はてなキーワード: 市場経済とは
中国の指導層、特に1990年代の日本の崩壊をリアルタイムで観察していたエリートたちは、日本の失敗を国家主権を失った国が辿る末路として徹底的にケーススタディした。
中国は、日本が米国の圧力に屈して急激な円高を受け入れ、バブルとその崩壊を招いたプロセスを最大の教訓とした。米国が長年人民元を切り上げろと圧力をかけ続けても、中国は決して一気に応じなかった。自国の輸出競争力と通貨の主権を手放すことは、国家の自死を意味すると理解していたからだ。
日本が金融自由化の名の下に外資の浸食を許したのに対し、中国は資本の流出入を厳格に管理し、グローバル資本が国内経済を根底から揺さぶることを許さなかった。中国は通信、エネルギー、金融といった国家の背骨となる部門を、決して民営化(=外資への売却)しなかった。
市場経済を取り入れつつも、最終的な決定権を国家(共産党)が保持し続けることで、資本の論理が国家の主権を上書きすることを防いだ。日本の林道整備が収益性で切り捨てられたような事態を、彼らは国家の弱体化として回避した。
日本が製造業の現場を軽視し、派遣労働の拡大で技能を破壊し、技術を米国や周辺国に流出させた失敗も、中国は注視していた。サービス業や金融への偏重(経済のソフト化)が国力を削ぐことを見抜き、製造2025の掛け声のもとにハイテク製造業での自給自足を急いだ。
西側の技術を導入しつつも、それを自国のものに昇華させ、逆に西側が中国のインフラ(5GやEVなど)に依存する構造を作り上げた。
中国の躍進は日本のようにだけはなるなというスローガンの上に築かれている。彼らは日本がバブルの宴に酔い、竹中平蔵のようなパシリによってシステムを解体され、最終的に搾取対象へと転落していく様を、冷徹な目で見つめていた。
皮肉なことに、日本が米国に差し出した果実が大きければ大きいほど、中国は主権を失うことの代償を強く認識し、独自の軍事力と経済ロジックを磨き上げることができたのだ。
覚悟がなければ未来はない。中国は米国と衝突してでも主権を守るという覚悟を決め、日本はその覚悟を捨てて隷属の安寧を選んだ。その結果が、現在の両国の決定的な国力の差となって現れている。
自己放尿とは、個人が自らの効用を毀損する非合理的選択である。
すなわち、限界便益が限界費用を下回るにもかかわらず実行される行動であり、価格理論的に言えば誤った主観的評価に基づく資源配分の失敗である。
しかしここで重要なのは、この自己放尿が誰の計算主体の中で完結しているかという点である。
市民の自己放尿は、ミクロ的には単なる効用関数の歪み、あるいは情報コストを節約した結果としての合理的無知の副産物である。
人間は完全合理ではないが、観察される行動は制約下での最適化の結果として解釈されるべきだ。
つまり市民の自己放尿は、外部から見れば愚かでも、その主体にとっては制約付き最適化問題の一解にすぎない。
自己放尿する自由、すなわち自らの資源を非効率に消費する自由は、市場経済の本質的帰結である。
なぜなら、価格システムは情報を分散的に処理する装置であり、その前提は各主体が自分の選好に従って行動することにあるからだ。
誤った選択、すなわち自己放尿もまた、その分散的秩序の一部であり、外部から矯正されるべき対象ではない。
政府の自己放尿は、単なる個人の効用毀損では終わらない。それは強制力を伴う再配分メカニズムを通じて、他者の資源配分に介入する。
つまり政府の自己放尿は外部不経済を制度的に強制する装置である。市民の自己放尿が内部化された損失であるのに対し、政府の自己放尿は社会的費用として拡散する。
さらに公共選択論的観点から見れば、政府の自己放尿は構造的に不可避である。
なぜなら政治市場では、有権者は合理的無知に陥り、政策の限界的影響に対するインセンティブが極端に低い。
結果として、政策決定者は集中利益と分散コストの構造を利用し、自己放尿的政策を選好する。
ここでの自己放尿はもはや比喩ではなく、制度的に誘発された非効率の均衡状態である。
市民の自己放尿は競争過程の中で淘汰される。誤った選択を続ける主体は資源を失い、市場から退出する。これは価格システムの自動操縦装置としての機能である。
一方で政府の自己放尿は淘汰されない。なぜなら政府は予算制約がソフトであり、失敗のコストを税やインフレによって外部化できるからだ。
ここにおいて、自己放尿は単なる愚行ではなく、持続可能な制度的歪みへと堕落する。
市民の自己放尿は愚行権であり、自由の副産物である。政府の自己放尿は強制的再配分であり、自由の侵害である。
前者は市場の中で修正されうるノイズであり、後者は市場そのものを歪めるシステムエラーである。
自称インテリがしばしば陥る最大の過ちは、自らの知的優越性に酔いしれ、市場や社会の自発的秩序を軽視することである。
これはまさに典型的な自己放尿であり、理論偏重・現実軽視・選民意識のトリプル放尿である。
この種の自己放尿は単なる態度の問題ではなく、資源配分の歪みを正当化しかねない危険な思想である。
まず、多様性とは単なる文化的スローガンではない。それは分業の基盤であり、異質な能力・知識・選好を持つ個人が市場を通じて相互利益を実現するための前提条件である。
高学歴者のみが価値を生むという発想自体が自己放尿であり、人的資本の異質性を無視した非効率な中央計画的思考に他ならない。
知識は分散しており、誰も全体を把握できないという事実である。にもかかわらず、自称インテリは自らを全知に近い存在と誤認し、自己放尿を繰り返す。
自由とは、各個人が自らの選択に基づいて行動する権利であり、その帰結として多様な結果が生まれることを含意する。
この結果の不均一性を問題とみなす態度こそ、自己放尿である。なぜなら、それは結果の平等を追求するあまり、プロセスとしての自由を侵害する傾向を持つからである。
市場は、価格メカニズムという情報システムを通じて無数の個人の判断を調整する。この精緻な制度に対して、机上の空論で介入しようとすること自体が、知的傲慢という名の自己放尿なのである。
さらに、低学歴とされる人々の存在は、市場経済において不可欠である。ここでいう低学歴とは単に形式的教育年数の問題であり、実際の生産性や技能とは必ずしも一致しない。
労働市場は多様なスキルセットを必要とし、単純労働から高度専門職までの連続体によって構成されている。
もし全員が同一の高度教育を受け、同一の職を志向すれば、供給のミスマッチが生じ、社会全体の厚生は低下する。
したがって、低学歴は不要だという主張こそが、分業の原理を理解しない自己放尿である。
方法論的個人主義に立てば、社会とは個々人の選択の集積であり、上から設計されるものではない。
自称インテリが好むトップダウンの設計思想は、しばしば現実の複雑性を無視し、予期せぬ結果を生む。
これは政策的自己放尿とも言える。市場における競争は、誤りを淘汰し、効率性を高める進化的プロセスであるが、自己放尿的介入はこのプロセスを阻害する。
自称インテリに求められるのは、自己放尿の停止である。すなわち、自らの知識の限界を認識し、市場の自発的秩序と多様性を尊重する態度である。
自由な社会においては、すべての人が異なる形で価値を創出する。その現実を受け入れず、選別と序列に固執する限り、自己放尿は止まらない。市場は寛容であるが、自己放尿には容赦がない。
ナンセンスな点を聞くからだろ。ナンセンスな点はどこ?じゃなく、どういうことですか?と聞け。
ーーー
「左翼=計画経済、右翼=市場経済」という分類は、政治や経済の複雑な仕組みを「政府がどこまで経済に口を出すか」という一点でバッサリ切り分けた、非常にシンプル(かつ伝統的)な考え方です。
なぜそう言われるのか、それぞれの理屈を整理してみましょう。
今の時代、100%計画経済の国や、100%放任の国はほとんどありません。多くの国は、両方のいいとこ取りをした「混合経済」という状態です。
| 項目 | 左寄り(リベラル) | 右寄り(保守) |
| 経済の主役 | 公共・政府のサポート | 民間企業・個人の活力 |
| 税金 | 高め(福祉を充実させる) | 低め(企業のやる気を出す) |
| 格差への態度 | 政府が介入して是正すべき | 努力の結果であり、ある程度は許容 |
46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/20(月) 03:25:37 ID:foHSBVvh
先週、故葉闇元日銀総裁の13回忌がしめやかに執り行われた。葉闇さんは
円が尊敬されるように獅子奮迅の努力をしたので歴史に名を残している。
なんて言っても、1998年の経済危機の最中にも持論を曲げず、僅か2年後
にはデフレの最中に利上げに踏み切った世界の歴史に希な業績を残した方だ。
今、円安・原料高で苦しむ日本経済を見るとき、葉闇総裁の先見の明は明らか
だろう。さらに歴史をさかのぼると、財務省と日銀がいかに素晴らしい人材を
日本に送り出してきたかが歴然とする。そう、井上淳之介だ。彼は葉闇総裁
同様に、昭和恐慌の最中にも旧平価の灯を掲げ、テロリストの凶弾に倒れるまで
浜口首相とともに日本経済を救うために獅子奮迅の努力を続けた人だ。こうした
偉人達を、イカサマ経済学者達がどれほど悪し様に罵ったかは、歴史の教科書で
読むことができる。もちろん、大部分の経済学者は、自説に自信もないし、そもそも
政策なんかには興味もなかったので、葉闇総裁や井上蔵相を支持していたわけだが、
確信犯というべき連中は悪質なデマ宣伝を繰り返していたようだ。だから、今では
公務員試験と日銀の採用試験では、ケインズとワルラス、フィッシャーとフリードマン
47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/20(月) 11:04:19 ID:HcvWjPej
焚書坑経以来、ユダヤの手先であるWTOや国際金融資本、石油資本に
良いようにもてあそばれてきたが、苦難の日々ももついに終わるときが
やってきた!! 反撃の時がくるのだ。この間の葉闇元総裁の法事が、
事実上の日本政府・日銀の肝いりで行われたを注目していたが、やはり
裏があったんだ。
今日の総理の所信表明演説は「日本国民に訴う」と題されていたが、その
なかで首相は、まるで獅子のたてがみのように、あるいはこれまで耐えて
きた怒りをぶちまける、そう「怒髪天をつく」ばかりに吠えたんだ。
そう、金本位制への移行だ。これまで、日本経済は一産業一企業制で効率
改善に勤めてきたのに、なぜか貿易黒字はちっとも増えてこなかった。経済
力・国際競争力の象徴である黒字が、効率化の進展にも関わらず増えないのは
なぜかといぶかしく思っていたが、実は日本郵貯銀行(株)をダミーにして
日本貿易(株)に融資したお金で、金を買いまくっていたんだ。凄いね!!!
首相に寄れば、この金は昨日づけで日本政府に所有権が移転しており、
外国為替特別会計の外貨準備に積まれることになった。もう、金の保有量
では、憎きアメリカを追い抜いているらしい!!
来年の1月4日付けで金兌換が始まるそうだ。そう、ついに、円は世界で
唯一の「尊敬される通貨」へ、名実ともに移行することになるんだ。
これで、円売りで儲けていた国際金融資本は致命的な打撃をうけることに
なるだろう。
もちろん一部の歴史家は、1930年の金本位制復帰によって昭和恐慌に
突っ込んだことを強調し、首相の方針に反対意見を述べている。馬鹿じゃないか?
あれは、たまたまニューヨーク市場が大暴落し、世界恐慌が始まるときに
金本位制に復帰したから、見かけは「金本位制復帰が昭和恐慌を招いた」
ように見えるだけなのは常識じゃないか。今や、アメリカは日本を食い物にして
ますます繁栄を貪っているし、中国も、本当は日本のODAのおかげなのに、
市場経済の成果だと嘘を吐きながら、経済成長を誇示しまくりだ。条件がまるで
違うんだよ。歴史や国際情勢を無視して、まるで物理法則のように経済学の公式が
それに、ユダヤの手先ではない、WASPのアメリカ人の実務家たちは、日本の
金本位制移行を絶賛している。さっきネットのウォールストリートジャーナルの
一面には、「日本の劇的な転換と経済大国の復活」という大見出しが躍っているW
さあ、日本経済の全面的で徹底的な反撃の時がやってきたぞ。これに勝利して、世界に
はびこる経済学者どもを根絶やしにしてくれる。がんばれ、榊原大臣!!!
49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/20(月) 17:32:37 ID:HcvWjPej
榊原大臣については、確かに良くない噂がつきまとっている。なんと、アメリカで
経済学博士号を取ったという話だ。しかも、その後で、ユダヤ国際金融資本の指令
センターとも言うべきIMFに努めていたという話だ。で、調べてみたら、これは
1980年代に彼は経済学を捨てた、というか改心したんだ。最初は欧米の猿まね
経済学ではいけないと言ってたようだが、焚書坑経の前には、完全に経済学の呪縛
を脱して、正しい道を歩んできた人だ。
しかも、昭和天皇の在位60周年には記念金貨発行を立案し、金の含有量を少な目
で、陛下のご威光を多めにして、結局は数千億円の税外収入を上げて財政悪化に苦
しむ日本を助けたこともあるんだ。もっとも、この金含有量に目を付けた香港マフィア
どもが完璧な偽造金貨を鋳造した物だから大変な混乱が起こったようだけど、これは
犯罪者が悪いのであって、大臣の責任じゃない。実際、その後は経済学者などという汚れた
経歴はものともせず、財務官という次官に次ぐ地位まで上り詰めた人なんだ。
さあ、最近のインフレで電車の初乗りは平成デフレの頃の150円位から1500円まで
10倍になっているが、ここで物価を元の水準に戻すように金平価を決めて、一挙にインフレ
56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/21(火) 17:56:08 ID:7WCzaQQc
12月10日の日記
さあ、12月になって冬のボーナスが出た!!不景気で額は少ないけど、今年に
限っては嬉しいボーナスだ!!なぜだって?そんなこと、分かり切ってるじゃ
ないか(笑)1月になれば、金本位制復帰だからだよ、バンザイ!!
舞日新聞の記事を見てごらん。「下がる下がる物価。ほくそ笑むサラリーマン」
っていう特集記事がでてる♪♪♪今は1000万円しかないボーナスだけど、
一ヶ月もしないうちに物の値段が十分の一になるんだ!!こんなに使いでの
あるボーナスもないよ!!まあ、今月は我慢して、来月になったら大盤振る舞い
決定打だね。
20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/17(金) 20:51:14 ID:PPZqAMGR
さて、世界中から訳若芽な「自由貿易の敵」などといって目の敵にされたため
日本は大変なことになってきたようなのですが(統計がないのでよくわからない)、
こうなったら産業合理化で乗り切るしかないという経営コンサルタント出身の
大臣の政策で、一産業一企業の原則が確立し、日本中の産業は効率的に整理統合
されました。焚書坑経以前だと、独禁政策とか資源配分の効率性とか小うるさい
連中がいましたが、全部焼き殺してしまったので、思うがままに効率化を進め
られます。
さて、苦難の中で歯を食いしばるように頑張ったおかげで一産業一企業体制が
確立しのですが、外国はますます猛り狂っています。アメリカは日本を「社会主義」
と罵っていますし、中国は「市場経済を理解しない東洋鬼が莫迦」と人民日報に
連載記事まで載せています。もっとも、金正日第一書記には絶賛されています。
それにしても、どこのお店に行ってもろくな商品が売っていないし、店員の態度が
滅茶苦茶悪いのはどうしてなんでしょう?効率化して企業は大もうけしてるのに、
給料は一向に上がらないし、まったく不思議です。たぶん、効率化が足りないのでしょうね。
25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/18(土) 00:20:37 ID:le9DwfDU
商品の品質が悪くなり、サービスも悪化し、店先でも銀行の窓口でも、まるで
昔の役所のように行列が絶えなくなりました。しかも、4時55分になると
カウンターには「受付終了」の札が掲げられ、また明日の朝並び直さなければ
なりません。効率化したはずなのに、私たちの暮らしはどんどん不効率になって
いるような気がするのはなぜなのでしょう?
どうも「気分」だけの話でもないようです。統計がないのでよくわかりませんが
物の値段がだんだんと上がってきたような気がします。人に聞いてみても、どうも
どんな商品・サービスでも同じような調子で値上がりしているようなのです。昔なら
消費者物価指数という便利な物がありましたからどのくらい平均価格が上がっているか
分かったのでしょうが、今では「一般物価などという存在しないものの価格などを云々
するのは、経済学の残滓、その中でもとくにたちの悪いマクロ経済学の残滓だ」とみんな
でも、日々の取引に必要なお金の量が増えてきているのは間違いないのです。昔、あの役立たずの
経済学者がマクロ経済学などを得意げに吹聴していた時代と違い、今は堅実な実務家の時代です。
お金が不足しているなら、日銀は気前よくどんどんお札を刷ってくれます。おかげで、増えている毎日の
決済は滞り無く済んでいます。
でも、、、なぜかはわかりませんが、お金は増えているのに、まだお金が足りないのです。。。
頭の中で何か壮大な真理を見つけたつもりかもしれないが、その主張はほとんど自己放尿レベルの思考放棄だ。
自分でズボンを濡らしておいて「社会は濡れている!」と叫んでいる構図である。
貴様は資本主義では労働者は金持ちのために働かされていると言う。しかし市場経済では、人は自分の利益のためにしか働かない。これが第一原理だ。
企業が労働者を雇う理由は単純だ。生産性が賃金より高いからだ。だが同時に、労働者が働く理由も同じくらい単純だ。賃金が労働の不快より高いからだ。
ところが現実の労働市場では、人はより条件の良い企業へ移動する。賃金は競争で決まる。ここを無視して「奴隷だ」と言うのは、経済構造を理解せずに世界観だけで語る典型的な知的自己放尿だ。
これはさらに派手な自己放尿だ。なぜなら、子供は親にとっての投資でもあり消費でもあるからだ。
一つ目は単純な効用。人は子供から幸福を得る。これは犬を飼うのと同じく、経済学では正当な選択だ。外部の観察者が「合理的でない」と言う資格はない。
二つ目は家族単位の経済。歴史的には子供は労働力だった。農業社会では普通に生産要素だ。つまり「労働者が子供を作るのは不合理」という発想自体が、歴史を知らない机上の自己放尿。
三つ目。これが一番重要だ。人的資本だ。教育された子供は将来の所得を生む。そして市場経済では、人の技能こそ最大の資本だ。実際、先進国の富の大部分は工場ではなく人間の能力から生まれている。
もし本当に「労働者が子供を作らなければ金持ちが困る」という世界なら、労働者は市場で極めて強い交渉力を持つ。
労働供給が減れば賃金は上がる。人口が減ると労働者の価値は上がる。これは基本的な需要供給だ。
つまり貴様の理屈をそのまま受け取ると、「労働者は子供を作ることで自分の価値を下げている」という話になる。
だが実際の歴史を見ると逆だ。人口が増えた社会は生産性を上げ、技術を生み、全体の所得を押し上げてきた。
つまり現実の世界はこう動く。人が増える→ アイデアが増える→ 生産性が上がる→ 賃金も上がる
「金持ちだけが得をする」という見方は、経済をゼロサムゲームだと誤解している。この誤解こそ典型的な自己放尿だ。
貴様が労働者は奴隷だと感じるのは自由だ。しかし市場は感情では動かない。現実のデータを見ると、資本主義の国ほど寿命も所得も教育水準も高い。つまり貴様の世界観は統計の前で自己放尿しているだけだ。
市場のことをロクに知らない連中ほど「自給自足こそ理想社会だ!」などと叫ぶ。
だが価格理論で見れば、そんなものは高尚な思想でも倫理でもない。単なる自己放尿だ。
人間社会は分業で豊かになる。これは経済学の基礎中の基礎だ。人はそれぞれ比較優位を持つ。誰かは米作りが得意で、誰かは機械を作るのが得意で、誰かはソフトを書くのが得意だ。
市場ではその情報が価格メカニズムに凝縮される。価格は単なる数字ではない。情報の伝達装置であり、インセンティブ装置であり、資源配分の信号だ。
つまり市場は自動操縦装置だ。ところが自給自足論者は何を言うか。
おいおい、勘弁してくれ。それは価格システムの情報を遮断する自己放尿だ。
分業の利益を意図的に破壊する行為であり、比較優位を無視した資源配分であり、巨大な死重損失の発生装置だ。
自給自足の社会では、農業も工業もエネルギーも全部国内で賄おうとする。するとどうなるか。
生産規模は小さい、技術進歩は遅い、コストは高い。トリプル放尿である。
価格理論の言葉で言えば、規模の経済が崩壊する。その結果、社会全体の厚生は落ちる。
それでも自給自足論者は満足げに言う。
「我々は独立している!」
だが実際にはどうか。世界市場という巨大なネットワークから切り離され、小さな閉鎖経済の中で資源を無駄遣いする。
世界という大河の流れの中で、わざわざ自分の足元に向かって自己放尿しているようなものだ。
経済学はインセンティブ分析を重視する。人は善意ではなく、インセンティブに反応して行動する。
自由貿易ではどうなるか。企業はより安く作ろうとする。技術革新が起こる。生産性が上がる。
ところが自給自足政策ではどうなるか。関税、補助金、輸入規制のトリプル放尿。つまり政治市場が介入する。
企業は効率ではなく、ロビー活動に資源を使う。これを何と言うか。レント・シーキングだ。
つまり自給自足政策は、効率的な市場競争を壊し、政治的利益配分ゲームに変える。
そして言っておく。自由貿易とは理想論ではない。むしろ現実的な制度設計だ。
分業を拡大し、価格情報を活用し、個人のインセンティブを社会的利益に結びつける。
それが市場経済だ。自給自足はその逆だ。情報を遮断し、比較優位を無視し、政治的利権を増やす。そして社会全体で貧しくなる。
以上だ。
若い世代だけでなく40代・50代も「リベンジ退職」 引き金は「黒字リストラ」か?
経営は黒字だが、値上げするというと顧客からの反発が恐いので廃業する。
仕事量を調整して貰えるなら残ってもいいが、上司や同僚からは理解を得られないので退職する。
皆が祝ってくれる世の中なら少子化も止まるかもしれないが、苦しむだけの世の中なら物語の続きは必要ない。
資本主義だとか、市場経済だとか人々は説明するが、もし本当にそうならば不自然な点はいくつもある。
クレーマーは無視し、値上げして、それでも価値を感じてくれる優良顧客を残せばいい。
働きに応じて給料や仕事量を調整し、本当に残ってほしい人員を見極めればいい。
学校へ行くのに高い教育費が必要なら、そんなもの止めてAIに何でも訊いてみればいい。
おかしなことだ。需要と供給なんかより、お客様は神様だとか、年功序列だとか、シグナリングだとか、
合理性とはかけ離れたよくわからない言葉に人々は支配されている。これが欺瞞でなかったら何なのか。
ケインジアン的自己放尿物語では、インフレは総需要を刺激し、産出と雇用を増やす。
だがこれは価格理論を軽視したマクロ自己放尿である。シカゴ学派の立場から言えば、問題は名目ではなく相対価格であり、労働市場の均衡は実質賃金 ( w/P ) によって決まる。
w = P ・ MPL
すなわち
である。企業は名目賃金 ( w ) ではなく実質賃金 ( w/P ) に反応する。したがって、予期されないインフレが発生し、価格水準 ( P ) が上昇する一方で名目賃金 ( w ) の調整が遅れれば、短期的には
w/P ↓
となる。これは企業から見れば労働が「安くなった」ことを意味し、労働需要が増加する。結果として雇用 ( N ) は増え、失業率 ( u ) は自然失業率 ( u^* ) を下回る。
だが、ここで重要なのは、この現象が実物的基礎によるものではないという点である。これは貨幣錯覚と情報の不完全性に基づく一時的な自己放尿にすぎない。
π = π^e - α (u - u^*)
ここで
( π ):実際のインフレ率
( π^e ):予想インフレ率
( u ):失業率
失業が自然率を下回るのは、実際のインフレが予想インフレを上回るときだけである。すなわち
π > π^e
の場合のみ。しかし、合理的あるいは適応的期待の下では、労働者はやがて学習する。名目賃金交渉はインフレ率を織り込む。その瞬間、
u = u^*
に戻る。長期フィリップス曲線は垂直である。つまり、インフレ政策は持続的に失業を下げることはできない。
できるのは、予想を裏切ることによる一時的な錯誤の利用だけである。そしてその利用は、次第に高まるインフレ率を必要とする。これは加速的インフレ仮説である。
インフレによる失業低下は、実質賃金の一時的低下に依存している。
だがそれは労働者が実質所得を失っていることに気づいていない間だけ成立する。
これは、寒さをしのぐために自己放尿する行為に似ている。最初は温かい。だがやがて凍る。しかも前より悪化する。
1. 予想外インフレ
2. 実質賃金低下
4. 期待修正
これは実体経済を強くしたのではない。単に価格シグナルを歪めただけだ。
価格は情報を伝達する自動操縦装置であり、それを攪乱すれば資源配分は歪む。
中央銀行がルールではなく裁量で行動し、短期的な雇用改善を狙えば、最終的にはスタグフレーションを招く。1970年代はその自然実験であった。
長期では、労働市場の均衡は実物的要因(人口構造、労働摩擦、制度的歪み)によって決まる。貨幣は名目変数を変えるだけで、実物変数には中立的である(長期貨幣中立性)。
「インフレで失業が減る」という命題は、実質賃金が一時的に下がるからという価格理論的説明に還元される。
そしてウケを売る行為は、しばしば論理を売り払う行為とセットになる。
つまりポピュリズムとは、価格メカニズムではなく感情メカニズムに最適化した政治的アルゴリズムであり、その本質は整合性の破壊だ。
ここで重要なのが、長年の発言記録との整合性である。これは単なる人格チェックではない。これは政治家の政策ルールが本当にルールとして機能しているかを検証する、極めて合理的な監査装置だ。
要するに、整合性の欠如は情報の欠如ではない。インセンティブ設計の破綻である。
ポピュリズムの政治家は、基本的に人気最大化という目的関数を持つ。これは市場で言えば、短期売上だけを最大化する企業と同じだ。
すると当然、政策は長期の制約条件ではなく短期のスローガンに変換される。
結果として起きるのは何か。政策が一貫した因果モデルに基づかない。つまり、昨日の主張と今日の主張が同時に成立しない。
これは単なる矛盾ではない。理論なき裁量であり、言い換えれば政治版の自己放尿だ。
自己放尿とは、現実の制約条件を無視して気持ちいい物語を垂れ流す行為である。
さらに悪いのは、本人がそれを政策だと思い込んでいる点だ。これはもはや合理的期待形成を破壊する、純度100%の自己放尿である。
ルールに基づく政策は、予測可能性を供給する。予測可能性は、経済主体の期待を安定させ、インフレ期待や金利プレミアムを抑制する。
つまり裁量政治とは、期待形成にノイズを注入する行為であり、マクロ経済のトランスミッションメカニズムを破壊する行為である。
なぜなら人気最大化は、政策ルールではなく、世論調査という外生ショックに反応するリアクティブ関数だからだ。
期待を破壊する自己放尿であり、信頼を燃料にして走る社会のエンジンに砂糖水を入れるようなものだ。
発言記録とは、政治家が過去に市場へ提示した政策コミットメントの履歴である。
整合性がある政治家は、少なくとも自分の中に因果モデルを持っている可能性が高い。
つまり、発言記録の矛盾は、思想の進化ではなく、選好の不安定性を示す。
整合性がない政治家は政策を語っているのではなく広告コピーを更新している。
これは政治の皮を被ったマーケティングであり、政策の皮を被った自己放尿である。
ポピュリズムがなぜ矛盾しやすいか。答えは単純で、制約条件を無視するからだ。
財政制約、政府の予算制約、インフレ制約、国際収支制約、資本逃避制約、人口動態制約。
ところがポピュリズムは、これらを説明が難しいからといって無視する。
つまりポピュリズム政治家は、社会を舞台にした報酬最大化エージェントであり、政策はただの行動ログだ。
ここまでくると国民のためではなく支持率のための自己放尿である。
そして最悪なのは、国民がその自己放尿を優しさと誤認することだ。
こいつは嫌いだという情緒の話をしている時点で、すでに相手の土俵に乗っている。
つまり過去の発言との整合性という監査フレームを社会に導入することだ。
整合性チェックは、ポピュリズムの最大の武器である記憶の短さを破壊する。
昨日「金融緩和は危険」と言い、今日は「景気のために緩和」と言う。
昨日「市場は信用できない」と言い、今日は「株価を上げろ」と言う。
さらに言えば、整合性チェックは政治家の言葉の価値を市場価格のように評価する行為だ。
発言に一貫性があるなら、その政治家の発言は信用プレミアムを得る。
政府が何かをすることよりも、むしろ政府が予測不能に動くことへの懸念が市場にはある。
計画を破壊すれば投資は減り、成長率は落ち、インフレ期待は歪み、通貨は弱くなる。
「状況に応じて柔軟に対応します」という言葉は、聞こえは良いが、実態は裁量主義の免罪符である。
そして裁量主義の帰結は、政治家の自己満足と国民の負担のダブル放尿である。
ポピュリズムは、短期の人気を最大化するために、長期の整合性を捨てる。
気分が政策になると、社会は不確実性プレミアムを支払うことになる。
そしてそのコストは、増税でも国債でもなく、最終的にはインフレか成長停滞として国民が払う。
「何を言ったか」を覚えること。
「何を言い続けているか」を照合すること。
それは、政治家に対する最も安価で最も強力な市場規律であり、ポピュリズム自己放尿を干からびさせる、最小政府的な防衛装置なのである。
「保険営業=無駄」という直感からスタートしてるけど、結論が国家による情報統制と競争排除になってて、経済学的には完全に自己放尿だ。
理論的には、検索コストがゼロで、商品が完全に標準化され、情報が完全で、消費者が合理的で、契約が完全なら営業はいらない。
免責、支払条件、例外条項、告知義務、更新、解約返戻、税制、付帯サービス。
つまり保険は情報の非対称性と契約設計の産物であり、ここを無視して「営業ゼロ」は自己放尿。
次に「国営にすればいい」という主張。
これが典型的な無駄を減らすために独占を作るという自己放尿だ。
独占は価格競争を消す。
そして肥大化した官僚組織は、自分の存在理由を作るために新しい規制と書類を増やす。
これが「政府が無駄を減らす」と言いながら無駄を増殖させる、国家規模の自己放尿メカニズムだ。
政治的配分だ。
ブルシットが消えるんじゃなく、ブルシットが公務員化するだけ。自己放尿の公営化。
そして「デジタル庁で価格.comを作る」「フォーマット強制」「広告禁止」という主張。
でも結論が「競争禁止」「言論禁止」「第三者サイトを殺す」で、完全に全体主義的自己放尿だ。
もちろん誇大広告や詐欺は規制すべきだが、「広告禁止」は情報流通を潰す。
市場の競争圧力を消して「安くなるはずだ」は、根拠ゼロの自己放尿だ。
それは「比較サイト」じゃない。
ただの国家による標準化された販売窓口であり、実態は情報の単一化だ。
しかも「第三者がサイト作ったら殺す」って、冗談だとしても思想として終わってる。
それは市場経済の否定であり、自由社会の否定であり、情報市場の破壊だ。
政府に比較サイト独占を与えるのは、腐敗のライセンスを渡す自己放尿。
だが政府独占では淘汰が起きない。
1社でいいなら、その1社は競争がない。
独占の本質は「逃げ道の消滅」であり、逃げ道が消えた市場は市場ではない。自己放尿の固定化だ。
最後に「事務手続きだけなら歩合制いらない」も部分的には正しい。
顧客獲得コストと、顧客教育コストと、情報伝達コストがあるからだ。
それを全部「ゼロにできる」と言うなら、必要なのは国営化ではなく、
「契約の標準化(透明性向上)」「 比較可能性の向上(情報開示ルール)」「詐欺・誇大広告の規制」「参入障壁の削減」
「営業が嫌い」から始まって、最終的に「国家による競争排除と情報統制」に着地しているようだが、これは市場の失敗を治すどころか、市場そのものを殺して、非効率を制度化する自己放尿だ。
政府の役割は競争を破壊することではない。競争が成立するルールを整備することだ。
佐藤一光
@kazzuaki
以前なら治せなかった病気が治せるようになること(ただし金はかかる=資源投入は増える)、これは経済発展の帰結というか、これこそが経済発展。にも関わらずなぜ医療費は叩かれるか。
・非生産説。古典的な経済感には生産的である産業と、非生産的な産業があるとされた。政府部門、医療は非生産的と見るのが伝統的な見解。財政学はそれに反対して政府部門、医療を生産的と考えた。
※現代のマクロ経済統計(国民経済計算=SNA)では、全ての産業は付加価値を産むとされている。
・いわゆる医療費亡国論が1980年代から唱えられるようになった。当時の厚生省には、大蔵省からの突き上げもあったのだろうと思う。その結果、産業として育成するという契機を逃してしまったのではないか。
・私的所有が全面化し、市場経済が社会を覆うようになると、他者への支出=公共政策への嫌悪感が広がる。この嫌悪感への後付けとして、理由が考えられるようになる。それは公共政策としてふさわしくないよ、と。
参考資料は吉村仁厚生省保険局課長の1983年の論考「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方」。
なぜなら、リフレ派の政策パッケージは、表面上は景気刺激・需要創出・デフレ脱却といった衛生的な言葉で包装されながら、その実態は貨幣価値の毀損によって実質所得を目減りさせ、価格体系にノイズを混入し、資源配分のシグナルを攪乱するという、極めて原始的な自己放尿だからだ。
つまり、自分で自分の経済秩序に放尿し、そのぬくもりを成長と誤認している。
短期の体感的な暖かさと、長期の構造的な悪臭を取り違える。この倒錯が、まさに自己放尿という比喩の本体である。
インフレをもって失業を恒常的に減らせるという発想自体が、貨幣錯覚と期待形成の理解不足を露呈している。
短期的なフィリップス曲線の傾きに陶酔し、長期的な自然失業率仮説を軽視するのは、政策当局が持つ万能感の自己放尿だ。
失業率を押し下げたように見える局面は、名目賃金の調整遅れによって実質賃金が一時的に下がり、企業が雇用を増やすからに過ぎない。
しかし人間は学習する。期待は適応し、やがて合理的に形成される。すると名目賃金はインフレ率を織り込み、実質賃金は元に戻り、失業率は自然率へ回帰する。
残るのは、より高いインフレ率だけだ。つまり、短期の景気の幻影と引き換えに、長期の貨幣の信認を燃やす政策、つまり自己放尿である。
ここで重要なのは、リフレ派がしばしば語る「需要不足」という呪文が、実際には価格メカニズムへの不信と、政府の裁量的介入への信仰を伴っている点だ。
市場は情報処理装置であり、価格体系は分散知を集約する通信網である。インフレ誘導政策とは、その通信網に意図的にジャミングをかける行為だ。
相対価格の変化が実需の変化なのか、貨幣供給の膨張なのか、判別がつきにくくなる。すると企業は投資判断を誤り、資本は生産性の高い用途ではなく、政治的に都合のよい用途へと誤配分される。
これは景気対策ではなく、情報構造の自己放尿である。貨幣は交換の媒介であると同時に、経済計算の単位であり、信頼のインフラである。その基盤を弄るのは、社会の計算機をわざと故障させるようなものだ。
にもかかわらずリフレ派がインフレを好むのは、政治的には極めて合理的だからだ。
インフレは目に見えにくい課税、すなわちインフレ税であり、議会で明示的に増税を決めなくても、実質債務負担を軽くし、政府支出の実質的な財源を捻出できる。
これは透明な財政規律を回避するための抜け道であり、財政民主主義の迂回路である。税を上げれば反発されるが、貨幣価値を薄めれば、責任の所在が曖昧になる。
政治家にとってこれほど魅力的な政策ツールはない。だからこそ、これは市場経済のロジックではなく、権力装置の自己放尿に属する。
この点で、リフレ派の思想はしばしば権威主義左翼の症状を帯びる。
ここで言う左翼とは、国家の配分機能を強く信じる立場、すなわち政府が資源配分の最適化を担えるという計画主義的傾向を指す。
そして権威主義とは、政策の失敗が市場の自己調整ではなく、さらなる介入によって修正されるべきだという態度である。
実際、インフレが想定より進めば「企業の便乗値上げが悪い」と言い、賃金が追いつかなければ「企業が内部留保を溜め込むのが悪い」と言い、通貨安が進めば「投機筋が悪い」と言う。
つまり市場のシグナルを受け止めて制度を改善するのではなく、市場を道徳裁判にかけ、敵を作り、統制を強める方向へと滑って自己放尿していく。
ここには、自由市場の自己調整メカニズムへの敬意がない。あるのは、望ましい結果を国家が設計できるという傲慢な自己放尿だけだ。
さらに言えば、リフレ派の「デフレが悪でインフレが善」という二元論は、貨幣現象を倫理化する典型的な誤謬である。
インフレ率の水準そのものが善悪を持つのではなく、重要なのは貨幣制度の予測可能性とルールの信頼性だ。
裁量的なマクロ操作の万能性ではなく、むしろその危険性である。中央銀行が景気を微調整できるという発想は、知識の分散と政策当局の情報制約を無視している。
政策当局は遅れて統計を見て、遅れて判断し、遅れて実行し、その効果はさらに遅れて出る。そこにはラグがあり、過剰反応があり、政治的圧力がある。
結果は、景気安定化ではなく、景気悪循環の増幅である。貨幣政策を景気刺激のレバーとして扱うこと自体が、制度の誤用であり、中央銀行を政治部門に従属させる自己放尿である。
リフレ派の自己放尿とは、実体経済の生産性改善や規制改革、労働市場の柔軟化、企業統治の改善といった地味で不快だが本質的な処方箋から逃げ、貨幣という最も手軽な幻術で現実を上書きしようとする自己放尿を指す。
インフレで名目成長を演出し、実質的な負担を薄め、政治的な痛みを先送りする。これは市場の問題解決ではなく、政治の問題隠蔽である。
そして問題を隠すには、権力が必要になる。価格が語る真実を黙らせるには、統制が必要になる。
だからリフレ政策は、経済政策の顔をした権力技術へと変質する。自由な価格体系を信じず、貨幣をいじり、結果が悪ければ市場を非難し、さらなる介入を正当化する。
市場経済において最も重要なのは、成長率の見かけの数字ではない。価格が正しく機能し、貨幣が信頼され、契約が予測可能であり、資本が生産性へ向かって流れる制度環境である。
リフレ派の自己放尿は、その制度環境を自ら汚しながら、汚れた水たまりに映る短期の光を成功と誤認する現象だ。
連中はインフレという麻酔薬で痛みを消しているだけで、病気を治してはいない。そして麻酔が切れたとき、残るのは依存と副作用と、より強い麻酔を求める政治的自己放尿である。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」★★★
フィリッパ・ペリー「身近な人間関係が変わる 大切な人に読んでほしい本」
宇佐和通「AI時代の都市伝説: 世界をザワつかせる最新ネットロア50」
深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす! 深津式プロンプト読本」
大宮冬洋「人は死ぬまで結婚できる 晩婚時代の幸せのつかみ方」
飯田一史「「若者の読書離れ」というウソ: 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか」
セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ「誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性」★★
恋紙屋「夜にバニーは(ベッドで)跳ねる」
「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」於・松濤美術館。
「新江ノ島水族館」
やっぱりエーリッヒ・フロムはいい。たぶん自分が特に気に入っている思想家だ。
このあたりからスピリチュアリズム、自己啓発の背景にある思想とその明暗をテーマに本を選び始める(陰謀論まで行っちゃったのも含めて)。
多分最後にSF小説を読んだのはこのあたり。SFっぽい漫画は読むことがあっても小説は読んでいない。新人賞を追うのも去年あたりでやめている。
余談だが、自分が好きなSFは科学や技術、それから人間の未来を選ぶ力を信頼したものだった。もちろん、社会学的なものや悲観的なものも大好きだが、それらはどちらかと言えばaquired tasteである。一番深く心が動くのは前者だ。
ところで、わざわざ買った同人誌をメモしてもしょうがないかもしれないが、書かないにもなんだか居心地が悪い(記録魔)。
岡奈津子「新版〈賄賂〉のある暮らし 市場経済化後のカザフスタン」★
アナ・カタリーナ・シャフナー「自己啓発の教科書 禁欲主義からアドラー、引き寄せの法則まで」
ジェイムズ D.スタイン「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」★★
尾崎俊介「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」★★★
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ」六巻
岩宗治生「ウスズミの果て」一巻~三巻
こるせ「伽藍の姫」一巻~二巻
岩宗治生「ウスズミの果て」 四巻
肋骨凹介「宙に参る」五巻
「NHKスペシャル 堺雅人が巡る古代エジプト!ピラミッド透視とツタンカーメンの謎」
「NHKスペシャル 堺雅人が巡る古代エジプト!謎の王ブラックファラオの実像に迫る」
「ニーア・オートマタ End of Yorha edition」(XYエンド以外回収)
「彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術」於・アーティゾン美術館。
「コレクション展 第2期 特集:新収蔵作品のご紹介」@岩手県立美術館
小岩井農場まきば園
八月は読んだ本が少ない。普段通勤時間に本を読んでおり、お盆休みがあったためだ。
代わりにというわけではないが、ちょうどゲームをクリアした。普段ゲームをしないので難易度を下げて楽しんだ。別にやり込みたいわけではなく、ストーリーを終えればそれでいいと感じている。だが、自分の人生でゲームは必須の要素ではない気がする。
ところで、数年ぶりに(十年近い?)アニメを見たのだが、これはたまたまコロナから避難するために泊まったホテルで視聴した。一話完結だし、青春時代を思い出すし、あまり疲れない。テレビ番組が記載されているのは、自分がテレビを見る頻度の少なさを示している。
レト・U. シュナイダー「続 狂気の科学: 真面目な科学者たちの奇態な実験」★★
トーマス・トウェイツ「人間をお休みしてヤギになってみた結果」
中村圭志「亜宗教 オカルト、スピリチュアル、疑似科学から陰謀論まで」★★★
ロジャー&チャーリー・モーティマー「定職をもたない息子への手紙」
烏谷昌幸「となりの陰謀論」
今井むつみ「「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策」
岡瑞起、橋本康弘「AI時代の質問力 プロンプトリテラシー 「問い」と「指示」が生成AIの可能性を最大限に引き出す」
山本栄二、中山雅司「国連入門 ――理念と現場からみる平和と安全」
瀬野反人「ヘテロゲニア リンギスティコ 〜異種族言語学入門〜」一巻。
ヤン・シュヴァンクマイエル「蟲」@シアター・イメージフォーラム
「大長編 タローマン 万博大爆発 TAROMAN」@TOHOシネマズ 渋谷
皇室の文章は結構フランクで楽しい。あと、著者略歴に「二〇一九年、即位」と書かれていて、何も間違っていないのにレア過ぎてちょっと笑ってしまった。
僕は超細密画はあまり評価していないのだが、諏訪敦は結構気に入っている。たぶん作品に取り組む姿勢やモデルに対する丁寧な態度が好きなんだろう。それから、母を亡くして、具象表現ができなくなったらしい。残酷な言い方が許されるならば、芸術家が傷ついたり何かを学んだり、逆に精神が安定してして作風が変わってしまう瞬間に、とても興味がある(藤田嗣治が戦後に人工的な人形のような子供たちばかり書くようになった契機が知りたいし、精神が穏やかになった後のムンクの作品にも関心がある・結婚後にシーレの作品が良識的になってしまったのにも)。
今月は久しぶりに映画が見られてうれしい。シュヴァンクマイエルの作品は自分の過去の作品を解体し、評論するような内容だった。
高野秀行「酒を主食とする人々 エチオピアの科学的秘境を旅する」
島本英明「もっと知りたいモディリアーニ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
新見隆「もっと知りたいイサム・ノグチ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
末永幸歩「「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考」★★★
今泉忠明 (監修)「おもしろい! 進化のふしぎ ざんねんないきもの事典」
高野秀行は定期的に読んでいる。アート・ビギナーズ・コレクションも定期的に読みたくなる。次に何を読むか迷ったときに重宝する。ただし、美術館に行く途中で読むと、なんだか美術鑑賞に向けるエネルギーをそこに分けなきゃいけない感じがしてしまう(図書館で借りているので読むタイミング的にそうなることがある)。なお、このシリーズは冊数が多い割には下山観山や英一蝶の巻がない。あと、本によっては作者の思想がすごく偏っている。
松井文恵、安田茂美「写実絵画とは何か? ホキ美術館名作55選で読み解く」
ジョナサン・カラー「文学理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)」
秋月龍珉「無門関を読む」
アンドリュー・スチュワート「情報セキュリティの敗北史: 脆弱性はどこから来たのか」★
尾崎俊介「ホールデンの肖像 ペーパーバックからみるアメリカの読書文化」★★
六畳「××××の結果で×××する××」(苦手な人がいるだろうと思うので伏字)
「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」於・東京ステーションギャラリー
「CREVIA マチュピチュ展」於・森アーツセンターギャラリー
30周年記念展「ALL OF EVANGELION」於・東京シティビュー
平等院鳳凰堂、鵬翔館、宇治神社、宇治上神社、源氏物語ミュージアム。
「知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!? ヒトはなぜ音楽を愛するのか」
自分は欲望をコントロールできず、性欲などに負けてしまう人間の話が好きだ。現実の生活では正しくいるよう求められるのだから、せめて虚構の中では人間のダメさを許してほしい。そうでなければ、現実世界で良識を守れない、とまではいわないが、ダメな人をダメなまま表現されていると、それを読むことで、何か許されたような気持ちになれる。
他には禅問答について読んでいる。
あと、尾崎俊介がロマンス小説について述べているあたりが面白かった。なんでジェンダー平等が叫ばれる時代に、一見するとあえて古典的に見えるストーリーが必要とされているか、一つの知見を得た。
J. R. R. Tolkien「The Hobbit」Harper Collins Publishers。和書文庫換算二冊。★★★
尾崎世界観「祐介・字慰」★
丸谷才一「輝く日の宮」★★
「ファーストコンタクト 窓口基作品集 【電子コミック限定特典付き】」
「落下の王国 4Kデジタルリマスター」於・ル・シネマ 渋谷宮下。
丸谷才一が相変わらず面白かったので(僕はメタフィクションが好きだ。時にはわざとらしくなってしまったり作者の自分語りに堕したりするリスクもあるが、うまくいくとこれは気持ちがいい)ブコメで進められた全集を手に取ろうとしたら、地元の図書館にはなかった(正確には、引っ越す前の自治体のにはあった)。さてどうしよう。
洋書を読み始めた。あらすじは覚えているが細部はよほど印象的なシーンでないと覚えていない。
トールキンの場合、樹木の描写が細かく、いろんな種類の木が出てくるのだが、そもそも僕のほうが樹木の知識に乏しく、和訳を読んでも細かくイメージできない(束教授ごめんなさい)。児童文学とは言え、二世代前の英語なので語彙やスペルが違うし、手加減せずに平気で難しい言葉を使う。
「ナルニア」を読んだときも、例えば身近でない船舶の部品などの語彙で苦労した覚えがある。
窓口基は暴走するテクノロジーや世界観の考察を楽しんだ。SFが好きだったもう一つの理由であり、一番ワクワクするところだ。この人はグロやゴアも書けるらしいのだが(なんにでも科学的な興味がありすぎて、人体を破壊可能な一つの素材として見てしまっているのかもしれない)、「苦手な人はこの先読まないで」と警告できるので、自分の狂気をコントロールできるタイプの人であり、そこが好印象。
ケーブルテレビで「その着せ替え人形は恋をする」をやっていたのだが、感傷マゾを発症しなかったのは、僕の精神が変化したからかもしれない。原作の漫画を買おうかとも思ったが、実はそこまでコスプレに興味がないと思い直した。そもそも年末年始に向けて漫画をセールで買い込んだが、トールキンを読み続けており、全然手を付けていない。
漫画は小説と同じで、長編を読むには訓練がいる。ご覧の通り短編集や一話完結ものばかり読んでいる。
来年は「指輪物語」の原書を読み終えたら、国連や政治学、第二次世界大戦の日本軍、それから依存症のあたりの知識の補足がしたい。あとは意識の科学だなあ。
洋書だとどうしてもペースダウンする。開き直って冊数を気にしないようになれそうだ。あとは、トールキンを読み終えたらドイツ語をやりたい(言うだけならタダ)。
実際にドイツ語をやるかどうかはともかく、読書記録を始めたのは大学に入ってから二十年、知的な本を読もうと志してからはもっと経過している。いたずらに、明確なゴールもなく、知識を得続けようとする行動パターンに変化が欲しい。美術館についても、あまり行かない場所や行ったことのないところに行きたい。(ただしドイツ語をやって何かの原書に挑戦したら一年がかりのプロジェクトになりそうで、そうなると知識の習得には多大な遅れが発生する)
カテゴリの[読書]をクリックすれば2020年まで読めます。m(__)m
ただし、全てが自分の物ではありません。
被治者が統治者に従属したがってるかどうかって、統治者の夢かどうかと関係ないでしょ。
侵略された側の意にそぐわないとしても、それと国際法的な正当性はあんま関係無いし、まして侵略者の夢かどうかといったら嫌がる奴を支配する方が夢っぽいじゃん。
被治者が嫌がってるかどうかの話、たぶんアメリカ人の4割くらい(民主党支持者)はトランプに統治されるの嫌がってるけど、でもそれトランプ政権の正当性に関係無いよね。
台湾占領がコスパ悪いって主張なんだとしたら、中共の市場経済と自由主義諸国の市場経済って今はもう互換性が高いから、武装解除しちゃえばそこまで高コストじゃないし(例:香港)、台湾は島だけでなくシーレーンや太平洋への出口としてのパフォーマンスもある。
あと、歴史上の正当性が無いって、一体何を根拠にそんなこと言ってるの?漢王朝の後、三国時代を挟んで晋が中国を支配したのは正統性あると思う?
なんかさ、中華人民共和国が台湾島を支配しようとすることが気に食わないし台湾島住民の意思にも反してるっていう話と、それが国際法上認められるかって話と、それが中華人民共和国にとって利益になるかっていう話を混同してるよね。
第1章の超詳細解説です。
(※章分けは代表的な版の構成に基づいています。版により細部がずれる場合がありますが、タタルスキーの物語の最初の区切りとして扱います。)
⸻
🟥 第1章:タタルスキーの転落と“資本主義の匂い”との最初の接触
⸻
◆ 概要
タタルスキーが ソ連から資本主義ロシアへ放り出されて生き残りに苦しむ様子が描かれる章。
彼が広告業界に足を踏み入れる“きっかけ”がここで与えられる。
物語全体の導入として、
・新世界への戸惑い
が非常に濃く提示される。
⸻
• 毎日ただなんとなく過ぎていく
彼は“旧イデオロギーの残骸”を引きずるまま、新しい価値観に適応できない。
「Vladimir Ilyich Lenin」の略 = ソ連の遺物
• それが今、何の役にも立たない
旧ソ連の精神が、資本主義ロシアで役に立たないという象徴がこの章の基調。
⸻
◆ 2. タタルスキー、知人と再会
物語の転機は突然訪れる。
タタルスキーは偶然、大学時代の知人である ゴリンスキー と再会する。
• 良い服
• 太った財布
• 余裕のある態度
を身につけている。
この再会は、タタルスキーの“観念の崩壊”をさらに加速させる。
⸻
彼が困窮していることを察すると、こう言う――
「コピーライターをやってみろ。
• とにかく広告が足りない
• 給料は今の何倍にもなる
⸻
この章のクライマックスは、タタルスキーがゴリンスキーと座る店の描写。
タタルスキーはそこではじめて、
を肌で感じる。
この「世界が広告になる」という感覚は、後半で国家レベルのメディア操作へ発展していく伏線。
⸻
• 興奮:言葉を使って金を稼げるかもしれない
タタルスキーは、
⸻
◆ 6. 第1章まとめ(象徴的整理)
項目 内容
タタルスキーはこの章で、
これが全編を貫くテーマの萌芽となる。
第1章の超詳細解説です。
(※章分けは代表的な版の構成に基づいています。版により細部がずれる場合がありますが、タタルスキーの物語の最初の区切りとして扱います。)
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🟥 第1章:タタルスキーの転落と“資本主義の匂い”との最初の接触
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◆ 概要
タタルスキーが ソ連から資本主義ロシアへ放り出されて生き残りに苦しむ様子が描かれる章。
彼が広告業界に足を踏み入れる“きっかけ”がここで与えられる。
物語全体の導入として、
・新世界への戸惑い
が非常に濃く提示される。
⸻
• 毎日ただなんとなく過ぎていく
彼は“旧イデオロギーの残骸”を引きずるまま、新しい価値観に適応できない。
「Vladimir Ilyich Lenin」の略 = ソ連の遺物
• それが今、何の役にも立たない
旧ソ連の精神が、資本主義ロシアで役に立たないという象徴がこの章の基調。
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◆ 2. タタルスキー、知人と再会
物語の転機は突然訪れる。
タタルスキーは偶然、大学時代の知人である ゴリンスキー と再会する。
• 良い服
• 太った財布
• 余裕のある態度
を身につけている。
この再会は、タタルスキーの“観念の崩壊”をさらに加速させる。
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彼が困窮していることを察すると、こう言う――
「コピーライターをやってみろ。
• とにかく広告が足りない
• 給料は今の何倍にもなる
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この章のクライマックスは、タタルスキーがゴリンスキーと座る店の描写。
タタルスキーはそこではじめて、
を肌で感じる。
この「世界が広告になる」という感覚は、後半で国家レベルのメディア操作へ発展していく伏線。
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• 興奮:言葉を使って金を稼げるかもしれない
タタルスキーは、
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◆ 6. 第1章まとめ(象徴的整理)
項目 内容
タタルスキーはこの章で、
これが全編を貫くテーマの萌芽となる。