はてなキーワード: オードリーとは
あちこちオードリーおじさん勢揃い回にて「最近のアイドルがわからない」という古来から言われ続けた文言が飛び交っていた
自分は年齢を重ねたからわからないのではなく、昔から全然わからない
「自然と耳に・目に入ってくるだろう」って言うけど、ずっとネットしか眺めない生活なのに自分の嗜好以外のものが入り込むわけないだろう
(ましてや田舎だと繁華街も無いので、垂れ流している音楽で流行りの曲が聴けるとかも無い)
視聴するメディアが選択性になった時点で、世間の流行りから大きく引き離されることになる
というか今ほどネット全盛でなくとも、芸能人ってのは意図して情報を収集しないと知識が欠落する対象だと思う
歌手なんて最たるもので、歌番組や(タレント活動をしている歌手の場合は)バラエティを見ない限り知り得ない。好みのジャンル以外は完全に除外される
サブスクで流行っているもののランキングが表示されているが、それを聴きに行く努力もしない
世の中のディスコミュニケーションって、これも一因なのかもしれんな(そんなこと言われ尽くしてるんだろうけどな)
「誰でも知ってる芸能人・ドラマ・映画・曲・スポーツ」みたいなのが無いもん。共通の話題が
別にそれで良いと思う
これ思い出したhttps://note.com/ao8l22/n/n382fcb80113b
「できる人」をバカにするのはもうやめよう
インターネットの悪いところの1つとして、「できない人」の声が大きくなるところがある。「要領よくできる人」「コミュニケーションがうまい人」「なんだか楽しそうにしている人」のことを、そうじゃない人が「自分はできないけど」と自虐含みでバカにする。羨ましさが反転して攻撃になる。
たとえば発達障害なら、発達障害ではない人のことを「定型発達」「健常者」などと言い、「定型発達」の生きやすさと発達障害の生きづらさを言い連ね、「定型発達」の人々が非常に無神経であるかのようにまとめる。しかしかなり言いがかり的なものもあるというか、「定型発達、そんなスーパーマンじゃねえから…」と言いたくなるようなこともある。人間、だいたいグラデーションだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/workshain/status/959066779929604096
で、クワーッとなったのを抑えるために、オードリー若林正恭の「完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込」(角川文庫)を読んだ。とてもよかった。
すごいよかったのは、若林の言っていることがだんだん変化すること。連載の最初では「スタバで『トール』っていうのが恥ずかしい」と言ってたりするのだが、途中から「別に恥ずかしくないぞ!」と言い出す。過去の自分のネタ帳を読んでこう振り返る。
「テレビに出たい!」「お客さんに笑ってもらいたい!」となぜ素直に書けなかったのだろう。他人事のように考えを巡らせた。それを書いたら最後、いよいよ本格的に自分の力不足を直視しなくてはならなくなるからだろうな。それを書く強さなんて勿論持ち合わせていなかった。だからこそ、それを手にする気がないことを殊更に強調することが、当時の精一杯の自己防衛だったのだろう。
この辺りの文章が超絶に刺さった。素直にうらやんだり、素直に悔しがったり、素直に憧れるのは体力がいる。それよりもちょっとスカしたふうにふるまったり、すごい人をかえって下げてみたりしたほうが全然傷つかない。でもそんなひねくれやこじらせた自意識や他人に対するレッテル貼りは、人間を不自由にする。
全然関係ない話なのだが、私は非常に感謝していることがある。むかし「部屋が汚い」ということを記事にしていたら、「発達障害(ADHD)なのではないか」というコメントをもらった。それに対して私は「そうなのかな?」と思っていたのだが、自身がADHDであり、それについての文章をよく書いていたYさんが、そのことについて怒ってくれた。その怒ってくれたものの中身はあんまり覚えていないのだが、「青ちゃんは部屋が汚いことを気にしているのに、そういうレッテル貼りはいかがなものか」のようなものだったような気がする(違ったかもしれない)。
ADHDがらみの話は私の中で非常に混迷している。ADHDの特徴を、当事者やその周りの人が知っておくことは、生きやすさ、過ごしやすさにつながると思う。「どうして自分はこんなにできないんだろう」と悩んでいる人が、ADHDの情報を知ることは、とても救いになるし、大事なことだと考えている。
ただそれは当事者と、その周りの人が楽しくコミュニケーションするために知っておくべき情報であり、赤の他人がその相手を理解しやすくするためにレッテルを貼り付けるものであってほしくないという気がする。たいていそういうのは雑になるものだから。それは「発達障害」という言葉でもあるし、「定型発達」という言葉でも同様に発生している。
ttps://x.com/ao8l22/status/960065753872416772?s=20
ttps://x.com/ao8l22/status/960066055988129792?s=20
ttps://x.com/ao8l22/status/960093910063235072?s=20
②パク増
③パク増再投稿(元のパク増本人?)
自分よりプラスに見える人間をまずバカにするやり口、本当に好かない。リ..
https://archive.vn/2021.03.19-214155/https://anond.hatelabo.jp/20210319191550
なぜ、と思われるだろうが自分の実感としてふとそう思ってしまったのだ。
一つずつ自己分析も含めて書いてみる。
つまり番組が長い。4分ネタを13本で計52分。その漫才を観るために3時間弱も観ていなければならない。4分間の笑いを競っている競技で皆そこに命を懸けている状況なので、それ以外の場面で出場者を超えるような笑いを狙いはしない。今田や審査員が場を暖めるような笑いは上手く作り出しているがその程度。2時間番組で十分だと思うのだが、制作サイドの意向がある。できる限り視聴時間を稼ごうと思って審査員紹介などにたっぷり時間をかける。結果M-1やその審査が一層神聖化され次の要素にも繋がる。
出場前後も番組化していることを考えると本当にTV局側の欲張り加減がどんどん笑いの密度を薄くしているように思う。ネタ部分だけ観ればいいというのは一つの対策ではあるが逆に番組としては面白くないということを証明してしまっている。
司会や審査員も番組を盛り上げるために笑いどころは作ろうとするが、万が一にも演者に迷惑をかけないように皆ピリピリしている。当たり前だ。変にウケすぎたり滑ったりしてそれが演者のネタやウケ具合におかしな影響を与えてしまったら彼らの人生に関わる。結果恐る恐る打つ腰の入らないパンチで番組は進行する。
自分としては審査中に上沼恵美子が突然自分のCDを紹介したような、ああいう適当さがもっとないと番組としてはつまらなくなると思っている。「それで順位が変わったら」みたいな議論や、とろサーモン久保田事件も気持ちはわかるが、決勝に出て面白かったらちゃんと売れるから神経質にならないほうがいいのではないかとも思えてしまう。オードリーもメイプル超合金も優勝はしていないのだから。しかもメイプルはかなり下位だった。
そういう意味で山田邦子の審査もいい。今年はいなかったのが残念だった。ちなみにダウプラで知ることになるのだが、山田邦子を審査員に推薦したのは松本人志のようで、自分と完全に同じ考えではないかもしれないが、ある意味審査に崩しを入れたほうがよくなると考えたようだ。
こういう番組や企画がどんどん大きなものになり徐々に面白くなくなっていく現象は過去にもいくつかみた。大喜利、すべらない話、笑ってはいけない、そしてM-1など。TV局が目玉コンテンツにしようとすればするほどこういう現象が起きる。
話はそれるがこれらの現象の始まりにほぼ松本人志(とそのチーム)が絡んでいることが驚異的である。大喜利や漫才は昔からあるが、それが一般に普及するフォーマットになり競技化され社会現象になるのを長年観てきた。松本人志にはTV局都合に巻き込まれずダウプラで面白いものをのんびり育ててもらいたいと思っている。あと5年早く始めてほしかった。
ここからネタにも言及する。いや、面白んだけどさ。実際に「笑わ」ないのよ。つまりプッと吹き出して笑ってしまうような場面が自分としては少ない。どちらかというとすごいな〜、これよく思いついたな〜という感心、感動に近い感覚で見てしまっている。だから結果面白いんだけど想像の範囲内という感じ。ずっと無表情で観ている。これはM-1の宿命だが、こちらは日本一面白いものを観たくて「さあ笑わせてもらおう」という姿勢なので、日本一ハードルが上がった状態で観ているわけだ。そりゃそうなるだろうと思う。
ただ、もちろん皆さん素晴らしいネタを作ってくるのでたまにその期待を完全に裏切るネタに出会えるしその時のみ心から笑える。
今年ではたくろうは笑ったと思う。ああいう、突然無茶振りをされ、困りながらギャグを打っていく大喜利でツッコミ無しのスタイルが新鮮過ぎた。そして本当に突然無茶振りされたかのような上手すぎる演技に完全にやられた。何度も観た。こういう漫才はずっと記憶に残るが、M-1の決勝ですらそれほど出会う機会はない。たくろうにしても「もう知ってしまった」から次はそこまで笑えない可能性もある。
過去に同じようなインパクトを感じたものでいうと笑い飯のWボケ、ミルクボーイの行ったり来たり漫才など、新しいシステムを知ったときにガツンとツボに入ったことが多い。昔はM-1ももっと緩かったので気楽に笑えていたという環境要因で古いネタが多めに記憶に残っているかもしれない。
M-1は4分で最大の笑いを生み出し、予選から決勝まで勝ち残るという途方もない道のりを乗り越えなければならない。結果漫才の内容は先鋭化し、期待を裏切らない似たような構成のものが増える。見る側も先鋭化しその文脈で漫才を観てしまう。例えば最初の1分近くを前フリに使ってこれから笑いを起こそうとするようなネタを観ていると「初速」など本来視聴者が意識する必要のないキーワードが頭にちらついて心配になってくる。
先鋭化を上手く裏切ってくれた例としては、スタート時にマイクの前に来ない、スタート前にツカミを作った真空ジェシカのあれは発明だと感じたが、それもいい「ツカミ」として観てしまう自分がいる。「ボケ数」という概念を裏切って長い沈黙時間を作ったスリムクラブなど。どれも面白いんだけど、観る側が余計なこと考えすぎているからこその裏切りであり、本来そんなものいらないはずなのだ。
自分からすると2年連続優勝した令和ロマンのネタはそういう先鋭化の果てにあるように思えている。詳しくはないが本人の発言からもよくM-1の笑いの法則を研究したというイメージで、枠組みをぶち壊して笑いを起こすようなネタではないと思う。令和ロマンはM-1で計4つのネタを披露したが、皆憶えているのだろうか?自分は正直断片的にしか憶えておらず吹き出したような記憶もない。
最近、ラパルフェが予選でやっているネタを知っているだろうか?去年はニューヨーク、今年は男性ブランコの完コピをするというものだ。正直今年は予測がついたからそこまでだったが、ニューヨークの完コピを観たときは思わず笑ってしまった。会場も最初から最後まで悲鳴に近いようなとんでもない笑いが起こっていた。当然だがそんなネタが決勝に出ることはない。彼らは賞レースの勝ちを捨てて笑いを取りにいっていた。自分としてはこういう笑いでいいのだ。
さて、タイトルは煽っているがダウプラを推したいという目的ではない。ダウプラがそこまで面白いのかというと、もちろん面白いものあればそうでないものもある。ただ、M-1への比較として自分が欲しい笑いがそこにあった、ということなのだ。
たまたまM-1前日に公開されたライブ配信番組「お笑い帝国大学 OIU」を観たのだ。一般人が大喜利ネタを投稿し、それがピックアップされ講評されるというよくあるスタイルだが、自分も大喜利ネタを投稿したのでもしかして取り上げられたら、という期待もあり観た。
90分の番組で5~6回、素人ネタで吹き出して笑った。何の準備もない、無防備な状態でやられたから移動中で少し人目があったにも関わらず思わず笑ってしまった。ネタが面白いということもあるのだが、それをピックアップする経緯、松本や笑い飯西田、ロングコートダディ堂前のトークの流れやフリがあって、面白くないネタで笑っている。そして自分も笑う。なんかバラエティの基本というか、こういうのでいいんだよ感が強く印象に残った。
とあるネタに対して松本が「こんなん評価したらあかんで、絶対に間違ってる。でも笑ってもうてん」みたいに言っていたネタが一番評価されていた。確かにM-1で笑いを取れるような角度のものではなく本当に適当に考えたんじゃないかと思えるような雑なネタだった。でも実は3人ともそのネタを選定していたという事実が判明し、じゃあやはり面白いんだ、ということになる。その日、その場ではその「間違った笑い」こそが正解の笑いになった。
自分の求めるような笑いはM-1を観るからそこにないのであって、普通に地上波の別の番組とかYoutube観てたらいいんじゃないの?とは思う。いや地上波全然観てないからわからないんだけど。ただたまたまM-1と同日に観て比較対象になったので書かせてもらった。
あちこちオードリーみてて、さらばの森田がブクロに「こいつがなんも喋らんとトートバッグこーやって(肩にひっかけて)帰るんみてたらころしたろかと思うわ!」って言ってて、わかるわ、わかるわー。
ママがいっつもパパにキレてるんはそうやねん。ぜんぶネタ書いてるみたいなもん。森田の気持ちがめちゃくちゃわかる。
「こいつ(春日)が新幹線で(スマホゲーム)やってるとイラっとする笑」といった若林、わかる、ほんまワシがぜんぶセッティングしとんねん!子供らの飯も服も家の掃除もほぼほぼわしがやっとんねん!パパ、たまにいっちょかみしてやった顔すな、すなーー!
そんで「なんでそんなに怒ってるの」みたいな発言しやがる!!ネタ書いてない芸人といっしょ!いっしょ!
確かに君がおらんと成り立たんよ、コンビ(夫婦)やもんな。ちゃうねんちゃうねん。割合が違いすぎるねん。
ほんでな、割合を゙増やして欲しくてこっちも色々努力したよ。きっと森田もしたと思う、ブクロがもう少し自発的に笑いを考えられるようになって欲しくて色々やったと思う。
でもできひん。
できひんというより森田(ママ)がやればいいと思ってる。しかもなんの罪悪感もなく。
僕は僕のままでいるだけ、言われたことはやっている、という顔をしている。
しばくぞ。
根本的にお前らは主体性がないくせにやらされ仕事は大嫌いなんだよ。
俺はできる子、と思っているんだよ。
いいよ、そのままでも。
もういいけど、せめて、せめて森田(ママ)が君のやらない仕事をやって成り立っていることをもう少し理解してほしい。そんでもう少し遠慮して生きろ。ネタ(家事)できない子でごめんなさいという気持ちで生きろ。
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井まで SSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
お前らの「一過性のマイブーム」とかいう薄っぺらい消費の仕方にマジでイライラしてる。
数年前、大喜利できるアイドルが珍しがられて、オードリーの番組のまとめとかでゲラゲラ笑ってたくせに、自分が飽きた瞬間に「え、まだやってんの?」とかほざく神経が理解できない。
お前の興味が失せただけで、なんで相手が消えてなきゃいけないんだよ。
そもそも「当時は珍しかった」って何様だよ。大喜利できるアイドルが話題になった時、お前らは「新しい!」「面白い!」って騒いだが、それは単にお前らが知らなかっただけだ。
アイドル業界ではとっくに多様なスキルが求められてたし、バラエティ対応力なんて昔から重要な要素だった。
お前らが気づくのが遅かっただけで、「発見した」気になってるのが滑稽すぎる。
それで数年経って、久しぶりに見たら同じメンバーが残ってて「E?」って顔してるの、本当に浅い。
お前の中では「一過性のブーム」で消費し尽くしたつもりでも、彼女たちはプロとして継続してキャリアを積み重ねてるんだよ。
「声優界はアイドル化で引退が早い」とか言ってるが、それも的外れだ。
声優もアイドルも、それぞれ業界構造が違うだけで、どちらも厳しい競争の中で生き残ってる。
「本家アイドルの方がビジネス構造が頑強」って、何を根拠に言ってるんだ?
一番腹立つのは、お前らが「消費者」として上から目線で業界を評価してることだ。
「いいことだと思います」って、何様のつもりだよ。
お前らが勝手に消費して、勝手に飽きて、勝手に忘れて、久しぶりに見たら「まだいた」って驚く。
アイドルが「まだやってる」んじゃない。お前らが勝手に離れただけだ。
そして戻ってきた時に、継続してる相手を見て驚くって、どれだけ自分勝手なんだよ。
本当に応援してるなら、一時的なブームに流されずに継続して見守れ。
それができないなら、最初から軽い気持ちで消費するなよ。お前らの薄っぺらい関心に振り回される側の身にもなってみろ。
「え、まだやってんの?」じゃない。
「ずっと頑張ってたんだな」って思えよ。
その程度の想像力もないのか。
何年か前、ちょっと話題になったじゃない?アイドルなのに大喜利が出来る!!みたいなの。
最近では最早定番すぎて常識でさえあるからめずらしくもないけど当時は珍しかった。
自分もオードリーとかがやってる番組のまとめをみたりしてゲラゲラ笑ってた。
で、タイトルの通り。
そういう自分の中での一過性のマイブーム(うわ!懐!)が終わってすっかりそのアイドルを見なくなって数年が経ったときにさ、
ひさびさにみたそのアイドルグループにそのまんま当時のアイドルたちが残ってて、E?ってなってしまった。
なんか最近の声優界はアイドル化が激化した結果すぐ引退するとか言われてるみたいだけど本家アイドルそうじゃないんはビジネスの構造がより頑強でまともということでいいことだと思います。
でもおれの家は裕福で他の家とは文化水準が違った
でもおれは典型的な勉強しかできない地味な陰キャで、学校では常に隅っこにいた
家が裕福で勉強ができたからいじめられはしなかったけど、友だちと打ち解けることもなかった
周りはうちよりもっと裕福な家庭ばかりだったし、みんな頭が良くてキラキラしていた
話のレベルも合うし、はじめて同じレベルで会話できる同世代の友人に囲まれて過ごすことができた
そこではおれでも主役になることができた
先輩が立ち上げたスタートアップに参加して、社会課題を自分たちの力で解決するんだって、仲間たちと全力で突っ走ってきた
チームみらいとか、ああいう感じのキラキラ感に満ちた、おれたちは世界を変える力があるんだと信じて疑わない、楽しい時間だった
転機はコロナ禍
リモートで仕事ができるようになったこと、結婚して子供が産まれたこと、親が高齢になって身体を壊しがちになったこと、などなど、いろいろな事情が重なって、実家の土地に家を建ててもらいそこに引っ越すことになった
コロナ禍だからか、妻は都会より田舎で子育てをしたいと言っていた
車があればそこまで不便じゃない
都会まで1時間で行ける
都会の仲間とはオンラインで会話ができる
そうして地元に慣れると、昔の同級生たちと少しずつつながりが増えてきた
子育てサークルで妻が仲良くなったママさんが同級生やその妻だったとか普通にあった
不思議なもんで、みんなちゃんと大人になっていて、子どもの頃はあんなに噛み合わなかったのに、今は普通に話ができた
それぞれ、農家やったり、電機屋やったり、教師やったり、市職員やったりと、立派に地元を支えていた
妻が想像以上に地元の人間関係にうまく適応したこともあって、地元の人たちとたくさん会話した
そうなってくると、元々自分がいたキラキラした世界が、なぜか安っぽくて薄っぺらい偽物の世界に見えてくるようになってしまった
あんなにがんばったけど、何も生み出せてなかったんじゃないか?
そんな気持ちに囚われるようになった
そうなると今度は、子どもの頃に地元のヤンキーに馴染めなかったのと同じような違和感を、都会のキラキラした仲間たちに感じるようになってしまった
今までと同じように、世界を変えようとがんばっている
でもそんなことより、電柵でイノシシをどう食い止めるかの方が、今この瞬間に大事なんだよ
そんな思いが胸の奥に張り付いて取れない
俺たちが見ていたのは世界の上澄のほんの一部で、本当の世界はもっとドロドロしている
でもおれはヤンキーにもなれない
キラキラした世界でしか価値のある仕事はできないし、この田舎で働く連中の倍は稼いでいる
だからもう戻れない
題材が古いんだけど、むかし「すべらない話」とかあったじゃないですか?
そういう芸人がエピソードトークを披露するときのお約束鉄則みたいなんがありますよね?
最後は大爆笑で終わるトークなんだけど、そういう話をするときには必ず押さえておくポイントみたいなのの一つ。
そうそれ、すっっごく低いトーンでお話を始める、ってやつですね。
「いやあねえ、こないだでねえラーメン屋に行ったときなんですけど…」
だいたい、すんごく低いところから話に入っていくの思い出してもらえます?
抑えて抑えて抑える。
これ話を面白くするためのファーストステップなんだろうな、って、ことですよね?
でも、ぼくら素人ってこれが苦手なんですよね。
さあ、これから面白い話しますよ!!!さあ笑う準備できてますかね!!??とハイテンションから入ろうとする。
結果、ダダ滑りする。
始終、ハイテンションなトークを展開する明石家さんまさんという師匠がいますが、ああいう人は異例ですよね。
ふつう、あんだけトーンの高さを維持するとひたすら滑っていくと思うんですが、そうならないのはさすが師匠です。
たいして、これをやってる限り絶対すべらないからズルいな、と思わされるんがタモリ師匠です。
あの方、ずっとボソボソボソボソぽつりぽつりとボケをぶっ込んでいくから、仮に滑ったとしても、それが狙いなんだよ、みたいな雰囲気ただよわせててズリぃんですよ。
もちろん基本滑るようなことは言ってないんですけどね。
かりに滑っても大怪我はしねえ、ってことです。
あとね、これは普段の我らの会話でも守ってほしいですよね。
いるじゃないですか?全然話が面白くないのにすごい話好きな人とか。
ああいう人らって、このトークのテンションの高低が合ってない場合が多い。
高すぎるんですよね。
入りにしても、維持にしても、テンションが妙に高すぎる。
あれがね、「こいつ話つまんねえなあ」って思わす元凶ですよね。
とりあえず
会話のテンポを速くしすぎない
声のトーンを高くしすぎない
会話全体のテンションを下げる
ってことをやってたらだいぶ聞きやすくなるはずなんですよ。
それ使い方が間違ってるんだよ。で、あなたのAIに対する誤解もそれが原因。
AIってのは「自分の持ってない視点を補う」ということでつかうの。あなたがやってるのは自分の欲しい答えを引き出すために質問してるから違うんだよ。白雪姫の悪役魔女みたいな使い方は違う。
そうやって書いた文章を投稿する前に、以下のようなプロンプトをつけて生成系AIに投げてみ?
以下はこれからはてな匿名ダイアリーに投稿しようとしている文章です。意図としては批判的な立場から、チームみらいについて述べています。
投稿する前に考えを整理したいので、以下の様な観点で分析して教えて下さい。
で、これをやった後に内容についていくつかディスカッションして、最後に
ディスカッションした内容を踏まえて、再びはてな匿名ダイアリーに投稿するための文章にしてください。その時には、はてな記法で記載してください
といってまとめて出させる。
そうしてその結果を貼れ。そうすることが貴方にとっても、誰にとっても有用。
今の貴方は自分で言ったこととファクトが区別ができてないし、AIをまるで白雪姫の鏡のようにつかってる。
「鏡よ鏡よかがみさん、最も美しいも人はだれ?」
「白雪姫です」
「許さんぞ!鏡は間違っている!役立たず!!(パリーン) 白雪姫はクソ!(毒りんご喰わせる)」
こんな使い方したところで自家中毒を起こすだけ。だから白雪姫に出てくる悪役の魔女みたいな感じで堕ちていくだけ。
これを機会に使い方を覚えてみて。AIは鏡として使える。まず自分がどういう姿をしているのかを見る為にAIを使ってみて。
自分の主張がどういう構造をしているのかを分析するためにAIを使う。貴方の主張は事実と意見が区別できないくらい混ざっていて自分でも区別できてないから、まずはそこを整えること。
以下にやってみたのを記載しておくので参考に。モデルはGPT-5 thinking
以下はこれからはてな匿名ダイアリーに投稿しようとしている文章です。意図としては批判的な立場から、チームみらいについて述べています。
投稿する前に考えを整理したいので、以下の様な観点で分析して教えて下さい。
いいね、投稿前に頭の中を一度フラットに整えましょ。以下、事実と意見の分離 → あなたの主張への賛否 → 中立まとめの順でいきます。
必要なら、あなたの草稿をこの構成にリライトします。まず「不十分だと思う具体箇所」を3つだけ挙げてもらえますか?(例:参加の代表性、アルゴリズム監査、異議申立ての仕組み など)
少なくとも「民主制の正統性」を一政治理論としてスルーするのはあり得ないんだわ。
オードリータンはAIではなく自分の頭使って人権を勉強した人だと分かる。
だからゼロからの制度設計であれができた氏はすごい人だ。人権への配慮が行き届いている。
少なくともそこには「人権が大事だ」という価値判断が働いている。
価値中立、AIのコピペでは「少数者を取り残さない」は難しいとあなたのまとめからも分かった。
当たり前かもしれないけどAIを使う側の知性や教養が使い方で試されるね。
AIを活用する政治の大切さはよく分かるけど、使う人間の知性、教養に依存するような制度は危険すぎる。
アンサーを返してくれてとても勉強になりました。
今因みにAIに「価値中立の精神でAIを政治に活用することは危険ではありませんか」と質問したところ、
❌ 政治に不可欠な価値判断・倫理・人権・説明責任を空洞化させる危険があります。
したがって、
• AIを政治に使うのであれば、価値中立ではなく、むしろ「明示的な価値の設計」が必要
• それは例外なく、人権・包摂・民主性・透明性などの規範的な価値を土台にすべきです
との返答が返ってきました。
よく支持者が「なぜリベラル側の人たちがチームみらいを批判するか」と言う声を聞きますが、こういう危険を孕んでいるからです。参政党と変わらないから。
あと「党派性に流されずに」「1議席しかないのに批判すな」という擁護もよく見たけど、それこそ党派性を意識しすぎるのでは?
自分もこの問題がクリアできるのであればチームみらいを応援したいと思っているんだけど、現状の制度設計だと怖すぎる。
「政策は何か」くらいは支持者なら答えられるでしょ。