はてなキーワード: 区分けとは
いつになったらお前ら絵師は、自分たちが他の絵師の作品を無断で見て、学習し、自分のものに無許可でしてしまって、それを公開していて、そしてそれが当然の行為として認められていると気づいてくれるんだ?
あなたの発言は「人間の絵師は他人の絵や技術をパクって学習しても許されるがAIはダメ」という意味でしかない。その区分けをする意味も理由も「なんかやだ」以上ではない。だからバカにされ否定されてるんだ。
集団ヒステリーって言ってるのはどっちかというとアカウントなり投稿画像なりの削除だな。1年前からXは規約で学習を明言しているので「今更消しても意味がない」ということに気づかずに突っ走ってるあたりが。
ウォーターマークっつうかサインは積極的に入れていいと思いますよ。権利者が自分だと主張するのは当然だし、無断転載対策にもなる。
知ってるか?世の中にはチンコを裏返して無理矢理膣作ってる元男もいるんだぞ
性転換手術しただけの元男にも参政権与えるなってのか?
そいつらは参政権与えたら膣人扱いされなかったと訴えるし、与えられなかったらトランスから発言権を奪ったと訴えるぞ
お前の言ってることには穴しかないな膣だけに
いっぱいあるとわかんなくなるよね
でもわかるようにかんたんにするとまちがっちゃうからがんばろうね
実物的要因
戦争や産業構造破壊により、供給が需要を大幅に下回ることによって発生するインフレーション。第二次大戦終戦後の日本では、1945年の水準からみて1949年までに約70倍(約6900 %)というハイパーインフレーション[注釈 1] となった[13]。
また、ジンバブエでは、政策により白人農家が国外に追い出され農業構造が破壊されたところに旱魃が追い討ちをかけたことにより極度の物不足が発生、最終的に2億3000万%という超ハイパーインフレーションとなった[14]。
需要側に原因があるインフレーションで、需要超過インフレーション(需要牽引型インフレーション、ディマンドプル・インフレーション、demand-pull inflation)とも呼ばれる。需要の増大(需要曲線の上方シフト)により、価格が高くても購買意欲が衰えないので物価は上昇する。この場合、供給曲線が垂直である(すなわち価格の変動によって供給量が変化しない)場合を除いて景気はよくなる。
1973年から1975年にかけての日本のインフレ要因は、オイルショックに注目が集まるが、変動相場制移行直前の短資流入による過剰流動性、「列島改造ブーム」による過剰な建設需要も大きな要因である[要出典]。
供給曲線の上方シフトに原因があるインフレで、原価上昇インフレーション(コストプッシュ・インフレーション、cost-push inflation)とも呼ばれる。多くの場合、景気が悪化しスタグフレーションか、それに近い状態になる。通常為替レートが下落すると、輸入物価が上昇してインフレを引き起こすと同時に、企業が抱える外貨建ての債務の返済負担が膨らむ[15]。
原価上昇は総供給が上方にシフトするので、実質GDPは減少する[16]。一方で、需要超過は総需要が上にシフトするので、実質GDPは増加する[16]。つまり、実質GDPの動きで原価上昇か需要超過かは判別できる[16]。景気の過熱によって物価が上昇しているのかどうかを判断するには、消費者物価指数ではなくGDPデフレーターを見なければならない[17]。
賃金・材料等の高騰によって発生する。原油価格の高騰によるインフレーションや消費増税によるスタグフレーションが典型的な例である。
産業によって成長に格差がある場合、生産性の低い産業の物価が高くなり発生する。例えば効率の良い製造業で生産性が上がり賃金が上昇したとする。これに影響を受けてサービス業で生産性向上以上に賃金が上昇するとサービス料を上げざるを得なくなるため、インフレーションを招く。
輸出インフレーション
輸出の増大により発生する。企業が製品を輸出に振り向けたことにより、国内市場向けの供給量が結果的に減って発生する。幕末期に生糸などの輸出が急増し、インフレーションが発生している。このパターンは乗数効果で総需要が増大しているため、需要インフレの側面もある。
他国の輸入を通じて国外のインフレーションが国内に影響し発生する。例えば穀物を輸入していた国が、輸出元の国の内需が増加したり輸出元が他の需要国へ輸出を振り分けた場合などに穀物の輸入が減少し、穀物価格が上昇するといった具合である。実際に中国が穀物純輸入国に転じた際、トウモロコシ市場で価格急騰が起きたことがある。
賃金や物価統制を行っている体制が、市場経済に移行する際に発生することが多い。米国および日本で1970年代にかけて発生した。欧州では冷戦の終結および欧州中央銀行(ECB)拡大による東欧諸国の自由主義諸国への経済統合により、低賃金諸国での賃金・サービス価格の上昇によるキャッチアップインフレが発生している[18]。
貨幣の供給量が増えることによって発生する。貨幣の供給増加は、他のあらゆる財・サービスに対する貨幣の相対価値を低下させるが、これはインフレーションそのものである。さらに、貨幣の供給増加は貨幣に対する債券の相対価値を高めることになり名目金利を低下させる。このため通常は投資が増大し、需要増大をもたらす。そのプロセスが最終的に、需要インフレに帰結することでもインフレーションに結びつく。公開市場操作などの中央銀行による通常の貨幣供給調節以外に、貨幣の供給が増える特段の理由がある場合には、「財政インフレ」「信用インフレ」「為替インフレ」などと呼んで区分けることもある。
政府の発行した公債を中央銀行が引き受けること(財政ファイナンス、マネタイゼーション)により、貨幣の供給が増加して発生するインフレーション[19]。金融政策を経由した効果に加えて、財政政策による有効需要創出効果によって需要インフレも発生する。
信用インフレーション
市中銀行が貸付や信用保証を増加させることによって信用貨幣の供給量が増大することから発生するインフレーション。
外国為替市場を経由して通貨が大量に供給されることで発生するインフレーション。戦前の金解禁における「為替インフレーション論争」を特に指す場合もある[20][21][22][23]。なお、当時は固定相場制であり、現在の変動相場制とは、外国為替市場の動きが貨幣供給量に与える影響が異なることに留意が必要である。
Xでは、コミュニティノートという、投稿に背景情報を付加できる仕組みが運用されています。特に、デマや陰謀論に対してコミュニティノートが付与されているのはよく見かけられます。
ノートは、コミュニティノートの参加者として登録した人が匿名で(正確にはコードネーム制で)ノートを書いたり、他の人が書いたノートを評価する仕組みがあります。
コミュニティノートに参加してノートを書くための敷居はそんなに高くないので、的外れなノートやイタズラが書かれることもあります。
そのようなノートは評価者から低評価を受けるため一般ユーザーに表示されることは滅多にありません。ノートが適切に評価されるように、コミュニティノートは「追加の背景情報が必要ない理由を説明するノート」を書く機能があります。これは、要するにノートに対する反論です。不適切なノートに対しては誰かが反論を書いておくことで、通りすがりの評価者がノートを正しく評価するのを手助けします。
ノートは、根拠となるURLを示すことが推奨されています。反論においてはよくあるのは、
「~~のような指摘はコミュニティノートの目的ではありません。コミュニティノートではなく返信や引用で指摘してください。コミュニティノートのルールを再確認ください https://communitynotes.x.com/guide/ja/about/introduction 」
のようなものです。定番なのは、パクツイ(無断転載)に対して「無断転載です」というコミュニティノートが付くと、「無断転載の指摘はコミュニティノートの目的ではありません」という反論が付きます。
この記事で言いたいのは「いや、コミュニティノートのルールにそんなこと明記されていないよ」ということです。
コミュニティノートは反論も含めて文字数制限が厳しいので、主張をこの記事にまとめました。これを書いた人はこの記事を適宜引用して利用しますが、もちろん、他の人も自由に引用したりリンクしたりできます。
コミュニティノートの根幹は「さまざまな視点を持つ十分な数の評価者が“役に立った”と評価したら、そのノートは表示される」ということだけです。
コミュニティノートのドキュメントは、どのような観点で評価すべきかということに重きを置いており、評価者によって意見が分かれることが大前提となっています。
評価者の意見によらず、「こんなノートを表示すべき」「こんなノートは表示しないべき」という具体的なことは、コミュニティノートの公式ドキュメントにはほとんど書かれていません。
ですから、コミュニティノートのドキュメントのURLを出しながら、「コミュニティノートのルール」を根拠にノートへ反論するのはごく一部の例外を除けば間違っています。書いていないことを書いてあるかのように見せかけて引用するのは悪質な印象操作であり、適切な評価を妨げてしまいます。
ノートへの反論は、あくまで自分の言葉で、コミュニティノートのドキュメントに頼らずに行うべきです。ノートが表示されるかどうかを決めるのは、ルールではなく、評価者の意見です。
ここからは、上記の主張を補強するために、コミュニティノートをどう評価すべきかについて、コミュニティノートの公式ドキュメントに実際には何が書いてあるのか説明します。
意外なほど、どんなノートを評価すべきかについては明記が避けられています。書かれているのはあくまでコミュニティノートの「目的」であって、その目的をもとに個々のノートを評価するのは評価者の仕事です。
ただし、ドキュメントを全部読むと分かりますが、一部例外的に、不適切なノートについても言及があります。そのようなノートに対する反論を書く時だけは、ルールのURLを根拠としてもよいでしょう。(この記事最後のまとめを参照してください。)
コミュニティノートは、誤解を招く可能性があるポストに、Xユーザーが協力して役に立つノートを追加できるようにすることで、より正確な情報を入手できるようにすることを目指しています。
ノートの中身に言及されました。評価者は「役に立つノート」かどうかを評価することが求められています。
また、「誤解を招く」という用語が登場しました。この用語はXのインターフェース上などでも使われており、コミュニティノートの対象として「誤解を招く可能性があるポスト」が想定されていることが分かります。
ただし、注意しなければならないのは、「誤解を招く」かどうかの判断もまたノートの評価者に委ねられるということです。どのようなポストが誤解を招くとみなされるべきか、コミュニティノートのドキュメントには明記されていません。
「陰謀論は誤解を招く」、「無断転載は誤解を招かない」のような区分けはコミュニティーノートのドキュメントに一切書かれていません。個々のケースに応じてそれを判断するのも評価者の仕事のうちです。
つまり、「この投稿は誤解を招いていないのでコミュニティノートは不要です。コミュニティノートのルールを再確認してください」のような反論は不十分です。反論は、他の評価者が「これは誤解を招いていない」と納得してもらうのが目的であり、コミュニティノートのドキュメントはその根拠になりません。
Xがノートの作成や評価を行ったり、ノートに介入したりすることはありません(Xルールに違反している場合を除きます)。Xでは、表示されるノートをユーザーの意見によって決めることは、正確な情報を入手するのに役立つ背景情報を追加するための公平で効果的な方法であると考えています。
Xがノートの評価を行うことはないと書かれています。もちろん、評価という実作業とルール整備とは別のものですが、ここでも「表示されるノートをユーザーの意見によって決める」ことが強調されています。
「○○のようなポストに対してはノートは不要」といった基準をXの側で用意していないことを示す記述です。どんな内容の投稿であっても、評価者がノートが必要と判断したのであれば、ノートが表示される可能性があります。
Xでは現在、人々がさまざまな視点から役に立ち、参考になると考える背景情報を、コミュニティノートが確実に提供できるようになることに焦点を合わせています。
コミュニティノートは、さまざまな視点からユーザーに有益で役に立つ背景情報を提供するために作られており、Xのその他のポリシーやルールを補完することを目的としています。
コミュニティノートの目的はさまざまな箇所で繰り返し説明されています。
コミュニティノートの理念を説明するページであり、特にノートの評価にあたって参考になるページです。
コミュニティノートは、ポストを読んだユーザーが、常により優れた情報を把握できるように、有益な背景情報を提供することを目指しています。ノートは、取るに足らない内容を気軽に投稿したり、個人的意見や侮蔑的な内容を投稿したりする場所ではありません。ポストについてや、それが誤解を招くかもしれない理由について、自分とは反対の意見を持つ人々も含め、誰もがより深く理解できるように、明確で根拠に基づいたノートを作成しましょう。
この箇所は、珍しく不適切なノート内容に言及されています。「取るに足らない内容」は結局評価者に委ねられるのでさて置いて、「個人的意見や侮蔑的な内容」についてはノートとして適切ではありません。このようなノートに対する反論としてなら、コミュニティノートの理念を引用することができます。
「個人的意見」の逆は、「客観的事実」です。そのため、客観的事実をもとに指摘しているのであれば、そんな指摘はコミュニティノートでしなくていいと思ったとしても、コミュニティノートの理念を引用できません。自分の言葉で反論すべきです。
コミュニティノートは、異なる視点を持つ可能性のある人々も含め、あらゆる人々がポストで議論されている問題について、より深く理解できるようにすることを目的としています。あなたの意見に同意しない可能性のある人々にも、有益性と敬意を感じ取ってもらえそうな投稿を心がけてください。ヘイト表現、中傷的表現、扇動的表現は避けてください。
ここでも、「ヘイト表現、中傷的表現、扇動的表現」がノートにふさわしくない内容として言及されています。このようなノートに対する反論としても理念を引用することができます(ただし、ヘイト表現などはXルールにそもそも違反するため、ノートに反論するよりもノートを報告してしまうほうが適切かもしれません)。
対象のポストが誤解を招く可能性があり、追加された背景情報が事実の理解に役立つとノートで主張する場合、そのノートが十分な数の協力者により「役に立った」と評価されると、対象のポストに表示されます。
コミュニティノートは、Xで誤解を招く可能性のある情報に遭遇したユーザーに、役に立つ背景情報を提示することを目指しています。
役に立つノートと役に立たないノートの特徴が列挙されています。また、例も掲載されています。
役に立つノートの特徴は「品質の高い資料を引用している」などで、役に立たないノートの特徴は「出典が含まれていないか、信頼できない」「情報が正しくない」などです。
一見すると、どのようなノートが必要・不要なのか明確に書かれているようですが、注意すべきことがあります。
これらの特徴は、評価UIのチェックボックスの内容そのままです。つまり、これらはノートの評価基準であり、逆に言えば評価基準でしかないということです。実際にノートの表示・非表示に繋がるのは、これらの基準に従った個々の評価者の評価です。
ですから、やはりノートの反論に根拠として使えるページではありません。例えば、こんな反論は反論になっていません。
「このノートには誤った情報が含まれています。情報が正しくないノートを書かないでください。コミュニティノートのガイドをご確認ください https://communitynotes.x.com/guide/ja/contributing/examples 」
ここでコミュニティノートのガイドのURLを根拠にされても、意味がありません。その評価基準はもうUIに書いてあるので分かっています。それよりも、なぜ情報が正しくないのか、そちらを反論に載せるべきです。
これは極端な例でしたが、このようにコミュニティノートのガイドのURLを使って反論しても、評価基準を説明しただけで中身のない反論となってしまいます。
反論ノートに求められているのはさらにその先で、「評価基準に照らして、なぜそのノートを低評価すべきなのか」をきちんと説明することです。
コミュニティノートのガイドの全てのページを見ても、どのようなノートが適切か、適切でないかの具体的な説明は限られています。理念のページで以下の内容が不適切とされている以外は、すべて目的の説明や評価制度の説明です。
よって、コミュニティノートに対して、以上の内容に当てはまらない反論を行いたい場合は、「コミュニティノートのガイドをご確認ください」のようにコミュニティノートのガイドを根拠とした反論はできません(したとしても、中身のない反論になってしまい意味がありません)。
そうではなく、なぜそのノートが役に立たないのか、ルールに頼らずに説明する必要があります。
この記事に対する反論がされることもあるようなので、コメントします。
当たらない反論です。この記事は「誰が書いたかに関係なく、内容を読めば分かる記事」です。
この記事を使う人は、「この記事があるという事実」を根拠に使うのではなく「この記事に書かれている内容」を根拠に使います。
そのため、誰が書いたか分からないことは反論になりません。この記事に対して反論するのであれば、この記事の中身に反論する必要があります。
未だにこの主張をしている人たちが居て呆れるが、一周回って彼らがどんな思考をしているのか気になってきた
そもそも「切り貼りコラージュ」と簡単に言うが、これをシステムで実現するのは相当難しい
→膨大な保存領域が必要になるがこれが無ければコラージュが出来ない。その都度ネット検索する方法も考えられるが、相当数のダウンロードと②の工程が必要になり時間がかかる
→各画像の各要素を区分けし(この時点でかなり難しい)、その要素が何かをラベル付けできなければ「切り貼り」の切る工程すら実現できない
→プロンプトに従い良い感じの要素を抽出し、それらを良い感じの位置に配置しいい感じに繋ぎ合わせなくてはならない。曖昧な書き方になったがどう実現すればよいのか分からないのでしょうがない。
正直言ってこれを実現出来たら生成AIどころの話ではない、②だけでもあらゆる分野に応用できる。完全自動運転も今すぐに実現するだろう。
「構造的な要因」に原因を求めるということは、人間の行動は構造によって決定されるという考え方をとっているわけで、自由意志を否定している
例えば、アファーマティブアクションとして、理系の大学に女子枠を作る話などもそうである
構造的な要因で、女性が理系の大学に進学できないという説明をするのならば、当然にしてそこに人間の自由意志はない
しかし、リベラル派は「女性は構造的な要因で理系の大学に進学できない」「女性の自由意志で大学を選べるようにするべき」という二つを主張しているのである
自由意志を認めるならば、有名大学に黒人が少ないのも、経済格差があるのも、議員に女性が少ないのも、全て「自由意志の結果」のはずである
自由意志を認めないのならば、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」という主張は不可能である
なぜなら自由意志を認めない立場からすれば、自由意志はこの世に存在しないため、自由意志という言葉と事実はなんの対応関係も存在しないからである
よって自由意志を認めない立場の人間が、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」と主張するのは、言葉の定義が不明瞭な一種の疑似問題であり、棄却される
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⚪︎ここに反論を載せておく
「差別が構造的なものであるという主張が個別の行為に関して構造によって決定されるという主張を含意するわけではないでしょ。構造によって選択肢は制限されるがその限られた選択肢からどうするかは自由とか、個々人は自由に行為を選択するがマクロ視点では一定のパターンが生まれるとか、いろんな考え方ができる。藁人形論法じゃない?」
という主張を認めるならば
「物理学的な制約(世界は物理法則に従って動いているという制約)が存在するため、そもそも人間に自由意志はない」
という主張も認めなければならない
なぜなら構造とは最終的には物理的なものに還元できるわけだが、前者を認めて後者を認めないというのは
「特定の物理的影響によっては自由意思は制限されるが、その他はされない」
リベラルでないものをリベラル認定すればリベラルの主張と矛盾するのは当たり前のことである。
実際には彼のような人物がリベラルの定義を都合良く操作している」
←構造的要因を持ち出さないとアファーマティブアクションは主張できないだろ
アファーマティブアクションを主張するリベラル派の理論武装の中に確実に含まれているが
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
Q.
食べ放題の料金を男女で区別することの是非についての議論は、スポーツを男女別にする議論に通じるように思います。
など。
A.
おっしゃる通り、食べ放題の料金の議論と、スポーツを男女別に分ける議論には共通点があります。どちらも「性別による区分け」の正当性や、公平性に関する問題を含んでおり、以下のような論点が考えられます。
確かに、男女間には統計的な違いがあり(例えば、平均的に男性の方が筋肉量が多い、女性の方が体脂肪率が高いなど)、これがスポーツの競技成績や食べる量に影響を与えることが多いです。しかし、個人差も非常に大きいため、すべての男性が女性よりも強い、またはすべての男性が女性よりも多く食べるというわけではありません。このため、性別だけで判断することが不公平だと考える人もいます。
スポーツ競技の性別区分には、歴史的・文化的な背景がありますが、近年では性自認やジェンダーの多様性が認識されるようになり、単純に「男性」と「女性」で区分けすることの限界が議論されています。例えば、トランスジェンダーのアスリートや、性別ではなく体質的・生理的要因による区分けの方がより公平ではないかという意見も出てきています。
一部の専門家や活動家は、性別ではなく、直接的に競技パフォーマンスに影響を与える要素(例:筋肉量、ホルモンレベル、身体能力テストの結果など)で分けるべきだと提案しています。これにより、個々の選手の能力に基づいて競技が行われ、より公平な競争環境が作られると主張されています。
ただし、このアプローチにも課題があります。たとえば、筋肉量やホルモンレベルの測定が技術的に困難だったり、プライバシーの問題があったりすること、また基準がどのように設定されるべきかという点で意見が分かれることもあります。
男女別の競技や料金設定には、それぞれに長い歴史と背景があります。しかし、近年の多様性に対する理解の進展と、より公平でインクルーシブな環境を求める動きにより、従来の区分け方法が再検討されています。
スポーツでは、男女の身体的な違いを考慮して競技の公平性を保つために、男女別のカテゴリーが設けられてきました。このような区分けは、特にトップレベルの競技において、身体的な利点や不利を最小限に抑えるための方法です。
現在、ジェンダーの多様性を尊重する必要性が高まっており、「性別」で一律に分ける方法には限界があると考えられています。そのため、性別以外の基準を用いた区分けや、性別に基づかない新しいカテゴリーの提案が検討され始めています。
性別による区分けが不公平だと感じる人々の声を反映するために、より多様な基準やアプローチが求められています。スポーツや料金設定においても、性別に限らず、個人の特性に基づいてより公平な方法を模索することが必要だと言えるでしょう。
・幼稚園で因縁つけるように女の子が寄ってくる(○○ちゃんが話したいんだってー!ってお前だろ!)
・母親からの溺愛どころか虐待(自殺未遂のようなことをして気を引いてくるから、半日飲まず食わずで慰め続けなければいけなかった)
・些細なことで文句つけてきて捨て台詞が「まあ、イケメンだけどな!」
・小学校で男子3人組で仲良くしてたら、2人がキスの真似したり下腹部を触り合って、見せつけてくる、ハブられる
・親友と思ってたやつが、なんと顔目当て!
おかげさまで、今友だちが居ないし対人恐怖症のようになっている
アイドルやイケメン俳優と呼ばれて活躍してる人、メンタル強すぎだろう
特にジャニーズのあのドブネズミみたいな社長から、性的虐待を受けてきてる人はきついと思う
被害現場らしき絵を書いてる人いもいるし、辛い人はすごくトラウマになっているだろう
まずは遺伝子のXX、XYの分け方、そして次に精神的な分け方だろう
以下雑多に
ストレス耐性のこと
イケメンですごいアスリートでも、ストレスでゲイになってしまったという人は多いらしい
こればっかりはどうしようもない、資本主義はみなに等しく強烈なストレスだもの
ストレートの自分には分らんが、過酷な環境で心細いときに、そうなってしまう心理は理解できる
英才教育受けてるスリートなんて、競技場に監禁されてるようなもんだしな…
そりゃもう俺は嫉妬される側で、嫌なことたくさん言われた
今でも人と関わっていて、「ああ、この人は俺のような容姿の人に話しかけられて舞い上がってるんだな」と思うと悲しくなる
人々を見渡していると、「男か、女か?」よりも「美しいか、ブサイクか?」が前に来ているように見える、事実テレビも雑誌もそうだ
ルッキズムなんてやめちまえ!
もともと王の権力をがっつり削いで改革を強く推し進めたい勢力が議長から見て左に座って、緩やかに変革したい勢力が右側に座ったのが元だよ
左の人は民主制を主張し、これがのちに共産主義につながっていく。だから革新派で労働者中心主義。
右の人は左の反対みたいなもの。だから左翼と考えが合わない資本家や保守派はこちらにつくよね。
今じゃ区分けはそんなに大事じゃないけど、日本の場合は天皇制を軸にしたら覚えやすいと思うよ。
ただ、国会でも自民が議長席から見て右、共産党が左に座っているといううわさもあるね。
元増田の納得できるところ
左翼は思考主義なので民衆の自然な考えを「社会はこうでなければならない」と教化・矯正しようとするから独裁に走るよね。
自然主義の右翼はいろんな人の欲望交じりの「こういう社会がいい、ああいう社会hがいい」というような自然な主張を調整していくから、金持ちも貧乏人もひっくるめて多くの人の意見を取り入れるよね。うまくいってるときはいいけどうまくいかないと衆愚政治だね。
でも出場の人数に制限があるわけ
トップのスコアを出す人間なのかどういう条件を満たしたのかとか、いろいろ選定の基準があるわけ
その中に男女って区分けもあるってだけの話
男女という属性を抜きにすれば通常「トップのスコアを出す人間なのか」という基準しかない
(それを決めるために複数の基準を適用することはあるけど、あくまで「トップのスコアを出す人間なのか」という観点であって、別の属性を入れ込むわけではない)
逆なんだよ
公平性っていうのは
100メートルを10秒で走れる人をあつめて 100メートル走を行う
じゃないんだよ
100メートルを走ることが出来る人をあつめて そのタイムを競うんだよ
それで差が出るよね
その差が「優劣」でもなく「貧富」でもないのがスポーツの公平性なんだよ
足が遅い国は教育や食事とか経済なんかにおいて水準を上げる援助や協力が必要であるなんて答えを出さない
じゃあ男女でもだれでも出たいと思った人間が出ればいいじゃんって思うよね
そうだよ
別に足があろうがなかろうが走れようと走れまいと関係なく出たらいいんだよ
でも出場の人数に制限があるわけ
開催国だって競技人口を全部受け入れる広さもないし、移動とか考えてというか常識的に考えて一競技一人に絞るのが妥当でしょ
トップのスコアを出す人間なのかどういう条件を満たしたのかとか、いろいろ選定の基準があるわけ
その中に男女って区分けもあるってだけの話
そこの国の「人種」がどういう形であるかを決めたり「同程度」の能力がそれぞれの「人種」で「どういう階級と並ぶか」みたいなモロに差別な事を言わないわけ
そういう人種を「国の代表」としているから、たとえば100メートルを8秒で走れる「人種」とそうでない「人種」で並べたとしたら努力とかスポーツマンシップとか関係なく「人種の交配」以外に競技の見出せる意義がなくなっちゃうでしょ
発想は公平性から来てると思うし差別の意図はないと思うけど、それを利用して感情が偏る結果に差別があるのよ
1ドルが145円とかみたいな「1対1」の交換比率に差がある、平等で公平な基準に差がでるという事は「平等に考えて差があるから」」という基準を生むわけ
そうなると全然関係ない要素にも平等と公平性で出した結果が利用できるよねって言い出す「差別」が生まれるわけよ
同じ体格で100メートルのタイムが2秒もちがう、となると「同じ体形の人間に課す料金、手続き、対応」なんかについても「スポーツで結果がでてる差があるから」という理由で基準が生まれかねないわけ
人種で「同じに見えても違うから」という理由、その同じ見た目という基準を持つ事自体が「人の差を見た目で判断している」という差別の一歩なのよ
体格が同じに見えるからという理由で階級を分けてる格闘スポーツがあるでしょ
あれは身体能力の他に「技の差」が、平等性を欠くことを意図的に差別化することで回避してるのよ
「平等性」を取り入れて「条件による代表制」ではなく「同じ体形の人間」だけで運動能力競技をすると「根源的な種の差」で勝つ人が出てくるわけ
「技で複数の階級制覇」する人と同じ意味の人が、最近話題のトランスジェンダー競技者と同じ差が出てくるのよ
勝ったとか負けたとか順位があるから、優劣を競ってるように見えるんだろうけど
スポーツマンシップってのはそういう結果が出るものだとしても「優劣」ではないんだわ
体形が違うからとか構造が完全に違うからとかいう理由で「相手の代表に選んできた相手」との結果がすべてで
人種とか体形とかそういうものの差でどうのこうのってのはあっちゃいけないわけよ
トランスジェンダーか構造的な差がもともとあったとして棄権した選手が、そういう感覚でスポーツマンシップを損ねた態度をした件があったけど
「そういうものじゃない」って態度をあとで謝罪して理解した旨を示したでしょ そういう事よ
相手がどんなモンスターだとしても代表選手として選んできてIOCが認めたんだから、IOCの提供する競技の場ではスポーツをして結果を出すべきだったって話
選定基準とかそういうルールみたいなものは外野が騒いで、ルールの在り方とかを第三者的に監視してよりよいものにしてくべき所
選手はできるだけスポーツとして純粋に結果が出せる環境に、代表として名乗りを上げれる状態にしてほしいと願って日々鍛錬をするだけ
なのにそのオートマチックをともすれば、止めようとするのが自分というものなの。
でね、大事なのは如何にして自分という存在を人生の傍観者として置いておくのか?
これ、これが大事。
みんな馬鹿だから自分が自分の主人、主人公だなんて思ってるでしょ?
でもね、それは間違い。
それは臓器とか筋肉とかそういう部分だけの話ではなくて、あなたが「思考能力」なんてカテゴリーで区分けきてる部分、それも自動的なの。
それなのに、自動的で最も賢く導き出された思考の結論に対して、あなたはしゃしゃり出てきて、それは自分らしくないやり方だ、とかわけのわけらない介入をする。
わかって?
あなたはただ見てればいいだけだし、何も介入しなくていい。
やることといえば極めて消極的に気づくことくらい。
何もしなくていい。
ただ眺めてなさい。
もし自称絶対音感がそう言っていたら、「全ての音をドレミにあてはめようと自分から勝手に必死になっている」だけだから気を付けろ。
【おさらい】
人には「音感」というものがあり、音感が優れた人は聞こえた音に対して、ド、ド#、レ、レ#、ミ……といった音階を瞬時に言い当てることがあります。
その時、「そもそもどのくらいの高さの音がドで、どのくらいがド#、どのくらいがレ」という比較対象があるわけですが、それを自分の感覚(絶対的な基準)で持ち合わせていることを「絶対音感」といいます。
直前に鳴ったものなど、他に存在する音と比較して高低差で音階を判断するのは「相対音感」です。
で。よく絶対音感持ちは「日常聞こえるあらゆる音がドレミに聞こえる」と言われることがあるけど、これは大嘘。
聞こえるわけねーでしょ。むしろ聞こえたらおかしい。
この世のあらゆる音が「ド~シ」までの12音に必ず分類されるわけがない。
大体、ドとド#の間って結構広いんだよ。事実としてそのスキマに幾つもの無段階の音が存在するのに、それを杓子定規にドかド#かに区分けするのは何の意味もない。
色覚で言えば、目に入る全ての色を絶対7色に分類する人なんていたら「キミ絶対色持ってるんだスゴーイ」じゃなくて「アホ」でしょ。ただの。
まあ言ってもそれは半分冗談で。実際のところ絶対音感持ちは、そういった隙間の音(微分音と言われる)を聞いた場合ちゃんと「やたら高いドだな」とかわかる。
でもそれを「全ての音がドレミになる」と表現するのは違う。
自分の中にある基準のドから離れてるな~であって、ドだと言っているわけではない。
「強いていえばドだな~」みたいな言い方はするだろうけど、「僕にはドに聞こえるんだ」みたいな話にはならない(それ言ったら「普通に耳狂ってるからちゃんとチューナー使って」と返されるだろう)。
それに何より、常にあらゆる音に対してそんな評価をいちいち下しながら生きてない。
そう、ここも大きな誤解で、絶対音感があるからといって、常に絶対音感を行使してはいない。
例えば手に持てるくらいの任意の箱を想像してほしいんだけど、誰でもせいぜい2~3cmの誤差で幅を当てられると思うんだよね。「絶対サイズ感」というか、自分の中で「1cmってこのくらい」という基準がある。
でも手に取るもの全てを「あ、10cm」 「あっ、8cm」 と考えながら生きてはいない。
絶対音感もそれと同じで、「聞くつもりで聞けば」わかるし、「意識してなければ」わからない。
「全ての音を音階で捉えようとする」のは、絶対音感とは別で、「単に他人の音が気になってしゃーない人」でしかない。
自分の中に絶対的な音程の基準があるのは確かに「絶対音感」だけど、受け取った全ての聴覚情報に対して積極的に音を言い当てようとするのはそれは「強迫観念」に過ぎない。
なので、もしタイトルのことを言うような自称絶対音感持ちがいたら、まあ事実絶対音感は持っているんだと思いますが、他人の生活音にいちいち耳を傾ける神経質なヤベー奴だと思うので休ませてあげてください。
で、なんでそんな誤解が生まれたかというと理由は2つ考えられる。
1つは「絶対音感を超天才だけが持つ特殊能力だと思い過ぎ」。あの、絶対音感、全く特別じゃないです。います、普通に。
音楽家じゃなくても、多少音楽に触れる環境があった人なら持ってます。
さすがに音楽はからっきしって人にはほぼいないかもしれないけど、アマチュアの社会人音楽サークルに必ずいます。ニコニコのボカロPを集めて石投げたら多分絶対音感持ってる人にそこそこの確率で当たります。たまに「日本の歌手に絶対音感持ちは1%もいない」とかドヤる人いますが、いや、そんなわけねーです。います。
お湯の温度を触って当てるのとか、荷物を持って重さを当てるのとか、カップラーメンで体感で3分計れるとか、絶対に目覚ましなしで6時に起きられるとか、そのくらいの技能です。
(個人的には幼少時までに訓練して身に付くものという説からして怪しいと思っています)
もう1つは昔あったテレビ番組の『特命リサーチ200X』のせい。アレで絶対音感を特集した時に、周囲のガヤ音が気になってかんしゃくを起こす再現VTRが作られてたので。
あとあの番組の中で、ピアノで5和音鳴らして当てる天才小学生みたいなのが出てたけど、5音もいっぺんに鳴らされたら「和音の感じ」という情報が増えるので逆にわかりやすい。
例えば「ドレミソシ」と鳴らしたら、ベースのドを絶対音で聞き取ったうえで、「メジャーセブンスコード」と呼ばれる「ドミソシ」の音の距離感特有の雰囲気がわかり、更にドと1音差でぶつかりつつナインス(ベースを1として白鍵9番目の音)の雰囲気を出してる「レ」に気付けるので、絶対音2割相対音8割くらいでいける。もうそれ絶対音感の実験でもなんでもない。
更に、当の絶対音感持ち自身もこの誤解を抱いているのがまずい。
変にもてはやすから、「絶対音感を持っている自分スゲー」となる。まあなるまではいい。だけど、「絶対音感を持っているとあらゆる音が~」という部分までトレースしようとする。
それが絶対音感であることの証左だと思い込むから。そうじゃないと絶対音感持ちとして扱ってもらえないから。
自ら、「周囲が求める絶対音感像」をやろうとする。
結果、「天才がゆえのペナルティを抱えた自分」に酔って、頼んでもないし自分ですら望んでも無いのに勝手になんでもドレミで言い当てようとするおもしろ人間ができあがる。
そんな必要ないんで、やめましょう。
あなたや私が持っているこの能力は、「赤色を見て赤だとわかる程度」のものです。まあ便利な時はあるので、その時に使えばいい「ちょっとお得な特技」でしかないです。
無い幻想を自分からまとうのはやめましょう。誤解を更に広げるだけなので。