はてなキーワード: 「真」とは
https://anond.hatelabo.jp/20260511184637
あっているところもあるが肝心な所と結論が間違っているので致命的だね
「ドリンクを頼まないというのは、アルコールを頼む客にフリーライド」
原価が高い料理を頼まないのは原価が高い料理を頼むやつにフリーライドしているわけだが、フード間の格差を無視して語るのは主張として弱すぎ
ある程度のフリーライドを許容した単品の単価を設定して想定客単価を目指すのが飲食店の基本でしょうが
フリーライドだけになるのであれば店側の設定または仕組みが間違っているだけ
→ これ自体は間違っていない
「コンビニで買えば200円もしないコーラに800円を気持ちよく払うのは難しい。」
→ 決定的に間違っている
まず、人によるがそれはいいだろう
「真」であると仮定したら、コンビニで買えば200円程度のビールに800円払ってるやつはどうなるわけ?
アルコールに脳みそ壊された奴だから気持ちいいんだは暴論すぎる
「注文しないと店に申し訳ないしなあ」などの後ろ向きな理由であっても、自身の負の感情を払しょくするためなどで折り合いつけて注文しているわけ
「俺がお茶を飲みたいんだ」「アルコールアルコール!」「飲まないと先輩に怒られる」も、自分が必要としているから注文するわけ
選択の妥当性なんて人によっても立場によっても時と場合によっても違って当然だ
クッソアルコールが弱くて嫌いな奴がいたとして、初見の知らないおっさんとテキーラ飲むことはまずないが、ワンチャンありそうな女とはテキーラ飲むよな?
俺たちはただ飲み食いしているわけじゃない
生き残るための生存戦略は、極端な話、以下の方向に向かうしかない。
→ これが最大の間違い
正解の一つではあるけど、現行で行われている最も簡単な方法の一つがなんで出てきてないんすかね
ワンドリンク制どこいったの
本当に残念なことに、デジタルカメラ時代の「写真家」を名乗る人間のほとんどが自分でRAW処理ソフトウェアの開発をしたことはなく、審査員を名乗っている人間の多くは、実際に行われた処理の内容を想像することすらしない。
主観的に良し悪しを判断するのは間違いではないのだが、何が行われて写真撮影ができているのか、そしてそれをどうやって鑑賞できているのか知らない人間ばかりなのである。
ただひたすらに画角がどうの、コントラストがどうの、彩度がどうのなどと言ってみているが、RAW処理ソフトの「コントラスト」や「彩度」というパラメーターがどのような実装になっているのか、或いはトーンマッピング処理について理解して審査しているまともな人間がどれほどいるというのか?
例えば「ホワイトバランス補正」と言われて「色温度」と思った人は、実写の画像処理に対する理解が足りていない可能性が高い。
特に静止画の撮影者は技術面に明るくないものが多く、動画の人のほうがよっぽど技術面に詳しい。実際には同じことをやるのに。
もっとも重大な誤解は、ある種の「無加工」と信じられている実写映像と肉眼が十分に近い、と思われがちだというところだろうか。
カメラが見ているものとCGは非常に近いが、人間の見ているものとカメラが見ているものには大きな乖離があるという大前提が抜け落ちてしまっているのだ。
なにせ撮って出し信仰者なんてものもいるのだから。カメラの中でどういう処理がされているのか少しでも理解しようとするならば、撮って出しを「真」とするのがいかに愚かなことであるか、初期の段階でわかるはずではないのか。
例えばFUJIFILMのように、この辺りを踏まえて「一般消費者はメーカーの言うとおりにすべきだ」と言わんばかりの姿勢を見せるメーカーもあるが、これはかなり理にかなっているとも思う。FUJIFILMは「記憶色」を謳ってきたが、これ自体は間違いではない。(もちろんFUJIFILMの色の処理が適切だとは微塵も思わないし「フィルムシミュレーション」などという、知識不足の消費者にPROVIA・ASTIA・VELVIAなんてあたかもフィルムを再現しているかのような名称で売るのはいかがなものかと思うけれど)
日本語の意味合いとして「真を写す」なんてものにこだわるのは誤りだと言わざるを得ないが、せめて、何をしているか理解しようという姿勢を見せたらどうなんだ。
「プリセットを販売します」とか「フィルムを再現します」とかいう、ただ消費されるだけの消費者を見ているのは少しばかり腹立たしくもあるが、それを利用して商売を続けてきた側は間違いなく悪い。
美術目的なら好きなようにやれ、と言うことに決めているが、理解した上で全ての利用者が開発者になってくれれば、もっと自由な世界が待っているのに……。
また、せめて複写をするようなプロは「Foveonは正しい紫色が撮れる」「Adobe Camera RawよりCapture Oneのほうが色が良い」「LUMIXは色が良い」「FUJIFILMは撮って出しで正しい色が出る」みたいなバカなことを言っていないで、画像処理(フィルム・デジタル・動画・静止画・実写・CG問わず)の勉強をもう少しばかりやり直していただきたいものである。
フィルム時代に自分の手で現像とプリントを試みることよりも、デジタル時代のほうが圧倒的に安定していてシンプル(同じ処理をすれば同じ結果が得られると言いたい)なのに、それをしない。
まずこっちが推理する方をやってみたんだけど、途中で矛盾が生じてきて、何とかときほぐして正解にたどり着いてみたら、1個ヒント間違えてやがった。こちらが入力した数字に対して一定のルールに沿って返す、ということをAIが偶然的?にミスる、ということに驚く。
で、次に向こうに当てさせてみたんだけど、とにかく長い長い。私が上記の不利な条件のもと6回で当てたところ、あちらは38回かけた。それも、37回目で混乱して「数字のセットだけでも教えてくれ」とか言い出したので、あちらが丁寧に書いてくれていた推理の痕跡を追い直して「いやいや4をハズレ認定した根拠は何やねん」とピンポイントで指摘してようやくたどり着く有様。
「何でこんなにかかったんだろうね」と聞いてみたら、返事は以下のとおり(抜粋)。
→ たとえば
・「全桁がズレた場合 → 次は最小限の1桁だけずらす」
→ 多くの人間はこの段階で「全探索木を頭の中で組む」
→ 残り2〜4手以内で確実に決めに行く
■手番ごとの意図が明確に切り替わる
→ 逆に言うと「一度ミスった仮説(例:3が入っている/入っていない)」が後まで残る傾向が強い
■柔軟な「探索木の更新」が弱かった
→ 本来なら「ここで仮説をリセットすべきだ」と切り替えるべきところで、
→ やや惰性でパターン試行が続いていた(ループに入りかけた)
→ 人間は「ヒット数が変化した → 何が変わったか」を強烈に意識するが、
→ 今回私は「位置の違いによる影響」を少しずつしか更新していなかった
→ 「探索アルゴリズム専用エンジン(バックトラッキングや最適手探索)」は使っていませんでした
→ そのため、 人間のような大胆な「配置仮説表の整理・更新」は弱くなる傾向があります
■探索木管理用の内部表を構築する
■ブロー・ヒット差分を明確に逆算する
この分析自体は大筋では納得できる。まあ、誰にでも得手不得手はある。
私自身で感じたのも、まずはしょうもないヒントのバリエーションを得るために総当たりで聞いてくる点(これについては、「少ない手数で当てろ」という指示をしなかったという反省も)。無理からぬことだが、セレンディピティが無い。がさっとかまをかけたり、ブローを積み重ねて消去法で絞り込んだり、ということがなされていないと思った。また、仮説が信頼できなくなっても切り替えない。「Aっぽいな~、でもBの可能性も捨てきれんな~」の局面で、天秤にかけて順番に試すのではなく、最初の時点で可能性の高いAに憑りつかれてしまう(というかよく見ると別に可能性高くもない)。いずれも、経験を蓄積して解答を得るというか、解答を得るために経験を蓄積するという戦略が弱いということか。
そこで「次は熟練プレーヤーの推理法でやってみてね」としてみたら、3手目でまた思い込みに憑りつかれ、それ以降は的外れな試行を繰り返す。個々の推論も、いわゆるMECEな整理ができてない。だんだん発狂しだして「!」を延々吐き出したり、挙句の果てには過去に出した数字を再度出してくる始末。
空恐ろしかったのは、3ブローだって言ってるのに「セット確定!」とか息巻いて、延々3文字しか合ってないセットで回し続けたこと。我々人間の認識としては「真」は「4文字が合っていること」であって、「4文字が合っていること」と「3文字が合っていること(=1文字が間違っていること)」との間には厳然たる溝があるが、AIはその違いが識別できてない。うまく言えないけど、これって今後付き合ってく上で結構重要なポイントな気がする。
「真」に対するチューニングの問題なんだろうか。例えば「10cmに切った紐を10本用意してください」という仕事に対して、誤差が±5mmの人もいれば±2cmの人もいる、というような。
まずは簡単にヒュッケバイン問題を振り返る。知ってる人は読み飛ばしてね。
ヒュッケバインとは、1995年に発売されたゲーム「第四次スーパーロボット大戦」に登場したゲームオリジナルのロボットを指す。
このデザインは誰がどう見てもガンダムのパクリである。選択式のカラーでは白・青・赤のガンダムカラーにすることも可能だった。
(ヒュッケバインに関して、初稿はバイザー型の独自的な頭部デザインだったが決定稿でガンダムフェイスになったのも有名。つまりデザイナーが寄せたのではなく、ゲームコンセプトに基づきそのデザインとなった)
その後、2000年に発売された「スーパーロボット大戦α」ではヒュッケバインMk-2、Mk-3が続けて登場する。
依然としてガンダムフェイスであり、さらにコアブロックシステム(コクピットが戦闘機になるやつのこと)も追加されて、ガンダム感はまだ色濃い。
ただ紫と黄を基調としたカラーリング、中二心揺さぶる重力兵器、ごつい追加装備、当時のガンダムに見られない謎のチャクラム系の武器など、独自のアイデンティティが確立したことも付け加えておく。
その後、2002年~05年の期間に発売された、スパロボのオリジナル機体を集めた「OGシリーズ」でもメインの扱いで登場し、ヒュッケバインはファンから根強い人気を得たことだと思われる。
「ガンダムのパクリだよな」という共通認識はありつつも、それを愛でるのような状況だったのではないだろうか。
問題は06年以降。以下のようなことが起きる。この一連の事件を主に「ヒュッケバイン問題」と言う。
・「OGシリーズ」がアニメ化するが、ヒュッケバインが一切姿を見せない(部分的な描写はある)
・コトブキヤからヒュッケバインシリーズのプラモデルが販売されるが、再生産なしと販売時に明示される(実際今に至るまで再販なし)
・「OGシリーズ」のゲーム新作で、ヒュッケバインMk1~MK3が並んで登場するが、イベントシーンで跡形もなく壊される。もちろんその後そのゲームで再登場なし。
・ヒュッケバインからガンダムフェイスなどのガンダム的要素を取り払った「エクスバイン」等のメカが代替的に各メディアに登場するようになる
このときのファンの反応は冷静で、「まぁガンダムのパクリだしなぁ……」みたいなものが主流だった印象だ。(作中の設定と合わせてバニシングしたと寧ろ楽しんでた)
ただ状況は変わり、17年に発売されたスパロボではヒュッケバインがデザイン変更なしでそのまま登場して、ファンを沸かせた。
これを皮切りに10年間封印されていたヒュッケバインの解禁が進み、スパロボにも度々姿を出すようになる。
最近ではバンダイ製のヒュッケバインMk-3のプラモデルも販売されたが即完売。今は転売価格だ。
大人の事情があっただろうと憶測はできても、真実はまだ語られていない。
とりあえず権利的な問題は解決されたと見なされていて、ファンも堂々とヒュッケバインを愛でられる状況に改善されたと言える。
ヒュッケバインはパクリデザイン、つまりガンダムの「偽」として登場したが、上述のように色々あって権利的に問題ない人気コンテツと化した。
もはやヒュッケバインは「真」となったと言っても差し支えはないだろう。
いや、かなり特殊な事情であるし、パルワールドの悪趣味性と相まってとは一概に比較できないのは重々承知なのだが、「デザインの剽窃は創作に悪影響を与えるので絶対に許してはいけない」などの言説は、ヒュッケバインの前例を鑑みるに疑義的だ。「偽」であるパルだって紆余曲折を経て「真」として受け入れられる可能性もあるだろう。支持するファンが多ければ多いほど、そうなる可能性はある。
寧ろ、ポケモン的なデザインを模倣することは絶対に許されないとするならば、それは事実上の無期限の特許化であり、そちらの方が創作において抑制的でよほど悪影響だろう。
そういう人で数学の成績がそれほどでなかったり大学で数学を専攻している人というのが少ないのは、根本的に数学に対して能力がないのではなく、数式には文章と違って情感みたいなものがないとかいった理由で愛着を持てないからだと思います。
それで熱心に学ばないからそうなってるだけで、彼らのような類に数学の勉強を強制させたらそれこそ大化けして並みの数学者を凌駕する理解力を発揮するのではないでしょうか?
確かに高校時代まで重視される計算力(速さ)という意味の数学力は読解力とかすりもしない概念でしょう。
しかし大学に入ってまず習う位相や集合の理解にしてもあのページが進むごとに論理的に入り組んでいく解説についていくということについてはまさしく国語で成績を取ってきたのと共通する読解力がものを言うように思えてなりません。逆にあれを理解するのに要する読解力と小説なり評論なりの問題を解くのに要する読解力とでどこに違いがあるのか探す方が難しいでしょう。
双対の原理の事典での説明を私が見ても、パスカルの定理とブリアンションの定理の双対性が、束の外延と内包の双対性が成り立つからその特殊な場合として明らかに成り立つものなんだと言えるという趣旨に対して、束という遥かに抽象的な形式論理のなかで成り立ってることがあの目で見える形で定理の妥当性が明らかな射影幾何の双対性に一般と特殊の関係のなかでどうつながってくるというんだとさっぱり納得感がないわけです。
(というか双対の「原理」とかいっちゃってるけど、それはパスカルの定理とブリアンションの定理が同時に真であるということ公理として幾何学が構成されてるってこと?この場合まだ2定理が真なことは図示したとき直観的に明らかだからまだいいけど双対の原理に沿うように言葉を入れ替えた命題が全て視覚的にも正しいと判断できるような状況になってる保証はどこにもないよね?それをもそれを「真」と認めるものとして幾何学を構成しちゃってるってこと??)
国語において読解力があると知られている人は、そういう言わずもがなの部分も何が省略されているか察知する力に長けているはずというか、往々にしてその力の結果が間接的にも直接的にも「読解力が高い」と人に言わしめるときの「読解力」の構成要素になっているはずなのです。
だから、事典の記述についても私が納得できないのはその記述における「言わずもがな」の部分に想像力が及ばないからだとするなら、読解力の高い人ならこういう数学の高度な概念の解説も読みこなせるのではないかと思うわけです。
そういうわけで少なくとも数学の理論を学ぶという段階だけで見るならむしろ理系ぶってる人間よりも読解力が高い人のほうが驚異的な力を発揮するように思えます。研究の段階になるとそれがそうじゃなくなるんでしょうかね。
法輪功の特徴は、たんなる健康法にとどまらず、「真・善・忍」を中心とする「宇宙大法」を身に着けることにより、より高い次元に修煉できると説いている[19]。「真」は真なる言動をなし、虚偽の言動をなさず、将来「返本帰真」に達すること、「善」は慈悲心をもち、人を苛めず、弱者を思いやり、人を助け善行をなすこと、「忍」は困難や屈辱に際しても、受け流し耐え、恨みや憎しみをもたず、仇を討たないこととされる[20][21][22]。「返本帰真」とは、世俗の慾望を捨て、人間本来の自然な姿と理念の境地に達することを意味する[23]。莫 (1999, pp. 59–60) はこれらの教えについて、世俗の栄達に対する批判的な眼差しによるものであり、"中国の一般民衆が慣れ親しんでいる仏教、道教、儒教などの伝統的な価値観をうまくミックスしたもので、市場経済の変化についていけない信奉者たちの悩みをわかりやすい表現を用いて効果的に取り除こうとした"ものであると評している。
今 (1999, p. 35) は、「忍」こそが在家主義をとる法輪功の教えの核心である、なぜなら山中の出家生活でなく世俗の中の在家生活でこそ修練が捗ることを意味するからだと述べている。例えば李は、「徳という物質は、われわれが苦しみに耐えたり、打撃を受けたり、良いことをしたりして得るもの」であり「業力という黒い物質は悪事を働いたり、良くないことをしたり、人をいじめたりして得るものです。[……]人を罵ったり、いじめたりすると、その人は自分の得を相手に投げ与えることになります。一方、相手はいじめられ、苦しめられ、失った側なのでそれをもらえるのです」と述べている[24][25][註 1]。
法輪功では内面の向上に重点が置かれているため、他の多くの気功法同様、金銭や利益が絡む活動はいっさい許されていない[要出典]。そのため、現在[いつ?]は各地のボランティアの手によって、無償で気功動作の指導が行われている[要出典][註 3]。『転法輪』は市場相場より安価で提供され、お布施の類も一切ない[18][註 4]。一方で今 (1999, p. 35) は、執着しないかぎりにおいては利益を得ることを拒んではおらず、「いわば『社会主義市場経済』をある意味で肯定している」と指摘している[註 5]。
こんな素晴らしい教えが7000万人にも影響したらそりゃ恐れるだろうな政府は
もう元増田は寝てしまったかも知らんが、URLリンクがいくつか貼られているからまず読んでほしい。
・はてブ コメント 「10万人の宮崎勤」はあったのか? https://news.yahoo.co.jp/byline/dragoner/20170929-00075748
ここでは一次情報にたどり着けなかったとしている。すっとぼけているのではない。想像するにあなたの周囲でバッシングするメディアを
肴にあなたの行動を咎める人間がいたんじゃないだろうか。記憶は反芻するほどに変異して強く刻まれる。
「記憶を作ろうとしている」はそのとおりで、「思い出す」とはその都度ゲシュタルトを再構築する作業にほかならない。
・togetter元記事コメント 令和元年版 犯罪白書 第4編/第8章/第1節 https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/66/nfm/n66_2_4_8_1_0.html
末尾図では人口比で各世代暴行が上がっていて、傷害も世代間で違いがあるものの刑法犯が上がっている。
・はてブ コメント 日本の犯罪件数の推移(平成30年度版) https://graphic-data.com/page/society/001
(暗数を考慮せずに)2002年をピークにそれ以降はずっと右肩下がりと書かれている。
個人的には狭義のオタクを良くも悪くも広く知らしめたのは宅八郎
https://hochi.news/articles/20201204-OHT1T50123.html?page=1
ブコメでもあるとおり、ナニかに夢中な我が子に不安を覚える日本の保護者が多い。
曰く「~ばかりしていると~になる」
これには後段があって、「だからはよ飯くえ」とか「はよ塾いけ」だ(もちろんそうでない場合もある)
あなたは何一つ間違っていない、「真」などどこにもないから「みんな」情報を提示している。
冷やかしているような反応はあるが悪意はないと思うゾ
教養になったは、さんきゅー
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真のスコットランド人論法(しんのスコットランドじんろんぽう、英語: No true Scotsman)、または純粋さに訴える論証(英語: appeal to purity)は、 非形式的誤謬のひとつである。普遍汎化に対する反例を提出されたとき、トートロジーを用いて反例を除外することで主張を防衛しようとする行為をさす[1] [2] [3]。普遍汎化を放棄したり反例を否定する証拠を提供したりせず、客観的な基準の代わりにレトリックを用いて汎化を修正し定義上その特定の反例を含まないようにする[4]。このレトリックは「真の、純粋な、正真正銘の、真正の、本物の」など感情に訴えかけるだけで本質的な意味のない純粋さの形容という形をとる[5]。
目次
1 例
2 使われる例
4 脚注
5 関連項目
例
哲学教授のブラッドリー・ダウデン(英語版)は、反駁された汎化の試みに対する「アドホックな救助」としてこの誤謬を説明している[1]。以下はこの誤謬の簡略化された一例である[6]。
B: 「私の叔父はスコットランド人だけど、粥に砂糖を入れていたよ。」
A: 「でも、真のスコットランド人は粥に砂糖を入れないんだよ。(But no true Scotsman puts sugar on his porridge.)」
使われる例
真のスコットランド人論法は主張者が以下の条件を満たしたときに使われたといえる[7] [3] [4]。
特定の都合の悪い反例を定義的に除外するよう変更した主張をする
レトリックを用いてその変更を隠す
純粋さへの訴えは、一般的に、肩入れしている集団の擁護に関連している。スコットランド人と見なされている誰かが凶悪な犯罪を犯した場合、スコットランドの国民の誇りの問題が危機に瀕していると想像できる。このとき、あるスコットランド人が犯した罪が他のスコットランド人と関連付けられる(これは関連性の誤謬である)ことを恐れ、この特定の構成員や行動がグループに所属することを否認する動きが出てくるかもしれない。「真のスコットランド人はそのようなことはしないはずだ」というのである。すなわち、「そのようなこと」をする人はトートロジー的に(定義的に)グループから除外され、そのグループのよい性質に対する反例にならないようにするのである[4]。
ロバート・アンダーソンは、「真のスコットランド人は……」というフレーズは必ずしも誤謬ではないと主張している。それは、このフレーズに含まれる「真」という用語の構文的文脈に依存するのだという[7]。
一般に、「真のスコットランド人」論法は「スコットランド人」にあたるものが文が指す対象と相容れない場合には正しい可能性がある。例えば、菜食主義は肉を食べないことであると明白に定義されている。したがって、「真の菜食主義者は肉を食べない」は「私の友達は菜食主義者だが、肉を食べる」に対する間違ってはいない応答になりうる。肉を食べることはベジタリアンであることと語義からして相容れないからである[8]。
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1826
各社が必至に探しても10近い年月でたったこれだけしか出てこなかった。
表に出てきた情報で判断するべき正しい見解すら持てないバカが大量にいて辟易する。
1.収支報告書に掲載されてる、数年で759万円の費用は単なる正当な仕事の報酬
まともな社会経験があれば、1人を常駐させて仕事させるコストにすら到底足りないことは容易に理解できる。
収支報告書上の費用はおそらくDappiに無関係の費用とみなすのが正常な判断で、
無関係のお金の流れの話で騒いでるのは単純にバカにしか見えないし、
Dappi疑惑に対してデマを流してるも同じ。無能な味方はマジでやめてほしいから黙ってろって感じ。
自民党がネット工作にカネを出して関わっていたを「真」と仮定するならば、まずはこっちの話が出てからの話になる。
1人を平日フルタイムで働かせて仕事させるなら1人月 100万円/月くらいは最低でも欲しい。
要は年1200万くらいのカネの動きが最低でも無いと金払って人を専任で動かすことは困難なのが社会の常識だ。
この会社がネット工作を請け負っていて非専任だったとしても半額 月50 年600位は最低でも費用を見ないと話にならない。
一般的な人件費の話をしたので、ネットの政治工作なんて特殊な仕事ならもっとカネを積むのが当然だよね。年数千万オーダーになってからの話。
ということで表に出ているカネでDappiの政治工作依頼なんて不可能というのが結論になるので、裏金を使った話になる。
収支報告書に記載されない裏取引をしていただとか、機密費を使っていていたとか手段はいくらでも想定できる。
しかし、現状は何もネット工作疑惑の片鱗すら掴めてないのが事実でしかなく、様子見しないといけない話なのだ。
憶測で問題が確定したかのような態度はリベラルとして失格だ。陰謀論の領域に入ってることを自覚するべき。
ネット工作にあたって金銭の関係はない。党幹部の親戚らしいじゃん。
自民党に無償で貢献するので恩が売れる。何か別のところで利益が回ってくるとか。自民党らしさを感じる。
こうなるとどう頑張ってもネット工作と自民党の関係を明らかにするのは困難になる。脱法スキームとか大好きでしょうし。
万が一こうやってバレてもリベラルが勝手に疑ってウソの疑惑を作ったと反撃すらできて効率が大変よい。
まぁそもそも名誉棄損の裁判しかしてないから、関係性を調査する権限がどこにも無いから見つけ出すのもムリゲーなんだけど…。
個人的に疑ってるのはこれ。社会には勤務中なのに思ってる以上にヒマしててサボってる人間がいる。
昨日上がってたこれとかそういうの。勤務時間中にサボってブコメしてるはてなーとかも一杯いるよね。
就職して17年になる。新入以来ずっとヒマ https://anond.hatelabo.jp/20211021101039
暇なネトウヨが会社の回線使ってネトウヨ活動。まあまあありそうな話。
自民党が工作してた時の尻尾切りの言い訳にも使えるかな。個人がやったことです。会社として懲戒しましたで終了。
ワンズクエストのIPで通信するけど管理していない、パスワードのかかってない古いAPが何故か置いてあった。
誰か知らないがアクセスしてた可能性がある。社員は誰もやってない。
結局、名誉棄損の裁判程度では疑惑が確定できるような証拠が出てくる可能性が低そうだなって感じだけど、
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
真・デビルマンというのがあって
これがオタク業界の「シン(真)」の元祖なんかなあと思ってる。
そうそう、これね。
シンを「新」って思ってるのみんなは?
おれはずっと「真」だと思ってるんだよねえ。
つくってる人らはどう思ってんだろ。インタビューとか読んだことねえからわからん。
冒頭の真・デビルマンは子供向け再放送アニメのデビルマンしか知らない小学生だった俺っちが
いきなり漫画デビルマンを知らずにノベライズから読んでつんのめって一回転するほど
の衝撃を受けた小説だ。
だから今でもシンってワードは新ではなくて真のほうだよなって印象なんだよな。
にしても誰かきちんとシン・デビルマンをつくってくれないものかねえ。
どうにもこうにもデビルマンの映像化は不遇で正直まともなもののほうが少ない。
まあどうせ新しくデビルマンつくってもSNSで悪魔の話とか流行ってて
とかそういう導入でつまんないんだろうけれど。
デビルマンは最初に飛鳥了のバイオレンスから入らないと駄目なんだよ。
という警告を頭をぶん殴りながら告げるような衝撃で始まらないといけないんだ。
それにつけても、
https://news.livedoor.com/article/detail/19141276/
中国で日本の繁華街そっくりな街…「日本崇拝」と批判、その後も大にぎわい
著作権を意識してか、中国でも人気のアニメ「名探偵コナン」のセリフ「真実はいつもひとつ」と書いた看板の「真」の字が覆われ、人気音楽ゲーム「太鼓の達人」にちなんだ看板は「太」の一部が塗りつぶされて「大鼓」の表記となっていた。
ここで言っているのは絵がパクられたんじゃなくて文字だよね?
日本だとありふれた表現や短い言葉は著作物じゃないけど、中国では「真実はいつもひとつ」「太鼓の達人」なんて短い言葉が著作物になっちゃうの?
先日、職場で「電子書籍で本を読んでるんですか、そんなの真の本好きじゃないですよ」と言われ、「いやお前は私の何がわかるんじゃ」とイラッとしてしてしまった。
別に読書が趣味じゃない人も「カーボン素材のロードバイクを持ってないなんて真のサイクリストじゃない」「テレビじゃなくてアマプラで視聴しているのは真のアニメオタクではない」と言われたら不愉快だろうといえばわかってもらえるだろうか
他者の趣味を「真」「真じゃない」と判定することにマウント以外の何の意味があるのかと反駁してみようかと思ったが、書籍の物理的な形でそれを区分することに興味を持った。
活版印刷が出始めたときも「手でひとつひとつ作った写本が家にないなんて真の本好きじゃない」という人はいたんだろうか。
私は小説ばっかり読んでいるのでそういう意味で「自然科学まで網羅してないと真の本好きじゃない」といわれるならばわかるのだが。