左翼の総メンヘラ化と21世紀の世界

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 問題を矮小化したとしても、「だめ連」以来の最重要の課題に直面させられている。
 92年に「だめ連」を立ち上げた面々は、〝モテない〟とか〝仕事が長続きしない〟とか〝将来の不安に押しつぶされそうだ〟とか〝世間とうまく折り合いがつけられない〟とかの〝問題〟を抱えており、自身らを〝だめ人間〟と規定してはいたが、彼らは決していわゆるメンヘラではなく、精神的には極めて健康な、要は全共闘以来の学生運動潮流の末裔ということになる、ごく普通の新左翼系ノンセクト活動家たちだった。
 しかし「だめ連」の存在が次第に注目を集めていくにつれて、本当に〝だめ〟な連中が「だめ連」界隈に出没しはじめ、その活動を侵食していった。つまり大量のメンヘラどもの社会運動シーンへの参入である。「だめ連」のコンセプトからいって、それらの連中を追い出すわけにもいかず、むしろ対等な存在として遇してしまうこととなった。こうしてメンヘラどもは調子に乗り、増長していったのである。
 もとよりメンヘラは、福祉の対象ではあろうが、対等な存在として共に社会的な営為を担う仲間などにはしようがない。そんなことをすれば運動は必ず崩壊する(じっさい「だめ連」も主にはこれが原因で崩壊していった)。
 かつて社会運動は健全な精神の持ち主たちによって担われていたが、「だめ連」以降、ヘンに盛り上がってしまった「だめ連」を経由して、自身がイッパシの〝活動家〟ででもあるかのように勘違いをした大量のメンヘラどもが、日本の社会運動シーンの各所を我がもの顔で闊歩するようになり、社会運動の不健全化が急速に進んだ。その結果として〝今〟がある。
 「だめ連」の時点では、まだしも運動を呼びかける側、つまり「だめ連」を立ち上げた面々は心の健全な若者たちだったが、00年代半ばに「だめ連」の近傍から登場してきたフリーター労働運動においては、その活動を担う主要な面々の大半がすでにしてメンヘラだという悲惨なことになっていた。とくに若い左翼運動の中枢部分が00年代のうちには完全にメンヘラどもによって占拠されるに至り、以後そうした部分とは別個に新たに登場してくる例えば反ヘイト・スピーチの潮流などにしても、たちまちのうちにそれらメンヘラどもの浸食を受け、同様に不健全なものへと変質させられていった。
 今や日本に〝健全な左翼運動〟など存在しないと云ってよい。左翼運動と見なされているものはすべて、とくに20代、30代、もしかすると40代ぐらいまでによって担われている部分は、実際には社会運動などではなく、メンヘラどもの単なる〝心の病の発症〟でしかない。
 主観的左派(実際は単なるメンヘラ)の面々は参政党の躍進に危機感を覚え、その街頭演説などを〝カウンター〟と称して妨害しているようだが、くだんの〝カウンター〟勢の中に、昨今ガゼン注目を集めている赤いグラサンの若い共産党員がいる。参政党側の若者たちからは〝紅の豚〟と呼ばれているらしい、この30代前半の共産党員が、参政党の街頭演説の場で発煙筒を焚いてみたり、持参のスピーカーでわーわー騒いだり、傍若無人に振る舞っている様子は、ネット上のさまざまな動画で確認することができる。もちろん、どう見てもかなり重度のメンヘラなのである。
 そもそも〝カウンター〟勢の大部分がすでにメンヘラどもによって占められているのは、かつて在特会に対したのとまったく同様の手法で彼らが参政党に対していることからも明らかだろう。在特会はいかにも悪辣な集団に見えたから、かなり乱暴なやり方で〝カウンター〟をかけても世間は〝カウンター〟勢の側におおむね同情的だった。相手がN国党とか、いわゆる迷惑系ユーチューバー出自の連中である段階でも、まだ世間は大目に見てくれた。しかし、いかにその主張の中身が〝ヘイト〟的であったとしても表面上は極めて紳士的に誠実に、ひたむきに政治に取り組んでいるように見える参政党を相手に、相変わらず〝vs在特会〟のノリで傍若無人な〝カウンター〟を仕掛けていては、世間は〝カウンター〟の側こそが〝反社会的〟な存在であるとの印象を持つだろうし、参政党の側に同情して、ことによれば、ヒドい目に遭っている参政党を応援し始めかねない。
 そういうダメダメな〝運動〟を展開してしまうのも、要するに〝カウンター〟勢が総メンヘラ化しているためだと私には思われる。社会性というものがなく、自身の言動が社会的にどういう効果を持ってしまうのか分からないし、考えもしないし、そもそもおそらく興味がない。メンヘラどもはただひたすら自分の感情をぶちまけたいだけで、それを世間がどう見るかなんてことは、最初から最後までどーでもいいのだ。
 参政党の躍進を危惧するのなら、まずはこういうメンヘラどもを〝カウンター〟の場から放逐すべきなのだが、もはや〝カウンター〟勢においてはメンヘラどものほうが圧倒的な多数派なので、そういうことにはならない。〝紅の豚〟はむしろ斯界で英雄視され、そもそも病気の発症としてしか起きていない〝カウンター〟行動は、ますます重篤化していく。参政党の側は「〝あんな人たち〟に負けるわけにはいかない!」とでもアジっていればいい。
 もっとハードコアな極左勢力の代表格、中核派も大変なことになっている
 いろいろ云われているが、あれも要はメンヘラ問題以外の何物でもない。昨年(2024年)9月に同派初の女性の全学連委員長に就任したという若いメンヘラ女の暴走が、結成70年にもなろうかという日本最大の過激派組織の1つを最終的な崩壊に追い込もうとしている、というのがコトの本質である。
 メンヘラ委員長は、学対つまり学生運動対応部門の責任者でもある40代の中核派大幹部と婚姻関係にあったという。いろいろ漏れ伝わってくるところによれば、そもそも大幹部氏は女性関係にだらしなく、大いに問題のある人物だったというのだが、おそらくはそういうあたりに起因する夫婦関係のゴタゴタを、くだんのメンヘラ委員長は、メンヘラなので後先も考えず衝動的に、いきなり党中枢に「何とかしてください!」とねじ込んだらしいのである。メンヘラ委員長としては、夫である大幹部氏の女性関係のだらしなさなどを追及する査問会なり何なり実施してもらって、ちょっと〝お灸を据える〟ぐらいの対応を期待していたんだろうが、大幹部氏に他に何か問題でもあったのか、中核派最高指導部は早々に〝除名!〟という結論を出してしまって、慌てたのがメンヘラ委員長の側、という展開となった。
 私的な問題を公の場に持ち出すことで、自分から問題をややこしくし、こじらせたくせに、自分の言動について自省してみたりはしないのがメンヘラというものらしい。メンヘラ委員長は、〝そこまでしてくれとは云ってない〟的に最高指導部の〝やりすぎ〟を(その原因を作った自分の責任は棚に上げて)非難し、くだんの大幹部氏とは何事もなかったかのようにヨリを戻すと、指揮下の全学連活動家の大半を引き連れて、大幹部氏と共に中核派を割って出た。
 これで中核派はもう終わりだろう。少なくとも中核派全学連の再建は当分不可能だろうし、たぶん無理である。組織を割って出たメンヘラ委員長らのグループの側にしても、ともかくは最低でも2000人規模ぐらいではあるのだろう中核派本体と切れては、拠点もないし資金的にも行き詰まろうし、しょせん20~30人規模の、他にも数多あるメンヘラ系ノンセクト・グループの1つにすぎないものとして、存在感を次第に失っていく以外の将来は見えない。
 まあ、日本の革命運動史に害毒しか流してこなかった中核派がどうなろうが知ったこっちゃないし、本来なら半世紀ぐらい前にとっくに滅んでいるべき連中だ。それに今回のことは、そもそも中核派本体の中枢指導部にも責任があろう。
 そこそこ美形の(と世間では見なされてるらしいが、美的感覚が狂ってるっぽい私には今ひとつピンとこない)〝若い女〟を委員長に据えれば、沈滞傾向いちじるしい学生運動部門を再建しうるんじゃないかというゲスい計算がハナから透けて見えていた。そういう計算がなければ、あんなメンヘラを自派の学生組織のトップに抜擢しようとは思うまい(あるいはそれほど人材が払底していたということかもしれないが)。組織中枢のそれらゲスいオヤジ(というよりジジイ)どもが、このかんくだんのメンヘラ委員長をこぞって盛り立てまくり、実際まんまと中核派全学連は勢力拡大の傾向にあったという。
 しかしそれが裏目に出て、しょせんジジイどもに盛り立ててもらってたにすぎないメンヘラ委員長は自分の能力を過信して増長、委員長就任からわずか1年ほどで今回の騒動を引き起こし、中核派そのものが存亡の危機にまで立ち至っているわけで、全体として自業自得ではある。
 同じことは共産党についても云える。仮に参政党の躍進が憂慮すべきことなのだとして(私は必ずしもそうは考えていない)、これに対抗する運動の足を引っ張っている以外ではない〝紅の豚〟の行動を、こともあろうに共産党本体の大幹部たちが(全員ではないかもしれないが)持ち上げていたりする。
 要は、いまどき左翼的な運動に参入してくる若者なんてのは、どうもほぼ全員がメンヘラなのである。
 その脈絡は簡単に想像がつく。未熟な子供をビシバシ鍛え上げて、社会性を身につけた一人前の大人へと矯正していくための有史以来の人類の普遍的営為を〝ハラスメント〟呼ばわりし、〝みんな違ってみんないい〟的に甘やかすポリコレの風潮が、治るメンヘラも不治の病へと悪化させまくってきた。というか、メンヘラどもに病気を治す努力を放棄させ、〝ありのままの自分でいい〟と開き直らせてきた。中でもとりわけ悪質な、メンヘラのくせに社会的に活躍したいなどと分不相応に増長した部分が、ポリコレの牽引者であり、立場的にもメンヘラどもを温かく迎え入れざるを得ない左翼の運動領域に大量参入してくるのは、当たり前すぎるほど当たり前のことである。
 左翼のジジババの側としても、若者たちが参入してきてくれなくては自分たちの運動は先細りなのだから、それらメンヘラの若者たちを過剰にチヤホヤしてしまう。病気を発症して傍若無人に振る舞ってるにすぎない若者を、〝元気がいい〟などと褒めそやしてしまうのだ。
 これまでに言及した共産党や中核派の他にも、私のごく身近に、具体的なことには触れたくもない例が1つある。2014年以来すでに40回以上開催してきた「教養強化合宿」の総勢500人近い若者たちの中で、歴代最悪に迷惑きわまりなかった重度のメンヘラ青年が、もちろん病気の発症でしかない逸脱行動を関西方面で起こし、それを当地の新左翼系のジジババどもが盛んに持ち上げているらしい。
 〝メンヘラ追放〟こそが、壊滅して久しい日本の若い社会運動を再建していくための喫緊の最重要課題だというのに、今のところ、まったく正反対の応接をするジジババどもしか斯界には存在しないようで、私はつくづくウンザリしている。

 あえて問題を矮小化して、日本の狭い左翼運動シーンの枠内にのみ焦点を当ててきたが、考えてみればこれは、まさに21世紀的な〝世界〟の問題とも密接につながっていると云えなくもない。
 私は最近、敵国アメリカの苦労を思っては同情する日々なのである。
 日本では95年のオウム事件以来、世界的には01年の9・11以来、延々と続いている〝対テロ戦争〟の相手は近代的な主権国家ではなく民間のテロリスト・ネットワークである。19世紀以来、あるいは17世紀以来、近代的な主権国家どうしの間で築きあげられ相互承認されてきた〝戦争のルール〟が、主権国家ではない民間のテロリスト・ネットワークとの間では一切共有されていない。
 〝対テロ戦争〟の初期にアメリカが敵としたアルカイダにはまだしも分別のようなものがあった。しかしボコ・ハラムだのイスラム国だのの段階では、アメリカ兵を捕らえては首をちょん切って、その動画をネットに上げてワーイ!と喜んでいるような連中が相手なのである。〝メキシコ麻薬戦争〟のギャングたちもそんな感じだが、そういう21世紀的にぶっ壊れた連中と、一体どうやって戦えばいいというのか。
 私がいま相手にしている連中も、近代のルールどころか人類普遍の道徳や倫理を一切持ち合わせていないメンヘラどもの集団である。それに気づいたから私は9月8日の段階で「これは〝戦争〟にならない」という認識を表明し、いったんは「〝戦争〟回避」を決断したのだが、敵方のあまりの無礼によって「回避」は不可能となり、ずるずると戦争の泥沼に引きずり込まれてしまっている。
 最終的には能力と決意性の問題なので、私の側が負けることなどあり得ないという確信に揺らぎはないが、それにしても大変な戦いである。思わずアメリカに同情してしまうし、まさに21世紀的な、橋下徹みたいな奴が権力を握ってしまったポンコツ国家を相手に苦労させられているロシアにも同情する。
 困難な戦いだとはいえ、現在の日本の運動シーン全体を覆う普遍的な課題への取り組みであり、なんと〝21世紀の世界〟の問題とも深く関係しているという認識でいるから、私は自分がいま展開している闘争を誇りに思っている。これほど重要な闘争をやっているのは、少なくとも日本には私だけだ。私は決して、〝しょーもない〟揉め事にかまけているわけではない。

 文中でリンクを張った以外にも、
 ・開戦宣言(未遂)
 ・青井柚季(775りす)の悪
 も参照のこと。

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