はてなキーワード: 議員会館とは
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井まで SSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
画像生成AIをめぐる議論が白熱する中、自身はプロ漫画家として40年以上、現行の著作権法の恩恵を受けてきた。
「無断学習」問題について、安易な規制は既存のクリエイターを困らせるとし、まずは「人間の学習」と「機械の学習」を切り離して考えるべきだと主張。
AIは道具であり、その性質と成り立ち、使用する人間の所業こそが問題だと考えている。
AIは新しい道具の一つであり、拒否反応は過去の新しい技術(スクリーントーン、デジタルツールなど)導入時にも見られた歴史の繰り返しだと捉えている。
「無断学習」に対する憤りは、学習元に尊敬と感謝がない点にあるとし、自身の倫理観と感情論であることを認めている。
自身が「画材はAIでもいい」とSNSに投稿したことで炎上したことが、この問題に関わるきっかけとなった。
その後、被害者や弁護士、開発者など、多岐にわたる関係者を集めた勉強会を主催。
法律を作る側(政治家)の考えを知るため、議員会館に足を運び、現状を訴えた。
当時は自分自身も勉強不足であり、様々な意見を聞いて判断する段階だったと述べている。
AIとの共存のためには、「データセットの情報開示の義務」「簡単なオプトアウトシステム」「AI生成のラベリング」が必要ではないかと提案。
今後、AIを使った漫画が多数現れるだろうが、それは新しい技術を持った作家だと捉え、プロ同士の切磋琢磨を楽しみたいとしている。
自身の考えは、あくまで漫画家としての個人的な心境であり、他業界に押しつけるものではないと断っている。
技術の進化とそれに伴う摩擦を冷静に見つめ、感情論だけでなく、法制度や倫理、歴史的背景を交えて多角的に考察している。
安易な規制や感情的な対立ではなく、対話を通じて解決策を探っていく姿勢を示している。
https://x.com/WANPOWANWAN/status/1954901931203428818
「画像生成AIの使用で被害に遭っている、なんとかかならんか?」との内容でした。
この時点で自分はうっすらとしかこの話題を認識していませんでした。
前年に漫画家協会内でも議題となりましたが「詳しい人に任せよう」というノリでした。
4月に漫画家志望の若い方へ呼びかけるポストをしていたときでした。
どうやら地雷を踏み抜いたようです。
「今度はなんだー?」くらいの鈍感さでしたが
「立場がある人間がそういう発言を無神経にするな」という意見があまりにも多く
Hさんに話を聞いていたのもあり、「どうやら深刻そうだ」と調べてみることにしました。
まず自分の炎上に加担していた人達を呼んで事情を聞くことから始めました。
[被害者とその周辺の方、弁護士、政治関係者、アニメ業界の方、声優さん、
当然業種により賛否があり、答えが出るハズもなく、主に話し合ったのは
「今何ができるのか?どこを目指せばいいのか?」でした。
法律を作る側は今何を考えこの問題がどんな状態なのか知りたくて、
帯同した者達は被害の深刻さと今後どうしてほしいかを訴えていましたが自分はほぼ黙っていました。
この時Hさんと作ったチラシを持参していました。
「とにかく言いたいことを盛り込みなさい、後から引き算すればいい」と作ったものです。
それと並行して現状を訴えて政治家さんがどんな反応をするのか、
どこまで把握されているのかを見ていました。
自分はまだ勉強不足で、出会った人たち全ての意見を聞いて反応を見て
勉強不足と書きましたが自分なりに本を何冊か買って読んでみたのです。
横文字が多く、読む作業より単語をググる作業に時間が費やされ、
遁辞の意味は自己に理解すれど 1/100 も理解できません。
すがやみつき先生にいただいた本が一番わかりやすかったんです。
「なんで? どうして?」というスタンスでから炎上しながらも、沢山の情報が入ってきました。
6月くらいにはずいぶん自分の中で整理できていたように思います。
・扱いによって道具は凶器になる
その性質が劣る方面では著作権侵害の塊とみなされますが、自分はそれを断定できません。
プロ漫画家として40年以上現行の著作権法の恩恵を受けてきました。
それを守りそれに助けられてきた立場から、越境する発言はできません。
そこは徹底的にドライです。
手続と窓口を間違えそれがらが必要と判断される程の声を届けることが重要なのかと思います。
何故それをしないのか甚だ疑問です。
未だバフコメ以上のものは見えず、疎情報自体も知られていません。
政治家さん達の動きが鈍く感じられるのも当然です。
『他責にするな、他力にするな』
コレを自分はドライな言い回しでポストするので反感を買う一因となっているのかもしれません。
規制を求めるとして、考えねばならないのは
良かれと用意し立法したものが現場活動の邪魔になる例はあります。
一度立法された法、条例を撤廃するのは並大抵のものではありません。
コレに安易に規制をかけようと既存のクリエイターも困ることになります。
「人間の学習」と「機械の学習」を感情論抜きに切り離すロジックを確立しなければならないとは思います。
その量を棚上げして、現行の著作権法に抵触していないものに人間であれ機械であれ咎めることはできません。
(わししか法や条項で機械の学習がダメとされたらその時は堂々と咎めます)
そうこう考えている間に並行して色々なことが起きました。
特に声優さんが決起した『NOMORE 無断生成 AI』は大拍手で、
無断でなければ共存共栄していきましょうという意味と受け取りました。
その業界の方々が最大譲歩した呼びかけをしたのです。
感動しました。
一人ユースプメントになると思いました。
ところがこうしたすぐ手の甲が上り、
規制を求める味方のはずの人達から責められトーンダウンすることになります。
「いつでも譲歩してはいけなかったのですか」ね。
『著作権者が自らの著作物をAI学習にさせたい場合には、その意向が尊重される仕組みが必要である
と考える(要約)』というクリエイターに寄り添った内容のパブリックコメントを提出しています。
2024年2月の「文化庁のパブコメ結果(団体)」のP175に記載されています。
「外部に声明を出すべき」との意見もよく見ますが、省庁内で各著作権団体の集まる会議に参加し
て内部で発言しているので、外部から発信する必要がないのです。
スクリーントーンが登場した1960年代に「楽してる」とスミ指定の時代の誰かが言ったそうです。
初期は糊面に印刷がされていて、表からホワイトでグラデーションをつける作業が必要でした。
そののち表面印刷になり、削りが可能になった時、やはり「楽してる」と思った人はいたようです。
(ここまでが伝聞です)
当時トーンは高価だったためか手描きのカフアウゼが正義とされる風潮もありました。
ミリペンでコマ割をするようになった時は「カラスロを使え」と言われ、
コピック登場の際には「今の若い連中は筆も使えない」と言われ、
それも当初「ペンや紙の使い方知らない」と言っていた人もいます。
一方でで多くのこれまでの漫画家は道具の進化を歓迎し今に至りました。
生成AIは現在最も新しい道具の一つですから拒否反応もあるのでしょう。
問題視するとしたら、その性質と成り立ち、使用する人間の所業かと思います。
嫌悪となりますが「人間の無断学習」は多くの場合そこに尊敬と感謝が含まれます。
学習元にリスペクトの無い「機械の無断学習」に憤りを感じるのは当然です。
常識しかないと申しつけますが、先人の積み重ねを瞬時に手に入れられると仮定して、
その学習元を見下す発言、冷笑、嘲笑、悪用する手法諸々、あっていいことではありません。
足りないなりに導き出した「あったらいいな」が以下です。
ここが整えば、少しは混乱が減るかなと思います。
(今年1月に出席したMANGA議員の場でも生成AIの話題は出ており、
気にかけている議員さんは少なくないです。広く深い議論を期待します)
提案していてズッコケなのですが、自分が積極的に動く覚悟はないのです。
答えが出せないことが多いのです。
「楽しんでね」と黙認しており、それは使用道具がなんであれ同じと考えるからです。
当然【人間でも機械使用でも一線を越えたものには強い処分】を考えます。
しかし多少の緩さがないと後に続く文化の裾野が広がらないと思うのです。
このへんとても難しいですね。
すでに存在はしていますが、この先、生成AIを使用した漫画も多く見かけることになるでしょう。
自分の横に並ぶかもしれません。
或いはもう並んでいるかもしれません。
その最中できっと多くの学びがあるはずです。
その繰り返しと積み重ねです。
負けたら勝つ方法を考えればいいし、必要とされない時代がきたら去るだけです。
ずっとそういう業界に身を置いてきました。
これからも僕がやるべきことは変わりないのです。
ツラツラと書き続けましたが、漫画業界と、アニメ、イラスト等の隣接する業界は似て非なるものです。
押しつけるものでもありません。
「画像生成AIの使用で被害に遭っている、 なんとかならんか?」 との内容でした。
この時点で自分はうっすらとしかこの話題を認識していませんでした。
前年に漫画家協会内でも議題となりましたが 『詳しい人に任せよう』 というノリでした。
4月に漫画家志望の若い方へ呼びかけるポストをしていたときでした。
どうやら地雷を踏み抜いたようです。
「今度はなんだー?」 くらいの鈍感さでしたが
「立場がある人間がそういう発言を無神経にするな」 という意見があまりにも多く
Hさんに話を聞いていたのもあり、『どうやら深刻そうだ』 と調べてみることにしました。
まず自分の炎上に加担していた人達を呼んで事情を聞くことから始めました。
[被害者とその周辺の方、 弁護士、 政治関係者、 アニメ業界の方、 声優さん、
当然業種により賛否があり、答えが出るハズもなく、 主に話し合ったのは
『今何ができるのか? どこを目指せばいいのか?』でした。
法律を作る側は今何を考えこの問題がどんな状態なのか知りたくて、
帯同した者達は被害の深刻さと今後どうしてほしいかを訴えていましたが自分はほぼ黙っていました。 この時Hさんらと作ったチラシを持参していました。
『とにかく言いたいことを盛り込みなさい、 後から引き算すればいい』 と作ったものです。
それを渡して現状を訴えて政治家さん達がどんな反応をするのか、
どこまで把握されているのかを見ていました。
自分はまだ勉強不足で、 出会った人たち全ての意見を聞いて反応を見て
勉強不足と書きましたが自分なりに本を何冊か買って読んではみたのです。
横文字が多く、 読む作業より単語をググる作業に時間が費やされ、
『なんで?どうして?』というスタンスですから炎上しながらも、 沢山の情報が入ってきました。
6月くらいにはずいぶん自分の中で整理できていたように思います。
・扱いによって道具は凶器になる
その性質がある方面では著作権侵害の塊とみなされていますが、 自分はそれを断定できません。 プロ漫画家として40年以上現行の著作権法の恩恵を受けてきました。
それを守りそれに助けられてきた立場から、 越権する発言はできません。
そこは徹底的にドライです。
手順と窓口を間違えずそれらが必要と判断される程の声の塊を届けることが重要なのかと思います。 何故それをしないのか甚だ疑問です。
未だパブコメ以上のものは見えず、 陳情団体も知られていません。
政治家さん達の動きが鈍く感じられるのも当然です。
『他責にするな、 他力にすがるな』
コレを自分はドライな言い回しでポストするので反感を買う一因となっているのかもしれません。
規制を求めるとして、考えねばならないのは
良かれと用意し立法したものが現場活動の邪魔になる例はあります。
一度決議された法、 条例を撤廃するのは並大抵のものではありません。
コレに安易に規制をかけてしまうと既存のクリエイターも困ることになります。
「人間の学習」と「機械の学習」を感情論抜きに切り離すロジックを確立しなければならないと思います。 自分は先輩達の漫画を散々無断学習してきた身です。
その事を棚上げして、 現行の著作権法に抵触していないものを人間であれ機械であれ咎めることはできませ ん。(しかし法や条項で機械の学習がダメとされたらその時は堂々と咎めます)
そうこう考えている間に並行して色々なことが起きました。
特に声優さん達が決起した 【NOMORE無断生成AI】 は大拍手で、
無断でなければ共存共栄していきましょうという意味と受け取りました。 声の著作権は現在ありません。
その業界の方々が最大譲歩した呼びかけをしたのです。
感動しました。
一大ムーブメントになると思いました。 各業界も続く可能性も考えられました。
ところがコレにすぐ火の手が上がり、
規制を求める味方のはずの人達から責められトーンダウンすることになります。
一つでも譲歩してはいけなかったのですかね。
『著作権者が自らの著作物をAI学習にさせたくない場合には、その意向が尊重される仕組みが必要である と考える(要約)』というクリエイターに寄り添った内容のパブリックコメントを提出しています。 2024年2月の 『文化庁のパブコメ結果 (団体)』のP175に記載されています。
「外部に声明を出すべき」 との意見もよく見ますが、 省庁内にて各著作権団体の代表が集まる会議に参加し て内部で発言しているので、外部から発信する必要がないのです。
スクリーントーンが登場した1960年代に 「楽してる」とスミ指定の時代の誰かが言ったそうです。 初期は糊面に印刷がされていて、表からホワイトでグラデーションをつける作業が必要でした。
そののち表面印刷になり、 削りが可能になった時、 やはり 「楽してる」 と思った人はいたようです。 (ここまでが伝聞です)
当時トーンは高価だったためか手描きのカケアワセが正義とされる風潮もありました。
ミリペンでコマ割りをするようになった時は 「カラス口を使え」と言われ、
コピック登場の際には 「今の若い連中は筆も使えない」 と言われ。
それも当初「ペンや紙の使い方も知らない」 と言っていた人もいます。
一方で多くのこれまでの漫画家は道具の進化を歓迎し今に至りました。
生成AIは現在最も新しい道具の一つですから拒否反応もあるでしょう。 しかし機械であり道具であることは間違いありません。
問題視するとしたら、その性質と成り立ち、 使用する人間の所業かと思います。
雑感となりますが 「人間の無断学習」は多くの場合そこに尊敬と感謝が含まれます。 学習元にリスペクトの無い 「機械の無断学習」 に憤りを感じるのは当然です。
常に感謝しろとは押しつけませんが、 先人の積み重ねを瞬時に手に入れられると仮定して、 その学習元を見下す発言、 冷笑、 嘲笑、 悪用する手法諸々、 あっていいことではありません。 この問題がここまで拗れた原因の一つがコレなのだと思います。
ここまで読んでいただいた方はすでにおわかりだと思いますが、
足りないなりに導き出した 『あったらいいな』 が以下です。
ここが整えば、 少しは混乱が減るかなと思います。
(今年1月に出席したMANGA議連の場でも生成AIの話題は出ており、 気にかけている議員さんは少なくないです。 広く深い議論を期待します)
提案しておいてズッコケなのですが、 自分が積極的に動く覚悟はないのです。 答えが出せないことが多いのです。
「楽しんでね」と黙認しており、 それは使用道具がなんであれ同じと考えるからです。
当然 【人間でも機械使用でも一線を越えたものには強い処分】 を考えます。
しかし多少の緩さがないと後に続く文化の裾野が広がらないと思うのです。
このへんとても難しいですね。
すでに存在していますが、この先、 生成AIを使用した漫画も多く見かけることになるでしょう。 自分の横に並ぶかもしれません。
或いはもう並んでいるかもしれません。
その最中できっと多くの学びがあるはずです。
その繰り返しと積み重ねです。
負けたら勝つ方法を考えればいいし、必要とされない時代がきたら去るだけです。
ずっとそういう業界に身を置いてきました。
これからも僕がやるべきことは変わりないのです。
ツラツラと書き続けましたが、 漫画業界と、 アニメ、イラスト等の隣接する業界は似て非なるものです。
押しつけるものでもありません。
朝。
同僚A「殺気、ダダ漏れだぜ?」
俺「なんだ、気づいていたのかよ(笑)」
画面に映るのは、昨夜遅くまで俺が練り上げた法案の骨子だ。シンプルながらも、国民の生活を根底から変えうるような、骨太な政策提言が並ぶ。対するAのスマホには、緻密な世論調査データと、説得力あるビジョンが描かれている。お互いの指が画面上を滑り、見えない火花が散っているかのようにぶつかり合う。永田町のまだ静かな議員会館に、俺たちの集中だけが張り詰めている。
俺「お前もやるな。昨日のあのアイデア、まさかここまで具体的な政策に落とし込んでくるとは」
A「そっちこそ、その一撃必殺の論理、どこで仕入れてくるんだよ。寝てんのか?」
そう言いながら、互いの口元には笑みが浮かぶ。この研ぎ澄まされた集中力のぶつかり合いこそが、俺たちのモチベーションを最高潮に高める時間だ。誰かの指示を待つのではなく、純粋な使命感と「もっと良い社会を創りたい」という情熱が、俺たちを突き動かしている。
俺「さて、そろそろ本会議行くか。今日の委員会審議、楽しみだな」
A「ああ、最高の朝練だった。今日こそ、あのベテラン議員を唸らせてやる」
議員会館には、まだ登庁したばかりの同僚もいるが、俺たちの周りだけは、すでに熱気を帯びている。だが、それは敵意ではない。互いを認め、高め合う者同士の、清々しいまでの闘志だ。互いの政策をぶつけ合い、時には激しく議論し、時には互いの弱点を補い合う。そんな毎日が、俺にとっての理想の議員生活なのだ。
家庭が上手くいってないんだろうな
「若い女を買春した」ことの「禊」「罰」として選ばれた「子供を産めないバツイチ高齢女」という立場は心を蝕んでいくのだろう
@YuzukiMuroi
本気で怖いんですけど‥‥。一旦、立ち止まって、なにが問題どうしたらいいのか、きちんと考えませんか? それが正義だと突き進む今の感じでいいのですか?
ぎゃぶねこ
@gyabuneko
「アホ」と言われただけで起訴した者たちからは、『ふるさと納税の体験格差解消の仕組みを疑う者は、何が何でも潰す!』と言わんばかりの強烈な圧と意志を感じた。しかも、その意志を忖度した司法って、一体何なんでしょうかね?🥶
という事は、彼らにとって暇空さんは、よっぽど都合の悪い存在なのね
@YuzukiMuroi
なにが問題で、どうしたらいいのか、どうしたいのか、です。
@YuzukiMuroi
@YuzukiMuroi
本当にこのやり方で、これからもやっていくのですか?
@YuzukiMuroi
@YuzukiMuroi
議員会館なんか借りられる方がどう見ても強そうだわな
「フランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱された社会学における学術用語の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産」
とのこと
東京には個々人が様々な文化資本=教養や体験を積める場所が多くある。以下例を挙げると
A. 一流大学で行われる授業や研究、一流の文化人が講師を務める講座、芸能人が集まるテレビスタジオ、クラブ、
日本のリーディングカンパニーの経営者が集まる会合、大型書店の専門書・洋書コーナー、
B. 野球・サッカー・コンサート等が頻繁に開かれる球場、美術館・博物館、かつては若者文化の発信地だった渋谷原宿、オタクが集まる秋葉原、金と欲望と暴力の歌舞伎町・六本木
デートも観光も釣りも野宿もできるお台場、マルチ商法の詐欺師がカモを連れ込む新宿の喫茶店、外国人と話ができるカフェやバー、瀟洒な議員会館の威容
また、一流大学や一流タレントだけでなく、準一流大学やアイドルの卵など、場は階層も深い
資格や教養が無いと参加できない場もある(主に上記Aで挙げた場所)し、誰でも参加できる庶民の場所もたくさんある(上記Bで例に挙げた場所)