかす、あったづもな(昔、こんな事があったそうだ)。
とある農家に一人娘がおりまして、気立ても器量もいいのに、年頃になっても縁談を断り続けていました。
あまりの事に、将来を心配した父親がその理由を糺したところ、娘はなんと「おらァ、ウチの馬と夫婦(めおと)になりてぇ」などと言い出します。
この申し出には父親も仰天しましたが、確かに以前から、厩(うまや)に一人で籠もって馬に向かってずっと独り言を続けている様子を目撃していました。
確かに馬は昔から、単なる家畜ではない「家族」だけれど……(イメージ)
馬といるのが何でそんなに楽しいのかと訝っていたら、なるほどそんな眼で見ていたとは夢にも思っていませんでした。
「バカもん!お前を永年、手塩にかけて育てたのは馬なんぞにくれてやるためじゃない!」
父親として当然の思いを伝えると、思い切って遠野城下へ出かけていきます。
「……お前が『馬と夫婦になりたい』などと言い出すのは、村にロクな男がいないからに違いない。よぅし、これからお町でこれ以上ない好青年との縁談を取りつけてきてやるから、楽しみに待っておれ!」
父親が出かけてしまうと、娘は馬と夫婦になりました(具体的なやりとりについては割愛されています)。
馬の首に縋りついた娘が……
さぁ、娘が馬と「夫婦になった」ことを知った父親は、烈火の如く怒り狂います。
「おっ父ぅ、やめてけろ!」
懇願する娘も顧みず、父親は馬を裏庭にある桑の木につるし上げ、斧でその首を叩っ斬ってしまいました。
「あぁ……何てむぞい(かわいそう)!」
娘が叩っ斬られた馬の首に縋りついて泣いていると、どういう訳か、馬の首ともども飛んでいってしまったそうです。
たった一人の大切な娘を失った悲しみに暮れていた父親は、ある晩不思議な夢を見ました。
「おっ父ぅ、親不孝な娘でごめんなぁ……その代わりって訳じゃあねぇんだども……」
「裏庭の桑の木で、私たち夫婦を彫ってお祀り下されば、きっと功徳がありましょう」
自分たちの結婚を認めて欲しい……そんな娘の思いに、とうとう父親も折れて馬と娘の像をお祀りするようになりました。
その像は桑を削った棒の先端に顔を彫り込んだ素朴なもので、幾重にも布を着せて支えるのですが、どういう訳か迷い事などある時には馬の顔がどちらかへ向いて「お知らせ」してくれるので、いつしか「お知らせ様」と呼ばれるようになり、それが転じて「オシラサマ」として今日に伝わっているそうです。
どんどはれ(昔話などで「おしまい」の意)。
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
最初2013年から始まっているから、5年間も粘着しているんだろ。ラノベ専門学校もひどいかも知れないけど、それに執着している筆者も大概じゃないか?
こういう文学マウントの取り方とかも、ラノベ書きたいんじゃない感じさせすぎなんじゃ?だから邪険にされるんでしょ。こういうのって、映画界で言えばゴールデン街で論争吹っかけてくるようなタイプで面倒くさいだけの人だからね。
柳田國男も聖書も構造主義も知ってれば強みに出来るかも知れないけど、この増田は別に何にも生み出せてないんだから、知ってても知らなくても一緒だよ。
「はい今回も始まりました、文化の盗用を見つけようのコーナーです。
このコーナーでは、リスナーのみなさんに日常で見かけた文化の盗用を見つけ次第送っていただき、
文化の盗用に詳しい先生にそれが本当に文化の盗用なのかを判定していただきます。
宜しくお願いします」
「それじゃあ最初のお便り。ラジオネーム『ギターの本名OK布袋寅泰』さん。
風俗の待合室で爪を磨いているおじさんは猫の爪とぎ文化の盗用では?」
「それでは先生! 風俗の待合室で爪を磨く行為は文化の盗用か否か、判定はー!」
先生「文化の盗用ではありません! なぜなら人間は猫によって支配されており、権力の勾配は明らかに猫の方が上位だからです!」
「なるほどー、それじゃあ安心して風俗行くときに爪を磨けますね」
先生「風俗の店員さんが「お爪は大丈夫でしょうか?」と聞くときに自分の爪を見せる仕草をすることありますけど、あのとき爪が汚いと引くよね」
「それじゃあ、次のお便り。ラジオネーム『繰り返し使えるコンドーム』さんからいただきました。
飲屋街で電柱に立ちションをしているおじさんは犬のマーキング文化の盗用では?」
先生「ピコピコピコピコ! ピコピコピコピコ! ピコピコピコピコ!」
先生「明らかにこれは文化の盗用です! たださえも我々人類は押井守という人でありながら犬のふりをする文化の盗用の典型的な例を抱えているのですから!」
「それじゃあ今後電柱に立ち小便をするのは文化の盗用とみなしてよいのですね?」
先生「その通りです!」
「まだまだ行きましょう。続いては『よく落ちるローション略してチン』さんが見つけた文化の盗用です。
友人からネットワークビジネスの勧誘を受けました。とてもよい商売だと思いますが、これはネズミさんたちによる子供をたくさん増やす文化の盗用では?」
先生「ネットワークビジネスは詐欺ではなく、今後の経済を支える重要な基盤となり、私と仲の良い立派な人たちもやっているし、私に献金もくれるので、これは文化の盗用ではございません!」
「続きまして、ラジオネーム『朝食バナナ、昼食バナナの皮、夕食みかんの皮』さん。
この間ガムを噛んでいて思ったのですが、ガムってイカの文化の盗用では? イカも噛んでもなくならないですし」
「あれ、ということは?」
先生「これはただの嘘です!」
「本日ラストスリー! ラジオネーム『ぷよぷよは、ドライアイスの消える文化の盗用』さんが発見した文化の盗用」
「まだです、先生。落ち着いてください。これはラジオネームです」
先生「ぴこぴこ!」
「改めて行きます。ラジオネーム『ぷよぷよは、ドライアイスの消える文化の盗用』さんからのお便りです。
夜空で瞬く星を眺めていて思ったのですが、ほたるが光るのは文化の盗用では?」
先生「ぴこおおおおおおお! ぴこぴこぴこおおおおおーーーーー!!!!!」
先生「明らかに文化の盗用です! 我々動物は常に星という限られた資源を消費しながら生きています! このように権力の勾配が存在するので、星さんの文化を勝手に使用してはならないのはもはや明確!!!!!!」
「なるほどー、これはほたるさんに猛省していただがないとですね」
「ラストツー! ラジオネーム『すべてのヤリマンはミトコンドリア・イブの劣化コピー』さんです。
ボッキしたんですが」
「ちょっと! まだ読んでる途中ですよ!」
先生「ぴこお……」
「ボッキしたんですが」
先生「……ぴこ」
「ボッキしたんですが、カリ首も伸びたから、ろくろ首の首が伸びる文化の盗用でしょうか?」
先生「こんなの許されるわけないぴこ! 問答無用で文化の盗用です! みんなで柳田國男先生に抗議しましょう!」
「なんでやねん」
「関係ぬ!」
「それじゃあ今週最後のお便りです。
ラジオネーム『モバマスの月末ガチャは渋谷凛だと思います。デレステのフェス限は相葉夕美だと思います』さんが日常で見かけた文化の盗用。
遊び方にパテントはないわけですので、中国で売ってる一本のファミコンカセットに500本ゲームが入ったのを買って遊んでますが大丈夫でしょうか?」
先生「知らんけど!!! これ文化の盗用っていうか著作権とかそういう話じゃない!?」
「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫でしょうか?」
「よかった。これで安心してヤフオクで売ってる公式には情報が一切ないゼルダの伝説のアミーボカードが買えますね」
先生「は?」
先生「そっすね」
「あっ! それは前回の放送ですべてのソース顔の人たちの文化を盗用していると指摘された、そっすね、じゃないでっすか!」
「わーい! やったぜ! それじゃあ来週も皆さんが日常で見かけた文化の盗用を送ってきてくださいね」
先生「かちにいこうぜかちにいこうぜかちにいこうぜかちにいこうぜかちにいこうぜすべてかけてちえをしぼってめざすんだびくとりー!」
「なんで急に勝ちに行こうぜアマノくん! を歌ったんですか?」
先生「権力の勾配の頂点はキャイ〜ンなので、彼らの文化を模倣するぶんには絶対に文化の盗用にならないからです」
「あまのくーん!」
うちの近所のイオンのスーパーマーケットは、気に入っている銘柄の味噌を置いてくれないので、普段から不満である。
不味いトップヴァリュ味噌をずらっと並べるぐらいなら、あの味噌を一列でいいから置いてくれよいう思いはあるが、
元々、たまたま入ったアンテナショップで試食しておお美味い!とびっくりして、それ以来通販お取り寄せしているインディーズ味噌なので
イオンのような大手との間に流通経路を作るのも大変だろうし、おそらく何千銘柄もある味噌の中から何を陳列するのかは、
イオンの戦略であり自由なので、大人しく通販でお取り寄せ味噌をしている。
よく遊びに行く友人の家に向かう途中にでかいイオンモールがあって、手土産を買うのに立ち寄ることがある。
でかいイオンモールには未来屋書店があり、買物のついでに棚を眺めることもあるが、
郊外モールにありがちの、過激なほどオープンな店構えと糞面白くも無さそうな平積みスペースを見ていると
「売れてそう」で「知性なさそう」ではあるが、私が欲しい本は見当たらない。
子の妖怪ウォッチブームが去って、そういえばと久しぶりに柳田國男でも読もうかなと思ったが、無かった。
でも、それは柳田國男を発禁にしているわけでもなければ、私の欲しい本を買う権利をはく奪されていると思ったりはしない。
イオンに入っている書店は、ショッピングモールという構造上18禁用にスペースや動線を分けにくい。
子供の眼に入らないように動線を分けるとスペース効率が下がるからエロ本は置かない、という選択は、法令遵守の観点から見て正しいと思う。
文芸系(多くがラノベ)の専門学校の体験入学やオープンキャンパスに行ってきた。「専門学校 ラノベ」でググると上位に表示されるような有名な学校に3つほど。
噂には聞いていたけど、酷い。正視に耐えない。
体験入学に申し込むと、頼んでもいないのに大量のパンフが送られてくる。
そのパンフに載っている在校生の作文が酷い。あと、HPに載っているのも同様に酷い。
文法がおかしい。文章の巧拙以前に、日本語がおかしい。外国人留学生の方がよっぽどまともな文章書く。
「プロ講師がキミを指導する!」なんて宣伝してるけど、ほとんどが無名作家。
そういう自称プロ作家と話したのだけど、あの人たちまるで教養がない。
あまりにもモノを知らないから、「ラノベの角川一強は半端ないですよね」とレベル低めに話題ふると、「え!? 角川ってそんな凄いんですか?」
もう、帰っていいですか?
カリキュラムも酷い。
2年間で文章の読み書きを習う。ガチで寺子屋レベルの低級な文章作法を学ぶ。
卒業する時に長編小説を1つ書き上げるのが目標で、在学中はほとんど小説なんて書かないし、添削もされない。
というか書けない。
どの専門学校のパンフにも判で押したように“ノーパソを開いてWordで小説を書いている学生"の写真が載っている。
小説執筆経験のない人間が入学してくることがよく分かる。物書きはプレーンテキスト形式で、テキストエディタ使って書くよ。
中島らもが生前「コピーライターの養成所は筋者が経営する芸能事務所並みに胡散臭い」って言ってたけど、ラノベの専門学校にも同じことが言える。