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第二部 学び直せなかった一年
ここで、君に正面から語りかけたい。
たぶん君の中には、私に近い感覚が少しはあるはずだ。
なくてもいい。
あったとしたら聞いてほしい。
入学して最初の数週間、君は周りを見てこう感じるかもしれない。
「あれ、この人たち、思っていたほどすごくないな」
先輩たちがわいわい騒いでいる。
話の中身はたいしたことがない。
誰々が誰々を好きらしい、という話。
君はそれを聞きながら、心のどこかでこう思うかもしれない。
「俺はこんな話をするために東京に出てきたんじゃない」
その感覚は半分は正しい。
ただ、残りの半分について、私が二十年かけて学んだことを君に伝えたい。
雑談を飛ばして、いきなり大事な話だけをしようとする人間は、長い目で見ると誰とも何の話もできなくなる。
これは二十年後に私が痛感したことだ。
けれど十八歳の私は、これをまったく理解していなかった。
理解する気もなかった。
入学して一週間ほど経った頃、駒場のキャンパスで一人の同級生と話す機会があった。
名前は仮にKとしておく。
背が高く、髪を少し茶色く染めていて、笑うとき口を大きく開けた。
「サッカーをやってました。あと、文化祭の実行委員やってました」
それを聞いた瞬間、私はKにあまり期待しなかった。
あの私を退屈させた連中の、東京版だろう。
そう思った。
ところがKはよく話しかけてきた。
授業のあと、「飯行かない?」と私を誘った。
最初は断った。
二度目も断った。
三度目に、Kは少しだけ困った顔をして聞いた。
「お前、誰とも飯食わないの?」
私はそう答えた。
Kは少し笑った。
「ふうん。じゃあ、気が向いたら声かけて」
そう言って行ってしまった。
そのとき私は、自分がKに少しだけ優越感を持ったのを覚えている。
私は違う。
私は一人でも平気だ。
だから私のほうが強い。
そう思った。
これが間違いの始まりだった。
Kは、誰かと一緒にいないと不安だったのではない。
Kは、一緒にいる時間そのものを価値あるものとして認識する能力を持っていた。
そのことを、私は二十年後に理解した。
語学クラスでは、よく数人で集まって、課題のフランス語の和訳を持ち寄って見せ合っていた。
私は最初、その輪に入った。
けれど私の和訳はたいてい一番正確だった。
少なくとも私はそう思っていた。
私は指摘した。
「そこ、違う。主語はこっちじゃない」
Kは「あ、ほんとだ。サンキュー」と言ってすぐに直した。
それはいい。
問題はその次だった。
別の同級生、仮にMとしておく。
Mが読み上げた和訳も間違っていた。
私は同じように指摘した。
「Mも、そこ違う」
Mは少し顔を赤くして、「うん……」と言った。
Kが軽く笑いながら言った。
「お前、間違いの指摘の仕方、ちょっと冷たくない?」
私はKを見た。
「冷たい? 間違ってるから間違ってるって言っただけだろ」
「いやそうなんだけどさ。なんかこう、もうちょっと、『あ、ここ、俺もよくわかんないんだけど、こうじゃないかな?』みたいな感じ、ない?」
私は内心で軽蔑した。
出た。
「言い方」だ。
Kは内容で勝てないから、言い方の話に逃げている。
私はそう判断した。
その日から、その輪には行かなくなった。
数週間後、その輪がMを含めて続いていることを知った。
けれどMは、Kの輪の中で笑うようになっていた。
間違いを指摘されても、頭をかいて「あ、ほんとだ」と言うようになっていた。
Mは変わった。
私が変わらなかったのに対して。
私はMのことを軽く馬鹿にした。
妥協したのだと思った。
今になって思う。
妥協したのはMではなかった。
Mは学んだのだ。
私は学ばなかったのだ。
風の噂で聞いた。
実際、内容は真面目だった。
そこには二年生にSという先輩がいた。
Sは私とは違うタイプの賢い人だった。
判例を読むスピードは私と同じくらいだったが、議論のときの立ち回りがまったく違った。
まず、後輩や他の人の意見を聞く。
そして誰かの意見の中でいいところを見つけて、「それ、いいですね」と言う。
「○○さんが言ったところに加えて、こういう論点もあるんじゃないかと思って」
そう言った。
私はSのやり方を、最初ずるいと思った。
あれは自分の頭で考えていない。
人の意見に乗っかっているだけだ。
そう思ってSを軽く見た。
「Sさんの今の論理は、判例の射程を超えていると思います。○○判決はあくまで△△の場合に限った話で、これを一般化するのは無理があるんじゃないですか」
Sは私を見た。
少しの間、何も言わなかった。
「うん、たしかにそうだね。射程の問題は僕も気になっていた。じゃあ、君だったらどこまで一般化できると思う?」
私は答えた。
私の答えは、Sが言うべきだった内容をより精密にしたものだった。
Sは「それ、いいね」と言って、私の意見を議論全体に位置づけた。
私は勝った気がした。
サークルが終わったあと、別の三年生の先輩が私を呼び止めた。
「君さ、頭はいいよ。間違いなく。ただ、Sのこと、ちょっとなめてないか?」
「いえ、なめてはいないです」
「Sはね、あの場で君のために負けてくれたんだよ」
「Sは、あの場の議論をいいものにするために、自分の意見を引っ込めたんだ。君に花を持たせたんだよ。それはSがバカだからじゃない。Sのほうが、議論っていう場全体を見てるからだ」
私は不機嫌になった。
「いや、でも、内容としてSさんの最初の論理は間違っていました」
先輩はため息をついた。
「うん。まあ、そうかもしれない。でも君がこれから先、誰かと一緒に何かをやるなら、内容で勝つだけじゃ足りないよ」
私はその日、サークルをやめた。
正確に言えば、その日のうちにメールで退会の連絡をした。
理由は書かなかった。
二度とそのサークルには行かなかった。
夏休みに入る前、私はKにもう一度だけ会った。
Kは相変わらずにこにこしていた。
彼女もできたらしい。
私はその女子を、可愛いとも可愛くないとも特に思っていなかった。
Kが別れ際に言った。
私は笑って答えた。
「誰かに頼って、その誰かが間違ってたらどうするんだ?」
Kは少し考えた。
「うーん。そうしたら、一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」
私はその言葉を軽くいなした。
心の中で、「だから、お前は二流なんだ」と思った。
一緒に間違えて、一緒に直す。
そんなことに付き合っている時間はない。
私は一人で、間違えずに進む。
正確には、二十年かけてようやく思い出せるようになった、と言うべきかもしれない。
ここで、君にもう一つだけ伝えたい。
私が地方の進学校で身につけた「一人で考えたほうが正しい」という認知は、地方の進学校の中ではたしかに事実だった。
私の周りには、私より速く正解にたどり着ける人間がいなかった。
集団で議論すれば、議論は私のレベルに引き下げられるか、私の意見が通らないかのどちらかだった。
しかし東京大学に来て、私の周りには私と同じか、私より速く正解にたどり着ける人間がたくさんいた。
その時点で、私は戦略を変えるべきだった。
もう一人で考えなくていい。
人と議論したほうが、自分一人で出せる答えよりいい答えが出る確率が高い。
人に頼っていい。
人に教わっていい。
人に「わからない」と言っていい。
けれど私は学び直さなかった。
なぜなら、地方で身につけた認知は、私を東大まで連れてきた成功体験だったからだ。
それを捨てることは、自分の人生を否定することのように感じられた。
変化を恐れた本当の理由は、たぶんこうだ。
だから勉強の戦い方を変えることは、自分そのものを失うことのように感じられた。
後になって考えれば、ただの臆病だった。
けれど当時の私は、自分が臆病であることにまったく気づいていなかった。
孤独に耐えられる、というのは強さではない。
ただの不器用さだ。
優三つの「優三つ」というやつだ。
一人でやれば結果が出る。
けれどその学年末、駒場の生協の前で、語学クラスのKたちが五、六人で集まって笑いながら写真を撮っているのを見た。
Kの隣にはMもいた。
Mは四月のときと比べて別人のように、いい顔で笑っていた。
私はその輪を遠くから見ていた。
その輪の中に入りたいとは思わなかった。
ただ、奇妙な感覚があった。
結婚式に呼んだり。
子供の話をしたり。
そう自分に言い聞かせた。
その夜、私は寮の自分の部屋で二年生の科目の予習を始めた。
ここで私は、君に最も伝えたいことの一つを書く。
地方の進学校から東大に行ったことの本当の不幸は、東大に行けたことではない。
もし通っていたら。
私は十二歳か十三歳のうちに、自分より賢い人間に出会っていただろう。
泣いたかもしれない。
けれど十二歳の私はまだ柔らかかった。
十二歳のうちに負けることは致命傷にならない。
十二歳の負けは回復する。
十二歳の負けからは、人に頭を下げることを学べる。
十二歳の負けからは、「わからないから教えて」と言うことを覚えられる。
私の認知の中で、「負ける」という選択肢が十八歳の段階ですでに消えていた。
そして十八歳で東大に入った瞬間、私は相対的に普通の人間になった。
けれど、そのときにはもう遅かった。
十八歳の私は、十二歳の私のようには柔らかくなかった。
私は上の人間に頭を下げるかわりに、上の人間を見ないことにした。
上の人間から学ぶかわりに、「あいつは要領がいいだけだ」と評価することにした。
これらは全部、私の防衛反応だった。
だから君がもし、地方から東京の大学に出てきたばかりでこれを読んでいるなら、聞いてほしい。
早く、負けてくれ。
自分より明らかにすごい人間に会ったら、嫉妬する前に頭を下げてほしい。
「教えてください」と言ってほしい。
それは君の性格を守るための救済だ。
天井を知らないまま二十代に入った人間は、たいてい私のようになる。
私のようになるな。
これは命令ではない。
お願いだ。
あと一つは?
EUはどうなんですか?英語だけじゃ足りないよ。ってかEUにイギリスは入っていない。ドイツ語とフランス語のどちらかか?加えて高等教育受けるなら世界共通語の英語も必須に近い。EUはかなり大きな経済圏なんだが。スペイン語・ポルトガル語もあるのか。よくわからんな。
録画できる再放送がなくなったのが惜しい
来週はお休みですか?
BSジャパネクストがリニューアル BS10の無料放送側で日曜昼などに放送中
見られなかったケーブルテレビ局でも見られるようになったので要確認
つながるジャパネットアプリで放送同期・スマートテレビや2025年4月からtverを含め見逃し配信あり
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・02 [いくつ]8 つ
・04 耳小 骨
・05 オランダ
・06 4(倍
・08 テレサ・テン
・09 [駆け引きクイズ]北海道 岩手 福島 長野 新潟 秋田
・13 バングラデシュ
・15 シカ
・16 仮(運転免許
・18 [立体文字]陸
・19 back number バックナンバー
・20 足(偏
・21 チャールズ・ダーウィン
・26 [立体派]キュビズム
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・27 1000(円
・28e 首
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(日曜本放送)
このあと14:15からは「[映]『インビジブル』BS10サンデーシネマ」(吹き替え)
16:45 人生に魔法をかける ロングブレスで激変物語 【たんぽぽ白鳥10キロダイエット】
17:15 いいふろ温泉ナビ ~15分で巡る、ニッポン至福旅~
17:30 加藤浩次のビジネスサバイブ~挑戦者たちの本音会議~ #2
(19日日曜日)
猫への感情が虐待や憎悪へと転じてしまう背景には、個人の資質だけでなく、複数の社会的・構造的な要因が複雑に絡み合っていることが読み取れます。
主な要因は以下の通りです。
欧米などの一部の文化圏では、猫を飼うことと「独身女性」を強く結びつける蔑視的なステレオタイプが存在します。
虐待を行う人々は、実社会での孤立をオンラインでの「悪名」によって埋めようとする傾向があります。
自分たちが社会的に救われていないという不満が、保護の対象となる動物への憎悪に変わるケースです。
虐待行為が単なる個人の逸脱を超え、組織化されたビジネスとなっている側面もあります。
特に中国などの事例では、動物虐待を直接取り締まる法律がないことが、虐待をエスカレートさせる要因となっています。
これらの要因が組み合わさることで、猫への個人的な感情が、社会的な憎悪や凄惨な虐待行為へと発展してしまう構造が浮き彫りになっています。
世界の各地域によって呼び方は異なる。南欧各地では、スペイン語の “baraja・naipes” のようにトランプを意味する専用の語がある。一方で、フランス語 ‹ carte à jouer キャルト・ア・ジュエ›、英語 “playing cards” はともに「遊戯用カード」という意の一般的な表現にもなっている。
日本語の場合のような捻れ現象は珍しくなく、特定のゲームの名前がトランプを指すようになった言語もある。例えばギリシャ語の「τράπουλα(トラプラ)」は、ベネチアの古いゲームの名であるトラッポラに由来し、中国語の「撲克(プーコー)牌」やタイ語の「ไพ่ป๊อก(パイ・ポーク)」はポーカーに由来し、またベトナム北部で「tú lơ khơ(トゥー・ロー・ホー)」と呼ぶのは、ロシアで人気のあるドゥラークというゲームの名前が中国語経由で伝わったものである。インドネシア語の「kartu remi」は、ラミーに由来する[注 1]。
日本語の「トランプ」の他、マレーシアの「daun[注 2] terup」の「terup」も英語の「trump」由来である。
雑誌の表紙で見かけただけで、読んだわけではないので内容は知らないが、ロックバンドの話なのだろう。まあそれは良い。ここで話題にしたいのは、このタイトルからどんなニュアンスを感じとるのか?ということだ。
The Band。定冠詞のついたシンプルな名詞句。洋書やハリウッド映画のタイトルなんかでもありがちなパターンだが、この本当のニュアンスを、多くの日本人は多分掴みきれていない。
それもそのはずで、これは近年の文化的な傾向も反映されたものであり、教科書的な文法をただ適用するだけでは、実は理解できないものだからだ。英語圏の創作指南サイトにあるこの説明が簡潔なので丸々引用しよう。
Take the horror classic A Nightmare on Elm Street. What if it was titled The Nightmare on Elm Street? Immediately we lose the sense of there being many nightmares, the sense of haziness that defines dreams themselves (and the unpredictability of the violent antagonist's appearance). 'A' nightmare can unfold anytime. 'The' nightmare happens at a specific time.
「エルム街の悪夢のタイトルが仮に不定冠詞でなく定冠詞だったら、たくさんの悪夢が予測不能に発生する感覚がなくなり、特定のイベントの話になってしまう」というような内容。
これは実は英語に特に顕著で(仏語などは違う)、「定冠詞だから」というだけでは説明のつかないことなので、文法書といくら睨みあっても書いてないのだが、英語で定冠詞の題名がついている場合、いかにもある特定の人物やイベントにスポットライトの当たったような、強い指事語感が出るのだ。
上の漫画の例で言えば、つまり、The Bandというタイトルは、いかにもそのバンドのユニークさ、ドラマチックなバイオグラフィ(ディスコグラフィ)に焦点を当てるぜといったような、強い偶像視のニュアンスを感じるのである……
どうだろう? こういう印象を、持てていただろうか?
もっと曖昧に、「バンドってものはよお…」みたいな一般論を訴えかけるような響きで受け取った人も多いんじゃないだろうか……?
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文法書の解説では、定冠詞には「一般的なことがら」を意味する用法もあるとあり、これはこれで正しい。また、フランス語やドイツ語などでは実際、英語では無冠詞としなければ変になるような一般的な概念を表現する際にも当たり前に用いられ、定冠詞という文法概念を逸脱する使い方ではない。
しかし、ただ現実的に言って、こういう使い方は「英語的ではない」のだ。
Theというのは特定のイベントやオブジェクトを指して、スポットライトを当てる役割を持たせて使うものであり、一般論や観念的な話には普通用いない。何度も言うが、これはフランス語やドイツ語などでは普通に定冠詞を使うような場面だし、文法書の説明を逸脱しないように感じるが、実際には英語の使い方として変なのだ。
教科書文法は、「そこを逸脱すると間違いとなりうるが、その範囲で正しいからといって英語として正しいわけではない」という理解が必要だ。
専門用語でこの音声をシニフィアン(記号表現)、意味をシニフィエ(記号内容)と言う。
バラを例にとると、シニフィアンは「BARAという音声」で、シニフィエは「きれいで甘い香りのするトゲを持つ花のイメージ」だ。
そして、シニフィアンとシニフィエのセットをシーニュ(signe:フランス語)という。
この「概念の単位」としてのシーニュは専門用語でもあるし、英語のsignとほぼ同じ意味もまた持っている。
https://sign-jp.org/whatsinaname/
つまり猫増田は趣深いものとねこをむすびつけた新たな概念を生み出すことができるのではないかというおしゃれなことをかっこつけて言っている。