はてなキーワード: 刀工とは
「関鍛冶伝承館×花の慶次~関鍛冶と戦国日本刀展~」を見てまいりましたわ
関の刀匠様がジャンプ漫画花の慶次に出てくる朱塗りの槍と秀吉殺しの短刀を再現したものが展示されていました
漫画的誇張表現をプロが全力で立体化するところが面白いですわね
ヒデヨシキラーの重量1.5kgが参考の脇差し1.0kgに比べて思ったほど重くないと感じたのですが
なんと!関の孫六様や和泉守兼定様の刀剣も常設展示されていましたわ
奈良太郎藤原兼永様の刀身に和歌や平安の絵を細かく彫った狂気の産物が
印象に残りましたわ
虫眼鏡で絵を確認ですわ 参考でし:https://twitter.com/sekikaji/status/1207936976789204992
あと「別人孫六」(まこ六)様は関の孫六様と技量は互角らしいのに「孫六じゃない方」で覚えられていて気の毒ですの
たくさんお客さんがいらしてましたわ
近くのフェザーミュージアムでは髭博士とフェザーちゃんの説明アニメをみて
二階でフランベルジュやヴァイキングソードを拝見してきましたわ
別に幽霊じゃなくてもいい、今の科学の説明の外にある現象……思念、怨念、呪い、妖怪
死者の怨念が現世に何か影響を与えると認識している、と言っていいのかどうか
「祟りは信じていない。しかし祟りを信じている人の信頼を損なうので祟られるような行為はしない。」というスタンスはありえる
「祟りは信じていない。しかし何か起きたときに祟りだと言われて面倒になるので祟られるような行為はしない。」というスタンスもありえる
では龍であればどうか
「池に石を投げる/泳ぐ/汚すと祟られる。龍神様が住む池だからだ。」という謂れがある池のタブーを信じるかどうか
実在を信じる人もいるかもしれないが、おそらく多くの現代人は龍神の実在を信じはしないけれどタブーも侵さないだろう
いや、これは本当に自信が無い
ルールだから何となく守るだけで深く考えていないという線もありえるし
シンプルに池を汚すのは良くないことだから、という認識があるので龍とか関係ないという話はもちろんあるだろう
これは例えば江戸時代や明治時代の史料を調べていて、祟りだとか龍を見たとかいう記述があったとして、それを文字通りに受け取っては不味い気がするという話
箱根以東の江戸側には野暮な人間と化け物はいない、という田舎をバカにする言い回し
これだって「化け物はいるかもしれないが江戸の周りにはいないよ」という含意があるのか
それとも「化け物なんてどこにもいないよ」という含意なのか
また、「郷とお化けは見たことがない」という言い回しも存在する
この言い回しはいつ頃の時代から言われたものなのか未調査なのだが……
南北朝時代の郷という刀工が作る刀には銘が無かったため、後の時代で無銘であるが郷だろうと言われるものしか存在しなかったらしい
そのため前述の「郷とお化けは見たことがない」というフレーズが出てきたようだ
こういう言い回しがある時点で当時既にお化けの実在は信じられていなかったのでは?と感じる
でもそんなこと言いながら地震が起きたら鯰絵が大流行するんだよ
お化けや妖怪は信じないのに地下の巨大ナマズは信じるのか?それとも信じていなかったけれどお話として楽しんでいたのか?
当時の人々にとってのリアリティがどのようなものか、を調べていきたい
江戸という都会だと例えば河童なんかはリアリティがなかったのかもしれない(未調査)
しかし、原理不明である地震には説明が求められたので大鯰が語られリアリティがあった?
竜巻あたりも同じ話だ
明治時代の錦絵に竜巻を眺める人々の様子を描いた「怪雲現る」と題されたものがある
貴重資料展示室050 市井の天候資料 - 国立天文台暦計算室
その絵には
怪雲現る 明治廿三年六月十八日午後三時半頃東天に當て黒雲現れ其中央より遥に地下に向て尾を曳き螺形に捲上げ動揺きて見へしハこれぞ謂る龍の昇ならん道行人は皆一時ハ立とゞまりて眺めけり
という文も添えられている
この文から当時の人が龍の実在を信じていたかどうか読み取ることが出来るだろうか
「(龍はおそらく実在しないけれど)いわゆる龍の昇天と呼ばれている現象だ」という文意なのか
あるいは「あれこそ龍が昇天するときの現象だ」という文意なのか
「龍の伝承,とくに東海地方の竜巻と台風について」という論文によると、
との記述がある
ユニコーンの話でいうとシェイクスピアの『テンペスト』の作中に
なんでも信じたくなる, 一角獣が実在することも,. アラビアには不死鳥の王座と呼ばれる樹があって,. いまもそこに一羽の不死鳥が君臨しているという話も。
というフレーズがあるようだ
だいぶ古い!
やっぱりかなり古い時代から疑ってはいたようだ、実在も不在も決定的な証拠が無かっただけで
グリフィンなんかはこれより少し後の時代に実在を否定する人が出てきたようだ(しかし実在派から反論を受けている)
『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』(原書房) - 著者:ボリア・サックス 翻訳:大間知 知子 - ボリア・サックスによる本文抜粋 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
グリフィンの実在を否定した作家のトーマス・ブラウンに反論して、スコットランド人聖職者アンドリュー・ロスは17世紀半ばにこのように書いている。
グリフィンは想像上の生き物だと他の著述家が言ったとしても、彼らがそう言ったというだけでは、証明するには不十分である。なぜなら世界にはそのような多数の「混成された疑わしい」動物が存在するからである。アコスタ[スペインのイエズス会士で博物学者]は、一部はロバに、もう一部は羊に似たインディアン・パコス[ラマ]という動物について述べている。レリウス[フランスの探検家]はブラジルのタピルス[バク]について述べている。これはロバと未経産雌牛に似た動物である。その他に、飛ぶ猫や飛ぶ魚、キュノケファロスと呼ばれる犬の頭部を持つ猿のように、混成動物に関する多数の記録がある。コウモリは一部は鳥で、一部は獣である。
そうなんだよな、やっぱり不在証明って難しいんだわ
なお『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』は買って読んでいる最中だがなかなか難解で読み進めるのが大変だ
こんなところか、いったん今の考えをまとめた結果
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こちらへの投稿は初めてで、また自分は作文が得意ではなく、ただの(夢女子の)戯言といえばそうかもしれない。でも「王様の耳はロバの耳」の如く、吐き出して心を整理しなければ心が死んでしまうところだったので許してほしい。
自分はとある刀剣のゲームが好きなアラサーである。ゲームそのものは元々ブラウザのものであるが、自分のゲーム歴はスマホ版が出てしばらくしてから始めたので4年半くらいだろうか。始めたきっかけは同じ県出身で好きなイラストレーターがキャラクターデザインをしていたことだった。ただし当時は期間限定登場キャラクターだったため、始めた頃にはそのイベントは終了していて、それを知って崩れ落ちたのだが。
さて今年はゲーム開始6周年、そのゲームの存在は6年前の当時はちらっと知っていた程度ではあった。でもどうしても擬人化というのに対しては色物だからと苦手意識があった。テレビで刀の展示が特集されて「会いに来たよ〜」とか言って映っている女子も苦手だった。だがこの辺りは同族嫌悪なのかもしれない。自分も元々漫画などが好きなオタクで、マスコットやキーホルダーなど好きなものを鞄や携帯にジャラジャラ付けたい収集癖のあるオタクではあったのだが、人型イラストのないイメージグッズならともかく、ひと目でわかるキャラクターが描かれたグッズには抵抗があった。
そんな折、まだゲームも始めていない頃、地元の本屋で刀の雑誌を見かけた。キャラクターが全面に押し出されたものではなく、有名な刀剣を扱った図鑑だった。今引っ張り出したらゲーム実装刀の名前が表紙にズラっと書いてあるし、発行年月日も2015年6月とあったからゲーム開始直後に出た本といえばそうなんでしょう、審神者(ゲームプレーヤーの総称)を狙ったといえばそうかもしれない。その本で、運命の出会いがあった。
でもピンナップとして取り上げられるくらい、綺麗な刀だった。
自分の生まれ月が名前に入る、名の響きも姿も、美しい刀だった。
また刀工も同じ県だというのもあって、気にならないわけがなかった。
1番美しいと評判なのは別の刀だけど、刀に興味を持つきっかけになったのは間違いなくこの刀だった。
自分は、趣味の合う友人達とTwitterのグループDMでひたすらに騒いでいた。キャラクターのデザインもまぁ悪くは無いなと思っていた。ひたすらやかましかったので申し訳なかったとは思う。
でも後にキャラクター紹介の文面を見てびっくりした。別の方がはてなブログに書いてらしたように「なぜそんな内容をピックアップした!?」とは思った。自分がリアルにそのお刀と対面できたのは1、2年ほど前のたった1回、現在収蔵の美術館がある県の外に住んでいる関係もあって自分はろくに美術館周回もできてないので、その投稿者の方ほど熱狂的かというとそうでもないかもしれない。でも同じ美術館にある別の刀との回想など楽しみにしていたのもあって、実装後すぐには無かったので残念ではあった。そのあたり今後あったらええなとは思っている。
さてそのお刀であるが、つい先日、ミュージカル出演というのが明らかになった。ゲームで最近登場した、同じ刀工で別のお刀の姿もお披露目された。
周りがキャーキャー騒ぐ中、自分はというと……本当は、来ないでほしかった。
このようなゲーム発のミュージカルや舞台はいわゆる2.5次元と言われ、最近ではTVにも出てくるようになって発展が目覚ましいといえる。こうしたものから名前が知られてテレビ番組にも出てくる俳優の方も増えつつあると思う。間違いなく見目も整ってるし、こうした俳優さんの活躍は嬉しい。
ミュージカルの方は先日5周年を迎え、記念のミュージカルが上演された。このコロナ禍の中、運営側も感染対策をしっかりして、またライブビューイングや配信など、ファンに向けたサービスをよくやってくださった。ただ残念なことに現地では、今回はいつもある客降りがなく、また来場者も声出しができずにペンライトを振ったり拍手のみだった。きっと皆さんもっと騒ぎたかったことだろう、愛を叫びたかったことだろう。
━━ただ申し訳ないのだが、おかげで自分は今回、安心して配信を視聴できたのである。
書き方が悪く、性格悪いなという自覚はあるが、自分は客降りでのファンサービスやファンの歓声が苦手だ。観劇の上で、自分以外の存在があるのが苦手なのかもしれない。ライブビューイングや映画における応援上映なども行けず楽しめない、強火な同担拒否勢なのである。まぁひょっとしたら騒ぐのや人の目があるのが苦手と言うだけかもしれない、でもアーティストのライブは平気だったりするので本当になんなんだ自分、メンヘラなのか。
……まぁ刀剣絡みではないのだが、リアルでは自分の推し(ただのシスコンなので申し訳ない)である妹が「実家に彼氏を連れていく」とか言っていたのもあるので、正直荒れている。自分に浮いた話もない癖に年齢が年齢だけあって焦っているのかもしれない。ただ自分は、信頼していた既婚者大学OBと一緒に出かけたタイミングで突然キスされたのが原因で人間不信と男性恐怖症になったので、もう普通の恋愛はできないとは思っている。ごめんね、家族。ほんまはちゃんと自分の子に自分の愛すべきお刀を代々伝えてってほしいと思っていたが、結婚もできなさそうでまして子供なんてと思うので、自分が死んだら妹の家に相続してもらうとしようか。多分あっちの家の方が家柄もしっかりするだろうし、美術系好きな血筋ではあるから、しっかり守ってくれるさ。とりあえず自分が今後障害になりそうだったら、姿消すなりして迷惑かけないようにしようと思う。ま、生きてる限りはしっかり守り刀してもらうつもりですが。
もう行け、僕は少し泣く。
……話が逸れてしまった。救いといえば、どの作品でも「とある本丸」と明記していてくれることだろうか。よそはよそ、うちはうち。ましてただのゲームといえばそうなのだ、ただのフィクションなのだ。ならば自分の役目は、フィクションはフィクションなりに、その物語ごと愛すことだろうか。自分は周りと同じように楽しめないかもしれないけれど、今後ますますの発展、お祈りいたします。
通勤中イヤホンでランダム再生で近侍曲を聴いていることも多いのだが、同じ美術館所蔵の短刀の曲が流れると、やっぱりあの刀を思い出す。
長文乱文失礼しました。
私は刀剣乱舞というゲームを通して刀が好きになった。美術館博物館に足繁く通い、刀を見ていた。
その名を五月雨郷という。
五月雨郷、あるいは五月雨江とされる刀はさまざまな家を渡り歩き最終的に尾張徳川家、徳川美術館所蔵となった刀である。郷義弘が作刀、江派の打刀だ。
チラ見せの段階で江だと分かり、雫型の耳飾りだとかで五月雨江では?と囁かれるのに推しの実装が怖くて怖くてずっと拒否していた。推しが来るなんて耐えられない、と。
でも実装されたら、すていじあくとに加えてもらって、何を愛するんだろう。晴れを切望なんてちょっとありきたりだろうか?村雲江とペア枠になるとか?回想で後藤くんとか亀甲とかの会話があるだろうか?何が来るんだろう!本当に楽しみだった。ただただ怖くて、ただただ楽しみだった。
『越中国の刀工、郷義弘作の打刀。景色を名に宿した名刀は華々しき来歴を辿るが、その言葉には同じ時代を生き、名を詠んでくれた俳人への思いが表れる。
行雲や犬のかけ尿(ばり)村時雨』
https://twitter.com/tkrb_ht/status/1333334963043790850?s=21
北へ向かったこともない。初めて見初められたのは福岡である。黒田長政が購入し、徳川将軍家に献上したところから彼の歴史は花開く。一番北は加賀か江戸かである。
私は俳句に明るくない。必死に松尾芭蕉を調べた。もしかしたら尾張徳川家とただならぬ仲があったのかもしれない。調べて分かったのは「五月雨」と詠んだ句が結構あることくらいであった。
中学国語程度の知識しかない人間でも知っている「五月雨や集めてはやし最上川」に始まり、10以上残しているらしい。私が適当に地元の図書館で借りてきた句集にはそれくらい載っていた。
忍どっから出てきた?
犬耳なんだ?
『行雲や犬のかけ尿(ばり)村時雨』
五月雨を使った句は素人が適当に図書館行くだけで10以上見つけられる。
集めて早しがダメなのは艦これにいるからまあわかるとして、何でいくらでもあった中で五月雨も関係なく、ぱっと意味の分からない犬のおしっこなの?
※この俳句の意味は犬がおしっこしていくみたいな速さで雲が流れては戻ってきてという天気の移ろいを歌った少し面白い歌らしい。(http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/sigre0.htm)
ゲームをしていない人、入手できなかった人、何よりやっていても第一印象が犬のおしっこである。
この場合の村時雨は降ったり止んだりの雨なので五月雨と意味はほぼ同じとはいえるが何で犬のおしっこなの?汚いでしょ。
そして顕現セリフもまたひどい。
『郷義弘が作刀、名物、五月雨江。え? これですか。これは前の主に対しての義理のようなもの。
それよりは、同じ時代に生きたあの方への思いの方が強いのです。そう、私の名前を詠んでくれた、あの方への……』
これが指すものがはっきりとしないが、他のセリフと合わせるに多分犬関係の部分である。
犬といえば生類憐みの令。犬を大切にした彼への義理である、と。
だが悲しいかな、ネット上では「犬公方」が元だという考えが散見される。はっきり言いたい。
義理というか直接的にdisってる。生類憐みの令が元だと言ってくれ審神者。全然義理とか思ってない、前の主を嘲笑うクズ男士になってしまうから。
また、刀帳説明において『五月雨江です。五月雨の季節に打たれたことからこの名がついたとも言われております。』と発言しているが、現在この記述が確認できるものはない。由来は
・五月雨の頃の極められた
・五月雨のように美しい刃文
創作というか嘘をつくな。
もう一つ言いたいが忍どっから来た。松尾芭蕉からならひどいトンチキ説を採用したな……と呆れるし、柳生新陰流とするなら遠過ぎてびっくりするぞ。というか五月雨郷が尾張徳川家にやってきた段階では柳生家はもう剣術の指南を中心にしてて忍者だった頃じゃないぞ。あと忍者だった頃っていう概念で行くなら奈良と伊賀の間辺りなので本当に五月雨郷関係ないぞ。
さて、ここまで前置きというか許せない部分の羅列である。
松尾芭蕉の刀だと思うだろうか?元の主に忍がいると思うだろうか?俳句に関係する何かがあると思うだろうか?
刀剣乱舞のログイン画面には「この作品は創作であり、史実等とは異なる場合がございます」とある。
だから史実と異なるキャラだとて仕方がない、それでも史実を叫ぶ人間は史実厨と呼ばれ嫌われる。
史実と異なる創作(本来は死んでいる人間を生かしている、史実では否定されている戦況などを使用するなど)を批判する人間に対する蔑称である。
行き過ぎた史実に対する想いは時に創作の幅を狭めるだろう。どんなに史実を愛しても司馬○太郎がある限り史実のみの創作なぞあり得ない気がするけれど。
閑話休題。
五月雨郷とキャラクターの五月雨江とではあまりに史実からかけ離れている。
その上史実を語る場=回想が一個もない。江なのにすていじあくとさえない。
もっと苦しいのがその直後に実装された真田の二振りにも監査官さんにも大量の回想があることだ。というか回想なし実装は2018年末の袮々切丸以来である。二年ぶりの回想なし男士だ。
何故犬で忍者で松尾芭蕉ファンで元の主の話をしてくれないのか一切分からない。何も語ってくれない。
五月雨郷という刀は犬のおしっこも関係なけりゃ元の主を犬公方とバカにもしない。
男士としての彼は何も言ってないとわかっていても審神者特有の深読みで変な謗りを受けるのは刀剣男士の五月雨江で、刀剣の五月雨郷だ。
全部が全部、今までかの刀が作り上げてきた全てをぶち壊して新しいものを勝手に創作する割に名前だけは堂々と名乗るのだから質が悪い。
いっそ関係のない刀だと明言しろ。徳川美術館にある五月雨郷と一切の関係がないと言ってくれ。そしたら私は自分の推しが汚いものとして凌辱されたと泣かずに済む。
私は刀剣乱舞が好きだった。だから六年もずっと私の本丸を稼働していたし、金だって大量とは言えないけど課金したしグッズ買ったし推しを愛したしリアイベ行ったしてんごだってデビューしたし円盤だって買ったし私なりに推してきた。
人生で初めて同人誌も出すほど好きだったしいつか来る五月雨江という刀剣男士を待ち望んでいた。
私が求めているのは、五月雨郷という実在の刀剣の名前を騙って創作という免罪符を振りかざすな。それだけである。
何度も言われた。刀剣乱舞は創作なんだから。刀剣乱舞は史実とは違うから。私自身も何度も何度も創作だから仕方ない、創作と史実は違うのだからと必死に自分に言い聞かせた。
でも、やっぱり、許せないのだ。
刀剣乱舞は、国と共同で日本博に出るなどここ最近は文化の担い手として伝統を伝える試みを多くしている。それを行うところが五月雨郷という一振りの刀を適当なキャラメイクでキワモノ実装した。創作という免罪符を元にして。
今この世にある刀に汚いもの、元の主の蔑称を体現するものとして認識させるのどうかと思う。
創作であるという免罪符を、文化の守り手を自称する企業が振りかざさないでくれ。
私のことを史実厨だと謗ってくれていい。それで五月雨郷という本当に美しい刀が不当に扱われないのであれば何度だって声をあげる。五月雨郷という刀は本当に美しい。私が愛した刀は、何物にも変えられないくらい美しい。私が一番好きで、何度でも見ていたい刀である。
キワモノだからと、犬耳だからと、どんな刀か知られずに松尾芭蕉のことしか語らない刀であると認識しないでほしい。犬も基本関係ないし、歴史がないわけでもない。
五月雨郷が歩んできた歴史全てを蔑ろにして松尾芭蕉という誰もが知っている要素を組み込んで出来上がったキャラクターは可愛いか?
信長も秀吉も家康も持っていない、有名な武将の手に渡っていないそんな刀の創作は、誰も知らないから好きにしていいのか?
もう一度言う。
五月雨郷の美しさを知ってくれ。
五月雨郷は本当に美しい。
でも、間違った意識というのはあまりにも容易く色々なものを壊すこともある。創作は免罪符ではない。
Twitterを見た。
様々な意見が噴出している。私が見た範囲が全てとは思わないがいくつか言うべきかなと思って追記だけつける。
1.他の刀剣もだろ。
A.私の推しじゃないので史実確認できるほど詳しくないです。各々当該刀剣が推しの人が叫べばいいと思うのに五月雨郷だけ叫ぶなっておかしくない?
生類憐みの令が元だって審神者全員が言ってくれたらそれは構わないよ。犬公方っていう言葉と五月雨江をつなげるツイートをいくつか見たからこその意見だよ。
3.犬の尿は汚くない
汚いよ。俳句としては汚くない意味でも、今の時代にそれを検索なりなんなりして意味を調べる人間がどれだけいる?
第一印象で俳句の意味など全て知らずに犬の尿だけを覚える人間って多分思ってるよりずっと多い。だから嫌だと言ったし、俳句自体が汚いとは言ってない。
知ってるよ。でも今出した意見は松尾芭蕉=忍者説と柳生新陰流における忍者の話だけだよ。
柳生家と関係があるのは尾張徳川家にいたときだけで、五月雨郷が尾張徳川家にいた時点で柳生家は剣術指南の家だったという話。なお柳生家が忍者じゃない云々に関しての議論は別なのと尾張といえば忍者は伊賀の町おこし壊すからやめてくれ。
五月雨郷を実際に見に行って松尾芭蕉は?ってなるより悪い印象って何?キャラが好きになった人が五月雨郷を見にくることをやめろとは一切思わないけど自分が見に行ったときに松尾芭蕉の話を五月雨郷の前でしている人がいたらげんなりはすると思う。
私は最初から史実厨と言われていいから元となるものを貶してまで創作をするなと言ってるのであって、史実厨という言葉をいい意味で使ったことないよ。創作を認めるなって言っているのに近いと思う。
6.とうらぶやめろ
やめるよ。今回の監査官さんが原因で余計病んで五月雨郷をこうしたのに創作で出来上がった自分を考える監査官さんがいることが嫌になったからこれを書いたんだから。