はてなキーワード: ノットとは
びっくりするくらい口に合わなかった。
ただしそれは受け取り手側である自分の問題なので、脚本とか演出がつまらなかっただとか、俳優さんたちの演技が…とかいう話ではない。(むしろこれが初舞台と話していた栗田くん、事前の配信からもいい子なのがすごく伝わってきたのでこれからも頑張ってほしい)
話は最終的に繋がるけど、女のドロドロした小競り合いのオムニバスといった感じ。
いろんな話で衣装が変わる推しが見られたのはよかった。世界で一番可愛かった。
でもそれ以外は私には受け入れられなかった。
本当にあんな話をする女がいるのか?と思えるような人生を送ることが出来ているのが何よりの幸福なのかもしれない。
友達と遊んでも友達の彼氏のスペックなんて気にしないし、自分も話さない。だってその場にいるのは私の大切な友達で、その子の彼氏じゃない。もちろん彼氏の話を聞いてほしいと言われたら別だけど。
セフレだとか不倫だとか、そんなものとは縁のない人生を送ってきたから何一つ共感できなかった。
あと演出への共感性周知がすごい。オタクの使うワードがもりもり出てくる。
自分のことをフェミニストだとは思っていないけれど、女という性別をエンタメとして誇張して描かれて(もちろん実際にこういう人もいるんだろうけど)、そしてそれを演じるのは男性で、正直かなりモヤモヤの残る観劇体験だった。
笑えた!共感できた!元気もらった!という感想がSNSでは多く見られたけど、対極の感想しか出てこなかった。ただしこれは繰り返すけれど受け取る側である私の問題。
多くの人が萌えアニメはノットフォーミーって感じで見る前から切るじゃん。
その中でも特別出来がいいと噂聞いてやっと見始めたとしても、風呂サービスシーンパンチラ乳揺れとかエロサービスが目立ったら、やっぱりノットフォーミーだなーって見るのやめるし。
上記で書かれてることもあり俺達向けだと思うじゃん
一般の人は見ないと思うじゃん
でも実際にはオミットされてたわけよ、売上のためという方便で表現を
アニメから入った人は、じゃあ原作でも読んでみようと思っって調べてみたら
https://x.com/bocchi_goods/status/1967795178120548362
これを見るわけで
アニメから入った性表現苦手な人が原作見て離れる現象起こるでしょ
公式の路線考えるんだったら余計な表現って言って性表現切り取ったのって悪手じゃない?と思う
ゆるく知ってもらってアニメ自体で儲かればいいという考えも製作委員会方式なら取り分小さいだろうし
実際は漫画単行本で儲かれば、という考えなら、公式から見ればやっぱ性表現は入れたほうが良かったと思う
やっぱアニメ制作のほうが出版社より立場大きかったんじゃない?
で、「まあアニメはアニメでそこそこ熱意がある人だしまあ良いか」で合意だったのでは
って感じで、まぁ仕方ないのかな〜って
で放送後表現規制の現状も様々変わってて、アニメ層、漫画層共に、
メインで受け取ってたファン
+
表現規制に敏感な人
+
昨今のフェミニズムの全てを焼き尽くす焼畑戦法に対する◯意を持つ層
論じてるの、売上立てたい人目線とか、制作側の目線で見てる人多いけど、なんで受け取る側のことを見ないのよ
2期地獄やぞこのまま行くと
多くの人が萌えアニメはノットフォーミーって感じで見る前から切るじゃん。
その中でも特別出来がいいと噂聞いてやっと見始めたとしても、風呂サービスシーンパンチラ乳揺れとかエロサービスが目立ったら、やっぱりノットフォーミーだなーって見るのやめるし。
オタクもそういうサービスないアニメでも出来が良ければ見るじゃん多分。
幅広く見てほしいって試みは実際成功したわけだし、何にそこまで狂って海外に燃やすよう呼びかけたり、キャンセル署名集めたりしてるんだろ。
フェミなんか嫌だというだけでボコボコにされてるし、署名集めたりしないし、表現の自由戦士のがよっぽど自分の嫌いな表現に敏感で弾圧的じゃん。
喫茶店でコーヒーを飲みながら時間を潰していたところ、若いカップルが入店してきた。反射的に「ケッ」と思った。
この反応から分かる通り、自分は陰キャである。見た目は冴えないし、野性味や競争力もない。
だが、客観的に見てかわいい彼女はいる。なんなら連中が入ってきたときLINEしてたし、デートで喫茶店を利用することもある。にも拘わらず、なぜ「ケッ」と思ったのか。
「ケッ」の、より具体的な詳細を書くと、これは次のような感情であった。すなわち、
・「こいつらは自分とは違う」という疎外感
である。
彼女がいるのに、なぜ彼等が異質に感じるのか?答えは「ここで覚える異物感は交際相手の有無ではない」からである。もっと先天的で根深い感情だ。
あまり人を雑なラベリングで語りたくはないが、自分はASD/ADHDの発達コンボだ。「自分は他の人と同じようになれない」「理解できないし、理解されない」という強烈な居心地の悪さと排斥圧を常に感じながら生きてきた。
はっきり言って交際相手の有無と生きやすさはノットイコールだ。確かに、ある程度の相関関係はあるかも知れない。だがしかし、それは「交際相手ができれば生きやすくなる」ことを意味しはしない。
ナンパ師を崇める一群がいる。彼らは弱者男性を自称しているが、俺からすると彼等はたまたま配偶者を得られなかっただけの、精神は寧ろアルファと瓜二つの存在に見える。しかも彼等は交際相手こそいないが、社会的には成功している者が少なくない。難関大出て有名企業に正社員として勤務してるハイスペック共のどこが弱者なんだよ。
彼女がいようがいまいが、自分の人生は自分で生きるより他なく、また自分の性質が変わる訳でもない。男女交際みたいな別になくても生きていける、云わばオプションの娯楽でしかないものを至上のものとする感性は、まさにアルファの精神構造そのものだ。相手に人格を認めず、とにかくセックスへの最短ルートを模索するというところもよく似ている。
彼女ができただけで解決する苦悩なんて、所詮その程度のものでしかない。それは浅薄で低俗な物質主義で、自己の存在それそのものに起因するどうにもならない苦痛とは根本的に全く異なるものだ。たまたま「持っていない」というだけで、信奉している思想そのものはアルファと何ら変わりない。
アラサー腐女子です。確か新卒で働き始めたあたりで刀剣乱舞-ONLINE -がサービス開始しました。
Twitterで流れてくる顔のいい男たちを集めたりカップリングさせたりするため(あとpixivの神二次創作の解像度を上げるため)サーバー解放日にPC前で待機して豊後になんとか滑り込みました。まあハマりました。
来る日も来る日も出陣遠征鍛刀を繰り返し着々と刀帳を埋める日々。嘘です虎徹全然来なかった、チキンな進軍しかしないから(だってケガすると可哀想じゃん)検非違使が全然出てこなくて……。ドロップが源氏に入れ替わった後も兄者が来なくて膝丸がずっといない兄呼んでて可哀想だった……。ちなみに三日月と小狐丸はそんなに執着してなかったうちにとうらぶポケットのキャンペーンかなんかで貰えてラッキーだった。
貞ちゃん実装時はTLが沸いたし大包平のときはもっと爆沸きだった。トレンド上3つぐらい「大包平」「イエスカネヒラ」とかで埋まってたのマジで面白かった。
実物の刀もいっぱい見に行ったし地元にも実装刀の展示があったから、フォロワーに会いに行ったり刀のついでで会いに来てもらったりした。あの時期が一番ネットの知り合いと会ってたと思う。無茶なスケジュールで一人旅もした、行ったことない県に行けてよかった。
刀ステが先だっけ?発表順。情報が流れ始めた時TLでフォロワーたちがなんだかそわそわしていたので演出とか出演俳優とか?は豪華だったっぽい気配だけ感じていた。
それまでにもテニスとかで2.5次元展開が盛んなのは認識してたけど、どハマりしてる自ジャンルがそうなったことはなかったから若干興味はあった、どんなもんかな〜って。
で、キャストのビジュアルが出た。人間が刀剣男士の格好してるやつ。TLもトレンドも沸いてた。公式からのRTで回ってきたから画像見た。
そりゃみなさん人気俳優ですから顔立ちは整っていらっしゃいますよ。イケメンですよ。股下も長めでいらっしゃいますよ。
でもやっぱさ〜〜〜二次元見慣れてるから変なんだって。jpgのこと愛してるから立体の違和感すごいんだって。
これに映画館の10倍ぐらいするたっけーチケット代払うのは……無理!!!物好きのみなさんよろしくお願いします!!!ノットフォーミー!!!
で一回見なかったことにした。
舞台も同様にやっぱり変だな……と思ったのでこれもスルー。てか書いてて思ったんだけど、舞台はともかくミュージカルってなに???なんで歌うの?刀が。歌ってる場合か?歴史修正主義者との戦いに集中してくれ。
TLは沸いてた(2回目)けど、まあ自分がハマってるのはゲーム本体だしな〜と思って全てを無視した。そのうちゲーム内先行応募とかの通知も来てた覚えがあるけど全スルーした。
初報から半年〜1年ぐらいの期間だったと思うけど、やっぱ変だな?とずっと思ってた。
2.5次元展開が……多すぎる!!!なんなら新マップ追加より多い!!!
TLもすごく賑わっている!レポのイラストとか流れてくる!pixivのキャプションにも「※舞台ネタ注意」とか書かれ始めた!知らん!観てない!ごめん!!!
展開が多いから刀剣男士のコスプレをする成人男性の新しい写真が不定期に回ってくる。だからどうして成人男性が無理してショタの短刀の格好をなさるの!?わからない!!!せめて子供を連れてきて!!!変だから!!!
この辺から摂取量が増えたことによる過剰な免疫反応的な感じで2.5次元のすべてが嫌になってきた。なので俳優っぽい人は全員ブロックし始めた。だがそれっぽいアカウントをブロックしてもブロックしても別の俳優のアカウントが雨後の筍のように生えてくる〜〜〜ていうか俳優をブロックするだけだと舞台公式がRTする未捕捉の俳優がフォロワーからのRTなどで回ってくる〜〜〜フォロワーのことは好きでフォローしたけど最近ミュとステの話しかしないよ貴女の本丸の男士の話が聞きたいよ〜〜〜ミュートにすると日常ツイートも見えなくなって心の距離が離れていくよ〜〜〜そして推し(当時この言葉あんまり使われてなかった気がするけどどう言い表してたんだっけ……)がいずれきっと成人男性の変なコスプレとして消費されるの、い、嫌だ〜〜〜〜〜!!!!!
Twitterはオタクとしてのみならずニュースやオタク関係以外のトレンドを拾うのに必須のライフラインと化していた。だが疲れ切った私のクソザコメンタルではもはや刀剣乱舞とは2.5次元の脅威(成人男性によるショタや二次元イケメンの似合わないコスプレ)と密接に関連したホラーコンテンツなのである。
刀剣乱舞のことを考えると……つらい!
悲しみのうちにこんちゃんを1000件のブロックの末席に加え私は本丸を棄てた。嘘ですDMMアカウントは消しませんでした。貧乏性なので。
当たり前だがこの10年、いやもっとか、2.5次元コンテンツは隆盛を極めている。めでたいことです。
救いを求め友達の勧めで履修した移動先のジャンルもあっという間にミュージカルを始めた。なんなら刀剣乱舞よりコンテンツ規模が小さいから俳優の皆さんがなんかこう、もっと素朴なお顔をされていた。リアルで会ったらかっこいいんだろうけども。
俳優だとかステージメディアだとかのブロック数は今メインアカウントの設定欄確認したら3000を超えていた、と思ったけど多分ここには『2.5次元舞台関係に好意的な発言をしたFF内外一般オタクアカウント』も多めに含まれているはずだ。狂いの最盛期はそれぐらい見境なくブロックしてた。
2.5次元が本当に憎かった。今は単に嫌いなだけだけど、ピーク時は確かに憎しみを抱いていた。
私はjpgを愛してオタクをやっているのにどうしてわざわざ三次元の人間に再現させようとするの?無理なのに。作画が全然違うのに。
2.5次元を推すフォロワーたちが俳優の人をキャラ名で呼んで喜んでるのも全然わからなかった。あなたたち画面に映っているイケメンと残念コスプレ成人男性を同じ存在として扱ってそれで、最初に愛した元のキャラクターに失礼だと思わないんですか?
あと俳優の方がやってる、自認をキャラクターにして写真あげたりするなりきりムーブがま〜〜〜〜〜じで許せなかった。懺悔ですが有害コンテンツとして通報したことあります。キモすぎて。どうせ届かなかっただろうからイカレ野郎のキモムーブだと思って許して!
思い返せば本当に気持ち悪かったですね、憎しみが極まっていた時期の自分。今はここまで攻撃性ないと思います。年取って体力なくなったし。静かにブロックしてるだけです。
話が散らかってきたのでもうオチに持って行かせてもらうと刀剣乱舞は再開しています!今は一生懸命鍵集めてる。宝物庫にまだ持ってない男士入ってるんだよなあ、課金していいかなあ。
再開のきっかけは百振配布キャンペーンです。ここまで読んだ人何人いるかわかんないけど全員審神者だろうからご存じかとは思いますが、年末年始?あたりにログインするだけで刀剣男士百振(キャラクター百体)もらえるキャンペーンやってたんですね。
貧乏性の血が疼きました。往時に比べたら疎遠になったけどジャンル移動しても付き合ってくれてるフォロワーの推しや、TLを駆け抜けていった好みの男士や、歴女()やってた時の推し武将の佩刀、真面目にやってた頃お世話になった近侍の兄弟刀などなどが……ログインするだけで……!?いいんですか……!?
しちゃった(ログイン)そのままずるずるとプレイ再開して今に至る(雲次は間に合わなかった)のと並行して、ひょっとして今なら憎しみも薄れて向き合えるのでは?2.5と……と思ってその頃やってた舞台かなんかの画像を見に行きました。
やっぱ変!!!!!!!!三次元の人間、鼻デカ!!!!!!!!!顎広!!!!!!!!!!!
やっぱねえ、二次元を愛している人が触れていいコンテンツではないですわ、2.5次元。
ミュだとかステだとかでキャラの掘り下げとかあるらしいけど、いらん!!!必殺「うちの本丸」で今後もやらせていただきますね〜もうこないからね〜
7年ぐらいブランクあるし、ゲームの方かなりアップデート入ってて知らん機能知らんボタンがいっぱいあるのでX(旧Twitter)で検索かけて情報収集してみたんだけど、そうすると先人や攻略勢の皆様による有用な知見と一緒におすすめタブにい〜っぱい2.5次元情報が流れてくるんですわワハハ なのでもう少なくとも本アカウントで刀剣乱舞の話はしません!!!Gの話するとGが来るって言うじゃん!!!呼ばない!!!!!
でも久しぶりに会った自本丸の刀たちは懐かしくてかっこいいし、金槍が遠戦で何もできないまま死ぬと気持ちいいし、キャンペーンで来た男士から新たな推しも見つけたし、やっぱ好きだな〜刀剣乱舞。と心底思いました。
これからは攻撃性を抑えつつ、棲み分けとブロックを駆使してなるべく2.5次元を目に入れないようにして刀剣乱舞と付き合っていこうと思います。
それはそれとして刀は野球しないだろ!!!!!!ドームで歌うな!!!!!!!!!!!いや本丸で三角ベースに本気出してる太刀打刀見たくないのかと言われたら嘘になりますが……
追伸:コンセプト上の問題で江の男士とは相容れないような気がしていたが豊前から平成ライダーの主人公っぽい波動を感じているので歩み寄ってはいきたい、Zeppは行かない。
①推し活という名の消費自慢になってきている
うるせえ体力ないからコンサートにしろFESにしろ金のつかいどころのない推し活を老人は強いられているんだ!
若いうちにいけよ
②生身の人間をキャラクター化して消費するようになってきている
「 「生身の人間をキャラクター化すること」の恐ろしさ・おぞましさにもっと自覚的になるべきではないだろうか。」
それはそう。ジャニーズはじめとするアイドルのキャラ化は隠れてやるべきと昔からいわれていた。まともにやってたジャニーズファンは今もがんばってるとおもうぞ
しかし一つ見落としている。おぞましい老いはファンにも本尊にも平等に訪れる。
消費も一時だし、また次のバカが消費してくれヅラでデビューしてくる。流れが止まることは永遠にないのだ。
③履修に対するハードルが高すぎる
公式から買ってくださいって言うけど公式がダフ屋にチケット売ってんじゃんっていつも思う。
一生懸命稼いだ金でFC入って申し込めるだけ申し込んだ抽選ぜんぶ外れた公演のチケットがダフ屋にあったら買うだろ。だって買わなかったらそこ空席になんだから。
某韓国アイドルのFCに3年近く入った頃、ファンの母数が爆発的に増えて公演当たらなくなってめちゃくちゃ転売チケ買ってた。天井席で定価プラス20k位。死ぬほどコスパ悪いと思ったけど、各地方の方言話す推しとか、公演ごとに演出やセトリが変わる可能性もあるからどうしても見たかった。実際に初日と2日目以降でセトリが変わったことがあって、そこからはより熱心にできるだけ多く観劇したいと思うようになった。
同じドルオタの友達に頼んで一名義増やしたけど、コンセプトの変化についていけてなかったり、コロナもあって熱が冷めてしまった。コロナ禍が空ける頃にはもう自名義か友達名義かどっちか当たればいいや位の気持ちだった。
2年前に友達名義のチケット持って地方遠征して入場したとき、初めてランダム本人確認にぶち当たって入場拒否された。友達が行けなくて代わりにきたから(これは嘘だけど複数名義だから)高額転売じゃないとか、発券前だったから私が発券して支払いした領収書すぐ出せるとか、友達に今すぐ連絡して身分証明書の写真もしくはカメラ通話で証明してもらえるとか、粘ってみるけど無理だった。
ゴネている間にスタッフが2人、3人と増えていき、そのうち一番年配ぽいスタッフと口論に発展した。スタッフたちの「券面名義と顔写真付き身分証明書が一致しなければ入場できないと規約にある」って正論が効きに効きまくってピキってたので。
「同じように券面の名義と入場者が一致していないのに観劇できる者がいる可能性は認めるのか」「もし認めるならそんなのおかしいから全員に本人確認しろ」と言えば「不公平性は理解できるが来場者全員への本人確認は様々な問題がありできない、私たちもやりたい気持ちはある」と返される。気持ちがあるんだったら今この場でやれよ早く!と声を荒らげてしまう。
見かねた別のスタッフが「近くに券面名義の友人はいないか?」と質問してきた。意図が読めず答えあぐねていたら「もし近くに友人がいて、顔写真付き身分証明書があって券面と一致すれば入場できる」と信じられない言葉が続く。まあ友人は私に名義貸してるだけだからその場にいないし無理なんだけど、もしいたとして、それが罷り通るのおかしいだろ。結局券面名義と入場者はノットイコールなのに、券面名義と顔写真付き身分証明書がイコールだったら別人が入場できるんだ!
二の句も継げずに絶句したのち、あまりにも屈辱的で惨めで辛くて悲しくて苦しくて結局規約違反してるのは自分だからチケットも入場者特典も全部その場に捨てて退場した。癇癪持ちの自己表現終わりすぎている。
この一件で友達名義も自名義もFCの更新をやめてオタクをやめた。もともと曲も好みじゃなくなってたし事務所が買収されてから運営が最悪で、グローバル色が強すぎたりグッズデザインやら何から何まで酷くなってたので潮時だと思った。
転売チケ買ってた頃から考えてたけど、この頃から一層公式がダフ屋にチケット売るからダフ屋から買うしかなくなるんだろって、より強く思うようになった。今はSNS等を介した個人間の高額転売が主流だろうから少し違うのかもしれないけど。
でも考えれば考えるほど「チケットは誰でも買えるのに入場できるのは券面の人だけ」って、変なシステムだなと思わない?FC先行だって複数名義で実際には行かない人が購入することが可能じゃん。プレイガイド先行もアカウント作れば簡単じゃん。なのに入場するときは絶対に顔写真付き身分証明書と券面の名義が一致してないとダメっておかしいよ。
だったら売る時よりももっと前から本人確認を徹底する必要があるんじゃないの。FC入会やプレイガイドのアカウント登録時に顔写真付き身分証明書の登録を必須にして、有効期限が来たら登録内容の更新も必須、来場者全員に入場時の本人確認を実際して、登録済の顔写真付き身分証明書以外は使用不可。ここまでやってくれるんだったら、「本人しか買えないチケットだから本人しか入場できない」って認めるよ。
金がかかるって言うんだったらチケ代なり年会費なり上乗せすればいいよ。なんなら1人1名義徹底する代わりに課金アイテムとして「1名義毎の抽選回数を増やす権利」を売ればいいじゃん。入会期間に応じて抽選回数は増えるようにすれば古参にもメリットいくよね。課金アイテムは使用したら消滅するシステムにすれば、熱量の高いオタクは毎回買うし、あんま高くなくてもどうしても行きたい!みたいなオタクは今回だけ買う、みたいなことができるしね。学生とかどうすんのって言われんだろうけど、推し活(笑)って身の丈に合う範囲でするものなんでしょ。アイドルだってアーティストだって歌手だってビジネスなんだから、金がかかって仕方ないんだよ。金で解決できんなら安いもんじゃん。
結局、紙切れ一枚にそれだけお金を出せる人がいるのに公式がその値段で売ってくれないからダフ屋が間に入って高額転売になるんでしょ。大衆ドルとか知ったこっちゃないから、自分たちのプレミアを自覚して、もっともっとお金を出せる人から出してもらって、難しい人には廉価で楽しんでもらう、くらいの、気概を、、見せてほしいよ。
昔(本人確認が実施され始めるより前)自名義で2枚取ったチケットが余って、「半額でいいから来てくれない?!」って友達を誘った。そのあと友達は自分でFC入って地方遠征したりするまでになってた。私が誘ったときのチケットは2階スタンドで、ステージからの距離は遠かったけど大きなスクリーンと外周いっぱいを走るトロッコのおかげで楽しかった。なにより自分と同じものを好きな人たちと一緒に、普段なかなかお目にかかれない推しの一挙手一投足を同じ空間で見ることができるのってめっちゃ楽しい。コンサートって画面を通じて見るものとは全く違うから、現地で、生で、全身で感じながら観てこそのものだと思うからこそ。
ちなみにこの某韓国アイドルは公式リセールシステムがあって、私のチケット云々の件は友達名義のチケットをリセールに出して自名義にすればよかったのかなって後から思った。実際にやってる人もいるだろうし。
今後リセールシステムが整備されていった先の未来では、マネーロンダリングならぬチケットロンダリングが主流になるんじゃないですかね。
高額転売って悪いことだって分かってるよ。なくなってほしいし、そのためには買う側がいなくなることが大切なのも理解してる。でもそれ以上に、売る側のシステムが抜本的に改革されなければ、買う側だけがダメージを被り続けることになるんじゃないのってずっと思ってる。
諸君、私がAI小説なるものと初めて出くわしたのは、ある雨の降りしきる午後のことだった。私の叔父アガサス・ウィンプルトン・フォーブス(文学界では「老いぼれの鷹」として知られ、批評家たちからは「あの忌々しい老いぼれ」と呼ばれている)が私に一束の印刷物を押し付けてきたのだ。
「これを読んでみたまえ、若きバーティ」と彼は言った。声にはイモリを観察する博物学者のような好奇心が漂っていた。「人工知能とやらが書いた小説らしいのだ。まったく、世も末じゃよ」
その時の私の反応は、鮮やかな紫色のネクタイを締めた従兄弟を見た叔母アガサのそれに近かった。つまり、眉をへの字に曲げて「いったい何をお考えで?」という表情だ。しかし叔父の蔵書室から逃げ出す手段は見当たらなかったので、私は言われるがままに一ページめくった。
読み始めて五分と経たぬうちに、私は自分がなんともぎこちない人形劇を見せられているような気分に陥った。言葉は確かに英語(あるいは日本語)で書かれている。文法的にも正確だ。しかし全体を包む雰囲気には、カクテルパーティーで突然「1924年のS and P500の株価変動について議論しましょう」と切り出す男のような居心地の悪さがあった。
ところで読者諸君、ここで私が申し上げたいのは、このAI小説が「内容的に」退屈だったという話ではない。むしろ問題はその文体——いや、文体の欠如と言うべきか——にあったのだ。
ご存知の通り、私はかなりの文体マニアである。ジェーン・オースティンの流麗な皮肉、ヘミングウェイの素っ気ない簡潔さ、あるいはプルーストの果てしない内省——これらは私にとって、マティーニにオリーブを浮かべるように小説に不可欠な要素なのだ。
ところが、この機械の吐き出した文章には、そういった香りや風味が微塵も感じられなかった。それはあたかも、高級レストランでシェフの特製料理を期待していたら、無味無臭の栄養ドリンクが出てきたようなものだ。確かに栄養素は含まれているのだろうが、舌の上でダンスする喜びがどこにもない。
「バーティ、どう思うかね?」と叔父が訊ねた。彼の眉毛は期待に満ちて跳ね上がっていた。まるで噴火を待つ火山学者のように。
「ええと、叔父さん」と私は慎重に言葉を選んだ。「これは確かに文章ではありますが、作家の文章とは言えませんな。むしろ、言葉の集合体とでも申しましょうか」
「ほう、言葉の集合体か」叔父は眼鏡を鼻先でくいっと押し上げた。「面白い表現だ」
「つまりですね、これは料理というより食材の山なんです。シェフが腕を振るう前の状態というか」
この説明に納得したらしく、叔父は「なるほど、なるほど」と頷いた。
その日以来、私はある種の科学的好奇心から、AI小説と呼ばれるものを片っ端から読み漁ってきた。そして今や確信を持って言える——世の中のAI小説は、ジーヴスがいつも言うところの「文体的に不十分である(stylistically deficient, sir)」代物なのだ。
AI小説の世界は、なんとも奇妙なドローンズ・クラブのようだ。ご存じない方のために説明すると、ドローンズ・クラブとは私が所属する紳士クラブで、そこではメンバーが無意味な会話を交わしながら、しかし高度に洗練された作法に従って日々を過ごす。しかしAI小説の世界では、会話は論理的に筋が通っているのに、その洗練された作法——すなわち文体——が欠けている。
それはまるで、嵐の日に一生懸命走っているのに、どこにも行き着かない人々の集まりのようだ。走り方は効率的かもしれないが、そこに独自の身のこなしやリズム、あの「何とも言えない何か」が感じられない。
私が思うに、AI小説が「文体」に欠けるのは、それが「文体を持つこと」の意味を理解していないからだ。文体とは単なる装飾ではない。それは作家の魂の表れであり、世界の見方であり、独自の思考の流れなのだ。
例えば、我が友人ガッシー・フィンク=ノットルは、イモリについて話す時と恋人のマデリン・バセットについて話す時では、まったく別人のように語る。前者では博識で冷静な科学者となり、後者では「彼女の目は星のようだ」と言いながら部屋中を浮遊するのだ。これが「文体」というものだ——同じ人間が状況に応じて異なる言葉の使い方をする、その独自性である。
しかしAI小説においては、すべての場面が同じトーンで描かれる。恋の告白も殺人事件も料理のレシピも、同じ声色で淡々と進行する。それはちょうど、どんな曲でも同じリズムと同じメロディーで歌うカラオケ・マシンのようなものだ。確かに音程は正確かもしれないが、聴いていると魂が枯れていくような感覚に襲われる。
さて、今や普通の小説とAI小説を見分ける方法がある。それを「バーティの文体テスト」と名付けようではないか。方法は単純明快。任意の三ページを読んで、そこに以下のものが見つかるか確認するのだ:
1. 意表を突く比喩表現(「彼女の声は、スコットランドの霧の中でバグパイプを吹く羊飼いのように切なかった」など)
2. 言葉遊び(「いや、ドラゴンを退治する側が金貨を使うんだ。退治屋さんへの報酬としてね。現実とは、ファンタジーより遥かに資本主義的なものさ」など)
3. 文の長さとリズムの変化(長い文の後に鋭い短文を置くなど)
4. キャラクターごとに異なる話し方
これらが見つからなければ、それはおそらくAI小説か、もしくは残念ながら文体に無関心な人間の書いた小説だろう。
ここで、文体という蝶を見事に捕まえた名人たちを思い出してみよう。彼らは皆、言葉という網で独自の色彩と模様を持つ蝶を捕らえ、読者の目の前に差し出してきた。
ディケンズ氏は複雑な社会風刺と人物描写を、時にコミカルに、時に痛烈に描き出した。彼の文章は、ロンドンの霧のように濃密で、その中に浮かび上がる人物像は忘れがたい。
ジェイン・オースティン女史は、表面上は穏やかな社交界の描写の中に、鋭い観察眼と皮肉を忍ばせた。彼女の文体は高級紅茶のようなものだ——一見繊細だが、意外な風味と余韻がある。
そしてヘミングウェイ氏。彼の文体は素っ気なく簡潔だが、そこには深い情感が氷山の水面下に隠されている。彼の短文は、たった一発で的を射抜く名ハンターのようだ。
これらの作家たちは、同じ英語という素材を使いながら、まったく異なる芸術作品を生み出した。それはちょうど、同じ小麦粉と水から、イタリア人はパスタを、フランス人はクロワッサンを、日本人は饂飩を作るようなものだ。材料は同じでも、その扱い方——つまり文体——によって、まったく別の味わいが生まれる。
ところが、今日のAI小説は、どれもなんとなく似たような味がする。それはあたかも、世界中のレストランが突然、同じ調理法で同じ食材を使い始めたようなものだ。確かに栄養はあるかもしれないが、そこに文化の違いや個性の輝きはない。
ここで疑問が生じる。AIは本当に文体を習得できるのだろうか?
私の従者ジーヴスならば、「それは極めて難しい命題でございます、旦那様」と言うだろう。彼はいつも正しい。
文体というものは、単なる技術的な問題ではない。それは作家の人生経験、感情の起伏、時代背景、そして何より「誰であるか」という存在そのものから生まれるものだ。AIには「自己」がない。生きた経験もない。それはちょうど、泳いだことのない人に海の深さを説明するようなものだ。
しかし、それでもなお希望はある。AIは少なくとも模倣することはできる。優れた作家の文体を分析し、その特徴を取り入れることで、「ウッドハウス風」や「ヘミングウェイ風」の文章を生成することは不可能ではない。それはちょうど、ピアノを弾いたことのない人が、機械的な練習によって曲を再現できるようになるのに似ている。魂は込められていないかもしれないが、少なくとも耳障りではなくなる。
私が思うに、AI小説の真の問題は技術的な限界よりも、むしろそれを使う人々の文学的感性の欠如にある。今日のAI小説を作っている(あるいは指示を出している)人々は、どうやら「本を読んでいない」ようなのだ。
彼らは「面白いストーリー」を求めるあまり、「それをどう語るか」という文体の重要性を見落としている。それはまるで、素晴らしいワインがあるのに、紙コップで飲むようなものだ。内容は同じでも、その体験の質はまったく異なる。
私の友人ビンゴ・リトル(恋に落ちるスピードでギネス記録を持っている男だ)は、女性について「見た目より声の方が大事だ」と言った。これは文学にも当てはまる。物語の内容より、それを語る「声」——すなわち文体——の方が、読者の心に残るのだ。
では、この文体不在のAI文学に対して、我々はどのような処方箋を用意すべきだろうか。
まず第一に、AIを使う作家たち(あるいは「プロンプトを書く人々」と言うべきか)は、もっと古典を読むべきだ。文体の偉大なマスターたちの技を知らなければ、AIにそれを再現させることなどできはしない。それはちょうど、料理を知らない人が一流シェフにメニューを指示するようなものだ——「何か美味しいものを」と言うだけでは、凡庸な一皿しか出てこない。
第二に、AIの出力をそのまま「小説」として発表するのではなく、それを第一稿と考え、人間の手で文体を整えるべきだ。AIが提供する骨組みに、人間が肉付けし、血を通わせるのだ。それはちょうど、既製服を買って来て、自分の体に合わせて仕立て直すようなものだ。
第三に、もっとAIに文体についての指示を与えるべきだ。「面白い物語を書いて」と言うのではなく、「ウッドハウスのような軽妙洒脱な文体で、比喩を多用し、会話のテンポを重視した小説を書いて」と具体的に指示すべきなのだ。
そして最後に、我々読者も文体に対する感性を磨くべきだ。優れた文体を味わい、それが作品にもたらす効果を理解すれば、AIの生み出す平坦な文章に満足することはなくなるだろう。それはちょうど、本物のエスプレッソを知ってしまえば、インスタントコーヒーには戻れなくなるようなものだ。
さて、このエッセイもそろそろ終わりに近づいてきた。クラブで最後のドリンクを注文する時間だ。
私がこのエッセイで主張したかったのは、AI小説に「魂」を吹き込むには文体が不可欠だということだ。内容が面白くても、それを伝える声が魅力的でなければ、読者の心に残ることはない。それはちょうど、美しいメロディーも、下手な歌手が歌えば台無しになるようなものだ。
文体とは作家の指紋であり、声紋であり、そして最も個人的な表現である。AIがそれを完全に再現することは、おそらく不可能だろう。しかし少なくとも、今よりずっと文体を意識した文章を生み出すことは可能なはずだ。
ちなみに私の従者ジーヴスによれば、「文体を気にしない作家は、メロディーを気にしない作曲家のようなものです、旦那様」とのこと。彼の言うことは、いつも正しい。
そして最後に、私の叔父アガサスがよく言っていた言葉を紹介しよう——「バーティよ、作家の才能は物語を作る能力にあらず、その物語をどう語るかにある」。彼は学者として多くの愚かなことを言ってきたが、この言葉だけは真理を突いている。
読者の皆様、乾杯しよう。文体という名の、この最高に複雑で、最高に美しいカクテルに。そしてAI文学がいつの日か、この味わい深いカクテルを提供できる日が来ることを願って。
What ho!
(P.S. なお、このエッセイに登場する叔父アガサス、ビンゴ、ガッシー、そしてジーヴスはすべて架空の人物です。彼らが実在の人物と似ていたとしても、それは単なる偶然にすぎません。もっとも、私バーティ・ウースターは確かに実在しますが…いや、それも冗談です。さようなら!)
・すごい額であろうお金と制作陣の熱意を感じたがアクション映画ファンでは無いので「ぜひこ次の瞬間を見届けたいがいかんせん眠い!!」の連続だった ジョン・ウィックでも同じ現象が起きたので映画がダメとかでなくノットフォアミーだっただけ でも「画面を観てるだけでようわからんけど圧倒されて鳥肌が立つ」という場面が10回弱あったので時間とお金の無駄ではなかったな
・九龍城砦も目茶苦茶セット気合い入ってたし最後の「アニキが…!」のアクション×九龍城砦だからこそのムーブ(あの構造だからこそあそこまでの隙間風になる)×丁寧に重ねてきた凧描写によりは「ジャンル映画と舞台が舞台であることの意味のかけ算+フラグ演出がブラボーですわ〜!」ってなった (ワガママをいうならもう少し九龍城砦を観たかった 迷路みたく入り組んでるところとか雑多な住人たちとか)
・ちょうど今日映画視聴前に隙間風について話題に出たり、屋上の風めちゃ強〜これ車横転せんかな?チラッチラッしてたからセルフエモーショナルお膳立てしててラッキーだった
・ハイロー?→千と千尋?→思ったよりアクション描写がガチだった…ていうか若干ゴアですらある…って感じだった
・「悪い奴を倒してスッキリ!」映画ではあるが主演俳優さん4人の個性それぞれが立っててよかった
・制作陣は真剣にやってるからこそ面白いが4,5回あってよかった 柱に拳の「跡」残ってるの「アツさ」の演出を感じながらもアツすぎて一周回って面白かった
・色男の俳優さん、目茶苦茶顔似てる日本の俳優さんおるよな…誰だっけ…?と思いながら見続けてた ドンブラザーズの赤役の人
「チのオグジー君か…?」ってなった
・「紙切れみたいに〜」の「暴」がガチ暴力すぎて少し引いた あっちの方々の暴力の基準これで「悪い奴を倒してスッキリ」展開なの怖…報復とは言えやり過ぎてると少し引くねん お前もうアクション映画みるのやめろ!
パンフも売り切れてたし刺さる人には本当に刺さる
・みた理由→Filmarksで5つ星中4.3でアカデミー賞レースにも載ってるし県内で2-3箇所しかない上映館だったし某掲示板で話題になってたからみた
・平日の昼だったが映画好きそうな30〜60?代が10〜15人弱いた
・香港映画はなんでじっとりした男男感情を描写するのにこんなに長けているんですか?
・龍兄貴に主人公君が髭剃りしてもらう→寝落ちの一連の流れが哀しくエッチで温かくて
男男関係の描写にもまだまだ新しく開発する余地ありまくりだ…ってなった
哀しい→他人に喉という急所を晒す事にどうしても体を激しく強張らせる主人公君の様子から
今までリラックスして心預けられる対象がいなかったんだろうという境遇を想像させる哀しさ
主人公君役の俳優さんの強張りっぷりの演技も相まって説得力と哀しさが切実に伝わってきた
エッチ→上記のような過去から強張りきり「防衛」のために作られた心の構えが
地方に生まれ育ち、県内No.3(ノットイコール学区3番手)の県立高校に苦労せずに合格し、高校の授業と宿題とサテライト予備校と市販参考書だけを頼りにやはり地元国立大学に難なく現役で進学しました。
二次学力試験こそ科さない学科でしたが、共通テスト6科目65%を取得していたので難なく合格できました(進路指導の先生は「仮に小論文を白紙で出したとしても受かったはず」と太鼓判を押してくれました)。
また、県内NO.1の私立大学にも共通テスト利用で併願合格しています。
ところが、この前、
" 首都圏で生まれ育った人間はもうそれだけで地方の人間と比較して、大学受験に関してとんでもない下駄を履かせて貰ってる状態であり、地方で生まれ育つというハンデを背負いながら地元国立大やローカル私大に合格出来た層は、もし仮に東京で生まれ育っていたら一橋も東工大も早慶も簡単に合格できたはず、そのくらい不利なのだ"
色々ネットをあたってみると、
特に地方県トップ高校に進学するような層はこの程度がより強く、東京に生まれ育っていたら開成や筑波大駒場なんて軽く合格できるし、大手予備校の都心校に学校帰りにそのまま通える環境下にあれば理3以外の東大は相当な余力を残して合格できるものだと知りました。
地方県1位、2位の高校受かった人達は素材的に筑駒開成レベル。
つまり、我々が東京で生まれ育っていれば現実の首都圏民たちに椅子取りゲームで圧勝し、そっくりそのまま入れ替わるのではないかと。