はてなキーワード: リックとは
クィア理論は、ジュディス・バトラーやイヴ・コソフスキー・セジウィックらによって展開された、異性愛中心主義(ヘテロノーマティヴィティ)を脱構築する試みとして登場した。規範を「行為の反復」として相対化し、ジェンダーやセクシャリティを流動的なパフォーマンスとして再定義することで、抑圧からの解放を目指したはずである。しかし、21世紀に入りこの理論が制度化・政策化される過程で、皮肉にも新たな規範の再配置と生権力の装置として機能し始めた。ミシェル・フーコーが『性の歴史』や『監獄の誕生』で分析したように、権力は単に抑圧するのではなく、知識・言説を通じて主体を生産・分類・管理する。クィア理論は、旧来の生物学的性規範を批判しながら、自ら新しい「正常/異常」の線引きを導入し、人間本性を再定義し、さらには一部の逸脱者を「脱人間化」するプロセスを促進している。
代表的な事例が、女性専用スペースの「解放」政策である。英国では、性自認を重視した刑務所配置方針が長年続けられた結果、生物学的男性でありながら女性として認識されるトランス女性囚人の割合が急増した。2025年3月31日時点で、イングランド・ウェールズの刑務所には339人のトランスジェンダー囚人が確認されており、前年比15%増という急拡大を見せている。過去の公式データでは、こうしたトランス女性(出生時男性)のうち、性的犯罪歴を持つ者の割合が58.9%〜62%に達し、生物学的女性囚人(3.3%)や男性全体(約17%)と比較して極めて高い男性型犯罪パターンを維持していることが明らかになった。
同様の再配置はスポーツ分野にも及ぶ。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリー参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認を尊重した参加が認められてきた結果、生物学的男性の身体的優位性による不公平が深刻化し、女性アスリートの安全と競技の公正が脅かされる事例が相次いだ。トイレ、更衣室、温泉などの日常空間でも、性自認優先の通知や条例が導入され、生物学的性の境界が曖昧化された。
これらは、クィア理論が唱える「規範の撹乱」ではなく、新しい規範の再配置である。生物学的性を「社会的構築物」と位置づけ、性自認を優先する言説は、フーコーのいう生権力として、身体と生を新たな基準で管理する装置となった。旧来のheteronormativityを批判しながら、性自認という内面的真理を「知識/権力」の対象に据え、人口を分類・最適化する——まさにフーコーが警告した、権力が「生」を対象化するメカニズムだ。
クィア理論は、人間本性を「本質的」なものではなく、パフォーマティブに構築されるものとして再定義した。これにより、ジェンダー・ディスフォリアを抱える若者への「アファーマティブケア」(性自認肯定医療)が推進された。しかし、英国カス・レビュー(2024年最終報告)やその後の追跡調査では、思春期抑制剤やクロスセックスホルモン治療のエビデンスが「極めて弱い」ことが指摘され、長期的な精神衛生・身体的影響(骨密度低下、認知発達への懸念)が懸念されている。2025年以降、イングランドでは思春期ブロック剤の使用が原則禁止され、ホリスティック(包括的)な心理社会的支援へシフトする動きが加速した。
この再定義は、フーコーの医療化理論を逆手に取ったものだ。19世紀に同性愛が「逆性的感覚」という医学的カテゴリとして生産されたように、クィア理論は性自認を新しい「内面的真理」として医療・教育・法制度の対象に据えた。結果、生物学的現実(進化的に形成された性的二形性や犯罪パターンの性差)を「抑圧」と位置づけ、流動性を強制する新しい規範を生み出した。
ここで特に問題なのは、こうした人間本性の再定義が社会契約や民主的なプロセスをほとんど経ずに急速に制度化された点である。ホッブズやルソーが描いた社会契約は、個人の加害性や自由の限界を相互に認め、合意に基づく規範を構築する仕組みである。民主的プロセス(議会審議、科学的レビュー、国民的合意形成、公衆討議)は、これを支える現実的な装置だ。しかし、クィア理論の影響下で性自認優先政策がアカデミアや一部の運動から行政・法制度へ波及した過程では、こうしたプロセスが大幅にバイパスされた。生物学的現実や潜在的加害性の検討が十分に行われないまま、政策が「進歩的」トレンドとして導入された事例は枚挙にいとまがない。
社会契約や民主的プロセスは、一種の「遅延効果」を持つと見るべきだ。思想やトレンドの変化が熱狂的に進行する中で、即時的な制度反映を「遅らせる」安全装置。審議の時間、科学的エビデンスの蓄積、利害関係者の声の反映——これらがなければ、流動的な人間像の再定義が現実の害(身体的・心理的・社会的コスト)を十分に考慮せずに固定化されてしまう。クィア理論は脱構築を掲げながら、この遅延効果を「抑圧の装置」と位置づけ、民主的チェックを弱めながら生権力を再配置した。
ここで注目すべきは、医療基準自体の改定による「非医療化」が、フーコーの医療化理論でこそ最も鮮やかに説明できる点である。DSM-5(2013年)では「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」を「Gender Dysphoria(性別違和)」に改称し、アイデンティティそのものを病理化する表現を廃止した。ICD-11(2019年)では「Gender Incongruence(性別不一致)」を精神疾患章から「性的健康関連条件」章へ移動させ、精神疾患としての分類を正式に解除した。これらは一見、クィア理論が推進した「反医療化」の勝利のように見える。
しかし、フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の名の下に行われる新たな医療化・生権力の再配置にほかならない。フーコーは、権力が「病理化」だけでなく「脱病理化」によっても主体を生産・管理することを繰り返し指摘した。旧来の病理化(行為を「種」として内在化し、管理対象とする)を批判するように見せかけつつ、「合意と害の不在」という新しい基準で逸脱を再分類する。適合する軽度の逸脱(規範撹乱的な多様性)は「正常な多様性」として保護・特権化され、適合しない重い衝動(非同意・暴力要素の強いパラフィリック障害)は、より強く「ただの犯罪」として切り捨てられる。これにより、クィア理論は反医療化を装いつつ、性自認を新しい内面的真理として医療・制度的介入の対象に据え、人口の生を再最適化する装置を構築した。まさにフーコーが警告した「権力の生産性」の典型である。
さらに深刻なのは、逸脱の「軽重」による選別が、犯罪者の脱人間化を促進している点だ。合意ベースの軽度パラフィリアや規範撹乱的な表現は、クィア理論によって「多様性」として保護・特権化される。一方、非同意・暴力要素の強い性的衝動(パラフィリック障害)は、「ただの犯罪」として切り捨てられ、道徳的・社会的に脱人間化される。DSM-5がパラフィリア自体を非病理化しつつ、害を伴うものを障害とする区別を設けたのも、この二重基準を制度化した例である。
フーコー的に見れば、これは生権力の典型的な逆説だ。クィア理論は「反医療化」を掲げて旧来の病理化を批判したが、結果として新たな分類装置を構築した。「クィアであること」が文化的・道徳的資本となり、十分に「クィア」でない逸脱者(重い反社会性+性的衝動の複合型)は、規範の外側に排除される。犯罪者は「宿命的な怪物」としてではなく、社会が管理すべき生として扱われるべきなのに、理論は「軽い逸脱」の保護と「重い逸脱」の脱人間化を同時に推進する二重基準を生んだ。これにより、管理される自由(自発的な衝動抑制治療や専用環境の選択肢)は十分に整備されず、宿命的な渇望を持つ人々をさらに孤立させる。
フーコーは、権力は「抑圧」ではなく「生産」であり、抵抗そのものが新たな権力装置を生むと繰り返し指摘した。クィア理論はまさにこの螺旋に巻き込まれた。規範を脱構築しようとしたはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体と生を再管理する生権力として機能している。人間本性を流動的に再定義した結果、生物学的現実や加害性の潜在性を直視する機会を失い、脆弱層(生物学的女性や子供)の安全権を再配分する事態を招いた。
社会契約や民主的プロセスという「遅延効果」を欠いた再定義は、こうした生権力の再配置を加速させた。人間らしい社会とは、逸脱の宿命を認めつつ、害の度合いに基づく透明な線引きと、加害衝動者への「選択肢」(任意の医療的介入や構造化された環境)を拡大する社会である。フーコーの物差しで測れば、クィア理論の実践は規範の単なる置き換えに過ぎない。脱構築の名の下に生まれた新たな抑圧を避ける——それが、今求められる成熟した視点だろう。
チック・リット(英語: chick lit)は大衆小説のジャンルで、「個々の主人公の試練と苦難に焦点を当てた、ヒロイン中心の物語で構成されている」もののことを指す[1]。このジャンルは多くの場合、現代における「女性らしさ」の問題(恋愛関係や女性の友情、職場での問題など)をユーモラスで軽快な方法で取り扱っている[2]。
このジャンルが始まった当初、チック・リットの主人公は「独身、白人、異性愛者、イギリス人かアメリカ人の女性、20代後半から30代前半、大都市圏在住」である傾向が高かった[1]。このジャンルは1990年代後半に人気が出てきて、チック・リットの小説がベストセラーとなったり、チック・リットに特化した出版社ができたりした[3]。チック・リットの批評家の間では、チック・リットのジャンルの始まりはイギリスの作家キャサリン・アリオットのThe Old Girl Network(1994年)であり、チック・リットの「原典」として広く知られているヘレン・フィールディングの『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996年)は、これにインスピレーションを受けたものであるということで合意している[4]。
"chick"は英語で「雛鳥」を意味し、転じてアメリカのスラングで「若い女性」を意味する。"lit"は"literature"(文学)の短縮形である。チック・リットの研究者は、この用語の初出は、1995年のクリス・マッツァ(英語版)とジェフリー・デシェルが編集したアンソロジーChick Lit: Postfeminist Fictionであるとしている。これは、マッツァとデシェルの「ポスト・フェミニストの作品を」という呼びかけに応えた22の短編小説を収録したものである[5]。1990年代半ばには、女性作家が女性読者のために書いたフィクションを指す言葉として、様々なメディアでこの言葉が使われるようになった。
この用語を、この用語が生まれる以前の同様の女性向け作品についても適用して、"chick lit in corsets"(コルセットを着たチック・リット)と呼ぶことがある[6]。また、このジャンルの要素と青春物語を組み合わせた、若い読者向けのチック・リットのことを"chick lit jr."(チック・リット・ジュニア)という[6]。
論争
チック・リットは、読者の間では非常に人気となったが、批評家の大半はこのジャンルを支持しなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評において、アレックス・クジンスキー(英語版)はフィールディングの小説を特に非難し、「ブリジットは男に狂わされた無力感に浸っている哀れな姿であり、彼女の愚かさは言い逃れできない」と書いた[7]。作家のドリス・レッシングはこのジャンルを「すぐに忘れられてしまう」とし、ベリル・ベインブリッジ(英語版)は「泡のようなもの」(a froth sort of thing)と呼んだ[8]。編集者エリザベス・メリック(英語版)は、2005年にアンソロジーThis Is Not Chick Lit(これはチック・リットではない)を出版した[9]。メリックはこの本の紹介文の中で「チック・リットのお決まりのパターンは我々の感覚を麻痺させる」と主張した[9]。編集者ローレン・バラッツ=ログステッドは、メリックの本に対抗して2006年にThis Is Chick Lit(これがチック・リットだ)[10]を出版し、このプロジェクトは「怒りから生まれたものである」と述べた[10]。
このジャンルの作家たちは、その弁護に乗り出した。チック・リット作家のジェニー・コルガン(英語版)は、すぐさまレッシングとベインブリッジに反撃した[11]。『グッド・イン・ベッド(英語版)』(2001年)や『イン・ハー・シューズ(英語版)』(2002年)など数多くのチック・リット小説を著したジェニファー・ウェイナー(英語版)は、常にチック・リットを擁護した[12]。『スレート』誌2013年5月22日号では、『ウーマン・アップステアーズ(英語版)』(2013年)の著者である小説家クレア・メスード(英語版)が、女性の小説と主人公の好感度について語ったコメントに対する、ウェイナーの記事を掲載した[13]。ウェイナーはその記事の中で、商業小説、特に女性の商業小説に存在する偏見に疑問を投げかけた。ウェイナーは、『ニューヨーク・タイムズ』紙に"The Snobs and Me"を執筆するなど、チック・リットに対する人々の認識に挑戦し続けている[14]。この記事では、自分の作品を軽視する文化的風土の中で、自分の作品を信じようとする彼女の個人的な葛藤が綴られている[15]。
ダイアン・シップリー[16]などの他の作家もこのジャンルを擁護している。特に、フェミニストのグロリア・スタイネムがウェイナーの意見に共鳴し、女性の文学に対する偏見に注目しながら、自分たちがこの言葉を使っていること、そしてこの言葉が女性や女性の小説について何を語っているのかを問うよう人々に求めた[17]。
その後の状況
出版社がこのジャンルをプッシュし続けているのは、売上が高い状態が続いているからである。作品の市場性を高めようとして、この用語の様々な派生語が造語されてきた。
『リファインリー29(英語版)』のライター、ローレン・ルヴァイン(Lauren Le Vine)は、2016年3月に"The Chick-Lit Books That Won't Destroy The Feminist Inside You"(あなたの中のフェミニストを破壊しないチック・リット本)と題して、女性が女性のために書いた8冊の本を紹介した[18]。ルヴァインは、女性を題材にした小説の文学的伝統には、時に、買い物に夢中になって夫とはぐれた女性が夫を探すという物語が含まれており、このような本はフェミニストの価値観と矛盾しているということを認識している。しかし、ルヴァインはヘレン・フィールディングの1996年の小説『ブリジット・ジョーンズの日記』を紹介する際に、「一人の女性が個人的な満足感(それは彼女にとって愛、キャリアの成功、身体の受容を意味する)を見つけようとすることにのみ焦点を当てた本であり、それはフェミニズム(どの波に乗っても)とは何かということである」と書いている[18]。
『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌の編集者であるサラ・ネルソン(英語版)は、2008年に、チック・リットというジャンルの中で考えられるものの定義が、より完成度が高く、「成長した」ものになってきていると示唆している[19]。
2000年、『シドニー・モーニング・ヘラルド』は、女性読者を対象とした小説の新しいトレンドについて、次のように述べた。「ポスト・トーリー、ポスト・グランジの軽やかさの精神が、雑誌を読む女性やテレビを見る女性たちの間に広まっていった。この小説は、『チック小説』(chick fiction)または"chicfic"いう『出版現象』の誕生であり、主題、パッケージ、マーケティングによってすべてが統一されている。キャンディ・ブライトで、ピンクと蛍光色の重い表紙、『キャンディ・ブライト』なタイトルにより、簡単に消化しやすく、良い笑いを提供することをほのめかしている。そのような本は、雑誌の記事、小説や小説化されたもの、テレビと、自宅で一晩で消化できる快適な食べ物のハイブリッドとして市場に位置づけられている[20]。」
チック・リットは一般的に女性が主人公であり、プロットの中でその女性らしさが重要なテーマとなっている。ほとんどの場合で現代世界を舞台としているが、歴史上の時代を舞台とした作品もある。扱われている問題は、しばしば消費主義よりも深刻なものである。例えば、マリアン・キーズ(英語版)の『子持ちクレアの逆転勝利』(Watermelon)は、現代世界で母親であることに悩む主人公を描いている。宗教的なチック・リットの市場も成長している。他のタイプの大衆小説と同様に、著者や出版社は多くのニッチ市場をターゲットにしている[3]。主人公の民族、年齢、社会的地位、配偶者の地位、キャリア、宗教などは様々である。goodreadsでは、チック・リットは恋愛小説のサブジャンルとしては扱われていない。それは、チック・リットは、プロットに恋愛の要素が含まれていることもあるが、恋愛関係と同じくらいにヒロインの家族や友人との関係が重要であることが多いからである[21]。チック・リットのやや厳しいジャンルルールにより、チック・リットの作家が異なるジャンルに進出するのは難しくなっているが、チック・リットは歴史小説に結びつくこともできる。
女性作家の中には、自分の作品が「チック・リット」というレッテルを貼られるのを避けるために行動している人もいる。例えば、『ガーディアン』紙の2010年の記事によれば、ユーモア作家のD・J・コンネルは、自身の作品がチック・リットとされるのを避けるために、ペンネームを「ダイアン」から「D・J」というイニシャル表記に変更した[22]。コンネルは、女性名でユーモアを書くことは、自身の作品を危険にさらすことになり、チック・リットのレッテルが貼られた場合、その作品は真剣に受け取られないだろうと言った。別の例では、作家のルース・ギリガン(英語版)は、自身の作品がチック・リットとみなされることで、どのように一般の人々、エージェント、出版社から軽蔑されたかについて書いている[23]。ギリガンは、大学のキャンパスでの性的暴行についての小説で新しいスタイルを試したが、出版社は明るい花のような表紙を提示し、ギリガンはこれを失礼だと感じた。
アニメ『葬送のフリーレン』は、歴史上例の ない形で、さまざまな国のカトリック司祭た ちの注目を集めています。数十人の叙階され た司祭たちが、すでにこの作品に分析、ビデ オシリーズ、完全な神学的な考察を捧げてお り、これは日本のアニメ作品では稀なことで す。彼らを最も感銘させるのは、物語がカト リック信仰の中心的なテーマを、自然かつ力 強く扱う深さです。
フリーレンを特別なものにしているのは、作品が人間の有限性の美しさを称える方法で す 不死のエルフが、限られた時間だけが人 生に重みと意味を与えることを、死すべき者 たちから学びます。これは『伝道の書』の教 えを直接的に反映しています。また、主人公 ヒンメルは日常の英雄主義を体現し、小さな 親切、忠誠、シンプルな喜びによって日々を 聖化します。これは一部の司祭が「日常の時 間の聖化」に例えるものです。エピソード全 体が、パン、記憶、交わりを扱う中で聖体拝 領との類似を示唆し、一方、悪魔たちは冷た く救済不可能な存在として描かれ、アニメで 見た中で最も聖書に忠実な描写の一つです。
公然と説教したりカテキズムをしたりする作 品とは異なり、フリーレンはただ示すだけで す。それは、有限の人生が貴重であること、 真の友情が死を超えること、そして本当の英 雄主義が静かで日常的なものであることを明 らかにします。だからこそ、キリスト教に直 接言及することなく、このアニメは多くの司 祭や信者から、私たちの時代で最も美しく深 い視覚的なカテケーシスとして受け入れられ ており、果たしてこれが史上最もカトリック 的なアニメではないかという疑問を呼び起こしています。
ある雪の降る大晦日の晩のことです。一人の少女が、凍えるような寒さの中、街角に立っていました。
しかし、彼女が売っていたのは「マッチ」ではありませんでした。彼女が売っていたのは、自らの「筋肉(マッチョ)」だったのです。
少女はボロボロのタンクトップをまとい、極寒の中で見事なキレを見せていました。彼女の広背筋はまるで翼のように広がり、大腿四頭筋は丸太のように太く、降り積もる雪を跳ね返していました。
「マッチョはいかがですか……。バルクアップしたての、キレキレのマッチョはいかがですか……」
通行人はみな、ダウンジャケットを着込んで足早に通り過ぎていきます。誰も少女のサイドチェストや、完成されたラットスプレッドに見向きもしません。今日はおろか、ここ数日、彼女の筋肉を「ナイスバルク!」と褒めてくれる人は一人もいませんでした。
夜が深まり、寒さは増すばかりです。少女はあまりの空腹と低血糖で、筋肉が分解されてしまう「カタボリック」の恐怖に震えていました。
少女は決意しました。売れ残った自分の筋肉を、自分自身のために使うことにしたのです。彼女は壁際で、渾身の「モスト・マスキュラー」をとりました。
すると、どうでしょう。少女の血管から凄まじい熱が放出され、周囲の雪がみるみる溶けていくではありませんか。少女がポーズを変えるたびに、不思議な光景が目の前に広がりました。
一度目のポーズをとると、目の前に黄金に輝く「特大ホエイプロテイン」の樽が現れました。二度目のポーズをとると、最高級の鶏ささみとブロッコリーが山盛りに積まれた、夢のような食卓が現れました。そして三度目のポーズをとったとき、かつて一緒にトレーニングに励み、天国へ召された「伝説のボディビルダー」のおじいさんが現れたのです。
「おじいちゃん! 私を連れて行って! カタボリックのない、毎日がチートデイの世界へ!」
少女は残された全ての力を振り絞り、全筋肉を最大収縮させました。その輝きはオーロラよりも美しく、街全体を昼間のように照らしました。
翌朝、街の人々は路地裏で静かに横たわる少女を見つけました。彼女の顔は、とても満足げで、微笑んでいました。
「見てごらん、なんて見事な上腕二頭筋だ……」
「こんなに寒い夜に、一人でパンプアップし続けていたんだね……」
少女の体は冷たくなっていましたが、その筋肉は岩のように硬く、決して衰えることはありませんでした。彼女は今ごろ天国で、おじいさんと一緒に、終わることのないベンチプレスのセットをこなしていることでしょう。
ニック兄さんの提示する分類は、一見すると政治思想のラベリングに過ぎないようでいて、実は典型的な価格理論的フレームで再解釈できる。
すなわち、ネオコン・リベラル・本物の保守という三分類は、それぞれ異なるインセンティブ構造と情報制約の下での行動様式であり、その帰結として自己放尿が観察されるのである。
これはMilton Friedman的に言えば、個人の選択と市場の価格メカニズムを自動操縦装置として信頼する立場である。
したがって、あらゆる政治的言説もまた、合理的個人の選択の集積として理解されるべきであり、自己放尿とは単なる愚行ではなく、特定の制約条件下での合理的(だが社会的には非効率な)選択の結果である。
ニック兄さんの言うように、ネオコンはアメリカ式民主主義の輸出を志向し、そのための戦争を正当化する。
ネオコンの意思決定主体は、自らの効用関数にイデオロギーの拡張や覇権維持を組み込む。
一方で、そのコスト(戦争費用、人的損失、財政赤字)は広く分散される。
ここで発生するのが典型的な集中利益・分散コストの構造であり、結果として過剰な軍事介入という自己放尿が均衡として出現する。
つまりネオコンの自己放尿は非合理ではない。むしろ、歪んだインセンティブの下での合理的自己放尿である。
リベラルについてニック兄さんは「LGBTQなどどうでもいい議論に集中」と批判するが、これもまた価格理論で説明可能だ。
政治参加における一票の影響は極めて小さいため、有権者は合理的無知を選択する。
その結果、複雑な財政問題や制度設計ではなく、低コストで意思表示できるシンボリックな問題(LGBTQなど)に関心が集中する。
これは自己放尿であるが、同時に合理的でもある。情報収集コストを最小化しつつ、道徳的満足を得る行動だからだ。
ニック兄さんの言う本物の保守(小さな政府、伝統重視)は、制度的安定性を重視する効用関数を持つ主体と解釈できる。
彼らは長期的なルール(言語・宗教・文化)を公共財として評価し、それを維持する最小政府を志向する。
この場合、自己放尿は比較的少ない。なぜなら、ルールベースの政策は裁量的介入よりも政府失敗を抑制するからである。
ただし問題は、現代の保守が20年前のリベラルであるという点だ。
これは嗜好の時間的不安定性、すなわち選好のドリフトを意味し、結果として政策一貫性が失われ、新たな自己放尿を誘発する。
解答は明確だ。自己放尿を禁止するのではなく、そのコストを内部化させることである。
これにより、ネオコンの自己放尿は高コスト行動となり、均衡から排除される。
重要なのは、自己放尿そのものを道徳的に否定することではない。
ネオコンの自己放尿も、リベラルの自己放尿も、制度設計次第で抑制可能だ。
価格システム、ルールベース政策、そして政府の限定。これらが揃えば、自己放尿は局所的なノイズに収束する。
逆に言えば、これらを欠いたとき、自己放尿は国家規模で増幅される。
以前、私は検索の限界から、ブルマーに対する不満は英語圏と日本語圏からしか見つけることができなかった。しかし、最近チェコのブルマーに対する不満を見つけられたので掲載する。
このブログは、チェコ在住の年を重ねつつある女性ブロガーが、1970〜80年代の社会主義時代の思い出や、現代の演劇・映画、美容、日常の出来事をウィットに富んだ筆致で綴っている雑記で、レトロな風俗を、皮肉とユーモアを交えて回顧する内容である。
https://dobrespravy.eu/socialisticka-klasika-jednotny-cvicebny-ubor-pre-dievcata-pamatate-si-ho/
著者は子供の頃から運動が大嫌いで、体育の授業は苦痛でしかなかった。
著者の運動嫌いを決定づけたのは、指定の体操着だった。白いTシャツとJarmilky呼ばれる上履き、そして何よりブルマーが苦痛の種だった。
ブルマーは伸縮性が全くなく、お尻の部分がダボついて「カバ」のように見えた。また、股上が異常に深く、足の付け根のゴムが非常にきつかったため、授業後には太ももに深い赤い跡が残った。
今でも「大衆の面前でこの格好で走らされ、笑いものになる」という悪夢を見ることがある。
著者はこのトラウマを克服するため、当時のブルマーを手に入れて、ハサミでバラバラに切り刻み、燃やしてしまいたいと切実に願っている。
以前チェコの民族意識と社会主義とブルマーで「チェコのブルマのゴムはきつい」と書いたときの出典はここだったかな?
そう思ったが、ブログを読み返すとどうも違うようだ。そうなると、この証言の信用性はかなり高まる。複数の人が同じようなことを言っているからだ。
ブルマーの形状は日本と共通しているが、素材やゴムの品質はまるで異なっていたようだ。
確かにドイツはヘランカ素材だったし、同じブルマーでも世界各地で別の素材が用いられていたようだ。
セクハラだった、恥ずかしかったという声がある一方で、パンツが見えないように履いていたという機能性に注目しているのは、イギリスとも共通している。
なお、今年の夏にはチェコに旅行に行きたいと思っているのだが、調べてみるとプラハには共産主義博物館があるらしい。ちょっと気になっている(さすがにブルマーの展示はないだろうが、共産主義体制の暗部、拷問器具とかはあるようだ。共産圏の文学や歴史に興味はあるものの、気晴らしの観光がしたいのでダークツーリズム的な場所に行くかどうかは迷う)。
https://www.youtube.com/watch?v=NZzMKXkmiHM
Zuzanu zabolel pohľad na Michala s Kamilou💔
以上。
イギリスは伝統を重んじる、なんていうのも昔凄かった国だったからなのかなと思った
まあ、一応そこに並んでパンクもある訳だけれど
それで言ったら、京都が伝統とか歴史とか言うのも、昔凄かった都市だったからなのかもしれない
今まさにブイブイ言わせている状態なら、歴史や何やを持ち出すまでもなくそこを誇示するのだろうし
もし何かの拍子にアメリカの覇権が崩れたら、東京が大都市でなくなったら、その時には伝統がなんちゃらとか言い出すのかもしれない
もっとも既に「アメリカという国の伝統が〜」なんてのは田舎の保守派の口癖だろうし
東京も再開発なんかで「この街の伝統が〜」とか言いはするけれど
日本にまでズームアウトすれば、他国の支配を受けること、大和民族がずっと紡いできた伝統が……みたいなも割と決まり文句だし
まあMAGAだって"again"と言っているし、陰りを感じている所はあるのかもしれないけれど
まあでも当分は最先端、最高峰の技術と知能、みたいなのがアメリカという国のご自慢の文句に使われそうな気はする
うー、
しっかり寒くなって年明け寒気厳しいわね。
寒いわ。
もうさちょっと部屋も暖かくして加湿もして
しっかりしていかないと体調低下させてしまうもっともの要因になっちゃうのよね!
マジこれ気を付けないと。
そんなわけで、
私はもらった年賀状のお返事をまあ来週までには出さなくちゃいけないということを心に決めながら、
年賀状を5枚だけ買ってきて、
5枚もらった年賀状に
お返事の年賀状ちょうどぴったりの5枚を買ってきて、
これは書き損じを許されない事態でそう思うと一気に緊張感がマックスになるライドオンなんだけど、
これもなんだか手間っていったら怒られるわよね。
1年にこの機会でしかご挨拶近況報告しない人だっていることだし、
お元気ですか?
お元気です!
って昨年なにしゃべっていたっけ?って
毎回毎回初ターンな状況に陥って、
今年も健康に頑張りましょう一択でのお返事になるじゃないかしら?
無難なお返事になるところなのよ。
あのさ、
新聞の四コマ漫画で見て私ハッとしてグッときたことを思ったんだけど、
お餅の数え方って「個」それとも「枚」なの?
枚ってありえるの?
だってさ、
みんなお餅食べ過ぎないでね!とか
私普通に「個」って使ってて、
これ「枚」って地域もあるの?
全く知らなかったわよ!そんなこと。
獅子舞に頭右から囓られてもらうか左から囓られてもらうかで違うように、
そのぐらい世の中にお餅は「枚」って数える習慣浸透して無くない?
私だけ?
でもさ
お餅で今年は飲み込んで危機一髪になっちゃったご高齢のニュースみてないけれど、
もしかして私が見ていないだけかも知れないこの餅だけを唯一信じる餅信仰。
無理矢理飲み込んで食べるロマンって、
焼けた大きなステーキをナイフで比較的大きな塊で切って大きなまま飲み込む、
アメリカにはアメリカなりのステーキ信仰ってのがあるらしくって、
これがたちが悪いことに、
まさか年の暮れでお餅つき機の試運転でお餅ついたものを試食して喉に詰まらせて危機一髪!ってことはあまりにも張り切りすぎているし食いしん坊すぎるし、
そんな年末に喉に餅詰まらせてる場合じゃないのよな時期的になところ、
そんな餅とか無理矢理飲み込むロマンとかあるのって日本だけかと思っていたわ。
アメリカはとにかく
大きな肉の塊のまま飲み込むロマンがあるらしく、
果敢にそのロマンに挑戦したステーキ野郎達が救急車で運ばれているっての良くあるニュースらしいわ。
アメリカのステーキの焼き加減のこだわりには日本からしたら到底考えられないような焼き方がの
一瞬ジュッと灼熱の鉄板に着地させて表面だけを焦がして中はフレッシュブルーって、
なんか1000℃近く熱せられた鉄板にステーキ肉とか乗せたら1秒で蒸発して焼け消えてしまいそうな勢いに思っちゃうんだけど、
だからそのステーキ信仰のデカいかたまり肉のまま一気に飲み込むロマンもあれば
そうやって限界まで突破した温度で一気に表面だけ焼くってロマンもあって、
ステーキ何枚食べた?ってなるわよね?
そのアメリカステーキスピリッツをインスパイヤザネクストして、
日本のお餅の数え方もそれに倣って「枚」って数えるロマンなのかしら?
真相は明らかじゃないけれど、
私がただ一つ知ったことは
クールポコに通ずるお餅つきやっちまったな的なロマンは無いと思わない?
どちらかというと
食べる方ばかりのロマン。
あと、
喉に詰まった餅を取り除くワザの
そのワザが生まれたのは
アメリカのステーキ信仰のデカい肉塊をそのまま飲み込んじゃって詰まらせて周りを困らせるのに対応するべく、
まさかハイムリック法が日本でも有効に効く技になってしまったとは思いもよらなかったはずよ。
日本に伝わるのは
ステーキの数え方の「枚」がお餅にも「枚」って数え方が伝来しただけでいいと思うわ。
粥ではなくてお餅の雑煮的な七草のにして食べちゃおうかなーって感じね。
お餅何個入れようかしら?
いや何枚入れようかしら?
つーか、
枚って数え方なんかやっぱり違和感があることを覚えているのは私だけかしら?
うーん、
とりあえず、
やっぱり私的には「個」の方がしっくりくるわね。
せいぜい張り切ってお餅喉に詰まらせちゃわないように美味しくいただくわ!
うふふ。
そう言えばさサンドイッチにお餅が挟まったサンドイッチってなくない?
そんなことを思いながら頂く
レタスタマゴサンドイッチはシャキシャキレタスにジューシーフレッシュタマゴが相まって
美味しさいっぱい大満足!って感じね!
冷たいのだと冷えるので、
なんかお吸い物みたいになっちゃったので、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「シュウ酸カルシウム」そのものはアレルギー物質(抗原)ではなく、物理的な刺激によってアレルギーに似た症状(接触皮膚炎や口腔内のかゆみ)を引き起こす物質です。
1. 症状の原因:針状結晶
シュウ酸カルシウムは、里芋、山芋、パイナップル、キウイ、タケノコなどに含まれています。これらは顕微鏡で見ると鋭い「針」のような形(針状結晶)をしています。
皮膚への刺激: 里芋や山芋を触ると痒くなるのは、この針が皮膚に刺さるためです。
口内の刺激: 食べた時に喉や口がイガイガするのは、粘膜に針が刺さるためで、免疫反応による「アレルギー」とは仕組みが異なります。
2. 対処法
シュウ酸カルシウムによる刺激は、以下の方法で抑えることができます。
酸で溶かす: 酢やレモン汁で洗うと結晶が溶けやすくなり、痒みが和らぎます。
加熱する: 加熱によって結晶の構造が変化し、刺激が弱まります。
塩で洗う: 里芋などは塩もみしてぬめりを落とすと、結晶も一緒に除去されやすくなります。
「口が痒い」「喉が腫れる」といった症状が、シュウ酸カルシウムの刺激ではなく、「口腔アレルギー症候群(OAS)」という本物のアレルギーである場合もあります。
https://anond.hatelabo.jp/20251029200242
今年のMLBワールドシリーズはロサンゼルス・ドジャーズとトロント・ブルージェイズの対決だったが
奇しくもケンドリックはロサンゼルスの隣のコンプトン出身、ドレイクはトロント出身ということもあり
今回のワールドシリーズを両名の対立になぞらえる人も多かった。
ドレイクはブルージェイズ応援のため、トロントの試合会場に何度も足を運び
ブルージェイズが勝利すると、大谷が三振した時の画像をインスタに投稿してドジャーズファンを煽っていた。
ドレイクが訴訟してでも止めたかった「Not like us」を含むケンドリックの楽曲やリリックがネット溢れる結果となった。
ドジャーズの公式は「THEY STILL NOT LIKE US(奴らはまだ俺たちのようにはなれない)」とコメントして勝利を祝い
FOX NEWSも「DAMN.」のコメントと共にケンドリックとドレイクのコラ画像を投稿、
大谷翔平もインスタのストーリーズでケンドリックの曲を使って勝利を祝った。
更に、ドレイクとコラボしているNikeすらも「Squabble Up」を使ったドジャーズ優勝を祝うCMを公開した。
https://anond.hatelabo.jp/20250826204527
10/9に、ドレイクがUMGに対して起こした「Not like us」に関する名誉棄損の訴訟は棄却された。
判事は「一般的なリスナーはビーフの内容が全て事実とは受け取らない」
「そもそも『俺をロ〇コンと呼びたいなら言ってみろよ』と先に煽ったのはドレイクで、ケンドリックはそれに返しただけ」と、ドレイクの主張を退けた。
ドレイクと弁護団は控訴を示唆しているが、主張の根幹が否定されてしまったわけで
よほどの新事実でも持ち出さない限り、審判は覆らないと思われる。
ネット上では、「ドレイクは黒人のやり方(ビーフ)でも、白人のやり方(訴訟)でも負けた」と揶揄されている。
10/27に、ドレイク、ストリーマーのアディン・ロス、オンラインカジノサービスのStakeが
ドレイクは元々ギャンブル好きであり、近年は親しい友人であるアディン・ロスとともに
実際はStakeから提供された金で大金をかけたギャンブル配信をやっていた。
訴状では、ハイリスクなギャンブルのサービスを魅力的なものであるように見せかけ、多くのファンを騙し損害を与えたと主張し
ユーザが受けた損害の賠償と、ミズーリ州でのStakeのサービス停止(ミズーリ州は元々オンラインカジノが違法)を求めている。
フェミニズムの分類が多すぎると聞いて
記述集合論(Borel階層, Projective階層, 汎加法族)
モデル理論(型空間, o-極小, NIP, ステーブル理論)
再帰理論/計算可能性(チューリング度, 0′, 相対計算可能性)
構成主義, 直観主義, ユニバース問題, ホモトピー型理論(HoTT)
体論・ガロア理論
表現論
K-理論
初等数論(合同, 既約性判定, 二次剰余)
解析数論(ゼータ/ L-関数, 素数定理, サークル法, 篩法)
p進数論(p進解析, Iwasawa理論, Hodge–Tate)
超越論(リンドマン–ヴァイエルシュトラス, ベーカー理論)
実解析
多変数(Hartogs現象, 凸性, several complex variables)
関数解析
バナッハ/ヒルベルト空間, スペクトル理論, C*代数, von Neumann代数
フーリエ解析, Littlewood–Paley理論, 擬微分作用素
確率解析
マルチンゲール, 伊藤積分, SDE, ギルサノフ, 反射原理
常微分方程式(ODE)
偏微分方程式(PDE)
非線形PDE(Navier–Stokes, NLS, KdV, Allen–Cahn)
幾何解析
リッチ流, 平均曲率流, ヤン–ミルズ, モノポール・インスタントン
エルゴード理論(Birkhoff, Pesin), カオス, シンボリック力学
点集合位相, ホモトピー・ホモロジー, 基本群, スペクトル系列
4次元トポロジー(Donaldson/Seiberg–Witten理論)
複素/ケーラー幾何(Calabi–Yau, Hodge理論)
スキーム, 層・層係数コホモロジー, 変形理論, モジュライ空間
多面体, Helly/Carathéodory, 幾何的極値問題
ランダムグラフ/確率的方法(Erdős–Rényi, nibble法)
加法的組合せ論(Freiman, サムセット, Gowersノルム)
彩色, マッチング, マイナー理論(Robertson–Seymour)
列・順序・格子(部分順序集合, モビウス反転)
測度確率, 極限定理, Lévy過程, Markov過程, 大偏差
統計学
ノンパラメトリック(カーネル法, スプライン, ブーストラップ)
実験計画/サーベイ, 因果推論(IV, PS, DiD, SCM)
時系列(ARIMA, 状態空間, Kalman/粒子フィルタ)
二次計画, 円錐計画(SOCP, SDP), 双対性, KKT
非凸最適化
離散最適化
整数計画, ネットワークフロー, マトロイド, 近似アルゴリズム
Littleの法則, 重み付き遅延, M/M/1, Jackson網
常微分方程式の数値解法(Runge–Kutta, 構造保存)
エントロピー, 符号化(誤り訂正, LDPC, Polar), レート歪み
公開鍵(RSA, 楕円曲線, LWE/格子), 証明可能安全性, MPC/ゼロ知識
計算複雑性
機械学習の数理
量子場の数理
相転移, くりこみ, Ising/Potts, 大偏差
数理生物学
数理神経科学
無裁定, 確率ボラ, リスク測度, 最適ヘッジ, 高頻度データ
データ解析
俺はガンの露悪的な趣向が好きで見てるから最高だったけど、良心派の映画好きギークの中にはそこが引っかかって楽しめないって人が少なくないからそういう人には地獄の作品だったかもしれない。
ガンのフィルモグラフィーを見ても彼が「トキシックマスキュラリティ(有害な男性性)」の徹底的なアンチであり、それはいわば反父性主義であり、ファミリー(血族ではない)の力でそれを乗り越えるという展開が繰り返し描かれ続けている。
リブート版のスースクでトキシックマスキュラリティの権化として現れたピースメーカーが「政府」という巨大な父性に操られ本当の「平和の使者」であるリックを殺害してしまったことから、自身のアイデンティティがゆらぎ、自身の過去と向き合っていくのがシーズン1。
過去と決着=家族と決定的な別離をするもその結果になおも苦しむピースメーカー。しかし我が家の次元ポータルの先に「全員が無事な世界線」があることがわかり、家族を再構成したい、理想的な自分でありたいと考えてしまうも、実はその世界は……というのがシーズン2。
特に示唆的で面白かったのが、ポータルの先の世界線はいわゆるアースXと呼ばれる「ナチスが勝利してナチス的な思想になったアメリカ」であり、ピースメーカーはその世界で誰もが認める「ヒーロー」として活躍している。これは「悪人」として登場し、世間からも政府からも冷ややかな目で見られている元の次元のピースメーカーとは真逆である。
しかし、問題はアースXは「ナチス的思想の非常に差別的な世界である」ということである。
その世界でヒーローとして崇められるピースメーカー。つまり、ガンはこの脚本を通じて「元々のピースメーカーの思想というのは非常にナチス的で危ういもの」であると再度警鐘を鳴らしている。もっと言ってしまえば「アメリカのために"悪人"を容赦なく退治するアメコミヒーロー」というものに対するアンチテーゼともとれる。それって「国のために」ユダヤ人を虐殺したナチスと何が違うの?ということである。
ちなみにこの部分は見ていればそうわかるように作られているが、具体的に言及されることはない。エラい作りだ。
ピースメーカーがアースXがナチスの世界だと気づいていなかったことをギャグ的に「我が闘争がオフィスに大々的に置いてあるのに?」「マッチョは本なんか読まない」「オフィスの壁にヒトラーが書かれてるのに?」「今気づいた」と詰められるシーンがあるが、これも単なるギャグではなくピースメーカーが典型的な「白人男性」であることから「特権階級者はそのことに異常に無自覚である」という強い皮肉を感じる。
でもこういうことを口煩くお説教してこないのがガンのいいところだと思う。これらは「見ていればわかる」ように描かれているが基本的にはおバカ集団がポータルを狙う政府組織を戦いながらガン的不謹慎ジョークを飛ばし合いながらときに殴り合い、ときに慰め合うエンタメ全振りの展開が続くので、普通に楽しい作品に仕上がっている。
ナチスの世界だと視聴者に気づかせる(さまざまな細かなモチーフは第1話から登場しており、登場人物も白人しかいない状態が続くが)決定的な要素として、元世界のピースメーカーチームの黒人女性が歩いていると「黒人が逃げ出したぞ!」と追いかけられる展開もめちゃくちゃガンらしくてよい。あとヴィジランテを名乗る反社会的ヒーローがめちゃくちゃオタクで家(つまり子供部屋おじさんでもある)では年老いた母親に「ババア!ノックしろって言っただろ!」系のイキリを披露しまくるシーンではイテテテテとなってしまった。ガンは嫌な奴だ(憤怒)
最終的に仲間たちの力でピースメーカーは過去を振り払い、新たなヒーロー組織(ほぼ全員社会不適合者)を結成し大団円、最後の最後でとんでもないクリフハンガーを挟んで終了。私、アメドラのはちゃめちゃクリフハンガー嫌い。
スーサイドスクワッド、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーといったガン映画が好きならマストで見ていい作品だと思う。まぁ、1のほうが展開もダイナミックで面白かったと言われたらそれはそうかもしれんけど。
万博終ったねー。
大阪でめちゃくちゃ盛り上がってた万博だけど、なんだかんだ行ってない人多いと思う。特に東日本在住の人とかね。
そんな人たちに万博って結局どういうものだったのかをわかりやすく伝えたい。
なぜかというと今後もし万博をまたやるかどうか議論になったときに、どういうものかわかってないと的外れなことを言って恥をかくだろうからね。
では本題。
まあ、タイトルにあるように万博というのは「夏フェス×文化祭」だ。
社会的な意義とか経済効果とか色々抽象的な議論はもちろんあるだろうけども、実態として具体的に何だったのかといえばこれだと思う。
どういうことか?
まず夏フェスについて。
万博は暑い。熱気がある。駅を降りた瞬間から華やかで祝祭的な雰囲気がある。人がたくさんいてみんなワクワク感を漂わせている。
入り口ゲートの周辺ではエキゾチックでクラブっぽい音楽が流れていて高揚感がある。
ミャクミャク像などのシンボリックなモニュメントが要所要所にあって、記念撮影にいそしむ人たちが列をなしている。
常設のパビリオンだけでなく、時間帯別で小さな催しが各所でやっていたりする。
些末なパビリオンはすんなり入れるがあまり面白くないことが多い。逆に名物パビリオンは入場だけで一苦労だが感動も大きい。
さながらフェスにおける小ステージのマイナーバンドとメインステのヘッドライナーのような関係だ。
まさに夏フェスだ。そんな夏フェスが狂気のごとく180日間続く。それが万博だ。
次に文化祭。
一言でいうと万博は分権的だ。トップが全部を細かく仕切ってるわけじゃない。
もちろん主催はいる。公益社団法人2025年日本国際博覧会協会ってところね。
各パビリオンの出展者にほとんど任せてる。ここが文化祭っぽい。
壁新聞レベルの些末なものもあれば、生涯にまたとない特別な経験を味わえるものもある。
どの出し物に当たったかで、体験の良し悪しがガラッと変わってしまう。
トラブル耐性も同様で、列さばき、入場制限、割り込み対応等のオペレーションにも大きな差が出る。そこで不満を抱いた人もいたはず。
自分ごとで言うと、あのオールナイト万博を奇しくも経験したんだけど、あの時のヤバさはなかなかのものだった。
同じことを聞いてもスタッフによって答えが全く正反対だったりして混乱の極みだった。
もしこれがテーマパークみたいに、統括が一本化されててトップダウンで指示がバシッと降りる場なら、あそこまでのカオスはなかったかもしれない。
(念のため言っておくと、現場のスタッフさんたちは、情報が錯綜する中でできうる限り誠実に対応していたと思うので、そこを批判する意図はないよ。)
まとめると万博は180日間毎日夏フェスの雰囲気の中で文化祭をやってる感じ。
わかったかな?
推し活は単なる趣味行動ではなく、アテンションエコノミー(attention economy)の拡張版と見るのがしっくりきますね。ここを経済学的に分解すると、いくつかの論点が浮かび上がります。
情報が溢れかえる現代において、時間や関心は最も希少な資源。その資源を「誰に」「どれだけ」向けるかが、価値の源泉になった。
「有名な人はより有名に、無名な人はより孤独に」という指摘は、まさにマシュー効果(Matthew Effect)。プラットフォームが可視化を強化すればするほど、人気の集中は加速する。
アルゴリズムは「似た人が注目しているもの」を勧めるため、トレンドや推しが“閉じた世界”で爆発的に伸びやすい。結果、推し活は一人一人の関心を共同体に結びつける仕組みになる。
アテンションを → グッズ購入、ライブ参加、ファンクラブ(サブスク)、SNSでの拡散 へと転換する仕組み。これは広告モデルから一歩進み、「直接課金モデル」に近い。
SNSは推し活の拡散装置、決済やECは収益化装置。結果として、推し活はデジタル経済インフラに組み込まれる。
グッズ購入や現場参加は、単なる取引ではなく「自己表現」や「帰属意識」の消費。これは従来の効用最大化モデルよりも、シンボリック消費(symbolic consumption)に近い。
推し活は、アテンションエコノミーの応用であり、消費者が能動的に参加する新しい形の市場形成と言えます。従来は「広告主が買うもの」だったアテンションが、いまやファン自身が投資”する資源になった、と解釈できますね。
https://anond.hatelabo.jp/20250819183054
トロント出身のドレイクは、昔から地元のバスケットチーム「トロント・ラプターズ」の熱狂的なファンであった。
チームのアンバサダーも務めており、特に選手のレブロン・ジェームスとは昔から兄弟と呼び合うほど仲が良く
ドレイクは腕にレブロンのユニフォームのタトゥーを入れるほどであった。
しかし、ケンドリックとドレイクとのビーフ後、レブロンがケンドリックのコンサートに参加していたことをきっかけに関係が悪化し
今年7月のライブでは、腕のレブロンのタトゥーを他の選手のタトゥーで上書きしたことが明らかになった。
また、レブロンに言及した曲の歌詞を、レブロンに否定的な意味に変えて歌っていた。
レブロンがケンドリック側についたことはドレイクは特に気にしているようで
Twitterにリークされたフリースタイルでも「時計を送りあうほどの仲だったのに」と言ったり
最近リリースされた「What did I miss?」でも名前を出していないものの、レブロンに言及したとみられる歌詞がある。
また、ケンドリックのコンサートにはラプターズの有名選手だったデマー・デローザンも参加しており、彼はNot like usのPVにも参加した。
ドレイクはラプターズの試合の実況に参加した際、デローザンは将来殿堂入りが期待されており、そうなれば彼の背番号は永久欠番として会場の天井に掲げられるだろう、との話題になった際
「もしそうなったら俺がそれを引きずり降ろしてやる」と発言するなど、ケンドリック側についた人間を全て敵とみなしている。
裁判の中で、ドレイクはUMGに限らず各所に文書を要求しているが
その中にJAY-ZのレーベルRoc Nationも含まれていることが明らかになった。
なぜかというと、NFLとRoc Nationは2019年からパートナーシップを結んでおり
NFLスーパーボウルのハーフタイムショーでのアーティストの選考にも関わっていたためだ。
ハーフタイムショーにケンドリックを選び、さらにNot like usを歌わせると決めた理由を開示しろ、という訳だ。
Not like usの権威を引きずり下ろすためなら、ヒップホップ界の重鎮すら敵に回すことも厭わないようである。
裁判でUMGに対しありとあらゆる文書を要求しているドレイクが、UMG側も反撃に出始めている。
裁判所に提出した文書の中で「ドレイクと若い女性に関する文書を持っている」と報告したのである。
内容は明らかになっていないが、Not like usの中でPDF呼ばわりされたことを何としても否定したいドレイク側にとっては
1つ目の動画では、法廷画家がトロントの家庭裁判所前で出待ちしているとドレイクが現れ、裁判所に入る様子をとらえたものだった。
2つ目の動画では、その法廷画家はドレイクの法廷を傍聴するつもりだったが入場禁止で入れなかったこと、
しかし、ドレイクの法廷に参加していたと思われる女性がホールにいたため、その姿をスケッチしたことを報告していた。
スケッチの女性は、ドレイクの元隠し子の妻とは全く似ていなかった。
「この女性は誰なのか」「なぜドレイクは家庭裁判所に行ったのか」「なぜ今この動画がリークされたのか」とネットは騒然となった。
また、ケンドリックが「Meet the Grahams」の中で、ドレイクにもう1人隠し子がいることを仄めかしていたことも再び話題となった。
この件は結局隠し子がいる証拠は出ず、ドレイク側の流したデマをケンドリックが真に受けてリリックを書いた、というのが通説になっていたが
なに?私のYouTube履歴みせろって? 私のは面白くないよ
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YOASOBI「Watch me!」Official Music Video
【和訳】Kendrick Lamar & SZA - luther / ケンドリック・ラマー & シザ
般若 / はいしんだ feat. SAMI-T from Mighty Crown / Official Music Video
あれはまだ私がゴッドマジンガーの右足首の開発にランダムアクセスしていた頃のことだ。
悪魔の肩甲骨としてしられるドクターガリックがリック・ディアスの肩関節を参考にしては?と提案してきた。
当時、私にとって上司に当たるガリックの提案は少しセクハラじみていた。
ほぼ初対面の私にリック・ディアスの話をしてきたのもそうだし肩関節のような卑猥な場所をテーマにするとは正気を疑ったのだ。
侵略的チンチンノイズの影響を受けいているのではないか?FBIとの共同捜査が始まるのも時間の問題であった。
ドクターガリックとの不倫関係はこうして始まったのだがこの不倫関係の奇妙なところは彼も私も独身だということだろう。
怒りなどの感情に我を忘れて卵の白身だけを捨ててしまうのはよくあることだ。
ガリックは金髪と緑髪の境目を器用に掻き上げながら挑発的な目で僕を睨んだ。
僕がダブルフェイククエスチョンでやり過ごしている間に突入隊への合図を送った。
第五章ストームブリンガー
その半狂乱の願いは聞き届けられたことはない
よほどなんだろう
誰もがこの剣に魂を吸われるときは半狂乱になる
ひどく落ち着いた表情で剣の切っ先を受け入れていたものだ。
果たしてあのときの僧侶はあのあと私が行った自慰行為のエネルギーとなって消費されていたのだろうか
「三角関係だね」
ヘイトだお
脱獄をしたいんだ
ルパン三世を描きながら
と思わせながらも
同時に
そんなわけあるもんか
と観客に思わせるのはメタでなくてなんだろう?
腐海の猛毒にわずかながらでもマスク無しで大声を張り上げても風の初期症状くらいの痛みしかないんだから
おれたちもうおわったのかな?
https://anond.hatelabo.jp/20250707184052
ドレイクは7月にイギリスのWireless festivalに参加した。
米英の有名アーティストが参加する3日間の大規模イベントだったが
ドレイクのライブのさなか、観客から「fxxk kendrick!」のチャントが起こると、ドレイクはイヤモニをはずしてそれに聞き入り
数日後、同じくヨーロッパツアー中のケンドリックのライブ中にも
「fxxk drake!」のチャントが起こったが、ケンドリックはこれには特に反応しなかった。
8/12に、ドレイクはUMGに対して事件に関する75個の文書の提出を要求した。
その中には「ケンドリックの家庭内暴力・女性への暴力に関する文書」「ケンドリックの子供たちとデイブ・フリーとのDNAテストの要求」もあった。
ドレイクはケンドリックへのDis曲「Family Matters」の中で
「ケンドリックは奥さんにDVをしている」「ケンドリックの子供は実はプロデューサーのデイブ・フリーとの子供で、血がつながっていない」と主張したのだが
それが事実であるという証拠を、ケンドリックが所属するレコード会社のUMGに要求したのである。
UMGが全所属アーティストのプライベートを事細かに把握しているとも思えない。
仮に裁判所が文書を提出するようUMGに指示したとしても、ドレイクの望むような結果が出るとも思えない。
法律関係者は「ケンドリックは俺をペ〇ファイルだと事実無根のDisをしたが、俺のDisの内容は事実に基づいている」と証明し、訴訟を有利に進めるために
この要求を出したと見ているが、音楽ファンの間では「訴訟の場を使ってケンドリックを誹謗中傷している」との批判も多い。
ドレイクは訴訟の中で「Not like usの宣伝にはUMGのCEOも関与していた」と主張していたが
UMGのCEOであるルシアン・グレンジは、自分は関与しておらずドレイクの主張はばかげていると回答した。
曰く
「Not like usはリリースされた後に聞いた。それ以前には関与していない。」
「CEOは毎月リリースされる数千の楽曲を全て聴いて承認のハンコを押しているわけではない。」
「UMGはドレイクにこれまで数億ドルを投資してきたし、ドレイクのサウンドカタログや出版権も所有している。自社の資産の価値をわざわざ下げるようなことをする理由がない。」
ドレイクは今後も様々な文書を要求し、自分の主張が事実だと証明を試みるだろうが、よほどのことがない限り道のりは険しそうである。