『ぼくのミステリ・クロニクル』(国書刊行会)の「あとがき」を公開します(版元の許可を得ています)。
本書がどのようにしてできたのか、そもそも、なぜこの本を世にといたいと思ったのか、本書で空犬は何をしたのか(当方の著者表記に「編」とあるのがまぎらわしいのか、単に「編集」をしただけだと思われることが複数ありましたので)、なぜミステリ畑の人間ではない空犬がミステリ界の名編集者と知り合い、その編集者人生を本にまとめるという大役をつとめることになったのか……それらすべてについてふれています。
『ぼくのミステリ・クロニクル』がどのような本なのかが、版元の用意した内容紹介や帯の惹句とは別の意味でよくわかるものになっているかと思います。本書に興味はあるけど、でも、高いからなあ、厚いからなあ、ミステリはあまり読まないからなあ、というような方は、ぜひこの一文をお読みいただければと思います。
あとがき
空犬太郎
物心ついたころから、周りには本がたくさんあった。自然に、本が好きになった。
やがて、本そのものだけでなく、本をつくっている人や本を売っている人にも興味をもつようになった。「本を売っている人」には、近所の小さな本屋さんに行けばいつでも会えるし、どんな仕事をしているのかも想像がつく(といっても、実際にはレジでのやりとりを目にしていただけで、ほかにどんな作業があるのかを知るのはずっと後になってからのことだが)。「本をつくっている人」というのがわからない。「本を書く人」=作家がいるのはわかる。作家が本を書いた後、どのような過程を経ていま自分が手にしているような「本」のかたちになるのかがわからない。わからないから、とても気になった。
いつその存在やその呼称を知ったのか、今となっては思い出せないが、おそらくは本の巻末のあとがきや解説でふれられているのを目にしたのだろう、作家がつくりだしたものを「編」みあげ、本のかたちにして世に送り出す仕事があり、それを専門に手がける人が「編集者」と呼ばれることがわかってきた。ジュブナイルのSFやミステリを読んでいたから、早川書房の福島正実の名は自然と覚えたし、小林信彦、都筑道夫、常盤新平といった書き手がみな元は編集者、それもミステリの編集者であったことも、ものの本で知った。
もちろん後に作家として活躍する、こうした有名人以外にも、この世界には多くの名伯楽が存在する。新保博久『ミステリ編集道』(本の雑誌社、二〇一五)には、ミステリというジャンルをつくってきた名編集者たちのことばがまとめられているが、本書の主人公、戸川安宣もまちがいなく、このジャンルを代表する編集者の一人だろう。
戸川(「さん」とすべきところだが、本稿では敬称を略す)は、二〇〇四年に本格ミステリ大賞特別賞を、講談社の宇山日出臣とともに受けている。新本格ブームを支えた立役者としての活躍が評価されたものだ。ミステリ大賞の特別賞は、十数年におよぶその歴史のなかで、わずかに三回、四人にしか与えられていない。宇山・戸川がミステリの世界で果たした仕事がいかに大きなものであったかを示す証左といっていい。宇山・戸川以外の受賞者は、第一回(二〇〇一年)の鮎川哲也、第八回(二〇〇八年)の島崎博。こうして受賞者の名前を並べてみると、賞の重みがなおのことはっきりする。
筆者は、いまではとても熱心なミステリ読みとは呼べないような趣味の持ち主だが、先にも書いた通り、小学生のころはジュブナイルSF、ジュブナイルミステリにどっぷりで、昭和の本好き小学生の例に漏れず、江戸川乱歩の少年向け作品を小学校の図書室から順に借り出しては読みふけっていた。ポプラ社の乱歩全集を読破し、続いてホームズ、ルパンも読み切ってしまった読者が次に手を出したのは、新潮文庫などの大人向け文庫。ジュブナイルを卒業し、大人の読書の入り口に立った読者にとって、創元推理文庫はミステリ・SFの名作・定番の宝庫だった。「戸川安宣」の名に出会ったのは、そのようにして手にした創元推理文庫巻末のあとがきか解説でのことだったはずだ。
後に趣味が乱歩周辺の古い探偵小説や、乱歩初期作品の流れから幻想のほうに傾いていくと、今度は同文庫の〈日本探偵小説全集〉や〈中井英夫全集〉が待っていた。本文で語られたとおり、いずれも戸川が手がけたものだが、手にした当初はもちろん知るよしもない。
そんな出会いから何年かが過ぎ、出版社に入って編集者となった。ジャンルが違ったため、仕事でSFやミステリの編集者と知り合う機会はなかったが、数年前、ひょんなことから戸川本人にお会いすることになった。当方がWEBで書き散らしていた書店や本に関する情報を目に留めてくれていた方が偶然にも戸川のご子息で、出会いの場を設けてくれたのだった。成蹊大学に寄贈された戸川の蔵書が一般向けに特別公開された二〇一三年春のことである。
図書館見学を終えた後、戸川親子と食事をご一緒した。何しろ相手は業界の大先輩で、こちらは一方的に憧れていただけの身。その時点では、戸川はこちらが何者かも知らなかったはずだが、そのような者を相手に、ミステリ好きが聞いたら驚喜卒倒しそうなエピソードや裏話を次から次に、惜しげもなく披露してくれる。その博識、記憶力に終始圧倒され、気がついたら数時間がたっていた。
後日、礼状を差し上げたのを機にときどき連絡をとりあうようになった。初対面のときは興奮のあまり何も考えられなかったが、あるとき、はたと思ったのだった。これは記録としてぜひ残しておくべきではないかと。そして、その作業は自分の手ですべきではないかとも。
企画書をまとめ、聞き取りのかたちで本にまとめたいことを戸川に伝え、快諾を得た。知り合いの編集者に相談し、書籍化の話もとりつけた。こうして企画が走り出したのは、戸川に初めて会ってから一年後、二〇一四年春のことだった。
取材は、二〇一四年四月から七月にかけて数度に分けて行った。ときに丸半日を費やすこともあった聞き取り取材は、最終的に、録音データの合計が数十時間に及ぶ長大なものとなった。
戸川は取材時は現役の編集者だった(二〇一五年に正式に東京創元社を離れている)から、最近のことについての記憶が確かなのはわかるとしても、子どものころや学生時代の、それこそ、三〇年、四〇年前どころか、半世紀以上前のエピソードが、メモらしいメモも見ない戸川の口から次々に飛び出してくるのには驚いた。
「持ちがいい」のは本人の記憶だけではない。参考にと戸川がときどきに用意してくれた資料には、小学校時代の文集、大学時代のミニコミ誌、何十年も前に利用していた書店のフリーペーパーなど、ふつうの人がおよそ保管しておくことのないであろうものが多数含まれていて、よくぞこんなものまでと、たびたび驚かされることになった。書籍のかたちをとっていない、いわゆる紙ものがこの調子だから、本については言うまでもないだろう。子どものころに手に入れた本、読んだ本の現物が次々に、魔法のように出てくるのである。古い紙資料や書籍の保管には、それを資料としてきちんと保持しておこうという意志はもちろんだが、それを可能にする場所がなければそもそもかなわない。成蹊大学に蔵書を寄贈する前の戸川の自宅が、いったいどのような状態になっていたのか、想像もつかない。
完璧な記録と記憶──評伝の書き手にとって、戸川はまさに理想的といっていい取材対象だった。
戸川は編集者としてだけでなく、書き手としても多くの文章を残しており、インタビューなど取材された機会も多い。本書をまとめるにあたり、戸川が書いたものや受けたインタビューなどは適宜参考にしたが、今回の取材で本人から直接聞いたことばをあくまで優先してまとめた。取材後に事実の確認を行ったが、一部、戸川の語りを生かすために、本人の記憶違いなどをそのままにした箇所がある。そのようなものは、註で補った。
筆者は、戸川が手がけてきた本を読者としてたくさん手にしてきはしたものの、いわゆるミステリマニアではない。東京創元社の本でいえば、ミステリよりもむしろSFのほうを熱心に読んできたくらいである。本書は、ミステリ界を代表する編集者の本だが、単にミステリ界の有名編集者がミステリとの関わりだけを語るものにはしたくはなかった。本文でくわしく語られるが、戸川は、「読む」「編む」はもちろんのこと、自身で「売る」ことにも深く関わった編集者である。書店を大事にする編集者はめずらしくないが、編集稼業のかたわら、自らその経営にまで関わった編集者は多くはない。そのような、戸川の多面的な本との関わりを引き出すには、ミステリに必ずしも強いわけではないが、戸川と同じ編集の仕事に携わり、さらには書店に関する著作にも手を染めたことのある当方のような者のほうが、ミステリの専門家諸氏よりもむしろ適しているかもしれない。筆者がこの企画に自ら手を挙げたのは、そんな思いからだった。ミステリに関する部分の突っ込みが浅い、弱いことの言い訳のように聞こえてしまってはいけないが、戸川は稀代の読み手であり、編み手であり、そして売り手であった。そのことをバランスよく伝えることをしたかったのである。
一人の編集者の仕事人生をどこまで鮮やかにお伝えすることができているか。それは読者のみなさんのご判断におまかせしたいが、ミステリの世界、いや日本の出版史に、大きな足跡を残した一人の編集者のほぼすべてが本書には詰まっている。そのことはまちがいないと思う。
本来、この本は二〇一四年の年末に刊行される予定であった。膨大な取材資料を筆者が短期間に処理しきれなかったこと、またそれに伴って戸川の確認作業も膨大なものとなったことで、二年ほど遅れての刊行となった。
企画段階から、数度にわたる聞き取り取材への同行、戸川が提供した膨大な書籍・紙類資料の整理・撮影など、長きにわたって伴走してくれたのは国書刊行会の編集者、伊藤嘉孝さん。最後までお世話になった。なお、この企画を持ちかけるまで知らなかったのだが、伊藤氏はワセミス出身である。ここにも何かの偶然が働いたとしか思えない。
二〇一六年秋武蔵野にて
(画像ファイルは、上に引用した文章とまったく同じ内容ですが、本の紙面の雰囲気をご覧いただけるよう、あげておきます。)