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2026-05-09

anond:20260509083031

どうせその若者たちも80年もしないうちに少子化高齢化に悩まされて保守に落ちていく。日本は一足お先に老化してるだけだよ。

 

若いからってチヤホヤされる連中も40代50代になるとやはり落ちぶれて、つまらない老人に近づいていくんだ

2026-05-03

anond:20260503070728

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隠岐さや香

東京大学教育学研究科教授科学史

視点

興味深い分析だが、要はトランプヒトラーなみに感情操作を行い、支持者に「敵に報復せよ」と指令する段階に入っている、という話である。それでも対話を試みるというのは、うっかりすると自分を敵認定してくる相手に心を開けということなわけで、難易度が高い。相当な「感情労働」である(※ホックシールド氏は「感情労働」概念提唱者)。

 

気になるのは、感情論理の「バイリンガル」になるべき人が「リベラル」とざっくり名指しされているようみえることだ。しかし、同じリベラルだって立場が違う。

たとえば、ヒトラー攻撃されていたユダヤ人のような立場の人にまでそれを求めるべきだろうか。また、仮にそれを試みたとしてうまくいくのだろうか。私は疑問である

 

タイミング問題も考えた方がいい。9年前ならまだしも、既にトランプ政権とその支持者は犠牲者を出している。民主党レズビアンマザーICEに発砲され、死亡した件は有名だが、他にも複数の人が命を落としている。収容所に送られた人も多く、その中で何が起きているのか、我々はまだよく知らない。

 

最後に、トランプ支持者の「感情論理」は大変よくわかったので、私としてはトランプ支持者に攻撃される側の「感情論理」も書いておく。

たとえば、もうずっと前からトランスジェンダー若者たちは互いに「生き延びよう」と声を交わし合っていた。尊厳を傷つけられ生きるのが辛い、あるいは単に路上で襲撃されて殺されそうだと感じている。人口の1%しかいないのにトランプ政権に過剰な関心をよせられ、デマ中傷に貶められ続けているからだ。

 

人は自分尊厳を傷つけようとする相手を拒絶していい。私はそう考えている。

他の誰が彼ら彼女らを責めようが、私は全面的肯定する。

 

もちろん、これまでの人生でそうした心の傷を経験していない幸せな人には、リベラルだろうが保守だろうが、是非とも分断の克服のための対話にいそしんでいただきたい。その人ならば実際に「共感の橋」をかけることはできるかもしれない。ただ、尊厳を傷つけられた人々に加害者との対話強制してはならない。

 

なお、私はトランプ支持者も「敵」扱いしてきた相手感情論理を知るべき段階に入っていると思う。何よりそうするのは彼ら彼女らのためだろう。このままだと彼ら彼女らは圧政虐殺の加担者として歴史に刻まれしまいかねない。

#トランプ第2次政権

2026年5月3日 01:49

2026-04-20

左翼ワイ「若者たちデモに参加しようぜ!高市政権にSAY❗️NO❗️」若者デモ?そんなんじゃダ~メwww(冷笑)」

なぜなのか

2026-04-13

あるライターがなろう小説堕ちしていたことを知った

・青い空へと向かって深呼吸で歩こう

エロゲ黄金時代にそこそこエロゲーをやり込んだ人間なら「あーあったねそういえばそういう作品」と思い出す様なあるメーカー作品群がある。

そのメーカー自体2000年代後半には解散したのだが、代表作を書いていたライター確認できる限り2010年代頭までライターとして活動していて、そこから忽然と姿を消していた。

もう2000年代流行オタク業界の話なので、こういうことはよくあることなのだが、往時にはそこそこ活躍していたオタク界隈の中である種名声があった名物クリエイターで、今では足を洗ったのか、消息知れずの人たちは結構いる。

俺が好きな作品ライターもそうだった。

当時流行っていた学園物で、どこか2000年代ネット/アキバ界隈特有の、あのゆるい開放感のある自由雰囲気でのコメディが得意で、とにかく優しくて面白くて「楽しい」、ノーテンキな世界観が心地よかった。

そのメーカー音楽特に定評があり、ライター謹製作詞と、2000年代オタク音楽特有フュージョン、ニュージャックスイング、コンテンポラリーR&B系の透明感ある音楽と相まって、いい感じに肩の力抜いたふざけた歌詞とあっていて、未だに思い出の音楽としてXなどでも結構話題に上がるくらいだ。

そんなわけで、今でもXやyoutubeを探せば、そこそこ音楽作品評価して名前結構上がるくらいには、まだファンも多いライターだった。

・広い澄んだ青空とが似合う作風ライターは、なろう系という沈殿するオタク社会の闇へ堕ちていた。

数週間前、ゲームwikiを見ていてふとその懐かしいタイトル記事があるので目を通していた。内容は、ハッキリ言って1から10まで覚えているのだから見る必要もないかなと思っていたのだが。

そこで、あるURLが目に付いた。

なろうや、なろう系のカクヨムURLだった。

15年近く消息不明だった、そのライター消息が分かった瞬間だった。

クリックして読んだ先の作品は、25年も前に完結したライター代表シリーズの続編兼ある種の最終回の様な短編だった。

あの時代の空気雰囲気もそのままに、主人公ヒロインや悪友キャラ達が再開し、再び「面白い物を探して」、青い空の向こうへと歩き始める物語

あの頃と何もかも変わらない、古い友人というか、昔よく言った店がまだやっているような安心感ノスタルジーを覚えた。再びあのキャラ時代出会う事が出来て、嬉しかった。

だが、それもリンクから15年の間何をやっていたのだろうと、探してみると、失望へと変わっていった。

惨めな氷河期世代オッサンニートだとか、他責思想丸出しのテンプレのようななろう主人公療育放棄された頭の病気の様な悪役令嬢、そんな判で押した様なテンプレなろう系ばかりの作風ばかりになっていた。

そこには「あの時代」に発揮した才能や感性カケラもない、

どこかの素性不明の本でとってつけたような兵站論や物流論、軍事理論講釈を垂れて粋がるバカ主人公

スラップスティックとただの奇行区別もつかない悪役令嬢が、〇狂いじみたことを喚きながらトー横のメンヘラの様に暴れまわる頭の病人の様な主人公

貰い物のチートだとか、現代知識無双をして、ヒロイン以外同性の友人すら出てこないあまりにも惨めな主人公

そんなものばかりだった。人気はそこそこあったのかもしれない、だが、そこにはなぜこんなメンタルでまだシャバにいられるのか、という様な煮詰まった読者欄に生息するなろう系の負け組オタクばかりがテンプレ評価する蟲毒だった。

子供のころ、石の裏をひっくり返して蠢く虫や蛞蝓を見たような気分を思い出した。

唯一救いがあるとすれば、書いていたライター当人も何か思うところがあったのか、2020年に入る前には活動を停止していることだった。今となっては作品はどこかのブログ魚拓サルベージされた場所しか見ることはできない。

あの時代市場規模の中で活動していたのだからネットで言われるなろう系市場実態と以上乖離して「儲からない、将来性がない」というのを体感的に察知して筆をおいたのか、それとも何か別の理由でもあるのか、あまりにも現実乖離したなろう系オタク達に心が侵食される様な苦痛を感じて逃げ出したのか、それは今となってはわからない。

いつまでも当たり前の日常が続いていた「セカイ系という世界」そして「一瞬だけの青春ぬるま湯時代」への鎮魂歌

かつて、「セカイ系」と呼ばれた一群の流行があった。

それは、世界というものがひどく狭く、しかし同時に、どこまでも広がっているかのようにネットで、秋葉原で、オタク界隈で、個々の若者たち人生で感じられた2000年代という時代産物である

日常は終わることなく続き、青春は一瞬でありながら、画面の向こうの主人公やその親友ヒロインたちも、そして画面を見る側の当人たちには永遠に似た手触りを持っていた。

いわば、ぬるま湯の様な富裕な日本の穏やかな時代産物だった。

何より哀しかったのは、なろう系を書いている以外で、かつて自身が手掛けた作品群の続編や外伝の様な短編を書いているときだけは、その感性や才能が色鮮やかに蘇っているところだった。

それは、失われていたはずの完成が色鮮やかに息を吹き返す、セピア色の黄ばんだ写真が綺麗にあの頃の青春空気と、匂いと、青空と、温度が戻ってくる様な感触に思えた。

そこには、成り上がり美少女承認欲求を求めて銃や刃物を手に他人殺傷する極悪人の様ななろう主人公はいない、他人が落ちていくのを「ざまあ」と笑うあまりに惨めななろう主人公も悪役令嬢もいない。

書類数字講釈を垂れながら、見ることもない兵隊一般人を「致し方ない犠牲」と平気で切る血も涙もない人非人の様な、なろう系主人公もいない

まるで場末キャバ嬢か、脳に何らかの寄生虫でも入ってるかの如く主人公マンセーマンセーと褒め称えて股を開くヒロインもいない。

そこにあるのは、ただ、あの頃と変わらぬ「人間」たちであった。

あの頃と何も変わらない、他者世界逆恨みすることなく、加齢で余裕がなくなって承認欲求劣等感精神おかしくなって認知が歪んでいるわけでもなく、

心が歪むことなく、いつまでも続く「終わらない文化祭」のような毎日と、静かに流れる「なんとなくぬるま湯の様な優しい世界」で、また面白い事を探して次は何をしようか、と仲間やヒロインと探して軽口を言い合って青空の下を歩いていく、

そして、主人公と悪友は別れ際にこう言葉を交わすのである

「さあ、また旅に出よう、あの青い空しか見えない、青い階段を上がれば出口だよ」

「結局俺達は、まだ何も見てないんだな」

だってそうだもの、"見る"キミがいてこその世界からね。だからもう一度世界を見て回ってきてほしい。」

「そんな重背を親友に負わせるなよ、友達遣いが荒いな」

「そうかもね、それだけ君を信用しているということさ。おっと、僕は遅れてから行くよ、そろそろ時間だ。また会おう。」

「ああ、また、どこかで」

このやりとりの中に、彼等と俺達と、そしてあの時代世界のすべてがある。

ああ、彼等や彼女らだけが永遠に続く様な錯覚でなく、本当に永遠の中にいるのだ。

青い階段を昇りつめた後に広がった青空と夏の街を一望できる白いビル屋上景色が広がり、

主人公は持っていた腕時計だけを青空に向かって放り投げる、そしてこう言った

「うん、まずはこれをしないと何も始まらいから。」と

ああ、それは時間というしがらみからさえ自由になるために離脱するという意味する行為なのだと、俺は感じ取った。

現実時間という世界から、本当に旅立ってしまったのだ、「永遠」の方へと。

その当時の古参ファン感想に古い友人を訪ねる様に感想欄に現れていた、それはまるで、亡き友の家や墓を訪れるように…なろう系オタクは誰一人といない、その落差があまりに悲しいと俺は感じた。

なろうやカクヨムに続きが書かれた時点で、本当に彼等は「死んでしまった」のだろう。とすると、続編は全て主人公が死んだ先に見た夢の中を、俺達が追体験しているだけなのかもしれない。

別のタブで開いているyoutube再生している、あの頃の作品主題歌は、きっとあの時代と彼等への鎮魂歌なのだろう。

気の抜けた明るい歌詞が流れている、だがそれは、本当に永遠世界へと旅立っていってしまった彼らと彼女たちの、あまりに悲しい鎮魂歌だった。

それは、明るさを装いながら、すでに失われた時代とその中に生きた人々と、あの日世界にとらわれ続けた俺をひそやかに弔っている。それは同時に、青青の時代とそこに生きた彼らへの静かな挽歌でもあった。

彼等はすでに旅立っている…きっとそれも、帰ることのない永遠の方へ。

彼等は帰らぬ旅へ出た。

そして、その旅路は、もはや俺が生きる時間のうちにはない。

いわば永遠のものの中へと静かに編入されたのである

彼等はすでに去った。

次の「面白い事」…青い鳥を探して、帰ることのない旅路へと赴き、時間の流れから離脱した。

そして今や俺の目の前から離れていった彼らは、彼女たちは

永遠という、歴史の外部に属している。

――去ったのだ。

青い鳥を探しに、

二度と帰らぬ道へ。

そして今、彼らはもはや、

この時代の中にはいない。

俺がなお、時代時間の中で生きている以上、きっともう彼らに再び会うことはないだろう。

ただ、記憶の中においてのみ、彼らは微かに息づく。

・・・それが、あの時代の残した、最後の光である

2026-04-12

Xの自動翻訳日韓歴史認識障壁が取り払われつつある

ちょっと想像を超えた感動をしている。

まりは、日本人韓国人に嫌われていると思っていたのが、実は韓国人左派政治歴史認識操作され、日本を憎むように仕向けられていたと言うある韓国人告白からだった。

https://x.com/muichiro_korea/status/2043188310835867650 下記Xによる翻訳

韓国左派教育機関は、幼い子供たちから反日洗脳を始めます。私の経験です。ある日、私の10歳の甥が学校から帰ってきて、「日本が本当に嫌いだ」と言いました。私は驚いて尋ねました。聞けば、教師日本植民地時代朝鮮人拷問したこと教育していたのです。その日以降、私たちの甥たちは「日本が嫌い!」「日本には絶対行かない!」という歌を歌いました。面白いのは、そう言いながら家では「ニンテンドー」を起動して「ポケットモンスター」のゲームをやっていたことです。

韓国教育界と歴史学界は左派が掌握しています。彼らは「反日」を教え、洗脳します。なぜ反日を教えるのか? 中国北朝鮮と密接に繋がった者たちが、韓国左派からです。何としても韓国-アメリカ-日本三角同盟の環を断ち切りたいのです。それが東アジア大中時代を作るのに役立つと信じています。その執拗さが、幼い子供たちから始まっているのです。

しかし、多くの若者たちが彼らの欲のままに洗脳されませんでした。むしろ疑念を抱き、自分勉強しました。彼らの主張が偽物だと気づいた若者たちが、今の20~30代です。韓国若い世代日本を嫌っていません。むしろ大変好きです。嫌うよう強要するのは韓国左派勢力です。彼らの背後には中国北朝鮮があります。この事実日本の皆さんに知っていただきたいです。

から日韓中の歴史認識は噛み合わなかった。学者が集って日中韓共通歴史を作ろうなんて言われても、大方中国が主導し、韓国も付き従い、本当の歴史蔑ろにされるのだろうと思っていた。

それがこうして、先ずお互いの国民感情中国寄りの左派によって操作されてる事に気づき始めた。

そして、両国国民同士による、政治に寄らない歴史の精査が始まった。

https://x.com/againfreekorea/status/2042883085835079737 下記Xによる翻訳

朝鮮史日本統治時代

かなり歪められているということは

想像していたけど

日本人の人と直接コミュニケーションが取れるようになって

ますます広がる真実

日本朝鮮からハングルを奪ったことはない。

しろハングルを奪おうとしているのは誰か?

私たち言葉中国と違うと

はっきり明記したのに

ハングル自分たちのものだと主張する国はどこだ?


https://x.com/knight608/status/2043282046563537386 下記Xによる翻訳

徴用写真だと言われていたものが嘘だと明らかになった瞬間—白黒写真カラー復元公開!!

嘘をつく韓国歴史学界に対して怒るのが普通ではないか?こんなカルテルに騙されていたかもしれないことだ!!

「左側の写真は、韓国で広く使われている、北海道炭鉱強制連行されて恐ろしい目に遭っている朝鮮人(とされている)写真です。

右側の写真のように、実はこれ、1926年9月北海道旭川新聞が報じた、労働者たちの道路建設現場での虐待致死事件を報じる際の写真でした。

まり徴用とも朝鮮人とも関係のない日本人写真でした。」

韓国政府の嘘に気付き、ショックを受けながらもそれを受け入れる韓国人真実探究に敬意を払いたい。

また逆に、時には日本人がそうである可能性もあるのだろうけど、こんなにも民主的に、互いの国民純粋に本当の歴史を追っている事に素直に感動してる。

ネトウヨと呼ばれたりもして来たけれど、こんなにも壁が氷解する時代が来るなんて。

もうネットde真実2.0である

かつては蔑称しかなく、その意図も十分にわかものであったけど、あえてこの言葉を使いたい。

今度は韓国人自身が目覚め始めてる。

中国が益々脅威となり、民主主義的な韓国人日本人も大変苦しい立場であるけれど、そんな時代で起きたこ自由歴史をここに記したい。

2026-04-10

雪中勃起

雪が細かく、音もなく降り続けていた。山奥の駐車場は、白いヴェールをかけた舞台のように静かだった。気温はマイナス九度を下回っていた。吐き出された息が、空気に触れた瞬間に白く凍りつき、すぐに雪の景色に溶け込んで消える。まるで、どんな言葉もこの白さの前に無力だと言われているようだった。8人の男たちが車を降りた。誰も何も言わなかった。服を脱ぐ動作も、いつものように淡々としていた。ここでは余計な言葉必要ない。必要なのは、ただその場所にいることだけだった。

全員が完全に裸だった。頭はつるりと剃り上げられたスキンヘッドで、眉以外の毛は一本も残っていない。陰部も、陰嚢も、アナル周りも、すべてパイパンに処理されていた。肌は深い墨色に焼き上げられていた。長年かけて全身を黒く日焼けさせた結果、雪の白さと冷たい光の中で、その肉体は磨き上げられた黒檀のように艶やかに浮かび上がっていた。そして8人全員が、容赦ない寒さの中で勃起していた。8本の黒い肉棒が、冷気の中で血管をくっきりと浮き立たせ、太く反り返っている。男たちの黒紫色亀頭は張り詰め、先端から透明な液が長く糸を引いて、雪の風にわずかに震えていた。リーダーはその中心に立っていた。

彼は元々は一人でPornhubに全裸の滝行動画を上げ続けていた。その滑らかな黒い頭と、淀みない黒い体は、すでに何万もの視線を集めていた。彼の肉棒は特に重厚で、根元から太い血管が何本も盛り上がり、冷風の中でゆっくりと脈打っていた。俺もその一人だった。最初はただ動画を見ていただけだった。いつしか憧れが強くなり、毛をすべて落とし、体を黒く焼き、このサークルに加わっていた。今もこうして、雪の中で勃起したまま立っている。他の6人も同じだった。肩幅の広い者、脚の太い者、腹にわずかな厚みのある者。それぞれ体型は違うが、誰もが同じ条件を満たしていた。全身黒く焼け、すべてを剃り上げ、寒さの中で硬く反り返った肉棒を晒している。

「よし、行くぞ」

リーダーが短く言った。8人は雪の山道を歩き始めた。膝下まで積もった新雪を、ゆっくりと掻き分ける。雪は音を吸い取り、足音さえも柔らかく飲み込んでしまう。8人の黒い裸身が、白い世界の中で静かに動いていく。その姿は、まるで墨で描かれた線が、白い紙の上をゆっくりと横切っているようだった。歩くたびに、8本の黒い肉棒が優雅上下に揺れた。冷たい風が亀頭を撫で、先端から透明な糸が長く伸びては、純白の雪の上に落ちる。一瞬だけ光るその滴は、すぐに新たな雪片に埋もれて消えた。肩や頭に積もる細かな雪が、体温で溶けて冷たい水の筋となり、黒い胸や腹、太ももを伝い落ちる。その軌跡が、黒い肌の上に一瞬の白い光を描き、すぐに消える。雪はすべてを等しく覆う。汚れも、熱も、言葉も。寒さは肉体をより敏感にし、黒い肌の表面を張り詰めさせ、血管の一本一本までを際立たせる。反り返った肉棒の先端に雪片が触れては溶け、冷たさと熱が同時に体を貫く。その感覚は痛みとも快楽ともいえる。誰も声を上げなかった。荒い白い息遣いけが、静寂の中でかすかに重なる。黒い肉体同士の距離は近く、時折視線が交差する。その視線は雪の白さの中で、言葉にならない熱を静かに伝え合っていた。

この雪の中を歩く8人の姿は、奇妙に美しかった。黒と白のコントラストが極限まで研ぎ澄まされ、俗世の雑音をすべて削ぎ落とした、静かな絵のようだった。雪は清め、雪は美化する。そして雪は、すべてを無に帰す。それでも、そこには確かに青春の爽やかさが満ち溢れていた。

二十代半ばの若者たち大学卒業して社会に出た者もいれば、まだ学生の者もいる。誰もが忙しい日常を離れ、ただこの山に来て、体を黒く焼き、毛を落とし、寒さと水に打たれることを選んでいる。

理由簡単だ。リーダー動画を見て「これだ」と思ったから。

憧れだった。潔さだった。自分を極限まで削ぎ落として、ただ「あるがまま」に立つことの、痛いほどの爽快感だった。

雪の中で勃起したまま歩くこの行為は、どこか馬鹿げているようにも見える。だが、同時にひどく真っ直ぐで、ひどく若々しかった。

寒さで体が震えながらも、誰一人として萎えない肉棒。痛いほどに硬く反り返ったそれは、青春のもの象徴のようにさえ思えた。

恥じらいを捨て、視線を恐れず、ただ前を向いて歩く。笑いも、照れも、すべてを飲み込んだような潔い笑顔が、時折浮かぶ

俺たちの姿は、汚れを知らない、荒々しくも清らかな青春匂いがした。まるで夏の部活後の汗のように、痛快で、眩しくて、胸の奥がすっと軽くなるような爽やかさだった。

滝に着くと、水音が一気にその静けさを破った。半分凍りついた滝。巨大な氷柱が牙のように垂れ下がり、中央の流れだけが容赦なく落ち続けている。

1周目は一人ずつだった。最初の一人が滝の下へ入る。黒いスキンヘッドに凍てつく水が叩きつけられ、体がビクンと硬直する。水の勢いが黒い胸を打ち、腹を滑り、反り返った肉棒を激しく打ち据える。肉棒は左右に激しく揺れながらも、さらに硬く張り詰め、血管を鮮明に浮かび上がらせる。黒い肌が水に濡れて艶やかに光り、雪の白さと重なって、まるで黒い宝石が洗われているようだった。次々と、黒い裸身が滝に打たれていく。誰もが背筋を伸ばし、目を見開き、水圧と寒さに耐えながら勃起を保っていた。水に打たれるたび、黒い肉棒が跳ね、透明な液が水しぶきに混じって飛び散る。その姿は、雪の中で鍛えられた肉体が、さら純粋な水によって磨かれ、輝きを増しているように見えた。若さの勢いが、水しぶきとともに弾けているようだった。

リーダーの番になった。彼は堂々と滝の中心に立った。長年の経験から姿勢完璧だった。凍てつく水が頭から肩、胸、腹、そして重厚な黒い肉棒を容赦なく打ち据える。肉棒は激しく揺さぶられながらも、ますます太く硬くなり、先端から大量の液が水に混じって流れ落ちる。黒い肌全体が水に濡れて鏡のように輝き、雪の白い背景の中で、動く黒い彫像儀式を行っているかのようだった。

最後に俺だった。冷水が全身を一瞬で支配する。黒い肌が赤く熱を帯び、反り返った肉棒が水圧で激しく打たれる。痛みと快楽が混じり合い、雪の中で育まれ感覚さらに鋭くなる。若い体が、水の冷たさを跳ね返すように、生き生きと反応していた。

休憩を挟んで、2周目はペアで行うことになった。俺とリーダーが肩を並べて滝の下に入った。二人の黒い裸身が、ほとんど触れ合う距離で並ぶ。二本の逞しい黒い肉棒が、水の勢いで激しく揺れ合い、時折先端が軽く触れ合う。冷水の中で、二人は同時に声を上げた。「はあっ……うおおっ」リーダーの低い、喉を震わせるような声。「んああっ……はああっ」俺の、熱く途切れ途切れの叫び。二人の黒い肌と黒い肉棒が、滝の中で静かに響き合うような気がした。雪の白さと水の透明さが、二人の黒さをより深く、力強く際立たせていた。若さの熱が、水しぶきを飛び散らせながら、爽やかに弾けていた。滝行の終わり近く、俺たちは雄叫びを上げながら、ほぼ同時に射精した。白い精液が凍てつく水の中に勢いよく飛び散り、すぐに雪の白さに溶け込んで消えた。

全裸黒い男たちが横一列に並び滝に深く礼をした。

男たちの勃起したペニスの先端には清潔な汁が溢れていた。

「清められたな」

「……はい

帰り道、8人の黒い裸身が湯気を立てながら雪道を戻る。雪は再びすべてを優しく覆い始め、さっきの熱と叫びを静かに記憶の中に封じ込めるようだった。俺とリーダーは少し遅れて歩いた。木陰に入ったわずかな瞬間、手を握り合った。冷え切った指先が触れ合い、互いの熱だけが一瞬、強く結ばれる。すぐに離し、また何事もなかったように歩き出した。駐車場に戻ると、皆が無言で服を着始めた。リーダーと俺も最後ジャケット羽織り、車に乗り込んだ。

今日もいい滝行だったな」

「次はいつにする?」

短い言葉が交わされ、エンジンがかかった。雪の降る山道を、車列が淡々と走り出した。

2026-04-03

札幌ドームコロシアムに改修して弱者男性ヒグマを戦わせてみればどうでしょうか?

良いことしかないと思うのですが、なぜ国はこの制度を推進しないのでしょうか。

メリット1: 国庫に税収が入る

札幌ドームという巨大施設集客力と、ヒグマ vs おぢ、という衝撃的かつ壮絶なエンターテイメントが融合すれば、国内外から観光客が押し寄せるのは確実です。

格闘技イベント収益力は高いし、「独身男性 vs ヒグマ」は、UFCボクシングとは異なる独自の魅力があり、大人気の近哲になること間違いなし。

世界各国のテレビ局も高額で放映権を買い求めることは必定です。

メリット2: 戦うこと自体名誉である

勝利者には「熊狩武士ベアハンター)」の称号を授与し、歴史に名を刻む機会が与えら、その名誉は計り知れません。

敗れた場合でも「国のために命を懸けた勇者」として称えられ、熊闘神社に祀られることで誇りが保たれます

クマ討伐界のスター選手」が登場すれば、国民の心の支えとなり、若者たちの憧れの存在になる可能性があります

メリット3: 勝った独身男性には莫大な報酬

「勝者には1億円」といった高額報酬制度を導入すれば、挑戦者は後を絶たないでしょう。

さらに「日本英雄勲章」などの称号を設けることで、社会的地位の向上も図れます

さらにはスポーツドリンクプロテインCMオファー殺到し、華やかなセカンドキャリア約束されます

2026-03-29

脱オタファッションなどという思考法そのものが老人たちのものである

現在若者たちは色んな意味で「拗らせていない」人たちなので、軽々と自己カテゴリー変更に成功する。

SNSとともに育った世代は、それまでの世代と比べて強力な自己客観性を求められる。

そういった環境で育つ人たちの中で「オタク」をしている人たちは極めて選択的であり、それは自己顕示欲の現れである

決して、やむにやまれ事情、自らが自らを駆り立てるようにしてオタクファッションを「せざるを得なかった」人たちとは違うのである

2026-03-28

令和の若者たちで作った会社バリバリブラック企業、という流れを見たけど

人の性質としてそうなるんだろうなと思う

知性と理性が働いてこそホワイト化できる

2026-03-25

[] 教師不在の「政治的丸投げ」は、教育基本法違反する

教育基本法第14条第2項は、学校が「特定政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない」と明確に定めている。
この規定精神は、子どもたちに一方的党派的な思想を押しつけるのではなく、中立・公正な立場から多角的物事を考えさせる教育を求めるものである。
以下では、まず法律の想定を説明し、次に現状との比較を通じて問題点を明らかにする。

1. 教育基本法規定

法律文科省の通知が、学校行事特に修学旅行平和学習)で求める基本は、次の3点に集約される。

学校教員責任を持って生徒を直接指導監督すること
• 外部団体プログラムを利用する場合でも、学校が内容を事前に十分検証し、賛成・反対の両論を必ず併記すること
政治的に敏感な活動では、教員が同伴して中立性を守り、安全管理も徹底すること

これが、教育基本法第14条の趣旨である。
教師意図的に外し、外部に丸投げすれば、学校の関与が薄れ、中立義務形骸化する恐れがある。法律は「教員を外せば問題ない」とは一切認めていない。むしろ教員積極的な関与こそが、政治中立安全配慮を両立させる鍵だと位置づけている。

2. 現状――同志社国際高校辺野古事故が示した法の逸脱

2026年3月16日に発生した同志社国際高校事故は、この「正しい姿」と正反対現実を浮き彫りにした。

ヘリ基地反対協議会が運航する抗議船「平和丸」「不屈」に乗船した生徒18人(うち1人死亡)の引率教員2名は、どちらも船に乗っていなかった。

学校側は「班別行動のため」「希望コースから」と説明したが、事故発生時は岸で待機しており、救急車サイレンで初めて異変を知った。過去にも同コースで「教員不乗船」が繰り返されていたことが報道されている。

学校は、抗議船であることを保護者・生徒に対し「基地反対を唱える人が乗る船」と曖昧に伝え、「抗議船」とは明示しなかった。

外部の活動ガイド一方的な反基地視点だけを提示する中で、「生徒が自主的に考える機会」と主張した。

読谷村教育民泊チビチリガマ見学民泊交流)でも、同様の構造常態化している。

地元ガイドが主導し、教師は全体を遠くから監督するだけというケースが多く、思想的に偏った交流先との指摘が後を絶たない。旅行会社は全体手配のみを担い、敏感な部分は学校が直接外部団体に依頼する「責任分散」が横行している。

これらはすべて、教育基本法第14条が禁じる「政治活動の外部委託」に該当する恐れが極めて高い。

法律が求める「学校責任による中立確保」と「教員の直接関与」が、大きく損なわれている典型である

現状は法律趣旨から大きく逸脱している。「希望制」「自主尊重」「実践教育」といった言葉で美化されても、結果として未成年生徒に偏った政治体験を強いている事実は変わらない。これは「脱法的手法」ではなく、法の精神空洞化させる深刻な問題である

結論―法遵守への回帰直ちに

教育基本法は、子どもたちを政治的道具にしないために存在する。
教師不在の丸投げ構造は、この大原則を根底から崩すものであり、看過することは許されない。法遵守対策を実行すべきである

1 外部プログラム事前審査義務化し、学校責任を持って内容を検証する
2 政治的に敏感な活動では、教員の同伴を原則義務とする
3 すべてのプログラム両論併記を徹底する

読谷村民泊をはじめ、全国の同様の「平和学習」についても同一の基準適用し、抜本的な見直しを進める必要がある。

学校教育は、法律を守り、中立を徹底する場でなければならない。


未来を担う若者たちを、特定イデオロギーの道具にしない

それが、教育基本法精神に忠実な、真に責任ある教育行政の最低限の義務である

2026-03-21

ユニクロの今年発売の商品を語るときに、今年のファッション流行入力ゼロの人が語ることは難しいだろ

ファッションを語るという行為は、基本的には「流行」というものへの感度が必要だ。

流行と、ファッションというのは切っても切れない関係にある。

ライフウェアを標榜してるユニクロと言えども、今年のアイテムには今年の意味合いが込められている。

それなのに、今年の流行を全く追っていない人たちが、今年のアイテムを語れるだろうか。

ユニクロ今季ラインナップを見て「これパチンコ屋に行くおっちゃんの格好w」なんてつぶやくおじさんやおばさんを見ることがある。

それはそれで構わない。

人にはそれぞれの信念というものがある。

ただ流行を語るというのは、ただ服を眺めて評価することじゃない。

今年のユニクロの一番尖ったアイテムを語ろうと思うなら、今年の風を知らなくてはいけない。

その風は、ただ生きているだけでは感じ取ることは出来ない。

街の歩調やカフェ温度若者たち無意識選択の中に、そっと潜んでいるものからだ。

流行に無関心でいることは悪ではない。

でも、それを誇りのように掲げるのは少し傲慢だと思う。

ユニクロは、一見すると普通象徴みたいなブランドだ。

けれど、もちろん時代の空気とは無縁ではない。

からこそ、本当に語ろうと思うなら、流行の呼吸に耳を澄ませる必要がある。

まりこういうことだ。

あなたが最新のユニクロを笑うとき、それは服が駄目なのでも、デザイナーが悪いのでもない。

ただ、あなたの感度が時代と大きくズレているだけなのだ

あなたユニクロの服を笑うときあなたもまたユニクロの服に笑われているのだ。

anond:20260321172152

できたぞ!自分全く指摘してないからな!

黄金放課後モノクロの夢』

 銀行残高に並んだ「0」の数を何度数えても、それは現実だった。

 宝くじ一等、前後賞合わせて6億円。その瞬間、僕を縛り付けていた「生活のための労働」という鎖は、音を立てて弾け飛んだ。

 翌週には退職願を叩きつけ、僕が向かったのはハローワークでも不動産屋でもなく、都内にあるマンガ専門学校の門だった。

「……あの、保護者の方ですか?」

 受付の女性怪訝な顔をされたとき心臓が跳ねた。

「いえ、入学希望者です。……4月からの」

 僕は震える手で資料差し出した。38歳。かつて受験に失敗し、親の勧めるまま就職し、趣味で描くことさえ忘れていた「漫画家」という夢。その燻っていた火種に、6億円というガソリンが注がれたのだ。

 4月。教室に入ると、そこは異世界だった。

 金髪ピアスオーバーサイズパーカー。18歳や19歳の若者たちが放つ、根拠のない自信と熱気。そこにスーツを脱ぎ捨て、ヨレたTシャツを着た「おじさん」が混じる。

 授業が始まると、現実さら残酷だった。

「……田中さん。このコマ割り、古いです。昭和劇画をなぞってるみたい」

 講師を務める20代の青年が、僕の原稿を冷淡に指さす。

「今の読者は、もっとテンポを求めます説明台詞が多すぎるんですよ」

 周りの生徒たちの視線が痛い。クスクスという忍び笑いが聞こえた気がした。

 6億円あれば、最高級の画材も、資料となる資料も、快適な仕事部屋も買える。けれど、失った20年という「感性の鮮度」だけは、いくら積んでも買えなかった。

 放課後。一人、自習室でGペンを握る。

 インク匂い。指先につく黒い汚れ。これだけは、中学生の頃にノートの端に描いていたあの時と同じだ。

「……あ、その背景。すごく丁寧ですね」

 顔を上げると、隣の席の少女が僕の原稿を覗き込んでいた。ピンク色の髪をした、クラスで一番絵が上手い子だ。

「あ、いや。古いって言われちゃってさ」

「古いですけど、すごく安定してます。私、パースとか苦手だから……ちょっと教えてもらえませんか?」

 彼女は屈託のない笑顔で、自分クロッキー帳を差し出した。

 僕は驚き、それから少しだけ胸が熱くなった。

 僕は働かなくていい。一生遊んで暮らせる金がある。

 それでも、僕はここにいる。

 自分より二十歳も年下の子に頭を下げ、流行を教わり、必死に食らいつく。

「いいよ。その代わり、最近流行りの漫画、教えてくれるかな」

 窓の外には、夕焼けに染まる街並みが広がっている。

 6億円で手に入れたのは、贅沢な暮らしじゃない。

 もう一度、夢に破れるための「挑戦権」だった。

 僕は再びペンを取った。

 真っ白な原稿用紙に、僕だけの新しい線を引き始める。

〈続くのかは知らん〉

2026-03-18

anond:20260317090531

自分もこれには同意かな。

そして、ここに特攻隊を見る。

活動家の方々は自分たちの活動賛同し、参加してくれましたっていうんだろうけれど、

参加させられた子供たちはその実、活動家からの申し出 (という名の事実上命令) を断れたんだろうかって思う。

自分生活を握られている団体学校から活動に参加してほしいと言われて、断れる人はほぼいないと思う。

「不死身の特攻軍神はなぜ上官に反抗したか」という本で、人々がどういう仕組みで特攻隊として出撃していったかが描かれているのだが、

辺野古抗議活動に参加させられている若者たちに似たものを感じていたたまれなくなる。

反戦活動と言いながらも、やっていることは日本戦争に向かっていた仕組みと同じなので見るたびに残念な気持ちでいっぱいになるんだよね。

2026-03-17

anond:20260317141827

若者たちにも人気がと言ってるのはお前らネトウヨじゃん

中道に比べて自民側の演説聞きにいてる人数が3倍超、自民側は若者多数で拍手が生まれ中道演説聞いてる若者は1人2人だった

中道は#ママ戦争止めてくるわへ言及していたが前述の通り反応している若者はほぼ居ない

都市部でこんなんだったら地方では本当にヤバいんじゃなかろうか

anond:20260207200645

ちなみにこの演説実在確認できなかった

黄金の党の主』2

第二章 “混乱と熱狂選挙戦

アレクサンダーグレイムの選挙戦は、アメリカ史上もっとも奇妙で、もっとも刺激的で、そしてもっとも混乱したショーだった。

彼は伝統的な政治家のように、政策集を分厚い冊子にまとめたりしない。

代わりに、ゴールデン・タワーの最上から、夜ごとライブ配信を行った。

国民よ、聞け。私は昔からこう考えている。

人間はまず殴ると、話をよく聞くようになる”」

スタッフが慌ててマイクスイッチを切ろうとしたが、彼は手で制した。

「もちろん比喩だ。だがな――」

アレクサンダーは指を一本立て、カメラに向けてゆっくり振った。

「国も同じだ。甘やかされ続けた国は、怠ける。

だが、ショックを与えれば、目を覚ます

私はその“ショック”になれる。」

翌朝、この発言は全メディアトップニュースになった。

評論家たちは「危険思想だ」「暴力的だ」と口を揃えたが、

街の若者たちSNSで彼の言葉を切り抜き、

「Wake Up America!(目を覚ませアメリカ!)」というハッシュタグが爆発的に広がった。

2026-03-12

DAICHI vs HIKAKIN映画

1. 『異世界BATTLE MODE』

現代活動していたDAICHIは、不慮の事故異世界へ転生する。そこは人類と魔族が長く争ってきた世界だが、武力衝突の裏では古来より「大きな争いを最終決定するのは声の決闘」という文化が残っていた。剣で流血戦争をする前に、両軍の代表が“声の技”で優劣を競い、民衆がその勝敗裁定するのだ。だが近年はその儀式形骸化し、結局は武力で押し切る時代になっていた。

DAICHIは偶然、魔族の青年人類兵士の小競り合いをビートボックスで止める。彼の音は、ただうまいだけではなく、相手の呼吸・鼓動・感情を引き込んでしまう力を持っていた。その噂を聞きつけたのが、人類圏最大国家の和平執政官HIKAKIN。彼もまた圧倒的なビートボックスの使い手であり、戦争を終わらせるために「世界を一つのテンポ統一する」構想を進めていた。自由リズムは衝突を生む。だから種族が同じ拍、同じ様式、同じノリを共有すれば争いは消える――それがHIKAKIN正義だった。

DAICHIはそれに反発する。平和とは、同じになることではなく、違うまま同じ場で乗れることだと信じるからだ。終盤、人類と魔族の全面戦争を止める最後の機会として、古代闘技場で史上最大のビートボックス決闘が開催される。HIKAKINは、完璧リズム、正確無比な構成、観客全員を支配する圧倒的カリスマで会場を掌握する。一方DAICHIは、魔族の喉音、人類軍靴子ども手拍子、泣き声、笑い声を即興で混ぜ込み、バラバラ世界ひとつグルーヴになる瞬間を作る。勝敗は僅差だが、最終的にHIKAKINは負けるというより、自分理想では拾えない音があることを認める。

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2. 『魔王HIKAKIN平和DAICHI自由

異世界人類と魔族の争いが長引く理由は、言葉のもの呪いがかかっているからだった。交渉の場では誤解が増幅し、謝罪侮辱に、譲歩は挑発に聞こえてしまう。そんな世界で唯一、言葉を越えて感情を伝達できるのがヒューマンビートボックスだった。転生したDAICHIは、その才能を使って各地で小規模な停戦を生み出していく。

だがHIKAKINは、そんなDAICHI活動危険視する。彼は“魔王”と呼ばれているが、実際には戦乱を食い止めてきた秩序の守護者だ。彼のビートは精密で、強く、安心感に満ちている。人々の怒りや恐怖を鎮め、場を一つにまとめ、混乱を収束させることに特化している。彼の理想は、全世界の争いを終わらせる巨大な“調律ネットワーク”を作ること。すべての都市と村に同じ基準音を流し、人々の感情を安定させ、暴発を防ぐのだ。

DAICHIは、そんな平和は生きているとは言えないと反論する。感情をならし、ズレを消し、違いを管理して得られる平穏は、本当の意味での融和ではない。物語後半、両者は各地で“公開ビート対話”を行い、音だけで民衆の支持を競う。HIKAKINの音は美しくて強い。DAICHIの音は危なっかしいが、人の声を残している。クライマックスでは両軍数万人を前に、二人が一対一でビートボックスバトルを行う。構成はまさに対面動画的で、煽り、間、返し、空気支配、観客のどよめきがすべて演出の核になる。最後DAICHIHIKAKINを打ち負かすのではなく、HIKAKINビートの“隙間”に民衆の声を差し込み、彼の理想を塗りつぶすのでなく拡張して終える。

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3. 『BEATBOX DIPLOMACY』

転生したDAICHIが着いた世界では、人類と魔族の戦争はあまりにも長く続き、誰も相手を知らないまま憎んでいた。唯一の例外が、数十年に一度だけ行われる“代表者同士の発声決戦”。かつてはそれで大戦回避していたが、最近では一方的演出扇動の場になっていた。そこを事実上支配していたのがHIKAKIN。彼は史上最強ビートボクサーであり、誰よりも民衆熱狂させ、誰よりも衝突を制御できる男だった。

HIKAKINの主張は極めて明快だ。人類と魔族は、互いを理解するには傷が深すぎる。ならば必要なのは共感ではなく統治である。彼はビートボックスを、自由表現ではなく“社会を安定させるための技術”と捉えていた。対してDAICHIは、ビートボックスは人と人が向き合うためのものだと考える。支配ではなく応答、統治ではなくセッション。その思想の差がそのまま音の差として表れる。

映画の中盤では、二人が各地で代理戦争のようにビート民衆を動かしていく。HIKAKINのサイドは隊列が揃い、巨大で、強く、完璧DAICHIのサイドは雑多で、不安定で、でも熱がある。終盤の最終決戦は、人類王都と魔族領の境界に築かれた巨大円形劇場ルールは単純、「相手を黙らせたほうが勝ち」ではない。「人類と魔族の双方に、戦争より未来を選ばせたほうが勝ち」。HIKAKIN超絶技巧で会場を制圧するが、DAICHIは一人で勝とうとせず、途中から人類・魔族の若者たちコールレスポンスに巻き込む。そこで初めて、観客は“見物人”ではなく“当事者”になる。HIKAKINは敗北ではなく、自分民衆を守っていたつもりで、民衆から選ぶ権利を奪っていたと悟る。

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4. 『転生したらラスボスHIKAKINだった』

DAICHI異世界転生直後、自分が“口から出る音で魔力を起こす珍種族”として保護される。人類にも魔族にも属さな存在である彼は、両陣営の橋渡し役として期待されるが、現実はそんなに甘くない。停戦会談は何度も失敗し、現場では報復が続き、融和派は裏切り者扱いされる。そこでDAICHIは、互いの主張を言葉翻訳するのでなく、ビートボックスによる真剣勝負の場を作り、「相手存在感を認めること」から始めようとする。

この世界で圧倒的な影響力を持っているのがHIKAKIN。彼は人類・魔族の双方から恐れられ、同時に敬われてもいる伝説ビートボクサーで、“魔王”の称号も通り名にすぎない。彼はかつて何度も理想論で和平を試み、そのたびに裏切られ、多くの命を失った。だから今の彼は、衝突の芽を徹底的に摘み、完璧管理された秩序だけが平和を守ると信じている。DAICHI即興性や、余白や、偶発性は、彼にとってあまりにも危険だ。

クライマックスの構図は完全に一騎打ち

だがそれは単なるバトルではなく、二人とも本気で世界を救いたいからこそ譲れない対決になる。HIKAKINは圧倒的な安定感、説得力支配力で押し切る。DAICHIは崩れそうで崩れない危うさと、生身の熱量で返す。映像的には、口元のアップ、息継ぎ、汗、観客の目線、低音で揺れる瓦礫ハイハットのように飛び散る火花など、とにかく“ビートで戦っている”実感に全振り。最後DAICHIが勝つというより、HIKAKINが初めて即興で返し、予定調和を崩した瞬間に、二人の思想接続する。

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5. 『異世界 HUMAN BEATBOX』

異世界では、人類と魔族の争いを煽ってきたのも、止めてきたのも“広場での対面ビート勝負”だった。民衆は王や魔王演説より、広場の一戦で世界空気が変わる瞬間を信じている。そこへ転生したDAICHIは、辺境市場披露したビートボックスが偶然バズり、一気に「人類にも魔族にも乗せられる男」として注目される。

一方HIKAKINは、その世界ですでに頂点にいる存在。彼のビートは洗練され尽くし、どんな相手も飲み込み、どんな場も自分空気に変える。だが彼は私利私欲で頂点にいるわけではない。分断された世界を一度でもまとめ上げられるのは、自分のような“絶対的中心”だけだと信じているのだ。バラバラのまま共存するのでは遅すぎる、まず全員を同じ場に従わせなければ破滅する、それがHIKAKIN論理である

DAICHIはそれに対し、中心は要るとしても、永久に一人で世界を回すべきではないと考える。目指すべきは“誰か一人の神試合”ではなく、“誰もが混ざれるセッション”だ。中盤、二人は複数回バトルするが毎回決着はつかない。HIKAKIN技術支配で勝ち、DAICHI空気の巻き込みで勝つ。最終決戦では、ついに人類と魔族の合同広場で完全一対一のバトル。構図としてはまさに対面動画の究極版で、最初は互いに相手スタイルを潰し合い、後半から相手フレーズを拾って返す“対立から対話への変化”が描かれる。ラストは明確なKOではなく、二人のセッションに観客全体が手拍子で入ってきて、戦争を続けたい両陣営強硬派が完全に空気を失う。

2026-03-11

絶滅エンド

なんか20歳前後の数百人の若者たち隔離された街で生活を送っていたのだが、用済みと判断されたのか外部から武装集団が乗り込んできて若者たち虐殺してまわり絶滅エンドになった夢を見た。

なぜそんなストーリーを作ったの?

2026-03-08

日本人戦争の観客じゃない

最初に断っておくが、これは統計に基づいた社会学的な分析じゃない。

ただの低学歴増田が、インターネッツ日常会話から得た、極めて雑で偏見に満ちた観測に基づくお気持ちだ。

ただただ今の日本に漂う戦争観のねじれが気味が悪くて仕方ない。

現在のきな臭すぎる世界情勢と、日本政治を巡るあれこれへのフラストレーションを整理するために、俺の思う日本人の戦争観をちょっと書いてみる。

反省していないのではなく中身が空っぽ

​よく中韓の人が日本批判文脈で「日本人は戦争反省していない」と言うが、それは半分正解で半分は外れていると思う。

中韓では知られていないのかもしれないが、実は日本はわりとガッツリ子供敗戦の教訓を浴びせて育てる国だ。

戦争悲惨で、平和が一番で、二度と繰り返してはいけないとかなんとか。

問題はその中身だ。

日本流通している戦争の語りは、主役である善良な庶民が、悪い軍部国家あるいは「戦争という化け物」そのものにひどい目に遭わされた話に終始している。肝心な部分を抽象化して誤魔化しているわけだ。

戦時下の抑圧、徴兵空襲原爆。それ自体否定しようのない事実だし、悲劇だ。

しかしそればかりをリピート再生するだけでは、決定的なパーツが抜け落ちたままだ。

日本はなぜあんな狂った戦争を始め、​どこへ行って何をしようとしたのか。

占領地で誰を殺し、誰の尊厳を踏みにじり何を奪ったのか。​ここが驚くほど空洞になっている。

加害者の顔をした被害者

現代社会を生きる多くの日本人にとって、第二次世界大戦は、軍部というモンスターが突如暴走して可哀想庶民が巻き込まれ不可抗力災害として処理されている。

もっと雑に言えば「かわいそうな日本人の体験記」としてしかパッケージ化されていない。

これらの帰結として、日本は追い詰められて戦わざるを得なかった被害者であり、英霊は国を守るために散ったという、驚くほど自分勝手認識にたどり着いてしまっているケースが散見される。

​そりゃ末期になれば本土空襲沖縄戦もあった。その局面だけ切り取れば攻め込まれたのは事実だろう。

しかし​その前に日本軍がどこで何をしていたかスキップして、「我々もつらかったんだ」で話を閉じるのは、あまりにも都合がよすぎる。

エンタメ再生産する綺麗な特攻

​この手の被害者意識としての反戦は、教育だけではなく娯楽作品でも延々とアップデートされている。

​たとえば『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』とか、まさにその典型だと思う。

そこで描かれるのは、時代翻弄された純粋で優しい若者たちだ。

​彼らがなぜそこに立たされていたのか、その死がどれほど組織的で無残な敗戦処理だったのかという構造より、こんなに優しい子たちが死ななきゃいけなかったなんて、戦争残酷というお涙頂戴が前景化する。

​観客が回収するのは侵略戦争の末路ではない。愛し合う人々を切り裂く戦争ダメという極めてパーソナルで消費しやす感情と、彼らが命がけで“守って”くれた日本を大切にしなければならない、という異次元から突如湧き出るピュアナショナリズムだ。

「加害」という面倒くさい政治認識スルーして感情だけで泣けるから、この手の物語若者にもバズる

政権現実的防衛の罠

(この項目で引き返そうとした奴いるだろ、せめて最後まで読め)

​この「庶民がかわいそう」で止まっている反戦は、実は国家にとって一番扱いやすい。

​なぜなら、庶民がひどい目に遭わないシステムさえ提示できればいくらでも軍事化肯定できてしまうからだ。

抑止力専守防衛日本人の命と暮らしを守るため。

この定番文句を添えるだけで、かつての加害の歴史ブレーキをかけるはずの反戦は、あっさりと国防として回収される。

​だから俺は高市のような強い安全保障国家の誇りだのなんだのを掲げて威勢のいいことを言い出す権力者に強い警戒心を抱く。

最近ニュースを見ていると、ああいう連中が掲げる景気の良い甘言に対して反射的に身構える土台がこの国にはもう残っていない気がして、なんだか絶望的な気分になる。

繰り返される被害者の顔

日本人は、戦争侵略と加害のシステムとしてではなく、一般市民が不幸になる不可解なイベントとして理解している。

から原因の分析が甘い。

分析が甘いから、再発防止策も「平和を祈る」みたいなフワッとした精神論で終わる。

どうせまた清潔な広報気持ちいい言葉をまとった権力に、驚くほど簡単に流されるんだろう。

まあそれも思考停止で都合のいい物語を選び続けてきた結果だ。

戦争悲惨なんて誰でも言えるが、それだけでは足りないのだ。

日本加害者でもあったとかい等価交換みたいな話ですらない。

加害の主体として戦争をし、他民族使役し、最終的に自壊したという不快事実直視しない限り、日本反戦はずっと片手落ちのままだ。

​いずれまた、嵐が去ったらあの頃は庶民が辛苦を強いられたと被害者面するんだろうか?

俺はこの国を最後まで好きでいたいんだ。頼むよ。

勇者はだいたい40代半ばになると魔王討伐を(自分がやり遂げることを)諦めだして後継者育成を考え始める。

勇者はだいたい四十代の半ばになると、ある朝ふいに自分足音の質が変わっていることに気づく。

靴底と大地のあいだで鳴る音が、かつてのような「これから何かを始める」音ではなく、「ここまでなんとかやってきた」という種類の音に、ひそやかにすり替わっている。

それは決して劇的な発見ではない。

台所の隅でいつのまにか増えた空き瓶に気づくのと同じくらい、静かで、取り立ててニュースにもならない。

だがそのささやか気づきが、魔王討伐という長い物語の進行方向に、ゆっくりと角度をつけていく。

若いころの勇者は、自分の剣筋が世界をまっすぐに切り裂いていくと信じている。

城を出るときに交わした約束や、酒場地図を広げながら語った大げさな言葉たちは、まだ新しく研がれた硬貨のように、ポケットの中で心地よく音を立てる。

魔王居城までの距離は単なる数字にすぎず、山脈荒野も、少しばかり手間のかかる試練のリストしか見えない。

四十代の勇者にとって、その地図は少し違った顔を見せ始める。

そこに描かれている山の名前には、すでに二度三度と越えた記憶のしみがついているし、かつてはただの点にしか見えなかった村には、あの夜飲んだ安い酒の味や、焚き火の煙の匂いがまとわりついている。

地図はもはや「これから征服すべき世界」ではなく、「すでに歩いてしまった時間の、薄いアルバム」のようなものになる。

そのころになると、魔王という存在輪郭も、微妙に変質してくる。

若い勇者にとって魔王は、物語最後に倒されるべき、単純で巨大な黒い点だ。

しかし四十代の勇者にとっては、それは世界のどこかで黙々と仕事を続けている、まだ見ぬ同年代労働者にも少し似ている。

同じくらいの年齢で、同じくらい肩を凝らせて、同じくらい「やめどき」を見失っているかもしれない誰か。

こんなふうに考え始めると、剣を振るう腕の中に、目に見えない余白が生まれる。

一撃ごとに、「この技を教えるなら誰がいいだろう」という、予定にない注釈が挟みこまれていく。

斬り結ぶ最中に、背中のほうでまだ見ぬ若い勇者たちの影が、ぼんやりと動き始める。

四十代半ばの勇者が、最初後継者のことを考えるのは、たいてい旅の途中の、さして意味のない小さな町だ。

王都でもなく、魔王の城に近い辺境でもない、中途半端場所

朝市の立つ広場で、荷車に寄りかかって居眠りをしている若い衛兵の姿や、木剣で遊び半分に打ち合う子どもたちの動きを見ているうちに、ふと気づく。

自分がこれまで「通り過ぎるだけの背景」と見なしていた風景のどこかに、次の物語主人公が隠れているのかもしれないと。

その発見は、胸躍る種類のものではない。

それはむしろ乗合馬車の窓に映った自分の顔と、向かいの席で眠る若者の顔を、何気なく見比べてしまったときの、あの妙な手触りに近い。

どちらかが絶対的に正しいわけでも、間違っているわけでもない。

ただ、時計の針がそれぞれ別の位置を指している、というだけのことだ。

後継者育成というと、仰々しい響きがある。

しかし実際のところ、勇者がやることはさほど特別ではない。

戦い方を教える、地図の読み方を教える、怪我をしたとき対処法を教える。

要するに、自分若いころに誰かから受け取ったものを、少し形を変えて返していくにすぎない。

ただ、その行為の背後には、誰にもはっきりとは言葉にしない前提がひっそりと横たわっている。

自分はおそらく、魔王の城のいちばん奥までは行かないだろう」という静かな予感だ。

それは、誰かに敗北を宣言するものではない。

もっと個人的で、もっと内密な、机の引き出しのいちばん奥にしまい込まれ私信のようなものだ。

長い年月をかけて鍛えられた剣は、まだよく切れる。

走り慣れた道なら、今でも若者たちより速く駆け抜けられるかもしれない。

それでも、勇者は知っている。

魔王討伐という物語は、多分どこかで「自分ではない誰か」の手によって終止符が打たれるのだと。

そのことに気づいた勇者は、そこで初めて本格的に後継者のことを考え始める。

自分の技や経験が、まるで古い魔法書のコレクションのように棚に並んでいる様子を思い描き、そのうちのいくつをどの順番で手渡すべきかを、静かに検討する。

全部を渡す必要はない。

全部を渡そうとしても、おそらくうまくはいかない。

若い勇者には、若い勇者の歩き方がある。

四十代の勇者が、かつて自分がそうであったように、彼らの無謀さや頑固さや、不器用希望を見て、ひそかに苦笑いを浮かべる。

それは、昔の自分日記をこっそり読み返しているようなものだ。

ところどころ赤面しそうになりながらも、そこに書かれた拙い言葉に、なぜか少し励まされる。

いつか、どこかの時点で、魔王は倒される。

それが具体的に誰の手によるものかを、世界はたいして気にしない。

王国には祝宴が開かれ、詩人たちは新しい英雄譚を歌うだろう。

四十代半ばを過ぎた勇者の名は、その物語にはたぶん、ほとんど出てこない。

しかし、どこかのさほど有名でもない町外れの酒場で、年季の入った剣を壁に立てかけ、若い勇者の話を黙って聞いている男がいるかもしれない。

旅の途中で覚えた、雨の気配の読み方や、負け戦からの引き際の見極め方を、必要ときにだけ、短く差し出すのがうまい男だ。

その男のことを人はもう「勇者」とは呼ばない。

だが、物語のどこか深いところで、彼の足跡は確かに地図に刻まれている。

魔王討伐を諦めるというのは、実のところ、物語のものを諦めることではない。

ただ、自分が担うべき役回りを、ほんの少しだけ脇にずらすことだ。

主役の椅子から半歩横にずれて、次にそこへ座る誰かのために椅子を整え、背もたれの埃を払う。

四十代半ばの勇者がやっていることは、だいたいそういう種類の、目立たない仕事である

そして、そんな静かな仕事こそが、世界が気づかないところで物語をつないでいる。

新しい勇者が剣を抜くたびに、その刃のどこかには、名前も知られないままの古い勇者たちの手の温度が、うっすらと残っている。

それは、誰も見ない夜空の端っこで、黙ってまたたき続ける小さな星の光に、少しだけ似ている。

2026-03-01

テヘランで生まれた同世代の友人たちと話すと、いつも同じところに行き着く。

「俺たちの人生には、王様はいなかった。でも“王様時代”は、ずっとテーブルの上に置かれている」——パーレビ王朝ってのは、そういう存在だ。

1979年革命を、自分の目で見たイラン人は、もうだいぶ年配だ。

今のイランの平均年齢は30代前半、人口の大半は革命後に生まれている。革命を「体験した」世代は、もはや社会の少数派になりつつある。

まり今日イラン人にとってパーレビ王朝は、「生々しい記憶」じゃなくて「語り継がれた物語」と「SNSに流れてくる古い写真」の世界なんだ。

近代国家イラン」という神話の原型

王朝時代経験した親や祖父母の話を聞くと、まず出てくるのは「近代化」のイメージだ。

識字率が上がり、道路鉄道が整備され、テヘラン中東有数の大都会になっていく。

洋楽が流れ、ミニスカート写真アルバムの中に残り、酒もクラブ普通にあった——多くの家族記憶では、あの頃は「世界とつながっていた時代」だ。

でも、同じ口からこうも出てくる。

「サヴァクの名前を口にするな」「政治の話は家の外でするな」、そして友人や親戚が突然いなくなる話。

パーレビ時代は、「未来がある」という興奮と、「いつ踏み潰されるかわからない」という恐怖が同居した時代だった、という証言は本当に多い。

そのアンビバレント記憶が、いまの若い世代にそのままコピーされているわけじゃない。

コピーされているのはむしろ、「比較フレーズ」の方だ。

「昔は仕事があった」「昔は世界から孤立してなかった」「昔はこんなに貧しくなかった」。

こういう言い方で、パーレビ期は「今の地獄」を照らすためのライトみたいに使われている。

ノスタルジーと断絶のあい

イラン国内ディアスポラ議論を長く追っていると、面白い癖が一つ見えてくる。

パーレビを持ち上げる声の多くは、「王制が最高だった」というより、「今よりはマシだった」という相対評価で語る。

これは、社会学の論文でも「現在への絶望過去への理想化がセットで動く“ノスタルジー装置”」として分析されている。

実際、イラン人口構造を見ると、若年層が圧倒的に多い。

彼らはサヴァクも革命前の不平等も、身体で覚えていない世代だ。

から王政の暗部は教科書政権プロパガンダで聞いただけ。

一方で、パーレビ期の写真動画には、「髪を出して笑っている女性」「酒場」「西洋ブランド」があふれている。

このギャップが、「俺たちが知らない、もう一つのイラン」を想像させる。

友人の一人はこう言った。

「パーレビを恋しがっているんじゃない。俺たちの国が“普通の国”だった時代を恋しがってるだけだ」

この一文が、今のイラン人にとって旧王朝がどういう存在かをよく物語っていると思う。

事情通の目から見た亡命皇太子

長年ロサンゼルスロンドンイラン人コミュニティウォッチしていると、亡命皇太子レザー・パーレビの扱い方の微妙さがよくわかる。

彼は、確かに「一番名前が知られている反体制の顔」だ。

国際機関欧米メディアとのネットワークも長く、英語フランス語も堪能で、「外向けのブランド」としては完璧設計されている。

でも、内向きの話になると、空気は一気に変わる。

王党派集会では「プリンス・レザー」と持ち上げられる一方で、左派世俗共和からは「西側が好む記号」「イラン現実から何十年も離れた亡命貴族」とバッサリ切られる。

SNS上での支持の多くは、ディアスポラ匿名アカウントに偏っていて、「オンラインの人気」と「国内での本当の影響力」のギャップを指摘する研究も出てきている。

要するに、レザー・パーレビは「実働部隊」ではなく、「象徴」として機能している。

彼の名前が街で叫ばれるとき、それは必ずしも「王政を返せ」という直球の要求じゃない。

しろ「この体制には未来がない」「別の選択肢があるはずだ」という、否定形叫びが先にあって、そのスクリーンとして王家の名が投影されている。

トランプがその“象徴”をどう料理するか

ここにトランプが登場すると、話は一気にアメリカ政治ロジックに引き寄せられる。

彼にとってイランは、「悪役の坊主政権」「人質事件」「核」「イスラエル」「石油」、このあたりのキーワード構成された舞台装置だ。

そこに「追放されたプリンス」「自由を求める若者たち」というストーリーを足せば、テレビ的には最高のコンテンツになる。

すでにトランプの側近がレザー・パーレビと極秘に会い、「体制崩壊後の移行シナリオ」を擦り合わせているという報道も出ている。

トランプ本人も、彼を評価しつつ「国内支持がどこまであるかは疑問だ」と含みを持たせている。

この距離感は非常にトランプ的で、「全力で担ぐ」ほどの覚悟は見せないが、「使えるカードとしてポケットには入れておく」というスタンスだ。

アメリカ大統領としてのトランプは、 ideology より「絵になるか」「勝ち筋があるか」を優先する。

もしイラン政権が本格的に崩れ、街頭でレザー・パーレビ名前自然発生的に盛り上がる局面が来れば、彼は迷わず自由を求めるイラン人とそのリーダー」として全力で担ぎ出すだろう。

逆に、国内世論調査情報機関分析で「王政カードは重すぎる」と出れば、「イラン人自身が決めるべきだ」と一歩引いた位置から、別の世俗派・軍部エリートに乗り換える可能性もある。

まりトランプにとってのレザー・パーレビは、「固定された盟友」ではなく、「コストの安いオプション株」だ。

支援表明や会談写真を出すだけで、イラン政権を刺激し、西側メディアに“わかりやす対立軸”を提供できる。

それでいて、本当にイランの将来を彼に委ねる気があるかどうかは、また別の話だ。

王朝」をめぐる最終的な問い

事情通として長くこの問題を追っていると、結局いつも同じところに戻る。

パーレビ王朝は、いまのイラン人にとって「選択肢」というより「鏡」なんだ。

その鏡の前で、イラン社会自分にこう問いかけているように見える。

「俺たちは、どの失敗から目をそらし、どの失敗を認めるのか?」

トランプがどれだけ王子の肩を持ち上げても、最終的に決めるのは、革命を“知らない世代”が多数派になったイラン社会だ。

彼らにとって重要なのは、王冠の形じゃない。

明日通貨レート、就職口、ネット検閲、街頭での暴力——その全てに対して、「あの時代よりマシか?」と、パーレビの亡霊をものさしにしている。

王朝は終わった。だが、「王朝をどう記憶するか」という戦いは、まだ終わっていない。

そして、その記憶の再編集の中に、トランプもレザー・パーレビも、遅れて登場した脇役として書き込まれていくんだと思う。

2026-02-26

考察垢と成り切り垢は創作たかった人間の成れの果てである

SNS存在する考察垢と成り切り垢は創作たかった人間の成れの果てだと思う。



◼︎考察垢とは何なのか

まずは、考察垢だ。

世は大考察時代---というくらい考察ブームになっている。

考察とは「物事を明らかにするためによく調べて考えること」という行為のことだ。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」が大ヒットした文芸評論家三宅香帆は

著書「考察する若者たち」の中で批評には正解がないが、考察には正解がある、と論じ

その「正解探し」=「報われること」こそ若者考察に傾倒する理由の一端だと述べている。

考察に正解がある、という論に私は素直に頷くことはできない。

考察には正解はいらない。必要なのは正解ではなく、正解っぽい結論だと思う。

もちろん、三宅香帆の論じる「考察には正解がある」という論拠は

近年ヒットしたテレビドラマあなたの番です』や小説『変な家』など

作品の中に最終的な結末があり、その謎に対しての考察を行うことには正解がある、という意味なのも理解している。

私が考える考察とはコンテンツの中に明確な答えや、結論が描かれていない(または現時点では描かれていない)作品についての考察だ。

小説の結末や1クールドラマに対しては、明確な答えはあるかも知れないが、

連載中の人漫画や、過去の名作には答えがない、もしくは答えが示されていないものも多々ある。

よくある例で言えば、大人漫画ONE PIECE』において主人公ルフィの最終的な目的の一つであるひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」の正体などだろう。

一読者として、尾田栄一郎先生健康とご多幸を願ってやまないが、『ONE PIECE』の結末が示されるのは早くても数年後、下手をすると数十年後になるかも知れない。

その他には、直近新シリーズ制作が発表された『新世紀エヴァンゲリオン』をはじめとする『エヴァンゲリオンシリーズ』も

作中に哲学的抽象的な表現が多く、一旦は作品として完結した今も多くの考察が作られている。

(主人公碇シンジとあるサブキャラクター関係性を考察したnoteがバズっていたのは記憶に新しい)

考察すること自体を全て否定するつもりはない。

私自身も好きな作品の展開を考察したり、キャラ言動考察し、時には友人と盛り上がることは大好きだ。

SNSで気軽に考察論を発信し、顔も知らない不特定多数自身考察論を発表し、

反応を見ることができるこの時代考察はもはやエンタメコンテンツの一部だろう。

しかし、考察を専門に発信している考察垢の存在を私はあまり好ましく思っていない。

考察垢はコンテンツ作品世界観や魅力の一部を切り取り、行間を読み、擬似的に創作活動の真似事をしているに過ぎないと思う。

考察必要なのは「納得性」と「発見性」だ。

考察の元々の意味が「よく調べて考える」ということからも、考察垢のほとんどは対象コンテンツをよく調べ、観察している。

かいセリフや設定を洗い出し、時には時系列を精査し、漫画であればコマの中のほんのわずかに描かれた絵や描写を見逃さない。

そして、これらの調べあげた情報が「納得性」に繋がる。







調べあげた情報というファクトを積み上げ、編纂し、データとしての価値を高めていくことで納得性がともすれば信頼や確からしさに繋がる。

そして、それらの情報を元に独自の「発見性」のある論拠や結論を示していく。

発見性」は「納得性」ともやや地続きなのだが、調べあげたデータ根拠に「納得性」があり、

その上に意外性や驚きがありながら「確かにわかる」「あり得そう」「そこには気づかなかった」と思わせる要素があることで考察は見る人の興味を唆る。

あるコンテンツ作品の設定や世界観を活かして新たな作品創造する二次創作考察は似ているし、考察二次創作一種であると言えるかも知れない。

二次創作については色々とグレーゾーンな部分もあり、二次創作という行為コンテンツを広めるに少なから寄与しているという考えもある一方で、

作品毀損してしまうような二次創作存在するのも事実だ。

考察寄与毀損の両面があると思う。

何なら毀損の面が結構大きいのではとすら思う。

特にドラマのような比較短期間で終わるものや、映画など単発で終わるものはまだいい。

一番酷いと思うのは長期的に継続しており、まだ終わりが見えないような漫画などのコンテンツ考察だ。

考察には「納得性」と「発見性」が大事だと述べたが、結論だけ見れば荒唐無稽しか思えない考察も多い。

明確な結果や回答が存在しないコンテンツ考察はどこまでいっても妄想なのだ

そこに「正解」である必要はなく「正解っぽい結論」があれば考察は盛り上がる。

そして、仮に考察が外れたとしても考察者は何のリスクもなく、

当たったとしても考察者の自己満足しか過ぎずコンテンツ側に特にメリットはない。

あ、この展開、考察者の〇〇さんが言ってたのと同じだ、などとなったら終わりだ。

ここでいうのは広く自身考察を発信している場合を想定しており、個人レベルならいくらでも考察しても良いと思う。

しかし、考察垢はダメだ。

考察垢は、誰かが魂を削って作ったコンテンツ世界観や設定をなぞり、わかりやす結論というトロの部分しか触っていない。

ふざけるな。ちゃんと米を炊いて、シャリを作り、10年くらい修行してから寿司を握れ。

そもそも考察垢が本質的にやりたかたことは、自ら何かを作りだし、それで人に反応されたり感動することではないのか?

それが出来ないから、誰かが作ったコンテンツという神輿に載っているという考えは本当に1mmもないのか?

いくら膨大な資料を読み込み、情報を整理し、納得性や発見性の高い考察をしたとしても本質的に何も生み出してはいない。

優れたコンテンツのあり得そうな可能性という魂の代謝を拾い集めて形にしているだけの存在考察なのだ

ONE PIECE』を考察するな。お前が次の『ONE PIECE』を作れ。

小説でも、イラストでも、歌でもなんでもいい。

下手でも、人に見られなくても、賞賛されなくても、時にはちょっと叩かれても、創作するという行為はとても尊い行為だ。

仮に考察賞賛や、注目を集めたとしても決して奢るべきではない。

考察本質的二次創作なのだ

一次創作こそが神であり、王であり、二次創作はその遥か下にいる下々の民だ。

神がいなければそもそも世界存在しない。そこを一瞬でも忘れるな。

文化必要であったら敬意を忘れない、とでも心の辞書に刻んでおけ。

クリエイター面を決してするな。

考察家さん、それは面白い考察だなぁ、探偵にでもなったらどうですか?

ご自慢の考察力で、嵐で孤立した別荘で起こる凄惨連続殺人事件でも鮮やかに解決したらどうか?



◼︎成り切り垢とは大喜利である

成り切り垢はもっと単純で、あれは着ぐるみを着て大喜利をしているだけだ。

大喜利のお題で「こんな〇〇ってどんなの?」というタイプのお題がある。

例えば「ギャル忍者ってどんなの?」というようなものだ。

このお題を考える時、最もオーソドックスな考え方は

ギャルの要素」と「忍者の要素」をそれぞれ抽出し、それを掛け合わせることだ。

ギャル→派手なものが好き

忍者手裏剣を使う

と考えれば「ギャル忍者手裏剣デコってある」とかになるだろう。

この要素のどんな部分を抜き出したり、組み合わせの妙や、要素の距離感の妙などがこのタイプ大喜利ポイントだと思っている。

成り切り垢とは特定キャラクター人物に成り切って発信をしている。

そして、ほとんどの場合対象にしているキャラクターが言わなそうなことやギャップのあることも発信している。

これこそが大喜利なのだ

しかも、特定キャラクター像というものは要素やトンマナ抽出やすいので

2つある変数のうち、1つが固定化しほぼ確定しており

残りの要素1つだけを考えれば大喜利は完成する。

代表的もので言うならビジネスシーンでのあるあるTIPSを発信するアニメキャラクターアカウントがあるだろう。

あれらは、キャラクターという外側の着ぐるみキャラクター性や、口調のフォーマットや構文を活用しながら発信し、

しかも発信内容が本来キャラクターから距離の遠いビジネス話題ということで違和感があり、一定面白さが担保されている。

発信の内容/テーマが「伝えたいこと」だとした時に

キャラクターというガワは「どう伝えるか」という手法だ。

しかし、この大喜利はだいぶヌルゲーだ。

夏目漱石相手好意を伝える際に「月が綺麗ですね」と言ったという、史実的には大分存在が疑われているエピソードがあるが、

これは「好き」という「伝えたいメッセージ」の伝え方を「月が綺麗ですね」というオリジナリティある伝え方にしているのだ。

ダウ90000の蓮見翔も言っていたが「好きという言葉いかに使わずに、好きということを伝えるかが面白い」のだ。

成り切り垢の話に戻れば、これらのアカウントは、キャラクターという発信手法は固定されている。

からこそ発信を考えやすい。

しかし、お前たちは本当にやりたかったのはこんなヌルゲーな大喜利なのか?

本当は0から考えた、人が唸るような回答を出したかったのではないか

特に、どう伝えるか/表現するか、という部分が最もやりたかったんじゃないのか?

あなたならどう告白しますか?というお題に「ジャイアンが言いそうな告白セリフ」ばかり考えていて楽しいのか?

「俺のリサイタルを一生そばで聴いてくれ」とでも言うのか?お断りです。

滑っても面白くなくても、お前にしか出せない大喜利の答えを作れ。

かに成り切るんじゃなくて、お前自身が誰かに認知されるキャラクターになれ。

ウケたとしてもそれはお前がウケたのではない。

大衆認知され、バックボーンがわかりやすキャラクターがあるからこそ伝達のスピードが早く、

時にはギャップを生むことでウケているのだ。



◼︎ショボい作れ手たれ

考察垢も、成り切り垢も根本にあるのは自らの創作や発信で人に賞賛されたり、褒められたいと言う欲求だと思う。

その欲求否定しないし、誰でも持つものだ。

だが、今の欲求の満たし方は、本当に創作しているのか?

誰かが作った世界観キャラクターインスタント活用して、創作っぽいことをしているだけではないか

シンガーソングライターキタタツヤは「物知りな批評家」より「ショボい(ショボくとも)作り手」であってほしいと発信していた。

考察垢も成り切り垢も反応されなくても、誰にも見られなくてもショボい作り手であるべきなのではないかと私も思う。

よしんばそういった発信をするとしても、驕るな、勘違いをするな、謙虚であれ。

金儲けをするな。元のコンテンツに敬意を一瞬たりとも忘れるな。そういうことを切に願う。

そして、こんなことを、何かをゼロから生み出すわけでもなく、

考察垢や成り切り垢という他人が作ったコンテンツベースに話している私も大概ろくなものではない。

みんなでショボい作り手になろう。

2026-02-20

リベラルでかつ保守だと?

若者自分たちがどれほど深刻なダブルスタンダードにおちいってるか分かってるんだろうか? 多分分かってるんだろうな、これ以上ないほどに、それはもう自覚的に、分かってると思う、若者たち自身が誰よりも。

2026-02-19

若者には中国人虐殺されるか、日本人を殺すかの二択しかない

結論から言おう。若者たちよ、あなたたちはこの国に捨てられたのだ。リベラルですら自分たちの命惜しさに自民投票したのが衆議院選の自民大勝の要因となった。

あなたたちは確実にろくな装備も施されないないまま、かつての東国防人のごとく昭和生まれ戦場に送り込まれ、殺されるだろう。

自民党の歴史的大勝の追い風を受けて、今年中に改憲国民投票が始まりそうな以上、これからこの国は急ピッチ戦時状態に移行するだろう。

そうなってくると、日本の軍国化に歴史的トラウマを持つ、中国はかなり早い時期に台湾に侵攻を決断すると思われる。

兵力からも、そのことが推察できる。自衛隊は総兵力三十万程度の弱小軍隊である。それに対して中国軍は総兵力二百万人の大軍である。おまけにチベット人ウイグル人という消耗しても痛くもかゆくもないマンパワーを抱えているので、それに対抗するべく(というか自国兵士を減らしたくないアメリカの指図)高市政権改憲と同時に大規模徴兵制を導入するだろう。

それは何故か?本来なら否定されてきた徴兵者による肉盾戦術は、ドローンが飛び交う現代戦の象徴であるウクライナ戦争でも、有効だと証明されてしまたからだ。

あの軍事大国ロシア西側に倣った兵士の損耗を抑えるBTG制を捨て、中世まがいの騎馬による突撃を繰り返し、ウクライナ側もドローンを駆使しながらもバス化と呼ばれる強制徴兵拉致した若者を使い、ロシアのような突撃戦術で同じように若者の命を無残に散らしている。

徴兵が仮にあったとしても、主要戦術バンザイ突撃はないと反論する者もいるだろう。自衛隊アメリカのドクトリンで編成されているのだから、と。

かに自衛隊は多少アメリカ軍の影響を受けている。

だが、自衛隊というのは小銃を導入しアメリカキルスイッチ付きの高価な兵器を無理やり買わされ、小さくなった対ソ連用の藩国日本軍でしかないのである。つまりww2の英インド軍と何も変わらないのだ。

いまだにアップデートされない訓練内容は銃剣突撃スコップによる塹壕築城だけ。認知症が始まった自衛隊昭和おじさん幹部ドローン戦のことなんて理解していないし、かつての旧軍のごとく若者突撃させることと、風俗のことしか頭にない。つまり自衛隊は今の現代的消耗戦にうってつけの軍隊なのであるさら注釈すると自衛隊作戦指揮権在日米軍移譲してしまった。自衛隊チェスで言うならキングを守るポーンでしかない。日本の手番では状況はスティルメイト、なぜあなたちが負け戦のポーンの役割をしなければならないのか?本来ならこのような状況を招いた、存在価値ゴキブリにも劣る無能昭和生まれのおじさんたちが戦場散華すべきではないのだろうか?あまりにも理不尽だと思わないだろうか?話を元に戻そう。いっそのこと捕虜になればいいというものもいるだろう。だが、それも甘え考えでしかないと筆者は喝破する。中国軍に投降しても、いか昭和日本人が残虐に中国人を虐殺たか教育されて、復讐燃える中国兵士がかつての米兵のような捕虜待遇をしてくれると思うだろうか?第一中国兵も低賃金で使い倒され、国家に消耗を強いられるロボットしかないのだ。

どう考えても日本人に斟酌している余裕などない。weibo拷問されて虐殺される動画をアップされるのが関の山だ。

となると、生き延びたい日本若者選択すべき手段は、そこらへんの戦争に行かなそうな若い日本の女をレイプし、平成おばさん昭和おばさん、昭和おじさんを刺し殺して(二匹以上殺した場合死刑覚悟すること)無期期役を狙うことが、徴兵から逃れられ、復讐心も満たせる最も合理的選択肢なのである

だが、ワグネルのように懲罰戦争に駆り出されるリスクがあるのではという意見もあるだろう。だが日本軍隊ソ連ナチスドイツのような罪人を徴兵する懲罰部隊歴史がない。これはもちろん人権考慮した結果ではなく、犯罪者兵士なんか任せたくないし、信用できないという日本人の差別意識の発露に過ぎない。近い例では教化隊と呼ばれる素行不良兵を教育する懲罰部隊一種があったが、この教化隊ですら前線に送り込まれず、そのまま終戦を迎えた幸運兵士はいたのだ。筆者は、この日本人の差別意識をハックし最大限の生命の延長を図るのがもっと有効だと強く主張したい。刑務所という罪人を隔離する施設が、一転として自分たちの命を守ってくれる要塞へと変貌するのだ。苦しむべきなのは、このブコメを苛立ち気に眺めている昭和おじさんや日本の女なのである

こいつらは自分たちが死にたくないから、鉄砲玉の役割を男の若者押し付け、または残った女を総どりしようとするグロテスクな討伐すべき怪物なのだ若者を利用する闇バイトと一体、何が違うのだろうと筆者は思い悩む。

電脳に散らばるウクライナ戦争で無残に殺された兵士動画を見よ。

ドローンの爆発で手足をもがれた戦死した兵士がいる。燃料気化爆弾で頭をアンパンをつぶしたように殺された兵士がいる。

お前らもこうなりたいのか?昭和生まれはお前たちを若者をこうして殺してやりたいと日夜薄汚い欲望をたぎらせている。

日本は三百万人の若者無意味戦死させて何の責任を取らなかった卑劣な国である

アメリカ従属し、軍艦戦艦の違いすら分からないバカ日本政府では台湾有事は負け戦でしかない。

自分たちの命しか興味がない昭和世代に利用されるな、立ち上がれ若人よ。昭和人どもや日本の女を殺せ。自分たちの命を守れ。復讐の日は近い。

もはや何も変わらなかった、アメリカ人と昭和おじさんが支配する、この斜陽の藩国ではお前達の命は風前の灯でしかないのだ。

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