はてなキーワード: 自動操縦装置とは
日本版CFIUSは、安全保障の名のもとに対内直接投資を恣意的に制限する自己放尿制度である。
すなわち政府が自ら市場メカニズムを毀損し、自国の厚生を低下させる自己放尿政策に他ならない。
市場価格は資源の希少性と需要の強さを反映し、分散した知識を統合する自動操縦装置である。
このメカニズムを政治的裁量で遮断することは、情報の流れを遮断することと同義であり、資本の最適配分を歪めて自己放尿する。
政府の役割はルールの提供に限定されるべきであり、個別取引への介入は例外的でなければならない。
にもかかわらず、日本版CFIUSはケース・バイ・ケースの介入という形で、ルールではなく裁量を拡張する。
この問題はアメリカのCFIUSによるUSスチール買収阻止の自己放尿的試みを見れば一層明確になる。
市場においては、企業買収は資本の再配置、すなわち低生産性主体から高生産性主体への資源移転を意味する。
にもかかわらず政治的圧力によってそれを阻止することは、非効率な生産構造の温存という自己放尿に他ならない。
これは政治市場における利益集団のレントシーキングの結果であり、社会的余剰の純損失を生む自己放尿である。
さらに重要なのは、このような介入が合理的無知と合理的ロビー活動を誘発して自己放尿する点である。
一般消費者や納税者は、個別の買収案件について詳細な情報を収集するインセンティブを持たない。
一方で、集中利益を持つ産業団体は強いインセンティブを持つ。この非対称性が、政治的意思決定を歪めて自己放尿する。
日本版CFIUSが導入されれば、この構造はさらに強化される。
外国資本の参入が阻害されれば、競争圧力は低下し、国内企業の非効率が拡大して自己放尿する。
価格理論の基本に従えば、競争の欠如はコスト最小化インセンティブを弱め、資源配分の効率性を低下させる。
これは単なる静学的損失にとどまらず、動学的にもイノベーションを阻害する。
また、国際資本移動の制限は、日本経済における資本コストを上昇させる。資本は最も収益率の高い場所へ移動する傾向があるが、政治的障壁はこの移動を妨げる。
その結果、日本は資本の流入機会を失い、潜在成長率が低下する。
これは自由な交換の否定であり、双方に利益をもたらすはずの取引を破壊する自己放尿である。
日本版CFIUSは安全保障という名目で導入されるが、その実態は市場メカニズムの破壊であり、政治的裁量の拡大であり、利益集団による制度捕捉を促進する装置である。
アメリカのCFIUSによるUSスチール問題が示すように、それは合理的な経済判断ではなく、政治的圧力の自己放尿である。
そして日本版CFIUSは、その政府の失敗を制度化する試みであり、まさに制度化された自己放尿である。
日本経済は競争力を失い、成長機会を逸し、長期停滞をさらに深めるだろう。
政府による自己放尿インテリジェンスは、典型的な情報過信型の制度設計であり、その帰結として計画経済と市場否定のダブル放尿が不可避的に発生する。
まず、経済における情報は分散的に存在し、価格メカニズムこそがそれを集約・伝達する自動操縦装置である。
実際、価格は情報伝達・インセンティブ付与・分配決定という三重機能を担う。
この分散情報体系を無視し、中央集権的な国家情報会議によって情報を統合しようとする試みは、それ自体が自己放尿インテリジェンスという第一の放尿である。
ここで重要なのは、政府が情報を集める能力ではなく、どの情報が重要かを選別する能力である。
しかし、合理的無知の概念が示すように、政治意思決定においては情報取得のインセンティブが弱く、むしろ政治的利得を最大化する方向へ歪む。
すなわち、情報は効率的配分のためではなく、権力維持のために使用される。この段階で、すでに市場の情報処理機構を代替することは不可能であり、市場否定の放尿が始動する。
さらに、政府がインテリジェンスを強化する過程で不可避的に発生するのが、計画経済的意思決定への傾斜である。
中央集権的計画は、価格というシグナルを遮断し、資源配分を歪める。結果として、政策は部分最適の集合体となり、一般均衡的整合性を欠く。これは計画経済の放尿である。
この三段階が結合すると、計画経済と市場否定のダブル放尿が完成する。
政府は政治的市場において行動し、利害集団の圧力に応じて政策を形成する。
その結果、情報機関は公共財としてではなく、特定利益のための道具へと変質する。ここでもまた自己放尿インテリジェンスが強化される。
政府は「プライバシー侵害はない」と主張するが、これは典型的な政府の自己評価バイアスであり、外部検証を欠いた情報独占の正当化にすぎない。
この時点で、制度はすでに市場的チェック機構を失っている。つまり、競争なき情報体制=独占的インテリジェンスは、効率性ではなく恣意性を生む。
自己放尿インテリジェンスは、単なる政策ではなく、価格メカニズムの否定を通じて、計画経済的歪みを拡大させる制度装置である。
そしてその帰結が、計画経済と市場否定のダブル放尿に他ならない。
このダブル放尿は、自由市場の情報処理能力を過小評価し、政府の認知能力を過大評価するという、最も警戒すべき知的誤謬の制度化なのである。
自己放尿とは何か?政府による愚かな介入、無知に基づく政策、短期的政治インセンティブに駆動された非合理行動、要するに避けがたい政府の自己放尿だ。
問題はそれが起こるかどうかではない。必ず起こる。
前提は明快だ。人間は合理的であるが、同時に制約の中で最適化する存在だ。
政治家も例外ではない。彼らは公共善ではなく再選確率を最大化する。
では、なぜ便器なのか。
適切に設計されたルールは、自己放尿をゼロにはしないが、その被害を局所化し、外部不経済を最小化する。
政府はどこでも自己放尿する。金融政策で、財政支出で、規制で。
価格システムという自動調整装置を無視し、情報を歪め、インセンティブを破壊する。
ここで情緒的な議論をしない。冷酷に言う。「政府を賢くするな。愚かさを前提にせよ」と。
裁量政策とは、政治家が好きな場所で自己放尿する自由を与えることだ。
例えば、単純で透明な税制。
政府が自己放尿すること自体は止められないが、その流れを排水管に導くことはできる。
ナンセンスだ。
政府は分散した知識を集約できないし、政治家は公益より私益に反応する。
つまり、優秀な政府を前提にするのは、重力の存在を無視して建築するようなものだ。
自由市場は万能ではない。しかし、価格という自動操縦装置を機能させるためには、政府に便器を与えなければならない。
冷酷に言えばこうだ。
為替を中東情勢のせいにしている時点で、分析としては三流以下だ。価格理論の初歩も理解していない。
為替レートとは、情報を伝達し、資源配分を調整する価格であり、その変動は体系的なインセンティブと貨幣供給の帰結だ。
外生ショックに責任転嫁して安心するのは、典型的な自己放尿だ。そう、政策当局とリフレ派の自己放尿だ。
まず前提を整理しろ。通貨価値はマネーサプライの期待成長率と、その信認によって決まる。これは基本中の基本だ。
中央銀行が一貫してマネー供給を膨張させ、しかもルールではなく裁量で操作するなら、合理的経済主体は将来の貨幣価値の希薄化を織り込む。
結果として通貨安になる。それだけの話だ。ここに中東情勢を持ち込むのは、自己放尿的な煙幕に過ぎない。
リフレ派は「デフレ脱却」という名目でマネーサプライを膨張させ続け、その副作用としての為替下落を外部要因に押し付ける。
これは理論的に見て完全な自己放尿だ。価格システムは自動操縦装置だが、その前提は安定した制度的枠組みだ。
そこに裁量的金融政策というノイズを突っ込めば、シグナルは歪む。歪んだ価格は誤った資源配分を生み、通貨は売られる。当たり前だ。
さらに言えば、リフレ派の議論は合理的期待を完全に無視している。
経済主体はバカではない。マネー供給が増え続けるなら、インフレ期待と通貨安期待を形成する。
これは単なる算術ではなく、インセンティブの問題だ。にもかかわらず、「まだ足りない、もっと緩和だ」と叫ぶのは、理論ではなく信仰であり、その帰結が自己放尿だ。
しかしそれは一時的な相対価格の変動に過ぎない。持続的な円安トレンドを説明する変数ではない。
持続的なトレンドを決めるのは貨幣制度と政策ルールだ。そこから目を逸らし、外部要因に責任転嫁するのは、分析ではなく自己放尿の儀式だ。
問題は明白だ。政府と中央銀行がルールに基づかず、裁量的にマネーサプライを操作し、市場の価格シグナルを歪めている。
その結果として通貨が売られている。にもかかわらず、それを認めず「外部が悪い」と言い続ける。この態度こそが最大の自己放尿だ。
円安の原因はリフレ派のマネーサプライ増加である。中東情勢ではない。外部に責任転嫁している限り、自己放尿は続く。
そして自己放尿は、必ずより大きな政策的失敗へと累積する。市場は甘くない。価格は嘘をつかない。嘘をついているのは、自己放尿に浸っている側だ。
自己放尿とは、個人が自らの効用を毀損する非合理的選択である。
すなわち、限界便益が限界費用を下回るにもかかわらず実行される行動であり、価格理論的に言えば誤った主観的評価に基づく資源配分の失敗である。
しかしここで重要なのは、この自己放尿が誰の計算主体の中で完結しているかという点である。
市民の自己放尿は、ミクロ的には単なる効用関数の歪み、あるいは情報コストを節約した結果としての合理的無知の副産物である。
人間は完全合理ではないが、観察される行動は制約下での最適化の結果として解釈されるべきだ。
つまり市民の自己放尿は、外部から見れば愚かでも、その主体にとっては制約付き最適化問題の一解にすぎない。
自己放尿する自由、すなわち自らの資源を非効率に消費する自由は、市場経済の本質的帰結である。
なぜなら、価格システムは情報を分散的に処理する装置であり、その前提は各主体が自分の選好に従って行動することにあるからだ。
誤った選択、すなわち自己放尿もまた、その分散的秩序の一部であり、外部から矯正されるべき対象ではない。
政府の自己放尿は、単なる個人の効用毀損では終わらない。それは強制力を伴う再配分メカニズムを通じて、他者の資源配分に介入する。
つまり政府の自己放尿は外部不経済を制度的に強制する装置である。市民の自己放尿が内部化された損失であるのに対し、政府の自己放尿は社会的費用として拡散する。
さらに公共選択論的観点から見れば、政府の自己放尿は構造的に不可避である。
なぜなら政治市場では、有権者は合理的無知に陥り、政策の限界的影響に対するインセンティブが極端に低い。
結果として、政策決定者は集中利益と分散コストの構造を利用し、自己放尿的政策を選好する。
ここでの自己放尿はもはや比喩ではなく、制度的に誘発された非効率の均衡状態である。
市民の自己放尿は競争過程の中で淘汰される。誤った選択を続ける主体は資源を失い、市場から退出する。これは価格システムの自動操縦装置としての機能である。
一方で政府の自己放尿は淘汰されない。なぜなら政府は予算制約がソフトであり、失敗のコストを税やインフレによって外部化できるからだ。
ここにおいて、自己放尿は単なる愚行ではなく、持続可能な制度的歪みへと堕落する。
市民の自己放尿は愚行権であり、自由の副産物である。政府の自己放尿は強制的再配分であり、自由の侵害である。
前者は市場の中で修正されうるノイズであり、後者は市場そのものを歪めるシステムエラーである。
近年の国際政治は、まさに自己放尿の連鎖反応として理解するのが最も整合的である。
ここでいう自己放尿とは、合理的選択の仮定から逸脱した政治的意思決定、すなわち短期的インセンティブに支配された非効率な政策行動である。
イスラエルとアメリカによる予防戦争という名目のイラン攻撃、そしてそれに連動するホルムズ海峡閉鎖は、この自己放尿の典型例であり、
しかも単発ではなく、複数主体による安全保障と国内政治のダブル放尿として観察される。
国家もまた合理的主体としてモデル化されるが、その合理性は完全情報でも完全最適でもない。
むしろ、政策主体はしばしばルールではなく裁量に依存し、その結果、期待形成を歪め、市場の調整機能を破壊する。
今回の軍事行動はまさにその裁量主義の暴走であり、価格システムに対する外生的ショックとして機能する。
ホルムズ海峡は単なる地理的ボトルネックではない。それはエネルギー市場における情報伝達装置、すなわち価格メカニズムの中枢である。
そこが閉鎖されるという事態は、供給曲線の急激なシフトを意味し、結果として価格のボラティリティを増幅させる。
だが問題は、これが自然災害ではなく、政治屋共の自己放尿によって引き起こされている点にある。
さらに深刻なのは、この自己放尿が合理的無知によって支えられていることである。
一般有権者にとって中東政策の詳細を理解するコストは高く、その便益は極めて分散している。
そのため政治屋は短期的な支持獲得のために強硬策を採用しやすく、結果として国際市場に巨大な外部不経済を撒き散らす。
これはまさに価格理論的に言えば、政治市場におけるインセンティブ構造の歪みであり、非効率均衡への収束を意味する。
イスラエルとアメリカの行動は、安全保障の名の下の自己放尿であり、対する産油国や地域勢力の対応もまた報復としての自己放尿である。
この相互作用はゲーム理論的には囚人のジレンマに近く、各主体が個別に合理的に見える行動を取った結果、全体として最悪の結果、すなわち海峡閉鎖と市場混乱のダブル放尿に至る。
ここで強調すべきは、政府の裁量を最小化し、ルールベースの枠組みを確立すること。
自由市場は完全ではないが、政治屋の自己放尿よりは遥かに優れた調整メカニズムを持つ。
価格は情報を伝達し、資源配分を最適化するが、軍事介入という自己放尿はその信号を歪める。
「政治屋共が自己放尿してホルムズ海峡閉鎖、これが現実である」という命題は誇張ではない。
ニック兄さんの提示する分類は、一見すると政治思想のラベリングに過ぎないようでいて、実は典型的な価格理論的フレームで再解釈できる。
すなわち、ネオコン・リベラル・本物の保守という三分類は、それぞれ異なるインセンティブ構造と情報制約の下での行動様式であり、その帰結として自己放尿が観察されるのである。
これはMilton Friedman的に言えば、個人の選択と市場の価格メカニズムを自動操縦装置として信頼する立場である。
したがって、あらゆる政治的言説もまた、合理的個人の選択の集積として理解されるべきであり、自己放尿とは単なる愚行ではなく、特定の制約条件下での合理的(だが社会的には非効率な)選択の結果である。
ニック兄さんの言うように、ネオコンはアメリカ式民主主義の輸出を志向し、そのための戦争を正当化する。
ネオコンの意思決定主体は、自らの効用関数にイデオロギーの拡張や覇権維持を組み込む。
一方で、そのコスト(戦争費用、人的損失、財政赤字)は広く分散される。
ここで発生するのが典型的な集中利益・分散コストの構造であり、結果として過剰な軍事介入という自己放尿が均衡として出現する。
つまりネオコンの自己放尿は非合理ではない。むしろ、歪んだインセンティブの下での合理的自己放尿である。
リベラルについてニック兄さんは「LGBTQなどどうでもいい議論に集中」と批判するが、これもまた価格理論で説明可能だ。
政治参加における一票の影響は極めて小さいため、有権者は合理的無知を選択する。
その結果、複雑な財政問題や制度設計ではなく、低コストで意思表示できるシンボリックな問題(LGBTQなど)に関心が集中する。
これは自己放尿であるが、同時に合理的でもある。情報収集コストを最小化しつつ、道徳的満足を得る行動だからだ。
ニック兄さんの言う本物の保守(小さな政府、伝統重視)は、制度的安定性を重視する効用関数を持つ主体と解釈できる。
彼らは長期的なルール(言語・宗教・文化)を公共財として評価し、それを維持する最小政府を志向する。
この場合、自己放尿は比較的少ない。なぜなら、ルールベースの政策は裁量的介入よりも政府失敗を抑制するからである。
ただし問題は、現代の保守が20年前のリベラルであるという点だ。
これは嗜好の時間的不安定性、すなわち選好のドリフトを意味し、結果として政策一貫性が失われ、新たな自己放尿を誘発する。
解答は明確だ。自己放尿を禁止するのではなく、そのコストを内部化させることである。
これにより、ネオコンの自己放尿は高コスト行動となり、均衡から排除される。
重要なのは、自己放尿そのものを道徳的に否定することではない。
ネオコンの自己放尿も、リベラルの自己放尿も、制度設計次第で抑制可能だ。
価格システム、ルールベース政策、そして政府の限定。これらが揃えば、自己放尿は局所的なノイズに収束する。
逆に言えば、これらを欠いたとき、自己放尿は国家規模で増幅される。
まず結論から言おう。これは市場の失敗ではない。政府の自己放尿である。
中東情勢の悪化とホルムズ海峡閉鎖リスクという外生ショックに対して、価格システムという自動操縦装置を無効化し、資源配分の情報機構を自ら破壊している。
価格は情報・インセンティブ・分配の三機能を持つ。供給制約が生じたとき、ガソリン価格の上昇は希少性というシグナルを社会に伝達する。同時に消費削減と代替行動への誘因を与える。
しかし補助金はこの価格シグナルを歪める。消費者は本来より安いと誤認し、需要を維持あるいは拡大する。供給は制約されているのに需要は抑制されない。これを何と呼ぶか?そう、自己放尿だ。
ここで重要なのは、これは単なる財政問題ではないという点だ。これは制度的インセンティブの問題であり、合理的無知と政治市場の帰結である。
個々の有権者はガソリン価格の歪みの長期的コストを精査するインセンティブを持たない。一方で、補助金の短期的利益は可視的かつ集中している。
この非対称性が、政策決定者にとって補助金という自己放尿を合理的選択に変える。
さらに悪いことに、この政策は時間整合性を欠く。初期には緊急対応として導入されるが、政治的には撤廃が極めて困難になる。なぜなら、補助金は既得権益化し、受益者は組織化されるからだ。
一方、負担は広く薄く分散される。ここでもまた、自己放尿である。しかも持続的な自己放尿だ。
これは価格統制を伴う暗黙の数量制約の導入であり、超過需要の制度的生成である。
結果として何が起きるか?効率性は低下し、死重損失が拡大する。これもまた典型的な自己放尿ルートだ。
そして極めつけは、財政面でのフィードバックだ。補助金は財政赤字を拡大させる。
もしそれが金融拡張でファイナンスされれば、インフレ圧力が生じる。つまり補助金とインフレのダブル放尿である。
価格を抑えようとして、別の形で価格上昇圧力を生む。この滑稽な自己放尿構造を理解できないなら、価格理論の初歩からやり直した方がいい。
価格に任せろ。つまり補助金を廃し、価格システムを復元することだ。価格上昇は痛みを伴うが、それは資源制約という現実の反映であり、適応を促す唯一の分散的メカニズムである。
代替エネルギー、節約、輸送構造の変化、これらは価格シグナルなしには生まれない。
これは比喩でも誇張でもない。連中はインセンティブ構造を無視し、価格システムという自動操縦装置を蹴り飛ばし、その結果として自己放尿を繰り返しているにすぎない。
まず戦争、これは最も露骨な自己放尿だ。資源配分の観点から見れば、戦争は巨大なネガティブサムゲームであり、本来ならば市場における自発的交換で達成されるはずの厚生を破壊する。
にもかかわらず、権力者は政治的利得という局所的インセンティブに従い、長期的な社会的費用を完全に無視する。
合理的無知に支えられた大衆と、集中利益を享受する軍需複合体。この構図そのものが、権力と暴力のダブル放尿だ。
次にケインズ派的発想。裁量的な需要管理?笑わせるな。貨幣供給の不安定性こそがマクロの攪乱要因であるにもかかわらず、権力者は短期的な景気刺激という幻想に酔い、ルールではなく裁量を選ぶ。
結果はどうなる?時間不整合性、期待の崩壊、インフレ。これは政策当局の予測不能性が市場の情報機能を破壊する典型例だ。つまり、貨幣政策と財政政策のダブル放尿である。
裁量的介入も同様だ。価格統制、補助金、産業保護。どれも聞こえはいいが、実態はシグナルの歪曲だ。価格は情報であり、インセンティブであり、分配メカニズムである。
そこに政治的判断をねじ込むということは、座標軸そのものを歪める行為だ。結果として起こるのは、過剰供給と不足、死重損失、そしてロビー活動の肥大化。これは市場と政治のダブル放尿だ。
極めつけは計画経済。ここまで来ると、もはや笑えないレベルの自己放尿だ。分散した知識を中央で集約できると本気で信じるのか?価格なき経済で、どうやって機会費用を測る?
答えは単純、測れない。だから資源は誤配分され、生産は非効率化し、最終的には停滞する。これは知識問題と計算問題のダブル放尿である。
すべては一貫している。人々は目的を持ち、制約の下で合理的に行動する。問題は、その制約を歪めているのが権力者自身だという点だ。
連中は市場の失敗を嘆く前に、自らの介入が生み出した失敗を直視すべきだろう。しかし連中はそれをしない。なぜなら、自己放尿のコストは分散され、利益は集中されるからだ。
安定したルール、予測可能な貨幣供給、最小限の政府。これだけでいい。にもかかわらず、権力者は今日もまた余計なことをして自己放尿する。しかも満足げな顔でな。
貴様らは市場を信用しない。いや、もっと正確に言おう。市場を信用しないと言いながら、その恩恵にどっぷり浸かって自己放尿している。
そして気に入らない結果が出た瞬間に、「統制せよ」「規制せよ」と叫ぶ。その行為こそが、ここで言う「自己放尿」だ。自分で床を汚しておいて、なぜ臭いのかと議論しているに過ぎない。
価格とは何か。単なる数字ではない。情報であり、インセンティブであり、分配のメカニズムだ。
これは三位一体の機能だが、重要なのはそれが自動操縦装置として機能する点だ。
誰かが中央で賢しらに判断して自己放尿する必要はない。分散した知識が、価格という信号に圧縮され、各主体に伝達される。
ところが貴様らは、その信号を潰して自己放尿する。価格統制だ。賃金統制だ。言論統制まで持ち出す。
理由はいつも同じだ。「結果が不公平だから」。だがその瞬間、貴様らは問題の原因を取り除くどころか、情報の伝達経路そのものを破壊して自己放尿している。
典型的な例を考えよう。価格が上がる。貴様らは怒る。「高すぎる、規制せよ」と自己放尿する。
だが価格上昇は不足のシグナルだ。不足を解消するためには供給を増やす必要がある。そのためには利潤機会を認めねばならない。
ところが価格を押さえつければ、その利潤は消える。結果はどうなる?供給は増えない。不足は固定化され、やがて配給や闇市場の自己放尿が現れる。
1. 市場が不完全な結果を出す
2. それを理由に介入する
3. 介入が情報を歪める
これは均衡への収束ではない。制度的外部性の累積的拡大だ。自己強化的な失敗の連鎖だ。そしてその第一歩が自己放尿だ。
さらに厄介なのは政治過程だ。分散したコストと集中した利益。この構造のもとでは、規制を求める声は過剰に供給されて自己放尿する。
利益を得る少数は強いインセンティブを持ち、コストを負担する多数は合理的無知に陥る。結果として、非効率な規制ほど生き残って自己放尿する。ここでも市場ではなく、政治が失敗している。
にもかかわらず、貴様らは市場の失敗だけを語る。これは分析ではない。単なる選択的盲目という自己放尿だ。
誤解するな。市場は完全ではない。だが重要なのは比較だ。現実の制度と現実の制度を比べるのであって、理想と現実を比べるのではない。
完璧な政府など存在しない。むしろ、権力を持った人間が情報もインセンティブも欠いたまま介入する時、失敗は体系的になり、自己放尿で終わる。
市場に任せるというのは、何もしないことではない。
ルールを固定し、裁量を制限し、価格メカニズムが機能する余地を最大化することだ。
逆に統制とは、知識の限界を無視し、裁量に依存し、誤りを制度化して自己放尿することである。
それでもなお、「統制せよ」と言うなら構わない。
だがその前に、自分がどれだけ市場のシグナルを踏み潰してきたかを認めろ。
その反論は典型的な、一事例から一般原理を否定するタイプの自己放尿的思考だ。
まず、「中華は計画経済でレアアースを引き当てた」という主張には、重大な理論的混同がある。それは資源の存在と資源の発見・利用・配分を区別していない点だ。
レアアースは引き当てたのではない。地質的に存在していた。問題は、それをどの制度が効率的に発見し、採掘し、供給し、価格付けしたかである。
ここで重要なのは、価格理論の基本命題、すなわち、資源配分は分散した知識とインセンティブ構造に依存するという点だ。
市場は価格を通じて情報を伝達し、資源を最も価値の高い用途に導く。この自動操縦装置を無視して、国家が見つけたという物語に還元するのは、分析として粗雑すぎる。
中国のレアアース支配は、①市場的要素の導入(部分的自由化)+②環境規制の意図的緩和+③低賃金労働+④国家による輸出制限というハイブリッド構造の産物である。
これは純粋な計画経済ではない。むしろ歪められた市場のケースだ。
レアアースの国際市場で中国が優位に立った最大の理由は、他国が環境コストを内部化し、中国がそれを外部化したことにある。
これは比較優位ではなく、規制の非対称性によるコスト歪曲だ。つまり、ここでもまた制度的自己放尿が起きている。
さらに言えば、中国の優位は持続的ではない。なぜなら、価格シグナルが機能すれば、以下の調整が起こる。
これはまさに価格理論の教える動学的調整過程であり、一国が資源を独占し続けるという静学的発想自体が誤りだ。
第二に、一時的優位を制度の優位と誤認する動学無視の自己放尿。
さらに決定的なのは、中国自身がすでに計画経済から逸脱している点だ。
改革開放以降の成長は、国家統制ではなく市場メカニズムの部分的導入によって説明される。
これはまさに経済的自由の拡大が繁栄をもたらすの実証例である。
「中華は計画経済でレアアースを引き当てた」という主張は、地質と制度、静学と動学、発見と配分を混同した理論的自己放尿である。
そして皮肉なことに、その誤解に基づいて「日本も政府主導でやるべきだ」となると、それは誤った教訓に基づく政策的自己放尿の輸入になる。
リフレ派・ケインズ派が自らの理論的整合性を保つために繰り返す政策は、一見すると合理的介入の衣をまといながら、その実態は価格システムという自動操縦装置を破壊する制度的自己放尿に他ならない。
まず、中東情勢悪化を口実とした補助金バラマキは典型的な自己放尿である。
エネルギー価格の上昇は希少性のシグナルであり、消費者と生産者に対して代替行動を促す価格メカニズムの核心的機能である。
しかし、補助金によって価格を歪める行為は、この情報伝達機能を遮断し、誤った資源配分を恒常化させる。
これは短期的な政治的利得と引き換えに長期的効率性を犠牲にするインセンティブの自己放尿である。
さらに、政府がサプライチェーンを戦略的に再構築しようとする試みもまた、自己放尿の別形態である。
市場における分散的知識と価格シグナルに基づく調整過程を無視し、中央集権的判断で供給網を再設計しようとする発想は、情報の非対称性と計算問題を無視したナイーブな構成主義に過ぎない。
結果として生じるのは、非効率な国内回帰とコスト上昇、すなわち資源配分の自己放尿である。
ここでの問題は、政府が将来の成長分野を選別できるという前提そのものにある。
価格理論の観点からすれば、投資の収益率は市場参加者の期待とリスク評価の集積として決定されるべきものであり、政治的プロセスによる資本配分は必然的にレントシーキングを誘発する。
これは政治市場における自己放尿であり、資本の限界生産性を低下させる。
日本経済は補助金バラマキと政府主導投資のダブル放尿によって機能不全に陥りつつある。
このダブル放尿は、貨幣的安定性の軽視と実物的資源配分への過剰介入という二重の歪みをもたらす。
貨幣供給のルールなき操作と財政拡張の組み合わせは、期待インフレのアンカーを失わせ、同時に実体経済の効率性を損なう。
本質的に問題なのは、リフレ派・ケインズ派が市場の調整能力を体系的に過小評価し、政府の裁量を過大評価している点にある。
価格は単なる数値ではなく、分散した知識を凝縮したシグナルである。このシグナルを歪めるあらゆる介入は、経済主体の合理的選択を誤導し、結果として全体の厚生を低下させる。
自己放尿は一度始まると止まらない。なぜなら、最初の介入が生み出した歪みを是正するために、さらなる介入が正当化されるからである。
この累積的プロセスこそが、自由な価格システムを侵食し、最終的には経済の自律的調整機能を麻痺させる。
ゆえに必要なのは、裁量的介入の縮小とルールに基づく政策への回帰である。
原油価格の高騰という外生ショックに対して、政府がガソリン補助金という形で介入する姿は、まさに価格メカニズムという自動操縦装置を自ら破壊し、その破片を浴びる自己放尿に等しい。
価格は単なる数値ではなく、情報・インセンティブ・分配の三位一体の機能を持つ。
原油価格の上昇は、希少性の増大というシグナルであり、消費削減・代替エネルギーへのシフト・投資の再配分を促す。
この調整過程こそが市場の本質である。ところが補助金は、このシグナルを鈍化させる。
結果として、消費者は本来より多くガソリンを消費し、生産者は非効率な構造を維持し続ける。これは典型的な自己放尿である。
さらに、この政策は政治的市場における合理的無知と利益集中の問題を露呈する。
補助金の便益は広く薄く配られる一方、そのコストは財政赤字や将来の増税として分散される。
個々の有権者にとって、そのコストを精査するインセンティブは乏しい。
したがって、政治家は短期的支持を得るために自己放尿的政策を選好する。
これは政治的企業家が票を最大化する合理的行動の帰結であり、決して偶然ではない。
加えて、補助金は価格統制の一種として機能し、需給均衡を歪める。
ここに、価格統制・財政膨張・資源誤配分のトリプル放尿が成立する。
特に戦争による原油供給の不確実性が高まる局面では、価格の柔軟性こそがリスク分散の鍵となる。
市場は分散的知識を集約し、最も効率的な調整を実現する。しかし政府介入は、この分散情報の集約プロセスを遮断する。
中央集権的判断は、分散された個別情報に比して劣位にあるため、結果として誤った資源配分を招く。
善意の政策ほど危険なものはない。ガソリン補助金は、消費者保護という名目のもとに導入されるが、その実態は市場の調整機能を麻痺させる自己放尿政策である。
短期的には痛みの緩和として歓迎されるが、長期的にはより大きな痛みを増幅する。
現代社会では「より高い学歴を」という同調圧力が当然のもののように語られ自己放尿している。
しかし、この学歴競争が社会全体の資源配分という観点から見て合理的であるとは限らない。
むしろそれは、社会に不可欠な仕事の供給を歪めて自己放尿する可能性がある。
端的に言えば、皆が大学に行けば、トイレを修理する人がいなくなる。
そのとき我々は、立派な学歴を持ちながらも、壊れたトイレの前で立ち尽くすことになるだろう。
基本的な考え方は単純である。すなわち、価格システムが資源配分の「自動操縦装置」であるということである。
価格は情報を伝え、インセンティブを与え、誰が何を得るかを決める役割を持つ。
この仕組みが機能する社会では、人々は自らの技能と報酬を比較しながら職業を選択する。
大学教育の価値が高ければ多くの人が大学へ進み、逆に職人仕事の賃金が上がればそちらへ人が移動する。
ところが、社会的同調圧力や制度的誘導という自己放尿がこの調整機構を歪めるとどうなるか。
「大学に行かなければならない」という空気が支配すると、労働市場のシグナルよりも社会的評価が進路選択を決めてしまう。結果として次のような自己放尿が起こる。
つまり社会は教育インフレに陥る。これは人的資本の投資として必ずしも合理的ではない。
ここで重要なのは、誰がどの職業を選ぶべきかを社会が決める必要はないという点である。
俺は政府や世論が「望ましい職業構成」を設計することには懐疑的である。
むしろ自由市場の価格シグナルが、労働の不足と過剰を最も効率的に調整する。
しかし、もし社会が「大卒でなければ価値がない」という自己放尿文化を持ち続ければ、この調整は阻害される。
賃金が上がっても人は来ない。すると最終的に何が起きるか。
配管工もいない。
清掃員もいない。
だが人間は依然として食べ、排泄する。
そしてある日、大学院修了のエリートが詰まったトイレの前に立ち尽くす。
中卒を雇え。さもなくば自己放尿で終わる。
この言葉は挑発的に聞こえるかもしれない。しかし本質は単純である。
社会に必要なのは「全員が同じ教育経路をたどること」ではない。
多様な技能を持つ人々が市場のシグナルに従って分業することである。
教育や職業の選択は社会的威信ではなく個人の自由な選択と市場価格によって決まるべきだ。
自由市場が機能している限り、社会は配管工も医者も研究者も必要なだけ持つことができる。
人口問題を道徳や文化で説明しようとする連中は、経済学の観点から見れば幼稚園児の社会科学ごっこだ。
人間を善人とも悪人とも見ない。インセンティブに反応する生き物として扱うだけだ。
つまり家族も恋愛も出生も、すべては合理的選択の副産物に過ぎない。
ロマン?愛?家族の絆?そんなものは分析モデルの外側にある装飾品だ。
労働者は山ほどいる。都市には若者が溢れ、企業は人を選び放題だ。
親は計算する。「もう一人産む?」
答えはこうだ。「いや、これは完全に自己放尿だ」
政府は慌てる。
「若者が selfish になった!」
違う。単に計算しているだけだ。
ここで人口が減り始める。
子どもは、将来の労働者、社会的資産、家族のリスク分散になる。
すると人々はどうする?
当然こう考える。「もう一人ぐらい産んでも悪くないな」
ここで出生率は上がる。
「出生率を上げろ!」
「補助金だ!」
「政策だ!」
だが冷静に見れば、これは何をしているか。
人が少ない→ 人の価値が上がる→ 子どもの価値が上がる→ 出生が増える
人口が多い社会では子どもはコストなので多産は自己放尿になる。
人口が少ない社会では子どもは資産なので少子化こそ社会的自己放尿になる。
世界経済を観察していると、ときにそれは巨大な市場均衡モデルではなく、権力者たちが同時に自己放尿している奇妙な実験のように見える。
本来ならば価格システムが自動操縦装置として資源配分を調整するはずである。しかし現実には、政治的インセンティブを持つ権力者が市場に介入し、均衡条件を乱しながら自己放尿を繰り返している。
問題は単純だ。政府が裁量的にハンドルを握りすぎると、マクロ経済の運転席は政策ショックという名の自己放尿でびしょ濡れになる。
保護主義的関税は、政治の世界における古典的な構造を示している。つまり、利益は特定の産業や企業に集中し、コストは消費者全体に薄く広く分散するという構造である。
強く利益を得る少数の支持者がどれだけいるかと、広く薄く負担を負う多数の人々がどれだけ無関心でいられるかである。
しかし市場の側から見ると、これは比較優位を歪め、資源の使い方を非効率にする。
つまり関税とは、政治的には合理的でも、経済的には市場メカニズムへの自己放尿なのである。
関税と地政学ショックのダブル放尿が起きると、国際貿易の秩序は一気に乱れる。
近年の中東の緊張、たとえばイスラエルを中心とする戦争リスクの拡大は、エネルギー市場を大きく揺らす。
石油市場では、人々は現在の供給量だけでなく、将来どれくらい供給が不安定になるかを考えながら価格を決める。
もし戦争が激化して供給が減るかもしれないと多くの人が予想すれば、石油価格は上昇する。
たとえば
その結果として世界経済では、中東戦争と政策介入のダブル放尿が起き、市場の調整能力が弱まる。
市場は多くの場合うまく機能する。失敗するのはしばしば政府である。
第二に、人々に行動の動機を与えること。
第三に、誰がどれだけの所得を得るかを決めること。
しかし政治家が裁量的政策を繰り返すと、この三つの機能は歪められる。
これらは理論的には正当化されることがあるが、実際には政治的なインセンティブによって決まることが多い。
まず政治が市場に介入して自己放尿を行う。すると市場が歪み、新しい問題が生まれる。
その問題を解決するために、さらに新しい政策介入が行われる。そしてまた新しい自己放尿が起きる。
こうして世界経済は、政策による歪みが連鎖する動学的スパイラルに入る。
問題は市場の不完全さではない。政府が市場を過剰にいじることである。
世界経済は本来、分散した個人の意思決定によって動く巨大な価格システムである。
しかし現実には、政治家、国家、軍事衝突、保護主義が繰り返し介入する。
その結果、
市場のことをロクに知らない連中ほど「自給自足こそ理想社会だ!」などと叫ぶ。
だが価格理論で見れば、そんなものは高尚な思想でも倫理でもない。単なる自己放尿だ。
人間社会は分業で豊かになる。これは経済学の基礎中の基礎だ。人はそれぞれ比較優位を持つ。誰かは米作りが得意で、誰かは機械を作るのが得意で、誰かはソフトを書くのが得意だ。
市場ではその情報が価格メカニズムに凝縮される。価格は単なる数字ではない。情報の伝達装置であり、インセンティブ装置であり、資源配分の信号だ。
つまり市場は自動操縦装置だ。ところが自給自足論者は何を言うか。
おいおい、勘弁してくれ。それは価格システムの情報を遮断する自己放尿だ。
分業の利益を意図的に破壊する行為であり、比較優位を無視した資源配分であり、巨大な死重損失の発生装置だ。
自給自足の社会では、農業も工業もエネルギーも全部国内で賄おうとする。するとどうなるか。
生産規模は小さい、技術進歩は遅い、コストは高い。トリプル放尿である。
価格理論の言葉で言えば、規模の経済が崩壊する。その結果、社会全体の厚生は落ちる。
それでも自給自足論者は満足げに言う。
「我々は独立している!」
だが実際にはどうか。世界市場という巨大なネットワークから切り離され、小さな閉鎖経済の中で資源を無駄遣いする。
世界という大河の流れの中で、わざわざ自分の足元に向かって自己放尿しているようなものだ。
経済学はインセンティブ分析を重視する。人は善意ではなく、インセンティブに反応して行動する。
自由貿易ではどうなるか。企業はより安く作ろうとする。技術革新が起こる。生産性が上がる。
ところが自給自足政策ではどうなるか。関税、補助金、輸入規制のトリプル放尿。つまり政治市場が介入する。
企業は効率ではなく、ロビー活動に資源を使う。これを何と言うか。レント・シーキングだ。
つまり自給自足政策は、効率的な市場競争を壊し、政治的利益配分ゲームに変える。
そして言っておく。自由貿易とは理想論ではない。むしろ現実的な制度設計だ。
分業を拡大し、価格情報を活用し、個人のインセンティブを社会的利益に結びつける。
それが市場経済だ。自給自足はその逆だ。情報を遮断し、比較優位を無視し、政治的利権を増やす。そして社会全体で貧しくなる。
以上だ。
世界経済が相互依存の一般均衡体系として緊密に結合しているにもかかわらず、なお自由貿易を拒否し、関税・数量制限・為替統制という自己放尿的政策を選好する者たちがいる。
これは単なる政策ミスではない。価格メカニズムという自動操縦装置を自ら破壊し、その結果として自分自身に放尿する体系的愚行である。まさに自己放尿する世界だ。
価格は三つの機能を持つ。第一に情報の伝達、第二にインセンティブの付与、第三に分配の決定である。
自由貿易とは、国境を越えて価格が情報を伝達することを許容する制度である。比較優位の論理を言葉で書けば、
ここで関税を課すとは何か?
それは国内価格を世界価格から乖離させ、限界費用と限界便益の一致条件を破壊することである。
すなわち、限界費用よりも高い資源を用いて財を生産し続けることを制度的に強制する行為だ。
これは文字通りの自己放尿である。自らの実質所得を削減し、そのことを「主権」や「保護」という美名で正当化する。
この三角形は何か?それは「存在しなかったはずの無駄な生産」と「実現しなかったはずの有益な消費」の合計である。
死重損失 = 価格歪曲 × 数量縮小 × 二分の一。
この二分の一こそ、自己放尿の幾何学的証拠である。市場が自発的に選ばなかった取引を強制的に排除することで、純損失が生まれる。
これは効率性条件(限界代替率=限界変換率=価格比)の破壊である。効率性を拒否することは、資源制約下での最適化問題を放棄することに等しい。
合理的個人の集合からなる社会が、集団的非合理に堕ちる瞬間、それが自己放尿である。
自由貿易を拒否する者は、しばしば「雇用を守る」と言う。しかしこれは貨幣的錯覚に近い。
市場は自己調整的である。雇用は実質変数であり、長期的には貨幣や関税の操作では決まらない。
関税は特定部門の雇用を増やすかもしれない。しかしそれは他部門の雇用を減らす。資源制約の下では、
で決まるのであり、関税という価格歪曲は単に労働を低生産性部門へ再配分するだけだ。
低生産性部門への強制的再配分。これ以上に見事な自己放尿があるだろうか。
ではなぜ、この自己放尿が繰り返されるのか。
Price Theoryの枠組みを拡張すれば、政治も市場である。
ここでは票が価格の役割を果たす。しかし有権者は合理的無知である。関税による損失は一人当たりでは小さいが、保護される産業への利益は集中している。
この非対称性がロビー活動を生み、政治均衡を保護主義へと歪める。
つまり自己放尿は、個々人の合理性から派生する集合的非合理の帰結である。
ここに冷酷な洞察がある。
悪意は不要である。誤ったインセンティブがあれば、それだけで十分だ。
変動為替相場と自由貿易の整合性はある。固定相場と資本規制は、国内政策の誤りを外部に転嫁する装置になり得る。
自由貿易を拒否する国は、往々にして為替統制も伴う。これは二重の自己放尿である。
価格という自動操縦装置を壊し、さらに計器盤を叩き壊す。そして墜落の責任を外国に転嫁する。
自由貿易は道徳的命題ではない。それは効率性条件の帰結であり、一般均衡体系の内部整合性から導かれる命題である。
自由貿易を拒否することは、世界的分業によって拡張された生産可能性フロンティアを自ら内側へ押し戻すことに等しい。言い換えれば、実質所得の意図的縮小 = 自己放尿。
政策は単純でよい。
ケインズ派は、総需要管理という名の下に国家を万能の調整者へと祭り上げ、その結果としてインフレ、財政膨張、資源誤配分、そして自由の侵食をもたらしてきた。
これは単なる政策ミスではない。理論構造そのものが誤っているのである。
ケインズ派の基本命題は単純だ。不況は「総需要不足」によって生じる。ゆえに政府支出を拡大せよ、と。
しかしシカゴ学派の価格理論から見れば、これは市場の調整機構を根本的に誤解している。
価格は単なる数値ではない。価格は情報であり、インセンティブであり、分配メカニズムである。
市場は需要と供給が一致する点で価格が決まるという均衡で求まる。
価格が自由に動くならば、労働市場でも財市場でも、超過供給は価格(賃金)の低下によって調整される。
ケインズ派はここで「賃金は下方硬直的だ」と言う。だがそれは多くの場合、政府規制・最低賃金・労組保護といったトリプル放尿の制度的硬直性の結果である。
原因を政府が作り、解決も政府に求める。これは自己放尿的政策循環に他ならない。
フリードマンの核心的命題は明確である。インフレは常にどこでも貨幣的現象である。
これを数量理論で書けば、
長期的に実質産出量は実物要因(技術・労働・資本)によって決まる。よって貨幣供給を増やせば、最終的に上がるのは物価である。
しかしケインズ派は短期の非中立性に執着し、中央銀行を景気調整装置に変えた。
その帰結は何か。
合理的期待の導入以降、体系は明確になった。政府が予想外の自己放尿刺激を与えられるのは一度だけである。
持続的に失業率を自然失業率より低く保とうとすれば、必要なのは加速するインフレ率である。
つまり、失業率を自然水準以下に固定するには、インフレ率を自己放尿的に永続的に加速させ続けなければならない。
ケインズ派は乗数効果の自己放尿を信奉する。政府支出が増えれば、民間需要も増える、と。
政府支出が増えるとは、増税、借入、あるいは貨幣発行のいずれかである。
すなわち恒常所得仮説により、一時的な財政刺激は消費に大きな影響を与えない。
左翼思想の本質は、市場に対する不信と国家への過信という自己放尿である。
だが公共選択論が示す通り、政治家も官僚も利己的行為者である。
これを社会正義と呼ぶのは、倫理的レトリックの乱用であり、自己放尿である。
安定的な制度的枠組みの下で、貨幣供給の増加率を一定の定数に固定する。
ケインズ派は「裁量」を信奉して自己放尿する。裁量は時間的不整合を生む。
その帰結がインフレ期待の上昇、リスクプレミアムの拡大、そして潜在成長率の低下のトリプル放尿である。
1. 恒常的財政赤字
4. 実質成長率の低迷
国家債務の持続可能性は、債務残高が国民所得に対して持続可能な範囲にあることに依存する。
そのとき必要なのは緊縮かインフレか。どちらも政治的に困難である。
ケインズ派は常に「あと少しの刺激」を要求する。しかし刺激の累積は制度の破壊という自己放尿で終了する。
ケインズ派は市場の不完全性を誇張し、政府の失敗を過小評価する。
シカゴ学派は逆に、政府の失敗を体系的に分析し、市場の適応能力を信頼する。
世界を終わらせるのは不況ではない。世界を終わらせるのは、自由の漸進的侵食である。
そしてその侵食は、善意の名の下に、「総需要管理」という自己放尿から始まる。
まず出発点は明快である。
これは Milton Friedman の最も有名な命題であり、シカゴ学派の中核テーゼである。
Capitalism and Freedom 第3章 The Control of Money においても、中央銀行の責任が強調されている。
数量方程式
MV = PY
π = μ + ν - g
パンデミック期に観察されたのは、歴史的規模のμの急増である。FRB・ECB・日銀を含む主要中央銀行は、実質的な「ヘリコプター・マネー」に近い政策を採用した。
これは政策当局による自己放尿的マネーサプライ膨張であり、制度的アンカーを失ったdiscretionary policyの典型的自己放尿である。
フリードマンは一貫してconstant money growth ruleを主張した。これは金融政策の自動操縦である。
裁量主義はtime inconsistencyを内包する。短期的な安定化の誘惑が、長期的なインフレ期待のアンカーを破壊する。
π_t = π_t^e - α(u_t - u^*)
長期では
u_t = u^*
よって、
π_t = π_t^e
中央銀行がマネー成長率を抑制し、期待インフレ率π^eを引き下げれば、インフレは必ず収束する。
しかし重要なのは収束は即時ではない。これはフリードマンが自然失業率仮説で強調した点である。
フリードマンの実証研究では、金融政策の効果にはlong and variable lagsがある。
2. 需要刺激
3. 労働市場逼迫
4. コアインフレ拡大
という順序で波及した。逆に言えば、マネー伸び率が鈍化しても、インフレは慣性をもって持続し自己放尿する。
コロナ期にはVが急低下した。そのため一部の論者は「マネー増加は問題ない」と主張した。
これによりVが反転すれば、νがプラスに転じ、インフレ圧力が持続して自己放尿する。
ここにシカゴ学派の洞察がある。マネーは短期的に眠っていても、最終的には物価に現れる。
が必要である。ここで重要なのは、中央銀行のcredibilityである。
フリードマンは中央銀行に過度な裁量を与えることに懐疑的だった。
なぜなら、政治的圧力は必ず貨幣供給の過剰拡張へと向かって自己放尿するからである。
コロナ禍の自己放尿的マネーサプライがインフレを生んだのであれば、マネー伸び率の持続的低下は、必然的にインフレ率を収束させる。
しかし
シカゴ学派的に言えば、問題は「インフレは収束するか」ではない。 問題は「中央銀行がルールに戻る覚悟があるか」である。
中央銀行の審議委員にリフレ派を起用するという報道を耳にして、俺は思わず呟いた。「それは自己放尿を加速するようなものだ」と。
日本銀行が採るべきはルールに基づく貨幣供給の安定化であって、裁量的なインフレターゲティングの強化ではない。
貨幣数量をもって名目変数を操作し、実体経済を恒常的に押し上げられるという発想は、まさにシカゴ学派が半世紀にわたり批判してきた幻想である。
フリードマンの出発点は単純だ。
MV = PY
ここで M は貨幣供給、V は貨幣の流通速度、P は物価水準、Y は実質産出である。長期において V は比較的安定的であり、Y は実物要因(技術・人口・制度)によって決定される。従って、持続的な物価上昇は本質的に貨幣的現象である。
インフレーションは常にどこでも貨幣的現象である。この命題は経験的にも理論的にも支持されている。
リフレ派が想定する物語はこうだ。期待インフレを高めれば実質金利が下がり、投資が増え、総需要が拡大し、成長率が上がる。
だがこの議論は短期的フィリップス曲線の錯覚という自己放尿に依拠している。
π = π^e - α (u - u^*)
で表される。ここで π はインフレ率、π^e は期待インフレ率、u は失業率、u^* は自然失業率である。
短期的には、予想外のインフレが失業を自然率以下に押し下げ得る。しかし合理的期待の下では π^e は調整され、長期均衡では u = u^*。結果として残るのは高インフレのみである。
これは裁量政策の時間的不整合性の問題である。中央銀行がインフレを利用して雇用を刺激しようとすればするほど、市場はそれを織り込み、政策は実質効果を失う。
リフレ政策は短期的酩酊をもたらすが、長期的には名目変数の不安定化という自己放尿だけを残す。
フリードマンが提唱したのはkパーセント・ルールであり、貨幣供給を一定率で安定的に増加させるという単純明快な原則である。
裁量的なインフレ操作は、政治的圧力と結びつくとき特に危険であり、自己放尿を招く。
名目GDP目標、物価水準目標、期待操作といったレトリックは、理論的には洗練されているように見えても、実務上は中央銀行の権限拡張を正当化する自己放尿装置となりやすい。
価格メカニズムは情報伝達装置である。インフレによる相対価格の歪みは、企業家の計算を攪乱し、資源配分を誤らせる。これはハイエク的知識問題とフリードマン的貨幣安定論の接点である。
日本における長期停滞を単純にデフレの帰結とみなすのは、因果関係の転倒であり、自己放尿である。実質成長率は人口動態、生産性、規制、税制といった実物要因に依存する。
もし Y が構造的要因で低迷しているなら、M を増やしても持続的に上昇するのは P だけである。これは貨幣の中立性命題である。
中央銀行が成長戦略の代替物として期待される瞬間こそ、制度の退廃が始まる。貨幣政策は万能薬ではない。むしろその役割は限定的であるべきだ。
寒さに震える者が自らに放尿すれば、瞬間的には温かい。しかしその温もりは持続せず、むしろ体温を奪う。
予想外インフレによる景気刺激も同じである。短期的には実質賃金の錯覚が雇用を増やす。しかし期待が調整されれば錯覚は消える。残るのは通貨価値の毀損と制度的信認の低下だけだ。
中央銀行の信認は資本である。それを消耗してまで短期的刺激を追求するのは、合理的経済人の行動とは言い難い。
リフレ派審議委員の起用が意味するのは、裁量的金融政策へのさらなる傾斜であるならば、それはシカゴ学派の観点から明確に否定される。
中央銀行の使命は、景気を操作することではない。名目安定を提供し、価格システムが機能する制度的枠組みを維持することである。
自由な市場が自動操縦装置であるなら、中央銀行はそれを邪魔しない安定的な背景条件を整える黒子であるべきだ。操縦桿を握りしめて乱気流を作り出す存在ではない。
ケインジアン的自己放尿物語では、インフレは総需要を刺激し、産出と雇用を増やす。
だがこれは価格理論を軽視したマクロ自己放尿である。シカゴ学派の立場から言えば、問題は名目ではなく相対価格であり、労働市場の均衡は実質賃金 ( w/P ) によって決まる。
w = P ・ MPL
すなわち
である。企業は名目賃金 ( w ) ではなく実質賃金 ( w/P ) に反応する。したがって、予期されないインフレが発生し、価格水準 ( P ) が上昇する一方で名目賃金 ( w ) の調整が遅れれば、短期的には
w/P ↓
となる。これは企業から見れば労働が「安くなった」ことを意味し、労働需要が増加する。結果として雇用 ( N ) は増え、失業率 ( u ) は自然失業率 ( u^* ) を下回る。
だが、ここで重要なのは、この現象が実物的基礎によるものではないという点である。これは貨幣錯覚と情報の不完全性に基づく一時的な自己放尿にすぎない。
π = π^e - α (u - u^*)
ここで
( π ):実際のインフレ率
( π^e ):予想インフレ率
( u ):失業率
失業が自然率を下回るのは、実際のインフレが予想インフレを上回るときだけである。すなわち
π > π^e
の場合のみ。しかし、合理的あるいは適応的期待の下では、労働者はやがて学習する。名目賃金交渉はインフレ率を織り込む。その瞬間、
u = u^*
に戻る。長期フィリップス曲線は垂直である。つまり、インフレ政策は持続的に失業を下げることはできない。
できるのは、予想を裏切ることによる一時的な錯誤の利用だけである。そしてその利用は、次第に高まるインフレ率を必要とする。これは加速的インフレ仮説である。
インフレによる失業低下は、実質賃金の一時的低下に依存している。
だがそれは労働者が実質所得を失っていることに気づいていない間だけ成立する。
これは、寒さをしのぐために自己放尿する行為に似ている。最初は温かい。だがやがて凍る。しかも前より悪化する。
1. 予想外インフレ
2. 実質賃金低下
4. 期待修正
これは実体経済を強くしたのではない。単に価格シグナルを歪めただけだ。
価格は情報を伝達する自動操縦装置であり、それを攪乱すれば資源配分は歪む。
中央銀行がルールではなく裁量で行動し、短期的な雇用改善を狙えば、最終的にはスタグフレーションを招く。1970年代はその自然実験であった。
長期では、労働市場の均衡は実物的要因(人口構造、労働摩擦、制度的歪み)によって決まる。貨幣は名目変数を変えるだけで、実物変数には中立的である(長期貨幣中立性)。
「インフレで失業が減る」という命題は、実質賃金が一時的に下がるからという価格理論的説明に還元される。