はてなキーワード: 美術とは
まず、タイトルの内容について訂正がある。
「ともだち」ではなく「悪しからず思っていたが友人を名乗るにはいまいち交流が足りない他人」、「全ア」ではなく「初めての彼氏に浮かれてTPOをわきまえず痛いイチャつき方をしてしまう女オタク」である。あの子は私に何か思うところがあるわけでもないし、エッセイ漫画を描いているわけでもない。「ともだち」の痛々しさを記している増田ではなく、自身の見苦しさを書いた日記であることを事前にばらしておく。
スペックをうpという心づもりで、私とあの子とあの子の彼氏について。
まず、私と彼らは勉学真っ盛りといった様子の冬の高校3年生だ。私についての説明は以下に書くことで伝わると思ったので省略する。
あの子は美術部の同期だ。とても可愛い子だと思っていたが、彼氏ができてからは私の見る目が変わってしまい、魚のような口もエラの張った輪郭も垢抜けない制服のアレンジもどうにも受け付けない。ただ、絵が年齢に見合わないほど上手で、声が愛くるしいことだけは認めるしかなかった。
あの子の彼氏は、この先一生磨かれないであろう原石とでもいうような顔つきで、清潔感は感じないが不細工と切り捨てるにも難しい容姿だった。それよりも中身が気色悪い男で、学タブで前のめりになりながらアイド◯マスターの曲を聞き、鼻息荒く女の肋骨で大根をすりおろすゲームに勤しむ、常識の欠落したポルノ中毒(こいつの上着のポケットからは際どいBLの文庫本が出てくる)のオタク男だった。そんなオタク女とオタク男が付き合った。まぁ納得である。
もちろん私に友人らしい友人はいない。私は女版チー牛というか、ほんの少し言葉を交わした全ての人に恋lv.1みたいな感情を抱いてしまうので、あの子に彼氏ができたと気づいた時はショックだった。唯一の友達候補を嫌いな男に取られたことも、当たり前だが私になんの報告もなかったということも私の心に影を落とした。ただ、これはBSSの一言で片付くような苦悩ではなかった。
一ヶ月前、あの子と彼氏の距離感が急に縮まった。一線を超えでもしたんだろう。あの子が廊下で男と話しているだけでも頭を掻きむしって逃げたくなるというのに、同じ教室で休み時間のたびにバックハグだとか見つめ合って指を絡ませるだとかのハレンチな行為をされてはたまったものではない。あまりに恥ずかしげもなく毎日のように学校デートをするさまは、もちろんのことクラスで浮き、大っぴらに悪口を言うものはいないが誰しも彼らから目を逸らすようになった。元から誰と付き合っているわけでもないのに、1年間半保健室登校をやっていたというだけで誰しもから目を逸らされている私はいっそう苦しくなった。クラスメイトにカテゴライズさせると、私は彼らと同じ枠なのである。たまったものではない。
彼らのイチャつきが激化してしばらくした頃、くじ引き式の席替えがあった。ご想像のとおり彼らは隣同士の席を手に入れ、私はそのすぐ後ろに配置された。今日も男があの子の腹を揉んだ手からプリントを受け取っている。男があの子を膝に乗せているのを目に入れたくなくてうつ伏せで寝たふりを決め込んだところで、摂取しなくては摂取しなくてはと宣いあの子の頭皮の匂いを嗅ぐ男と、きゃあと笑うあの子の声は耳に入ってくる。ああっあっあっと絶頂するかのような声をあげて男が彼女のストールを嗅いでいる。同じひざ掛けにくるまって左右に揺れている。あの子の前歯が飛び出た口に手荒れした指で触れている。私が一体何をしたというのか。あまりにグロテスクだ。
絵に真摯に向き合いコンクールにも優勝する、誰より尊敬していて友達になりたかったあの子が、品性下劣な男に巻き込まれて鼻つまみ物にされるのが耐えられないといえば一見まともらしい。しかしそれ以上に嫌悪と嫉妬が勝り、行動に結びつかない物騒な単語が脳裏によぎることが増えた。保健室登校時代もこんな精神状態をしていた。確かに私の精神は参っていたが、前の席のバカップルが痛くて見苦しいので学校を休ませてくださいなどと言えるはずもなく、帰りのSHが終わったら真っ先にカバンを引っ掴んで早歩きで家に帰ることしかできない。
帰宅して空気の籠もった子供部屋に転がり込んだあとは、ハードな同人音声を求めて浪費を続けた。18歳になったばかりだが、私もポルノ中毒に違いなかった。
下記の文章はフォントの違いに過剰に焦点を当てるのが通常から逸脱しておらず、個性の範疇だとする人の生成した文章ですが、どのようなプロンプトを打った可能性がありますか? ーーー • 「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場を比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的に否定しています。 • 「フォントの違い」を理由にカードを否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています。
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この文章は、Dの行動を「通常から逸脱しておらず、個性の範疇」とみなす視点を含んでいるため、次のようなプロンプトが考えられます。
• 「Dの行動について、認知の問題ではなく個性として解釈できる可能性を考慮して意見を述べてください。」
• 「フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。」
• 「フォントの違いに過剰に焦点を当てる行動が、個性の範囲内と考えられる場合の擁護意見を作成してください。」
• 「Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。」
• 「投稿者の意見を引用しつつ、Dの行動が認知の問題ではなく、個性や価値観の違いに過ぎないとする可能性を検討してください。」
• 「Dの行動が認知の問題とされる根拠を再評価し、別の視点を提示してください。」
• 「フォントの違いを強調する行動が、本質主義や認識論の観点から妥当性を持つと仮定し、その可能性について考察してください。」
• 「Dの行動を、哲学的な視点から擁護する文章を作成してください。」
• 「『A、B、C、D』のケースについて、特定の偏見を避けながら解説し、特にDの行動が否定される理由に疑問を呈してください。」
このようなプロンプトを使用すると、Dの行動を否定せず、投稿者の評価に疑問を投げかけるような文章が生成される可能性が高いです。
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フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。
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フォントの違いに焦点を当てる行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を以下のように評価できます。
1. 個性や価値観の違いとしての解釈
Dが「フォントの違い」に注目する行動は、一般的な基準から見れば些細に思えるかもしれませんが、D自身の価値観や認識フレームにおいては非常に重要な要素である可能性があります。
たとえば、Dがデザインや美的感覚に特に敏感である場合、「フォント」という視覚的特徴をトランプカードの本質的な要素として認識している可能性があります。こうした個性は、社会的なコンテクストによっては特異に見えるものの、必ずしも認知の異常を示しているとは言えません。
2. 価値観の相対性
トランプの「本質」をどう定義するかは、共有された基準によるものの、完全に普遍的ではありません。投稿者はトランプの本質を「スートやランクなど、カードゲームでの機能的要素」としていますが、Dはそこに異なる価値基準(フォントの統一性やデザインの整合性)を置いているだけかもしれません。この場合、Dの認識は単なる「視点の違い」とも解釈できます。
3. 共有基盤の曖昧さ
投稿者は、Dの行動が「共有基盤に欠ける」としていますが、そもそも「トランプとは何か」という定義自体が、すべての人にとって完全に一致しているわけではありません。Dのように、フォントなどの細部に注意を払う人がいることは、社会的・文化的な多様性の一例と考えられます。こうした違いを「認知の問題」と決めつけることは、価値観の多様性を軽視している可能性があります。
4. 投稿者の評価の偏り
投稿者は、A、B、Cのケースに対しては柔軟に評価していますが、Dのケースに対しては厳しい否定を示しています。この評価は、Dの視点を理解しようとする姿勢に欠けているように見えます。
もし投稿者が、Dの行動を「トランプの本質」についての哲学的・文化的議論として捉えていれば、より柔軟な対話が可能だったかもしれません。
5. 擁護の可能性
Dの行動は、一見奇異に見えるかもしれませんが、以下のように擁護することもできます:
• 哲学的視点: Dの発言は、トランプという製品の「本質」を問い直す試みと捉えることができます。「フォント」がトランプの本質に含まれるか否かを議論することで、新たな視点を提供している可能性があります。
• 創造的視点: デザインや細部へのこだわりが、新たなカードデザインの基準や美的価値観を提案するものとして評価できるかもしれません。
結論
フォントの違いに焦点を当てる行動を「認知の問題」として否定するのではなく、個性や価値観の一例として捉えるべきではないでしょうか。Dの視点が文脈によって理解しにくいとしても、それを完全に「認知の問題」と断定するのは過剰な評価かもしれません。むしろ、Dの発言の背景にある価値観や視点を探り、柔軟に対応することが、より建設的なアプローチとなるでしょう。
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Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。
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Dの行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づくものであるという立場から、以下のように反論を展開できます。
1. 認知の問題ではなく価値観の違い
Dが「フォントの違い」を理由にダイヤのKを否定した行動は、特定の認知の問題ではなく、個人の価値観や細部へのこだわりを反映したものである可能性があります。多様な価値観を持つ社会では、人々が物事を評価する際の基準は一様ではなく、Dのようにフォントに着目する視点もその一環として理解されるべきです。
たとえば、美術やデザインの分野では、フォントや形状の微細な違いが重要視されることがあります。Dは、そのような視点を持って物事を認識しているだけであり、これは「認知の問題」とは言えません。
2. トランプの本質に対する多様な解釈
投稿者は、トランプカードの本質を「スートやランクなどの機能的要素」としていますが、Dの視点ではフォントやデザインが重要な要素とされています。この違いは「トランプとは何か」という本質に関する議論の幅を示しているに過ぎません。
Dがフォントの違いに注目するのは、カード全体のアイデンティティや一貫性に注目している可能性があり、これを「間違い」や「問題」と見なすのは早計です。
3. 認知と価値観の混同
投稿者はDの行動を「認知の問題」として捉えていますが、認知の問題と価値観の違いを混同している可能性があります。Dの発言は、認知の障害によるものではなく、観察力や注意深さが極めて高いことの現れとも解釈できます。フォントという細部に焦点を当てるのは、特定の認知スタイルや個人的なこだわりに基づくものであり、それ自体が問題視されるべきではありません。
4. 哲学的視点からの擁護
Dの「フォントの違い」を理由にした発言は、哲学的な問いかけと捉えることもできます。物事の本質を定義する際、どの特徴が重要であるかは立場によって異なります。
たとえば、「同じカードデッキの一部である」という条件において、フォントの統一性を重視する視点は十分に正当性を持ち得ます。これを認知の問題として単純化するのは、物事の本質に対する多様な解釈を無視することになります。
5. 対話の困難さの原因は双方にある
投稿者は、Dの行動を「対話が成立しない例」としていますが、その要因は必ずしもDにのみあるわけではありません。Dの視点や価値観を十分に理解しようとせず、一般的な基準に照らして否定すること自体が、対話を難しくしている可能性があります。Dが重要視するポイントを尊重し、それに基づいて共通点を見出す努力をすれば、対話は成立する余地があります。
6. 結論
Dの行動は、価値観や視点の多様性を反映しているに過ぎず、これを「認知の問題」と断定するのは適切ではありません。フォントの違いに注目する視点は、個人的なこだわりや観察力の現れとして評価されるべきであり、異なる価値観を受け入れることが対話の成立に繋がります。むしろ、Dの視点を理解し、受容する姿勢を持つことが重要であり、それによってコミュニケーションの障壁を取り除くことが可能となるでしょう。
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本気でトランプゲームの文脈で上記が合理的な理解だと思いますか? 認知の問題ではないと考えますか?
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トランプゲームの文脈において、「フォントの違い」に過剰に注目し、それを理由にカードそのものを否定するDの行動は、一般的な基準からすると合理的な理解とは言い難いと考えます。この行動が「認知の問題」かどうかを判断するには慎重さが求められますが、少なくとも通常の対話や共有された前提の中では理解しにくい側面があるのは確かです。
1. 合理性の欠如
トランプゲームにおけるカードの本質は、そのスート(ダイヤ、ハートなど)やランク(K、Q、Jなど)という情報です。フォントやデザインの微細な違いは、ゲームを進行する上で本質的な要素ではありません。Dが「フォントの違い」を理由にカードを否定する行動は、このゲームの目的や文脈に即していないため、合理性に欠けています。
2. 認知の問題の可能性
この行動を「認知の問題」と呼ぶことが適切かどうかは、Dの背景や思考過程によるものです。以下の可能性が考えられます:
• 過剰なフォーカス(過集中)
Dが特定の要素(フォント)に過剰に注目し、それが他の重要な情報(カードのスートやランク)を覆い隠してしまう場合、これは認知スタイルや情報処理の偏りに由来する可能性があります。
• 前提のズレ
Dが「フォントの違いがカードの正当性に影響する」という独自のルールや前提を持っている場合、一般的な認識とのズレが生じています。このズレを修正しない限り、共通の基盤での対話は難しいでしょう。
3. 個性として理解できる範囲の限界
Dの行動を「価値観や個性」として理解しようとする姿勢も重要ですが、それは文脈に即している場合に限られます。トランプゲームというルールと目的が明確な場面では、「フォントの違い」を重視する視点は、ゲームの共有されたルールを逸脱しています。このため、Dの行動を「個性」として片付けるのは適切ではないように思えます。
4. 対話の困難さ
Dの主張を受け入れるには、「トランプとは何か」「ゲームの目的とは何か」という基本的な定義から話し合う必要があります。このような前提の再構築が求められる点で、Dの行動は通常の対話を困難にする要素を含んでいます。これは単なる価値観の違いではなく、認知的なズレや情報の優先順位に問題がある可能性を示唆しています。
結論
トランプゲームの文脈では、Dの行動を合理的とするのは難しく、また「認知の問題ではない」と断言することも難しいです。Dの行動は、個人的な価値観や視点として説明するには逸脱しており、ゲームの共有された目的や文脈と整合性を欠いています。したがって、このケースは認知スタイルの偏りや情報処理の仕組みに起因している可能性が高いと考えられます。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
- リハック関連の意見交換。
- 地震速報、教育制度、スーパーの品揃え、ヘッドホンの音質議論。
- 地元の味噌文化や沖縄そばとラーメンの違いについて活発な意見交換。
- 江戸時代や四国の歴史、飲料文化(ワイン・ビール)の議論。
- 神戸でのオフ会の楽しさ、次回の計画や名古屋オフ会希望が議論された。
- 宝くじ当選の夢やモバイルディスプレイの利用に関する意見交換。
1週間を通して、日常的な会話(食べ物、地域の文化、旅行)から深刻な議論(教育制度、政治、健康)まで多岐にわたる話題が展開されました。
特に、食文化やオフ会関連の共有が多く、人間関係や社会問題に対する意見交換も頻繁に行われていたことが特徴です。
また、日々の出来事や軽い話題を通じて、親密な交流が行われた印象です。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
「マジでAI機能やめないと取り返しがつかなくなるぞ」Google検索、関連ワードを変に取り込んだことで意味不明なAI要約結果を出すようになっている - Togetter [トゥギャッター]
今ネットのいろんな所で「AIに聞いたらこう言ってた」と安易にコピペする人がいるけどどうかしてると思う。
AIは全知全能でも正解でもなくまったく信頼できない。
私の場合は先日、ゴッホの「星月夜」の読みは「せいげつや」か「ほしづきよ」かとChatGPTに聞いたら「ゴッホの作品はせいげつやと読みます。ほしづきよは詩的な表現ですね」みたいなことをもっともらしく言われた。
ところが念のためWikipediaを見たら「ほしづきよ」だった。
もちろんWikipediaもソースとして怪しいのでYouTubeで探したらやっぱり「ほしづきよ」だった。
素人美術ユーチューバーじゃなく美術の先生やテレビに出る美術解説者が話してるのを確認したのでさすがに間違いないはず。
その上、さっきもう一度「ゴッホの「星月夜」の読みは?」と聞いたら「ほしづきよです」。
リセットして「ゴッホの星月夜の読みは?」と鉤括弧なしで聞いたら「ほしづきよるです」と回答がコロコロ変わる。
こんなのまったく信用していいものじゃないよ。
皆がAIに嘘つかれた例も教えてほしい。
地方公務員として勤め始めて30年以上になる。きっかけは、高校を卒業して1年ほどプー太郎をしていたところ、祖父の紹介で関東地方にある市役所を受験することになった。
まだ19才の頃である。バイクを乗り回したり、タバコを吸ったり、酒も飲んだし、新宿のクラブで不良と群れたり、その他やんちゃをしていた。
祖父が「このままだと孫の将来が危ない」と心配してくれたのだと信じているし、今でも感謝している。毎年墓参りに行っている。
あまり勉強しなかったが、筆記試験+集団面接試験はスルッと通って、最終面接でも面接官とウマが合った。会話は終始スムーズに進んだ。
祖父が私を売り込んでくれたのか、今にして知る術はない。しかし、そうなのだと思う。今でも、東京都内の市区町村役場では、試験実施前の時点で合格が決まっている(※特に高卒枠)ような子が存在する。
地元が大好きであるとか、地元の名士のご子息とか、中高生時代に役場のトップから認められるような成果を出した子達である。ここまで行くと、堂々と高校推薦で採用すればいいのに――と思う子が多い。
私はそんなレベルじゃなかったが、当時は公務員は人気がなかった。地元から推薦があった子を採用するというのは、どこの地方役場でもそうだったと思う。あと数年遅かったら採用されなかった可能性が高い。
実は、不安がある。年齢を重ねる度に膨らんでいく。若い頃はこんな感情はなかった。本当にいい時代だった。
実際、地方公務員になって更生を果たすことができた。やんちゃな自分から卒業できた。甘っちょろい自分に、社会人としての振る舞いやマナーを叩き込んでくれた。こんな私でもちゃんと教育してくれた。
この組織は『上』からの命令が絶対である。公序良俗、法令、常識や慣習に関係なく、命令には従わねばならない。法令順守の場面が圧倒的に多いのだが、人間の屑にならねばならないこともある。
何十年も前の話だと、画材屋で買った油紙を擦って擦って擦って、いわゆる市長・副市長の印鑑(個人名の決裁印)を偽造して、過去の事務ミスを修正せねばならないことがあった。その時の上司は、やり方だけを私に説明して、具体的な指示はしなかった。
若かりし頃の私は、実際にそれらをやり通した。起案行為が漏れていた件で決裁文書を事後作成したり、国庫補助金事業に係る請負契約書を後付けで作ったりした。組織のためだと信じていた。こうしなければ、国や都庁にお金を返還せねばならなくなる。ならば仕方がない。組織を守るためだ。
税の更生処分のことで裁判沙汰に発展した時には、法廷で事実と違うことを言ったりもした。いわゆる偽証だが、自分だけじゃなくほかの職員も同じことをしていた。組織を守るためなら、これくらいの罪は許されると考えていた。
この時代、国や都庁の職員だって偽証をやっていたのだから、全国どこでもこれくらいはやっている。裁判官だってわかっている、あの人達も組織に雇われて裁判を執行しているのだから。俺達と同じサラリーマンである。そんなことを、若い頃の自分は思っていた。
後悔がない。と言えば嘘になる。今は罪悪感がある。過去に戻れるなら――あんなことをしなければよかった。
さて。上の言う事に従っていれば結果が悪くても大丈夫。下の者は責任を取らなくていい。それが公務員組織の原則である。
そのうえで、公務を正常に行っていくために、予算や人員にも常に余裕があって、いざという時に即時対応できるようになっている。
さらに、リスクを取らざるを得なかった職員を守るために、身分保障という大事なルールもある。この原則は今後何百年経とうが消えないだろう。
そして、厳しい現場や、難しい調整は多々あるものの、長年頑張った職員には、一番ヒラの職員でも退職金は二千数百万円が支給される……。
そんな時代がずっと続くと思っていた、そういう時期が自分にもあった。若気、いや中年の至りである。ここ数年まで、差し迫る危機に気が付かなかった。わが国の公務組織はずっと安泰だと思っていた。少なくとも私の時代はセーフだと。
地方公務員は将来性はやばい?今後公務員の未来は明るいのか解説
https://job-q.me/articles/15320
流れが変わりつつある。
変化の要点は、3つある。法令、予算、人員である。今、私が特にヤバイと感じているのは「人員」だ。最初の2つは手短かに説明する。
地方公務員というのは、正直サラリーマンに毛が生えた存在である(特別権力関係の否定)。民間勤めのサラリーマンと同じである。実際、労働基準法の大半が適用される。
だが、国家公務員はそうはいかない。あの人達は、国単位で責任をしょっている。特にキャリア官僚がそうだ。社会の変化に対して迅速に対応しつつ、法律・政令・通達を作り、地方に対して【指示・指導・命令・助言】を行う必要が常にある。
近年話題の分野だと、少子高齢化・自然災害リスク・社会全体のデジタル化・感染症対策・犯罪の高度化、まあこんなところか。数年前だと、新型プリウスが流行った頃に、国民1人あたり10万円の給付が決定した。あれも内閣府によるスピード決定だったが、給付の実務をやることになった市町村役場は阿鼻叫喚の地獄と化した……。
経験が少ない業務で混乱しがちだったのは致し方ない。が、国の事務要領が推奨する手続きに従って実務を行ったところ、給付ミスが相次いだのは記憶に新しい。キチンと組織レベルで熟考をした地方自治体だと、「うん、アナログの方が絶対にいい!!」という正しい結論に達することができた。が、国の意見を鵜呑みにした自治体はデジタル関係の不具合・ヒューマンエラー・デザインミスで阿鼻叫喚となった。
日本というのは元々、分権の社会である。江戸時代までは、いわゆる封建制(※中世の封建制とは違うみたいだが)スタイルで、幕府あるいはその時の最強組織が国を統治していた。
明治政府になって、ヨーロッパ列強を見習って中央集権でいこうとなったものの、それが失敗であることが判明し、現在のような封建制に近いやり方――国の法律に従いつつ、地方政府が国防・警察以外の統治を行うという手法が確立している。
だが、それは大昔の話である。今のようにテクノロジーが進歩すると……議論を経ずとも正しい知識・手法が即座にわかるとか、連絡通信の物理的・技術的なハードルが下がると、中央集権スタイルでも国家運営が可能になる。
今がまさにそうだ。どんな行政分野でも、国が施策・事業のやり方のパッケージをあっという間に作ってしまい、メール一本で地方に通知通達する仕組みになっている。正面から逆らうのは難しい。地方政府は連邦制国家ではないし、国に運営上の財布を握られている。身動きが取れない。
具体的には、○○分野の行政プランを作るとか、イントラを行政間で統一するとか、人員配置を市民100人当たり○人にするとか、税金その他をクレカ・QR決済に対応しろとか、現場仕事は民間に委託しろとか、現業職を採用するなとか、やりたい放題で指示や指導が飛んでくる。
※地方分権が進んでいる!という異論はあろうが、あれは国や県にとって旨味のない業務を市区町村に押し付けている面が大きい(※特に維持管理系が多い)。天下りや既得権が関係する業務は委譲してくれない。それでいて、市町村合併・協定や、実入りの薄い許認可事務など、自分達が得するものは瞬足で押し付けてくる。
新規事業は財政部門がほぼ落とすし、新しい公共施設の建築はトップ命令でないと不可能に近い。公共の設備を修繕するための予算がないから、業者に無理を言わねばならない。消耗品費の予算がゼロになる部署が増えている。事務用品は自腹で買うか、昭和後期の先輩方のモノを使う必要がある。
正直、金がないとどうにもならない。業者に発注した支払分とか、市民への生活補助のサービスが実施できない。以前は、予算上・契約上のテクニックによりカバーできていた。今は不可能に近い。
数十年前に比べて、いわゆる問題のある職員が増えている。激増ではないものの、確実に増えている。
ざっと数年分を思い返すだけでも、こんなところだ。
・同僚から信用がないことを告げられても、「どうでもいいです。人生の優先順位が低いです」
・勤務中に罵詈雑言(「ぶっ殺すぞ」「なんだお前はっ!!」「駆除するぞ」など)
・業者や市民に平気で嘘をつく。自分の仕事を押しつけて減らすため
・市主催の美術展への作品提出に来た障がい者が帰った後、様子をマネして周りのウケを取る
思い出そうとすれば、あの10コ以上は余裕である。関東圏内の役場でこうなのだから、もっと田舎の方にいくと、さらに忌まわしい事態になっているだろう。
こういう職員が跋扈することで、まともな職員の退職に繋がっていく。今は転職市場が発達しているから、30代でスキルを身に付けた職員が毎年十人くらいは職場を去っていく……退職理由の中に、問題のある人間に対して甘すぎるという意見が確実にある。
正直、そういう職員が飲酒運転とか、暴行障害とか、そういう事案を起こしてくれるとありがたい。良心の呵責なく免職処分を発することができる。
実際、上記のような言動をする職員に対して有効な手立ては……2024年現在、「ない」と言っていい。更生を待つしかない。更生率は2割に満たない。
こうした対処のしようがない問題職員が増加している。その中で、どうしても救いようのない職員に対してのみ相当厳しい措置が取られる。【後述】
※どうしても見切れるため一旦切って投稿する。私の環境だと5000~6000文字が限界のようだ。
(続きです)
最終的にツールを使うことはよいが、ツールを使うだけでは素養は身につかない。暗算で計算をする必要性は必ずしもないが、その背景にある数学的知識は身につけておく必要がある。
それと同じで、イラストレーターにとっては手でイラストを描ける必要性は必ずしもないが、果たして己が表現したいものは何かを突き詰める能力、そして人間がどのように視覚的理解を得るのかと言う知識、そして自らの出力の品質を担保する審美眼を養う必要はある。それを養うのに1番な方法が、素描を重ねること。だから描けと言っている。
ここまで書かないと伝わらないのは、現代の美術的教育の敗北だな。美術の学科を受ける生徒にも、美術教師も、真剣さがないから伝わらないのだろう。
大まかにはこういう設定だ
・国王は、オデコに生まれつき緑色に光るアザを持って生まれた者が血筋に関係なく就く。
・アザは神が授けたものだとされ、アザ持ちは実際、あらゆる天賦に恵まれた傑物に育つ。
・現国王は、祖父も甥もアザ持ちの、神に愛された一族に生まれた。14歳の甥が15歳になり成人したら譲位する段取り。
・主人公は辺境の村で育ち王制度をよく知らなかったが、実はアザ持ちで、史上初の「同時代に生まれた次の王候補」で、王都に連行される。
・初期は全能力値ゼロの薄汚い文盲の主人公でも、ときメモみたいにパラメーター上げていけばもう一人の王候補者に勝って次の王になれる。
・無性別で生まれて15歳で成人したら性別が生えてくる種族で、14歳の主人公は男女どちらとも恋ができて最終日に成人して結ばれることができる。同性愛は禁じられている。
・愛情エンドの他、友情・憎悪・裏切・殺害などのエンドもある。
サニャは16歳女性、王城へ引っ張り出され戸惑う主人公の世話係になったメイドさんだ。
田舎者の主人公が気後れしないよう、サニャも田舎出身のそばかすのある純朴な子で、敬語が下手くそなドジっ子だ。
ときメモなど世のギャルゲー・乙女ゲーでは、大抵主人公はパラメーターを上げれば上げるほどキャラの好感を稼げる。
しかしサニャは、主人公が才覚を見せるとビビって去ってしまう。
主人公が取り柄のないぼんくらな時は、田舎者同士としてのほのぼの恋愛をやってくれるが、
頭角を現すと「立場をわきまえず申し訳なかったです」と、身を引く。
ろくな教育を受けず文字の読み書きすら不得手なサニャは、主人公が成長すると気後れしてしまう。
「ちょっと優秀」ぐらいの能力に抑えて王以外の一般職に就いて結婚するか、王になった上でサニャには日陰者の愛人になってもらうかのエンドの方が簡単だ。
サニャを王妃にするのは非常に難しい。だからこそ達成できた際の満足感が大きくドラマチックだ。
ヴァイルはもう一人の王候補者で、帝王学を学んできた正当な後継者であり、まだ14歳の無性別。
成人したら男になると宣言しているが、主人公と恋愛関係になった場合、主人公が男になると合わせて女になってくれる。主人公が女になれば、当初の望み通り男になる。
「無邪気な男児」っぽい振る舞いを意識的にしつつも、特殊な立場に生まれついたことで厭世的な部分を持つヴァイルは、主人公と関わらない多くのエンドでは「一族は彼にて断絶した」と表記され、誰とも結ばれずに敢えて「王が多く生まれる家系」を途絶えさせたことがわかる。
何故か、憎悪監禁エンドにおいても「断絶した」の表記はなく、また通常は男性になっているところを憎悪エンドでも主人公の性別に合わせてくるので、男女どちらにせよ主人公に子作りを強いているようだ。
ヴァイルは主人公と一度恋愛関係になった上で、主人公にある行動を起こされ地雷を踏まれると愛情が反転して憎悪に変わり、他にいろいろ条件が重なると、王位を継ぎ、王の強権により主人公を自分の部屋のそばの一室に監禁するようになる。
一定の条件により、「強い感情」が全く逆の方向に「反転」するのはこのゲームの特徴の一つだ。
記憶がリセットされるわけではないので、愛情経由の憎悪エンドでは愛憎入り混じりながら主人公と子作りする。
また、このゲームは「最終日」に誰かに会いに行って告白すると愛情エンド、殺害すると殺害エンド、という流れになるのだが、ヴァイル憎悪は最終日の翌日のイベント経由で発生するので、他キャラエンドとの並行が可能である。
主人公が監禁された場合に、神官と友人関係だと「神殿が王と対立」となるし、アウトサイダーと恋愛関係だと「監禁された主人公をさらって逃げた」となり、他キャラとの組み合わせによるバリエーションの豊かさもヴァイル憎悪エンドの魅力だ。
17歳のタナッセは現在の王の息子で、王子という立場でありながらこの世界の特殊な王制から彼には継承権がない。
親とイトコと曾祖父が王なのに、自分は神に選ばれなかったという立ち位置が彼を屈折させている。
突然現れたアザ持ちである主人公に初対面時から憎悪度高めだが、主人公がひたすら好意的に接していると次第にデレる。
しかし、態度が和らぎはしても、途中で愛情度にキャップがかかりそれ以上なにをやっても上がらず、正攻法では愛情エンドには到達できない。
タナッセと結ばれたい場合には、ひたすら彼に悪態をつき、タナッセの私物を奪い取ったり、タナッセを池に引きずり込んで溺れさせたり、そうやって互いに憎みあい、命を奪われかける域に達した後での反転でこそ、ようやく愛情エンドを迎えられる。
お互いのクソさと弱さを知り尽くした上で与える赦しこそがタナッセの心を真に開くことができる。
魔法の類はお伽噺のような扱いの世界で、本当に各種の魔術を操れる。
ある目的のために警備の厳しい王城にも魔術を使って侵入を繰り返しており、親しくなれば主人公も彼女から魔術を学べる。
14歳まで性別のないこの世界では同性愛も発生しやすそうだが、同性愛者ばかりでは国が立ち行かないため法律や倫理が同性愛を禁じる。
15歳になった時に恋愛相手と同性を選択するのは、強い拒絶の意思表明のような扱いだ。
他のキャラは主人公が同性を選択すると「裏切られた」とショックを受けて関係が破綻し「裏切エンド」になってしまう。
しかしルージョンは闇に隠れて生きるアウトサイダーなので通常の倫理は持ち合わせず、主人公が同性になっても恋愛関係を保つことができる稀有な存在だ。
神の寵愛を受けたとされるアザ持ちの主人公と、神に背いたとされる魔術師ルージョンが、誰にも知られず森の中でひっそり共依存気味に百合百合するエンドだ。
気を張ってツンデレしているルージョンは男主人公にはツンデレのままだが、女主人公には幼児帰り気味に弱さを見せてくれる。
トッズは年齢不詳の怪しげな商人の男で、およそ恋愛ゲームの攻略対象キャラとは思えないモブのような風貌だ。
彼はただの商人ではなく裏の顔を持つアウトローで、正体が割れた場合、展開によっては極刑にすらなる。
許されて取り立てられた場合は主人公を愛し仕えるようになるが、ルージョン同様に到底公的な結婚が認められる立場ではない。
このゲームにはキャラから主人公への好感度だけでなく、プレイヤーが各キャラに対して割り振る「印象度」がある。
トッズは恋愛展開になった場合、「お前が他の誰かとめあわされても立場上仕方ないが、心だけは俺を一番に思ってほしい」と重い愛を告白してくる。
主人公の愛情印象度が、トッズより他の相手に対して1ポイントでも高いとトッズの愛情は反転して憎悪と化しヤンデレエンドを迎える。
印象度で主人公が好き好き状態だと釣られて愛情度が上がっていくキャラもいれば、主人公の心情に全く気付けず釣られないキャラもいるのだが、1ポイントの違いで反転してくる敏感さはトッズだけだ、
モゼーラは王城内の図書館に仕える文官だ。識字率が低く書物が貴重な世界で、平民出身ながらエリートバリキャリだ。
地味顔の22歳で、恋愛遍歴は多いが思想が強いせいで結婚に至らず、この世界では行き遅れなことを気にする清楚ビッチ婚活女子だ。
恋愛面においてはちょっと優しくされるとチョロく惚れてくる彼女だが、その本質は革命烈士である。
王とは人民のためにあるもの、そうでなければ滅ぶべきだとの強烈な思想を持ちルートによっては現王暗殺ですら成し遂げる。
血筋に関係なく神が選ぶはずの王が、実際には一つの貴族家系に偏って生まれるここ数代の流れに不満を持つ彼女は、14歳まで平民として育った主人公にこそ希望を見出す。
彼女のチョロさと思想の強さ両方を汲み取り、二人で腐敗した貴族たちをぶっ倒してこの国を変えるぜエンドだ。
他の平民キャラは王妃にするのが難しかったり、立場・性格的に完全に結婚は無理で内縁にしかなれない中で、モゼーラは王の傍で国を改革するという強い意思があるのですんなり王妃になってくれる。
魔術師ルージョンとは生き別れの双子で、妹ルージョンと瓜二つの女性的な美貌を持つ男性だ。
アウトサイドへ堕ちた妹との関係修復を最大の願いにしてきた彼だが、主人公と恋愛関係になった場合には主人公を最愛の人として妹のことは諦める。
最愛の妹を永遠に失うことになった彼は、次の相手は絶対に手放さないという決意があり、最終日に主人公がティントアではなく別の人に会いに行きその人エンドを迎えようとすると、横入りして主人公の行動をキャンセルさせ強引にティントアエンドにしてしまう。
また、最終日の後で主人公は成人後の性別を選択するが、「男」を選ぼうとしても、ティントアに勝手に「女」にされ、進路もティントアと同じ神官にされ強制的に結婚させられる。
選択肢を選ぼうとしたらティントアが勝手に選んで消去してしまう下りはゲームならではの恐怖がある。
体格が良く実力がある反面、上がり症などメンタルの問題によって出世の場である御前試合で勝てず、辞めて地元に帰ろうかと悩んでいる。
ときめきメモリアルシリーズでは、陸上部の女を落としたいなら陸上部に入って活躍、美術部の男を落としたいなら美術部に入って活躍、が定石である。
そのノリで、剣士グレオニーと仲良くなるため剣術を鍛えると、すぐに御前試合でグレオニーを超える活躍を見せてしまい好かれるどころか嫉妬され憎悪度がガンガン上がってしまうという罠がある。
肉体派成人男性の戦いの場に、二次性徴も迎えていないクソガキが出てきてチート無双したら反感を買うのは当たり前だ。
真剣に部活やってるのに高校から始めたようなぽっと出の主人公に抜かれて嫉妬しないときメモの奴らは人間が出来ている。
アザ持ちチートがいかに異常で持たざる者の心をかき乱すかを示す展開の末に、主人公を殺めかけたグレオニーが処刑されるエンドだ。
リリアノは現在の王であり、タナッセの母、ヴァイルの叔母にあたる36歳バツイチ。
いかめしい言葉遣いで王らしい王として振る舞いあまり感情的にはならないが、立場上息子の育児をあまりやれなかったこと、息子がものすごい捻くれたクソガキに育ったことが心残りである。
主人公が幼く無垢に甘えて見せるだけで母性を持て余すリリアノの好感度はぎゅんぎゅん高まり恋愛エンドは容易だが、憎悪エンドは難しい。
田舎から出てきたクソガキに憎まれ口を言われたぐらいでは彼女は憎み返してくれないし、物理的な嫌がらせをするには警備が固い。
そこで使えるのが彼女の最愛の息子であり、アザコンプレックスを持つ息子を焚き付け破滅させ死に追い込むことで、ようやくリリアノは主人公を仇敵と見做してくれる。
厭世的なリリアノは多くのエンドでは権力者故に命を狙われ、譲位後は抗わずにあっさり死んでいるのだが、憎悪エンドでは次代の国王となった主人公をぶっ潰すため生命エネルギーに満ち溢れ死亡を回避してくれる。
ローニカは主人公に使える侍従であり、攻略対象中最年長52歳の老翁である。
優しく穏やかな好々爺に見えるローニカだが、王に命じられるまま政敵を葬る暗殺者としての姿を持ち、それこそが本業である。
彼の本性を見抜いた上で38歳の年の差も超えて結ばれる恋愛エンドも難しいが、憎悪エンドはゲーム中トップクラスの難易度。
主人公の名前はデフォルトでは「レハト」で、マスダでもなんでも好きな名前をつけられる。
ローニカは基本的には過去を隠して優しいじいちゃんとして振る舞うので初期好感度は愛情(許容)も友情(共感)も高いのだが、
彼が深い因縁を持つ今は亡き人物と同じ名を名乗ると、序盤で大幅に愛情度を削れるというギミックがある。
必ずしもその名にしなくても憎悪エンドへは辿り着けるが、その名にしていると「やはり貴方は彼の再来だ」とたびたび同じ名の人を思い出し、ローニカは暗殺者全盛期の過去のトラウマに苦しめられ、主人公を憎むようになる。
このゲームの好感度は「愛情⇔憎悪」と「友情⇔嫌悪」の二軸なのだが、憎悪エンドのローニカの心情は複雑であり憎悪と友情が突出し、感情名が「離れていく写し身」「その憎悪は友情の上を」などあまり見ない名称になってかっこいい。
ユリリエは17歳の貴族令嬢で、華やかで優雅な物腰の美少女だ。
誰一人にも唇すら許していないが、多数の男の間で浮名を流す愛の求道者系処女ビッチである。
貴族界の底辺の家柄だったが、親族が現国王リリアノと玉の輿結婚したことで家格が上げられ、しかし離縁したため家格は維持されたが社交界では日陰者である。
ユリリエは無性別の頃は男性的な気質であったが、玉の輿をもう一度夢見る一族により、「将来男になる」と宣言しているヴァイルと結婚させるため本人に選択権がないまま女にさせられた過去を持つ。
神に誓って決める自身の性別や結婚すらままならないユリリエと恋をした上で、主人公が成人後の性を「女」にすると、「愛を試し、敢えて茨の道を行くのか」とユリリエは感銘を受け、スキャンダラスな同性愛の道を受け入れてくれる。
ルージョン百合エンドが愛情エンドと形容され、ユリリエは裏切エンドなのは何故か意見が分かれるところだが、主人公が常識を裏切っておもしれー女であることを示したからではないか。
【逃亡エンド】ルージョンに魔術を習い、それを駆使して一人で王城から逃亡し自由を得るエンド。
【地方貴族エンド】故郷の村への印象度が良い場合、故郷へ帰りその地を治める領主になるエンド。
【ヴァイル愛情A】ヴァイルと結ばれ、主人公が王、ヴァイルがその配偶者となるエンド。告白シーンでは唯一歌詞付きのBGMが流れメインヒロイン的特別感がある。
【ヴァイル裏切】ヴァイルに告白し将来を誓いあい大人になってからの互いの性別を約束するも、裏切って同性になることを選択するエンド。敢えて同性を選ぶのは最大の拒絶であるため、ヴァイルは激しいショックを受け上手く性別分化を起こせず死亡する。
【タナッセ友情A】初登場時から主人公への憎悪・嫌悪が一方的に高いタナッセを徐々に軟化させ友情を築くエンド。恋愛エンドはお互いに頭がバグったどさくさに恋愛感情が発生したような展開なので、友情の方が正統派な親睦が描かれる。
【タナッセ憎悪A】タナッセが女になったヴァイルと結婚するエンド。主人公がヴァイルと恋仲になり将来まで誓い合ったのに何故か放置していると、それでも諦めきれないヴァイルが男を選んだ主人公に合わせて女になり、タナッセに拾われてしまう。
【リリアノ・モゼーラ友情A】現国王リリアノと革命烈士モゼーラという相容れない二人の架け橋となるエンド。リリアノの前代王の死の真相を巡る話となる。
【ローニカ愛情A】年齢差38歳の爺さんを落とすためには命もかけないといけないエンド。
【サニャ憎悪A】結ばれた後に何故か主人公が憎悪反転し、サニャの故郷を焼き討ちにするエンド。
【サニャ憎悪B】サニャをいびり倒しつつ権力を得て、逃げたらお前の家族を故郷ごと滅ぼすと脅して支配するエンド。愛情・友情などポジティブ系エンドでは普通にいい子なサニャが追い詰められてダークサイドを見せてくれる。
【モゼーラ裏切B】裏切りエンドの多くは「愛の告白したくせに同性を選んだ」エンドであり、その場合相手は大抵ひどく悲しみ打ちひしがれる。しかしモゼーラはさっさと見切りをつけて他の男と結婚してしまう強メンタルを見せる。
【ティントア愛情A】タイトル回収セリフのあるエンド。「神の印を持つ者は政治ではなく宗教の世界にこそ進むべき」という考えが神殿側にはあり、主人公は Permalink | 記事への反応(0) | 01:45
最近よくテレビ番組を見るんだけど、偶然「学校かくれんぼ」というゲームの存在を知った
何年も前からやっていたそうなんだけど、自分の家は未就学児しかいないのでその手の話が入ってこなかった
けど、一度見ると結構楽しいし自分の子供にやらせてあげたいと思う
隠れるためにふんだんな予算を使って様々な趣向を凝らしているのだが、たぶん今後何らかの形でエスカレートして学校の備品を破壊するなどに至りそうだ
また生徒側もこの企画のために事前に仕込みを用意したりするなど不正を行っていくだろうから収集がつかないことが予想される
例えば美術が崩れて中の俳優等が生き埋めになったり、生徒が暴力をふるったり、過剰な捜索で周囲に迷惑をかけたりなど
そしてもう一つはマンネリ
現段階で隠れる要素は学校ごとに違うものの、似たような隠れ方が横行して視聴者が飽きる可能性もある
まあ子供が楽しむのが一番なので長く続いてほしいけど
高学歴「ばっか」は嘘だな。
飯田エリ子 文化女子大学短期大学部生活造形学科
田下聖児 名城大
中田清秀 中卒
二ノ宮耕一 高卒
都沢和子 昭和女子大学短期大学部英米文学科
ひとの増田を『みんなおまんこ』みたいな紹介するんじゃねぇよ😠
𓂺という文字は、古代エジプトの表記法に由来する象形文字です。具体的には、この象形文字は座っている人物を表し、人間や神をさまざまな姿勢や役割で表現することが多い一連の記号の一部です。
主な詳細:
一般的には、膝の上に手を置いて座っている人物が描かれています。
テキストに応じて、人間の姿、特定の個人、または座っている存在に関連する抽象的な概念(安定性や存在など)を象徴する場合があります。
古代エジプトの象形文字では、このような数字は決定詞(単語の意味を明確にする記号)または表意文字(考えを直接表す)として機能します。
単語の中での使用法によっては音韻的な意味を持つこともあります。
このような座像は、畏敬の念、安定、落ち着きなどと結び付けられることが多く、エジプト美術における人間や神々の描写を反映しています。
これらは、特に形式的または敬意を持って人間を罵倒するときに、人の名前、タイトル、または役割の説明に使用されることがあります。
この象形文字をどこで見たか(例えば、芸術作品、テキスト、象徴的なテキストなど)についての詳しい情報があれば、その解釈についてより正確な情報を提供できます。
11/15のX利用規約改訂における「AI学習」にまつわる問題で、ここ1ヶ月ほどずっと
の争いや混乱を眺めてきた。
ただクオリティの高い絵が流れてくるTLを見て時々イラストを投稿したかっただけなのに、そんな宗教戦争(もうこう形容するしかない)に巻き込まれてきた。
そこで気づいたことがある。
だって、定型はインターネットお絵描きにもAIが抱える問題にもクソほど興味ないんだから。TikTokとかmeituとかchatGPTで無邪気に遊んでるぐらいだし。
程よい距離を取れずネットに張り付いてる奴はもれなく精神に何かしら障害を抱えてると言わざるを得ない。
今回の件でも比較的冷静に判断して対処してた勢力はみんな売れてるし、コミュニケーションも取れて業界内外の人脈形成にも成功していて、事務作業能力もコンプラ意識もある、定型寄りの人たちだ。
一応ファンアート程度は描く絵描きだと自分のことを思っている。
そして最初は絵師を応援したかったし、AIイラストは疎ましかったが今は登場人物全員憎い状態になっている。
人間という生き物の醜悪さを今回嫌というほど再認識させられた。
元々私はレスバの空気に精神を影響されやすい。自分のメンタルを管理できない。だから診断が下るのだ。
ASDでHSP気質のINFP(たまにINTPになる)の人間に対戦型SNSは向いてなかった。だが、怒りには中毒性があり無意識に時間を取られて追ってしまう。
目を離してる隙に議論が進み、公開アカウントを叩かれてたらどうしようと気になって仕方なくなり、14〜17日は風呂キャン飯キャン寝落ちの生活が余儀なく続いた。お陰でこの数日間で1.5キロ体重が落ちた。
他責思考だが、自分で絵を描くモチベーションもこいつらに食われてしまった。
今回特に目立ったのは「前々から危惧されていた絵師の社会性なさ」「技術職のサイコパス加減」「AIを頭ごなしに非難してインプを稼いだりファンネルを飛ばしてくる反AIの厄介さ」「全勢力におけるとにかくただ乗りしたい乞食精神」である。
これのせいで、どんな絵を見ても「ウォーターマークとノイズ如きで対策できた気になってるの馬鹿じゃないの」「逃げるな卑怯者」「対策の一つもしないなんて随分呑気に危機感も持たずご自身の作品を蔑ろにしてるんですね」「結局こいつらも身内から村八分にされたくないだけだろ」「お前は3D素材とか使わないんか?なんならこっそりAI補正してんだろ」という感情が同時に発生するようになってしまった。
自分は権利侵害(二次創作とそれによる収益発生、画像リプ、MAD視聴、クソコラ、否認可のスクショ掲載他)をしておきながら自分の権利だけ振り翳す絵師軍団をダブスタと罵っていたが、私も変わらないじゃないか。
まぁ、そもそもこれらはAI関係なく人の手によって昔から起きてた問題でもあるんだから、結局人間が悪いんだが。
先ほども言ったが、この状態は軽く鬱に片足突っ込んでる気がする。非常に良くない。
人の心がわからない。
なんでも正論で返して人を傷つける。
何をしたら人が傷つくかわからない。
パターンから外れたことを人や周りがしてくると混乱して発狂する。
プライドが高くてごめんなさいが言えない。
なお、エンジニアには調整能力や交渉能力のような営業職じみたスキルが求められるため、キラキラ陽キャ定型の方が向いている。ここで指す技術屋(反曰くテックカス)はプログラマーのことを言う。
確かにプログラマーの人間なら人脈がなくてもクリエイターごっこできる、ポチポチプロンプトを入力する作業が肌に合ってるんだから生成AIにハマるよな。
その場の衝動ですぐに行動していつも後悔する。
それ故の対人トラブルが多い。
都合に合わせて主張をコロコロ変える。
泣けば誰か助けてくれると思ってる。
プライドが高くてごめんなさいが言えない。
そのわりに統率が取れてないのですぐ瓦解する。
まるで美術部や漫研に属する中学生女子みたいなメンタリティだ。そのまま大人になってしまったのが哀れで仕方ない。
どっちも社会性に欠けており、わがままで自分の思うように事が動かないと癇癪を起こしてしまうのは共通している。
そしてリアルの友人や家族よりフォロワーになってる。フォロワーなんてただ見てるだけの存在で内心何考えてるかわからないんなんだから信じること自体野暮だろう。
きっと現実世界で愛されなかったからここにいるんだね。居場所、奪われたくないもんね
あとこれは推測だが家庭環境に恵まれていない人がTwitterにハマり、ネットで絵を上げることにハマりやすい傾向にある気がする。今回の登場人物、育ちの時点でロクでもないのでは?
ASDとADHDは相互補完で良ペアになるかと思いきや、相互の特性が干渉してうまくいかないことが多い。
今回もそれなのではないか?
私は絵垢とは別のでこれらのことをやんわりと、時には感情の赴くままダイレクトに中立寄りとして言及してきた。
そして反AI過激派勢力(赤枠アイコン系)に集団ブロックされたり、時には本垢やblueskyにまで追いかけられたり、5ちゃんねるのヲチスレに晒されたりした。話を聞く限り赤アイコン連中のブロック監視リストに入れられてるらしい。
曰く、中立派は多少たりとも現行のAIに悪感情を持ってないようであればいくらでも叩き潰していいし、どちらの味方もしないクソコウモリ野郎だから話を聞く価値もないとのことで反AI勢力は誹謗中傷しまくってるがお前ら目的間違えてないか?
倒すべき相手は違法に取り入れたデータを学習し生成させているAI系企業であって、その辺でなんか喚いてる一般人ではない。分かってるのに何故根本解決に動くよりも、何も得られないレスバに力を注ぐんだ。
ここを見れば各々がどんな主張をしているか嫌でもわかると思う。
正直、両者の主張も理解できるし言い過ぎだと思う。
https://itest.5ch.net/mevius/test/read.cgi/illustrator/1731757051/
【Nore more 生成AI】画像生成AI信者ヲチスレ_130【AI○○】
https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/net/1731727015/
(いずれも2024/11/18時点)
人間丸ごと嫌いだ。
どいつもこいつも自分のことしか考えてなくて、他人のこと踏み台にして、都合のいい解釈をして、根本的な解決よりも気に入らない人間を叩き潰すことの方に本能的に精が出てしまう。
反AIはAIさえなければこんなことにはならなかったと言うが、そもそも人間さえいなければ争いは起こらなかったのではないか?
まどろっこしい。
こんな醜悪な生き物をこれ以上この世に解き放つな。
そんなことを人間が作った建物の中で、人間と契約した賃貸で、人間が作った服を着て、人間が作ったスマホを介して、人間が繋いだネットワークを利用して、人間が作ったコミュニケーションサービスやイラストのことを考えながら一応人間が思って書き込んだりする。
どの派閥においても、人間の汚い部分が見え隠れしてて嫌になる。
だったら全員死んでくれ。推進派も反AIもリテラシー皆無なクリエイターもまともなことやってるつもりの一般人も何もかも全員。
こんな自分が嫌になる。
あのさ、こういう話って確かに「好みは人それぞれ」っていう前提で語るのはわかるけど、少し甘すぎるんじゃない?歴史を見てみろよ。例えば、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが言っていた「人間は本質的に社会的な動物である」って言葉。つまり、人間は孤立することにあまり意味を見いだせないってことだよ。だからこそ、進化した技術を使うことで、リアルな感情や反応を再現することが大事なんだ。
それに、無表情や無反応が「いい」っていうのは、ある意味で人間性を放棄してるんじゃないか?例えば、20世紀初頭のドイツ表現主義映画を見てみなよ。映画の中で人物が無表情だったり、感情を押し殺していたのは、逆にその無表情が物語や感情を強調するためなんだ。無反応が一番っていうのは、ただの逃げ道だと思わない?
そして、「進化には選択肢が広がる」というけど、選択肢が広がるのはいいことでもあるけど、どれを選ぶかは、最終的には歴史や哲学に裏打ちされた価値観が関わってくるんだよ。だから、「これが絶対」と言わないまでも、歴史や文化に根ざした理解をもって選ばないと、ただの「好み」で終わってしまう。それは進化とは言えない。
大体、例えば20世紀の近代美術では、リアルさよりも抽象的な表現が評価されたけど、それだって無表情や無反応に意味を与えたからこそなんだよ。ピカソやダリの作品を見て、それがただの「好み」だと片付けるのは浅い。真剣に向き合ってみろよ。