はてなキーワード: マクロ経済学とは
現状、MMTという理論を肯定的に議論しているグループは二グループに分かれている。
片方は学問的なグループであり、もう片方は政治的なグループだ。
おそらく大半のまともな経済学者はこのグループを分離して語るべきであるという前提に同意すると思われる。
政治的なグループは極めて悪質で、彼らが「MMTである」と主張する出典不明な学説から、荒唐無稽としか言いようのない結論を自由に引き出し、それを用いて政治的な対立者を罵倒している。
僕の知る限り彼らは何度も事実と異なる主張をして、そのたびに反例を突きつけられているのだが、彼らの中ではこれは論破されたことにはなっていない。
この理由は多岐に渡っており、主張自体がなかったことになる場合もあれば、「それは誤解であり、この例は反例にならない」と主張される場合もある。
いずれにせよこのグループは、上で挙げた学問的なグループと自身らのグループを都合よく使い分けており、普段は学問的なMMTの権威を用いて自説を展開するが、都合が悪くなると「それは誤解であって、MMTはそう主張していない」「論敵はMMTの勉強が足りていない」と言って反撃する傾向がある。
したがって、MMTの政治的なグループについては、大半のまともな経済学者は数年前の時点で「議論にならないため、無視すべき」という結論に達している。
ただ、彼らは別に学問的に勝とうとしておらず、単に自分のお気に入りの政策を実現したいか、あるいはもっと単純に政敵を都合よく罵倒したいだけなので、この無視は結果としては彼らにとってまったくダメージになっていないのが現状である。
一方で学問的なグループは、それほど支持を集めているとは言えないものの、書籍が出版される程度には活動実績がある経済学の一部分である。
ただ、それはたいして肯定的な評価ではない。というのも、僕の知る限り、1980年代から新しい学派と呼ばれるマクロ経済学の流派は乱立しており、その多くは学問的に成功したとは到底言えず、忘れ去られていっている。
MMTは現状でそれらの学派と異なる結末を得られる保証がなく、「たまに話題になる新しい一学派」という程度の立ち位置にとどまる。
この「学問的なMMT」は実のところ「有力な学説」とすら現状ではまだ言えないので、大抵の学者はまだ様子見しているところである。
様子見というのは「正しいかどうかをもう少し考えよう」ではなく、「勉強する価値があるかどうかをもう少し考えよう」という意味だ。
つまり、MMTは多くの学者にとって勉強すらされていない。だから僕も勉強していない。
この記事の冒頭で述べたように、この理論についての僕の理解は極めて浅いが、その理由は、MMTに勉強するだけの価値があるかどうかについてすら現状では測りかねているからである。同様の経済学者はかなり多いと思われる。
まとめると、MMTの現状としては学問的に成功しているとは言えず、とはいえ失敗しているとまでは言えず、まだ結論は出ていないが、いずれにしても知名度がそもそも足りていない。
その一方で、政治的には一部の国で影響を与えるほど成功しつつあり、政策議論を行うタイプの経済学者にとってはやっかいな状況を生み出している。
このあたりまでは、おそらくたいていの経済学者にとっての共通の現状認識と言えるのではないかと思われる。
では、上の現状が変わる可能性があるかという点についてだが、MMTが学問的に「成功」と言える状況を引き出すための方法は、少なくとも政治的に成功することではないという点は強調しておきたい。
正直に言って、僕を含めてかなり多くの経済学者が、典型的なMMT論者の「論争とは多数派工作である」みたいな態度に辟易しており、これは少なくとも学問的には逆風であると思われる。
だが、現状ではMMTは上で述べたように、大部分の経済学者から「勉強する価値がある」とすら思われていないと考えられる。
そして勉強されなければ当然学問としては成功しない。だから学問的なMMT論者はMMTを勉強させようと躍起になる傾向がある……けど、これも正直、逆効果だと思う。
実際のところ、MMTの政治的グループを批判して「おまえはMMTをまったくわかっていない」と言われるのが嫌だからという理由で、MMTについて一切発言しなくなった経済学者に何人か心当たりがある。
それは当然ながら学問的にはMMTは「そもそも議論されない」ことにつながるわけで、君たちそれでいいの?という感想。
とりあえず、MMTの解説については日本語記事で質がいいものは見つからなかったが、「英語版」wikipediaはたぶんかなり良質な記事だと思われる。
wikipediaだからもしかすると将来の編集でおかしなことになる可能性はあるけど……その中で、最後の方に書かれているこの部分が気になった。
Krugman described MMT devotees as engaging in "calvinball" – a game from the comic strip Calvin and Hobbes in which the players change the rules at whim.
この部分、かなり無視できない点で、つまりクルーグマンの感想が正しければ、MMT論者は「理論を検証できない状態」を意図的に作り出しているんじゃないかという疑いがあるのだ。
経済学では、サミュエルソンが強調して以後、ポパー型の反証主義がかなり重視される傾向にある。
僕はこれについて、必ずしも反証主義が絶対だとは思わないものの、MMTのような新興理論にとっては重要だと思っている。
つまり、MMTだと起こり、それ以外の理論だと起こらない現象はあるのか。
逆にMMTだと起こらず、それ以外の理論だと起こる現象はあるのか。
それらは現実だと起こっているのか、起こっていないのか。
これらは、MMTを支持する学者が中心となって積極的に検証するべきである。
主流派が主流派である所以は、この種の検証に耐え続けているからであり、MMTが主流派と対抗できる理論になるためには、最低限この種の検証に十数年は耐えられる(つまり、積極的な検証の結果としてMMTに深刻な誤謬が見つからないまま十数年が経過する)必要があるというのが僕の見解である。
言っておくが、これができたからと言ってMMTが正しいとは限らない。
しかしその場合、経済学者たちはMMTについて「少なくとも勉強する価値はある」と考えるようになるだろう。
結果として肯定されるか否定されるかはわからないが、少なくともそうなれば理論としては生き残りに成功した状態と言える。
残念ながら、僕が観測した範囲内でMMTの支持者にこのような動きは見られない。
どころか、検証されてもいない新理論であるMMTを無理やりねじ込んで行こうとする人間がやたら多い。
実はこの記事を書く気になった最大の理由は、マクロ経済学の授業改善アンケートで「MMTを教えずに嘘を教えている」というクレームが学生の一人から来たことなんだよね……
出てきて10年ちょいの、定説でもない上に検証されてもいない新理論を必修のマクロ経済学で教えたらその方が問題でしょうよ。というのが僕の感想なのだが。
まとめると、MMTは学問的には、現状では勉強するに値する魅力的な理論とすら思われていないので、まずは状況証拠を集めて、最低限勉強するに足るだけの魅力があるということを立証するところから始めるべきではないかということです。
そして現状はそれができているようには見えず、さらに政策に無理やりねじ込もうとするグループが悪目立ちしすぎるので、僕は少なくとも距離を取っている。
正直その連中に炎上させられたくないから言及すらしたくないが、将来的にこの理論が政治的に大問題を引き起こしたときに、おまえ反論しなかったじゃん!と言われないために、こういう理由で相手にしなかったんですよという証拠を残しておきたかったと、はい、実はまあそんなところです。
財務官僚は法学部出身者が多く経済学がわかっていない、という批判があります。例えば↓とか。
財務官僚は東大法学部だから、経済のプロではありません。
https://twitter.com/kikumaco/status/1860489376737951883?s=19
経済学部卒だっているじゃん(例えば、財務官僚の中でも特に強く財政の立て直しを唱えていた矢野元事務次官は一橋経済卒)、というのは措こう(それにしても、学部の専攻で判断するなら、キクマコ先生だって非経済学部卒だよね、とは正直思う)。それより重要なのは、経済学部で教わるどころか、教える側の経済学者の多くが財務省的な主張をしていることである。
例えば、プリンストン大の清滝教授である。氏は、ノーベル経済学賞受賞に一番近い日本人とたびたび名前が上がる業績を誇るマクロ経済学者であるが、近年、経済財政諮問会議などで、消費税率の引上げを含む財政再建を主張している。清滝教授に対する批判が盛り上がったかと言えばさにあらず、むしろ著名なマクロ経済学者は同じような意見が多い(吉川先生とか、故大瀧先生とか)。田中秀臣教授は清滝教授を批判していたけど、田中教授の専門は経済思想史だし。
ことほどさように、こと経済学に立脚する限り、軍配はむしろ財務省に上がると言わざるを得ないと思うのだけど、財務省批判者はこのあたりをどう考えているのだろうか? 経済学なんて当てにならない、というのなら、それはそれで了解可能なのだが。
なぜ、実質賃⾦が低下しているのか?:新型コロナ禍後の内外の経済環境を踏まえて
今⽇の論点
• 新型コロナ禍後の国外要因と国内要因によって経済全体で⾒た実質賃⾦が低下傾向にある。
• したがって、すべての企業が物価上昇を超える賃上げを実施することは不可能である。
• 「物価と賃⾦の好循環」、⼀時的な所得政策、官製賃上げのスローガンでは、実質労働所得の向上や所得格差の是正は決して図れない。
• 所得格差是正には恒久的な所得再分配政策、⻑期的な実質賃⾦の向上には経済構造改⾰がそれぞれ不可⽋である。
まとめ(事実認識)
• 新型コロナ禍後の実質賃⾦のV字回復を頓挫させたマクロ経済学的な要因は、
• 第1に、交易条件が⼤きく悪化したために、労働所得の原資となる付加価値の伸びが物価上昇に追い付かなった点である。
• 第2に、新型コロナ禍後に労働市場が⼤きく変容し、マクロレベルで超過供給が⽣じた点である。
• 労働市場の超過供給の実態が⾒えづらかったのは、超過供給が失業の形で顕在化することなく、⾮労働⼒化を経由することで⼀時的に潜在化してきたからである。
まとめ(政策処⽅)
• 政府や経営側の賃上げへの強⼒な⼲渉によっても、マクロ経済 全体で実質賃⾦を引き上げたり、賃⾦の規模別格差を解消したりすることはできない。
• ⼤企業の⼤幅な賃上げと中堅・中⼩企業の⼩幅な賃上げは、表裏⼀体の関係がある。
解像度が低いねぇ君は。わかるかわからないかの1bitでしょ、君の脳みそは。
経済といっても、さまざまな分野があって、効用、無差別曲線、ゲーム理論の話をするのはミクロ経済学。これはもう数学的には厳密なので100年後も教科書の内容に間違いはないだろう。
マクロ経済学はメトリクスを基準とした統計で国家経済を扱う。GDPはその例だが、「労働時間あたりのGDP」といった指標が国家の労働生産性を測る一つの方法となることはよく知られる。因果推論を行うのも基本的には統計の話なのでマクロ経済学の範疇になる。
これらの経済学は、現象を部分的に見てみれば推測の能力は高く、正しく理解していれば経済現象を説明できる。
ではなぜ「経済」の話をすると、経済危機とかが生まれるかというと、外部性などがあるから。
サブプライムローンの破綻は基本的に「債務能力を超える貸付」を行なうことが可能であるという負の外部性によって説明できる。
経済学は「説明」をすることはできるが、「コントロール」をするのは政治の話で、政治家や官僚が教科書レベルのことを理解していないこともあり得る。あるいは「マルクス」などを信奉しているどうしようもないのもいるだろう。
政治家や官僚が対処しなければ負の外部性による市場の失敗を規制することができない。
結果的に経済を「コントロール」できないのは、経済の中に潜む負の外部性をすべて扱う方法がまだ判明していないからであり、予測や説明が可能なレベルにある事象は多い。
Youtubeで外国人が「日本で財布を落としたらどうなるか」を検証していた。
想像通り、検証対象となった市民50人全員が落とし主の外国人に財布を返したのである。
これを見て「日本人は素晴らしいなぁ」と思ったわけだが、少し気になることがあった。
例えば「単に賃上げするだけでは名目値しか上がらず、実質賃金はむしろ低下するかもしれない」といった問題に対し「物価に追いつく賃上げを」などと無意味なことをやっているのは、「労働者に高い賃金を払うのが善だ」という単純な発想に基づいているからでは?
あるいはウクライナロシア問題で、「ウクライナに武器を供与して反転攻勢を!」などと言うのは、ロシアが悪でウクライナが善だから、善に勝って欲しいという単純な発想に基づいているからでは?
経済や政治、法律の問題は、残念ながら「共感」に基づくほど間違った判断を下しやすいと言われることがある。
誰かが殺人犯と言われた時、論理的に証拠を提出するべき時に「私は家族が殺されたのが憎い!だから被疑者は死ぬべきだ!」と言って、被疑者の冤罪の可能性を考慮に入れずに報道され、その結果、報道への共感によって取り返しのつかない冤罪に容易に繋がったとしたら?袴田事件だってそうだろう。
経済はもっと複雑だ。経済には事実判断と価値判断の区別が必要だが、ミクロ経済学が取り扱っているのは概ね事実判断と言われる。無差別曲線やゲーム理論は事実判断である。
それに対し価値判断とは「なにをすべきであるか」という問題のことだ。日本が国として何をすべきか、という話をしているときに、特定の集団だけを贔屓にするわけにはいかない。
例えばパレート最適性について考慮し、誰かが損をする場合は補償を与える方法を考えなければならない。
それを「私たちの税金を一体何に使っているんだ!」という感情論で補償原理を無に帰することは、典型的日本人がまさに陥りがちなことだろう。
補償は税金の正しい使い方であるから、自分の利益にならないという理由だけでは正しいことは言えない。
ひろゆき氏が「政治家にはサイコパスが必要なんですよ」と言っていたが、それは「共感能力ではなく、論理によって判断することのできる人間が必要である」という意味だと私は思う。
まあ、こいつもこいつで、補償のことを話さずに「ハンコ業界を滅ぼして効率化を!」などと言いそうな雰囲気だから感情論であることに違いはないが、論理には前提知識がある程度必要であるということでもある。
基礎知識のある人であれば、貨幣供給量が増えれば貨幣価値が低下すると考えるだろう。しかし知識のない感情派は、「お金が多いほどいい」「通貨発行権を駆使すればいい」と言い始め、貨幣価値が低下しないという前提のもとで国家経済を悪化させようとする。
経済の名目値ではなく、実質値を向上させるにはどうするか。その議論のためには確かな情報や知識が必要であるはずだが、短絡的な善悪を持ち出すことによって「物価高に追いつく賃上げを」などと、スタグフレーションがなんであるかも知らずに言い始めるわけである。
確かに、小学生でもわかるような善悪の問題において正しい行動をするのは日本人の良い点だと言える。外国では「見られていなければ悪事を行ってもいい」と言わんばかりの連中が巣食っているからだ。
しかし経済、政治、法律。そういった「高度な知識を伴わなければ善悪の判断を間違えるだろう」というシナリオで、日本人は落第点を取る可能性が高い。
経済であればミクロ経済学やマクロ経済学の教科書知識ぐらいは必要であるが、日本人は哲学にも疎く、相対主義が蔓延るので、「経済論はたくさんあるし、どれもが正しいことを言っているに違いない」と言う相対主義的な認識を持っている可能性が高い。
結局、短絡的な善悪観でミツバチの巣をつついたような行動しかしないのが、他の国の人にもバレているだろう。
たしかにそれはそれで社会秩序の維持にはなっているから、良いことかもしれない。
しかし経済や政治などにおいては別だ。正しい知識に基づいた善というのは、正しい内容を選んで勉強をする努力が必要なのである。どの論も平等だと相対主義的に考えている連中が、パヨク理論に陶酔し、発狂しているのを見たか。
1989年12月29日、日経平均株価は38,915円87銭(ちなみに翌日のザラ場では38,957円44銭というのがありました。)
その日のPERは予想で61倍でした。益回りにすると1.64%。これに対して同じ日の10年国債利回りは5.616%。1989年12月のCPIは2.6%ですから仮に予想インフレ率も同じくらいとすると実質金利は3%。今より潜在成長率が高かったとはいえ元本保証の国債利回りより値下がりリスクのある株式の益回りの方が低いなんて異常でしょう。直近のブレークイーブン・インフレ率はだいたい1.5%なので、実質金利がマイナス0.5%から3%まであがるとすると名目金利は4.5%になります。今、10年債が4.5%になって、日経平均がPER60倍=148,000円まであがりますか?そんなシナリオを口にしたら頭おかしいと言われるでしょう。でも当時は経済学者や証券会社の社長からNTT株に殺到した庶民まで、誰も気にしていませんでした。
なお予想益回りが当時の長期実質金利と同じ3%になるとPERは33倍、仮にスプレッドを現在Fedが過去30年のS&P500の予想益回りと10年実質金利の平均とする470ベーシス取ると(今の日本では小さすぎるけど、当時の潜在成長率を考えればまあそんなものでしょう)益回り7.7%、PERは13倍です。当時、私は業界の名もなき先輩の示唆と大学のマクロ経済学の授業で習った流動性選好理論のアナロジーから株式益回りと長期金利のイールドスプレッドについて考え始めていました(これがDCF法と同じ発想で、Fedのバリュエーションにも使われていると知ったのはずっと後になってからのことです。)。そのロジックによると株価は8300円、5分の1ぐらいになるはずです。でも24歳、社会人2年目の私はバブルに煽られ、理論的に突き詰めて考える姿勢にも欠け、異常なバリュエーションを異常と思いませんでした。翌年の大発会から株価はまさに「フェアバリュー」(!)にむかって真っ逆さまに転がり落ちていきます。
もっとも当時は「バリュエーション」なんて考えている余裕がなかった。マーケットもメチャクチャなら、売ってる人も売らせている人もメチャクチャでした。朝6時に独身寮に流れるラジオ体操で叩き起こされて7時に出社、タバコの煙で株価のボードもかすむオフィスで1時間毎に怒号とともに予算(ノルマ)の達成をチェックされる。セクハラだのパワハラだの概念自体が存在しておらず、予算未達のセールスは椅子を取り上げられたあげく、受話器をテープでぐるぐる巻きに手に縛り付けられた状態で電話させられて、集計後に上司に殴られていました。配属された早々客に「週末俺の別荘に来い」と言われた女性(1989年は私の会社で初めて営業店舗に女性が配属されました。)は営業課長に「てめえなんで行かねえんだよ」と怒鳴りつけられていました。
多くのセールスは外回りに行けば客に名刺をビリビリに破かれたり、水を引っかけられたりしていました。でもこちらも数字ができなければ勝手に客の名前で注文を出していたのだから(いわゆる「ダマテン」。会社にはさまざまな苗字の三文判が常備されていました。私はしてなかったけど、研修中で店を離れていた間に営業課長に虎の子の客でやられました。)、そのぐらい当然でしょう。1989年、私の勤務先ともう一つの大きな証券会社が全セールスに号令をかけて売らせていた東急電鉄株。稲川会の会長に17億円も儲けさせるためだったなんてバブルが崩壊して社長が国会に呼ばれるまで知りませんでした。もっともそれを知っても驚きませんでしたけどね。
連日へとへとになって会社を出るのは夜中の12時過ぎ。丘の上にあった独身寮の窓から、その年に開業したみなとみらいの観覧車のライトを眺めて「こんな生活いつまで続くのかな」と思っていました。4年弱の在籍中に死んだ先輩も2人知っています。大学アメフト部出身の偉丈夫だったKさんは寮のベッドで朝起きてきませんでした。Iさんは倒れて、亡くなったのが私が辞めた直後でしたので詳細は知りません。まだみんな20代だったのに。
よくあんな生活送ってましたよ。毎日毎日、生きていくだけで精一杯でした。健康を害さず、精神も病まず、犯罪で後ろに手が回ることもなく転職できただけでもよかったのかも知れません。
今日の日経平均株価は終値で39,098円68銭。34年2ヶ月前を少しだけ超えました。でも今は投資家も、株を売らせている人も、売っている人も、人格、経済に関する識見、人権意識、モラル、マナー、当時を知る者からするとすべてにおいて比較することすらおこがましいほど優秀です。
株価はとても大事な経済指標です。上がるに越したことはない。でも上がれば何をしてもよい、数字さえよければ中身はどうでもよいというものでは決してない。バブル崩壊以後、日本の株はダメだダメだと言われ続けてきました。今日ようやく失われた30年が終わった、34年前に戻ったと解説する人もいます。でも私はそうは思わない。株式市場に携わる人々は、この間に達成した株価に反映されることのない成果を誇ってよい。心からそう思います。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/06/post-7a96.html
偶然はてなブックマークの上の方にあがっていた極東ブログの記事を読んでうんざりしたので、思うところを書いておきたい。とは言え、finalvent氏の議論それ自体を批判するつもりはない。その裏側にある、「不景気の主因を日銀に帰さないと気が済まない人たち」の困った思考パターンに対して一言もの申したいのである。
氏のちょっと出来の悪い陰謀論については措いておこう。気になるのは、というより、前から気になっていたのは、日銀を非難する人たちは何故こうも自分の意見の正しさに確信を持てるのだろうかということだ。自分たちの意見の方が間違っている可能性を慎重に考慮した議論をついぞしばらく見たことがない。現状の日本で金融政策が有効である、インフレターゲットを採用すれば期待インフレ率は上がる、量的緩和すべきだ、等々、自信満々でまくし立てておられる。たまに反論があってもまるで聞く耳を持たないご様子だ。
しかし、当の経済学界においては、これらの意見はどれもコンセンサスとは言えない。どちらかというと、2000年代半ば以降「ゼロ金利下での金融政策の有効性」についてはあまり目新しい論考が出ていないというのが現実と言って良いのではないか。「不景気から脱却した後も利上げをせず、過剰なインフレを放置することを約束すれば、ゼロ金利下でも中銀は影響力を行使できる」というKrugman他の議論は、「でもその約束を信じる理由がないじゃん」という十年来のツッコミに対して依然として回答できていない。この議論が死に絶えたわけではないが、最近の議論ではこの「約束」を信じてもらえない(=金融政策が機能しない)可能性にあらかじめ言及する論文が多いように思う(Mankiw and Weinzierl (2011)など)。
一方で、財政政策の研究は急速に進んでいる (ゼロ金利下では財政乗数が大きくなるとしたChristiano et al (2011)やWoodford (2010)などが代表的だろうか)。これは、むしろ復活したという表現の方が正しいのかも知れない。いわゆるDSGEマクロモデルでは財政政策の効果は無きに等しくなるので、マクロ経済学者の間では「景気対策は金融政策で行うべき、即ち、中銀が責任を取るべき」、という理解が一般的になった。いわゆる「リフレ派」とかその界隈の人たちが日銀をやたらと非難したがるのも、元々はこの理解を出発点としている(はずである)。だが、ゼロ金利下では、この常識それ自体が成立しないらしいことが少しずつ分かってきたのである。
この「常識の通用しない世界」では、色々なことが起こりうる。「ゼロ金利下では減税が景気を悪化させうる」としたEggertsson (2009)の論文もそうだし、逆に「消費税増税でデフレから脱却できる」と論じた論文もある。今年のアメリカ経済学会で話題になったCorreia et al (2011)の論文がそれだ。結論は、「ゼロ金利の下では金融政策は有効ではなく、むしろ消費税を緩やかに増税していく(同時に裏で所得税を減税する)ことで利下げと同等の効果が得られる」というものだ。大雑把に言えば、消費税増税でも物価は上がるわけで、これがインフレ(=実質金利低下)と同じ効果をもたらすという理屈になる。ちなみに、所得税減税を伴わず、消費税増税単体で景気回復が可能とする論文をWren-Lewis (2000)が10年も前に書いている。彼のブログに簡単な解説があったので、興味のある人は読んでみると良いだろう。
http://mainlymacro.blogspot.co.uk/2012/04/more-on-tax-increases-versus-spending.html
ちなみに、アメリカ経済学会ではこれ以外にもゼロ金利関連で面白い論文が発表されていたのだが、The Economistの以下の記事が良い要約になっているのでそちらを参照してもらいたい。金融政策に対して学界が悲観的になりつつあることも、これを読めば概ね理解できるだろう。書き手は金融政策の有効性を信じる人らしく、金融政策はもう無効だという考えを少し批判的に書いている記事なので、自分に都合の良い記事しか読みたくない類の人も気持ちよく読めるのではないかと思う。
http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2012/01/monetary-policy
蟲毒の壺の物語
さて、ここまで読んでなお「日銀は議論の余地なくワルモノ」と思えるものだろうか。日銀改革が景気対策の最優先課題と断言できるのだろうか。別にリフレの信仰を捨てて日銀を真の神として崇めなさいと言いたいのではない。世の中には正誤定かならぬ「よく分からない」ことが山ほどあるのであって、この金融政策をめぐる議論もそのひとつだと理解してもらいたいだけのことだ。
知識の足りない人ほど目の前の景色が世界の全てだと思い込む。その景色を共有しない人を見下したがる。知識が足りないことが悪いのではない。自分だって景気対策は門外漢で、趣味で気が向いたときに論文を追っているに過ぎない。大切なのは、自分は世の中をろくに理解できていないということを理解した上でモノを語ることだと思う。
Twitterでの議論を見ていると、知識の足りない人同士が互いの誤解を肯定しあって自信を漲らせていく過程をたまに見かける。なんだか、毒虫が相食んで更に自らの毒を強める蟲毒の壺を覗き込んでいるような気分になったのを今でも覚えている。たまには壺から出て外の空気も吸おうよ。
参考文献
Christiano, Eichenbaum, and Rebelo (2011) “When is the Government Spending Multiplier Large?”, Journal of Political Economy.
Correia, Farhi, Nicolini and Teles (2011), “Unconventional fiscal policy at the zero bound”, mimeo.
Eggertsson (2009), “What fiscal policy is effective at zero interest rates?”, FRBNY Staff Paper.
Mankiw and Weinzierl (2011), “An exploration of optimal stabilization policy”, Brookings Papers of Economic Activity.
Wren-Lewis (2000), “The limits to discretionary fiscal stabilization policy”, Oxford Rev of Economic Policy.
Woodford, (2010), “Simple analytics of the government spending multiplier”, mimeo.
これだ、「世界経済論」
https://www.keio-up.co.jp/np/detail_contents.do?goods_id=598
ヘクシャーオリーンの定理とか、比較優位のあたりでそもそも取引は成立する時点でお互いにメリットがあるから成立してると言及してるはず
両方のプレーヤーがそれぞれ利益を最大化してるわけではないが、取引が成立することは何らかのメリットをお互い享受しているから、すくなくともパレート改善ではあるということ
匿名での議論に意味なんてそもそもないと思うけど、匿名でばらした自分の履歴が嘘だって言われると反論はしたくなるな、まあ俺のお気持ちの問題
GDPを指標にすることが資源枯渇などの問題を引き起こすとは言われるが、まずはGDPがなんなのかよくわかっていなければ話にならない。
とよく表される。マクロ経済学では統計的にこれらを計算するが、Cは消費、Iは投資、Gは政府支出、Exは輸出、Imは輸入である。
三面等価の原則とは、生産、分配、支出の三面いずれからみても国内総生産(GDP)は同値になるということだ。つまり、GDPを支出としてみたとき、その量が増えているなら、生産、分配の量も等しく増えている。
ただし経済の実質値は、物価で割ったものであるため、名目GDPと実質GDPで区別する必要がある。
さらに国民の幸福を分析するときは、特に「一人あたりの実質GDP」という値を使うことが多く、中国はこの値が低い。
GDPのこの式だけだとざっくりしすぎなので、消費関数、投資関数といって、より詳細な式を考えて分析を行うことができる。
例えば「消費は所得に応じて増加するだろう」と予想できるため、所得の関数としてモデル化できる。
C = a + bY
Y: 可処分所得
a: 基礎消費
これをケインズ型消費関数という。しかしモデルの例でしかなく、より厳密にやろうと思うなら、貯蓄や予算制約を考慮する必要がある。
同様に、企業などの視点から見れば投資関数を考えることができるし、政府の視点から見れば政府支出の項目を算出できる。
増税を行えば可処分所得が低下する一方で、政府支出が増加するが、限界消費性向の値により、増税することがGDPの増加を抑制する可能性がある。
貿易について考えるなら、一見するとExばかりを増やせば良いように思うが、海外の製品がより安い場合、Imを増やすことによって総余剰(豊かさの一つ)が増える。