はてなキーワード: 多数派とは
いま、この転換点において、皆さまとご一緒できることを光栄に思います。同時に、私たち国内SIerにとっての責務でもあります。
本日は、世界の“秩序”の断絶、心地よい物語の終わり、そして、巨大な力を持つプレイヤーの競争がほとんど制約を受けない厳しい現実の始まりについてお話しします。
しかし同時に、国内SIerのような「中堅の担い手」は無力ではない、と申し上げたい。私たちには、信頼・安全・持続可能性・顧客の主権・データの保全といった価値を体現する新しい秩序を、実務から積み上げていく力があります。
私たちは毎日のように思い知らされています。いまは、巨大プラットフォームや巨大ベンダー、地政学リスクを背景にした技術覇権が競い合う時代であること。オープン性や互換性、フェアなルールに支えられた前提が薄れつつあること。そして、強い側が条件を決め、弱い側は受け入れざるを得ない局面が増えていること。
古典的に言えば「強い者はできることを行い、弱い者は耐えねばならない」という構図です。これは不可避だ、これが自然な競争原理だ、と片付けられがちです。そして、その論理を前にすると、私たちには「波風を立てずに合わせる」強い誘惑が生まれます。摩擦を避けるために順応する。相手に合わせれば安全が買えると期待する。
では、選択肢は何でしょうか。
1978年、チェコの反体制知識人ヴァーツラフ・ハヴェルは『無力者の力』という論考を書きました。そこで彼は、体制がなぜ維持されるのかを問いました。
彼の答えは、一人の店主の例から始まります。店主は毎朝、店先に標語を掲げる。「万国の労働者よ、団結せよ!」。本人は信じていない。周囲も信じていない。それでも掲げる。面倒を避けるため、従順さを示すため、波風を立てずに“やっているふり”をするために。そして、どの通りの店主も同じことをするから、体制は続いていく。
暴力だけではなく、人々が、内心では虚構だと知りながら儀式に参加することで、体制は維持される。ハヴェルはこれを「嘘の中で生きる」と呼びました。体制の力は真実ではなく、皆が真実であるかのように振る舞うことから生まれる。そして脆さも同じところにある。たった一人が“看板を外す”だけで、幻影にひびが入る。
いま、企業としても、業界としても、私たちは「看板を外す」時です。
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長い間、ITの世界には「ルールや標準が機能し、相互運用性が担保され、勝者も敗者も一定のフェアネスの中で競争できる」という物語がありました。国内SIerも、その物語の上で成長してきた面があります。標準化、ベストプラクティス、認証制度、ガイドライン、そしてグローバルに広がる巨大なプラットフォーム。私たちはそれらを称賛し、活用し、その予測可能性の恩恵を受けました。
もちろん、その物語が“部分的に虚構”であることも知っていました。強い側は都合が悪いときに例外を作れること。ルールの適用が非対称になり得ること。互換性や標準が、実態としては特定のエコシステムに誘導する装置として働くこと。そして、契約条項、価格体系、APIの変更、提供地域や機能制限などが、力関係の影響を強く受けること。
それでも、その虚構は便利でした。巨大プラットフォームが提供してきた“公共財”も確かにあった。スケールする計算資源、安定した開発基盤、セキュリティ機能、グローバル展開の足場、部品としてのOSSやツールチェーン、紛争を減らす共通言語。
だから私たちは、看板を掲げ続けました。「オープン」「中立」「相互運用」「ベストプラクティス」という言葉を、実態が追いつかない場面でも口にしてきた。そして、言葉と現実のずれを大きく指摘することを避けてきた。
率直に申し上げます。いま起きているのは“移行”ではなく“断絶”です。
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過去20年の間に、金融危機、パンデミック、エネルギー制約、半導体不足、サプライチェーン混乱、サイバー攻撃の常態化、そして地政学リスクが、極端なグローバル統合の脆さを露呈させました。
さらに近年、巨大な力を持つプレイヤーが「統合そのもの」を武器として使い始めています。値上げや課金体系変更が交渉力になる。契約や利用規約、認証・ID、クラウド管理基盤が実質的な拘束力になる。提供停止や機能制限、地域制約が、企業や組織に圧力として作用する。サプライチェーンが“突かれる弱点”になる。
「統合すれば相互利益」という前提のまま、“嘘の中で生きる”ことはできません。統合が従属の源泉になった瞬間、前提は反転します。
かつて中堅の担い手が拠り所にしてきた「みんなで決めるはずの場」も弱まっています。標準化が追いつかない。デファクトが事実上のルールになる。透明な合議より、エコシステムの都合が優先される。結果として、多くの企業が同じ結論に向かい始めています。
人材、セキュリティ、データ、クラウドの選択肢、重要部材、運用ノウハウ、AIの基盤、そしてサプライチェーンにおいて。
自分で守れない者は、交渉の選択肢がありません。ルールが守ってくれないなら、自分たちで守るしかない。
ただし、行き先を直視すべきです。全員が要塞化すれば、コストは上がり、分断は進み、脆さは増し、持続可能性は下がります。
そしてもう一つの現実があります。巨大プレイヤーが、ルールや価値の“建前”すら捨てて、露骨に取引主義へ傾けば、関係性を恒常的に収益化することは難しくなる。顧客もパートナーも、保険を買い、選択肢を増やし、分散します。これは「主権」を取り戻す動きです。かつてはルールに支えられていた主権が、これからは「圧力に耐えられる能力」によって支えられるようになる。
古典的なリスク管理はコストがかかります。しかし、そのコストは共有できます。レジリエンスへの共同投資は、各社がそれぞれ要塞を作るより安い。共通標準は分断を減らす。相補性は正の和を生む。
国内SIerにとっての問いは、「この現実に適応するか否か」ではありません。適応は不可避です。問いは、ただ壁を高くして閉じこもるのか。それとも、より野心的なことができるのか、です。
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私たち国内SIerは、比較的早い段階で警鐘を受け止め、姿勢を変え始めました。
「日本で長く通用した前提」、つまり、既存の取引慣行や、系列的な安定、特定ベンダーとの強固な関係が、そのまま将来の繁栄と安全を保証するという前提は、もはや十分ではありません。
私たちの新しいアプローチは、いわば「価値観に基づく現実主義」です。別の言い方をすれば、理念を持ちつつ、現実に即して動く。理念と実務の両立です。
顧客と社会に対する説明責任。セキュリティとプライバシー。データの保全と可搬性。人権と安全に関わる領域での慎重さ。重要インフラを支える品質と継続性。
同時に、私たちは現実主義でもあります。進歩は多くの場合、段階的です。利害は一致しないこともある。すべてのパートナーが同じ価値観を共有するわけではない。だからこそ、目を開いたまま、戦略的に、広く関与する。世界を「あるがまま」に扱い、「こうあってほしい世界」を待たない。
私たちは、関係の“深さ”を価値観に合わせて調整します。影響力を最大化するために、関与は広く、依存は偏らせない。流動化する秩序と、その先にある賭け金を踏まえて、現実的に動く。
そして今後は、価値の強さだけに頼らず、「強さの価値」も積み上げます。
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人材育成と採用、設計・開発・運用の標準化、サイバーセキュリティ、AI活用、検証環境、そしてミッションクリティカルを支える運用力。加えて、特定技術への過度な依存を減らし、移行可能性と可搬性を高める。
生成AI、データ基盤、ゼロトラスト、ソフトウェアサプライチェーン対策、Observability、そして重要領域の内製力強化。これらは“コスト”ではなく、交渉力と継続性を生む“資本”です。
守りは、事後対応ではなく、設計・調達・運用に埋め込みます。国内産業の裾野とも接続し、調達・開発・運用の循環を厚くする。
特定の巨大プラットフォームや単一のモデル提供者に賭け切らない。複数のクラウド、複数の実装選択肢、複数の調達経路、複数の人材パイプラインを持つ。
グローバル課題への対応も、論理は同じです。論点ごとに連携の形を変える「可変幾何学」でいきます。
データ主権では、顧客がデータの所在とアクセスを決められる設計原則を共同で整備する。
標準と相互運用では、地域・業界をまたぐ参照アーキテクチャとオープンAPIの合意を積み上げる。
AIでは、特定の覇権や特定の巨大クラウドに“二者択一”を迫られないよう、モデル、データ、評価、ガバナンスの選択肢を確保する。
これは、甘い理想論ではありません。機能不全になりつつある“建前の場”に頼り切ることでもありません。論点ごとに、動ける相手と動く。必要なら多数派を作る。そうして、将来の挑戦と機会に備える、密度の高い接続網を作るのです。技術、投資、人材、運用、文化のレイヤーで。
国内SIerのような中堅の担い手が連携しなければならない理由は単純です。設計図の会議に席がなければ、要件は上から降ってきます。席がなければ、食卓のメニューになる。
巨大プレイヤーは単独でも戦えます。市場規模、研究開発、資本、影響力がある。しかし国内SIerは違う。にもかかわらず、巨大プレイヤーと一対一で交渉し続ければ、交渉は弱い立場から始まります。提示された条件を受ける。自分たち同士で「より従順な方」を競い合ってしまう。
それは自律ではありません。従属を受け入れながら、自律しているふりをすることです。
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「真実の中で生きる」とは何か
ここで、ハヴェルに戻ります。
私たち国内SIerが「真実の中で生きる」とは、どういうことでしょうか。
「オープンでルールに基づく、互恵的な統合」という言葉を、現実がそうでないのに唱え続けない。いまを、巨大プラットフォーム競争が激化し、統合が交渉力と拘束力の源泉として使われる時代だと認める。
第二に、一貫して行動することです。
相手が誰であれ、同じ基準で評価する。都合の良い相手の一方的変更には沈黙し、別の相手には批判する、という態度は「看板を掲げ続ける」ことになります。
第三に、自分たちが信じるものを“機能する形”で作ることです。
標準準拠を唱えるだけでなく、移行可能性を担保する設計、相互運用の実装、透明な運用ルール、監査可能なガバナンスを、合意と実装として積む。復古を待たずに、動く枠組みを作る。
強い国内基盤を持つことは、企業にとっても最優先です。分散は経済合理性であるだけでなく、誠実な姿勢を貫くための物質的基盤です。報復や圧力に脆弱な状態のままでは、理念を語る資格すら維持できない。
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さらに、私たちは理解しています。いま起きていることを直視し、合わせて自分たちを変える決意が必要だということを。
この断絶が求めるのは、単なる適応ではありません。世界をあるがままに見て、誠実に語り、国内で強さを作り、連携して動くことです。
古い秩序は戻りません。嘆いても戦略にはならない。ノスタルジーは戦略ではありません。
しかし、断裂の先に、より良いものを作ることはできます。より強く、より公正で、より持続可能な形を。
それが、中堅の担い手である私たちの仕事です。要塞化した世界では失うものが大きい一方で、本当の協働が成立する世界では得られるものも大きい。
虚構に合わせるのをやめ、現実に名前をつけ、国内で強さを作り、連携して動く力です。
話はそれだけだと思う。
このまま立憲にいても、何も起きない。
支持は伸びない、空気も変わらない、
それがもう見えてたんだろ。
だから党の再編に踏み切った。
選挙で勝つため、とは正直思えない。
支持が減るのも、荒れるのも、全部分かってたはず。
「何もせずに終わる」より
第一党になれなくてもいい。
多数派じゃなくてもいい。
政局が動いた時に
「この再編をやったのは野田だ」
そう言われる位置を取りにいった。
妙に筋は通ってる。
止められなかったのも不思議じゃない。
立憲の中に
「じゃあ他に何する?」って言える人がいなかった。
反対はできても、代案が出せない。
結果、一番動いた人の案が通っただけ。
その賭けに、党も支持者も巻き込まれた。
今の混乱は、その副作用ってだけだと思う。
はてなでよく見る「自民党よりはマシ」って言い回し、正直かなりヤバいと思ってる。
だってさ、「何よりマシか」なんて人によって全然違うに決まってるじゃん。
それを前提共有できてるかの確認もなしに、
「自民党よりはマシでしょ?」って“まず絶対の前提”みたいな語り口になるの、普通におかしい。
自民党よりはマシ。
いや、何が?どういう意味で?
ってなるのが当たり前だろ。
ロジックだけで言うなら
「自民党のほうがマシでしょ」ならまだ100歩譲って理解できる。
選挙ってさ、
「より多くの共感を集めて、投票に足を運ばせる作業」なんだよ。
それなのに「自民党よりはマシ」なんて、
組織票を持たないなら、
「理由はこう」
それができて初めて、票が動く。
それもせずに、
「自民党よりはマシ」で全部済ませてるの、
説得を放棄してるだけじゃん。
そんな簡単なことすら出来ないのか?
https://x.com/XU3F8wI1Csm5HQ2/status/2012419131182882930
月のうさぎ@XU3F8wI1Csm5HQ2
知らない内に親の財産を半分創価学会に寄付するという公正証書遺言を作られていた知人。
気付いてすぐ司法書士に連絡、撤回させ事なきを得た。この話、以前ポストしたらすごい攻撃を受けた。余程バラされたくなかったんだねwww
今でもこういう事やってるんだな…となり、思い出し怒りと憤りで横転した。
祖母が遺産を死後寄附するって遺言作られてて実際にほぼ全部、こちらからすれば見ず知らずの創価のカルトの糞連中に盗られたからね。
いくら近距離でちょこちょこ両親らも含めて様子見で通っていたとは言え、近距離別居で、祖父も亡くし、落ち込んでいた様子の祖母をどうするか、
父は同居しようかと話していたが母が反対し、膠着状態になっていた隙に付け込まれていた。
彼らが数十年かけて、子供である父と叔父、叔母、そして自分たち孫の為にと、貯めていた数千万の資産、ぜーんぶ盗られましたわ。
色々弁護士や警察にも相談したりと動いてたけど、警察は民事不介入、お婆さんの遺言があったんでしょ?と門前払い。
弁護士も、悪質ではあるが手続き自体は合法でやっているからどうしようもないと、結局白旗を上げた。
当時は認知症の老人の責任能力についてそこまで問題視されていなかったし、そもそもまだ軽度で一人暮らし出来る程度だった祖母に適用される訳も無く。
結局祖父母がずっと真面目に貯めてきた金は、晩年に甘い言葉ですり寄ってきた、近所の創価学会の◯◯さんを通じて、創価学会に全部盗られた。
以来創価学会はオウムとか統一教会と同様のゴミクソカルト新興宗教だと認識している。一生絶対に許さない。
さて、そんな創価学会=公明党が、立憲民主党を吸収合併する様な形で新党を設立するという暴挙に出た。
ゴミみたいな現状に歯がゆい思いをしながらも、公明党と連立を組んでいるという点でアンチ自民であった自分は
民主党時代から投票をしていた事もあった。その応援が盛大に裏切られた形だ。
狂っているなと思うのが、あれだけ自民と公明=創価との連立を批判し、
自民と統一教会とかいう糞カルトとの癒着を批判していた左翼やリベラルの連中、そしてはてな民らが、
いやマジで何なの?
あれだけキチガイみたいに壺壺連呼していた連中が、創価とかいう同類の糞カルトなら良いんだ?
壺壺ツボってた連中はどこに行ったんだよ?仏なら良いってか?なら仏教ごと潰せよクソが。
結局アイツらやお前らは、「自民党アンチ」、つまる所多数派のアンチである自分達の思想に酔いしれて
日本の特徴
ほぼ完全に日本語のみ
これはつまり
👉 「比較」が起きにくい
例:
高齢者犯罪 → 実数は多いが背景(貧困・孤独)はあまり語られない
結果:
② 日本人はマスメディアを信用しすぎ? → YES(構造的理由あり)
なぜ信用しやすいのか
「権威に逆らわない」
「空気を読む」
失敗したくない文化
異論=面倒な人扱い
言語の壁
👉 結果
になりやすい
恐怖 + 繰り返し + 権威
日本はこれが揃いすぎている。
例
「外国人犯罪が増えている」
「普通の日本人は◯◯しない」
あなたが書いた通り:
ドイツ:約30〜35%
👉 実際は:
年金不足
住居なし
つまり
あなたの指摘をまとめると:
嘘をつくというより、都合のいい現実だけを強調
日本人は
疑う訓練をされてこなかった
その結果
立憲民主党は宇都宮LRTに対する今までの立場を総括しなければならない。
このままではLRT反対の印象ばかりがついてまともに選挙で勝つことは出来ないだろう。
私も元々はLRTに反対だった。
それは保守的な栃木県民が急にLRTの生活へとシフトすることが出来るだろうかという疑念を抱いていたからだ。
宇都宮は決して都会的な街ではない。自動車が無くては生活にならない。
LRTを通すということはその分車線を減らすということ。LRTの通る東口側は、車通りは多いものの何の観光資源も無い。膨大な税金を費やして、渋滞を引き起こすだけの赤字路線になると私は考えていた。
そう考えていた市民は決して少なくない。LRT代理戦争となった2016年の宇都宮市長選では賛成派51.8%、反対派48.2%の接戦だった。
私は最後まで本当に上手くいくのだろうかと訝しんでいたが、開通されてすぐにその疑念は間違っていたことが分かった。結果としてLRTは大盛況、想定を上回る乗客数で黒字が続いている。渋滞は以前に比べ解消され、東口の賑わいも創出している。
私含むLRT反対勢力は、完全に読みを外した。完敗である。今や西口延伸に反対する市民は少ない。前向きに検討したい市民が多数派だ。
立憲民主党は、宇都宮LRTに対する今までの姿勢を総括し、反省し、西口延伸について前向きに検討するという立場を表明するべきだ。
自己批判の無い政党に他者を批判する正当性は無い。自民党に対抗する勢力として間違いははっきり間違いであったと認めるべきだ。
https://anond.hatelabo.jp/20260111203950
たとえば業界シェア30%のものがあったとして、残りがすべて違う仕組みのものだったら業界シェア30%のものは多数派ではない。
苗字を変える作業が女性の負担になってるって話があると思うんだけど
三回再婚してそれぞれ実子や連れ子が三人いたとしたら
でいまのところ済んでるんだよね
女性は三人の父親と子供の三つずつ、少なくとも六つ最大数説明が必要になったら九つ以上(どの子がどの男性親であった期間があるか等)の関係性を把握しておく必要
になるんじゃないかな
武将とかの家系図とかでみる「子供の名前は苗字を書いていない」みたいな書き方ができなくなるから違う苗字だと「どうしてそうなったか」を書かないといけないからね
「自分とは違う苗字を親のものだと言って参照して証明してもらう」はデジタルだからできる事
紙の身分証なんかを人間が目視しという証明方法は物理的な本人同士の確認が必要になってしまう
いまだって身分の証明をコード番号や生体認証でしてる所ってそんなにあるわけじゃない
だって、女性の山田さんが経緯を把握している範囲の外に佐藤さん鈴木さん田中さんの親だと言って連れ出したら確認は「ああそうですか」ですまないでしょ
マイナンバー入り家系図を持ち歩くか三つ以上、状況や内容によっては九つ以上説明する必要がでてくるわけで都度電子端末で確認してもらう事になるよね
苗字として書いてある文字情報とかもう意味ないから生体情報とか登録が必須になるかもしんないね
その生体情報から家族構成からなにからなにまで紐づいた番号の管理が気になるけど
一度の結婚でその人との子供だけで健康で過ごせる家庭を築けさえしたらなんの問題もないしそれが多数派だからね
少数派である「複数の結婚とそれぞれの子供が病気や社会的制度を利用する身分証明を必要とする状況」は必要ないかもしれない
でも「都度倍以上の負担を女性側だけが負う」人にとっては、結婚や出産の回数やシングルマザーの選択肢に負担が倍増していくわけだから
実際自分がそういう目に合うかどうかは別としてマクロ的に「女性の選択肢」として「負担が増す・生き方を縛る」と言えるんじゃないかな
そういう意味で身分の確認が全部電子化されるという事が女性を負担から解放する一手だとして推進するのもアリだね
子供NISAとかで子供も財産が持てたり社会的コードを必要とする時代になってきた
自分の人生は大丈夫なので心配ないからという人が大半だと思うけど、それなら「そういう大変な目にあってる人への支援や救済」も手厚くあっていいよね
異常な攻撃性と汚言症で有名な人たちで、増田においても話の通じなさが一際目立つ
それらすべての原因はイデオロギー以前に政治活動不適格者のメンヘラがリベラルやフェミニストの多数派になってカウンターをやってるから←これ否定出来る?
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 1
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 2
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 3
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 4 結論
一般的な規範を廃した場所、どんな行為も賞賛などの報酬に繋がらず、尊敬もされないような場所でなされる活動は、おもしろいものである可能性が高い。
なぜなら、報酬がえられないのにわざわざ何かをするということは、行為者自身がそれで満足をえられるのでなければならないからだ。
自分で自分のやることを評価できない人間は、報酬なしで満足はできないから、そういう人間は排除されるというわけだ。
そういう場所にやって来る人間は、なぜわざわざそこを選ぶのか?
それは、同じように真に価値あると実感できるものを探す人間と共同して活動できるからだ。
おもしろい環境でなされる活動というのは、おもしろい人同士が相互作用し、新しくて、実際に人の感性を刺激するものを連鎖的に生み出していく営みだ。
最初に誰かがおもしろいことして、別の人間がそれを自発的に、その人の感性によっておもしろいと感じ、最初のものとは違った新しいものを作り出していく、そういう連鎖的な活動がなされるのがおもしろい環境というものだ。
これは、他人がやっていることを評価基準とみなして学習し、報酬をえるために真似し続けるような人間がいない場所でしかできないことだ。
おもしろい人間に対して報酬を与えることができるとすれば、報酬がない環境を維持し、同じように自発的でおもしろい人間が報酬なしで成し遂げた成果を共有できるようにし、それができない人間を排除することだけだ。
いいものを作ってくれた人にはお礼やご褒美をあげないといけないとか、おもしろい活動を促進するために報酬を約束しないといけないという考えは、たちまちおもしろい環境を腐敗させる。
報酬が与えられる条件がどんなものであっても、報酬がえられる条件と人が実際に満足するかどうか(おもしろいかどうか)という条件は必ず乖離するものであり、表面的な評価基準を満たそうとするだけの人間がやってきて、すべてが台無しになってしまうのだ。
価値あることを実現する資質とは、他者からの間接的な価値判断を信用せず、自らの自発的な感性の働きを自覚することができ、そのために活動しようとし、他者が自分の行動の動機に影響を与えるのをよしとしないことだ。
そしてその反対に、無価値さをはびこらせるのにつながるのは、外的な動機でしか行動しない人間であり、また、人に外的な動機を与える環境だ。
外的な動機で行動することや、それを奨励する環境は必ず腐敗する。
評価するがわの人間でさえ、本当に自分が評価対象によって満足をえているとは限らないのだ。
何かを評価する人はただ、送り手が価値あるものを作っていると信頼して、自分ではなぜ満足しているのわかっていないのに満足しているだけなのかもしれない。
受け手が、対象のどんな性質が自分の感覚をどう刺激したのかという因果関係をはっきり自覚しているとは限らない。
受け手の評価する能力が、送り手の自己評価する能力より優っていると、どうして信頼できるのか?
そのうえ送り手が自己評価できないなら、価値を保証してれるものは誰もいないのだ。
送り手が自分の活動の良し悪しを判断できず、受け手が自身の感性で判断してくれると期待している一方で、受け手は、送り手が自身の成果を保証してくれているはずだから自分もそれをよいものと判断して問題ないに違いないと考えるという、循環依存が起きかねない。
つまりその状況では誰もものごとの良し悪しについて考えていないわけだから、いいものを作ったり、何事かを良くしていく活動などやりようがないのだ。
ここで言いたいのは、「客観的な価値を評価する能力」などといったものではなく、主観的な価値、主観的な満足さえろくに自覚できない人間がいるということだ。
そういう評価者の要望を聞いたところで、彼らを満足させるものは生み出せない。
他者からの評価を尊重して何かをする人間がいる環境や、積極的ににそうするべきとされている環境では、結局誰をも満足させないものを際限なく作り続ける義務が発生しかねない。
そうなるくらないなら、他者への評価を一切禁じ、行為者自身のみが自ら評価者とならざるをえなくるするほうが、価値あるものが多く生まれるのだ。
また仮に評価する側が自身の感性で評価できるからといって、送り手が受け手の反応だけを見て活動していればいいということにはならない。
なぜなら、その環境の価値の方向性を狭めることになりかねないからだ。
他者の評価に影響を受けるということは、被評価者は評価者のうち誰が一番適切なのかを判断できないということだ。
したがって、被評価者が最終的に受け入れるのは、多数派か、影響力の強い少数の人間かのどちらかになる。
多数派の価値観というものができあがっている環境では、当然その価値観が多くの活動者に影響を及ぼすことになるため、その環境の価値観の多様性は狭くなる。
少数の人間によって作られた価値観が共有されている場合も同様だ。
仮にその少数の価値観が確実に誰かを満足させることができ、しかも多くの人を満足させられるとしても、価値観が少数に修練していくことはあってはならないのだ。
ある人の何かを評価するということは、それにしか価値がなく、それ以外のことは無価値であり、したがってそれ以外のことはやるなとほのめかしているようなものだ。
価値観の方向性の多様さを確保するには、それぞれの活動者が他者の評価に影響されないようにし、それぞれが自発的に活動するしかない。
そして、そのような自発的な人間だけを選り抜くために、評価という報酬がないほうが都合がいい。
実際にネットで活動していた人たちがこういったことを自覚していたかどうか、意識的な動機はともかく、定まった評価基準もなく、報酬もえられない場所で活動することには、実際そういう効用があるのだ。
多数派なら弱くない
給料から年間300万は追加投資してるけどそんなのが誤差に見えるくらい名目上の資産が増えていく
株やってない人が多数派で本当に良かった。。。
下手に株で資産増やしだしたら会社辞めるやつが多くなって社会が破綻してしまう
IDECOは60歳まで使えなくて損
例えば、集団の中に「どれくらい嫌なやつが混じっていても群れに留まろうとするか」は、だいたいおそらく次のようなグラデーションで現れる。
たった一人
正直、他の人がみんな一人でいるのにどれぐらい辛いか想像できない。
俺はコロナでも全く元気だったので、この感覚は正直わからない。
3人組で1人嫌なやつがいる
残り2人との関係性が良好なら、多くの人は我慢するのかなと予想
「まあ全体としては悪くない」「1対1にならなければ耐えられる」という判断が働く気がする
4人組で1人嫌なやつがいる
嫌なやつが相対的に“薄まる”ため、集団のメリット(孤立しない、情報が入るなど)が勝ちそう
俺は耐えられない
4人組で2人嫌なやつがいる
ここで分岐が起きる。
多数派は「嫌じゃない側がまだ半分いる」なら残留を選び、少数派は距離を取り始める
この段階で俺は逃げ出している
5人組で2人嫌なやつがいる
たぶん多くの人は耐える。
「常に不快ではない」「雑談の当たり外れがあるだけ」と認知を調整し、居場所を維持する
5人組で3人嫌なやつがいる
6人組で3〜4人嫌なやつがいる
かなり「一人でいたくない」人だけが残ると予想。
ほぼ全員が嫌なやつ
みんなを見ていると、「みんなと一緒にいること」そのものに価値を見出している気がうっすらしているんだけど、実感としてわかないので、コメントもらえるとありがたいです。
かけ算の順序が逆だと不正解なのか云々という話題の炎上を定期的に目にするので、なんとなく感想を残しておく。内容的には既出かもしれない。
かけ算順序に肯定的な教員の多くは「小学校では結果より過程が重要」という話をする。この主張は、状況説明としては適切だが、かけ算順序を肯定するための理由付けとしては弱い。理由として挙げるならば「理解したか否かを判別するために、過程の適切さを重視している」とする方が適切だ。そして、さらに踏み込んで説明するならば「過程が定型に沿っているか否か以外で理解度を評価できるだけのリソースが小学校には無い」となるだろう。
例えば、「部屋に箱が3箱あります。1つの箱にはりんごが4個入っています。りんごの数は全部でいくつでしょう?」という問題があるとする。答えは12個だ。ここで、途中式が4×3=12は正解だが、3×4=12は不正解、という採点を小学校教員がしたとする。おそらく「いやいや、順序が逆なだけで不正解はないだろう」という批判がくるだろう。では、これが3+3+3+3=12とか、2×6=12とか、14-2=12とか書いてあるとどうだろう? 正解にするか否かはともかくとして、ここまでくれば「計算結果はあってるけど、問題文は理解できているのか?」と疑ってしまう気持ちは理解してもらえると思う。小学校の教員は、この感覚をかけ算の順序に、さらに言えば文章問題以外にも適応している。
もちろん、先程のような途中式だったとしても、解き方が独特なだけで問題文も数式も理解できているという可能性はある。しかし、少なくとも大半の公立小学校においては「理解した上で他人とは異なる解き方をしている児童」より「理解していないので他人とは異なる解き方になっている児童」の方が圧倒的に多数派である。だからこそ、かけ算の順序が逆になっている解答を見た時は「3×4=12は数学的に正しいか」ではなく、「その児童はなぜ3×4=12と書いたのか(なぜ教えた方法と違う解き方を選んだのか)」を考えなければならない。もし、文章中に並んでいる数字を何も考えずに並べただけの場合は「問題を理解できていない」のだから、正解にするのはまずい。偶然正しい結果を導き出してしまった状態を正答として評価してしまうと、結果が不適当だった場合に過程を見直そうとする意識が失われてしまうからだ。偶然の正答を許容し続けると、適切な結果が得られなかった要因を、適正の有無・状況の違い・運の悪さ等々に見出し、「よくわからないが今回は仕方がなかった」と判断するようになりかねない……というのが、おそらく多くの教員が考えていることだろう。
これに対し「だったら理解してなきゃ正解が出せないような問題にすればいいだろ」と言う人がいるかもしれない。それは正しい指摘だし、中学校以降の数学の問題の一定数はそういう風にできている。だが、理解していなければ正答できない問題は、丸暗記で問題に挑む人を篩い落とせるだけの情報量・複雑さが必要になる。算数の範囲でこれらを実現するのは難しいし、仮に実現できたとして、中学入試みたいな問題ばかりテストに出ればモチベーションを失う児童が多発してしまう。
そうなると「理解している児童のモチベーションは犠牲にしていいのか?」とか「授業通りの解き方だから理解しているとは限らないのでは?」という点が問題になる。これも正しい。そして、児童全員の理解度を正確に把握することが目的ならば、最適解は「児童一人一人と対話しながら個別に確認する」になる。だが、各学習過程ごとに詳細な個人面談を実施できるだけのリソースなど小学校の教員には無い。リソースが不足している以上、賢い一部の児童を切り捨ててでも、指導法を多数派に合わせるしかない。それが現状だろう。だからこそ、小学校のテストは「定型に沿った理解をしているかの確認」以上の意味はなく、学力の優劣判定に適応すべきではないと思うのだが、能力の相対的な評価の提示に対する需要が無くならない限り難しいのだと思う。このあたりは多分、どうしようもない。