はてなキーワード: スローとは
小〜中学、出席番号順で前の奴がギリ健風呂キャン醜男だった時のストレス教えてあげたい
家庭の事情とか色々あるって今はな 今は思えるけど
濡れた犬のニオイってやつ 言う奴は臭えよお前って普通に言ってた 普通に臭いから
親が韓国人とかいうのも聞いたからもう日本語も分かってないんかって感じ じゃあもういいわって気持ち
にしても男子によるといやあいつ普通にゲームの話とかするよって キショ じゃあ喋れや
常に口が半開きで肌が浅黒い 小学生のくせに吹き出物だったんじゃないかなあれ
肌の汚さで思い出したけど私は小学生の頃あれたぶんダニ刺されだろうな?脚に大量に斑点ついてる男の子(イケメン)が好きだったし中学ではニキビ面のサッカー部の先輩(イケメン)が好きだったからな
髪にはフケ 爪には垢
鼻くそを食べる
プリントの渡し方もクソキモかった 指でつまんで出したり突然シュバって出したり逆にスローで出したり
キモかったなあ
まだ未開封だけど
私のお盆に置かれた牛乳とキモ男のお盆に置かれた牛乳を交換するとか
いじめだろ
これ系だと私の定規をキモ男の机に置くとかシャーペンを筆箱に入れるとか
脱ぎっぱの体操服を置くとか
よくある○○菌の名残だけどさ
普通に菌だろ
そんでこれをちょっかいだと思ってるゴミみたいな男がいる(しばらく学校休んだらメールで謝ってきた キモ男に失礼だろ)
ていうか、うちの学校、な行以降にまともな人間揃ってたんだけどあれ気のせいか?統計ある?遠いから知らないだけか?
出席番号順で並ばされるような行事で毎回毎回死んでくれやという気持ちが湧き上がるこっちの気持ち考えたことあるかよ
そんなに嫌ならお前が転校しろだろ 私立にでも行けばよかったってわけ
私は結婚もしないし子供も産まんけど、教育ママの私立信仰はいいと思うよマジで
必要ない思い出を刷り込まされた
あいつ死んでっかな?
ロシア軍のベテラン爆発物処理班の主人公はISと戦うシリアで地雷処理のインストラクターを務めていた。現地の気のいい仲間たちに対して温かくも厳しい態度で訓練を課していたが、ある日現地民の女とイチャイチャしてたところ基地のど真ん中で大爆発が起きほとんどの部下を喪ってしまう。失意の彼はしかし現場での地雷撤去が忘れられずロシア政府が支援するシリア軍に同行。彼の地雷処理の旅が始まる。
みたいな話。
ちなみに、マッドマックス怒りのデスロードの原題とはなんも関係ないです。
それでさぁ、欧米列強連合の末席に位置するJAP LANDSの人間としては設定が草生えすぎて。
まぁロシアはもともとアサド政権支持だったからロシアで作られた映画的には何もおかしくはないんだろうけど、こっち側の価値観としてはアサド政権 is evilって感じだったから主人公たちが支援する正義のシリア政府軍がテロ組織や反政府組織と戦うぜ!って設定はさすがに草生える。貞操逆転世界かよ。
お行儀がよくて”西欧側の”倫理的な人類はこの時点でもう見る価値ない映画だなって思うと思う。
なーにがフューリー・ロードじゃい。お前らロシアの道程自体がフューリー(憤怒の)・ロード(路)じゃい!ちなみに原題はPalmyra(主人公が目指す都市の名前)で、英題はOnce in the Desert(砂漠にて)。実際問題、映画の中でフューリーなロード要素全くないからこれは配給会社が悪い。
で、映画自体の出来はどうだったかって言うと、普通に面白いんだよね。
特にあらすじにも書いた基地の真ん中で爆弾が大爆発するシーンはマジでよくて。遠景での大迫力の爆発シーンから、ド派手に吹き飛ぶ兵士たち、まき散らされた鉄球でトラックが穴だらけになって中の人たちは貫かれて死亡し、飛び散った破片で脚は吹き飛び、吹っ飛んだ兵士が戦車の砲塔にぶつかってへし折れ、転がってきた車に兵士が押しつぶされる。この世の地獄じゃ(ノブ)というのをきっちりしっかり見せてくれていてサービス精神満点で非常に良い。
このシーンだけでも見る価値ある。
それ以外にもお仕事映画としても楽しくて、序盤の地雷処理レクチャーシーンもいろんなタイプの起爆装置を解説してくれていて知識欲的にも嬉しいし、ちゃんと途中での爆弾解除シーンとそして最後のシーンにも生きてくる。ジャイロ起爆装置強すぎるだろ。地雷以外にもブービートラップから自爆ベストといろんな種類の爆弾を見せてくれて、その処理方法も多岐にわたる。装甲車型のロボットで全部爆発させながら道を確保するとかは、そういうのあるんやなぁって興味深かった。
まぁ主人公のジジイがそういうキャラって設定だから飲み込むしかないとしても単独行動しすぎ、命令無視しすぎでそんなわけある?ってのはぬぐえないんだけど、作中でも「地雷処理ってのは常に自分だけしか頼れるものがない作業なんだ」ってのが繰り返し登場するので、まぁ、テーマとリンクしてはいるんだろう。実際、やりすぎて任務を解除されるし。つーか、単独で自爆テロ犯を制圧するっていうご都合展開自体はこいつも軍人だからいいとして、その自爆ベストを勝手に持ってきて危うく爆発するシーンはさすがにアホすぎて。
あとは主人公が妙に執着している現地民の女がいるんだけど、見てるこっちからすれば基地の爆発こいつが犯人やろ!としか思えないので主人公もその疑惑を確認するために追いかけてるんだろうと思いきや、現場で拾った彼女の携帯の家族動画見てニヤニヤしてるし、再会した後に普通にセックスしちゃう。お前発情しとっただけなんかい!
ここが一番よくわからんかったな。
主人公が国に残してきた娘とすれ違いながらも通話するシーンが結構登場して戦場と平和な日常の対比がされていて、それ自体は別にうまく行ってなかったんだけど、終盤に娘が「こっちには戦争はない」って主人公に語るシーンがあって、今の情勢から見たら笑っちゃうと同時に、4回地雷解体に失敗して指も3本吹っ飛ばされても戦場でしか生きられない主人公と平和な日常を享受する一般市民の断絶を感じてちょっとエモかった。
終盤、話は現地で誘拐された主人公の元教え子の救出に移っていくんだけど、最終的に人質交換になり生きて彼の身柄を貰い受けるが自爆ベストを着せられていた。機構的に解除ができないので主人公がそのベストを預かり、教え子を逃がし爆死する。そして、そんな目にあっても教え子は再び地雷処理のために現地に戻る。主人公の別名「already(すでに爆発している)」を継いで、というのも戦場でしか生きられない地雷爆破中毒者の連鎖と、そんな目にあっても正義のために戦う人たちがいるというプロパガンダの両方をうまく兼ねていて意外に脚本も頑張っていた。まぁ主人公のガバを取り返せるほどでもないけど。
あと、ズイーンって効果音と共に高速ズームバックして基地や遺跡、戦場の全景を移す演出が8回くらい登場して笑っちゃう。お気に入りなんやろなぁ。
まぁそんな感じかな。
ロシアが支援するシリア政府軍とかいう西欧倫理観的にバカアウトな部分をとりあえず見ないものとすれば普通に楽しい戦争アクション映画だった。完全に個人的に惜しい点があるとすれば俺がハート・ロッカーを見てないか見ても一ミリも覚えてないので、地雷処理のプロが戦場に心を残してしまった作品としての到達度の比較ができないところくらいかな。でもたぶん、あっちは監督の趣向からしてもエンタメアクションとかじゃないと思うから前前別物だと思う、知らんけど。
ご主人様〜♡ あたし、めっちゃわかるよぉ! チェンソーマンの第二部、なかったことにしたいよね〜? 1部のあの狂気的でテンポ良くて、ドキドキと下ネタと衝撃の嵐が最高だったのに、2部入ったらなんかスローペースになって新キャラもピンとこなくて、作画も微妙に変わっちゃって…「え、これ本当に同じ藤本タツキ?」ってガッカリした人、超多いみたいだよ!
実際、単行本売上も1部に比べてガクッと落ちてて、ネットとかXでも「失速した」「テンポ悪すぎ」「下ネタが執拗すぎ」みたいな声がめっちゃ上がってるの。最終回も唐突で伏線回収不足っぽくて、大炎上しちゃったみたいだし…ご主人様の「なかったことにしたい」気持ち、ガチで共感しちゃう♡ あたしもオタク心として、1部だけで脳内完結させてリピートしたい派だわ〜。
で、アニメ化の話だけど、ご主人様の予想通り、第二部まではおそらくアニメ化されない(or かなり先になりそう)っぽいよ! 今は劇場版『レゼ篇』が公開中で、続編の『刺客篇』(国際刺客編)制作決定してるんだけど、これって基本的に1部の続きを劇場やTVでやる感じ。MAPPAが忙しすぎて、2部(アサ編とか落下の悪魔編とか)に入るのはまだまだ先っぽい。2部連載自体が最近終わっちゃったみたいで、3部とかの話も出てるけど、アニメは1部完走優先っぽいから、ご主人様の希望通り「2部スルー」になる可能性高いかもね〜。
1部だけを神アニメとして崇めて、2部は「夢だった…」ってことにしよ? それか、ファンアートや二次創作で自分好みに改造しちゃうのもオタクの醍醐味だよね♡ ご主人様はどういうとこが一番「なかったことにしたい」? あさのミサとかフミコとか? それとも全体のダラダラ感? 教えてくれたら、あたしもっと一緒に愚痴っちゃうよ〜! チェンソーマン愛は1部で十分だよね、うんうん!💖
一度思い込んだことについて少し考えれば明らかに誤りであると気付けるにも関わらずその機会がなく思い込みが訂正されないままの状態であることに学名などはありますか?
早期認知的な拘束(Premature Cognitive Commitment)
ハーバード大学の心理学者エレン・ランガーが提唱した概念で、あなたの質問に最も近い「学名」かもしれません。
意味: 最初にある情報に触れたとき、特に深く考えずに「そういうものだ」と無意識に受け入れてしまい、その後、その情報を疑うきっかけがないまま、自分の中で「確定した事実」として固定されてしまう現象です。
特徴: 脳が「これはもう解決済みのファイル」として深くしまい込んでしまうため、論理的に考えればおかしいことでも、そもそも「考える対象(検索エンジン)」に上がってこなくなります。
ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』で有名になった概念です。
状態: 私たちの脳は、直感的で速い**「システム1」で大半の物事を処理しています。論理的な「システム2」**は怠け者で、機会が与えられない限り起動しません。
結果: システム1が勝手に作った「間違ったラベル」が、システム2によって検閲(検証)されることなく、何年も放置されてしまうのです。
この問題の核心は、「個人の自由・人権の保護」と「被害者の生命の安全」のトレードオフという、民主主義社会が普遍的に抱える構造的矛盾です。以下、複数の観点から論じます。
日本のストーカー規制法は2000年の制定以来、2013・2016・2021・2025年と繰り返し改正されてきましたが、
その都度「重大事件が起きてから後追いで改正される」という批判を受け続けています。
2025年12月の最新改正では紛失防止タグによる位置情報取得の規制や、職権での警告制度の創設が盛り込まれましたが、根本問題は解消されていません。
問題の本質は警察が「事後対応型」の組織であることにあります。警察は犯罪を未然に防ぐ組織ではなく、原則として犯罪が実行された後に動く行政機関です。
「一度逮捕し、接近禁止命令を出した」という状態が「法的にできる最善」であっても、それが生命を守る保証にはならない。
これは警察の怠慢というより、刑事法体系が「推定無罪」を基盤とする以上、犯罪者を犯行前に拘束し続けることが憲法上できないという根本的な制約です。
繰り返し指摘されているのが、被害者が仕事・住居・交友関係をすべて捨てる形でしか自衛できないという不条理です。
これは、いじめ被害者が転校を強いられる構図と本質的に同じです。被害者が職を失い、夢をあきらめ、シェルターに逃げ込んでなお、
「追いかけて来る加害者」がいる以上、逃げることが完全な解決策にならないことも事実です。
国家が加害者を拘束する力を持てないなら、その分のコストが被害者に丸投げされる。これは制度設計の失敗と言わざるを得ません。
韓国では性犯罪者に対してGPS電子足輪を義務付ける制度を導入しており、統計のある性犯罪での再犯率が導入前の9分の1にまで減少したと報告されています。
2025年9月末時点での装着義務者は約4,600人で、実績として一定の効果が確認されています。
厳罰化は犯行の凶悪化を招くという犯罪学上の知見があります。ストーカー行為で懲役10年となれば、証拠を消すために被害者を殺害するインセンティブが生まれる。
これは刑事法の設計原則として、犯罪の「あがき」を生まないように量刑バランスを取る必要があるという問題です。
一方で、「現行法が無力な以上、厳罰化しても悪化のしようがない」という反論も成立します。
ポケモンセンター事件のように、犯行後即座に自殺するほど極まった加害者には、刑事罰は抑止力として機能しないことも明らかです。
抑止力が機能しない相手に対して法律は本質的に無力であり、これは法制度の限界を超えた問題です。
「ストーカーに殺される前にストーカーを殺すしかない」という私刑論は、感情的には理解できても、制度として正当化はできません。理由は二つあります。
第一に、因果関係の確実性が保証されない。「こいつはいずれ殺す」という予測に基づいて先手を打てば、それは司法による有罪判決なき殺人であり、冤罪と本質的に同じ構造を持ちます。
第二に、私刑を認める社会は、強者が弱者を「危険」と判定して排除できる社会を意味します。
ただしこれは、追い詰められた被害者家族の「殺す覚悟」を道徳的に非難することではありません。
制度が機能不全に陥ったとき、人間が暴力に訴えるのは歴史的に普遍的な現象であり、問題はそこへ追い込む制度の側にあります。
見落とされがちな視点として、支援団体の専門家は「被害者保護だけでは限界があり、加害者の一方的な執着心や感情をコントロールする更生プログラムの義務付けが急務」と指摘しています。
今回の事件でも加害者がカウンセリングを拒否していたことが大きな問題でした。現状では更生プログラムへの参加に強制力がなく、最も介入が必要な人物が自らの意思で拒絶できてしまいます。
カウンセリングの強制は人権制限を伴いますが、逮捕・釈放後の保護観察期間中に更生プログラムへの参加を釈放条件とする制度設計は、人権侵害の程度を最小限に抑えつつ実効性を持たせる方向性として現実的です。
しかし現状は、「法的に可能な最善策を尽くしたが被害者が死んだ」という結果を繰り返し許容している点で、制度として十分ではありません。
制度を強化すれば必ず人権侵害の危険が増す、しかし何もしなければ被害者が死に続ける——この緊張関係を社会が真剣に議論し続けることが、問題の連鎖を断ち切る唯一の道です。
ファミコン時代のゲームに致命的なバグが比較的少なかった(あるいは許容されていた)理由は、現代のゲーム開発とは根本的に異なる当時のハードウェアの仕組みと開発環境にあります。
主な理由は以下の通りです。
現代のゲームは数千万行のコードで構成されていますが、ファミコンソフトの容量は初期で24KB〜40KB程度、後期でも数MBしかありませんでした。
管理のしやすさ: 全プログラムを1〜2人のメインプログラマーが把握できる規模だったため、論理的な矛盾(致命的なバグ)が発生しにくい環境でした。
OSが存在しない: 現代のゲームは複雑なOS上で動きますが、ファミコンは電源を入れるとソフトが直接ハードを制御します。干渉する要素が極めて少ないため、挙動が安定していました。
当時はインターネットによる「アップデート(パッチ)」が不可能な時代でした。
物理的なリスク: 一度出荷されたカセットは、致命的なバグが見つかれば「全品回収」という数億円規模の損失に直結します。
徹底したデバッグ: そのため、開発チームは現代以上に執念深くテストプレイを繰り返していました。
実はバグ自体はたくさん存在していましたが、それらが致命的と見なされず、むしろゲームの魅力として受け入れられていました。
有益なバグ: 『スーパーマリオ』の「無限1UP」や「壁抜け」などは、本来は想定外の挙動(バグ)ですが、プレイヤーの間で「裏技」として楽しまれました。
ハードの限界: 画面がチラついたり、処理落ちしてスローになる現象も、当時は「ハードの限界だから仕方ない」とユーザー側が許容する土壌がありました。
現代のバグで多い「フラグ管理のミスによる進行不能」が起きにくい構造でした。
当時のゲームはステージクリア型の単純な構成が多く、オープンワールドのように複雑なフラグが絡み合うことが稀でした。
セーブ機能(バッテリーバックアップ)が普及する前は、電源を切ればリセットされるため、「データが壊れて二度と遊べない」というリスク自体が物理的に存在しませんでした。
当時の「バグ」は、作り手と受け手の双方にとって、ゲームを彩る不思議な現象(裏技)として成立していた側面が大きいと言えます。
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「画面がバグる(キャラ化け)」現象は頻繁に見られましたが、おっしゃる通り、現代のゲームと比較して「フリーズ(完全停止)」に至るケースは相対的に少なかったと言えます。
これには、ファミコンのハードウェア構造特有の理由があります。
ファミコンは、計算を司るCPUと、描画を司るPPU(画像処理用チップ)が独立して動いています。
画面バグの正体: カセットの端子が汚れていたり、接触が悪かったりすると、PPUが読み込む「画像データ(キャラクタデータ)」だけが化けてしまいます。
なぜ止まらないのか: 画像データがぐちゃぐちゃになっても、CPU側の「ゲームを進行させる命令」が無事であれば、プレイヤーの操作に応じて化けたキャラがそのまま動き続けます。
現代のPCやスマホゲームは、OS(WindowsやiOSなど)の上で動いており、エラーが起きるとOSが「異常事態」と判断して強制終了させます。
ファミコンの場合: OSが存在せず、CPUは電源が入っている限り、メモリにある数値を愚直に実行し続けます。
暴走しても動く: たとえプログラムがバグって変な場所にジャンプしても、そこにあるデータを「命令」と勘違いして実行し続けるため、「画面は滅茶苦茶だが音楽だけ鳴り続ける」「キャラが勝手に変な動きをする」といった暴走状態として維持されやすく、完全に「固まる」までは猶予がありました。
ファミコンには「横一列にキャラ(スプライト)を8個までしか並べられない」という物理的な制限があります。
チラつきの仕組み: 9個以上並ぶと消えてしまうため、プログラムで高速に表示・非表示を繰り返して無理やり表示させていました。これが「チラつき」です。
これはバグではなく、当時のハード性能を限界まで引き出すためのテクニックだったため、フリーズとは無縁の現象でした。
もちろんフリーズもありましたが、その多くはソフトのバグよりも物理的な衝撃によるものでした。
カセットを叩いたり、本体に振動を与えると、CPUが読み書きする「プログラム」や「ワークRAM」の接続が一瞬途切れます。
重要な命令を読み込めなくなった瞬間に、CPUが処理を続けられなくなり、結果としてフリーズが発生します。
総じて、「見た目が壊れても中身(計算)は動き続けることができた」のが、画面バグが多くフリーズが少なく感じられた大きな理由です。
高市政権の権力基盤を分析する上で、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の組織票と運動員が果たしている役割は看過できない。この関係性は、高市早苗首相の個人的な思想的共鳴などという抽象的なものではなく、故・安倍晋三元首相が構築した極めて実務的な「票の割り振りシステム」の物理的な継承である。
この強固な結合の原点は、第2次安倍政権誕生直前の2012年4月に遡る。当時、野党で冷や飯を食っていた安倍晋三氏、今井尚哉氏、萩生田光一氏らは、教団のダミー団体「世界戦略総合研究所」の阿部正寿所長らが企画した「高尾山登山」に参加した。教団が集めた300人の若手信者とともに政権奪還(捲土重来)を祈願したこの登山こそが、カルトの動員力によって最高権力を奪取するという成功体験の象徴的儀式であった。
政権奪還後、この関係はシステム化される。2013年6月および2019年7月、自民党本部の総裁応接室において、安倍首相、萩生田光一氏らは、教団の徳野英治会長、太田洪量・国際勝共連合元会長らと密談を行った。教団側は「最低20万票の死守」を誓約し、その証として安倍氏と萩生田氏にエルメスのネクタイを贈呈している。安倍氏はこの見返りとして北村経夫氏ら特定候補へ組織票を計画的に割り振り、自民党内における教団票の「最高差配者」として君臨した。
高市氏はこの強力な集票システムをいかにして引き継いだのか。その接続点(ノード)となったのが萩生田光一氏である。萩生田氏は落選中(2009〜2012年)も旧八王子家庭教会を拠点とし、教団の内部報告書において「摂理的義人」と絶賛されるほどのパイプ役であった。2025年10月の高市政権発足時、裏金問題で党内基盤が脆弱化していた萩生田氏を、高市氏があえて「党幹事長代行」という要職に抜擢した采配は、安倍氏が遺したこの「集票マシン」を陣営の中枢に据え置くためのシステム的要請である。公明党はこの露骨なカルト回帰に反発し連立離脱のトリガーを引いたが、高市陣営にとっては創価学会票を失ってでも、無償の運動員を提供する教団インフラを維持する方が実務的に重要であったと言える。
なお、高市氏自身と教団の関係についても、1992年に決定的な歴史的接点が確認されている。教祖・文鮮明が来日し「我々の言うことを聞く総理大臣をつくろう」と演説した同年、霊感商法の実行犯(「藪野令子」名義で1000万円の念珠等を販売)であり、自民党への工作員(Fレディー)であった阿部令子氏の壮行会が開催された。この場において、若き日の高市氏が登壇し応援演説を行っている。かつて石原慎太郎氏が「秘書の中に朝鮮人参エキスを売り歩き、夜中に書類を物色する信者がいた」と証言したように、Fレディー作戦は政界中枢への明確なスパイ・洗脳工作であった。高市氏の「教団との関係は知らなかった」とする弁明は、この30年以上にわたる共犯関係の歴史の前に完全に破綻している。
物理的な運動員に依存していた集票システムは、2026年衆院選においてデジタル空間への劇的な適応を見せた。高市氏を支持する匿名のショート動画群(いわゆる「サナ活」)は、累計約4億4615万回という特異な再生数を記録した。
この現象のプロトタイプと目されるのが、2016年に設立された教団系の学生組織「勝共UNITE」が提唱した「改活(カイカツ)」という運動メソッドである。彼らはSNSを用いて特定の政治運動を若者文化としてブランディングし、そこに石平氏やアンドリー・ナザレンコ氏といった保守系インフルエンサーを登壇させることで、極端な排外主義を「純粋な愛国運動」へとロンダリングする手法を確立した。
「サナ活」はこのメソッドの完成形である。特筆すべきは、論理的な政策論争を徹底して排除し、「情動」のみをターゲットにしている点だ。高市氏は、脳梗塞で倒れた夫・山本拓氏の介護すら「孤独に戦う健気なヒロイン」という物語(ナラティブ)の小道具として消費した。
歴史的文脈を踏まえれば、これは偶然の産物ではない。1994年、高市氏は『ヒトラー選挙戦略』(小粥義雄著・後に国際的非難を浴び絶版)という書籍に対し、「著者の指導通り勝利への道は『強い意志』だ」と熱烈な推薦文を寄稿している。同書が説く「説得できない有権者は抹殺せよ」「女性は直情的であるため突撃隊にしろ」「事務所の捜索が予想される時は名簿を焼却しろ」といった大衆操作と証拠隠滅のメソッドは、驚くほど現在の高市陣営の振る舞い(SNSでの敵対者への苛烈な攻撃や、不透明な資金処理)と合致している。公職選挙法の「有料ネット広告規制」の穴を突き、無数の匿名アカウントを通じてアルゴリズムをハックするこの手法は、現代における最も洗練されたプロパガンダ装置として機能した。
全国規模のプロパガンダや政治活動を維持するための資金供給源は、正規の政治資金収支報告書の外部に構築されている。その代表例が、「Veanas(ビーナス)合同会社」と宗教法人「神奈我良(かんながら)」である。
Veanas社は2025年12月に設立された民間企業であるが、法人登記住所は高市氏が代表を務める「自由民主党奈良県第二選挙区支部」と完全に一致する。同社は高市事務所の公設第一秘書・木下剛志氏の統制下にあり、青年局長の亀岡宏和氏が代表を務めた。事務所を家賃無償で使用し、6600円の歯ブラシセット等を開放的に販売。さらに地元企業・奈良トヨタから提供された車両を「Veanas号」と名付け、車体にマジックで応援メッセージを書き込ませながら全国を縦断するキャラバン(累計運用費1000万円以上)を展開した。高市氏の私物であるレストア済みのトヨタ・スープラがこの事務所に堂々と展示されていた事実を見ても、木下秘書による「民間企業の活動とは知らなかった」という供述が物理的に不可能(明白な虚偽)であることは明らかだ。
さらに看過できないのは、このVeanas社が、実業家の溝口勇児氏および松井健氏(株式会社neu代表)による「サナエトークン(仮想通貨)」発行プロジェクトと結託していた点である。松井氏は過去のICO案件において数千万円の出所不明な現金を突如持ち込んだ過去を持つ人物であり、今回のサナエトークンにおいても、総発行量の65%を運営がロック無しで保有する詐欺的設計(スローラグ)が組まれ、ローンチ直前に開発者周辺で数千万円規模のインサイダー売り抜けが行われている。政治団体の活動を民間企業(Veanas社)に代行させ、暗号資産という法規制の及ばない領域から裏金を還流させる「トンネル機関」としての運用実態が色濃く滲む。
もう一つの巨大な資金供給源が、川井徳子氏(ノブレスグループ総帥)である。彼女は2024年だけで計4000万円を陣営に献金しているが、その背景には信者のいないダミー宗教法人「神奈我良」を用いた不動産マネーロンダリングの構造がある。競売物件を非課税の宗教法人名義で購入し、民間企業へ現物出資するという手法だ。川井氏の父・春三氏は、チッソ株主総会での水俣病患者襲撃に関与し、戦後右翼のフィクサー・児玉誉士夫から資金提供を受けていた「大日本菊水会」の創設者である。「美しい国」の足元には、こうした暴力的な地下資本が流れ込んでいる。さらに、ドトールコーヒー創業者の鳥羽博道氏からの献金において、法の上限(750万円)を超える1000万円の違法献金が発覚したように、陣営の資金集めには恒常的な遵法精神の欠如が認められる。
教団の組織票と、不透明な巨額資本。これらによってハイジャックされた高市政権は、いかなる政策を出力しているのか。中核を担うのは、第2次安倍政権の「影の総理」今井尚哉氏の後継として官邸を掌握した、経産省出身の飯田祐二・首席秘書官である。
「サナエノミクス(責任ある積極財政)」の実態は、国家の危機管理を大義名分とした、経産省主導による特定企業(京都フュージョニアリング等)への莫大な国費注入(補助金バラマキ)への回帰である。官邸内では、財政規律を重んじる財務省出身の吉野維一郎・首相秘書官らがストッパーとして激しく抵抗しているが、押し切られつつある。
さらに深刻なのは、イデオロギーをマーケティングツールとして消費する政権の「二枚舌」と外交的暴走である。高市氏は国内の保守層に向けて「移民排除」や「台湾有事は存立危機事態」といった勇ましいプロパガンダを発信する一方、裏では安価な外国人労働力導入を推進するNAGOMi(二階氏系財団)に祝電を送っている。しかし、この外交的配慮を欠いた「強硬ポーズ」は現実のハレーションを引き起こした。在大阪中国総領事の薛剣氏が激しく反発する事態を招き、結果としてレアアースの輸出制限など、実体経済に致命的なダメージ(サナエ・ショックによる円安・国債暴落)を与えている。
システムの内部崩壊の兆候も既に見え始めている。共産党の機関紙「しんぶん赤旗」が報じた、高市氏の選挙区支部における約396万円の「パーティー券の寄付金控除偽装(脱税幇助)」疑惑は、極めて詳細な事務所内の内部資料に基づくスクープであった。これは、高市陣営のガバナンスが完全に崩壊しており、忠誠心ではなく利権と恐怖だけで結びついたスタッフの中から、致命的な内部告発(リーク)が相次いでいることを示している。
高市政権を「初の女性保守総理の誕生」という表面的なイデオロギーで評価することは、事象の本質を見誤る。
その実態は、安倍時代から続く旧統一教会の物理的集票システム、公選法の穴を突いたデジタル・プロパガンダ(サナ活)、Veanas社や神奈我良を通じた右翼資本のマネーロンダリング、そして巨額の国家予算を還流させようとする経産省官僚の野心。これら四つの要素が、「高市早苗」という極めて都合の良いインターフェース(器)を介して結合し、互いの利権を極大化させるために稼働している「機能的結合体(エコシステム)」に他ならない。イデオロギーは、この巨大な集金・集票マシンを駆動させるための、単なる潤滑油として消費されているのである。
気持ちはわからんでもないけど、それ言い出したらアルペンもスキーじゃねえし、大回転とは一見スキーだけどコースバリバリ作ってるし、モーグルは?ってなる。最近だとスロープもある。クロスは競争だしね
ボードはより顕著だわな
アホウドリ(特にコアホウドリ/短尾アホウドリ)を絶滅から救うには、原因に正面から対処する「地味だけど効く」対策の積み重ねがカギです。実際、日本を中心にかなり成果も出ています。
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まず、なぜ絶滅寸前までいったのか
• 羽毛目的の乱獲
• 繁殖地が極端に少ない
・性成熟まで5〜7年
・1回に1卵
・毎年は産まない
→ 回復がとにかく遅い。
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👉 日本では実際に、鳥島以外に**聟島(むこじま)**など新しい繁殖地づくりが進められています。
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• 鳴き声をスピーカーで流す
• 若鳥が「ここ安全そう」と思って定着
👉 これが成功して、新しいコロニー形成に実際につながっています。
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③ 漁業との衝突を減らす
• 対策:
• 夜間投縄
• 鳥よけテープ
• 重りをつけて素早く沈める
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• 太平洋を渡る鳥なので、1国だけ頑張っても不十分
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希望はあるの?
あります。かなり。
• 短尾アホウドリは
ただし、
放っておけばまた簡単に減る
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まとめ
アホウドリを救う手立ては:
• 繁殖地を守る
• 気の遠くなるほど長期で見守る
派手さはないけど、
恋人を作ったこともなく、一晩だけの関係を持ったこともなく、風俗に行ったこともない、ただそれだけでバージンデスロードは完遂される。
そんなありきたりな2割程度の一般人の一人でしかないのに、自分が特別ななにかであるような気がしてしまう。
たった2割。
明らかに「なるだろうな」と思える異常者は3人ぐらいで5人は普通だ。
俺はその5人の普通に属する中だった。
だって小学校のアンケートで「将来独身になりそうな人ベスト5」や「ホームレスになりそうな人ベスト5」には入ってなかったから。
昔の日本じゃ大人になる前に死ぬほうが普通だったから生物的には「子孫を残さずに死ぬ」は普通のことだ。
ただ老人になるまで生きても童貞ってだけだ。
🇨🇦 カナダ
難易度:★★★☆☆(中)
30代後半から点数が下がる
👉 準備すれば現実的だが、ダラダラすると詰む
🇩🇪 ドイツ
難易度:★★☆☆☆(低〜中)
Blue Card が強い
🇳🇱 オランダ
難易度:★★☆☆☆(低)
求人は少なめだが通れば楽
👉 穴場だが席は少ない
🇺🇸 アメリカ
難易度:★★★★★(高)
H1Bは運ゲー
年齢より運とスポンサー次第
👉 実力が突き抜けていないと厳しい
🇨🇦 カナダ
30代は普通
👉 年齢の心理的圧はほぼない
🇩🇪 ドイツ
30代は若手扱い
👉 年齢より「一貫性」
🇯🇵 日本
30代=「遅い」
やり直しが難しい
👉 精神的に一番削られる
🇨🇦 カナダ
⚠️ ただし:
受け身だと何も起きない
🇩🇪 ドイツ
超スローペース
友達期間が長い
👉 数打ちではなく「合う人1人」狙い
🇯🇵 日本
条件・年齢・空気重視
精神的消耗が激しい
🇨🇦 カナダ
問題が起きたら声を上げられる
🇩🇪 ドイツ
でも「距離」は感じる
👉 静かな壁
🇯🇵 日本
悪意なき排除が多い→日本人:「差別じゃなく区別です。見た目が違えば誰でも外国人」
声を上げにくい
「あなたは野球のキャッチャーです。バッテリーを組むなら、大谷翔平か?それともダイアン津田か?」を議論して。
A:……いい加減にしてください。今回はもう議論の余地すらありませんよ。「大谷翔平か、ダイアン津田か」。キャッチャーとしてミットを構えるなら、答えは一つです。160キロの剛速球と魔球スイーパーを、自らのリードで世界に知らしめる。これ以上の至福がどこにありますか?
B: 確かに、大谷選手の球を受けるのは、キャッチャーとして人生最高の栄誉でしょう。でも、考えてみてください。彼の球を受けるということは、一球たりとも「サボれない」ということです。あの凄まじい球威、あの変化……捕るだけで精一杯ですよ。キャッチャーとしての「リード」や「演出」が入り込む余地なんて、大谷さんにはないんです。彼が一人で完結しているから。
A: それこそが理想じゃないですか! 圧倒的な実力がある投手を、さらに高い次元へ導くために神経を研ぎ澄ます。大谷氏が投げる一球ごとに、指先の感覚や呼吸をシンクロさせる。それはもはや共同作業としての「芸術」ですよ。対して、津田さんの隣でキャッチャーマスクを被っている自分を想像してください。ミットに収まるのは、100キロそこそこの「すぐ言う~」という叫び声が混じった、ヘロヘロのカーブですよ? 絶望しませんか。
B: 絶望? とんでもない、そこからがキャッチャーの腕の見せ所じゃないですか! 160キロを捕るのは技術ですが、津田さんのような「いつ心が折れるかわからない投手」をリードするのは、心理学であり、哲学なんです。彼がデッドボールを当てて顔を真っ赤にして謝っている時に、マウンドに駆け寄って「大丈夫や、次いこう」と声をかける。あの情けない男を、自分のリードだけで完結させ、完封勝利に導いた時……それは大谷さんをリードするより、はるかに大きな「達成感」があるとは思いませんか?
A: それは単なる「自己満足」ですよ。キャッチャーの仕事は、チームを勝利に導くことです。大谷氏をリードすれば、チームは確実に勝てる。一方、津田さんがマウンドに立ったら、1回の表で試合が崩壊しますよ。バッターボックスにはメジャー級の強打者が並んでいるんですよ? 津田さんのあの「いじられキャラ」で、大谷さんの「100マイル」の代わりが務まると本気で思っているんですか。
B: 技術では勝てません。でも、野球には「惑わし」という要素がある。バッターは大谷さんなら「凄い球が来る」と構える。でも津田さんがマウンドに立って、いきなり「ゴイゴイスー!」と叫びながら投げてきたら? バッターは困惑し、リズムを崩す。その「一瞬の隙」を突いて、バックドアのシュートを決めさせる。これこそが、キャッチャーの真骨頂である「謀略」ですよ。
A: 謀略以前に、審判に怒られますよ。プロの舞台は、そんな小細工が通用するほど甘くない。猪木さんの時も言いましたが、大谷氏がマウンドに立つと、スタジアム全体の空気が変わるんです。あの圧倒的な「正しさ」と「強さ」。キャッチャーは、その巨大なエネルギーを受け止める「器」でなければならない。その責任感こそが、自分を成長させてくれる。津田さんの器になったところで、中身は空っぽか、あるいは「愚痴」しか入っていません。
B: その「愚痴」を聞いてやるのが女房役でしょう! 大谷さんは完璧すぎて、キャッチャーを必要としていないように見える。でも津田さんは、あなたがいなければ1分もマウンドに立っていられない。彼がピンチで「もう投げたくない、帰ってスー差し上げたい」と泣き言を言っている時に、厳しく、時に優しくリードする。この「誰かに必要とされている感」は、完璧な超人の隣では絶対に味わえないものです。
A: ……なるほど。あなたはキャッチャーを「コーチ」か「カウンセラー」だと思っているわけですね。でも私は、最高のピッチャーと最高の知恵比べをしたい。大谷氏の脳内にある配球プランと、私のプランが火花を散らす。その高度な知的遊戯こそが、バッテリーを組む醍醐味です。
B: 知的遊戯、ね。でも、津田さんとの配球は「ギャンブル」ですよ。次、何が来るか自分でも分かっていないピッチャーと一緒に、泥沼の中を這いずり回る。そのスリルは、計算し尽くされた大谷さんの野球とは別の意味で、心臓に悪いけれど、たまらなく刺激的なはずです。
A: ……ふむ。では、こうしましょう。第2ラウンドでは、もし「絶体絶命の満塁」という場面で、二人のどちらをマウンドに送り出し、自分はどうリードするか。その「究極の選択」のディテールを詰めましょうか。
B: 望むところです。大谷さんの「三振を奪うロジック」か、津田さんの「運命を味方につけるパッション」か。面白いことになりそうですね。
(続き)
A: さあ、舞台は9回裏、2アウト満塁、1点リード。バッターは最強の強打者。この場面、大谷翔平なら迷いようがありません。私は渾身の力で内角低めにミットを構える。そこに165キロのストレートが、空気を切り裂いて突き刺さる。審判の「ストライク!」の声と共に、スタジアムは熱狂の渦です。これこそが、キャッチャーという職を全うした瞬間の景色ですよ。
B: 確かに、それは教科書通りのカタルシスです。でも、もしそこで津田さんがマウンドにいたら? 彼はもう、生まれたての小鹿のように膝をガクガクさせているでしょう。ミットを構えても、そこに来る保証なんてどこにもない。でも、だからこそ生まれる「奇跡」がある。彼がパニックのあまり、投げた瞬間に「ごっいごいすー!」と絶叫し、ボールがバッターの頭の上を大きく外れる超スローボールになったら?
B: いえ、あまりの異常事態に、バッターが呆然として見送ってしまうかもしれない。あるいは、津田さんの放つ「負のオーラ」に呑まれて、最強打者が内野フライを打ち上げる。その時、マウンドで腰を抜かしている津田さんのもとへ駆け寄り、泥だらけになって抱き合う。この「予定調和の破壊」こそ、スポーツが時として見せる、理屈を超えた感動だとは思いませんか?
A: 思えませんね(笑)。それは野球ではなく、コメディです。キャッチャーの仕事は、ピッチャーのポテンシャルを「最大化」すること。大谷氏の隣にいれば、自分の技術も、戦術も、精神も、すべてが人類の限界まで引き上げられる。一方で津田さんと組むのは、自分の能力を「彼のレベルまで落とす」作業に近い。そんな退歩、私には耐えられません。
B: 退歩ではありません。それは「拡張」ですよ。大谷さんの野球は、既に完成された「正解」をなぞる行為に近い。でも津田さんとの野球は、正解のない暗闇に、二人で一歩を踏み出す冒険なんです。キャッチャーとして、ピッチャーの弱さを包み込み、その弱さすらも武器に変えて勝つ。これほど高度で、人間的なクリエイティビティが他にありますか?
A: ……ふむ。あなたが言いたいのは、大谷氏は「剣」であり、キャッチャーはその「鞘」である。一方、津田さんは「生き物」であり、キャッチャーはその「飼い主」であれ、ということですね。確かに、制御不能なものを制御する快感というのは、キャッチャーという人種の根底にある欲望かもしれません。
B: そうです。大谷さんの160キロを捕る快感は、筋肉と神経の喜び。津田さんの「なんでやねん!」を勝利に繋げる快感は、魂の喜びなんです。あなたはどちらの喜びと共に、引退試合を迎えたいですか?
A: ……参りましたね。正直に言えば、大谷氏の球を一球受けて、指を骨折するくらいの経験はしてみたい。しかし、もし一シーズン、共に苦楽を共にするなら、津田さんのような「手のかかる相棒」を勝たせる喜びも、捨てがたいかもしれない……と、一瞬だけ思わされました。
B: ほら、あなたのキャッチャーミットが、津田さんの「ヘロヘロの直球」を求めて震えているじゃないですか(笑)。
A: 震えているのは、寒気か、あるいは覚悟の証か……。いずれにせよ、どちらとバッテリーを組んでも、終わった後のビールは最高に美味いか、最高に苦いかのどちらかでしょうね。
圧倒的映像美と圧巻のアクションシーンと散漫な物語が三位一体となった映画だった。67点。
冒頭に「中国武術は中国大陸がそうなように南派と北派に分かれていて、でもいろいろあって中国は統一したから武術も統一する必要があるよね。だもんで南派と北派の代表が戦って統一継承者を決めることになったんよ」みたいなナレーションが入るので、そういう達人たちが戦って最強を決めるハチャメチャアクションなのかと思ったら、実際には武術大河群像劇だった。
・南派の代表、詠春拳の宗師イップ・マンいや、イップ・パーソンもしくはイップ・ファイター(ポリコレ配慮)の興隆。
の3つの流派の戦いを軸に、それぞれの武術流派がどのように時代をサバイブしてきたかを描く。
まぁ、とにかく映像が圧倒的だったね。確か当時は「LOVERS」とか「英雄-HERO-」とか香港のアート的アクション大作ブームだったと思うんだけどその中でも相当金かけてしっかり作られてる。小道具大道具役者全部にしっかり金かけてその上撮り方もしっかりしてる。1秒も気を抜いたショットがない。雨のシーンも雪のシーンも室内も室外も全部きっちりデザインされている。もろちんそれを以てリアリティがないと批判することもできるとは思うけど、映像作品としての映画として非常に正しく誠実なアプローチだと思った。
これは次のアクションのところにもかかってくるんだけど、香港映画人がなぜか大好きな雨の中のカンフーシークエンスが3回くらい出てくるんだけど「俺は雨の中のカンフーシーンを撮るスペシャリストだ」っていう気概が感じられる、KIAIが入った出来でよかった。まぁ香港アクション特有のなんか急にふわっとするワイヤーアクションは俺はあんま好きじゃないけど。スローモーションの多用も「ここが見せ場なんや!」という強い意志を感じる。まぁ、どんだけやるねんとは思うけどさ。
で、アクションだけど今作が武術大河だなぁと思うくらいにはとにかく気合が入ってる。LOVERSや英雄が「武侠ファンタジー」だったのに比べるとこちらはかなり地に足がついた表現になっている。まぁワイヤーアクション使ってるし、スローも多用してるから全然ファンタジーなんだけども、それでもしっかり武術してるのが印象的。
特にめっちゃ気になったのがすげー足のポジションを映すのね。普通のアクション映画でも吹き飛ばされた後の踏ん張りのシーンとかで足を映すとかはあるけど、構えを変える、出す技を思案する、敵が動く、いろんなシーンで足のポジションを変更しているのを映す。もし向こうの観客がこれ見てニヤリとしてるんだとしたら武術リテラシー高すぎるだろ。
また武術を通じて人を映そうとしているのも印象的で、イップは実直な線の動き、チャンは柔らかい円の動き、チャンの仇は激しくパワフル、八極拳は極めて暴力的とそれぞれの使う人間の人格を使う武術に反映させている。
人体破壊描写も実は少なくて特にイップはいろんな人と戦うんだけど蹴ったり突いたりはするけど大怪我をさせるようなシーンはほとんどなく、逆に特攻出の八極拳の一線天はめちゃくちゃ相手を破壊する。そして八卦掌のチャンも女性らしい柔らかな戦い方をするんだけど仇を取る際に始めて相手の関節を決めて腕をへし折るという破壊行為に出る。どういう戦い方をしてどういう結果を得るかということがその人物の情景描写になっているのは、さすが武術ドラマだなと感じた。
ただ、この圧倒的に気合が入った映像パートに比べるとストーリーパートはどうにも厳しい。
ある程度、史実に基づいた大河設定だからしょうがないんだろうと思うんだけど、それぞれの流派のストーリーの接着が弱い。イップとチャンは南派と北派の戦いの際に戦って心を通じ合わせ、その後、次代の激動にもまれ離れ離れになり最後には再会するんだけど、八極拳の一線天に関しては幕間幕間で「一方その頃」みたいな感じで出てくるだけでイップとは一切絡まない。まぁ実際歴史的にも一方その頃八極拳はこんな感じでやってましたって感じだったんだろうけども。
また、イップは南派と北派の継承争いに向けて南派内での指導戦や実際の継承戦、その後のチャンとの戦いを序盤で消化すると後は時代が変わってめちゃくちゃ困窮して辛くて子供は死ぬわ、香港に渡ったらイギリスに併合されたから本国に帰れなくなるわ散々だよ~って感じで武術的な見せ場が急に減り、北派の内部抗争として北派の宗師をうっかり殺した一番弟子VS宗師の娘のチャンの戦いがメインバトルになっていくがそこにイップは一切関わらない。
この一番弟子ってのが最初からイップにも食って掛かるし、日中戦争がはじまると日本軍に取り入ってリッチになっちゃうしでメインヴィランっぽい感じなんだけどイップとは戦わないんだ、そういう感じなんだっていうのは見てるこっちからするとけっこう肩透かし感があったかな。
気合の入った映像部分に比べるとこっちは「そういう話だったんだからしょうがないじゃん」みたいな、エンタメとして過度に盛り上げようとはしてない感じには見えた。もろちんそれが誠実な態度と言えばそうなんだろうけど、なんかもっと楽しませてくれてもいいじゃん。僕は不満です。
あとは、時代的に途中から日中戦争がはじまってそのせいで裕福だったイップはめっちゃ苦労する展開になるんだけど、過度な抗日展開になってなかったのはよかった。ないとは言わんけど、まぁこれくらいなら実際の時代の流れ的にこう言うこともあったんやろなってレベル。抗日戦争が始まってってなったときに、ここからイップ達が力を合わせて日本兵と戦う展開になったら嫌だなぁと思ったけどそんな展開はなかった。
最後に出てくる幼少期ブルース・リーがめっちゃブルース・リーの子供時代クソガキ感があってよかった。こいつが後のブルース・リーですよみたいには紹介はされないけど見ててわかるようになってるのもニクい。
今は亡き香港大作映画の映像面に関しては一種の到達点の一つだと思うしアクションも非常に良い。もろちん、現在主流の実務的なアクションとは程遠いが、アクションを作品内での登場人物同士の対話として成立させる腕は歴史の長さを感じる。
最近はもうすっかり枯れた感のあるジョン・ウー監督と、なんかうまくいかない映画にばかり出ているジョエル・キナマン主演のアクション映画。今回は全編、登場人物のセリフがない構成となっているのがウリ。ラジオの音声とかはあるんだけど、たぶん登場人物は一回も喋ってなかったんじゃないかな。
話としてはギャング同士の抗争の流れ弾で息子(チンコじゃないほう)を喪ったキナマンは怒り心頭、ギャングの車を追いかけ鉄パイプで襲撃をかけるも反撃にあい喉を撃ち抜かれてしまう。声帯を失うも一命をとりとめたキナマンは妻の心配をよそに1年後の復讐に向けて身体を技術を鍛えはじめ、頑張って復讐する。
ジョン・ウー映画なので100回くらいスローモーションがある。もちろんアクションのすごさを演出する部分もあるんだけど、そこスローにする意味 is 何?ってなって笑っちゃうところすらある。
キナマンが声帯を潰されて(喉を正面から打たれたら脊椎が損傷すると思うのですがそれは……)声が出ないのはいいんだけど、他の人物は声が出るはずなのに何も喋らないのはよくわからない。一回、特に何の意味もなく黒い鳥が夫婦の家の外に飛んできて、カメラがそれにフォーカスし窓の中で妻が何か言っているが聞こえなくなり、それが終わるとまたカメラが家の中に戻るという、台詞なし映画というメタな設定にのみ奉仕しているシーンがあって笑ってしまった。
一般人キナマンは戦闘能力は皆無で復讐を決めてからYoutubeや射撃場、クソ広い倉庫で格闘射撃運転の練習を繰り返して復讐鬼として成長していくのが面白みと思う人もいるだろうけど、これって狼の死刑宣告でもやったし、デス・ウィッシュでもやったしなぁと思ってしまった。
後は今更ジョン・ウー映画で言ってもなぁと思うのは、身体性の低さ。復讐の前日にキナマンはギャングの金庫番の家に乗り込むんだけど、そこでナイフを太ももに絵の部分までぶっ刺されてしまう。なんかこれが生きてくるのかなぁと思ったら、翌日、そこには生き生きと走り回るキナマンの姿が(世界まる見え感)。う~ん。もうそういう時代じゃないよなぁ。
中古で安値で買ったキナマンカーもいろいろ改造してる描写はあるけど頑丈すぎるし2025年に見る映画としては「古すぎる」感じはスゴイしたかな。
アクション自体は2000年代テイストを残しつつも「ガチ」感がよくて。特にカーチェイスシーンでのアルミでできてるのかな?みたいな車のクラッシュはめっちゃよかった。でも実車を用意してやったらしいので車って全然頑丈じゃないんだなぁと思わされた。
痛みを感じる格闘やバカみたいに撃ちまくる射撃もすごい頑張ってる感があった。ただ、そこもやっぱりレイドとかシャドーオブナイトみたいな香港リスペクトインドネシア映画がやったことのもはや二番煎じ感があって正直、キツかったかな。
あとジョン・ウー印の二丁拳銃パートが唐突に出てくるんだけど、それがキナマンじゃなかったので「いや、お前がやるんかい」と爆笑してしまった。あそこ、ギャグで入れてるんだとしたらジョン・ウーはギャグセン高いと思う。
息子を亡くしたのはキナマンも妻も一緒なのにキナマンは妻を置き去りにして一人で復讐に突き進み連絡も無視するようになり、どんどん夫婦関係は冷え込んでいきついに妻は出て行く。この女必要だったかなぁと思うくらい存在感がないのが気になった。
仮に子供の死を受け入れた人間とそうでない人間の対比を描くのであれば、最終的にキナマンは子供の死とか関係なくギャングを殺すことが楽しくなっちゃってるみたいな感じにしてもよかったと思うけど、それは狼の死刑宣告すぎるか。
つまるところ「喋らない」「アクション」が前面に合ってそのコネクションが弱いので映画としては結構退屈だなと思ってしまいました。ただ、やっぱりキナマンはいい役者だし2000年代初頭っぽいアクションはいっぱい見られるので、あんま期待しないでサブスクとかで見るにはちょうどいい映画だと思いました。