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2026-05-12

大学って、

今みたいに「18歳になったらとりあえず行く場所

じゃなくて、

30代ぐらいで行くものにしたほうが合理的じゃないか

ぶっちゃけ

研究って誰でもやればいいもんじゃない。

相当頭使うし、

適性も必要

から

本当に研究能力高い人だけ、

飛び級みたいな形で若いうちから大学行けばいいんだよ。

それ以外の人は、

まず職業訓練就職

社会経験積んで、

必要になったら後から大学行く。

この形のほうが、

よっぽど生産性高いと思うんだよな。

今って、

「とりあえず大学

が当たり前になりすぎてて、

本来そこまで学術研究に向いてない人まで、

4年間モラトリアムする構造になってる。

しか企業側も、

学歴フィルターのために

強制的大学行かせてる状態

これ、

社会全体で見るとかなり無駄大きいでしょ。

大学進学率が高い=高度化、

みたいに言われるけど、

実態としては、

就職予備校化してる大学も多い。

だったら最初から

実務教育職業訓練に寄せたほうが合理的

大学

研究や高度専門教育をやる場所

もっと絞ったほうがいいと思うわ。

2026-05-06

浪人生の受かるパターンは決まってる

浪人決定した瞬間(2〜3月から夏休みが始まるまで死ぬほど勉強して、夏休みに少しダレて、9月からまた修行僧みたいに本番まで勉強するタイプ

これが浪人してワンランク上に受かる定番パターン

逆に確実に負けるパターンも決まってて、浪人決定からゴールデンウィーク位までやれ参考書がとかやれ予備校がとかフラフラしてたいして勉強しなかった奴。

一方でずっと折れずに勉強し続けたタイプも本番に弱くて負けるパターンが少なくない。

2026-04-28

anond:20260428153610

それを訳してアメリカ人簡単英語に置き換えて説明するまで出来ないと予備校講師未満

人に伝える力がないとアメリカ人から見れば息のくさいコミュ障しか見えない

2026-04-04

末期がんの母と最後の家族旅行するんだけど何して過ごせばいいんだろ

60歳の母が末期の膵臓がんになった。昨年の12月末のことだ。

膵臓がんは最もたちが悪い悪いがんらしく、自覚症状が出るのは大抵ステージ4の末期で、1年の生存率は30%前後で5年生存率は10%前後

黄疸が出たか病院に行った」とLINEが来て、検査したら緊急入院になってがんだと判明した。



俺の家は貧乏家族旅行ほとんど行けなかった。小学生の頃に駄々をこねて一度行ったのが最後だった。

周りの友人は毎年家族旅行に行くのが当然のような金銭的に余裕がある人ばかりで、羨ましくも妬ましくもあった。

その負のモチベーションもあって、やりたいことはやりつつちゃんと稼げるようになりたいと思っていた。貧乏から塾も行けなかったし、浪人したけど予備校なんて行けなかった。それで泣く泣く自宅浪人したところ奇跡的に合格してしまい、第一種奨学金を貰い授業料全額免除になり、大学院まで行き、大企業に入って同世代の平均以上の収入を得るようになった。そこは親孝行したと思う。


自分が稼げるようになったら、自分ほとんどできなかった家族旅行を両親にプレゼントするのが夢だった。ちょうど母が60になり、父はすでに定年を迎えていたからこれまでの感謝も込めてそろそろ家族旅行プレゼントしようと思っていた。

母が膵臓がんになったのは、そう思ってた矢先のことだった。



母は妹の影響もあって嵐が好きだった。妹がダメもとで応募したらなんと2人ともラストコンサートチケットが当たった。 膵臓がんだと判明する前の話である

当たったのが名古屋会場で宿泊費も高いし、ちょうど俺が愛知に住んでいるから、独身の俺の家に転がり込んで3人泊まりこもうかとか笑ってLINEをしあっていた。ものすごい久々の家族旅行だねって。そんな中で母が膵臓ガンになった連絡がきた。


それでも、母は名古屋に行きたいと言った。言ってくれた


末期がんの患者を3泊4日の旅行に連れて行ってもいいのか。

地元のがん相談支援センター相談したらぜひ行ってくださいと言う。末期がんの患者治療を施すのは完治を目指すものではない、余命をできるだけ延ばして残された時間有意義に過ごしてもらうのが目的だという。その時間有効活用するならむしろ良い、まだ寝たきりになっていないから出来るだけ早くいった方が良い、とのことだ。もちろん、医師同意も得られた

余命や体力的に最後旅行になるだろう。移動の負担を最低限にするために新幹線は横になれるよう多目的スペースを予約し、名古屋市内の移動は介護タクシーを貸切にし、田舎もんだからベタだけど高級ホテルとしてヒルトンにした。緊急時にすぐに駆け付けるよう2部屋が内側のドアで繋がっているコネティングルームを予約した

明日鹿児島から来る家族ホテルで迎える。母の体力は極力負担を減らすよう、今のところコンサートに行くことだけを最低限のラインにするつもりだ。余裕があれば介護タクシーで市内周れればと思う。

でもダメだったときは?ホテルの一室で、動くより寝ている方が良い母とずっと静かに過ごすのか?もちろん、一緒にただ時間を共有するだけでも十分と見聞きするし、相手に喜んで過ごしてほしいと期待するのは自分エゴしかない。でも、この最後の残された時間、後悔ないように過ごしたい。

どうするのが一番なのか分からない。人生セーブポイントを置けるなら、明日の朝に置きたい。

2026-03-31

anond:20260331123941

ワイのオフィス、同じフロア予備校が入っとるんやけど、高校生の来る時間帯は個室が埋まりっぱなしやで。

マジでまったくうんこできなくなる。

2026-03-22

■【追記】私の統合失調症とは何だったのか編集あり】

高3のときにかかった統合失調症について自分の身に起こった症状を経過とともにまとめておく。まず秋の三者面談担任友達がいない=それだけコミュ力がないことを指摘された。

当時官僚に憧れていたが、そのことを知っていた他人学力もそうだがそこを改善したところでその社交性の無さをどうにかしなければどうにもならないことを言ってきたのだ。

それに私は心底動揺したようで、母によれば帰りの電車チック症状が出ていたらしい。そこから受験勉強も頑張りつつ立派な人格者になろうと奮起したことでだろうか、だんだん行動と思考おかしくなっていく。

柄にもなく今まで話したことも無いような生徒に話しかけるようになる。記憶力が良くなったような気分になる。化学式が水を吸い込むスポンジのようにすらすら頭に入っていく気分だった。

実際少しは記憶力が上がったのかもしれないが気分の部分が大きかったように思える。気分が高揚し何故か授業中でも教科書に書かれた偉人を模写するようになった。

普段の私は不器用な方で模写などできるようなタチでもなく、したとしてもゆっくり書いても線は歪にるし顔のパーツのバランスも元のようには書けなかったはずなのだが、そのときはなぜかさらさらと筆が運んだ。各パーツの境界等を線ではなく元の絵通り濃淡で表すなんて普段の私にはできないことを普通にしていた。数学教科書ガウスを描いたとき特に印象に残っている。風邪でもないのに熱が出て学校の中で倒れるということが起こるようになった。何度か親に送り迎えされることがあった。

私は中学のころまでは学校人間いじめいたことがあったのだが、急にそのことを思い出し心底恥じ入る気持ちになり号泣した。そして旧友がどうなっているのか訪ねに行った。受験生なのに何をしてるのかと思うだろう?私にもわからない。

塾の特別講座や模試を受けに都心に行ったときはひどいものだった。湯島聖堂に行って人が引くような感服をした。ピンクハトを見て神がかり的な力を感じてしまった。(ピンクハト自体幻覚ではなく写真に残っているしそもそもそこまで珍しいものではないと思われる)

興が乗りゲームセンターに行ってヴィクトルーパーズというゲーム体験する。プレイ時に自分の反射神経に関して今までとは違うものを感じて全能感を感じた。

そして確かリフレクビートみたいな音ゲー他人プレイしているところの画面をなぜかタッチした。当然苦言を呈された記憶がある。でもそのとき自分は意に介していなかったと思われる。

夜になっても秋葉原闊歩してあるとき自分腕力に自信を感じ筐体を動かせるかどうか試していた。

今思えば実際は持ち上げていたのではなく引っ張る程度でなんの腕力証明にもなっていないのだがあのときはこう理詰めで考える力を失っていたように思う。

釣り合わないおっさん若い女性が一緒に歩いている姿を見て、犯罪匂いを感じ制裁してやろうとか思った(今思えばコンカフェサービスに過ぎないだろう)。

街中で大学生と思しき数人の男女の組を見つけて話しかけて自分の志望大学について語る。あのとき普通に対応されたけど陰でやばい認定されていたのではないか

道路ポスターが筒状に丸められたものが落ちていて、アキバでの土産として持ち帰るつもりだったのに、振り回したり膝に当てて曲げたりしていた。思考の滅裂が伺える。

結局その夜は終電を逃し、教科書等が入って10kgになっているリュックを背負ってほとんど休まず冬の夜を始発まで歩き続けていた。それは冬に露地で寝たら凍死するという、ここだけはまだ高校生としてまともなイメージによるものだった。

その最中、座って休んでいたときはとめどなく出てくる感じの英語を、どうせ誰もいないからと気持ちよく口に出した。まるで通訳ならそういう境地であるかのように、自然英語思考言葉として頭に浮かんでくるのだ。これも今までにないことだった。今までの学んだことの蓄積が一気に爆発的にアウトプット可能ものへと昇華されたような感じだ。第三者がいないので、これが実は文法が滅茶苦茶だった空喜びだ可能性もある。

そうして家族には捜索願を出す迷惑をかけさせるなか帰宅した。保護入院のXデーは近い。またあるとき横浜へ行くと、キャリアになるような人間は高い志を持っていなければならないという心境で、ゴミ掃除をした。受験生なのに。

掃除しているところを見たお巡りさんから未来官僚様へというふうな感じでブラックサンダー栄養ドリンクをもらった記憶がある。ということは自分希望進路をこの警官に行ったことになるのだが、だとすればこの警官の労いは奇妙な行動をする学生を生暖かい目でからかうことを意図したものだったかもしれない。自宅の近所に1000年前からあるという由緒のある神社正一位神格がある寺院に目を付け、この地域は稀に見る神聖土地なのだという気持ちになる。

またその影響からかこのころから神のお達しを感じるようになったり(幻聴ではなくテレパシーのような感じ)自分女性キャラクターが乗り移ったような感覚が現れることが起こるようになる。口調も普段から変わってしまう。

当時の社会情勢の悪さを神的なものとに結びつけ、寺社に赴いた記憶がある。おこがましくも何かを助言した記憶がある。別に神職だって宗教を信じてないことが多いのに本物のやばい奴が来てしまったという感じだろうな。

マムシ=蛇の出没も神的なものと結び付け両側が藪の道を木の枝を下に向けて振り回しながら歩く。当時の本人にはマムシを追い払うことでマムシが持つとする瘴気を払うことを意図したものだろう。

またあるとき公園で木の枝を持ってこれが神風だという感じで大げさに振り回す。あくま高校までの化学知識から着想を得た「核戦争にも耐えられる強化外骨格」の設計ラフを書いた小切れなどを河原にばらまいたりもした。

夜寝てもすぐ起き上がって漢文がひらめくことが多くなりまともに寝なくなる。当時の自分としてはそれが漢文のいい訓練になるものだと思っていたことを覚えているが、志望大学漢文比重が重いものではないので、ほとんど無駄だったと思われる。

滑稽なのは四声も知らないのに(いや受験生としては問題ないんだが)漢詩等を次々書いて悦に入っていたこである文法はともかく古代中国語として韻律のめちゃくちゃなものだった可能性が高い。

でもこんなことをしていたのには訓練以上に、漢文に書かれた思想に感じ入っていたところも大きい。

おかしくなった私の目標は立派な仕事に恥じない人格者になることだった。そして湯島聖堂に行ったとき孔子の深遠さに衝撃を受けた。

もちろん孔子自体は以前から知っていたが、偶然「聖地」を見つけ赴いてしまたことで、自分なりに感じた霊験あらたかさに、彼と彼の思想がいっそう素晴らしいものに感じるようになってしまった。

普通受験生にとっては教材でしかない漢文から仁徳を感じ取るたびに感動し、過去の不徳な自分と対比して大泣きして大真面目に反省するという情緒不安定も起こっていた。

電車で、密着して二人の世界に入っている男女に話しかけたりもした。今考えれば当然のガン無視をされた。しかしやっぱり躁状態になっている私は誰とでも話せる人間になろうという思いが強かったのか意に介さないのである

テレビでちょうどやっていたイスラム国関連のニュース映像を見たときとてつもなく怖いものが見えたように感じ体を丸めて怯えたような記憶がある。あの心理状況はどういう原理だったか

イスラム国はどうにかしなけばならないという義憤を感じてツイッターアラビア語?で検索してイスラム国関係者と思しきツイートに直接リプライしたり、また当時の漢文にハマっていた自分らしくSNSアカウント名を「莫歯牙(しがない)○○」をしたりそこで椅子子羊(イスラム)なる言葉を使って打倒を呼び掛けていた記憶がある。

世界から反響があった感覚があったが、実際はただ日本人以外からなにがしかリプライが来たと言うだけで、数としては数件に過ぎなかったのではないか

でも当時は確かにカバコピペのように「今までにない熱い一体感を感じ」ていた。

テレビイスラム国に関する報道自分の行動とリンクしているようにも見えていた。自分世界に影響力を与えている気分になっていた。

調子が悪そうなことをした親に総合診療科に連れられたこともあり、そこで血液検査をしたらCK値の上昇が認められそこで筋肉が壊れてきていることを指摘された。

冬の夜通しの闊歩が祟った結果だと思われる。とはいえ今思うと自衛隊員は数十キロの装備を身に着けることもあるし、強力(ごうりき)はそれこそ100kg近くを背負って運搬するわけだからちょっと虚弱過ぎやしないかと思う。

しかし当時の私は筋肉が壊れるほど肉体を酷使している自分に対してこれまた全能感をこじらせ酔っていた記憶があるから滑稽だ。

また当時気になっている子がいたのだが、学校帰りに駅前ブティックに足を運んで何万、何十万かするビロードのような服を品定めしていこともあった。

そういう服を対象にしたのはすっかり自分が上流の人間の気分になっていたから。

そして将来は官僚になってこういうものを好きな子プレゼントするんだと店員に息巻いていたと思う。

近くの受験が見えなくたって遠い不確定の可能性の低い将来を前提とした行動をとる、まさに統失仕草だったと思う。

卒業間際好意を伝えたときやんわり振られるオチまでついている。

こうしていろいろあって親は養護教諭電話相談して、精神科への入院を勧められ、私の同意のもと保護入院することになったのだった。

ブコメから知ったこととして保護入院とは家族同意のもと行われる強制入院の一つだという事実があるが、私の場合入院したいか、それとも受験するどうかをあくまで私の意思尊重する形で家族確認されたため、法的なことはともかく実態としては任意入院なのだった。

そこで統合失調症という診断が下されたが、診断名は変わる可能性があると言われた。

統合失調症は全段階として6か月未満の統合失調様症状というものがあり、中学ときエピソードして、自分悪魔になってしまったという発言や、ナイフ図鑑を買ったりポッカキットで処刑映像を見ていたことを統合失調症の期間として含めるべきかをはっきり判断できないからだということだそうだ。まあ今思えばさすがにこれはただの中二病だろうと思うが。

なお、記憶力や模写等脳の能力に関しての向上を記述したが、これが統失の症状としてあり得ることだったのか、私固有の現象だったのかはわからない。

統合失調症は服薬し続けず「治る」ケースがごく稀な病として有名だが、幸い私は薬も飲んでないが上記のような明らかな妄想も出ることなくただの発達障害(医療機関による診断済み)として暮らせている。

いろいろなことをした、「記憶はある」が、なぜそうしたのか今の自分では全く理解できないことが、過去あったその妄想現在現実区別できる能力回復している何よりの証拠だと思う。

ほんとう、記憶はあるが秩序のあるものとして理解できず、記憶を記録するにあたってはただあったことを羅列しているだけという気分が拭えないという部分は朝起きる直前の夢に似ているような感じがする。

この長文を書いたのは、統合失調症は脳機能の低下を起こすから患者になったことがある人本人に「書ける」人が少なく、このような本人直筆の体験談は貴重と考えたためで、使命感を持って書いた。

(使命感とかいうとまだ統合失調症が治ってないだろとか言う人が出てくるのかなと思いつつ)

追記

実はあれから既に十年以上経っている。

もし統合失調症が治っていない状態で薬をやめていた場合はだいたい長くとも1、2年で、もっとひどい状態で症状がぶり返すのが通例だ。

機能も一度目の急性期後より格段に落ちると聞いている。壁に自分排泄物を塗りたくるようなレベル廃人になるということだ。

しかし私は御覧の通りこうして記事が書ける程度の理性や知性をいまだ残せている。

薬は最初発症から数か月目の時点でやめていた。

それは、薬の副作用アカシジアというものがあって、その、四肢気持ち悪い感覚苦痛だったからだ。

今も、断薬の承諾を得た精神科医本人から三か月おきに診察を受け経過を見てもらっているので、統失が治っていないということについては心配しないでほしい。

その医者対応に対する違和感を書いてもらって思い出したが、それ以上に著しい倦怠感や思考の鈍麻が起こっていたことについて親が見兼ねたというのが大きかった。

統失治療薬のイメージとしては躁的な症状をもたらす過剰な神経物質ブロックするというものだが、このころは既に陰性期あるいは寛解状態にあった。

まり健康体の人間に投薬するのと変わらない状態で、症状を相殺するのを通り越して過度のドーパミン不足を誘発したのかほとんど寝たきりで毎日を過ごすような時期があったのだ。

から親の自己判断で服用が中断されたのだったと思う。

こんなところにいたら殺される(滝山病院の例もあるので大げさな考えとは思われない)と心配した母親担当医の忠告、「お母さんあなた精神病ではないか」という苦言を振り切って入院期間を繰り上げたのだった。最初の急性期を見て薬を処方した入院先で断薬許可をもらったわけではなかったのだ。

ただセカンドオピニオンでかかった他の大学病院医者も、以前のその病院の処方薬や量の内容を見てこれは多すぎると言っていたようだ。

今かかっているクリニックはこれらの統合失調症発達障害の診断やそれに伴い我が家庭ではどう対処してきたかという経緯を理解したうえで、基本的こちらの考えを尊重ときには睡眠の習慣を整えるためにロゼレム?を服用してはどうかと言われては、悪夢を見るから嫌だ、いやこれは他の睡眠薬と違って悪夢は見ないよ、でもちょっと抵抗があるから見送らせて欲しいとかああだこうだ忌憚なく相談できる関係性を築いている。

模写した絵などは残っていない。というのも数年前まで私の部屋は受験期にコレクションした参考書がずらりとならぶ、いかにも子供部屋おじさんの極致にあるような有り様だった。

しかし親に、いい加減高校時代のことに固執してもしょうがないだろうと、絵も描かれたノート類とともにすべて処分することを催促され、応じるしかなかった。化学の新研究かぐらいは、通読してみたかったなと思っていたのだが。

絵の証拠写真を挙げないのでは一連の記述創作と思えて仕方がないこと、もっともなことだ。信じる人が信じるだけでもこれ幸いというものだ。

少し退院後のその後の事を書くと、まず予備校に入って再度大学を目指そうとした。

しかし当時の自分統失の余波か薬の副作用か大変疲れやすく、体験授業後にチューターには母の口から、授業中にも寝てしまうことも有り得ることが伝えられた。

それではさすがに教師心証的に入塾は厳しいことを言われた。

また数か月か、あるいは一年ほど経った頃だったか入院中も見舞ってくれた担任が定期的に会いに誘ってくるようになった。

と、このあたりのことを書くと俺がどこ高校出の誰かか特定される可能性が1%ぐらいは出てきてしまうと思っているのだが、そうなったらそうなったらでこの記事創作でないことの証明にもなるわけなので、気にせず書いてしまおうと思う。

先生は私への発言申し訳なく思っていたようだ。

飲食店に誘われ、調子はどうか、進路はどうするかを話した。

そうして職業訓練校を目指すことになった。その訓練校が試験で出す問題と同レベルのSPIとかの練習問題を解いた当時の自分としては、問題自体大学受験とは雲泥の差の易しさだが、それでも油断はできなかった。

統合失調症と長い間机に向かっていなかった影響で、筆記スピードというあくまで肉体面の要素が著しく落ちていたからだ。

そんな私にアドバイスしてくれたり、数学先生だったので、私が趣味で取り組んでいた数学に話を合わせ付き合ってくれた。

それに前後して北里か東海大(ここ記憶曖昧)や、クリニックの児童精神科医にセカンドオピニオンを仰いでいた。

そこでいわゆるウェクスラーを受け、言語IQが130で動作性が90前後という結果だった。その大学病院役所に提出する用の親展の封筒を、やっぱり使わないと親が開けて見てしまった中身の書類記述によると、大変頭の出来がいいというニュアンス表現でべた褒めする内容だったそうだ。

言語IQなんていかに成人向けに最適化されたテストといえど受験期等の蓄積で簡単に高成績が出る脆弱性がありそうでならないと私は思っているので、これは私より圧倒的に優秀な大学教授の心の余裕から来るリップサービスのようなものではないかと今は分析している。でも認知機能テスト一種か何かで、100から次々7を引いた答えをどんどん言ってくださいという問いに自分なりになるべく速く答えたその反応に対しても早い早いと言っていたから、まんざら嘘ではなく、そういうことを総合してなのかな。

ともかくもしこの書類を出していたら障害者手帳申請は通らなかったからこれでよかったということを親は言っていた。申請に使った診断書等はクリニックが書いたものだったと思う。そのクリニックだが今は児童Permalink | 記事への反応(1) | 18:05

2026-03-16

放送大学名誉学生(6つの学科全てにおいて学士称号を取得)の人が明石家さんまのほんまでっかに出演して、今では教育界隈のインフルエンサーみたいになってるけど

そもそも予備校講師という職業でなぜお金を稼げるのかそういうシステムを考えたらすぐわかるだろ。

大学入試が(不必要に)難しすぎるんだよ。

基本的に(私立わからんが)国立大学公立大学であれば文部科学省の検定済み教科書完璧にする+思考力で合格できるんだから

大学入試難易度をいたずらに高めた結果生まれたのが東大理三ルシファー京大医学部もごとか阿修羅じゃないの?

そもそも勉強自発的にしたい人しか大学に入っても苦痛なだけなのになんで大学卒の称号をそんなに大事にするの?

そこそこ難易度の高い電気通信大学ですら土休日図書館のスペースはガラガラFラン大学様相を呈していたぞ

なんで勉強を苦行、楽しくもなんとも思ってない頭の悪い人が予備校に100万円近く余剰な出費叩いてまで大学行くの?

2026-03-15

一浪東洋大へ進学する息子へ

最後中央の結果が出た日。

久々に家族外食に行ったな。

がってん寿司

「結局ごめんね、ニッコマで」

小さくてなって食が進まないお前。

あの時は「まあ頑張れよ」と俺は言った。

でもな

違うんだ。

違うんだ、息子よ。

俺は本当は「よく頑張った!」と大声で叫びたかった。

年内入試ですごい倍率を突破して東洋合格し、これなら第一志望だったMARCHのどこかには…と浮かれた俺たち両親が一番悪かった。

本当に申し訳ない。

俺たちがお前の憧れた高学歴であったらもっと気を利かせたこと言えたのかな?

でもきっとダメだ。

非常に無責任な親ですまん。

こんな親だからお前にこうした方がいいよという指南はこの先もずっと出来ない。

唯一出来るのは自分経験を語る事だけだ。

綺麗事だと思うだろう。

お前ぐらいの時の俺なら間違いなくそう思う。

でもこれは本当だ。

俺はお前が生まれから、この前がってん寿司を一緒に食べて、これから東洋大を卒業するまで学費を振り込む事にただの一つも後悔がない。

お前のために使ったお金無駄だと思ったものは本当に一つもない。

日本の歴史も、学研図鑑も、進研ゼミも、習い事も、部活も、塾も、予備校も、全部だ。

独身の頃、無理して都内美容院に通い、渋谷新宿で服を買い、女の子クラブデートすることに金を使う時は不安しかなかった。

自分はこれでいいのか?という不安ではない。

こんなお金の使い方は本当に正しいのか?という不安だった。

結婚して、家を買い、車を買い、お前たちが生まれからどんどんお金を使うのが楽しくなった。

子育てお金がかかるのは楽しかった。

これが最高の間違いない文明的で文化的道徳的にも正しいお金の使い方なんだと心から納得出来た。

お金の使い方に納得出来たから、どんな辛い仕事も頑張れたし冷静になれた。

そしてその時にはじめて分かった。

お前たち子供のためにお金を使うことで、俺ははじめて俺の親の気持ちの深い部分を分かったような気がしたんだ。

きっと俺の親は、俺がその心境にたどり着いたことを知らなかったろうと思う。

そして俺が勝手に思っている事ではあるが、俺の親の子育てが本当に終わったのはその瞬間だったのではないかと。

から東洋大へ進学する息子へ。

もうお前がどんな事を勉強してて、どんな風な友達がいて、どんなサークルバイトをして、そんな事も分からなくなるのだろうなぁ。

あと4年間。

まだ俺の子供でいてくれよ。

お前の親父になれて本当によかったよ。

人生の節目は、またこがってん寿司で奢らせてくれ。

30年近く前、あまりの煩さに来賓植木等が怒って途中で帰った日本武道館東洋大学卒業式で、誰もよりも不安そうな顔で卒業した父より。

2026-03-09

理系に行きたい女子割合予備校を見れば一目瞭然

浪人してでも理系に行きたいかお山の大将では嫌な女子

こういう人に女子枠を与えたらいいね

ゼネコン学部卒または院卒後の就労を条件に奨学金出せばいい

anond:20260309092101

ネットの影響というか、教育コストを事前に想像すると給与中央値から見ると厳しいという話だぞ。

予備校も通わない、中卒・高卒でいい、という信念がなければ、中央値市民に子は産めない。

2026-03-08

久しぶりに冷たい雨が街を潤していたとある早朝

マンションゴミ集積所に大手予備校プリント教材の束が出されていた

晴れてこの教材が不要になったんだ よかったねぇ

他人事ながらちょっと暖かい気持ちになった。

2026-03-01

https://anond.hatelabo.jp/20251129035722

美大だろうが美術予備校だろうが、漫画絵は上手くならない。

美大を出ても漫画が下手な人や連載をとれない人はたくさんいる。

デッサンとか美大向けの絵が上手くなるだけ。まあそれだけでもゆるい専門学校と比べたら大きなメリットだろうけど。

からこどもが漫画やりたいぜと言うんなら、親が積極的ipad買って同人イベントに申し込んで、〆切を作る環境に追い込んでやるんが大事。親に自分活動してるジャンル知られたらキツイっす。

anond:20251129035722

馬鹿馬鹿しい

どうせ、その手のガキが描きたいのは漫画絵だろ?

芸術科、美術科、美術予備校絵画教室、全部が遠回り

全くの無価値

2026-02-28

anond:20260228011400

入りやすいのは修士博士だろ?

でも、修士博士東大だって評価されないのは、学士入試選抜されたという、学歴なんてのは、地頭証明ブランド価値があるってだけだ。

じゃあ、中学入試でどんだけ難関校に受かったところで、ブランド価値あんのか?

ないだろ?

どうせ最終学歴しかみないし。

で、話を戻すと、じゃあ本質的価値があるのか、大学進学に有利になるのかった話だけど、よっぽどカリキュラムが優れてるんならって話だけど、塾予備校以上のカリキュラム持ってるとこなんかないだろ。

進学成績がいいのは、自由校風学校の授業無視して鉄緑会の宿題やってるのが許されるからだったりするわけで。

2026-02-24

anond:20260224093056

大学入学基準テコ入れするのがダメなのであって、女子高に理数コースを作ると支援金下りるとか、女子専用理系予備校作ると支援金とか、女子理系専用奨学金とか、フェアな試験突破できる学力理系女子受験者を増やす手を先に打つべ

2026-02-19

anond:20260219181254

どうせあんなん専門の予備校行って、美大向けの対策しなきゃ美術ムラに入れもしないんだろ?

だったらもう学校で何やったって同じじゃんっていう

2026-02-17

家庭教師サービス”が突如停止 受験シーズンなのに…困惑の声

バンザン・山田博史社長(去年9月)「ミッションオンライン教育で人の可能性を広げ、人生を豊かにすること。学校も塾・予備校先生が足りていない状況。それを解消するために事業を行っている会社です」

社長はこう語っていましたが、この日から半年たたずで会社事業停止に”

https://news.ntv.co.jp/category/society/29de9907d99247e391e2cf93d83b5915

anond:20260217074527

高校におじさん入ってきたら迷惑だろ

予備校にでも行っとけ

2026-02-14

わたし最初の猫へ

猫が死んだ。享年18歳にもなると、さすがにいよいよかという心持ちであったので、寂しくはあるが、辛くて見ていられない、という気持ちにはならなかった。

とはいえ、私の最初の猫であるモモちゃんがいなくなったのは途轍もなく悲しい。私の人生に一つ区切りがつけられたような気持ちだ。

私の最初の猫だった。人生で猫が登場したのはもっとずっと前、小学生の頃に兄が拾ってきた子猫がいたが、うちの猫にはならなかった。

我が家の猫だと、私の妹だと連れてこられたのは、モモちゃん最初の子だった。

私の妹なので、私が名付けた。私の名前からちなんだ。私は名前に“千”の文字が入ってるので、その次の“百”と書いてモモちゃんだった。

ペットショップで母が見初めて連れてきた。余談だが、母は猫の面食いなので、母が連れてきた猫は全て美猫だ。

ちっちゃかった。手のひらの上に乗せて遊んだ。まだ生まれて2ヶ月も経ってないので引き渡せないと言われて、うちに来ると決まってからも数週間ほど待った。

大層ちっちゃな猫だった。耳が三角で、目がくりくりのエメラルドで、綺麗な茶色アビシニアンだ。来た直後はたしか200gくらいしか無かった記憶がある。こんなちっちゃい生き物がその辺を歩いてて、踏みやしないかとヒヤヒヤしながら暮らしていた。ちなみに大人になっても最大時で2.5キロほどのちっちゃいネコちゃんのままだった。

私が出会った猫の中で、一番の別嬪さんだった。しかし、中身はとんでもなくお転婆のイタズラ猫だった。

アビシニアンそもそも好奇心旺盛でヤンチャらしいが、子猫の頃は本当に大変だった。お医者さんもアビシニアンか〜と言っていた。

ブラインドをよじ登って折ってダメにしたり(しかも2個)、扉の隙間から音もなく外に出たり、キャビネットの上の物は落とし、花で遊んで花瓶を倒し、雛人形ちょっかいをかけ、家中ありとあらゆるものモモちゃんの遊び場だった。私は外に出たモモちゃんを追いかけて捕まえる役目だったので、怒ったモモちゃんに手をズタズタにされたこともある。ちなみにその傷は今でも残っている。

その場で気付ければいいが、一度出て行ったことに気付かずにそのまま帰ってこない時があった。猫のくせに帰巣本能がなく、数日経っても帰ってこず、一週間ほど経って3キロほど離れたお家の庭に現れて、やっと回収された。見るから血統書付きであることと、脱走癖があったので首輪電話番号が書かれていたから帰ってこれた。うちの猫電話番号まで書かれたのはモモちゃんだけだった。

これで懲りれば良いのに、その後もモモちゃんは外に出たがった。防止柵が家から取り払われたのは、もっとずっと後のことだった。

モモちゃんは猫界の中ではあまりうまく馴染めないようだった。モモちゃんは小さい頃はたった一匹だったからか、自分のことを人間だと思ってる節があった。モモちゃんの後にきた和猫二匹とはあまり仲良くやれなかった。多分血統書付きだから日本語がわかんないのだろうと話してたが、もっと後にきたメインクーンレオにも意地悪をされていた。そういうこともあって、人間そばにいたがる猫だった。

父は猫を飼うことを反対してたが、母が押し切って迎えたモモちゃんが父の膝の上で寝るので、可愛くて許してしまった。父が晩酌している膝の上に来てテーブルの上のものをくすねる猫ではあったが。何を思い出しても、モモちゃんはえらい大変な猫であった。

これは良くない話だが、小さい頃にモモちゃん人間食べ物を分けてあげたせいで、人間が食べている時に邪魔をするようになり、そのせいでモモちゃん食事廊下に締め出されることになった。ヨーグルトが好きな猫だった。

なおとばっちりで他の猫も外に出されていた。

モモちゃんは幼い頃から腎臓が良くなくて、10歳頃には歯も抜けたが、特段大きな病気もなく生きてくれたのはありがたい。

私の二番目の猫は6年前、10歳で亡くなった。名前スモモモモちゃんの下の子からスモモ

スモモ間質性肺炎で、最後はみるみる痩せ細って、呼吸も苦しそうで、とにかく辛そうで見ていられなくて、最期はお医者さんに眠らせてもらった。その頃には私はもう実家を出ていたので、母が決断した。損な役回りだが、これが生き物を飼う責任だと思うと、一人暮らししている今も私は猫を飼う勇気が出ない。

スモモ最期が本当に辛くて、可哀想で、こんな苦しんでいるのに人間のことが好きで寝床から出てこようとするのだから、どうしようもなく愛しかった。どうか猫は皆苦しまずに眠れますように、と祈らずにはいられなかった。

からモモちゃん老いていくのを見ても、天命だと受け入れられたのかもしれない。

18歳だ。人間なら90近いおばあちゃんに、もっと頑張って生きて、って言うか?

もうたくさん頑張った、あとはゆっくり、辛いこともなく、痛い思いをせず、好きなものを好きなだけ食べて過ごしてね、と言わないか

私はモモちゃんと別れるとき、そう言った。

頑張ったね、もう充分だよね、あとはモモちゃんの好きにしてね、辛くないように、痛い思いもしないでね、好きなところで寝なね、頑張ってくれてありがとね。

最期眠るようだったらしい。

モモちゃんが辛い思いをしないで逝けたのなら何よりだ。

でも、寂しいよ。私はい号泣しながらこれを書いてるよ。私の妹だったよ。18年も一緒にいた、私の最初の、かわいい可愛い猫だったよ。

私が高校生の時に来た猫。

私が受験で鬱のようになってた時、母がどうにかしようと連れてきた猫。

私の妹だった。受験なのに、モモちゃんにウェットフードをあげるために、学校予備校の合間に家に帰ったりしたこともあった。

今まで出会ったどの猫よりもちっちゃくて、どの猫よりも美猫だった。

もうモモちゃんがいない歳よりいた歳の方が多くなってしまった。

18年も生きてくれてありがとう。猫に出会わせてくれてありがとう。私の妹、私のかわいいモモちゃん最初の猫。

どうかどこかの人生で、また巡り会えますように。

2026.2.14

受験とか勉強とかの話

娘の進学について、もし自分と似た所があったら何を助言できるかなぁと考えて過去を整理したので、ここに書き留めておくことにする。

小学生の頃、ふんわり勉強したいと思い塾に通い始めた。

中学受験コースに通い四科目の勉強を始めた。途中から社会勉強がつまらなくて(楽しんで覚えられなくて)、二科目コースに移った。すると受けられる学校の幅が狭くなり、その中には強く行きたいと思う学校も無かったので、嫌になって中学受験コースから学校サポートコースみたいなコース編入した。

サポートコース受験コースと比べると当然易しい内容で、簡単すぎると感じることもあった。

中学に上がると流石に高校受験を目指すコースになったが、そこでは上位クラスキープできた。小学校の頃の助走があったこと、最初から三科目で行くと割り切っていたことも大きかったと思う。五科目で理科社会をやっていたら潰れていたか結果的総合的な偏差値を下げていたと思う。(社会は相変わらず覚えられなかったので……)

夏期講習や夜遅くまでの授業、正月特訓などを経て、無事に高校受験には成功した。

さすがに塾に通うことにはうんざりしていたので、絶対予備校なんて行かない、大学付属校に行くぞという気持ち付属校ばかりを受けまくり、五校のうち四校に合格した。

高校ではその後、色々な点で苦しみながらも、友達趣味に恵まれそれなりによい思い出を持った状態卒業することができた。

苦しみについて補足すると、学校の授業で学び、家で宿題をするという当たり前の習慣に馴染めなかった。要するに勉強するモチベーションが沸かなかった。鬱に近い状態であったと思う。

勉強しなくてもちゃんと成績が取れる、という世界線を望んでいたのだと思われる。しか自分はそのような天才ではなかったので、普通に悪い点を取ってはしょげてた。

それを認識した上でも、まだ勉強することに面白みを見いだせない時期が続いた。勉強は苦しみであった。もしも、目的意識がある、学問領域としての面白さに気付く、得意な科目で無双する、楽しんで競争する、といったことが出来ていたら、また違ったのかもなぁと思う。

そういう意味では情報の授業では割と無双してHTMLJavaをやっていたかもしれない。

あとは、試験勉強友達学校ファミレスでやるというのも、楽しかったな。それに、そこで救われていたとも思う。

その反省も踏まえ、エスカレーターで進学した大学ではこの勉強が次にどう繋がっていくか、ということを少しは考えていたと思う。

B1は学部内で学科が分かれずに、B2で振り分けがあるタイプだったので、行きたい学科に行くためにはよい成績を取らなければならない、しかもこの学習B2の基礎になるはずだ……とまでは考えたのかは覚えていないが、それなりに頑張ったと思う。

学科への振り分けも決まると、ようやく勉強職業との繋がりが見えるようになってきて、学んでおきたいというモチベーションは増えた。またB3では研究室配属があるため、行きたい人気の研究室に入るためには良い成績を取らないとなぁという観点でも、諦めたりすることは無かった。

また、サークルに参加したのも良かったし、普段から内部進学の友達やB1でクラスが一緒だった友達とつるんでいたのも良かった。サークル活動に励んだり、喋ったりご飯を食べたりするのは楽しかったし、必然的情報交換をして、頑張ろ〜なのかやんなきゃ〜なのか分からないけど、勉強モチベーションになっていたのかもしれない。

サークル活動が専攻の内容ともリンクしていたことも価値があったと思う。これってどういうことだ?という疑問がサークル活動の遊びの中から生じて、別に宿題でも何でもないけど図書館に行って調べたり、活動成果物を作るためにあれこれやったりしていた。

この頃は結構成績も良くなってきて、専門科目は一部を除いて良くできていた気がする。

そんなこんなで気になっていた研究室にも入ることが出来て、やりたい分野の企業にも就職することができた。今の仕事にも満足している。

勉強の苦い経験というのは、成長しているということであり、多かれ少なかれ苦しむことになると思う。その時に折れないで頑張れるかどうかは、自分経験では目的意識と交友関係大事だったのだと思う。

それと、親からの機会の提供金銭的な支援奨学金ですね。

娘には、色々な事に興味を持てるといいね、仲間と一緒に遊んだ勉強したり色々やれるといいね、という方向性提示していきたい。

機会の提供という親の責務の果たし方については、これから考えをまとめていきたい。

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