はてなキーワード: 坐禅とは
朝3時半、起床だ。ボケっとしてる暇はねぇ。修行は夜明け前に始まる。誰よりも先に、黙って座る。それが104年生き抜いた宮崎のじいさんの毎朝だ。
11歳から93年間、座禅を欠かしたことはねぇ。若僧どもがのそのそ起き出す前に、ちゃっかり座ってやがる。呼吸と一体になって、欲が入る隙間なんぞ一切ねぇ。
「何か考えるんですか?」だと?バカ言ってんじゃねぇ。何も考えねぇよ。妄想するな、その瞬間一息に全てをぶち込め。前も後ろもぶった切って「今」だけだ。余計なもん考えた時点で、もう負けだ。
「でも俺は雑念が湧いてくるんです...」って?甘ったれんな、そんなもん当たり前だ。名誉だの地位だの、見栄だのワガママだの、そんなもんで人間の頭の中はいっぱいなんだよ。だからこそ克服しなきゃならねぇ。それが坐禅だ。
坐禅ってのはな、「真っ直ぐ」ってことだ。背筋を、首筋をピンと立てる。右にも左にも傾くな。身体が真っ直ぐなら心も真っ直ぐになる。つまり正直に生きろってことよ。
スリッパ一つ揃えられねぇ奴に、まともな修行なんかできねぇ。歪んだスリッパは歪んだ心の表れだ。放っておく奴は、自分も歪んでるってこった。真っ直ぐ置け。それが当たり前だ。その当たり前を毎日積み上げる。修行ってのは「非日常」じゃねぇ。「日常」そのものだ。
掃除一つ手を抜けばやり直し。全部が修行。スリッパ脱ぐのも修行。置き方一つが心のカタチ。坐禅してるフリだけしても、そんなもん意味ねぇ。ちゃんと揃えて、ちゃんと生きろ。
坐禅ってのは、歩くのも、喋るのも、全部が禅だ。生活のすべてが修行そのもの。禅をやるってのは、特別なことじゃねぇ。その瞬間に、その行為に、真っ直ぐ向き合うことなんだ。
宮崎のじいさんは、11歳で母親と別れ、父親は病で死んじまった。引き取られた寺で、厳しすぎる老師のもと、毎日クソ厳しい修行だ。遊びたかったってさ、そりゃそうだ。誰だって逃げたくなる。でも、逃げずに座り続けた。
反発して、大学にまで行った。修行の意味が分からねぇまま悩み続けた。転機は29歳、老師が逝ったときだ。遺体の前で一晩中、黙って座り続けた。老師の生き方、言葉じゃなく「実行」で見せたその背中に、初めて心を打たれた。
「真似をする」ってのが学びの始まりだ。一日真似れば一日の真似、ずっと真似れば、それは本物になる。そうして宮崎さんは老師の跡を継ぎ、考えるのをやめて、ただ座るようになった。
大自然を見ろ。誰に褒められるわけでもない、報酬を求めるわけでもない。ただ咲くべきときに花を咲かせ、虫は鳴き、黙って去っていく。それが「法」だ。自然の法則に従って生きる、それが本当の「教え」だ。
人間の欲望に従えば、ただの迷いだ。自然は静かに真理を生きてる。だからこそ、人間も余計なことを捨てて、黙ってやるべきことをやるだけだ。
だから基本的に1文字ずつ変換していくわけだが、変換はできるだけスムーズに行いたい。多くの候補から選ぶことは避けたい。
もし常用漢字でない場合はググることやウィキペディることも辞さない。
劉備 玄米徳島から玄徳を抽出してググる。またはliu beiでググる
諸葛亮 孔雀明るいから孔明を抽出してググる。または諸君葛切り平均から諸葛均を抽出してググると「諸葛亮の弟」と出る
馬超 馬 超越
馬良 馬が良い
厳顔 厳しい顔
尹黙 藤原行成のWikipediaで見つかる藤原伊尹もしくは近衛前久のWikipediaで見つかる近衛信尹+黙
賈詡 膨張決済から張済を抽出してWikipediaを見ると張繡が見つかるのでそこからたどる
陳羣 陳列長文から陳長文を抽出してググる。または九品官人法のWikipediaを見る(学校の世界史に登場する数少ない三国志の人物)
夏侯惇 夏侯淵でググる。または元気に譲るから元譲を抽出してググる
楽進 楽に進む
何晏 何進のWikipediaで「孫は何晏」と出る。もしくは老荘思想のWikipediaで「何」で検索する
孫堅 孫 堅固
孫策 孫 策略
張昭 膨張昭和
張紘 膨張八紘一宇
周泰 周囲安泰
甘寧 甘くて丁寧
丁奉 丁寧に奉る
徐盛 徐行盛岡
董卓 呂布のWikipediaから見つける。または童卓でググる(誤り)
高順 高い順
郭図 郭(くるわ) 図
顔良 顔が良い
文醜 文が醜い
馬騰 馬 沸騰
鄧艾 姜維のWikipediaで蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士掲載から士載を抽出してググる
鍾会 姜維のWikipediaで蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士季節から士季を抽出してググる。もしくは鍾繇体(書道の分野に登場する三国志の人物)から鍾繇を抽出してググると「鍾会の父」と出る
羊祜 陸抗のWikipediaで「羊」で検索。または辛口憲法英語から辛憲英を抽出してググるかWikipediaを見る
王渾 王 渾身の一撃
思考や言葉を超えた「如実知見(あるがままを見る知)」が真の知恵。
姿勢・呼吸・注意の一点集中によって、心の習慣的反応を観察し、手放す。
目的は「無心(むしん)」でもなく、「あるがままを観ること(観)」。
思考を排除するのではなく、思考に巻き込まれない状態に気づき続ける。
自己とは一連の感覚・思考・記憶の集合にすぎず、それ自体に恒常性はない。
無意識の反応(カルマ)から脱し、自由な応答(智慧と慈悲)へと至る。
これは特定の「悟りの状態」ではなく、日常の中に現れる在り方である。
しかし、理論的には「空(くう)=縁起的な存在理解」に立脚している。
すべての現象は独立せず、相互依存によって成立している(無自性)。
項目 | 内容 |
実践の軸 | 坐禅による意識の純化と観察 |
哲学的基盤 | 無我・空・縁起 |
方法論 | 非判断的観察・今ここへの気づき |
心理的構造 | 自我は固定ではなく、条件づけによって生起する |
ゴール | 慈悲と智慧による自由な生き方 |
このように、禅の本質は宗教的装飾や象徴を離れても、その実践的価値と哲学的深さを保ちます。
仏像を拝むことなくとも、自己を深く観ること、執着から自由になること、他者に慈悲を向けることは、禅の精髄です。
教えの中でも「一切の法は自心より生ず」とあるように、外に求めず、自らの心の内を静かに見つめることが、最も確かな道であると申せましょう。
毎朝、5分でも静かに坐る時間を持ちましょう。ただ姿勢を正し、呼吸に意識を向けるだけで良いのです。思考が浮かんでも、それをただ「思考」と気づき、また呼吸に戻ります。
例えば、歯を磨く、茶を淹れる、掃除をする。どれも「今ここ」に意識を置く修行の機会です。その動作の感触、音、香りに意識を向けてみましょう。
歩くときに、足が地面に触れる感覚、風や空気の流れ、身体の動きに意識を向けます。スマートフォンを手放し、沈黙の中で歩く時間を日常に取り入れてみてください。
禅では、「何もしない時間」こそが最も豊かな時間です。予定と予定の間に、ただ座って呼吸する数分を入れてみましょう。忙しさの中にこそ、静けさを持ち帰る道があります。
自然は最高の禅の師です。木々のざわめき、風の流れ、雲の動きをただ感じることで、心は静まり、自己へのとらわれが薄れていきます。
食事の前に手を合わせ、「いただきます」と唱える習慣は、命のつながりに気づく禅の実践でもあります。小さなことに感謝する心が、煩悩を静めてくれます。
「すべては移ろいゆくものであり、固定した実体はない」との理解を日常に持つこと。喜びや悲しみも、雲のように現れては消えていきます。
足るを知るとか
お経を読めば救われるとか
死んだら戒名がいるとか
49日とか
お墓とか
坐禅とか
全ては空だとか
諦めろとか
なんか全体的に湿っぽいんだよ
お寺自体もなんか湿っぽいよね
暗い気持ちになる
調身(ちょうしん)と調息(ちょうそく)は、心を調えるための大切な準備である。
調息とは、呼吸を整えること。
ゆっくりと深く呼吸することで自然と静まり、今この瞬間に意識を向けやすくなる。
息の出入りを観察し、それと一体となることが勧められている。
調身と調息によって煩悩に振り回されることが少なくなり、思考が明晰になり、慈しみや智慧が育まれる。
これは、安らぎ(サマタ)と洞察(ヴィパッサナー)の基盤となる。
これらの実践は「涅槃(ニルヴァーナ)」すなわち、苦しみからの解放へと通じる道となる。
まず、静かで落ち着いた場所を選ぶことが大切である。床に座る場合は座布や座禅用のクッションを用いるとよい。
坐禅の基本の座り方にはいくつかの形があるが、一般的なものを紹介しよう。
① 結跏趺坐(けっかふざ)
1. 右足を左ももの上に乗せる。
2. 左足を右ももの上に乗せる(両足を交差させる)。
この座り方は最も安定し、長時間座るのに適している。
② 半跏趺坐(はんかふざ)(初心者向け)
2. もう片方の足は床に置く。
これは結跏趺坐よりも楽な姿勢だが、安定感が少し劣る。
足を組むのが難しい場合、正座や椅子に座ってもよい。大切なのは背筋を伸ばし、安定した姿勢を保つことだ。
④ 手の形(法界定印・ほっかいじょういん)
呼吸は深く、自然に行う。特に、息をゆっくりと吐くことを意識するとよい。方法としては、以下のようなやり方がある。
どちらの方法も、呼吸とともに「今、ここ」に意識を向けることが大切だ。
目は完全に閉じず、半眼(はんがん)とするのが基本である。視線は1~2メートル先の床に向け、ぼんやりと焦点を合わせる。完全に閉じると眠くなり、開きすぎると外の刺激に気を取られやすいからだ。
坐禅の目的は、何かを「考える」ことではなく、心を静め、ありのままを観ることである。
禅では「只管打坐(しかんたざ)」つまり、ただひたすら座ること自体が悟りの実践とされる。
急に立ち上がると、めまいや身体の負担が生じるので、以下の流れでゆっくり終える。
2. 両手をこすり合わせ、温めてから膝の上に置く。
3. 頭を少し下げて(合掌するのもよい)、心を落ち着ける。
4. 片方の足をゆっくりほどき、もう片方も解く。
5. 手を床について、ゆっくり身体を起こし、静かに立ち上がる。
初心者は 5分〜10分から始め、慣れてきたら 20分、30分… と延ばしていくとよい。
坐禅を続けることで、次のような変化が現れるだろう。
✅ 心の静寂:雑念が減り、穏やかな心が育つ。
✅ 気づきの力(マインドフルネス)の向上:日常の瞬間に意識を向けられるようになる。
✅ 慈悲と智慧の発展:自己中心的な考えが減り、広い心を持てるようになる。
「坐禅は何のためにするのか?」と考えることもあるかもしれぬ。
雲が流れるように、風が吹くように、ただ坐り、ただ呼吸する。それが、悟りへの道となるのだ。
では、静かに座り、この瞬間に心を向けるがよい。
以下では、これまでにまとめた「宇宙心理学」の理論と実践の枠組みに、仏教的なモチーフや概念を組み合わせてご紹介します。仏教思想とスピリチュアルな宇宙観は、意外にも多くの共通点があり、両者を合わせることでさらに深い気づきや実践方法が見えてくるでしょう。
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「宇宙(マクロコスモス)と人間の心(ミクロコスモス)は相似関係にある」という発想は、仏教的にも「一即多・多即一」や「色即是空、空即是色」という般若心経のフレーズと通じる部分があります。
- **色即是空**… すべての現象は本質的に空(実体がない)であり、同時に縁起によって姿を現す。
- この空性(くうしょう)という概念は、宇宙心理学でいう「見えない力」「量子的揺らぎ」とも重ね合わせることができます。
### 1-2. 根幹となる4つのキーワード × 仏教の教え
- 「すべては互いに依存しあって成り立つ」という仏教の縁起説は、フラクタル的な自己相似にも通じます。部分と全体が切り離せないように、私たちの内面も世界全体と相互に影響し合うのです。
- 「現在の思考や行動が未来を引き寄せる」という考えは、仏教でいう因果の法則(カルマ)に似た要素を感じさせます。善き思いと行いは善き結果を招き、悪しき思いと行いはそれ相応の結果をもたらす。
- 仏教にも“観じる(観法・観想)”ことで世界の本質を捉え、自他を変容させる実践があります。意識の向け方次第で現実の捉え方が大きく変わり、さらに現実そのものにも変化を及ぼすという点で共通しています。
4. **無意識の力 → 如来蔵(にょらいぞう)や阿頼耶識(あらやしき)**
- 大乗仏教では、すべての衆生の中に如来(仏)の種が秘められている(如来蔵思想)と説かれます。また唯識論では、意識の深層に阿頼耶識という“蔵識”があり、そこに無数の種子(しゅうじ)が蓄えられていると考えられます。宇宙心理学の「潜在意識=見えないが大きな力を持つ」構図と響き合います。
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# 第2章 「見えない力」こそが強い力である理由—仏教的解釈
### 2-1. 宇宙の95%を占めるダークマター・ダークエネルギー × 空性
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# 第3章 観測者効果・引き寄せの法則・フラクタル理論の融合
### 3-3. 引き寄せの法則と発願
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### 4-1. 占いを「占察」と見る
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### 5-2. 空(くう)と“やわらかな可能性”
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### 6-1. おみくじやタロットを「よい結果が出るまで」引く方法 × 仏教的リマインド
1. **まずは礼拝・合掌の心**
- 占いをする前に、仏前でなくとも「自分を取り巻くあらゆる存在への感謝」を込めて合掌し、一礼する。心を落ち着かせ、邪念を手放す効果がある。
- 言葉ではなく、場面や感覚をありありと描く。“無限の可能性”に開かれた空性を思い出す。
3. **占いという“観察”を繰り返す**
- おみくじやタロットで、ピンとくるまで繰り返し。“これだ”と思える結果が出たら、それが仏教でいう“因縁”に触れた合図かもしれない。
4. **結果を喜捨(きしゃ)し、行動に移す**
- 良い結果は心の励みに、不安な結果なら課題として受け止める。“喜捨”とは、結果がどうであれ執着しすぎず、感謝と共に手放す態度。そこから得た気づきを行動につなげる。
- 静かに座り、姿勢を整え、ゆっくり呼吸を数える。最初は5分程度でもOK。心を“今ここ”に置く。
- 占いで得たカードやメッセージ、星座などを軽く思い描き、そのイメージを空間に広げる感覚で観想する。
3. **行動→布施(ふせ)や慈悲行(じひぎょう)を意識**
- 自分の願いを実現する行動に移すと同時に、周囲や他者へも配慮・貢献しようとする心を持つ(菩薩行)。
- チベット仏教のマンダラや大日如来のイメージなど、仏教美術には多くの象徴や神秘的構図があり、ビジョンボードとしても利用できる。
- 宗派や個人の好みに合わせて、仏具や護符を身近に置き、そこに尊い象徴を感じることで無意識への影響を強める。
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# 結論・まとめ
1. **宇宙心理学 × 仏教の核心:縁起と空性、そして内なる仏性**
- すべては相互依存し、固定の実体をもたない(空)からこそ、大いなる可能性が広がっている。
- その内なる可能性=仏性は潜在意識の奥底(如来蔵や阿頼耶識)に息づいている。
2. **“見えない力”を敬い、智慧で照らす**
- ダークエネルギーや潜在意識といった不可視の領域は、仏教でいう空と縁起が働く世界。そこに無明ではなく智慧の光を注ぐことで、人生や運命に変化が起こる。
- この二つを組み合わせるとき、自分の内外がつながり、心身を超えたシンクロニシティが生まれやすくなる。
- イメージワークによって感情とエネルギーを高め、強く願う。
- 同時に、執着を手放し、他者への慈悲心も含めた“中道”のあり方を意識すると、より大きな調和と運命の展開が生まれる。
- 自己の願いを叶える過程で、同時に他者への思いやりや行動を怠らないこと。これが仏教の菩薩行とリンクし、自他ともに成長する道となる。
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## 最後に
本書(仮)で提案した「宇宙心理学 × 仏教モチーフ」の考え方は、あくまでも仮説的・実験的な融合です。とはいえ、共通点やシナジーは多く、実践すれば多くの気づきを得られるでしょう。占いを一種の“縁”として捉え、瞑想や仏教的な観想法で深め、“空性と慈悲の心”を育むプロセスをぜひ楽しんでみてください。それはやがて、あなたの潜在意識を通じて宇宙全体とのつながりを実感させ、より豊かで調和した人生をもたらしてくれるかもしれません。合掌。
我が家は、実家に近い住まいに住んでいるので、季節の変わり目やお盆には、お寺さんが来てくれる。
大体30分から1時間ぐらい。読経して、雑談して、お茶飲んで、だいたい5,000円ぐらい包んでる。(今のところ両親が負担している。)残念ながら宗派は伏せておく。
読経の時間は、瞑想時間に利用している。一定のリズムで詠まれる読経は、瞑想に入るバックグラウンドミュージックとして、とても良い。むしろ大学合唱部レベルの訓練を受けた人の生歌を聴きながら、瞑想できるとは、なんと贅沢なのだろう。
ちゃんとした線香を使えば、心地よい空間が演出できる。個人的な推し線香は白壇である。1,500円ぐらい出せば、ちゃんとした白壇の香りが嗅げるので、スタバのコーヒー3杯分で、100回ぐらい楽しめる。
そう、お寺さんがくる空間というのは、最近のスピリチュアルで推される要素をすべて満たした超良好空間なのである。
そして読経が終わると、お寺さんとの雑談をしている。近所の話題だったり、季節の事柄だったり、仏像の話だったり。
なによりもお伝えしたいのは、お寺さんの傾聴力の高さである。
色んな人と雑談するの仕事みたなものだと思うが、とても柔らかい物腰で聞いてくれる。このレベルの傾聴力があって、仕事できる人は、普通に都内で働いてる人なら、年収1000万クラスは硬いと思う。※某1on1支援企業に勤めている人を知ってるが、その人とくらべても遜色ないどころか普通にレベルはお寺さんの方が上かも。ビジネス的な側面だと1on1企業の方がわかってくれる感はあるだろうけど、一方のお寺さんには、地の利がある点で、わかってくれる感は上にくることがある。
坐禅・瞑想体験は、普通にセミナーに申し込んだら1回5000円~とか。某企業の1on1に申し込んだら普通に1時間数万ぐらいとか。自宅に来てくれた上で、2つセットで受けれるサービスなんで、普通はない。
このライフハックの一番むずかしい点は、接点を持つのが難しいところだ。入会要件が不明だからね。自分もあえて、寺を探そうとはならない。郊外住まいなのだが、いまのお寺さんは、お祖父さんが引っ越しをするタイミングで、本山に相談して紹介してもらったところだそう。
今のお寺さんの先代の人は、読経がうまくなかったので、おばあちゃんから難癖つけられていた。うまく代換わりで、お寺さんガチャに成功しただけかもれない。
お葬式になれば、だいたいちゃんとしたところを紹介してくれるし、変な葬儀会社紹介されてぼったくられるより安心。もし5,000が安すぎると思うなら、そのタイミングで課金すれば良いだけではある。懐事情も相談すれば良い※そういう意味では、お布施の多寡を問わないのは、所得の再分配機能をになっている。とも言える。
自分ひとりの体験では説得力に欠けると思うので、もう一事例を紹介しておく。奥さんの実家はそこそこ田舎なため、高齢化が進んでいる。そういう中で、ちゃんとニーズに合った活動をしていて、エンディングノートをテーマにした講演や、老後の資産活用のセミナーなんかもやっている。お寺で。下手な営業で詐欺に引っかかるよりはまともな人を呼んでくれているので、また信頼感をベースにしたコミュニティが維持されているようだ。
ということで、ライフハックとしてのお寺さんを紹介した。自分はたぶん、このままお寺さんとの関係は続けるだろうし、おそらくどこかでまた代替わりするかもしれない。お寺さんの良さみたいなものが少しでも、伝われば幸いである。
「スピリチュアルなんて嘘ばっかり」と分かってしまってから、人生がつまらなくなった。
龍の絵を飾って運を引き寄せてたかった。
でもね、それらは全部嘘だったのだ。
非科学的で紛い物だったのだ。
反ワクにはならなかったけど、陰謀論も嗜んでいた。
レプタリアンがいると思っていた。
幸せだったんだよ…!!
わかる?
嘘だとしても、それを信じてる方が幸せな時があるんだよ…。
そう思う。
そう思うんだけど、何か虚しい。
この世で、何でもない人でいるのが虚しい。
覚醒剤のように。
私につき纏う。
でもね。
もう戻れないんだよ。
あの幸せには。
スピ仲間とは縁が切れた。
話が合わないから。
これから何を糧に、何を喜びにして暮らしていけばいいのだろう。
(追記)
たくさんコメントありがとうございます。
一つは、高いお金払って習っていた先生の指導が厳しすぎて罵倒・嘲笑されること。
また、別の先生からはFXの誘いを受けたこと(FXの誘い=詐欺ですよね…)。
スピにハマりすぎで従来の友人たちと疎遠になってしまったこと。
何をやっても現実が変わらないこと。
などなどです。
いきなり目が覚めたのではなく、少しずつ剥がれていくような形で目が覚めました。
他の伝統的な宗教を勧められる方もおられますが、スピリチュアルでも「神」や「仏」というものに触れることが多く、今は神や仏、坐禅や祈りについても拒否反応があるため、今は触れる気持ちになれません。
オタク趣味があればいいのですが、漫画やアニメを少し見るくらいです。
ただ自分自身でも、何かハマれるものがあればとは思っています。
さて今夜も睡眠に挑戦です。
昨日、タイムアタックとか思いながら、早く寝るぞ〜と息巻いていましたが、あれはよくなかったとイマジナリー主治医にしかられました。寝るぞ寝るぞ寝るぞとなっていると、かえって眠れないことがあるから力まないようにと、ものの本やウェブサイトに書かれていました。反省です。淡々とやるのがいいのかもしれません。
22:40抜きました。22:55デエビゴ7.5mg服用です。2315布団に入りました。
マインドフルネス等をおすすめいただきました。マインドフルネスというやつはよく知らないのですが、昔京都のお寺で習った坐禅を数年間続けていたことがあります。半眼で無を思考して、数を数えるやり方です。
坐禅すると、私の場合はかえって眠れませんで、今は寝る前はやっていません。マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想は眠れるのでしょうか。人によるのでしょうか。そのうち調べます。
仏教理解への解像度が違いすぎて高卒が旦那で国公立大学が妻にしか見えない。いくらなんでも”仏教”と一括りにしすぎなのが気になる。なんで宗派への言及が全くないのだろう、旦那のほうが高卒なのではないだろうかという仮説が立つ。だいたい、どこぞの葬式に引きずり出された場合でも、事前に宗派を把握してないと始まらない。というのは、どんな行動で地雷を踏んで要らぬ批判を浴びてしまうか宗派の名前が事前に判明していなければわからないからだ。同様に、妻がハマっているとされる宗派の情報がわからないと、対応の取りようがない。
危険なのか無難な宗派なのか、まずは切り分けて脅威度と負担度合いを推定するべきだ。無料かお茶会程度の額でやってるる坐禅会くらいなら無難だろうし、くっそ朝から朝回やってますみたいな家庭に負担がかかるようなところならしっかり話し合うべきだ。
書いてる私の略歴 中学で坐禅にはまって禅寺に通いはじめる。スピ系話が好き。ワクチンはP・P・Mで接種。年齢 中高年。
私が小学生の時、PTAのボス的存在に連れられて1946年に設立された教団に通い始める。
以下、母の証言による。
信者は皆の前で反省しなければならない。家のなかのあれこれを全部話させられる。貯金の額も申告させられる。
毎日布教に行く。母に同行した支部の班長は近所の不幸をあれこれ聞きだし、それを使って信者を獲得(○○で悩んでいた人が入信して良くなったみたいな)し、毎月信者獲得数トップで誉められていた。
布教の時に配る教団の冊子は信者が買う。沢山買って沢山配れば誉められる。返品不可。
ごく短期間で母ギブアップ。辞めるときにかなり揉めたらしいがなんとか脱退。
その後私が禅寺に通い始める。
退職後知人に誘われて入信。
一日中道場に詰めて連絡が取りにくくなるも、当初は留守番電話の設置だけ薦めて我が家は静観。
その後我が家に来て自分は清浄、我々は不浄な態度を露骨に見せ、他人の不幸を今まで以上に嬉しそうに話し始めたので、信者の自惚れに餌をやるタイプの碌でもない教団なのか、元々性格に難のある親戚だけがそうなって教団はまともなのか判らず我が家は対応に苦慮。
ご奉仕に身につけるエプロンは他で使うと穢れるとか、お守り袋作成の中に電話に出ると穢れるのとか、禁忌があまりにも厳しすぎ、自分達は守られているので医者に行かなくても大丈夫、薬は毒等々と言い出す。
うぬぼれはどこの宗教でも社会常識でも悪い事なのだが、それを抑えている気配が無く、禁忌によってそれを煽っているように見える。私の入門した禅寺の御老師様はこういうことにかなり厳しかったので絶句する。これはかなりまずいかもと退団の説得に乗り出す。しかし時既に遅く不浄な我が家の言葉は届かず、「守られている」と大見得切っているので事故や病気になったときに我が家に助けを求められず、却って事態が悪化すること数えきれず。
薬は毒だとか恐怖を煽りつつ、私たちだけは救われるんですよと優越感をくすぐる、宗教というより殆どマルチ商法という気がしたので「苦情の坩堝」や「悪徳商法マニアック」の体験談を読みあさり、なんとか脱退の糸口を掴もうとするも結局力及ばず。
晩年、教団墓地管理費を長年二重取りしていたことが判ったが(お金は返ってこない)、それでも結局親戚は死ぬまで信者だった。
親戚の死後、親戚が身につけていたお守りの事で親戚を誘った女性とも初めて会ったのだが、教団墓地の話ははぐらかすのに、突然の葬式仕切りで大忙しの私を道場へ何度も何度も誘った。控えめで気が弱そうで善良そうな女性がである。長年道場だけが重要で世の中の事は些事と教え込まれているとこうなるのだろうか。「世の中に間借りして修行させてもらってることを忘れるな」って御老師様は言ってたから、あんまり世の中を軽く扱うのもまずいのではと思う。
また信者に口寄せさせて、その人が話したことを真に受けて皆で実行していたようなのだが、そんな心許ないものに左右されてどうするのだろう。世間に対しては一々疑いや不信を抱くのに自分達の行いに対してはあまりにも信用しすぎなのもまずいと思う。「自分を疑え」「脚下照顧」と先達も諭しているのに。
通帳など紛失しているので判らないままだが、親戚が教団に納めた金額は8桁を超えていたようである。教団の維持にお金が必要なのはわかるけど、それも程度問題だと思う。
職場と家以外、人間には案外居場所がない。親戚にとって道場は第二の我が家だっただろうし、母も家とパート先以外の居場所が欲しくてあの教団に行ったと思う。でも信者獲得数やお布施の額で確保する居場所は良くないと思う。
余談だが、コロナが流行した年にこの教団の他県支部でクラスターが発生したらしい。薬は毒、我々は神様に守られている、発熱は好転症状と言い続けていたら、三密対策もとるにとれなかったろうとは思う。
タイトル通り。ある日知人ともう一人が冊子をもって布教に来たので、私は中学の時に禅寺に入門して受戒していること、今も信者である事を告げてお引き取りを願ったところ、「先祖供養はお寺任せではなく、自分でやらないと。ここなら自分でできるんです」と連れの年配女性。「自分でやってますが」と私。
しかし相手は怯まず他のやり方では駄目と言わんばかりに押してくる。
それなのに冊子には教団名が書かれてない。祈祷文をネットでくぐって漸く判明した。自信あるならちゃんと名乗れよ。
知人も過去の自分の不幸を開陳するのだが、母の体験もあるので私は一切自分の状況を口にせず「現状に大満足(大嘘)」で押し通す。キリスト教の告解は神父様だけにだし、仏教は仏に懺悔する。到らぬ身の人間相手に懺悔しても悪い結果にしかならないと御老師様も言っていたしね。
大宗教でも自派が一番優れているといってるけれど、それは大昔の、印刷術も電話もなく、人の移動がほぼ徒歩だった時代にアクセス出来る範囲にある宗教では一番と言ったわけで、色々な宗教信者が一緒に暮らす現在それをいうのは利より害の方が大きい。私の禅の師である御老師様は他宗教をくさす言葉は一言半句仰らなかった。
確かに小学校の友達が教会で入信したときに「私は救われるがあんたたちは煉獄」と言い放ったし、私が禅寺で入信したときクリスチャンの友人が牧師執筆の本を貸してくれ、そこには孝行を尽くした妹よりなにもせず親の死後仏壇を買った長男が誉められる仏教は間違っていると書かれていた。
事実に基づかない批判(貧女の一灯をしらんのか)を展開する行為の方が、私にはドン引きだった。さすがにこういうのは今は少なくなっていると思う。
常識を疑う、破るのは仏教にもあるが、それは修行が進んだあと、無意識下の刷り込みを打破するためのもので、一般信者が社会常識を踏みにじっていいということではない。
普遍的な道徳に照らしてアウトなものは宗教でもアウトだと思う。
この二人組は本当に何度も来た。コロナになってやっと音沙汰がなくなって悪いがほっとしている。
20代後半のある日、家で読経中に宗教の勧誘が来た。中断させられてイラっとした私は数珠袈裟のままドアを開けた。そこに立っていた男性は、私の数珠袈裟をみて「これはお邪魔をしました」と深く一礼した。近所のキリスト教会の牧師である事を名乗って、若い女で異教徒の私にもう一度お辞儀をして、信者を引き連れて帰っていった。信仰する者に出会ったことが嬉しいという顔をしていた。「美味これ淡味」本当に価値のあるものは奇をてらわない普通の姿をしているのだという御老師様の言葉が浮かんだ。私も深く一礼した。
暑くて自律神経のバランスが崩れると、一回寝ないと頭がぐらぐらして会話も覚束なくなるんだよな…飲酒するとちょっと持ち直すがデメリットがでかい。暑くて、って言うとなに言ってんだみんな暑いわってなるし…。
自律神経を鍛える筋トレを半年ほど続けているが、夏はやっぱだめだ…出社しているときは見るからにダメそうなのが伝わるのか、意識レベルが低い人向けの話し方をしてくれていた。リモートで多少声がへろへろしている位だと話が通じているものとして進んでしまう。家から出ていないのに暑さの何が影響するんだって感じですよね…。
こんなん誰にも言えない。どう考えてもただのダメ人間だ。病院では言っているけれど、なんか暑いとそうなる人もいますよねーって流されて、どうすりゃいいんだ。病院的には無理な時は休んで欲しいんだろうが、そんなしょっちゅう休めないし。
でも酒はダメだ。エスカレートしそうだし。ベンゾジアゼピン系ももう処方してもらえないし。
坐禅するとちょっと落ち着くけれど止めて作業し出すとぐらぐら。焦ると自律訓練法もうまくできない。できても坐禅程度の効果だし。
はーどうすりゃいいんだ。