町本会公開会議@大阪の翌日に、大阪で書店巡りをしてきたことは、先日の記事に2回に分けて書きました。1日でこんなに、と我ながら驚くほどたくさんの本を買ってきたんですが、大阪の本屋さんでは、やっぱり大阪本を買いたいなあということで、関西に縁のある書き手の本を何冊も買ってきましたよ。で、今回は購入本のうち、関西の書き手の本3点を紹介したいと思います。
- 朝井まかて『阿蘭陀西鶴』(講談社)
- 津村記久子『エヴリシング・フロウズ』(文藝春秋)
- 姫野カオルコ『近所の犬』(幻冬舎)
3点とも女性作家のものになったのは偶然。朝井まかてさんは大阪府羽曳野市、津村記久子さんは大阪府大阪市の生まれだそうで、姫野カオルコさんは大阪ではなく、滋賀県甲賀市のお生まれとのこと。
まずは『阿蘭陀西鶴』。井原西鶴とその盲目の娘おあいを主人公にした時代もの。これ、すばらしい作品でした。実に達者な文章で、ふだん時代ものを読み慣れない身にも、実にすらすらとおもしろく読めるのです。全編に響き渡る大阪弁の台詞も心地いい。
純粋にお話としてもおもしろいのですが、本好き本屋好きにはうれしいことに、俳諧や草紙の流行、書き手と本屋(板元=版元)とのやりとりなど、当時の出版事情があちこちに出てくるのも、実に興味深い。
ぼくはふだん時代ものを読まないので、そういう趣味を知っている知り合いからは意外だと驚かれそうなんですが、『阿蘭陀西鶴』があまりにも気に入ってしまったので、このところ、朝井まかてさんの本を続けて読んでいたりします。とにかく達者な文章を書く方で、どの作品もを読んでも、一文一文がしっかり入ってきます。先日、デビュー作だという『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』(講談社文庫)を読み終えたんですが、構成といい人物描写といい文章といい、とてもこれが新人の手になるデビュー作とは思えないもの。いやはや。思いがけない、そして、うれしい出会いでした。
『エヴリシング・フロウズ』は、隆祥館書店で買ったもの。昨年、『本屋図鑑』の刊行記念イベントを隆祥館書店で開催してもらったのですが、そのとき、津村記久子さんがお客さんとして来てくれたのでした。隆祥館書店では、有名作家が出演するトークイベントを開催することもありますが、同店が開催してきたイベントの出演者のなかでも、もっとも知名度で劣るというか、ゼロに等しい二人の回に、芥川賞作家が来てくださるとは……。そりゃ、驚きますよねえ。だから、この本を買うなら絶対に隆祥館書店でと決めていたのでした。
『エヴリシング・フロウズ』は、大阪で中学生時代を過ごした身には、なんというか、ひりひりするような感じのする作品でした。
直木賞受賞作の前作『昭和の犬』もそうでしたが、姫野カオルコさん『近所の犬』は、ほんと、犬好きにはたまらない1冊です。内容は、版元の紹介によれば、《もっさり暮らす或る小説家が、身辺の犬たちを愛でる「犬見」私小説》というもの。犬小説ですが、猫も出てきます。(しかも、その猫のエピソードがいいのです。)『昭和の犬』の読者はぜひ読むといい思いますよ。
それにしても、これ、直木賞作家の受賞第一作ですよ。版元も同じなんだから、ハードカバーで出せなかったのかなあ、と、そんな作品の内容とは直接関係ないことが気になったりしてしまいました。
書評はしない書かないことにしているので、代わりにというわけではないけれど、全国紙の書評もそれぞれ1つずつあげておきますので、ご参考に。「『阿蘭陀西鶴』朝井まかて著」(10/15 読売新聞)。《近世の上方は、成熟しきった自由競争社会で、版元との丁々発止も、最新の研究を踏まえて書かれている》(評者:上野誠)。「エヴリシング・フロウズ [著]津村記久子」(9/28 朝日新聞)。《作者はこれまでも、ほぼ一貫して、弱い立場の者たちの勇気ある正義を描いてきた。この作品も例外ではない》(評者:佐々木敦)。「【書評】『近所の犬』姫野カオルコ著」(10/26 産経ニュース)。《本書には、犬好きならずとも、つい頬が緩む、ままならぬ愛の可笑しみと悦びが綴られている》(評者:藤田香織)。
以下、姫野さんの小説を読んでいたら、なんとなく思い出したことです。姫野さんの小説とは直接関係のない、単なる独り言ですが、でも、なんとなく書き留めておきたくなったので。
* * *
『近所の犬』を読んでいたら、仲良しだったジョンのことを何度も思い出した。
以前住んでいたアパートは、大家さんの家も同じ敷地内に隣接しているタイプのもので、その大家さんが飼っていたのが、ジョンだった。犬種は、グレートピレニーズになるのだろうか。白くて毛が長くて、大きな犬だった。
ジョンは、番犬としては完璧な犬で、大家さん宅の門をくぐる人全員に吼えていた。例外なし、100%だ。でも、なぜかぼくはいちばん最初のときから、一度も吼えられなかった。犬族の仲間ぐらいに思われていたのだろう。
ジョンはやさしい子だったが、なにしろ子馬ほどもある大きなからだで吼える、声もなりも大きな犬だったから、犬が苦手だったりそれほど親近感を持てなかったりする人には、こわい存在に映っていたようだった。でも、ぼくには、いつもお腹を見せてごろんとなっていたのだった。
休日は、よく一緒に過ごした。お腹をなでて話しかけてやると、いつも気持ちよさそうにしていた。大きな足をどかりとくっつけてくる。からだのどこかがくっついていると安心なのだ。しばらくおしゃべりをして、じゃあね、と行こうとすると、毎回、「もう行っちゃうの?」という顔をした。なりが大きいだけに、その子どもみたいな様子がなんともおかしかった。
ジョンは、ぼくが会ったときにすでにけっこうなお年だったようだ。ぼくらはやがて引っ越すことになり、その家を離れてしまった。しばらくジョンに会わない日が続いた。久しぶりに大家さんの家の前を通る機会があったので、ジョンはいるかな、とのぞいてみたら、ジョンはいなくなっていた。なにしろ、なりの大きな犬だったものだから、ジョンがいなくなっただけで、大家さんの家が倍ほども広く見えるほどだった。
ジョンが亡くなるときに居合わせることができなくて残念な気もしたが、同時に、いなくてよかったとも思えた。とにかく、さびしかった。
ちなみに、ジョンは、ほんとはケリーくんという名前だった。見た目がジョンっぽいので、ジョンと勝手に呼んでいた。ジョンも、こちらが「ジョン」と呼ぶとうれしそうに応えるのだった。
ある日のこと、妻の家族が遊びにきた。ジョンはもちろん、いつものように盛大に吼えるはずであった。ところが、声が聞こえない。どうしたのかなと思って外に出てみると、ジョンが、ごろんとお腹を見せて甘えていた。義父が、「ジョン、ジョン、いい子だね」と、お腹をなでているのであった。
義父には、それまでにジョンの話をしたことは一度もなく、我々が(勝手に)ジョンと呼んでいることも話したことはなかった。ジョンのことは知らないはずだった。なのに、「ジョン、ジョン」なのであった。ぼくが、あの家に住んでいた数年の間、ジョンに吼えられなかったのは、ぼくの知るかぎり、ぼくと義父だけであった。
その義父も今はいない。ジョンに会ったら、「ジョン、ジョン、いい子だね」と、お腹をなでていることだろうと思う。
『近所の犬』を読んだら、そんなことを思い出したりしたのだった。