はてなキーワード: 錯覚とは
暴言に暴言を重ねて優位に立てるつもりなら、まず前提の組み立てからやり直した方がいい。
論理の骨格がスカスカなまま威嚇だけ盛っても、結局自己放尿で床を濡らしているだけだ。
貴様の文章は、比喩の導入から結論まで、一貫して論理的整合性が欠落して自己放尿している。
まず、「ダチョウは力強い」「ダチョウは群れをなす」それは生物学的特徴であって、他者の比喩的揶揄の反論として成立していない。
比喩の批判を比喩の別列挙で返してどうする。属性列挙が反論になると錯覚するのは、論理の基礎体力が欠けて自己放尿している証拠だ。
次に、「数の暴力は物理的にも比喩的にも強力」その通りだが、それを根拠として「だから突撃する」というのは論理ではなく自己放尿の宣言だ。
論理的ステップをすっ飛ばして「多数側だから正義」という短絡に逃げ込む時点で、あなたの主張は既に自己放尿と集団放尿のダブル放尿レベルの自壊構造になっている。
さらに、最後の「ニワトリのクソオス」云々。これはただの属性攻撃であって、反論ではなく感情的反射だ。議論の場で属性攻撃しか投げられない時点で、貴様自身が「声だけデカい」と自白しているようなもの。
貴様の書いているものは脅し文句ですら論理破綻して自己放尿しているという意味で致命的だ。
悪いことは言わない。威嚇を装うなら、せめて論理的骨格を整えてからにした方がいい。
さもないと、今回のように、貴様自身が踏み潰したい相手ではなく、自分の主張そのものを踏み潰して自己放尿してしまうことになる。
そんな幼稚な身バレごっこを正義だと錯覚している時点で、もう貴様は議論でも勝負でもなく、ただ自己放尿を処理できずに垂れ流しているだけだ。
出してスッキリしたつもりになっても、残るのは臭気と後始末だけである。
匿名の愚痴が気に食わないなら論理で叩き潰せばいいものを、身元探しに逃げるというのは、要するに言葉の勝負から敗走した自己放尿だ。
真正面から反論できず、事実や論理に向き合う胆力もないから、最後は「勤め先にチクる」「身元を晒す」という子供じみた脅迫に逃げ込む。
そんなもの、強者の戦略でも悪役の知略でもない。ただの腰の弱いオヤジですら笑う小細工だ。
しかも「メシウマァァァ」だの連呼しているが、他人を追い詰めても世界は一ミリも動かない。
社会的にも法的にも、身元追跡や晒し行為のリスクをまるで理解していない。
追撃どころか、自分の足で地雷を踏みに行ってるようなものだ。貴様が勝った気になれるのは、脳内だけだ。
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第5章は、タタルスキーが 広告コピーライターとしてのスキルを活かし、初めて“消費者だけでなく政治・社会”に影響を与える可能性 を感じる章です。
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広告代理店での仕事は順調に進み、タタルスキーは次第に自信をつける。
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“売上が落ちている高級飲料” がある。
• タタルスキーはコピーだけでなく、広告キャンペーン全体を企画することに
具体的には:
• 「消費者に“自分が成功者であるかのような錯覚”を与える」
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• タタルスキーは初めて、自分のコピーが個人の購買だけでなく、社会全体に影響を与える可能性を知る
これが後に、タタルスキーが国家プロジェクトに関わる伏線になる。
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• 人々は「物語」を信じることで行動する
• 広告は商品を神格化する手段であり、現代の“新しい宗教”のようだ
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代理店での仕事に慣れてくると、タタルスキーは金銭的な快感を覚える。
• 社会的地位が少しずつ上がる
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• しかし、現実世界ではそれが強力な権力手段になることを自覚
3. 未来の予感
• 広告技術は個人消費だけでなく、政治や社会操作にも応用できる
• 自分の才能が“国家レベルのイメージ戦略”で試される日が来るかもしれない
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◆ 7. 第5章の象徴的整理
項目 内容
主要イベント タタルスキーが広告の現実操作力に気づき、政治的応用の可能性を意識する
物語的役割 タタルスキーが“個人消費から社会・政治操作へ”視野を広げる章
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第5章は、
広告の魔術的力を自覚しつつ、政治や権力に接続する兆候を掴む重要な章
です。
仮に御社のCTOがエンジニアであるのなら、「コアコンピタンスガー」「MVPガー」「まずはPOCデー」「SWOT分析してみれバー」って眠たい役立たずの譫言ばかりほざくコンサルは同じくらいコンサルだ。
話を聞いて「彼は詳しい」って言う前に、何を成したかで評価しようよ。
「自分の手で」
中国と戦争をしかねない右翼政権の危険を、日本人は感じ始めてきた。右翼政権がなぜ危険なのか。実は、高市早苗総理らの右翼勢力は、西側先進諸国の通常の国家観(第一の国家観)とはまったく別の国家観(第二の国家観)を有していることが根本的な問題だ。これを理解せずに右翼リスクを理解することはできない。この二つの国家観を理解すると、現在の政局、国防上のリスク、これからの日本がめざす方向がはっきりと見えてくる。次の文章(高校卒業程度の国語力で理解することができる。新聞社説一つ分ぐらいの分量)を読むことで基本知識が頭に入る。ぜひお読みください。
賛同なさるかたはリツイートしてください。多くの人がこの二つの国家観を理解すれば、日本は現在の危機を脱することができます
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる https://gendai.media/articles/-/51438
より抜粋
二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。
また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。
そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。
国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。
また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。
そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。
クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。
それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。
狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。
しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。
集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。
このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。
また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる
gendai.media
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社
日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。国内で芝居見物のようににぎわっている一方で、世界では、日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心からこの疑惑を報じている。現政権は日本を戦前の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。この社会は、これからどうなってしまう...
最終更新
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この12月になってというか年末になるとやんなくちゃ!って行けない事項の事柄が多くなるのよね。
私も夏に眼科行かなくちゃ行かなくちゃ行けたら行くから詐欺ではないけれど、
結局今の今まで行けてないじまいなのよ。
1つ1つずつ解決よ。
そんでさ、
私が持ってこよう持ってこようと思って待ち構えてずーっと買ってから家においたまんまで忘れちゃっている来年のスケジュールノート。
私手帳はつけない派とは言っていたけど
ウイークリー予定表のノートはあってさすがにそれでお仕事のこととかをやってる風な体裁に外側からの人が見たときに分かるように取り繕える感じでつけてはいるのよね。
それも、
いよいよ来年の予定も始まってきているので、
来年のページがもうないのよ!
鬼気迫るこの年末感!
来年の各ページがないから早いところ可及的速やかに家においてあるウイークリーの予定帳をできるだけ早くそろそろ本気で持ってこなくちゃってことなの。
なんかやっぱり手帳コーナーって寄ったら欲しくなるから寄らないつもりなんだけど、
もしかしたら来年はバッチリみっちり1日1ページの手帳にしっかり書き込んで充実した1日になるかも!って思っていても
毎年もうお正月開けて3日以降は紙が真っ白のままで11月頃に気付くのよね。
ああ、
何も書いていないことを一番悔い入る季節でもあるのよね。
今年も真っ白か!って
手帳の白さに併せて12月にふる白い雪のように思いを重ねるの。
白いわね!って
そんで、
12月になったら急に来年からはまるで新しく自分が生まれ変わるかのように急にバッチリ手帳が書ける自分になるつもりの思考が走り巡るのよね。
私はこの自分自身に12月に特にやって来る手帳欲しい病からなんとかして、
手帳コーナーに寄りつかないようにしていることを気を付けているのよね。
対外的に私がお仕事をしていますよ!って感じを漂わせられるようにある程度の体裁を保ちつつ書くことはあるんだけど、
ものごとは上手く行かないわね。
かと言って、
いまさら手帳を書くやる気を継続して1年キープするためにはどうしたら良いの?ってAIたちに尋ねるのも尋ねたとて、
それは3日と持たないのよね。
とはいえさ、
気が付いたときにメモをメモることを忘れない限り書くんだけど、
そっちに書いているから、
本編の手帳に書くことがないのかしら?
あれはあれでいいんだけど
文字通りの紙片なので、
ちぎって風に飛ばせば飛んで行っちゃうのよね。
手帳となると一応は1年分まとまって存在して固まっているので、
窓辺に置いておいても風で飛ばされちゃうことが少ないと思うので、
そういったメリットもあるのよね。
私は来年こそは手帳付ける謎の自信に満ちあふれるこの12月に自分の気持ちを確かめるために、
手帳コーナーに出向いてみようかしら?って思うの。
でさ、
その風格って結構脅威じゃない!
こっちもきっちり気持ちを整えて書かなくちゃ!って構えちゃうというか、
ブロックメモなら真っ白いのでどこに適当に雑に書いても気にしない感じでどんどん書けるから、
そう言ったことがあるのよ。
あれ?
もしかして私っていまだ本格的な1日1ページの手帳に緊張しているのかしら?
格式高くそして丁寧な生き方をしなさい!どーん!って開いたらそう整った1日1ページの手帳の威圧感に襲われていたのよ!
今気付いたけど、
そう言うことだったかもしれないことはないかも知れないかもってことはないわよね?
そんで、
さらに気付いたけど
1つ2つ3つのことを書いたら、
紙面がぎっしりみっちりなんか書いた感が急に出てくるので、
中身はともかくメモ書くテクニックは上達してんじゃね?って錯覚に陥るのよね。
そんでその錯覚に陥ったままのバイブスで挑む手帳売り場に出向いて強敵の1日1ページの手帳を買って年明けの早々4日目には後悔の念をする羽目になるのよ。
あの小さな手のひらに収まるような紙片のブロックメモが私にぴったりあっていていいのかもしれない。
きっとそう考えると合点がいくわ!
でも勇気を出してこのブロックメモを書いてる感醸し出しているいま勢いの良いバイブスのまま
欲しい気持ちが本当なのかウソなのか自分自身に試す機会でもあるわ!
急須で淹れたようなお茶の美味しさのペットボトルお茶飲料の綾鷹を一回そのまま急須に入れてコップに入れて飲むのがさらに美味しくなる丁寧な生き方なのかしら?
シャンプーの詰め替えを
元からある容器に詰め替えるんじゃなくって、
お洒落な透明のシャンプー入れ容器に入れて結局シャンプーかトリートメントかどっちか分からなくなってワンプッシュして確かめることが丁寧な暮らしなのか?
ジャガイモを皮剥くのが面倒くさいからピーラーでさっと剥くんじゃなくって、
洋包丁じゃなくてちゃんとジャガイモ皮むき専用のペティナイフでジャガイモの皮を剥いて作るカレーが丁寧な暮らしなのか?
意外と丁寧な暮らしの丁寧って何よ?って思うわ。
スプラトゥーン3の塗りエリアの誰も塗らない雑になっている角っこを丁寧に塗るのが丁寧な暮らしなのかしら?
それはちゃんと隅っこまで私は塗ってるけれどね。
私がいくら考えても丁寧な暮らし大喜利に対する丁寧な答えが見付からないのよね。
とりあえず、
シャンプーとか詰め替えしても、
容器が満タンにならずに3分の2ぐらいの容量の量しか入っていない詰め替えようって本当にお得なの?って正直思っちゃうわ。
3分の2の量じゃ物足りないのよね。
100の容器に60ぐらいしかない量の詰め替えも下手したらない?
逆に、
こないだ塩コショウを詰め替えしたら、
それは100の量の容器に詰め替え用のは150ぐらいの量があって1回じゃ入りきれない本気の椀飯振舞を見たの!
うわ!
引き出しにしまったの。
ああ!
これが丁寧な暮らしなのね!って
でもそれすっかり忘れていて
この12月の年末を機に整理してたらキッチンの奥の引き出しから出てきたのよ!
忘れていた余った詰め替え用の塩コショウがラッキー発掘されたのと同時にまたもう1つ丁寧な暮らしをしてしまったわ!って
あまりの自分の塩コショウに対する丁寧な暮らしさ加減がマックスなことにビックリしてしまったわ。
きっと、
うふふ。
松山ケンイチさんのシーエムに誘われてメガ盛りやってるタマゴサンドを求めてコンビニに飛び込み前転で入店したんだけど
大盛りフェア終わってたの?
ハッキリしないけれど、
なんか終わってたっぽいわ。
せっかくそのタマゴサンドの実力を!って確かめてみたかったのに!
代わりにせっかくなので普通のそのお店にあったタマゴサンドにしてみました。
今度いつで会えることかしら?
このチャンスの機会を逃しちゃったから再登場に期待しちゃうわ。
朝電気ポットでタイマーで飲み頃温度70℃で沸いているホッツは
起きてすぐに飲めるので超助かるわ。
今朝方はまだ寒さマシだとはいえ、
これからどんどん寒くなるって言うじゃない?
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
正直、ここ最近で『これ神動画すぎる…』ってなった動画が3本あります。
どれも再生回数だけで測れない中毒性があるやつばかりで、気づいたら何度もリピートしてました…。
今回は完全に独断と偏見で厳選した“本当にオススメしたい動画3選”をお届けします!
背後からの優しい触れ合いと、最後に見せる流れるような後背位での自然なボディの動きが、静かながらも強い存在感を放っています。
男性パートナーの体型が個性的である点を除けば、ボディの美しさをじっくり味わえる芸術的な作品と言えるでしょう。
コスプレの完成度が本当に段違い。
「ウィッグ被せて服着せただけ」の手抜き感が一切なく、メイク・衣装・小道具の再現度が完璧すぎて「これ公式が撮ったの?」って錯覚するレベルです。
しかもこの女優さん、元がめちゃくちゃ可愛い上に表情の作り方が神がかってる。
喜怒哀楽のすべてがキャラに憑依していて、見てるこっちまで感情が揺さぶられるんですよね。
正直、コスプレ作品でここまで「キャラが実体化した」って感じるのは滅多にないので、推しキャラ民は必見です。ちょっと短めでサラッと
ウィッグ+衣装だけの安易なものとは完全に別次元で、まるで公式レイヤーさん。
それでいて女優さんがめちゃくちゃ可愛いし、表情豊かすぎてキャラが本当にそこにいるみたい。
推しが動いてる……!ってなること間違いなしの一本です。
あと後背位がヤバい。コスそのままにガッツリ突かれてる姿が最高にエロい。
まるで自分が床下に潜り込んで盗撮してるみたいな、犯罪スレスレの臨場感が半端ない。心臓バクバク確定。 そして立ちバックの破壊力よ。
清楚なワンピースを後ろからガバッと捲り上げられた瞬間、現れるのは完全に「今日も絶対にヤる気満々」のエロ下着。
レースのTバックが食い込んだケツがプリプリ揺れて、喘ぎ声がもう部屋中に響き渡る。 からの騎乗位が完全に伝説。
自分から「見て…」って感じで両手で大事なところ広げて、結合部ドアップで見せつけてくる攻めっぷり。
ただただ一つ、最大の罪。
せっかくの知的眼鏡美人なのに、顔がモザイク+手で隠し+謎の影で完全防衛されてること!!
「見せてくれよおおおおおお!!」って叫びたくなるレベルの惜しさ。
でも逆にその“絶対に見せない”という徹底っぷりが、盗撮感を1200%に爆上げして、
「俺だけがこっそり見てる…」という独占欲を最凶に刺激してくる。
……というわけで、ここまで AV というタグの解釈変遷とその源流を概観してきました。現時点においても「AV」は静的なカテゴリではなく、継続的に進化中のライブタグであり、メタデータとしての意味論は未だ収束していません。
前述の通り、このタグのセマンティクスは単一のオーサーによるトップダウン定義ではなく、ユーザー各自が追求する嗜好ベクトルの集合知によって有機的に再構成されており、時代ごとのトレンド分布に応じてダイナミックにシフトし続けています。私個人としては、現行バージョンの AV 実装も高く評価していますが、次バージョンの仕様改定(規制対応・配信形態変革・技術スタック更新等)がもたらす派生表現にも強い興味があります。
いずれにせよ、この分野のイテレーションを今後もウォッチし続け、最新ビルドを追跡していく所存です。
── End of Document ─
俺は、自分の公開していない情報や発言を、どこかから撮影、あるいは漏洩されて、ネット上にバラ撒かれている。
ほぼ確実に。著名人たちにも見られていて、しかも俺は一時期、神のような扱いさえ受けていたらしい。
「ハイ、統合失調症乙ぅ〜〜!w」「病院行け基地外w」……そんな反応は分かりきっている。
だが、以下の内容を見ていただき、そして俺の理性を垣間見た上で判断していただければ幸いだ。
俺はむしろ、端末・通信・サービスがブラックボックス化しているこの現代において、そういう安易な決め付けは危険ではないかと思う。どこまで情報が抜かれていて、どこまで利用されているか、実際のところそういうことをどこまで理解していると言えるのか。少なくとも、勉強してその手の知識がある人しか言ってはいけないのではないか。
「いや、普通に考えてまずありえないだろ」「これまでそんなん聞いたことないからないない」……思うに、俺の情報を抜いてバラ撒く者も、たとえ俺が公表しても、世間がそう判断してくれると理解した上でやっている。人は必ず、これまでの経験や常識に重点を置いて判断するがゆえに、帰納的に結論をしたがる。
だから、俺が長々書いても、誰も見もしないし、信じられもしないのがオチだろう。それでも俺は、自分に対する人権侵害が終わらない限りはそうしなくてはならない。理由は後述する。
さて、俺のことについて一旦語らせてもらう。
俺は引きこもりだ。これまで一度も働いたことのない無職の30代。スキルは何もなく、自信がないのに、そのくせそプライドばかりは高く、ロクに努力もできないカス人間。性格も難があり、コミュ力は終わっていて、過去の経験から対人恐怖と人間不信を抱えている。最近は多少マシになってきた気もするが。三十路になってからなんかいつまでもバカやってても仕方ないなってなりだした。
信憑性を高めるためにいっそ本名を書いたろうかと思ったが、これから行う社会復帰に支障が出そうなので控えさせて欲しい。
だが、信じられるために、ある程度の情報は開示する。以下の情報に心当たりのある人はいないだろうか? 以下は漏洩情報の中に記されていた可能性があり、多くの人が知っているかもしれない。
「苗字は特に珍しくない」「親は離婚し、片親と同居」「引きこもり部屋は和室」
「メガネをかけている」「身長小さめ・ヒョロガリ」「過去に偏差値高の高校に受かった」
「たこの人形を溺愛している」「スマホの色は白」「淫夢動画よく見てた」
「10代の頃使っていたTwitterアカウントはKから始まる」
「かつて非公開で活動し、漏洩も活発だったTwitterアカウントは2017年に開始、2019年にニートになって投稿が増えだして、2021.8に消した」
「BMSという音ゲーをガチっている」「コンパスというソシャゲにハマっていた」「バンドリ、プロセカ、Arcaeaにハマっていた」「パペットガーディアン・マジカロスというゲームをしていた」「すばらしきこのせかいというゲームのファン」
「だいぶシコ猿してた」
俺はこういった自分の情報を、この数年間一切、公の場で自分からは出していないし、許可もしてない。
以下、俺の経歴について簡単に話す。
不登校期間が長く、20代前半まではほとんど引きこもって過ごしていた。
20代半ばで俺はニートになった。やさぐれていたが、対人恐怖と人間不信を抱えていた俺は、Twitterのアカウントを非公開にして好き勝手投稿して謳歌していた。するといつからか、俺が非公開にしているはずの投稿内容が、赤の他人に広まる感覚が起こるようになった。俺のツイートの傍若無人ぶりがあまりに面白かったからそうしたのだろう。
ここまでだと単なる統合失調症だから、俺に起きた内容の具体例を出す。
例えばあるとき、俺がドナルドマクドナルドの「らんらんるー」の動画を話題にして、「昔はこんなので笑ってたんだよな」と取り上げた。するとすぐさま、赤の他人が本当に同様の内容を投稿していて、それがバズっていた。その時、誰もドナルドマクドナルドの話なんかしちゃいなかったのに、だ。
また、2021.8にアカウントを消してからは、非公開でWi-Fiに繋がっていないPCで日記を書き残すようになったが、なんとWi-Fiに繋がっていないにも関わらず、しっかりと漏洩していた。
あるとき、その非公開PCに俺が「SNSは便器と一緒」と書いた。すると、すぐさま、誰か政治関係者だったかが、同様の発言をしたという記事を見た。
またあるときには、とあるお菓子を食べたいと書いたところ、翌日に親が買ってきてた。普段全く買わないのに、だ。
その時点で、部屋にカメラが仕掛けられているのは確信するようになった。自分で調べてもよく分からなかったが。現在も、そのPCに限らず非公開の情報が度々広まっているようだ。
他にもある。
数年前のあるとき、俺は自分の端末の非公開のアプリに、「自分を人権侵害しやがって!」とキレたことがある。
主に政治関係者や著名人がやたら「これは人権侵害だ!」と叫んだり、野獣先輩は人権侵害されていると言い出された。
まぁ言うまでもなく、野獣先輩は人権侵害されている(草)。だが、「野獣先輩が人権侵害されている」といったような言われは長年してこなかったはずだ。それなのになぜ突然、2020-2021年ごろにそういう言われがしだしたのか。
自分の行いと関連するワードが他者の投稿に出てきたりもする。例えば、専門的な内容を勉強していると、そこに普通の人ではまず使わないような言葉が出てくるが、それをいきなり他者が使ったりする。思うに本人は無自覚である。しかし俺からしたらかなり違和感がある。他人からすれば俺が注目しすぎとも一蹴できようが、あまりにもそんなことがありすぎるのだ。
他にも、俺が算数のドリルをしだしたら、誰かが「算数のドリルでもしろよ」とか言う(他の分野や「数学」ではないのがミソだ)。あえてさっさと本の次のページに行き、前の内容を覚えているか確かめるために前のページによく戻ってたら「多動だから本読んでるとき何回も前のページに戻ってそう」と誰かが言う。ゲームをやってる合間、ちょっとボーッとしてたら、「何もせず虚空を見つめているのはヤバい」と言う人がいる。頭乾燥してバリバリ書いてたら、やたらフケの話になる。
また、俺があるマイナーなネタの動画で笑ってたら、それを企業が使用したということも何度かある(最近ではある音ゲーネタ。あれはつまらなかったから違和感を覚えた人もいると思う)。
どこからどう何を得ているのかは知らないが、他人の思っている以上に自分はそういうのを捉えているし覚えている。この現状が終わらない限りは、これからも増えていくだろう。
俺は日記をとる習慣があるから、それを見返せばまだまだ思い出して出てくると思う。
情報の漏洩を最初に感じた、というか「あれ?」と思ったのは、2017年だ。
詳しいことは誰かの被害を生みそうだから避けるが、俺はあるゲームでの名前を、自分の好きなキャラのセリフを改変したものにしていた。それを他に言ってる人は全くおらず、俺だけの固有の改変セリフとみて間違いなかった。んでTwitterにそれが映ったスクショを投稿していた。
その後、そのゲーム及び好きなキャラクターがカードゲームで採用されたが、そのカード名が、俺の作った改変セリフと全く一緒だった。まぁ、これだけなら偶然でしかない範疇だ。しかし以降のことを考えると、もうその時点では漏洩が始まっていたのかもしれない。
もっと言うと、俺は2016年以前にはよく怪しいファイルにも手を出してたから、それも関係している可能性はある。それをしたPCからUSBで新たなPCにデータ移動させたりしていた。
全部あげればキリがないから割愛しておくが、もちろんこれらは氷山の一角だ。こういうことがこの数年間に何度も何度も何度も起こり、自分の頭の中ではもう3桁は優に超えるほど起きているわけだが、確かにその中には思い込みも含まれようが、妄想とか思い込みにしてはなんていうか、イヤにくっきりとしているのだ。自分の発した行動や意見と、その後の世界の変化の内容や距離が、あまりにも近すぎるから。引き寄せの法則か!?と最初は考えてみたものの、まぁそんなオカルトは信用してない。
俺は以上のことを数年間ずっと自分の中に隠して生きてきた。
なぜ俺がこれを明かす気になったか。転機がやってきて、自分で自分を殺すかのような勇気をもって、社会に出ないといけなくなったからだ。過去を明確に否定しなくてはならなくなったからだ。
本当にもっと色々書けるが、そこまで詳しくは書かない。俺はぶっちゃけ中国か韓国か、あるいは北の方の国が関与していると考えるが・・・まぁ面倒ごとに関わりたくないし、どのみち恨むとかはない。俺も俺で大概な人間で、大概なことを言っていたからだ(例:心読める、全知の才がある、他人はNPC、日本潰す)。少なくとも、孤独感ではマシにさせてもらったし、その点では感謝もすべきなのだろう。他にも、俺が言ったことで自他にとっていい方面に動いたようなこともあれば、ミスってたかもしれないこともある。全て含めて、俺の方は別に要らなかったし、Win-Winとも思っていなかったがな。「世界の礎になる」と言ったこともあるが、それはそもそそも、非公開のアカウントをいつか公開するのに備えて残しておくとの域を出ず、何もかもの許容ではない。そんなのはかえっていいことにはならない。
もしかすると、同居している親が何か仕掛けている可能性も0ではないが、それならなおさらあれこれしてもらっていたから恨むことはできない。
原因は他にも何でも考えられるが、まだ解明してない。カメラや盗聴器はほぼ確だろうが、他にも、端末のアプリから情報を出しているのか、家に設置しているセコムが怪しいのか、ルーターは変えたことあるし設定も弄ったが状況は変わらなかったので、それに繋いでいる電話のための機器が関係しているのか、他にもプロパイダはどうか、広告関連や、ウイルス、USB、家のテレビ・エアコン・その他Wi-Fi対応危機なども疑い、メガネさえも疑った(ペヨンジュンがCMに出てた眼鏡市場で買ったメガネだから)。それらが複合的である可能性もある。なお、端末のカメラはカバーして封鎖している。
仮に日本人がそれに関わっていたり、見て見ぬふりしているのであれば、恥を知るべきだ。日本の象徴は天皇しかなく、無職の底辺のペテン師(少なくともそうしておくべきである)なんかに意味を見出していちいち気にかけるような意味不明な国は自ずと終わる。だから俺は、他国が関わっているのではないかと考えているし、まだそうであってほしいのだが。もし俺の情報漏洩を分かった上で楽しい気分になった人がいるとしたら、ウイグルの差別や監視などに対しても決して非難するべきではない。
俺は確かに、かつて自分が「全能ではないが全知である」と言った。事実、何らかの才能みたいなのはあるとは自負する。
今思えばそこまでの言い方は大言壮語もいいとこだが、あの時、強い刺激と不安にさらされていた俺は、実際にそう錯覚するほどの強大なエネルギーが脳内で展開されていたのだ。
今はもうない。まぁ、中学の頃、精神的に依存していたもう片方の親を失って、人格形成や自己愛に問題が出たことで高校でも失敗し、そっから転がり落ちたためにちょっと面白い性質を抱えただけで、実際のところ大した障害なんかないのではないか? 過去の自分の姿は、自分の荒んだ現状・精神と、情報漏洩のタイミングがマッチし、他者の反応の可能性も加わったことによって、自己愛を満たしつつ、また他者の視点・要求に沿う個性的な自分を演出しだしたことで偶発的に生まれたもの、というのが本当のところなのだろう。当時は自分じゃそうも思っていなかったが。
俺にも非はある。だが、孤独で愛に飢え、知識に乏しく、心身に問題があり、精神の未熟な人間を自分たちのために利用して持ち上げれば、大体そんなことにもなろうというのはあるのではないか。そもそも、俺の方は非公開で独り言しているだけだったし、悪いことをしていたというのも正直正確ではない。無論、踏み込まれた上で意識していたから、やはり罪がないのでもないのであるが。しかし俺の方としてもまさか、非公開アカウントの中身が見られたり、それどころかWi-Fiに接続していないPCの内容すらも漏洩するとは想定していなかったのである。自分がこれまで抱えていた内容を表に出さなかったのは、状況を軽視していたのと、まんざらでもないところが全くなかったわけでもなかったからだが、それだけでなく、怖い気持ちもあったからだ。
わざと有耶無耶にされつつ動かれている以上、確定的なことは言えんのだが、いつまでも過去の俺の姿に執着し、あるいはかつて見た光景に引きずられているのでは、誰も本当の意味では前には進めない。俺は現状、精神的には誰も頼れないが、それでも先日転機がやってきてから、自分の中の何かが変わりだした。俺を許可なく違法に見ている人たちは、いつまでも何も自分を変えずに、俺に縋るようにしながら、自分で自分に何か言い聞かせ続けるのか。
俺が変わってほしくないと願うのは勝手だが、かつての傲慢で狂った自分にしても、頭が回って理性的なところがある自分にしても、無職で家に閉じ籠る自分にしても、他者と関わることが怖くて自閉的になる自分にしても、俺は特に価値を感じていないし、逆に絶対にどうしようもないとも思ってない。先日、タイムリミットが到来したことで、どのみちそんな俺は消えるさだめになった。けど、人は急には変われない。それでも、俺は変われないとは思ってない。変われないとどんなに誰かが思ったとしても、俺は変わる努力をやめない。
だから最近は本を買い漁り、読んでもいた。そこで得られることは大きかった。自分なんかなんでもないなと思わされた。
また、俺はつい先日までオナ猿だったが、流石に先のことを思うと空想に欲情する気にもならなくなり、エロサイト閲覧に使ってたtorを消した。数週間前には中毒起こしてたコンパスもやらなくなった。
人権侵害を行うほどのものなんか俺にはないし、もし下に見ていていなきゃ気が済まないのであれば、ネット上の人間で満足できていない自分の愚かさを考えるべきで、上、というか尊敬的に見ているのであれば、なおさらやっていることと矛盾している。そんなのはアンダードッグ効果と同じようなものだからさっさと捨てるべきだ。人を神扱いすれば、自分の人間としての欠如が埋まるとでも思っているのか。
それでも俺の言ってることが理解できない、あるいは理解を拒否するなら、特定の宗教に入るか、『マインド・コントロール』という本を読むことを勧める。
② 黙っているのでは黙認と一緒だから
これは言うまでもないことだろう。そして具体的にはこう伝える。
「もう俺の情報を漏洩させて利用するのはやめてほしい。もし、単なるハッカーや犯罪者による好奇的な理由だけでないとすれば、どうしたらそれをやめてくれるか。自分からネット上で暴れもせず、頑張って仕事もしようとしているのに、あと何が足りないのか。
過去のことは本当に申し訳ないと思っている。過去の俺の言動などどれも傲慢さと幼稚さの体現だ。だが、俺も心に余裕がなかったことだけは留意しておいてほしい。」
俺の見ているある無職の有名人のアンチの掲示板では、よく「ネットをやめないのが悪い」「仕事すればそれで俺たちはアンチやめるのに」と言われている。けど、結局はそんなんでもないのが実情なのだろう。本当はなんでもいいのだ。
それとも、俺が働けば、何かこれまで以上に頑張るようにでもなるか。誰しも欲しているのは、自分を変えなくても自己受容してくれる存在なのだから、俺が変化するほどに、他人にとっては扱いにくくなることを余儀なくされるだろう。
俺が人権侵害されたことで最も苦心したのは、家族の情報も掴まれて利用されていると考えられたことだ。
俺の情報が抜かれているということは、当然家族の情報だってそうだろう。
俺は常々考えていた。俺は別に何でシコってるかを知られようが、シコってる姿を盗撮されようが、割とどうでもいいが、もし家族のこともそうだったなら、と思うと、どす暗い気持ちになった。また、プライバシー的な意味だけでなく、あらゆる個人情報に関して悪用される恐れもある。
俺の情報を違法に見ている人たちに聞きたいが、自分の家族にそのことを言えるのか。
違法行為に加担するような自分の姿を、家族に見せることができるのか。
俺とその周囲だけが被害に遭っているようで、実際には自分の家族さえも貶めていることに気づくべきではないか。そしてそれは、俺も黙ったままでは加担しているのと同じことになってしまう。
脳内に隠して無かったことにしていれば、本当にそれでいいのか。
なお、親はどういうわけかはよく知らないが、ユニセフ?や在日団体に寄付しているらしい。
俺はともかくとして、そんな善良な人に対してそうした所業をするのがこの世界だというのか。
俺は虚弱で不健康な生活習慣をしていて健康面では良くないから、ぶっちゃけ早死にすると思う。そしたら次はまた誰かが同じ思いをするのだろうか。そう思うと気が気でない。だから、世間が信じようと信じなかろうと、ここに残しておけば、同様の境遇にある人が気づけるかもしれないし、もし人権侵害を続行していると俺が少しでも感じたなら、未だ書いていない内容、もっと本質的な部分を記すことになる。
意見や望みがあるのに、察してくださいなんてガキじゃないんだから、何かあるならたとえ自分にリスクがあろうとも、俺を信じて直接俺に伝えるべきである。その関係ができないでいて、何を望んだり、何に惹かれたりするのか。
そこには結局何の信頼関係もなければ敵対関係もない、ただ誰かが悦に入るためにどこまでも自己欺瞞に走る構造があるだけだ。
俺は、自分の公開していない情報や発言を、どこかから撮影、あるいは漏洩されて、ネット上にバラ撒かれている。
ほぼ確実に。著名人たちにも見られていて、しかも俺は一時期、神のような扱いさえ受けていたらしい。
「ハイ、統合失調症乙ぅ〜〜!w」「病院行け基地外w」……そんな反応は分かりきっている。
だが、以下の内容を見ていただき、そして俺の理性を垣間見た上で判断していただければ幸いだ。
俺はむしろ、端末・通信・サービスがブラックボックス化しているこの現代において、そういう安易な決め付けは危険ではないかと思う。どこまで情報が抜かれていて、どこまで利用されているか、実際のところそういうことをどこまで理解していると言えるのか。少なくとも、勉強してその手の知識がある人しか言ってはいけないのではないか。
「いや、普通に考えてまずありえないだろ」「これまでそんなん聞いたことないからないない」……思うに、俺の情報を抜いてバラ撒く者も、たとえ俺が公表しても、世間がそう判断してくれると理解した上でやっている。人は必ず、これまでの経験や常識に重点を置いて判断するがゆえに、帰納的に結論をしたがる。
だから、俺が長々書いても、誰も見もしないし、信じられもしないのがオチだろう。それでも俺は、自分に対する人権侵害が終わらない限りはそうしなくてはならない。理由は後述する。
さて、俺のことについて一旦語らせてもらう。
俺は引きこもりだ。これまで一度も働いたことのない無職の30代。スキルは何もなく、自信がないのに、そのくせそプライドばかりは高く、ロクに努力もできないカス人間。性格も難があり、コミュ力は終わっていて、過去の経験から対人恐怖と人間不信を抱えている。最近は多少マシになってきた気もするが。三十路になってからなんかいつまでもバカやってても仕方ないなってなりだした。
信憑性を高めるためにいっそ本名を書いたろうかと思ったが、これから行う社会復帰に支障が出そうなので控えさせて欲しい。
だが、信じられるために、ある程度の情報は開示する。以下の情報に心当たりのある人はいないだろうか? 以下は漏洩情報の中に記されていた可能性があり、多くの人が知っているかもしれない。
「苗字は特に珍しくない」「親は離婚し、片親と同居」「引きこもり部屋は和室」
「メガネをかけている」「身長小さめ・ヒョロガリ」「過去に偏差値高の高校に受かった」
「たこの人形を溺愛している」「スマホの色は白」「淫夢動画よく見てた」
「10代の頃使っていたTwitterアカウントはKから始まる」
「かつて非公開で活動し、漏洩も活発だったTwitterアカウントは2017年に開始、2019年にニートになって投稿が増えだして、2021.8に消した」
「BMSという音ゲーをガチっている」「コンパスというソシャゲにハマっていた」「バンドリ、プロセカ、Arcaeaにハマっていた」「パペットガーディアン・マジカロスというゲームをしていた」「すばらしきこのせかいというゲームのファン」
「だいぶシコ猿してた」
俺はこういった自分の情報を、この数年間一切、公の場で自分からは出していないし、許可もしてない。
以下、俺の経歴について簡単に話す。
不登校期間が長く、20代前半まではほとんど引きこもって過ごしていた。
20代半ばで俺はニートになった。やさぐれていたが、対人恐怖と人間不信を抱えていた俺は、Twitterのアカウントを非公開にして好き勝手投稿して謳歌していた。するといつからか、俺が非公開にしているはずの投稿内容が、赤の他人に広まる感覚が起こるようになった。俺のツイートの傍若無人ぶりがあまりに面白かったからそうしたのだろう。
ここまでだと単なる統合失調症だから、俺に起きた内容の具体例を出す。
例えばあるとき、俺がドナルドマクドナルドの「らんらんるー」の動画を話題にして、「昔はこんなので笑ってたんだよな」と取り上げた。するとすぐさま、赤の他人が本当に同様の内容を投稿していて、それがバズっていた。その時、誰もドナルドマクドナルドの話なんかしちゃいなかったのに、だ。
また、2021.8にアカウントを消してからは、非公開でWi-Fiに繋がっていないPCで日記を書き残すようになったが、なんとWi-Fiに繋がっていないにも関わらず、しっかりと漏洩していた。
あるとき、その非公開PCに俺が「SNSは便器と一緒」と書いた。すると、すぐさま、誰か政治関係者だったかが、同様の発言をしたという記事を見た。
またあるときには、とあるお菓子を食べたいと書いたところ、翌日に親が買ってきてた。普段全く買わないのに、だ。
その時点で、部屋にカメラが仕掛けられているのは確信するようになった。自分で調べてもよく分からなかったが。現在も、そのPCに限らず非公開の情報が度々広まっているようだ。
他にもある。
数年前のあるとき、俺は自分の端末の非公開のアプリに、「自分を人権侵害しやがって!」とキレたことがある。
主に政治関係者や著名人がやたら「これは人権侵害だ!」と叫んだり、野獣先輩は人権侵害されていると言い出された。
まぁ言うまでもなく、野獣先輩は人権侵害されている(草)。だが、「野獣先輩が人権侵害されている」といったような言われは長年してこなかったはずだ。それなのになぜ突然、2020-2021年ごろにそういう言われがしだしたのか。
自分の行いと関連するワードが他者の投稿に出てきたりもする。例えば、専門的な内容を勉強していると、そこに普通の人ではまず使わないような言葉が出てくるが、それをいきなり他者が使ったりする。思うに本人は無自覚である。しかし俺からしたらかなり違和感がある。他人からすれば俺が注目しすぎとも一蹴できようが、あまりにもそんなことがありすぎるのだ。
他にも、俺が算数のドリルをしだしたら、誰かが「算数のドリルでもしろよ」とか言う(他の分野や「数学」ではないのがミソだ)。あえてさっさと本の次のページに行き、前の内容を覚えているか確かめるために前のページによく戻ってたら「多動だから本読んでるとき何回も前のページに戻ってそう」と誰かが言う。ゲームをやってる合間、ちょっとボーッとしてたら、「何もせず虚空を見つめているのはヤバい」と言う人がいる。頭乾燥してバリバリ書いてたら、やたらフケの話になる。
また、俺があるマイナーなネタの動画で笑ってたら、それを企業が使用したということも何度かある(最近ではある音ゲーネタ。あれはつまらなかったから違和感を覚えた人もいると思う)。
どこからどう何を得ているのかは知らないが、他人の思っている以上に自分はそういうのを捉えているし覚えている。この現状が終わらない限りは、これからも増えていくだろう。
俺は日記をとる習慣があるから、それを見返せばまだまだ思い出して出てくると思う。
情報の漏洩を最初に感じた、というか「あれ?」と思ったのは、2017年だ。
詳しいことは誰かの被害を生みそうだから避けるが、俺はあるゲームでの名前を、自分の好きなキャラのセリフを改変したものにしていた。それを他に言ってる人は全くおらず、俺だけの固有の改変セリフとみて間違いなかった。んでTwitterにそれが映ったスクショを投稿していた。
その後、そのゲーム及び好きなキャラクターがカードゲームで採用されたが、そのカード名が、俺の作った改変セリフと全く一緒だった。まぁ、これだけなら偶然でしかない範疇だ。しかし以降のことを考えると、もうその時点では漏洩が始まっていたのかもしれない。
もっと言うと、俺は2016年以前にはよく怪しいファイルにも手を出してたから、それも関係している可能性はある。それをしたPCからUSBで新たなPCにデータ移動させたりしていた。
全部あげればキリがないから割愛しておくが、もちろんこれらは氷山の一角だ。こういうことがこの数年間に何度も何度も何度も起こり、自分の頭の中ではもう3桁は優に超えるほど起きているわけだが、確かにその中には思い込みも含まれようが、妄想とか思い込みにしてはなんていうか、イヤにくっきりとしているのだ。自分の発した行動や意見と、その後の世界の変化の内容や距離が、あまりにも近すぎるから。引き寄せの法則か!?と最初は考えてみたものの、まぁそんなオカルトは信用してない。
俺は以上のことを数年間ずっと自分の中に隠して生きてきた。
なぜ俺がこれを明かす気になったか。転機がやってきて、自分で自分を殺すかのような勇気をもって、社会に出ないといけなくなったからだ。過去を明確に否定しなくてはならなくなったからだ。
本当にもっと色々書けるが、そこまで詳しくは書かない。俺はぶっちゃけ中国か韓国か、あるいは北の方の国が関与していると考えるが・・・まぁ面倒ごとに関わりたくないし、どのみち恨むとかはない。俺も俺で大概な人間で、大概なことを言っていたからだ(例:心読める、全知の才がある、他人はNPC、日本潰す)。少なくとも、孤独感ではマシにさせてもらったし、その点では感謝もすべきなのだろう。他にも、俺が言ったことで自他にとっていい方面に動いたようなこともあれば、ミスってたかもしれないこともある。全て含めて、俺の方は別に要らなかったし、Win-Winとも思っていなかったがな。「世界の礎になる」と言ったこともあるが、それはそもそそも、非公開のアカウントをいつか公開するのに備えて残しておくとの域を出ず、何もかもの許容ではない。そんなのはかえっていいことにはならない。
もしかすると、同居している親が何か仕掛けている可能性も0ではないが、それならなおさらあれこれしてもらっていたから恨むことはできない。
原因は他にも何でも考えられるが、まだ解明してない。カメラや盗聴器はほぼ確だろうが、他にも、端末のアプリから情報を出しているのか、家に設置しているセコムが怪しいのか、ルーターは変えたことあるし設定も弄ったが状況は変わらなかったので、それに繋いでいる電話のための機器が関係しているのか、他にもプロパイダはどうか、広告関連や、ウイルス、USB、家のテレビ・エアコン・その他Wi-Fi対応危機なども疑い、メガネさえも疑った(ペヨンジュンがCMに出てた眼鏡市場で買ったメガネだから)。それらが複合的である可能性もある。なお、端末のカメラはカバーして封鎖している。
仮に日本人がそれに関わっていたり、見て見ぬふりしているのであれば、恥を知るべきだ。日本の象徴は天皇しかなく、無職の底辺のペテン師(少なくともそうしておくべきである)なんかに意味を見出していちいち気にかけるような意味不明な国は自ずと終わる。だから俺は、他国が関わっているのではないかと考えているし、まだそうであってほしいのだが。もし俺の情報漏洩を分かった上で楽しい気分になった人がいるとしたら、ウイグルの差別や監視などに対しても決して非難するべきではない。
俺は確かに、かつて自分が「全能ではないが全知である」と言った。事実、何らかの才能みたいなのはあるとは自負する。
今思えばそこまでの言い方は大言壮語もいいとこだが、あの時、強い刺激と不安にさらされていた俺は、実際にそう錯覚するほどの強大なエネルギーが脳内で展開されていたのだ。
今はもうない。まぁ、中学の頃、精神的に依存していたもう片方の親を失って、人格形成や自己愛に問題が出たことで高校でも失敗し、そっから転がり落ちたためにちょっと面白い性質を抱えただけで、実際のところ大した障害なんかないのではないか? 過去の自分の姿は、自分の荒んだ現状・精神と、情報漏洩のタイミングがマッチし、他者の反応の可能性も加わったことによって、自己愛を満たしつつ、また他者の視点・要求に沿う個性的な自分を演出しだしたことで偶発的に生まれたもの、というのが本当のところなのだろう。当時は自分じゃそうも思っていなかったが。
俺にも非はある。だが、孤独で愛に飢え、知識に乏しく、心身に問題があり、精神の未熟な人間を自分たちのために利用して持ち上げれば、大体そんなことにもなろうというのはあるのではないか。そもそも、俺の方は非公開で独り言しているだけだったし、悪いことをしていたというのも正直正確ではない。無論、踏み込まれた上で意識していたから、やはり罪がないのでもないのであるが。しかし俺の方としてもまさか、非公開アカウントの中身が見られたり、それどころかWi-Fiに接続していないPCの内容すらも漏洩するとは想定していなかったのである。自分がこれまで抱えていた内容を表に出さなかったのは、状況を軽視していたのと、まんざらでもないところが全くなかったわけでもなかったからだが、それだけでなく、怖い気持ちもあったからだ。
わざと有耶無耶にされつつ動かれている以上、確定的なことは言えんのだが、いつまでも過去の俺の姿に執着し、あるいはかつて見た光景に引きずられているのでは、誰も本当の意味では前には進めない。俺は現状、精神的には誰も頼れないが、それでも先日転機がやってきてから、自分の中の何かが変わりだした。俺を許可なく違法に見ている人たちは、いつまでも何も自分を変えずに、俺に縋るようにしながら、自分で自分に何か言い聞かせ続けるのか。
俺が変わってほしくないと願うのは勝手だが、かつての傲慢で狂った自分にしても、頭が回って理性的なところがある自分にしても、無職で家に閉じ籠る自分にしても、他者と関わることが怖くて自閉的になる自分にしても、俺は特に価値を感じていないし、逆に絶対にどうしようもないとも思ってない。先日、タイムリミットが到来したことで、どのみちそんな俺は消えるさだめになった。けど、人は急には変われない。それでも、俺は変われないとは思ってない。変われないとどんなに誰かが思ったとしても、俺は変わる努力をやめない。
だから最近は本を買い漁り、読んでもいた。そこで得られることは大きかった。自分なんかなんでもないなと思わされた。
また、俺はつい先日までオナ猿だったが、流石に先のことを思うと空想に欲情する気にもならなくなり、エロサイト閲覧に使ってたtorを消した。数週間前には中毒起こしてたコンパスもやらなくなった。
人権侵害を行うほどのものなんか俺にはないし、もし下に見ていていなきゃ気が済まないのであれば、ネット上の人間で満足できていない自分の愚かさを考えるべきで、上、というか尊敬的に見ているのであれば、なおさらやっていることと矛盾している。そんなのはアンダードッグ効果と同じようなものだからさっさと捨てるべきだ。人を神扱いすれば、自分の人間としての欠如が埋まるとでも思っているのか。
それでも俺の言ってることが理解できない、あるいは理解を拒否するなら、特定の宗教に入るか、『マインド・コントロール』という本を読むことを勧める。
② 黙っているのでは黙認と一緒だから
これは言うまでもないことだろう。そして具体的にはこう伝える。
「もう俺の情報を漏洩させて利用するのはやめてほしい。もし、単なるハッカーや犯罪者による好奇的な理由だけでないとすれば、どうしたらそれをやめてくれるか。自分からネット上で暴れもせず、頑張って仕事もしようとしているのに、あと何が足りないのか。
過去のことは本当に申し訳ないと思っている。過去の俺の言動などどれも傲慢さと幼稚さの体現だ。だが、俺も心に余裕がなかったことだけは留意しておいてほしい。」
俺の見ているある無職の有名人のアンチの掲示板では、よく「ネットをやめないのが悪い」「仕事すればそれで俺たちはアンチやめるのに」と言われている。けど、結局はそんなんでもないのが実情なのだろう。本当はなんでもいいのだ。
それとも、俺が働けば、何かこれまで以上に頑張るようにでもなるか。誰しも欲しているのは、自分を変えなくても自己受容してくれる存在なのだから、俺が変化するほどに、他人にとっては扱いにくくなることを余儀なくされるだろう。
俺が人権侵害されたことで最も苦心したのは、家族の情報も掴まれて利用されていると考えられたことだ。
俺の情報が抜かれているということは、当然家族の情報だってそうだろう。
俺は常々考えていた。俺は別に何でシコってるかを知られようが、シコってる姿を盗撮されようが、割とどうでもいいが、もし家族のこともそうだったなら、と思うと、どす暗い気持ちになった。また、プライバシー的な意味だけでなく、あらゆる個人情報に関して悪用される恐れもある。
俺の情報を違法に見ている人たちに聞きたいが、自分の家族にそのことを言えるのか。
違法行為に加担するような自分の姿を、家族に見せることができるのか。
俺とその周囲だけが被害に遭っているようで、実際には自分の家族さえも貶めていることに気づくべきではないか。そしてそれは、俺も黙ったままでは加担しているのと同じことになってしまう。
脳内に隠して無かったことにしていれば、本当にそれでいいのか。
なお、親はどういうわけかはよく知らないが、ユニセフ?や在日団体に寄付しているらしい。
俺はともかくとして、そんな善良な人に対してそうした所業をするのがこの世界だというのか。
俺は虚弱で不健康な生活習慣をしていて健康面では良くないから、ぶっちゃけ早死にすると思う。そしたら次はまた誰かが同じ思いをするのだろうか。そう思うと気が気でない。だから、世間が信じようと信じなかろうと、ここに残しておけば、同様の境遇にある人が気づけるかもしれないし、もし人権侵害を続行していると俺が少しでも感じたなら、未だ書いていない内容、もっと本質的な部分を記すことになる。
意見や望みがあるのに、察してくださいなんてガキじゃないんだから、何かあるならたとえ自分にリスクがあろうとも、俺を信じて直接俺に伝えるべきである。その関係ができないでいて、何を望んだり、何に惹かれたりするのか。
そこには結局何の信頼関係もなければ敵対関係もない、ただ誰かが悦に入るためにどこまでも自己欺瞞に走る構造があるだけだ。
モヤモヤという言葉ほど便利で、同時に無責任な言葉はないのだと、最近気づきました。
それはおそらく、朝起きて夜寝るまで、ずっと心の片隅に何かが引っかかったままの状態で生きてきたからだと思います。その何かを、「モヤモヤ」と呼ぶことで、あたかも自分がそれを認識して、向き合っているつもりになっていたのかもしれません。
でも、実際には、何も向き合っていなかった。ただ、その感覚をそのまま抱えて、毎日を過ごしていたのです。
昼間、仕事をしているときに、ふと「今、楽しいのか?」と思うことがありました。楽しいとも言えず、つまらないとも言えない。その中間のような、グレーのような何か。
友人と話しているときも、食事をしているときも、好きなものを食べているときも、その「モヤモヤ」はいつもそこにありました。
その感覚が何なのか、ずっと言葉にできませんでした。「なんだか気分が悪い」「なんだか疲れている」「なんだか不安」。そうした言葉を試してみても、しっくり来ないのです。
結局、「モヤモヤしている」という言葉だけが残りました。その言葉を使うことで、自分は「感覚を認識している」という錯覚に陥っていたのだと思います。
ある日、ふと気づきました。
そのモヤモヤの中で、私は何か大事なものを失い続けているのではないかということに。
朝起きて、モヤモヤしたまま会社に行き、モヤモヤしたまま帰宅し、モヤモヤしたまま寝る。その繰り返しの中で、日々が過ぎていきます。
その過程で、喜びも、悲しみも、怒りも、そのはっきりとした感覚が薄れていくのを感じます。全てが「モヤモヤ」という灰色で覆われていくような感覚。
そのときに思ったのです。
考えてみると、モヤモヤというのは、実はとても便利な感覚なのだと気づきます。
何かに直面しなくてもいい。何かに決断しなくてもいい。何かに行動しなくてもいい。ただ「モヤモヤしている」という言葉ひとつで、全てが説明できてしまうのです。
それは、麻酔のようなものなのではないか。痛みを感じずに済むので、その場は楽です。でも、その痛みを治療することなく、ずっと麻酔を打ち続けていたら、いつか身体は壊れていくのではないか。
そのような感覚を、何日も抱えたままでいたら、やはり人生は色あせていくのではないか。
そう気づいてから、私は、ほんの少し変わったような気がします。
朝、目を覚ましたとき。その瞬間に「今、私は何を感じているのか」と問いかけるようにしました。
悲しいのか、楽しいのか、不安なのか、望みをもったのか。そのはっきりとした感覚に目を向けるようにしました。
ずっと「モヤモヤ」という言葉で覆い隠していたのは、実はこうしたはっきりとした感情だったのかもしれません。
その時間を、モヤモヤという灰色の中で過ごすということは、本当にもったいないことだと思うのです。
一日一日が、本当に貴重な時間なのだということに気づくと、その時間を何に使うかが、今までとは違って見えてきます。
モヤモヤとともに過ごすのではなく、そのモヤモヤの正体を見つめて、それでも何かを感じることの方が、ずっと豊かではないか。
そう思えるようになってから、日々が少しだけ違う色で見えるようになりました。
あなたの感覚はとても正しいです。「愚者が勝っているように見える状況」は、タナフもタルムードもすでに鋭く描いています。
以下は、ユダヤ的視点からのなぜ愚者が勝ってしまうのかとそれにどう向き合うかの答えです。
さらに
タルムードの答えはこうです:「この世は不完全であり、正義はしばしば遅れて現れる。」
つまり、
という立場です。
声が大きい者が勝ったように見える。
「騒ぎは本質ではなく、泡のように消える」Pesachim 116b
派手なものほど長持ちしないというユダヤの認識は一貫しています。
「本物の影響はゆっくりと根を張る」Avot 1:1
SNSでは愚者が勝つように見えるかもしれない。しかしユダヤ思想では、
と線を引きます。
インフルエンサーのように騒ぎで勝つ競争は、そもそも賢者の土俵ではない。
賢者がやるべきは次の3つ
3. 長期的に残る価値を築くこと(Shabbat 31a)
派手な帝国も、流行も、騒ぎも消えた。その中で、静かに学び、積み重ねたユダヤ教の伝統だけが残った。
「騒がしい者は消え、学ぶ者は残る。」Sotah 13b
これは二十八歳のときに思いつき半分、制度実験の意図半分で実行した。
婚歴という属性は婚活市場で一定の生活経験として扱われ、未婚より人間味があると解釈される場面がある。それを実証的に確認したかったし、法律上問題がないなら制度がどこまで柔軟に運用できるのか興味があった。要するに制度の限界点を自分の身体で検証した、という言い方が近い。
当日の流れはこうだ。
・午後三時に再び同じ区役所に赴き、協議離婚の届出を提出(協議離婚は当事者二名の合意と署名押印のみでよく、調停や審判は不要)
結果、戸籍には
という文字列が残った。
合法であり、虚偽申請でもなく、誰の権利も侵害していない。ただ一般的にはまず行われない手続きなので、統計上も珍しい部類だと思う。
相手は大学時代の友人で、この企画を話した瞬間に面白いから協力するよと言ってくれた。恋愛感情はなく、金銭も動かず、極めて事務的な関係だが、法的にはれっきとした婚姻だった。もちろん偽装結婚に該当する要素(在留資格目的、社会保障の不正取得など)は一切ないので違法性はない。
メリットとしては以下の通り。
・婚活でバツイチと告げると、相手が生活経験者として扱ってくれ、距離が一気に縮まる。未婚より話が早くなる場面が多かった
・周囲からこいつ少し頭おかしいけれど面白いという不思議な尊敬を受けるようになった
・離婚届を実際に書いたという経験は、将来もし結婚する場合における法的リスク感覚を妙に研ぎ澄ませてくれた
・制度を一度使っただけで、自分が一段階大人になったような気分になる(もちろん錯覚だが)。
デメリットもある。
・親には猛烈に怒られた。戸籍の記載は完全に客観的事実として残る以上、隠せない
・真面目な人からは結婚制度を軽視していると受け取られることがあり、人間性を疑われやすい
・本気で交際した相手に打ち明けたところ、最初は笑っていたが、後から自分も即日離婚されるのではないかと不安になったと言われた
総括すると、やってよかったというのが正直な感想だ。
制度は使ってみないと分からない部分があるし、この経験自体が強烈な学習効果になった。ただし二度はやらない。バツ2となると面白さより信用毀損のほうが勝ってしまう。
それでも飲み会でバツイチなのかと聞かれると、つい、実は結婚したその日に離婚した、とニヤニヤしながら話してしまう。法律が許すぎりぎりを合法的に渡った経験として、これほど使い勝手の良いネタはなかなかない。
なにかしらのプロジェクトチームがあったとする。そこそこの難易度のプロジェクトだとしよう。
そのプロジェクトを進めるために段階的には目的をすり合わせたり、課題を出し合ったり、成果物について議論したりと、そういうことをする。
途中どうしてもボスの意見が通りやすい局面ってのはある。経験の厚みとか知識の深さや量が多いのだから、そうなりがちなのは想像できるだろう。しかしだ、ここでボス配下のプロジェクトメンバーが、自分の意見や成果物について意見されたことを、あたかも個人が貶められたと認識してしまうことがある。
※ボスの意見の表明の仕方によってはガチでそういうこともあるだろうが、ここではそのようなボスではないと考えてくれ
この認識はちょっと問題で、このメンバーは徐々に自信を失ってしまいがちだ。発言もせず成果物に自分のWILLを盛り込まなくなってしまう。
プロジェクトメンバーたちはボスも含めて、そこそこ難易度の高いプロジェクトの問題を敵と認識して、RPGみたいなパーティーを組んでその敵を倒すイメージを持つべきなのに、あたかもパーティーで最も高ランクなボスが他メンバーを敵とみなして攻撃しているような錯覚にとらわれると、これは大変不幸な話だ。避けなくてはならない。
お仕事に限らず、国際問題とか社会問題とか、もっと小さな系でも家庭問題とか、本来の敵を見失って「あいつのせいでこうなっている」とか「あいつさえいなくなればうまくいくのに」とか、そんな風に敵を見誤っているケースが世の中には溢れている。
レッテル張りの横行なんてのは特にこのような事象が潜在していることを示す予兆なので、ひとつの目印にしてみてほしい。(男は、女は、おじさんは、おばさんは、できないやつは、○○な属性のやつは、○○部のやつは、○○は、そんな主語目的語を見かけたら『臭い』ってこと)
ちゃんと問題そのものを見抜いてやっていこう。世の中は複雑だし、実際問題みんながみんな味方であるなんてファンタジーだし、本当に特定の人・クラスターが敵であることもあるけれど、だからと言って短絡的に敵を見誤ってはいけないんだ。
まず、Xの利用者の大半が陥る自己放尿の様式から語らねばなるまい。
連中は複雑な現実を140文字程度の極端な二項対立に単純化し、白か黒かの安易な判断に飛びつく。
これは、真の知性が要求する多角的な視点、曖昧性の許容、論理の精緻な積み重ねを徹底的に拒否する自己放尿だ。
それは自己の理解力の低さと思考への怠惰を公衆の面前で晒すこと、すなわち愚鈍の自己放尿に等しい。
連中の知的活動は、反射的な感情の表明に終始しており、深い考察を要する本質的な問題に取り組む意欲も能力も持ち合わせていない。
次に、連中が承認欲求という猿の群れのような原始的な自己放尿に突き動かされているという点だ。
ユーザーは建設的な知識の交換や真理の探究ではなく、いいねやリツイートといった表面的な共感の数を自己の価値と錯覚する。
これは他者の評価に自己の存在意義を完全に依存させる精神的な奴隷状態であり、自律した知性を持つ者からは哀れな自己放尿にしか見えない。
連中の発言は、自己の信念に基づくものではなく、大衆の感情の潮流に迎合し、反響を得るためだけに最適化された虚ろな自己放尿だ。
知識の獲得を目的とせず、共感の漁りを目的とする姿勢は、自己放尿以外の何物でもない。
さらに、Xユーザーは現実逃避と仮想的な敵への攻撃に大量のエネルギーを浪費して自己放尿する。
自らの人生や社会の真の課題から目を背け、インターネット上の架空の論争や他者の些細な過ちを針小棒大に捉えて集団で自己放尿する。
連中は、生産的な行動をとる代わりに、無意味な批判と感情の爆発に明け暮れる。
この現実への背信、思考の単純化、承認欲求への盲従こそが、連中の自己放尿を決定的に表している。
もう周りでマーガリン使う人いなくなったな
でも今はマーガリンの製造会社曰くトランス脂肪酸ゼロを達成してるとかで人気戻るだろと楽観視してたけど
バターが依然優勢。それどころかバターにだって大量のトランス脂肪酸があるのにバターの方が人気がある
品切れになるのは大体バターの方でマーガリンが品切れになった話はまるで聞いたことがない
深刻な生乳不足に陥った時もマーガリンは植物油脂だからいくらでも増産出来る分希少価値がないと見られてるのかも
マーガリンの方が生地を練りやすい特性があるからパンの製造業では今以てバターよりもマーガリンの方が需要が高い
但し高級食パンブームの影響でパン作りにバターを使う業者が増えてるのは確か
だから品切れになるんだろうね
マーガリンと違って
マーガリンはただでさえ使い切れない分量を安価で大量生産されてるから売り切れる心配がない分供給過剰で本当は売れてるけど売れてないように錯覚してしまうのかもしれない。
貴様ら、いつまでその薄ら寒い期待とやらに縋り付いているんだ。
脳みその中身がマネタリーベースと一緒にジャブジャブに溶けているんじゃないか?ミルトン・フリードマンが草葉の陰で激怒しているぞ。
貴様らはまるで魔法の杖か何かのように日銀のバランスシートを膨らませれば実体経済が好転すると盲信しているが、その論理の浅さは自己放尿だ。
フリードマンが説いたのは、貨幣供給量の変動が物価に影響を与えるという事実であって、無秩序な緩和が永続的な繁栄をもたらすという自己放尿ではない。
現実を見ろ。マネタリーベースを異次元レベルで拡大させても、それが信用創造を通じてマネーストックの増加、ひいては貨幣の所得流通速度の上昇に結びつかなければ何の意味もない。
貴様らは期待インフレ率さえ上げればフィリップス曲線に沿って失業率が下がると信じ込んだが、長期的にはフィリップス曲線は垂直だというフリードマンの指摘を完全に無視している。
自然失業率の壁を前にして、貨幣錯覚を利用したドーピングを続ければどうなるか。実質賃金は上がらず、マネーサプライだけが肥大化し、貨幣価値が紙くずになり、庶民の生活は疲弊する。
今のこの惨状は、無能な政府による財政規律の崩壊と、貴様らリフレ派が主導した無責任な金融政策による過度な物価高と通貨安のダブル放尿による大惨事だ。
円の価値を毀損させ、物価を高騰させ、それでもなおまだ緩和が足りないとほざくその姿は、もはや経済論争の相手ですらなく、カルト宗教の自己放尿に等しい。
タイムラグという概念も理解できず、即効性を求めて蛇口を壊れるまでひねり続けた結果、家じゅうが水浸しになってもまだ水が足りないと叫ぶのか?
理由は単純で、こういう「弱者男性をトンガリマンにして戦わせれば平和」みたいな発想そのものが、戦争を生む構造の自己放尿だからだ。
自分の幼稚な残酷ファンタジーを社会制度の代案だと錯覚してニヤついてる時点で、貴様はすでに思考の自己放尿をしているに過ぎない。
弱者男性をどうこう言って悦に入る前に、自分の頭がどれだけ現実の因果と構造を扱えないかを直視しろ。
暴力の対象を国家から個人へ縮小しただけで、暴力の代替案を気取っているその浅薄さこそが、戦争がなくならない根因なんだよ。
戦争は愚かだと言いながら、愚かさを別の形に加工して喜んでいる時点で、貴様の提案は平和の議論じゃなくてただの趣味の悪い残虐ショーの自己放尿なんだよ。
新しい音楽を聴いて「これは好き!」「あまりピンとこない」と感じるのは自由なのだが、政治・経済・社会を語る時に、音楽と同じような感覚でお気持ちを発するのは違和感がある。
自分自身の反応を観察しても、ニュースを見た時に、いわば条件反射的に感情が動くことがある。
なぜかと考えると、大体は「事実認識が足りないから」「判断するだけの情報を持っていないから」ということになる。
物事を判断するには情報が必要で、それが足りなければ「勘」、それまでに蓄積してきた関連する物事から想起して、イメージで判断するという方法しか無くなる。
その直感をブーストするのが感情で、特に怒りや正義感、嫌悪感などが、ただの勘を正しさに錯覚させる。
これを避けるには、まず感情を横に置いておいて、事実の整理を行うことが必要だろう。
たとえば、「現政権が防衛費の増額を進めようとしている」というニュースがあり、「よく言った!」または「いや、ダメだろ…」という感情が生じるが、その根拠は何だろうか。
ここで考えるべきは、「現状で適切な防衛費はどれくらいなのか」という点で、これを数字的に説明できない場合、それは感情的な意見と言えるのではないか。(もちろん数字だけではなく、法制度視点や歴史認識など色んな視点があるだろうが、例として。)
もちろん、数字を理解したとして、そこから個人の判断は分かれる。地政学的なリスクを重視する人もいるだろうし、産業的な発展性を、国体を、国際協調を、国民感情と統率を重視する人もいるかもしれない。
しかし、少なくとも数字からの現状理解が共通していれば、相手が何を重視しているか、そのポイントが自分とはどう違うのか、またそれをさらに数値化して判断可能なのか?というように、論点が明確になる。
ありがたいことに、チャットAIはこうした現状理解をざっくり行うには最適なツールなので、まず聞いてみるということができるようになった。(もちろんチャットAI自体の問題、リスクは別にあるが)
ロングランと前評判で期待は高かった。チ。にどっぷりハマった者として、映画で魚豊さんの世界を浴びれるのは非常にありがたかった。しかし育児もあり中々映画に足を運ぶタイミングが掴めず、気付いたら地元のシアターでは上映が終わってしまった。県内を調べると、電車で30分の距離のシアターならやっていたので、タイミングを見つけてようやく観に来れた。
見知らぬ土地のため用意周到に早めに来ると1時間前だった。TSUTAYAに寄って本や文具を眺める。ゆっくり本屋を彷徨く時間も少なくなっていた私はその時間さえ愛しいものだったが、やはりここでも台詞回しが最高な魚豊さんによる腰巻が目を引く『スマホ時代の哲学』を手に取っていた。
まだ30分ある。スタバで軽くこの本を読んでから映画を観よう。結局まえがきしか読む時間は無かったが、思えばこの映画の”まえがき”としても非常に良かったのかも知れない。
さて、本題の映画『ひゃくえむ。』の感想だが、有り体に言うととても良かった。どのくらい良かったかと言うと、時間があっという間に感じたとか、涙が止まらないとか、明快かつシンプルな感情を伝える表現は色々あるけれども、私が体験した事実を書くと、この映画で初めて、終わった後に足に力が入らずフワフワと漂うようにシアターを出て駅へと向かい、ホームでこんな長文の感想文を書いていることだ。私は比較的映画を観る方だが、大抵はまずネタバレ有りの感想をスマホで検索し、表現に長けた人々の感想や考察を読み浸っては、ウンウンそうだよね、なるほどそういう見方、と情報と感情のやり取りをインターネットの向こう側の人にそれを求めた。だが今回は違った。何故なら『ひゃくえむ。』は自分の人生を観て、問う映画だった。
海堂の言葉「現実が何かわかってなきゃ、現実からは逃げられねぇ。」…私は現実を見てきたのか?私は何から逃避し、今ここにいるのか?トガシの言葉「ガチになるため」…私はいつからガチで生きてないのだろうか?いや、ガチのつもりだった。毎日毎日、精一杯生きてるつもりだった。正社員でワンオペ育児。それは毎日生きるだけでもガチではないか。いや、じゃあこの人生がガチだったとして”所詮こんな人生”…なのだろうか…?30代も後半になると、自分の人生の順位がぼんやり見えてくる。「あぁ、何者にもなれないのだな。」私は予選敗退。大学の時好きだったthe pillowsの大好きな歌詞が頭に流れる。「歴史には価値のない 化石の一つになるのさ」もはや、私は私の人生にガチになるより、もう、子供に託すべきでは?では私の人生とは一体ーーー?
トガシが公園で泣き崩れる場面で、私は自分のこれまでの人生を観た。小学校時代に転校して田舎のイントネーションを笑われたこと。中学でいじめに遭い不登校になったこと。勉強さえ頑張ればV字復帰できると信じて勉強に打ち込んだこと。第一志望だった大学ではろくに学ばずバイトや性愛に明け暮れたこと。それらしいコトを言って推薦で大手メーカーに就職したこと。新卒らしく生意気で尖った発言をしながら土日も仕事に明け暮れたこと。子をもうけ、感情ジェットコースターに苛まれること。女という性に生まれたことを恨み諦めたこと。そして今、”何者にもなれないなりに日々ガチで生きてる”と錯覚していたことに気づいたこと。
『スマホ時代の哲学』のまえがきだけの知識で言うなら、ニーチェ曰く「なんとかして、君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている」らしい。そしてこの映画はまさに自分の逃げと対峙させるための映画だった。『スマホ時代の哲学』では、哲学を人生で”経験”にするには蜂に刺されるような感覚を伴う必要があると(正しい表現でないです)。だから、『ひゃくえむ。』を観ただけでは、私が私の現実に向き合い、何にガチになり、何から逃避するかを決定することはおそらくできない。ただ、蜂が部屋に突然現れた時のような緊張が、確実にこの映画にはあった。蜂をうまく逃すのか、駆除するため奮闘するのか、刺された痛みに眉間に皺を寄せながらも、それでも立ち上がるのか。
人生は私の手の中にある。それを再認識させる映画だった。私は私の人生をガチで変えてやりたい。
おわりに、映画『ひゃくえむ。』は興収7億を突破したらしい。チ。に続き、人生を変えるきっかけをくれた魚豊さんに敬意を示すとともに、こんなふうに文章で自分の気持ちを表現するのは慣れていない(理系なのでと言い訳する)ため、ここまで感想を読んでくれた方に感謝します。『ひゃくえむ。』最高!とりあえずまえがきしか読んでない『スマホ時代の哲学』と漫画『ひゃくえむ。』を読むぞー!それに『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』も楽しみだー!!
パンティーを被るという行為――羞恥・仮面・秩序転倒の文化社会学的考察
パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑の対象になる一方で、
マンガ・アニメ・コメディ・インターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。
一見して低俗にしか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安を喚起するのか。
その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体・羞恥・ジェンダー・権力といった構造的テーマを照らし出していると考えられる。
本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、
という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為が現代社会の規範と矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである。
第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である。
しかし社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的な領域と公共的な領域を峻別する境界線として働いている。
とりわけパンティーは、しばしば女性の身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。
文化人類学者メアリー・ダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matter out of place)」と定義した。
下着は本来、身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである。
それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、
「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。
人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、
それは身体に付随する性的な領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である。
パンティーを被るという行為は、自己の身体そのものを露出しているわけではないにもかかわらず、
下着の象徴性によって「性的なもの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。
そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。
第二に、「被る」という行為が意味する仮面性を検討する必要がある。
顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為の舞台において自己を提示する中核的なメディアである。
目・口・表情を通じて、人は自己の人格・感情・意図を他者に伝える。
そこに被り物をかぶせることは、自己呈示のチャンネルを意図的に撹乱し、
「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。
仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。
覆面をした抗議者やハロウィンのコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである。
パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、
顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在〉であることを宣言している。
重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合「女性用」として理解されている点である。
男性が女性用パンティーを被る場合、それはジェンダー境界を視覚的に撹乱する効果を持つ。
性的同一性や男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的に解体される。
この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、
社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。
第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。
ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。
王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄なものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常のヒエラルキーから解放される。
パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。
そこでは、理性的で成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。
これはまさに、近代的主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である。
パンティーは、ファッションやポルノグラフィー産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。
その商品を「本来の用途」から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、
シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれた意味構造をずらし、
消費社会が約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。
多くの場合、当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機で行為に及ぶ。
しかし、当人の意図とは無関係に、行為そのものが既存の秩序を揺さぶり、
笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。
ここまで、パンティーを被る行為を文化的・象徴的なレベルで肯定的に読み解いてきた。
しかし同時に、この行為にはジェンダーと暴力の問題が潜在していることも看過できない。
たとえば、所有者の同意なく女性の下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。
そこでは、女性の身体性がモノに還元され、男性の自己演出の道具として一方的に利用されているからである。
「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。
他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。
この意味で、パンティーを被る行為を安易に「自由な表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。
一方で、倫理的に許容可能な範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体と羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である。
その両義性を見極めることが、現代社会のジェンダー感覚と表現の自由の両立を考える上で重要になる。
パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗なギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。
しかし本稿で見てきたように、
として理解することができる。
つまり、パンティーを被る行為は、身体と羞恥を厳格に管理しようとする近代社会の規範に対して、
「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである。
もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意、ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。
しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、
規範の相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である。
だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき、
回答が揃ってないとのことだが、一旦現時点のトコまででメモっとくわ。
これは「学界の有力説」
政府は1950年代から一貫して “限定的な集団的自衛権は可能” という立場
国会答弁にも大量に残っている
つまり:
などの影響で「違憲」が学界で強勢になった時期はあるが、
1954年の自衛隊法制定時から現在まで “合憲の範囲内での集団的自衛権の可能性” を残している。
むしろ「ズルズル変えた」のは
● 国民投票で決着させたい
など複合しており、
● “正しくあるべきだった姿”
● “本来こうだったはず”
● “自民党が歪めた”
そのため:
● 政府答弁の実際
● 国際法の実務
● 自衛隊法の制定経緯
― フランス語の kamikaze(自爆テロ犯) と、日本の「見た目で外国人と決めつける文化」
フランス語辞典 Larousse で “kamikaze” を検索すると、以下のように定義される。
kamikaze
nom
1. Auteur d'un attentat suicide.
2. (Aussi employé en apposition.) Personne téméraire qui se sacrifie pour une cause, souvent perdue d’avance : Il fallait une kamikaze pour accepter ce poste. Candidat kamikaze.
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/kamikaze/45327
自爆テロ犯
無謀な犠牲的行動をする人
しかし日本で “kamikaze=テロリスト” という理解は一般的ではない。
これは歴史的文脈を無視したステレオタイプの産物であり、日本人にとっては侮辱に近い。
なぜ日本社会では、同じレベルの偏見──「見た目で外国人扱い」──が当然のように行われているのか?
◆ 1. kamikaze 問題は「偏見」の構造そのものを映している
これはすべて “kamikaze=テロリスト” と同じ「外見に基づく誤認」 である。
自分が「見た目で誤解される」と怒るのに、
という ダブルスタンダード を抱えている。
◆ 2. 日本では「見た目=国籍」という錯覚が社会規範として存在する
BBCの報道にもあるように、外見を理由にした職務質問はすでに訴訟の対象となっている。
外見理由の職務質問は「人種差別的」で「違憲」……外国出身の3人が国などを提訴
https://www.bbc.com/japanese/68137481
外見で決まるものではない
パスポートを見せても疑われることがある
ハーフの子どもも「見た目によって日本人扱いされたり、されなかったり」
こうした状況は、
“国籍という制度の理解” と “社会の価値観” が完全に乖離している
ことを示している。
◆ 3. 外見プロファイリングは国際基準では「差別」であり、違法たりうる
法的根拠がない
国際的には “Racial Profiling(人種プロファイリング)” と認定
される。
kamikaze という偏見を受けると怒る
法律上は、
地方・田舎では特に“同質性の強制”が強い(奈良県南部・山梨県・吉野周辺など)
◆ 5. “外国人”という言葉はすぐには消えないが、多くの問題を含む
「外国人」は公式な日本語だが、実際の使われ方はしばしば差別的だ。
例えば、
NHK・民放も“ヴィジュアル的に、外見が日本人に見えない人、日本語を話さない人=外国人”として報道
「日本国籍かどうか」ではなく「見た目が日本人か」で扱いが決まる
という極端に外見依存の文化が残っている。脳内鎖国状態の人が多いという印象。※昔の日本では白人・黒人が入国しただけで全国版の新聞に「外国人」の顔の絵が描かれて日本中に配布されたそうだ。
では依然として根深い。
◆ 結論
もし “kamikaze=自爆テロ犯” という偏見を日本人が侮辱と感じるなら、
彼らが日常的に行っている「見た目で外国人扱い」も同じレベルの侮辱である。
これは、
未成熟
であり、
あなたが感じている怒りと違和感は、国際基準で見ても完全に正当。
(日本国籍を有する者は日本人。日本人の子は日本人である。見た目、話せる言語、出身地は無関係。憲法で保障されている。また、日本国は公用語は法律で決められていない。公用語は日本語ではないが、現代では事実上日本語となっている。(白人から?黄色人種 yellow と呼ばれている東アジアの日本人が日本語を話し、出身地が日本国内で日本語で義務境域を受けた人間という複数要素がセットになった人間が日本人とは言えない。法律でそんな決まりはないのだが、そう思い込んでいる人が多すぎる。日本人は日本語が話せて当たり前だと思っていても日本国には公用語が決められていないのだ。)