はてなキーワード: 初版とは
↓これは2001年4月10初版の本の記述からの引用だが、女は、男が拙者とか自分のことを言うのを馬鹿にしていい立場ではない。
(お客側)これって新刊ですよねー
(売り手側)ふふふ、まあ、見て下さい
このページ、今朝、修羅ってるときに描いてー、テンパッてるとき描いたから
サイコーですかー?
サイコーでーすっ!っていうか~、大手のサークルじゃここまでできない~
分かる分かる。でもほら、ここなんかも完全にテンパって描いてて~
さすがですよね~。昨日買ったのなんか、ゲフッ!!なんつーか、もうゴフッって感じ。もうサークルごと爆破!いくら大手でもブース破壊!
でも毎回毎回どんどん鬼畜になるとか私ら言われちゃって~
やっぱすごーい、あ、じゃこれ下さい
というか会話内容的に腐女子だと思うが奴らがはにゃーんなんてロリコンアニメの台詞を発言するなんて考えられるのだろうか?
それにマウパッドを配る文化があるのって男性向けだけでは?あったとしてもこんなまだ家庭用パソコンが広まって数年しか経ってないような時期じゃ早すぎると思える。
推しとか萌えとかにしてもしてもそうだが一つのミームなり文化なりが発祥したコミュニティ以外にも波及するまでにはそれなりの時間がかかっているものだろう。
dorawiiより
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『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』アニメ制作の普遍の教科書 読み継がれる理由と復刊の価値
復刊ドットコムに集まったリクエストを受け、2005年にKADOKAWAから復刊された、『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』。
世界的な映像クリエイターである押井守氏が監督を務めたアニメ映画「機動警察パトレイバー2 the Movie」の演出についてまとめられた本です。
初版が発行された1994年当時は、アニメ制作の基礎を知る術がまだ少なかった時代。同書はアニメ制作を志す人にとっての教科書的な位置付けとして重宝され、多くの人が手に取りました。
また、同書の執筆には押井氏自らが積極的に関わっていたこともあり、アニメ制作を志す人だけでなく、押井守氏のファンにとっても魅力的なものでした。監督の言葉で作品制作の裏側や同氏の思考を垣間見ることができる稀有な体験を提供する本だったからです。
同書が入手困難となっていた時期から、「後世に残すべき本である」「文化的な損失である」といったコメントとともに復刊リクエストが寄せられるようになりました。
初版から30年が経った今でも、その魅力や価値は色褪せていないためか、2005年に復刊が実現した後も、品切れとなる度に再刊を求める声は絶えず寄せられています。
本記事では、復刊されるべくして復刊した『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』の見所と価値をご紹介します。
2005年に復刊された『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』(KADOKAWA刊)
当時、押井守氏がアニメ制作において特出していた点は、実写映画のカメラワーク的な要素を取り入れ、アニメの映像表現の新たな境地を開拓したというところにあります。
『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』で解説されているのは、そうした表現を可能にした「レイアウト」の手法、そしてそこに込められた演出の意図です。
では、そもそもレイアウトとは何でしょうか? 同書の中で押井氏は以下のように定義しています。
P.3 「アニメーションにとってレイアウトとは何か?」より引用“レイアウト”とは要するに画面(カット)の設計図のことであり、“レイアウトシステム”とはこの設計図を基本にして映画(正確にはフィルム)を制作する方法のことです。設計図としてのレイアウトには、様々な情報が込められています。
(中略)
それは各部署に分かれて作業するスタッフにとっては、作業の基準となる仕様表であり、演出家にとっては演出する作品を撮影前に検討するためのシミュレーションの過程でもあります。
アニメを作る、と聞けば、絵を描き、動かすという作業が一番大事だとのイメージを持つ人が多いかもしれません。ですが、アニメ制作の現場では、絵を描くアニメーター(原画マンや作画マン)以外にも、背景美術、演出、撮影など、さまざまな専門を持つ人たちが分業して作品を作り上げています。
監督としての押井氏の役割は、作品の骨子(絵コンテ)を作り、各工程をコントロールし、自身が思い描く完成像を具現化すること。
そして、そのイメージを各担当者に共有するために重要となるのが、ここで言うレイアウトです。
ですが、同書が出版された当時、このレイアウトという概念はまだ曖昧なものでした。レイアウトに限らず、アニメの制作の進め方は監督や現場によってさまざまだったからです。
例えば、監督と一口に言っても、宮崎駿氏のように自ら原画を描いたり、作画修正をしたりする「アニメーター」を出自とする監督もいれば、押井氏や高畑勲氏のように演出をスタートとして全体の舵取りに徹する監督もいます。
そんな中で、押井氏が提示した「レイアウトシステム」の徹底は、当時のアニメ制作現場において、押井氏が作品の出来を背負う監督として、求心力を持ちえた理由のひとつではないかと言われています。
すなわち、押井氏のレイアウトとは、蓄積した映画の記憶とアニメ制作の現場体験を活かし、イメージの意味を具体化してゆき、現場の意識や作業の方向性を示すためのものでもあったのです。
今では、このレイアウトという言葉や概念はアニメ業界で一般化しているといいます。
それは、押井氏のレイアウトを参考とした人たちがアニメ制作を積み重ねていった結果に他なりません。
同書で語られたレイアウトは、押井氏のアニメ制作のエッセンスであるだけでなく、その概念の成立においても重要な意味を持ち、後進のアニメ制作を技術的な面でも精神的な面でも下支えするものとなっているのです。
全てのクリエイターが“学べる”本
ところで、アニメ制作への関心が高まり、種々の指南書が出版されている今現在、『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』の内容はどのような価値を持って受け止められているのでしょうか。
結論から言えば、現代における同書の大きな価値は、アニメ制作に携わる人に限らず、全てのクリエイターに刺激を与え、学ぶ意欲を掻き立てうるというところにあると言えます。
同書を開けば、アニメを制作するにあたって押井氏が考えていたことの量と密度に、誰もが圧倒されることでしょう。映像の迫力や精密さ、リアリティといった部分だけでなく、作品世界や物語に直接関係しない要素にまで、しっかりと意図が存在するのです。
例えば、「パトレイバー2」の中で描かれる“鳥”について、押井氏は同書で次のように書いています。
P.45 より引用「P2」(筆者注:パトレイバー2)に登場する鳥たちにはどのような象徴的な意味もありません。強いて言うならば、それはこの作品で描かれた「世界」と「物語」に混入されたノイズであり、記号の体系を掻き乱すための異質な記号そのものに他なりません。本篇の外側にあって物語をアウトレンジし、作品を自律的に完結させようと目論む演出家の意図を長距離から射程に収め、射程に入れるそのことだけで脅威となる厄介な長距離砲。それがつまり、“鳥”なのです。
視聴者が気付かないほどの細部でさえも意図を持って描かれていることを端的に示す、「パトレイバー2」の鳥。
このエピソードは一例に過ぎませんが、何か作品を完成させる上で、どこまで計算し、考えるか、という、全クリエイターに共通する普遍的な問いに対して、一つのアンサーを提示していると言えるのではないでしょうか。
そして、もちろん、アニメの演出の教科書としての価値も健在です。
2020年代のアニメ制作の現場は、本書が書かれた当時よりもCG環境は進歩していますが、ほとんどの作業がアナログであった時代の技術や方法論がまったく“古く”なっているわけではありません。ツールは違えど、先達が積み重ねてきたものは、現在のアニメ制作現場にも脈々と受け継がれているからです。
また、押井氏の演出の影響は、アニメ以外の映像制作にも及んでいます。
実写映画の知識・教養をバックグラウンドに持つ押井氏ならではの演出シーンは、日本に限らず海外の映画、特に「想像」によって世界を再構築することが必要とされるSF作品に大きな影響を与えているのです。
ここまで、『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』の見所や価値を紹介してきました。
一度は絶版になりながらも、多くの復刊リクエストを集め、復刊後も絶えず求められ続けている同書。それほどまでに支持される理由は、時代を経てもその内容が色褪せることなく、むしろ、アニメの歴史の一部を担い、全てのクリエイターに刺激を与える本として、普遍的な価値を持って受け止められていることにありました。
ごく一般的なアニメファンにとって、同書の内容は非常に高度で、全てを理解することは難しいかもしれません。
ですが、天才と呼ばれる押井守氏が作品制作の際に、何を、どういう視点で、どのように捉え、何を考えているのか、という思考を垣間見ること、そしてそのあまりの高度さに衝撃を受けることもまた、同書を読む上での醍醐味と言えます。
白紙の状態から、全てを人の手で描き、作品世界を構築していく上での凄まじいこだわりと努力を目の当たりにできる本は決して多くはありません。
大人から子どもまで、誰もが当たり前に、大量にアニメを楽しむようになったからこそ、同書はこれからも読み継がれていくべき本なのです。
『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート(押井守)』 販売ページ復刊ドットコムにて『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』(押井守)を販売しています。www.fukkan.com
以前大人がスマホの使用ルールに無頓着なのではないかという記事を書いたが、先日のYahoo!ニュースで裸の画像「ばらまく」と脅し金銭要求する「セクストーション」詐欺の標的になるリスク"世界1位の日本"納得の理由、子どもを守るためにできることという記事が話題になっていた (はてなブックマークではそこまで話題にはなっていないが) 。
そこで、あまり知られていないかもしれない、セクストーションや自画撮り被害 (セクスティング) といった被害を発生させる前に防ぐ設定を紹介したい。もしこどもがいて、この機能をしらなかったというならぜひ設定してほしい。
iPhoneやTONEオリジナル機種は被害防止に意欲的で、標準機能だけで設定ができる。iPhoneの場合は撮影と本体に保存はできるが、送信の段階で防止、TONEオリジナル機種はそもそも撮影の段階で防止と、防止するタイミングがことなる。いずれにせよこれらの機種ならほぼ確実に送信してしまう心配がなくなるので、こどもが使用している機種がこのどちらかなら、ぜひ設定してほしい。ほんとうなら各携帯キャリアが標準搭載するべき機能なのだが...。身内被害 (同級生など) もふえているようなので、キャリア公式機能でできるSNS自体の使用制限だけでは確実な防止ができない。
"設定" → "スクリーンタイム" → "コミュニケーションの安全性" をオンにする。
これをオンにすることで、表示もしくは送信しようとしたときに警告が表示され、信頼できる大人 (13歳未満は保護者) にメッセージを送信、助けを求める方法を表示、連絡先をブロックという選択肢から選択することができる。
Appleはプライバシーを最優先にした設計になっているため、自動的に通知する機能はない。ただし、iOS 18以降で13歳未満の場合、警告表示がまず保護者に相談することをおすすめする内容になるほか、警告を無視して送信しようとするとスクリーンタイムパスコードの入力が必要になるため、13歳未満が親に気づかれずに送信してしまうということは起こらない。
そして、"設定" → "スクリーンタイム" → "デバイス間で共有" をオンにしておくと、こどもが所有しているすべてのiPhone (iPadやMac含む) に設定内容が反映されるようになるほか、保護者のiPhoneから遠隔で設定を変更することもできるようになる。
ちなみに、おとな用の設定もある。"設定" → "プライバシーとセキュリティ" → "センシティブな内容の警告" がそれ。コミュニケーションの安全性 (こども用の設定) との違いは、送信時に警告が表示されるか (センシティブな内容の警告は受信時のみ) 、信頼できる大人に相談の選択肢が表示されるか (助けを求める方法はどちらでも表示される) 、他社製アプリに適用されるか、の3点である。Xのセンシティブ警告に似たものと考えるとよい。
"TONEカメラ" で使用できる。TONEオリジナル機種は持っていないため具体的な手順説明でなくて申し訳ない。
まず、"Oneファミリー" / "TONEファミリー" で標準のカメラを無効にする。
つぎに、TONEカメラの設定で、判定レベルと保護者にに自動通知するかどうかを選択する。
判定レベルは初期設定は高だが水着だったりそもそもふつうに服を着ている状態で誤検知してしまい困る場合は、中に設定できる。中はiPhoneと同等レベル。
保護者に自動通知は有料オプションを契約している人のみ使用できる (親子ともにキャリアがTONEなら無料) 。
この設定をすると、シャッターボタンを押したとき "不適切な内容のため撮影できません。" と表示されて、保存されない。
また、各種アプリについているカメラ機能で撮影しようとすると、"TONEカメラをご利用ください" と表示される。これはほかの機種では絶対できない。
デフォルト状態ではGoogle メッセージ (キャリアに属していない機種でのデフォルトのSMS) のみ適用されるが、日本やアメリカはiOSが一般に普及していることからLINEなど他社アプリをインストールしているケースがおおいことや、とくに日本ではキャリアの機種はGoogle メッセージの代わりに (auではいっしょに) +メッセージ (ドコモ・au・ソフトバンクでのデフォルトのSMS) がインストールされていることから、効果は期待できない。Androidが広く普及している国ならありなんだろう。ちなみに設定するなら、 "設定" → "Google" → "センシティブなコンテンツの警告" で設定する。表示されない機種は、"設定" → "セキュリティ" でセキュリティ アップデートとGoogle Play システム アップデートの2つを最新の状態にしたうえで、Play ストアからGoogle メッセージを更新、さらに "設定" → "Google" → "システム サービス" で "Google Play 開発者サービス" と "Android System SafetyCore" の2つを更新すると表示されることがある。
上記2機種とはことなり完全な対策はむずかしいが (キャリア側が対策すべきなのだが、おすすめは "コドマモ" をインストールして使用すること。
愛知県警と藤田医科大学の共同開発で、愛知県警が提供していたころは無料だったが、民間に移管して有料化された。ただし無料時代から使用していたユーザーは有料限定機能をのぞいてそのまま使用できる。また、auの "U12バリュープラン" に契約している場合も無料。
撮影すると、警告を表示して画像の早急な削除をうながす仕組みになっている。iOS版はしかたないところもあるが、Androidならシステム権限をつかってどうにでもできたような気がするのだが...。さらに、ビデオ通話も対策できない。(通話ではなくビデオ撮影については検討中とのこと)
初版ははだかの写真のみ検知対象だったが、ユーザーのご意見により検知が厳しくなったとのこと。ただしTONEとはことなりレベルの調整ができず、学習精度が向上するまでは温かくみまもっていただいて、どうしてもお困りの場合は保護者に制限を解除してもらうようにご依頼ください (App Storeのレビューより) と、それはどうなのかと思うが...。
なお、みまもりアプリとしては唯一LINEの監視に対応していて、性犯罪の兆候をAIで検知して保護者に通知するということもできる。また、キャリアとも端末メーカーとも (上記割引サービス以外) 無関係なアプリなので、MVNOで親がAndroid、子がiOSという場合でも使用できる。
iPhone・TONEオリジナル機種以外をつかっているなら、警察庁ウェブサイトに公開されている啓発資料を定期的 (とくに長期休暇前) に読みあわせたほうがいいだろう。
お久しぶり、アリババだ。最近働きが悪いのでコンサルインターンをクビになりそうな気配(笑)
村を牛耳る46人の盗賊団乃木坂の首領、Fidoに、国際ピザシンジケートが白羽の矢を立て、わが国にピザのフランチャイズ店を競って開こうとした。村の権益はFidoが握っているので、海外の一等地の豪邸に一生住める権利と引き換えに、場所代をタダにして欲しいと言っている。遣唐使として派遣中に大陸でその話を耳にした俺は、「ピザの試食させてくれるならFidoを紹介してもいいよ。紹介料はいらないから」と言ってみた。だが、頑固なFidoはうんと言わず、交渉を詰みに持ち込もうとしているらしい。
国際ピザシンジケートは村のコミュニティに目をつけた。Fidoの一見向社会的な建て付けは村人の承認により成り立っているので、承認欲求実現を兵糧攻めにして、名声を闇堕ちさせてやろうという訳だ。確かに、これが一番低コストで近道だ。だが、村人の男はコミュニティ内部での評判しか興味がなく、徴兵など見向きもしないし、女は噂話と日の当たる椅子の取り合いで忙しい。
村では一番虐げられた人々、つまり、乃木坂の被害に遭った女性たちが実際にはいちばん力を持っている(レバレッジが高い)(特に年少者ほど)。なんなら、風向き次第、ご機嫌一つでFidoを吹っ飛ばすこともできるのだ。
彼女らは、このことを知らない。また、Fidoが個別に彼女らの機嫌を取ることで、Fidoをfoot bathインセンティブを壊して回っている。彼女らの潜在ポテンシャルに比べれば、また、Fidoの失うものの重さを考慮すれば、村や世間での立ち位置の安定など屁でもない(つまり、本来は、それをネタに、打ち出の小槌を振れる、腰を低くして常に強く出られる)のだが、どうも人間の勘定というのは合理的にできてはおらず、あたら安売りしているらしい。
これは、個々がバラバラなアトムとして利己的な目的を追求せよと言っているのではなく(これはFidoに付け入る隙を与える)、自分が得になり、かつ「梃子の原理」で世のためにもなる方向に力を行使せよという意味だ。
かれこれ30年は前に初版が出た本に書いてあったのだが(すると俺は−2才だ。いや、遣唐使のお使いのひまに読んだ)、当時、がんのレーザー焼却治療にあたり、レーザーの出力が強すぎると正常組織も殺してしまうことが問題になった。かといって、レーザーが弱いとがんは焼けない。そこで、複数のレーザーを、がんを中心とする円周上に並べ、それぞれのレーザーは弱い(正常組織は傷つけない)がその光線の交点(円の中心)ではがんを焼却するのに十分な出力となり、この問題は解決したそうだ。
あるいは、「自分の姿をよく見ろ!」といって、円く取り囲んでその中心にいるメデューサに鏡を向ける。
うっすらとみんなで悪意を向ける。毎日10円でいい。どうだろう?
毎晩、三種の神器を使うようにと夢のお告げがある。しかし、丑三つ時に御所に忍んで草薙の剣を拝借するのは、「用がなければ」、今が好機とは俺は思わない。
実は、Fidoの注意を逸らす陽動作戦だと思う。この間も、赤天狗のような顔をした男が「このアタリでは縄文時代の土器のカケラがヨク出土シマスネ」と話しかけてきた。俺は「あなた、ペリー来航には早いんじゃないですか?まだ平安時代ですよ?」とかわしたが、辺りで無断で発掘調査をやっているらしいのは確かだ。
俺は、園遊拐への「招待」や肥満の「薬物療法」を裏では計画してるのかしらん、と思っている。
ジョーカーみたいにすべてがひっくり返るカードを用意しているんだろうか。
俺は遣唐使として大陸で、西域から伝わったといわれる壺に入った赤紫色の液体を賞味したことがある。「葡萄酒」というらしい。そういえば、正倉院に蔦の絵柄を描いた宝物があった気がする。これがとても美味、とてもいい気分になる。わが国に持ち帰りたかったのだが、日本海は荒れるのでこぼれてだめだと断られた。
葡萄といっても、そこらの山に生えているヤマブドウではダメらしい。Fidoがその葡萄の苗を輸入して、葡萄の実がなるなら、あとは俺が本で読んだ通りに葡萄酒を醸造する。そうなれば、Fidoと話をしてもいいかもしれない。
俺はFidoをこの前破門にしたのだ。
話はまだまだ続く
揶揄するも何も、人前で何の問題もないのに騒いでたら見苦しいだろ。
無自覚に医師の外見を評価したり、医療従事者の名前などを世界に発信したり。「医療従事者のプライバシー保護をお願いします」っていう病院のお願いに反することを堂々とやっていて、まわりに迷惑かけてるだろ。
>純粋真っ直ぐ正義君ってよりは、正義の名を借りた当り屋ってかんじだよな こういう氷河期中年
えっとね、医療側には守秘義務があります。だから、患者サイドが誤解やウソにまみれた主張をブログに書いていたとしても、公には反論できないわけ。
で、医療側からは、このブログ誰が書いているのか特定できません。「おそらくあの人だな」ってのは何となくわかっても、発信者開示とかしないと確証持てないわけ。だから、事実誤認があっても反論できません。
まるっきり嘘を書いているとは思わないけど、配慮が足りない点から、いろいろ誤解・曲解が入ってても不思議ではなく見えるわけ。
今回のブログには、医療者の名前・発言とか書いてましたけど、それが問題になるとか思わないのかな? 例えば 紹介状に写真が入っていなかった 「あの先生よくやるんだよな」みたいなコメント。陰口を全世界に公開しちゃってるの。トラブルの種を蒔いてるって分かんないか。
画像診断レポートを、同意を取らずに世界に公開しているのもよくないよね。書いた医師にちゃんと了解を取ってないでしょ? 了解とってたら書くもんねぇ… 画像診断もあるワンポイントでレポートは出ますけど、後から手術前とかに見直し、より診断を深くしていくものなわけ。また臨床情報が増えたら解釈も変わってくる。それを同意なく、実名入りで世界に発信するのは…
迷惑かけてるとか思わん?
仮にレポートを見直して修正していたとするよ。そうすると、現時点で新しい画像診断が出ているも関わらず、了解もなく古い版が世界に公開されている… とかあったら問題だろ。
時間とともに、情報や所見の集積とともにどんどん診断を深く・良くしていく作業なんだけど、ある一時点のを切り取って、同意なく世界に実名で公開するって、問題だと思わんの?
それが問題と分からないなんて、どうかしてるよ? まともに働いたことないのかな?
取引先企業が内部情報を公開とか、BtoCでも、それぞれの顧客で対応は異なるのにそれを了解なく全世界に公開されたら普通に困るだろ…
しかも医療サイドは法的に「守秘義務」ということで弁解できないわけ。
こういう配慮のなさ・世間知のなさを見ていると、どこかで相手の言ったことを聞き間違っていたり、誤解していたりして、間違った内容・医療機関が意図していないようなことを記事に書いてるんじゃないかっていう疑いが生まれるわけ。
「応召義務で診療を断れない」って言っても理由があれば断れるからな。横浜なら医療機関はいっぱいある、一件が断っても別に行くところあるからね。
今は病院サイドにばれてないから問題になってないけど、最初の版、医師名が実名で出ていたやつが残ってたら普通に診療拒否ありうるレベルだからな?
はてブも今は過疎ってるから、ひところの勢いがないからバレてないけど。
こんなクソみたいな当たり屋が来るなら、初版を魚拓とって病院に通報、診療拒否方向に動くべきだったわ。
Amazon の欲しいものリストをくっつけているところとか、この病気をネタにしてお金を稼ごうとしているのが見えるわけ。お金を稼ごうとする時って当然センセーショナルにしますよね。「悪性度の低いカルチノイドで命の危険は全くないよ」って書くより、希少がんで明日もしれない、みたいな書き方にしますよね。そんな中でこういう配慮は足りてないところを見ると、実際よりもセンセーショナルに書こうと、誇張してそうに見えるわけ。そういうのは医療サイドから見たら害悪でしかないの
• キャンプはUL寄り。重量1kg以下の焚火台しか信用してない
• 日本酒は生酛と山廃を追ってる。速醸は舌に残る
• カメラはレフ機やめてミラーレスのZマウント。Fマウントの描写は今でも恋しい
• 音楽はレコード派。シュリンク付き帯付き初版以外は触らない
• コーヒーは浅煎りシングルオリジン。ネルは手縫いじゃないと気分が出ない
• ラーメンは二郎インスパの野菜マシマシ。非乳化スープしか認めん
• 靴はコードバン。雨の日は履かないのが鉄則
• 日本刀は無銘の古刀を研ぎ減り込みごと愛でる。刀工の銘より地鉄の冴え
• 落語は志ん朝の音源ばかり。志ん生はテンポが遅すぎて落ちる
• ジャズはBlue Note1500番台。RVG刻印がないと意味がない
• 茶碗は井戸茶碗。均整のとれたものより崩れた口縁に色気がある
• 鉄道模型はNゲージではなくHO。カツミの真鍮車体じゃないと心躍らない
• 日本庭園は枯山水巡り。苔の育ち具合で手入れの真価がわかる
• 映画は邦画の70年代。にっかつロマンポルノの構図美に勝るものなし
最近のニュースアプリって、アルゴリズムが優秀すぎて、逆に読みたいものだけじゃなく「読まされそうなもの」まで見せつけてくる感じがして、ちょっと疲れない?
俺だけかな。
そんな自分が回帰したのが、老舗のニュース検索サイト「Ceek.jp」だ。
これが、今の時代にこそめちゃくちゃ心地いい。
ただ淡々と、新しい順にニュースが並んでいる。 変な忖度もなければ、煽ってくるような記事のレコメンドもない。ただ事実がそこにあるだけ。これがいい。
メディアが後からこっそり記事の内容を修正したり、都合が悪くなって記事ごと削除したりしても、Ceek.jpには初版のデータがキャッシュとして残っていることが多い。消される前の「事実」を確認できるのは、ネットリテラシー的にめちゃくちゃ重要だと思う。
自分の好きなキーワードや条件で検索式を作って、それをそのままRSSリーダーに登録できる。まさに自分専用のニュースフィードが完成する。もう、メディアに踊らされる必要はない。
もちろん不満がないわけじゃない。ITカテゴリが、なぜかアニメやゲームの記事で埋まりがちなのはご愛嬌だ。 まあ、それも検索で絞り込むから、個人的には大した問題じゃない。
情報の洪水に疲れ果て、アルゴリズムにうんざりしている人にこそ、この淡々とした老舗サイトの良さ、もう一度見直してみてほしい。マジでおすすめ。
私は長いこと自分が抱えているものを勘違いしていた。世間的にはそれを性欲と呼ぶのだろうが、私の性欲はなんというか、他人に触れたいとか、抱きたいとか、そういう欲望とは一切結びつかない、純粋に自家発電的なやつだった。いや、そりゃあ夜中に一人でごそごそする程度にはエネルギーはあるのだが、それは誰かに向かって矢を放つような性質のものではなく、むしろ矢を放つ弦がどこにも掛かっていないような状態である。たとえるなら、宛先の書かれていないラブレターを大量に抱えて街をさまよっている感じだ。思春期、同級生たちは誰それが可愛いだの、先輩がイケてるだのと青春会議を開いていたが、私はその場にいても心は涼しい顔をしており、頭の中ではまったく別のこと――たとえば近所のたぬきは今夜も元気だろうか、などと――を考えていた。
大学に入ったとき、私は少し変われるかもしれないと思っていた。都会のキャンパス、知らない人々、もしかしたら恋というものが唐突にやってきて、私の性欲もようやく人間社会の正規ルートに合流するのではないかと。しかし現実はというと、私の四畳半は六畳になっただけで、性欲は相変わらず無対象のまま健在だった。合コンに誘われても、友人たちは可愛い子の名前をメモして帰るのに、私は料理の唐揚げが妙にカリカリだったことばかり覚えている。たまに「お前はどんな子がタイプなんだ」と問われると困る。そういうときは「文学少女かな」と適当なことを言うのだが、内心では文学少女に対しても別に何も感じていない。むしろ本棚の整理の仕方がきれいだなと感心するくらいだ。
大学生活で最も熱中したのは恋愛ではなく、下宿近くの古本屋巡りだった。特に閉店間際の古本屋はよい。西日の差し込む埃っぽい店内で背表紙を眺めていると、自分の中のどこへも行かない性欲が、まるで古書の匂いに溶けて静まっていくような気がする。友人が「昨日彼女と朝まで一緒にいてさ…」と語る頃、私は「昨日は坂口安吾全集の初版本を見つけてさ…」と胸を張っていた。熱の方向が違うのだ。
やがて社会人になった。ここでまた、私の内なる性欲にとって試練の場が訪れる。職場というのは、妙に恋愛や結婚の話題が多い。昼休みには「○○さん、結婚するらしいよ」というニュースが飛び交い、飲み会では「彼女はいるの?」という質問が不意打ちのように飛んでくる。私にとってこれは「冷蔵庫にマヨネーズある?」と聞かれるくらい唐突だ。性欲はある。しかし誰ともしたいわけではない。この仕様を説明するのはあまりに長く、そして聞き手が求めている答えではない。だから私は笑って「いや、いません」とだけ言い、ジョッキの中身を一口飲む。
社会人になっても私の性欲は、ひとりで完結する道を歩き続けた。仕事終わりに帰宅して、コンビニで買った弁当をレンジで温め、机に向かってぼんやりするとき、胸の奥にじんわりとした熱が灯る。それは一瞬、どこかへ向かいそうになるのだが、次の瞬間には元の場所に戻ってきてしまう。まるで、駅のホームで電車に乗ろうとした瞬間に、なぜか引き返してしまう旅人のようだ。
そんな私にも、世間一般でいうところの“男の本能”に接近する機会がなかったわけではない。ある年、友人と旅先で酒を飲みすぎた夜のことだ。ほろ酔いというより、すでに体の半分は酒精でできているような状態で、友人が急に「せっかくだから行ってみようぜ」と言い出した。行き先はピンサロである。私は人生初のその類の店に連れて行かれ、心のどこかで「もしかすると、これで私の性欲も人並みに誰かへ向かうかもしれない」という妙な期待を抱いていた。
店内は狭く、暗く、タバコと芳香剤のにおいが混ざった不思議な空気が漂っていた。私は半ば流されるままソファに腰を下ろし、出てきた女性を見て一瞬、脳内が真っ白になった。いや、正確には真っ白というよりも、モビルスーツの整備ハンガーのような光景が広がったのだ。そこに立っていたのは、まるで人型兵器のような迫力を備えた女性だった。身長、体格、そして全身から発せられる圧――私の頭の中では、ジムやザクではなく、フルアーマーガンダムのテーマ曲が勝手に流れ出していた。
「どうする?」と問われても、こちらとしてはどうするも何も、立たないものは立たない。あらゆるボタンを押しても起動しないモビルスーツのパイロットの気分である。相手はプロだからといって、私のこの仕様を一瞬で書き換えられるわけではない。結果、私はただ笑ってうなずき、何もせず、いや何もできずに時間を過ごした。時計の針が指定された時刻を指したとき、私はきっちり三万円を支払い、店を後にした。外の夜風は妙に冷たく、私はその風に吹かれながら、自分という人間の性欲の形をあらためて痛感した。
普通ならば、こういう経験をすれば何かしらの感情や昂ぶりが残るのだろう。しかし私の場合、残ったのは「ガンダムってやっぱり強そうだな」というどうでもいい感想と、財布の中が軽くなった事実だけだった。旅先でのこの事件は、私にとっての“性欲の実地試験”だったが、結果は見事に不合格であった。
では恋愛はどうか。私は数回、恋をしたことがある。恋をすると、相手と会いたくなるし、話したくなる。手を繋ぎたいと思うこともある。しかしそこから先――いわゆる“したい”という欲望には、やはり変換されない。恋愛感情と性欲が別々の配線で動いていて、互いに干渉しないのだ。結果、恋人から「私のこと、そういう意味では好きじゃないの?」と問われることになる。正直に答えれば、「そういう意味では…たぶんそうじゃない」となる。もちろん相手は納得しない。私だって納得できない。だが事実は事実で、私はどう足掻いても対象を伴った性欲を生成できない。
この性質は、付き合う人にとっては相当やっかいだろう。世間的には、性的欲望は愛情の重要な表現の一つとされる。それが欠けていると、愛そのものを疑われる。私がどれほど相手を大事に思っていても、その回路が繋がらないのだから説明は難しい。森の奥深くで、互いに違う言語を話す二匹の動物が途方に暮れているような光景が、私と相手の間に広がるのだ。
それでも、三十を過ぎたあたりでようやく思えるようになった。この仕様は欠落ではなく、ただの仕様だと。性欲があるのに対象がいない、それは異常でも病気でもない。ただ、ちょっと不思議な形をしているだけのことだ。世の中には、宛先不明のラブレターを抱えて生きている人間だっている。そう考えると、少しだけ気が楽になる。
今夜も私は四畳半(正確には六畳)の机に向かい、冷えかけたコーヒーを啜る。窓の外では、近所のたぬきがゴミ捨て場を漁っているかもしれない。あのたぬきも、もしかすると私と同じく、行き場のないエネルギーを抱えて生きているのではないか。彼らは誰かと交わるためではなく、ただ今夜も腹を満たすために生きている。私の性欲も、それと同じようなものかもしれない。明日もまた、どこへも行かない熱が私の中でぽつぽつと燃え続ける。それはたぶん、悪くないことだ。
嘘をついた少年がオオカミに食べられてしまったという話が知られているが、本当にオオカミが来たことは少年だけが知っているのだから、少年が食べられてしまったという結末に持っていくのは不自然。本来は、村の羊がオオカミに食べられたという話になってる。
内容 羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が来た」と嘘をついて騒ぎを起こす。騙された大人たちは武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当に狼が現れた時には大人たちは信用せず、誰も助けに来なかった。そして村の羊は全て狼に食べられてしまった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E5%AD%90%E4%BE%9B
明治時代にイソップの話とは別に、嘘をついた少年が狼に食われるという訓話が、文部省の小学読本に存在している。『小学読本二之巻』(田中義廉 明治7年8月改正 文部省、初版明治6年)では、狼が少年を襲う挿絵とともに「狼のために、噛み殺されたり」となっている。
警告を受けて何事もなかったからといって、警告してきた人を嘘つき呼ばわりしていると、いつか本当に問題があったときに対処できない。
「押下」は「おうか」と読み、IT業界などではボタンを押す意味などでよく使われるという。
この言葉の初出はいつごろなのだろうか、と調査を開始してまず突き当たるのが「読み」の問題である。
すなわち「押下」にはいくつかの読みがある。
送り仮名が「押下げる」「押下ろす」などであれば「おしさげる」「おしおろす」とわかりやすい。
しかし「押下して」ならば、「おしおろして」「おしくだして」「おうかして」のいずれの可能性もあるのだ。
たとえば明治6年の『医道日用綱目』の「押下す」、『童蒙窮理問答』の「押下らしむ」、『窮理日新 発明記事』の「押下し」など。
いずれも「押下」に「おしくだ」とフリガナが振ってある。
同じく明治6年の『訓蒙窮理図解』の「押下れ」は「おしさぐれ」か。
明治7年の『広益英倭字典』では「push down」を「押伏ル。押倒ス。押下(さげ)ル」と訳している。
「おしおろすべし」なのか「おしくだすべし」なのか「おうかすべし」なのか分からない。
それでは「押下する」はどうだろう。
臂力ヲ以押下スル能ハサルニ至ル
「おしさげする」「おしおろする」「おしくだする」という読みはないだろう。
これはさすがに「おうかする」じゃないのか。
でも確証はない。
つまり、我々はずばり「おうか」と書かれたフリガナを探さなければならないのである。
というわけで明治35年『日本赤十字社篤志看護婦人会教程 増訂』である。
看護者ハ左ノ示指(ひとさしゆび)ニテ軽(かろ)ク病眼(びょうがん)ノ下眼瞼(かがんけん)ヲ押下(おうか)シテ眼(め)ヲ開(ひら)カシメ
これはもう間違いなく「押下」と書いて「おうか」と読んでいるだろう。
さらに探してみたところ、増訂前の明治28年『日本赤十字社篤志看護婦人会教程』第9版を、日本赤十字社デジタルアーカイブズで読むことができた(初版は明治22年か?)。
こちらでは「押下」に「おうか」「おしさげる」と二つのフリガナが振られている。
「仰臥」に「ぎょうが」と「あおむけにねかす」と振られたりしているのを見るに単なる訓読みではなさそうだ。
基本的には音読みだが、それだと初学者にはわかりづらいので補足説明を加えている、といったところか。
ではついでに、「ボタンを押す」のような意味で「押下する」が使われた例に限ったとすれば、初出はいつごろになるだろうか。
明治22年『理学協会雑誌』の「フワンリッセルベルギー氏電信電話双信法」という記事に以下のような用例がある。
「鍵」というのはいわゆるカギではなく、辞書的に言えば「ピアノ・オルガン・タイプライターなどの、指先で押したりたたいたりする部分。キー。」のことだろう。
(なおフワンリッセルベルギーとはFrançois van Rysselbergheのこと)
即(すなは)ち押(お)し釦(ぼたん)を押下(おうか)すると電池(でんち)から電流(でんりう)が発生(はっせい)してベルを鳴(な)らすのである
といった例がある。
というわけで結論として。
「押下」を「おうか」と読む例の初出は、現在のところ明治28年(明治22年?)の『日本赤十字社篤志看護婦人会教程』ということになる。
厳密性を求めなければ、明治11年『物理小学』の「押下する」の時点で「おうか」の例としてもよい。
また「押下する」は、明治期から理科の実験書や医学の教科書で使われており、「電信・電話用語として広まったのではないか」とは判断しづらい。