はてなキーワード: 呆然とは
知り合いが伊勢に旅行したというので「赤福食べた?豚捨は?伊勢うどんは?」と尋ねたら「うちって食べ物に興味ないんだよね。親もそうだし子供たちもそう。だから旅行行っても別に地元の名物とか調べないし食べないんだ。何食べたかも覚えてない」と言われて呆然と街をさまよっている— じろまるいずみ「餃子のおんがえし」(晶文社)発売中🥟 (@jiromal) May 29, 2025
まあそうだよね、食べることに興味ない人だっているよね。あらゆる事象に興味あるなしがあってしかるべきだよね。ただ不意打ちの致命傷だったのでなんかいろいろ考えちゃって— じろまるいずみ「餃子のおんがえし」(晶文社)発売中🥟 (@jiromal) May 29, 2025
その土地の食べ物料理って文化や歴史が背景にあるわけで、食べないにしてもそれに全く興味がないって何の為に観光した…?その土地ならではの食べ物に関心がないという事は、旅行の楽しみの何割かを最初から失っているのでは?食欲は人間の最後の欲求だからそれがないということはあらゆる事に興味がないと思う。
食に興味がないとなると、文化資本的何かが欠落しているのかな。
引用で言い訳してる奴らとは今後も絶対出会いたくない。施設とか全く興味無いし風景なんて海外にでも行かないと国内は割とどこも見た事ある感じで面白みない 。
私もかみさんも、旅先でのご当地の美味しいものが楽しみなので、子供もそういう感性で育った。
沖縄での修学旅行でグループ行動のとき、グループで昼食をどこでとるか決める時「マクドナルドでいい」という女子グループをねじ伏せてソーキそばを食べてきた、と長男が言ってた。
アナログゲームもデジタルゲームも基本的に全て嫌いで、困っている
オタクなので身の回りに普通にゲームが好きな友人が多く、何かと誘ってくれるのだが、一切楽しめない
知り合いに「通話しながらマイクラをしよう」と言われてSwitch版を購入して、一応開いてみたが何をするのか全く理解できず、憂鬱
今まで楽しめたゲームといえばどうぶつの森かマリオカートかとんがりボウシシリーズくらい
アナログゲームだと百人一首かるたくらいしか楽しいと思ったことがない
うちの家族がゲーム大好き一家で、小さい頃からいろいろやってはいた
モノポリーやシンペイや将棋やバックギャモンやらもやったしスマブラやバブルボブルやサムライスピリッツやストリートファイターやらもやった
「大体こうで〜〜まあやって覚えればいいから」
くらいでサラッと流される
ゲームが好きな人なら楽しく覚えられるのかもしれないが、わけもわからず対戦が始まり呆然としている間に負けるので、ずっと何も楽しくなかった
やっとルールを覚えた頃にはみんなとっくに強くなっていて、やっぱりボロ負けするしかない
好きじゃないから楽しめないから上達もしないし、この間6歳児とスピードやって負けた
長じてからは、兄は家で音ゲーをするようになり夜中までガチャガチャやって、弟はFPSをやっていて大声で暴言をはき、どちらもものすごい騒音だった
でもみんなで遊ぼう楽しもうとしている人にゲーム嫌いだから嫌とは言えず、とりあえず頑張って空気を壊さないように頑張っている
友達に誘われて雀魂を入れていた時期もあったが3ヶ月でやめてしまって
と聞かれて毎回しんどい
おすすめされるのでFGOもやったし刀剣乱舞もやったしあんスタもやったしツイステもやった
どれもなんだか楽しめなかった
ああ〜〜〜〜〜ゲームに誘われるの嫌だなあ
不機嫌になったりしないように頑張らなくちゃ
隴西(ろうせい)の李徴(りちょう)は博学才穎、若くして名を知られたが、性、狷介(けんかい)にして自ら恃(たの)むところすこぶる厚く、ついに科挙に失敗し、官を退いて詩作にふける日々を送っていた。
然るに彼の詩は、思いのほか世に容れられず、やがて生活に困窮し、妻子のために地方の小役人に身を落とすこととなった。
或る日、官命を受けて他郡へ赴く途中、旅の一行の馬車が森に差しかかったとき、怪しい咆哮が樹々の合間から響いた。供の者が騒然となる中、李徴の姿が忽然と消える。
「李徴さま!李徴さまァ〜ッ!」
皆が慌てふためく中、ひとり静かにその場に現れたのは、白衣に身を包んだ男であった。額には清めの護符、腰には数珠を携え、眼光は鋭いが、どこか慈悲深い。
「……これは妖の気配。俗にいう“虎変”ですね……」
(以下、中盤では「虎となった李徴」が己の悲哀を友人に語ろうとするが、Tさんの「お経攻撃」によりどんどん浄化されていく)
李徴の咆哮は次第に細くなり、やがて人語に戻っていく。
「わ、わたしは……李徴……かつては詩を……」
「南無阿弥陀仏……この者、未練と執着に囚われし霊獣なり」
札が宙を舞い、李徴の額にぴたりと貼られたその瞬間、天を衝くような虎の咆哮があたりを震わせ、森が静まり返る。李徴の姿は、詩を一篇書き残して、ふわりと風に溶けた。
「……やはり寺生まれは違うな……」
霧の中に消えた李徴が、最後に残した詩の断片を、Tさんはそっと拾い上げた。
筆跡は荒れ、紙は湿り、されどそこには、かつての彼の魂が確かに宿っていた。
月下、山は影をひき、
声は虎にして、心は人に残る。
詩の道に死すとも、
我が言のひとひらは、
誰かに届かん。
月は冴え冴えと照り、森の風が、詩を乗せてどこか遠くへと運んでいった。
あれは、茹だるような夏の日の出来事でした。
気温はおそらく35度を優に超えていたと思います。
最悪なことに財布を忘れてしまったため、
一滴の水分も補給することができませんでした。
『このままでは本当に倒れてしまうかもしれない。』
命の危険を感じるほどのどが渇いていた私は、
恥も外聞も捨て水を恵んでもらおうと、
「どなたかね」
家の中からは、小柄な老婆が出てきました。
「お願いです・・どうか、一杯のお水を恵んでいただけないでしょうか。
財布を忘れてしまい、何も口にできず・・本当に倒れてしまいそうなんです」
すると、老婆はこう答えました。
「嫌だよ出ていきな」
最初、私は聞き間違いだと思いました。
こんなに困窮して、
死にそうなほど汗だくになっていて、
「嫌だよ出ていきな」なんてそんな返事できるわけない。
そんな無慈悲なふるまい、
文明をもった社会で、人間によって育てられたならできるわけがない。
私は意表を突かれて、ただ立ち尽くしていました。
「さっさと帰んな」
老婆はそう言って、玄関の扉をぴしゃりと閉めました。
私はしばらく呆然としていました。
・・しかし、どうすることもできない。諦めて帰るしかないか・・
そう思いかけた矢先ーーーーー
私の中で何かがぶちんと音を立てて切れました。
抑えきれない怒りがマグマのように噴き出した。
「このクソババアがぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
気がつくと、喉が張り裂けんばかりの大声で怒鳴っていました。
乾ききっていたはずの喉から、どうしてこんな声が出るのか自分でも不思議だった。
しょせん、この世は弱肉強食以外の何物でもなかった。
「強くなろう」そう心に誓ったあの日。
私が人生で一番怒った時の話。
うー、
私はイエローオーブが見つからなくて世界中を奔狼しているのよね。
急にまたヒントがなくなって「世界中を冒険してオーブを探せ!」ってゲーム画面でのヒントでは出てくるけれど、
うわー、
時間が刻一刻と休日の終わりの時間を刻み始めているというのに、
ここにきてまたペースが落ちる冒険の冒険度が下がってしまうわ。
えー、
もうこれどうしよう?
もしかして「最後の鍵」で空けていない扉があっかもしれないので、
そこが突破口になるかもしれないわ!って私の目論みは間違ってるかしら?
良くわからないけれど、
1つずつ洗って行こうと思っているのよ。
はぁ、
この世界中を旅する感じルーラで行ったところにすぐ行けるからこそ便利だけど、
世界中を旅しているだけの現実逃避ばかりしているわけにはいかないところもあり、
家のことも多少しなくちゃいけないこの逃げ場のない現実に引き戻されるのよ。
なるべく本当にドラクエIIIは攻略サイトは絶対に見ないようにするの。
あれってさー、
いや違う違う
答えが出ちゃうじゃない!
その答えを一発で見つけるんじゃなくて、
例えば最初の手がかりになるヒントを、
正解じゃないヒントが書いてあるマイルドな攻略サイトがないのが現実じゃない?
いきなり私は答えが見たいんじゃなくって、
きっかけになる街の声を聴きたいの。
やっぱり足で稼ぐしかないわね。
犯人はヤスか!って言うぐらい
もう足で稼ぐしかないわ。
ここが私の冒険っぷりの見せ所なのよね。
まずこれ書いてから
街や村やお城をひとつずつ巡ってイエローオーブの情報を探ってみるわ。
あとオーブ1つなのよね。
それはともかく、
私の肩パワーがぜんぜんおやすみの日にじーっとしているのに回復しなくって
地味に痛いのはやっぱり頚椎系なのかしら?
ズキズキするわ。
もう少しで整骨医院の予約日に到達できるからそれまでの遠い道のりの我慢よ。
道のりといえばそのイエローオーブとどちらが先に見つけられるか!ってところよね。
肩をぶんぶん回しても、
お風呂入って温めても、
湿布貼っても、
ここ2日ぐらい貼り忘れていたのもしかして湿布で緩和されてないってだけ?
湿布忘れていたのが原因なのかしら?
でもよ
湿布が根本的に痛みの原因を取り除いたり頚椎系のなにかズレたものを戻すにはさすがに至らないわけでしょ?
あとさ、
これ整骨院にいったとして直ったとしても
また定期的に訪れるやつならまた厄介よね。
記録によると3年前になんか肩前回それやってるみたいなの。
天気も関係あるのかしら?
いわゆる気圧のあれよあれ。
なので
なんか筆も進まないわ。
あ!
きっとそうよね!
そうなるってーと
早く見つけ出さなくちゃ私の磁気ネックレスみたいな効果を発揮してくれるかもしれないでお馴染みな期待を寄せては返す波のように思っているイエローオーブを先にまず探さなくちゃいけないのよ!
そしたら肩凝り治っかも!
いや冷静に考えてみてもイエローオーブで肩凝りは治らないわよね。
きっと治りそうなのはレッドオーブの方でしかももう台座に捧げちゃったし!
なんか
イエローオーブが見つからないことには落ち着くものも落ち着かないわ!
うふふ。
今日はまだ起きてすぐなのでお昼前に出かけて、
なにか調達してきてじっくりDQIIIを進められるところまで進められないとこの休日もやもやが溜まって健康に悪いわ。
まずはそっからよ!
お昼前に遅目の朝食にするわね。
ピンクグレープフルーツを1つ買ってきたので、
それの果汁をマジ搾りの果汁インの
ピンクグレープフルーツウォーラーね。
一部輪切りにしてボトルに一緒に入れておくと可愛さもアップなので、
見た目も楽しいわよ。
今日のお供はこのピンクグレープフルーツウォーラーね。
今日中に飲み干しちゃいそうよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
祭りが好きでさ、彼女ともよく一緒に行ってた。屋台の雰囲気とか、あの独特の活気が好きなんだよな。で、祭りに行くと結構な確率でフランクフルトを買ってた。あのジャンクな感じがいいんだよ。
買うたびに「これ、高いよなー」って言うのは、まあ口癖みたいなもんだった。別に本気で文句言ってるわけじゃなくて、祭り価格だよな、ってくらいの意味合い。彼女も「ほんとだよねー」みたいに笑って聞いてると思ってた。
この前の祭りも、いつものように二人で出かけたんだ。そろそろ小腹も空いたし、フランクフルトでも買うかーなんて歩いてたらさ。
中には、家で茹でてきたであろう、ふにゃっとしたフランクフルトが数本。
一瞬、何が起きたか分からなかった。頭が真っ白になったっていうか。
「え? これ…?」って聞いたら、「だっていつも高いって言うから! 業務用スーパーで安く買ってきたよ!」って、得意げなんだよな。
周りには他の客もいるし、屋台の人もこっち見てるし。なんだこれ、って。
あのな、俺が祭りでフランクフルト買うのは、あの雰囲気の中で、熱々の焼きたてを食うのがいいわけよ。別に家から持ってきた冷めたフランクフルトが食いたいわけじゃない。しかも、わざわざ人のいる前でタッパーから出すって…デリカシーなさすぎだろ。
「高い」って言ったのだって、別に本気で節約しろって意味じゃない。ただの会話のきっかけみたいなもんだ。それを真に受けて、こんな行動に出るって…。
なんていうか、もう無理だなって思った。こういう、人の気持ちとか場の空気とかを全く考えずに、自分の「良かれ」だけで突っ走るところ。前々からそういう節はあったけど、この一件で完全に冷めた。
多分、俺はすごい顔してたんだと思う。なんて言ったか正確には覚えてないけど、「無理だわ、そういうとこ。別れよう」みたいなことを言って、その場を去った。
悪気がないのは分かるんだよ。俺のために、良かれと思ってやったんだろう。でも、それが致命的にズレてる。もう、この先一緒にいるのは無理だと思った。
あのフランクフルト、結局どうしたんだろうな…。
おっさんだ。
十代の頃古いインターネットに触れ、geocitiesでのHP作成やBBSの運営、キリ番がどうたらこうたら・・・
ああいうことをやっていたアラフォー以上のインターネット老人会のおっさんおばさんのみんなに。
さて、閉鎖されたgeocities。
WebArchiveでたまに見て懐かしんでいたんだが、最近見つかりませんでした言われて呆然。
保存しときゃ良かった…と落胆しつつ、それならってんでちょっと色々試してみた。
同じようにさみしい思いをして諦めている人もいると思うから書いとく。
➀https://web.archive.org/にアクセス。
②www.geocities.co.jp/※※※※とかの任意のドメイン(例えるならwww.geocities/co.jp/hatenatokumei/ みたいな)を付けることが出来た頃のアドレスでは
俺のgeocitiesは復元させてくれなかったので、(これで発掘出来る人はいいね!もう読まなくていいよ!) 根性と記憶でMilanoとかMilkywayだとか、
そういう初期の頃に設定させられた都市名と、そしてこれが一番困難で「無理」だったら詰みなのだが、 番地(4つの数字)までをも思い出す。
そういう初期の別番地がない人には出来ない方法ではある。
俺の場合、最も記憶力の良かったであろう14歳頃に作ったやつだから番地までも覚えていた。
③なんとか思い出せて、WebArchiveにアドレスを打ち込んで発掘出来たらラッキー。 でもほぼ確で文字化けしているので日本語化しよう。
④http://charset.7jp.net/changcd.html にアクセス。
⑤指定URL のところに https://web.archive.org/web/20181105060156/http://www.geocities.co.jp/Milano/9448/のように(これは発掘出来た俺のページだ!)
WebArchiveの文字化けページのアドレスをコピー&ペーストして、Shift-JISにチェックを入れて(最初からチェック入ってる)ソース表示をクリック。
⑥ソースがずらっと出てくるページに遷移。viewをクリック。
⑦http://charset.7jp.net/shr/changed.html このように、ページが日本語化され完了。
コレで6〜7割ぐらいは再閲覧出来た。 もう見れないページも少なくなく、残念ではあったが、半分以上は発掘可能。
俺のは友達と学校の恩師以外誰も見てないような小さなページだったから、 普通にアクセスあったホームページの人は普通に今もWebArchiveに残ってるのかもしれないけど、そうじゃない人への救済として。 MilanoだのHollywoodだのMilkyWayだのカテ分けされてて&4桁の番地のアドレス時代から開設してる人向けに限られるし、 そのカテと番地が記憶にある人に限られるし、有用だと思える人は限られると思うが、俺と同じような状況でカテと番地覚えてる奇特な人居たら試してみてほしい。
今確認してみたら http://charset.7jp.net/shr/changed.html で別の人の日本語化結果のジオが出てるな その時その時シェアして誰かに見せる、みたいなことはおそらく失敗するだろう。コピペして別サイトに移すか、どこかに投稿してデータを救い出す作業が要るだろう。一応、ごくごく一部の人には有用かもと思いシェア。
まただ。
バスが駅前ロータリーの停留所に滑り込む。完璧なタイミング、ではない。むしろ最悪のタイミング。運転手さんの丁寧な停車アナウンスが流れるのと、ホームから聞こえるあの忌まわしい発車メロディーが重なる。シンクロ率100%。ふざけんな。
バスの窓から見える。まさに今、ドアが閉まろうとしている銀色の車体。あれに乗れば、会社にジャストだ。いや、なんなら少し早く着いて、優雅にコーヒーでも飲める。しかし現実は非情である。バスのドアが開く。降車ボタンを押したのが早すぎたのか、俺が先頭に陣取っていたのが間違いだったのか。そんなことを考えている間にも、無情にも電車のドアは完全に閉ざされ、ゆっくりと動き出す。
「ああああああああああああああああああ!!!!!」
声にならない叫びが喉の奥で渦巻く。バスを降り、呆然と走り去る電車を見送る。まるでスローモーション。俺の乗るはずだった電車が、ゆっくりと、しかし確実に俺を置いていく。そして、駅の時計は無情にも次の電車の到着まで「15分」という絶望的な数字を叩き出す。
15分。
この15分がどれだけ無駄か。駅のベンチに座り、スマホを眺める。特に見るものもない。SNSを惰性でスクロールする。みんなキラキラしている。朝活だの、スキルアップだの。こちとら、バスと電車の乗り継ぎという、コントロール不能な外的要因によって、毎朝貴重な15分をドブに捨てているというのに。
バスがあと1分早ければ。いや、電車があと30秒待ってくれれば。そもそも、このダイヤを組んだ人間は、実際にこの乗り継ぎを試したことがあるのだろうか。絶対ないだろ。机上の空論。数字のパズル。そこには、バスが定刻通りに来ない可能性とか、信号に引っかかる可能性とか、そういうリアルな変数が入っていない。
たまに奇跡が起こる。バスが少し早く着いて、猛ダッシュすれば間に合うことがある。そういう日は、まるで宝くじに当たったかのような高揚感がある。でも、そんな幸運は稀だ。大抵は、この絶望的なすれ違いを繰り返す。
もう慣れた、と言えば嘘になる。毎朝、バスが駅に近づくたびに、心臓が少し早くなる。「今日こそは…!」という淡い期待と、「どうせまた…」という諦めがせめぎ合う。そして、大抵は後者が勝つ。
今日もまた、15分遅刻ギリギリの電車に乗る。ホームには、同じバスから降りてきたであろう、諦めの表情を浮かべた同志たちがいる。俺たちは言葉を交わさない。ただ、互いのやるせない気持ちを共有しているかのように、静かに次の電車を待つ。
駅前ロータリーは、俺にとって希望と絶望が交錯する場所だ。バスを降りて電車に駆け込む、そのわずか数十メートルの距離が、天国と地獄の分かれ道。
ああ、次のダイヤ改正はいつですか? どうか、どうかこの狂気の連鎖を断ち切ってください。頼むから。
…まあ、どうせ期待しても無駄なんだろうけどな。はぁ。
会話苦手っていう人は何度か出会ったことがある。でもそこまでじゃない。確かにレスポンスが遅いとか、緊張して言葉に詰まるとか、そんな程度の認識だった。
会話が上手っていうのはお笑い芸人みたいに上手い返しができるとか、例えが的確とか、そんな印象だった。
私はみんなから会話が上手と言われていたのでトークには自信がある。面接だって上司との仕事だって、どんな人でも会話できる!と自負できるほどだった。
私の友人や会社の人は会話ができる。会話が苦手でも"会話ができる"のだ。
だから会話が苦手と言う人も「私ちゃんと話して苦手なの治った!」っていう人もいる。私はドヤっていた。
ーーーーーー
女子校から女多めの職場・趣味だったので出会いがなく、結婚相談所に入った。
……思っている以上だった。酷い意味で。
会話ができない人が多い。20人中18人は会話ができていない。というかできない。会話が成立しないのだ。
私:最近は日差しが強く、しかも暑いですね!体調は大丈夫ですか?
みたいなのばっかりだ。私は天気・気温の話をしているんだからそれに繋がるもんだと思っていた。会話ができない人は違うのだ。
私:趣味はご飯作る事ですかね!休日などは凝ったものを作ります。煮物とか。普段は冷蔵庫にあるものを適当にオリジナルレシピでパパっと。相手さんは料理されるんですか?
横転。会話は一問一答形式では進まんだろ!ってグーパンチが飛びそうだった。
なんでアキネーターになっているのか。わざとなのか?この人だけか?と思ったが、18人みんなこうだ。
会話はキャッチボールと言われているが、これはキャッチボールじゃない。打ちっぱなしをしている相手と、目の前に立っている私だ。どこに飛んでくるのかわからない。飛んできて、キャッチして、相手に投げても相手は違うボールを急に懐から出して勝手に打ってくる。運よく私の投げた球をもう一度打ち返すこともあるが、そうすると相手が「(気持ちよく打てて)楽しかったです!」と言ってくることもある。「当たり前だろ!受け取りやすいボール投げてんだから!さぞかし打ちやすいだろうな!」ってなる。
どんな人でも会話できる!と自負できる私ですらどうやって会話をして行けばいいのかわからないレベルなのだ。こ、この私が…となった。
せめて絶対打ち返したくなるボールを投げてやる!とホームラン確実なボールを投げても、急にバットを捨てて懐にあったボールをでストレッチを始め、また懐に戻して腕から膨らませたサッカーボールをバットで打ってくる。呆然とした私と無が広がることもあった。
婚活ブログで「会話が進みません」という人はこういう人の事か!と思った。私はどうにか軌道修正を試みても改善しない。こんなんじゃ進まなくて当然だ。
私の人生では女ばかり関わっていので世間は違うのかもしれないが、会話と言うのはこんな感じではないのか↓
相手:大丈夫!天気予報でもこの気温続くらしいね。だからバテないように水筒持ち始めたんだ!
私:お、私も持とうかな~。どんなの持っているの?細いの?大きいの?
相手:500mlの軽いやつ。やっぱ量が大事だよ。それにずっと冷たいしオススメ。私ちゃんは対策していないの?
私:日傘してるよ!最近の日傘って凄いね。差すだけでだいぶ変わるんだよ。裏地が真っ黒なの知ってる?
相手:知ってる!私も持ってる。裏が真っ黒なのがいいよね!
私:そうそう!あれ凄いよね。ちなみに表はどんなの使ってるの?銀のやつ?普通の?
連続性があるのが会話ではないのか?
なんてお見合いはみんな一問一答なんだ?そんなのプロフィールに書いているのに…。
会話が苦手とか上手いではない。この2人は会話ができる人だ。
一度、「一問一答じゃなくていいですよ。料理のお話広げましょうよ!」と勧めたことがあるんだけど「いや、私さんのことを知りたいので」と言われた。
…?私の事を知りたいで一問一答は意味ないと思うんだけど。というかそんなもんプロフィールにかいているんだけど。読めよ。文字を。読めんのか?
会話ができない人とお見合いするたびに「この人、どうやって社会で生活しているんだろう」と思う。友達いるのかなっていつも疑問だった。
「プロフィールを読んだうえでの会話」と相談所から口酸っぱく言われるはずなのにプロフィールに書いてあることを一問一答で聞いてくる、会話の連続性がない、相手の目を見て話せない、お前に向かって話しているのに相槌がない、質問してもはい/いいえしか返さなさい。
こんな人も会社に属して生きれるのか。会社でコミュニケーションできているのか?いらない職場だとしても生きるの大変だろ。
現在進行形でドイツに住んでるけどドイツだけは絶対にやめとけ。割とストレートに命に関わるし日常のストレスは日本とは比べ物にならない。
まず医療インフラが死んでる。特に「今すぐ死なない」ことが多い皮膚科、眼科、整形外科、耳鼻科あたりは予約を取ろうとすると2、3ヶ月待ちだ。運良く早めの予約が取れたとしても、なんていうか、何でそのクリニックは予約が空いてるんでしょうね(お察し)。知り合いでする必要のない網膜の手術をされて弱視になった人を二人知ってる。あ、でも保険料はクソ高いから。だいたい、年収1千万ぐらいで月15万。待たずに医者に診てもらうにはトリアージ区分で赤寄りの黄色以上、交通事故で解放骨折して動脈が破れてるぐらいまでないと。ソースはおれ。その手術も止血が不完全だったせいで入院中に再度大量出血して緊急手術になったけどな。他にもペインコントロールが不十分だったり、縫い方がクソ下手くそで皮膚と皮下組織が癒着したり(再手術してくれた日本のお医者様ありがとう!)。歯科はもうちょっと予約が取りやすいけど、まぁ、技術はね。。。一度ドイツで治療した歯があまりに痛むんで日本滞在中に自費で歯科に行った時は「他の先生のことを悪く言いたくないですけど、、、一体どこのクリニックですかこんな雑な治療をしたのは?!」と驚かれたよ。あまりに酷い状態だったんで学会で症例報告された。
医療だけじゃなくて社会インフラも瀕死。鉄道はストで常に動かない。ダイヤ?なにそれ綺麗なの?時刻表なんてあってないようなもん。まずシンプルに「来ない」。遅れるとかじゃなくて、来ない。途中で動かなくなるのや停車駅を飛ばすのはいつものこと。こないだは乗ってた列車が途中で行き先を変えたよ。市鉄もバスも同じ。どこの街でも同じ。飛行機?ついこないだもドイツ中の空港がストで数千便が欠航。もちろん遅延キャンセルは平常運転、預け荷物にはエアタグ必須。だってロスバゲするから。
ちなストはゴミ収集のも病院スタッフのも医療従事者のもちょいちょいあるから。ついこの間もそれで集合住宅のゴミ置き場が溢れかえってたけど、夏にこれが起きないことを祈るばかり。
宅急便?もちろん届きません。集配?予定の時間に取りに来るなんて有り得ません。予定の日に来ないこともざら。あとエレベーターがない家に住んでると重たい荷物は集合住宅の入り口までしか届けてくれないよ。うっかり洗濯機でもネットで注文しようものなら詰むよ、路上に置いていかれた洗濯機を前に呆然とする羽目になるよ。
他にも6-7%のインフレ率とか色々あるけど、それでも良いところも沢山あるから今まで住んでたんだ。だけど、最近は加速度的に悪くなる国の財政と歩調を合わせて社会情勢がキナ臭くなってきた。移民排斥を訴える極右政党は議席を伸ばし続けてるし、新しい首相はそいつらと手を組むし、非欧州人や白人じゃない人にとっては剣呑な空気になってきてるのを肌で感じる。街でかなり直接的な人種差別を受けることも増えてきた。あと、もし増田が今のイスラエルがやってることに批判的な意見を持つのであればマジでこの国に来ない方がいい。公の場でドイツ政府の方針を批判してみな、即逮捕、下手したら強制送還だから。
うちの会社の役員会議、繰り広げられるのは血気盛んな50代以上の重役たちによる言い争い。
話し合いっていうより、もはやバトル。唾飛ばしながら怒号が飛び交うレベル。
そんな地獄みたいな会議に何を間違えたか私(20代、正確にはアラサー)がファシリテーターとして参加してる。いや、マジで何で私が?って毎回思うけど断れるはずもない。
もちろん舐められてる。
口を開いても、「ま、若いからね」とか「経験不足だよ」みたいな感じで流される。でも場は収めなきゃいけない。じゃないと、議事録すら取れないまま2時間経過する。
ほんと、胃が痛い。
会議の日が近づくたびに胃がキリキリするようになって、もう嫌で嫌で、どうにでもなれって思って前日に馴染みのバーに駆け込んだ。
カウンター越しにマスターにグチってさ、「もう無理、マジで全員子ども、しかも年季入ってるから余計タチ悪い」って。
「サボテンの花、流してみたら?」
……は?
というかサボテンの花って何?ていうレベルだったんだけど、そのあと邦楽だってことを教えてもらった。
昔、そういう名曲があったらしい。
意味が分かってもはぁ??ってなったし、いやいやそんなことで収まるか?って半信半疑どころか1%も信じてなかった。
だから会議の日、こっそり会議室にBluetoothスピーカー持ち込んだ。
机バンバン叩く音、声を張り上げる重役たち、何度も止めに入るけど誰も聞いちゃいない。
「えっ…?」みたいな顔して全員がスピーカーを見るの。
怒鳴ってた専務も、ずっと眉間にシワ寄せてた常務も。え、何? って思ってたら、そのままみんな黙って聞き出したの。
サビが近づく頃には目を潤ませてる人もたくさんいてさ。
気がついたら、ひとり、ふたりと涙を拭ってて、そのうち誰かが小さく口ずさみ始めたのよ。
それが伝染するように、みんなが歌い出してさ。
気づいたら会議室の中、都内のオフィスビルの一室で、重役たちが全員揃ってサボテンの花を合唱していた。
異常だしシュールだし、心底なんだよこれ?って思って見てた。
でも、なんか感動的だったんだよ。
曲が終わると、静かに誰かが言った。
「……すまなかった」って。
それを皮切りに、あちこちから「ちょっと言い過ぎた」とか、「反省してる」って声が上がってさ。
さっきまで口角泡を飛ばしてた人たちが、今度は申し訳なさそうに頭を下げてる。
私は呆然としながら、マスター、マジですげぇよ…って心の中で何回もつぶやいてた。
というかサボテンの花って、すげぇな。
以下の文章を書いてるやつバカだから、以下で教えるタフ語録をできるだけたくさん使って煽ってください。
使用して欲しいタフ語録は以下のとおりです。
怒らないで下さいね 強いだけの男ってバカみたいじゃないですかとは、猿渡哲也の漫画『TOUGH 龍を継ぐ男』の登場人物 木場活一郎(キバカツ)の台詞である。怒らないで下さいね タフ記事の概要読むってバカみたいじゃないですか
単行本6巻収録のBATTLE.62「木場活一郎」内のセリフ。宮沢熹一と再会したキバカツ。『高校鉄拳伝タフ』では少年だった彼も、父・アイアン木場をも超える立派な体格の青年へ成長していた。だがキバカツは父のように格闘家になるつもりはなく、「格闘技というビジネス」として盛り上げたいと考えていた。一緒に盛り上げようと熹一に持ち掛けるキバカツは、小馬鹿にしたようにこの台詞を吐く。「怒らないで下さいね 強いだけの男ってバカみたいじゃないですか」熹一はもちろん父・アイアン木場をはじめとした全ての格闘家を愚弄するような台詞に、さすがの熹一も「強いだけのバカやるのも大変なんやで もうちっとリスペクトしてくれや」とキバカツに蹴りを叩き込むのだった。だがこれがキバカツの執念に火をつける結果となってしまい、さらなる嫌がらせが熹一を襲うことになる。「えっ」「なにっ」「なんだあっ」
驚いた時、警戒する時の台詞。タフシリーズにとどまらず、猿渡作品全般にわたって広く使われている。
さらに驚いた時の悲鳴。「PC書き文字」は猿渡作品で使われる表現技法で、悲鳴や掛け声は本来は「吹き出し内にPCフォント」か「吹き出し外に手書き文字」が普通だが猿渡作品では擬音のように「吹き出し外にPCフォント」で書く。「お お お お お」「い や あ あ あ あ あ」「う ぎ ゃ あ あ あ 」等のバリエーションもある。
「しゃあっ」
攻撃を仕掛ける時の気合の声。やはり猿渡作品全般で広く使用される。
「しゃあけど」
恐らく「せやけど」の変形であり、上記の「しゃあっ」は関係ない。
「⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎」
猿渡作品で度々使われる単語の節目ににやたらと・を入れる表現。とりあえず一言な感覚で使用できるので何でもかんでも中黒でぶった斬って使う「しゃあっマネ・モブ!」
「〇〇けどなブヘヘヘヘ」
ぶっちゃけ話をする時、先ほどまでの論理展開をひっくり返す時に使われる。最初に「まぁ」を付けて関西弁にすればそれらしくなる。
「忌憚の無い意見ってやつっス。それでも文句があるんならいつでも喧嘩上等ッスよ」
「〇〇を超えた〇〇」
大仰な強調の修辞。元ネタはタフシリーズの宮沢鬼龍を指した「怪物を超えた怪物」。よくつかわれるのは、あまりにも下半身事情がだらしない女か服装がげきえろな女に対する「淫売を超えた淫売」「メスブタを超えたメスブタ」とクズキャラを指す「蛆虫を超えた蛆虫」
灘神影流奥義『⚪︎⚪︎すべり』
灘神影流の技で喰らった弾丸に対し体を捻り、文字通り弾丸を滑らせて受け流す奥義。このことから話題を変えたり、ジャンルが変わる事を⚪︎⚪︎すべりと呼ぶ(例:「催眠モノ読んでたはずなのに、なんか唐突に催眠解除したうえ純愛すべりされて困惑してるのは俺なんだよね」「むふふ、このギャグ漫画面白いのん。なにっ、バトル漫画すべり」)
◆この男の目的は?---
煽り文の一つだが同じページで目的を話しているにもかかわらず「目的が不明」かのように書くため「煽り文担当は話を読んでいない」とされる。「男の目的」部分を変えて、疑問点や主張とそれに反する一要素を同時に書き連ねる形で使う。例「日本の校長は平均して一人二人の買春経験があるんやっ!」「◆この12660人は---?」
◆⚪︎⚪︎に悲しき過去---
煽り文の一種、タフに出てくる敵は大抵レイプされただの半殺しにされただの虐待されただの文字通り「悲しき過去」があると語られるがそればかりであり「とりあえず取ってつけた悲惨な過去を付け加えておけば悪行が許される」という皮肉から他作品にも波及し、タフ語録からは半ば独立している。
「貴様ーっ〇〇を愚弄する気かぁっ」
批判的な物言い、またはネタにされたことに対して返す定型文。この「愚弄」という言葉は猿渡作品でよく使われるため、ネタにすることを「愚弄する」と言い換えるのがマネモブの嗜みとなっている。
「ククク…ひどい言われようだな。まぁ事実だからしょうがないけど」
「弱いって事は、もっと強くなれるって事やん」
ポジティブシンキングする際に
矢印or指の絵文字(トントン
言外に指摘する場合に
元ネタは喧嘩をふっかけてきた相手にキー坊が「喧嘩 勧誘 お断り」と縫い付けてある袖を指して拒否する場面
「尊敬するでっ!」
「クククク...血はビタミン ミネラル タンパク質 そして塩分が含まれている完全食だァ」
複数の要素を兼ね備えているものを紹介する時に。例:クククク...ドラゴンボールはバトル転向 トーナメント インフレ そして引き延ばしが含まれている完全ジャンプ作品だァ
「なめてんじゃねぇぞ!こら!」
甘い見通しを語る人間に現実の厳しさを突きつける時に使う。最初は「はい!〇〇できますよ(ニコニコ)」と優しく接しておいて、こちらの台詞でいきなり落とすというパターンもある。元ネタは格闘技ジムの門を叩いておきながら「痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。これまで運動経験はろくにない。それでも強くなれますか」と都合の良すぎる台詞を吐いてきた入門希望者を、インストラクターが叱りつけたシーンから。
「でも...”ガチンコ”じゃないですよね?」
ガチンコ部分を変形させて使う。環境に乗れてない事に対する愚弄であったり、逆に「まさかそんな馬鹿なことしてないよな?」という確認の形で使う。これに怒った場合は「それを言ったら殺されても文句は言えねぇぞ」と返そう。
「デビル・ファクトリーの門を開けろ!完全なる悪魔の誕生だっ」
「クソボケがーーーーーーーーーーっ!」
朴念仁キャラに使う。元ネタは、許可を得ずに空手の大会に出場した弟子に、師匠が激昂しながら酒瓶で殴りつけた時の台詞。
「貴方はクソだ」
「お前のお袋は淫売のクソ女!」
子持ちでありながらお色気要員として扱われているキャラの子供に言うセリフ。主な被害者は西住みほ、宇崎花など。元ネタは「淫売」という言葉にトラウマを持つ格闘家が、気合を入れるためにセコンドから言ってもらうキー・ワード。
「いけーっ淫売の息子!」
字面は酷いが、原作で意味としては「お前なら勝てる!」に近い。ただマネモブは文字通りの意味しか読み取れない猿なので、当然文字通りの罵倒として使用される。
「そうか!君は頭が悪くて他にとりえがないから闘うことでしか自尊心を満たすことができないんだね。かわいそ・・・」
パロディ例「そうか!君は頭が悪くて他にとりえがないからタフネタをつぶやく事でしか自尊心を満たすことができないんだね。かわいそ・・・」
ネットミーム化しているが、例によって例の如く原典では負けフラグである。
「悔しいだろうが仕方ないんだ」
どうしようもない事実を突きつける時に。
皆で一緒に何かをやろうとする時に。元ネタは壊れた道場を自分たちで立て直す際、「専門の業者に頼めばいいのに」とぼやいた者への返答。
「パヴェルと申します」
「〜ルと申します」と使用する。いくらなんでも強引過ぎルと申します
「”怖いもの知らず”とは異常なことですよ。君は臆病者の数倍危ない人間ということですから」
「この力に一番戸惑っているのは俺なんだよね。すごくない?」
物事の感想を述べ、同意を求める時に。「~なんだよね。~くない?」と改変して使う。元は心臓移植を受けたことで謎のパワーアップを遂げた主人公が猛獣を一撃で倒したことで調子に乗って放った台詞。
「〇〇はルールで禁止ㇲよね」「〇〇はルール無用だろ」「やっぱ怖いㇲね〇〇は」
「参りました」
「フン 尊敬するよ」
「〇〇の殺し方を教えてくれよ」
「負けたんㇲか?」
如何にも「あwもしかしてw」と言う感じの「負けたのが悔しくて必死にディスっている」人間への事実の突きつけの様な発言だが、場面としては失神KOされた奴が休憩室で起きて早々「え?ここどこだよ?試合に戻らないと…」と慌てるのを静止するセコンドに「…俺負けたの?」と呆然と問いただす場面。なので、厳密には「自分(もしくは自分の応援している相手)が」負けた場合に使う
この後セコンドが肯定の意味で力無く首を振り「そんな訳ないっス!俺が負ける訳無いっス!」と負け惜しみする。
が、当然マネモブは字面しか読み取れない猿なので文字通り「そんなに必死になるってことは負けたんだ?wしかもめっちゃ悔しいんだ?w」の意味で使う。勿論返しは…
「そんな訳無いっス!俺が負ける訳無いっス!」
コレ(トントン
「あががっ」
「しばきあげたらあっ」
「今なんか言ったか龍星」
「ま まさか… あの男…?」
「おっ反応があった やっぱ〇〇ってホントのこと言われたらハラ立つんやな」
「ヒャハハ」
「元気しとん?」
「ファ~眠い」
「フン迷惑だな」
「我が名は尊鷹」
「8回目の離婚だよっ。どうということはないっ」
ただし、プロレスラーが特に鍛えてるようには見えない自分のカミさんをブチのめして半殺しにした後に言った台詞。当人にとっては「どうということはない」かもしれないが、何からつっこめば良いか判らない程の問題点は有る。
「◯◯をしろ... 鬼龍のように」
本来は「美学をもて... 鬼龍のように」」であり、宮沢鬼龍の美学を称えた台詞。
本来はキー坊なども使う一般的な関西弁の語尾だが、彼から言葉を学んだトダーは語尾がヤンケなだけのロボットになった。
異常性愛者
本来はロリコン犯罪者に対するものだが、使い勝手がよく『異常◯◯愛者』などと改変される。例:異常猿愛者
「ウ・・・ウソやろ、こ・・・こんなことが、こ・・・こんなことが許されていいのか」
とてつもない理不尽を目の当たりにした時に使う。余談なんだけど、某国民的ロボットアニメの新作が公開された際、あまりにも意外すぎる内容に驚愕した観客がこの言い回しでSNSを練り歩いたんだよね。すごくない?
意外な人物を意外な場所で見かけた時に使う。2025年2月にTV番組の街頭インタビューで猿先生が映った時は、「うぁぁぁ さ…猿先生が地上波を練り歩いてる」とマネモブたちが沸き立った。
「動物園だ。ゴリラが目の前にいる」「あっ。一発で折れたッ」◆ゴリラは怒ってなどいない。玩具を与えられた幼児のように破壊して遊んでいるだけだ◆霊長類最強生物ゴリラと遊んではいけない
猿展開を超えたゴリラ展開。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<◯◯◯◯◯(煽ってもらいたい文章)>
ある日、俺は街を歩いていた。いつも通りの風景が広がっているはずなのに、何かが違った。人々の表情がどこか曇っていて、目の奥に不安の影がちらついている。そんな中、ふと目に入ったのは、道端に座り込んでいる一人の男だった。彼は自分の手を見つめ、まるで何かを失ったかのように呆然としていた。
「おい、どうしたんだ?」と声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、俺は驚愕した。彼の顔は、まるで蛙のように変わり果てていたのだ。目は大きく、肌は緑色で、口は横に広がっている。まさに蛙そのものだった。
「俺は蛙化現象にかかってしまったんだ」と彼は言った。「人間の姿を保っていたいのに、心の中の不安や恐れが俺を変えてしまった。周りの人間も、次々と蛙になっていくのを見てきた。まるで呪いのようだ。」
彼の言葉に耳を傾けるうちに、俺はこの現象の恐ろしさを理解し始めた。人々は日常のストレスやプレッシャーに押しつぶされ、心の中の不安が形を変えていく。彼らは自分自身を見失い、最終的には蛙の姿になってしまうのだ。
街を歩くと、他にも蛙になった人々がいた。彼らはかつての友人や知人だったが、今やその姿は異形のものとなっていた。彼らは互いに目を合わせることもなく、ただ無表情で跳ね回っている。俺はその光景に胸が締め付けられる思いだった。
「どうすれば元に戻れるんだ?」と俺は男に尋ねた。彼は首を振り、「戻る方法はない。ただ、心の中の恐れを克服するしかないんだ」と答えた。その言葉は、俺の心に深く刺さった。人間としての姿を保つためには、自分自身と向き合い、内なる不安を乗り越えなければならないのだ。
その日以来、俺は自分の心の中を見つめ直すことにした。日常の小さなストレスや不安に対して、逃げるのではなく、向き合うことを決意した。蛙化現象は、ただの比喩ではなく、現実に起こりうることなのだと実感したからだ。
人間が蛙に化ける様を見てきた俺は、今度は自分自身が蛙にならないように、日々を大切に生きていこうと思う。心の中の不安を抱えたままでは、いつか本当に蛙になってしまうかもしれないから。だからこそ、俺はこのボケを忘れずに、前に進んでいくのだ。
ずーーーーっと異性が嫌いだった。
男なんて嫌い!いなくなれ!なんてことは公言しないしSNSに書き込んだりもしないが、内心ずっと嫌だなーと思っていた。
小5くらいから兄弟から就寝時に体を触られたり服を捲り上げて写真を撮られたり指を入れられたりしていて、親に相談出来ず20歳を過ぎて家を出るまで我慢していた。
働き出してからも付き纏いやら何やらで嫌だなーと思うことが多くて、ネットも女叩きがよく視界に入るし、男の人ってそういうものなんだ、という意識があった。
最近Xで「姉の下着を盗ったのが見つかってやばい」みたいなポストが炎上していた(うろ覚えだからちょっとニュアンス違うかも)
また男女対立?と冷めた目で見ていた。
こういうことに怒るのは女性で、男性は笑い話にするものだと思っていた。
でも、そんなに数が多いわけじゃなかったけど
という引用ポストがちらほらあって、なんだかものすごい衝撃を受けた。
姉妹にそういうことをするのって、男性の目から見てもおかしいのか。
もしかして、こういう人たちってわざわざ声を上げないだけで、思っているより多いのかもしれない。
そういえば、最近そういう女性に対する加害に対して悪いのは加害した方じゃん、と言っている男性をちらほら見かけるな。
周りにいる、嫌なこととかしてこない感じのいい男性たちも内心あんまり信用してなかったけど、もしかして本当にいい人だったりする?じゃあ私って今までただのすっごい無愛想で感じの悪い人だったんだ。
そんなん少数派だよ、男なんてみんな女を見下してるよと言われた方がいっそ安心する。
ストリートファイター6をご存じか?
今や世界的に人気の対戦格闘ゲームであり、オンラインでは日々数えきれないほどの戦いが繰り広げられている。
俺もそのプレイヤーの一人で、特に最近はオンライン上で知り合った友人と、ほぼ毎日スト6の対戦を楽しんでいた。
そして先日。カプコンカップ11が開催され、大会の試合を観ながら「やっぱプロは違うな〜」などと感心していたのだが、その中でも特に衝撃を受けたのがリュウ使いのBlaz選手だった。
これまで”リュウはそこまで強くない”と思っていた俺の認識は、完全に覆された。
リュウって意外といけるんじゃね?という単純な考えから、さっそくメインキャラをリュウに変更し、プロのプレイを参考にしながら日々トレモ(トレーニングモード)に籠もるようになった。
そして俺はある重要な技に気付く。
それが波掌撃だ。
この技をガードさせると、相手のDゲージをガリガリ削ることができる。そして相手のDゲージがゼロになると「バーンアウト」という状態になり、一気に不利になる。
つまり、この波掌撃を当て続ければ相手をバーンアウトに追い込んで好き放題できるのだ。
俺は興奮した。
これ、ヤバくね?
そう思ったら、試さずにはいられない。
さっそくオンラインで試し、何度も波掌撃を当ててDゲージを削り、バーンアウトした相手にさらに波掌撃を重ねる。
俺は連勝を重ね、テンションが上がった。無双的。だが、ある日、事件が起こった。
その日もいつものように友人とスト6で対戦していた。
もちろん俺はリュウを選択し、波掌撃戦法をフル活用。相手のDゲージを削りまくってバーンアウトさせ、そこからは波掌撃!波掌撃!ハショーーーゲキ!!!
すると、マイクの向こうから「バンッ!!!!!」という爆音が響いた。
そして次の瞬間、
てめぇええ!!!!!ふざっっけんなよっ!!!!さっきからずっと波掌撃こすりやがって!!!きしょいんじゃぼけぇええええ!!!!!!
という怒号が耳元で響いたのだ。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
え、波掌撃そんなに嫌だった?
正直、驚いた。確かに波掌撃は強い。強いけれど、それはあくまでゲームの仕様であり、俺はルールに則って戦っていただけだ。
その後、対戦は俺の勝利で一方的に終了し、友人は無言でログアウト。それ以降、彼と連絡が取れなくなってしまった。
俺はしばらく呆然とした。
こんなことで?と正直思ったが、改めて振り返ると確かに俺のプレイスタイルはエグかったかもしれない。
波掌撃を何度も連打し、ひたすらDゲージを削り、バーンアウトした相手にさらに波掌撃を重ねる。見方によっては、相手に何もさせずに完封しているようなものだった。
ちょっとやりすぎたかもしれない。それに後悔がないわけではない。しかし、俺はただリュウを使いこなそうとしていただけだった。それが結果的に、友人を失うことになるとは思いもしなかった。
俺は悪くない。
ただ、波掌撃が強過ぎたのだ…
会社用のカバンを置き、ドアを閉める。やっと家に帰ってきた安堵感が身体を包む。そして少しずつ、「会社の自分」から「本当の自分」へと戻っていく感覚がある。肩の力が抜け、表情が和らぐ。息遣いが変わる。
多くの人がこの二重生活に慣れてしまっている。朝、「会社モード」のスイッチを入れ、夜にそれを切る。時にはそのスイッチの切り替えが難しくなる日もある。会議で発した言葉、同僚に見せた表情、上司に約束した「チャレンジ」の数々が、家に持ち帰った荷物のように心に残る。
私はこの役割を演じることに長けている。「前向きに取り組みます」「新しい挑戦を歓迎します」「結果にコミットします」—これらの言葉は、まるで外国語を話すように自然に口から出てくる。そしてある意味では、それは本当に外国語なのだ。組織という国の公用語を、私は流暢に操る。
しかしある日、鏡を見ていて気づいた。「会社の自分」の表情が、いつの間にか「本当の自分」の顔にも忍び寄っていることに。眉間のシワ、目の下の疲れ、口角の下がり方—それらは境界線の崩壊を示す小さなサインだった。
「これは持続可能なのだろうか?」という問いが心に浮かぶ。二つの人格を維持することのエネルギーコスト。毎日演じることの疲労感。そして何より、「本当の自分」が少しずつ痩せ細っていくような感覚。
同僚の多くは、この分裂を問題だと思っていないようだ。むしろそれを当然のことと受け入れている。「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と区分けすることで、彼らは自分を守っているのかもしれない。しかし私の中では、その境界線がだんだん曖昧になってきている。
穏やかに生きたい。自分のペースで仕事をしたい。持続可能な方法で価値を提供したい。これらの願いは、果たして現代の企業文化と相容れるものなのだろうか?それとも、二つの顔を持ち続けることこそが、生き抜くための唯一の戦略なのだろうか?
時に、勇気を出して本音を漏らしてみることがある。「もう少しペースを落としませんか?」「この締め切りは現実的でしょうか?」「持続可能な方法を考えてみては?」と。そんな時、返ってくる反応は様々だ。理解を示す人、困惑する人、そして時に、「やる気がないのか?」という暗黙の非難。
この非難が最も痛いのは、それが外からだけでなく、自分の内側からも聞こえてくることだ。「自分はただ楽をしたいだけなのではないか?」「みんなは頑張っているのに、なぜ自分だけ特別扱いを?」「これでは出世できないぞ」という内なる批判者の声。
しかし、よく考えてみれば分かる。「チャレンジし続けること」が全ての人にとって幸せの形とは限らない。日々の小さな満足、着実な前進、持続可能な貢献—これらもまた、価値ある生き方なのではないだろうか。
問題は、この「穏やかさ」という選択肢が、現代の企業文化ではほとんど見えないところに追いやられていることだ。それは弱さの印、野心の欠如、甘えとして片付けられてしまう。
だからこそ、多くの人が「会社の自分」と「本当の自分」を分け、日々その間を行き来する。そして私もまた、その二重生活の達人になりつつある。演じながら、静かに抵抗する方法を模索している。
「このままでいいのだろうか」
幹部会を終え、誰もいなくなった会議室で、ふとその問いが頭をよぎる。私は周囲が認める「頑張る人」として、この地位まで駆け上がってきた。夜も眠れないプロジェクト、休日を犠牲にした資料、誰よりも早く出社し遅く帰る日々—これらの「チャレンジ」の積み重ねが、今の私を作った。
だからこそ、「もう少し穏やかに」という内なる声に従うことが、これほど難しいのだ。
先日、若手社員が「もう少しペースを落としたい」と相談に来た時、彼らにはアドバイスができた。「無理せず、長く続けられる方法を見つけることも大切だよ」と。しかし自分自身には、その言葉を適用できない。彼らにはまだ、同期との飲み会で愚痴をこぼす自由がある。私にはもうない。
「今さら弱音を吐けない」という思いは、単なるプライドの問題ではない。私の中で「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が曖昧になりすぎているのだ。もし「頑張る自分」が崩れたら、残るのは何だろう?その恐怖が、変化への一歩を阻む。
例えば、部下には「家族の時間を大切に」と帰らせておきながら、自分は深夜まで残業する矛盾。あるいは、「ワークライフバランス」を会社の価値観として掲げながら、自分はその恩恵を受けられない皮肉。これらを指摘する人は周りにいない。いや、もはや自分自身の中にすらいないのかもしれない。
最も怖いのは、「頑張る」という価値観が崩れたとき、私の存在意義そのものが揺らぐのではないかという不安だ。私は何者なのか?「チャレンジし続ける人」という仮面を外したとき、その下には何があるのだろう?
若い頃の私は、上司のことを「あの人は仕事しか知らないんだ」と陰で笑っていた。そして今、鏡に映るのは、かつて笑っていたその姿に近づきつつある自分。皮肉なことに、私はかつての自分が軽蔑していた人間になりつつある。
先日、久しぶりに大学時代の友人と会った。企業とは無縁の世界で生きる彼は、私の話を聞いてこう言った。「君、本当にそれで幸せなの?」シンプルな問いに、即答できなかった自分がいた。
ただ、この孤独には特権も伴う。変化を起こせる立場にいるという特権。もし私が「穏やかに生きる勇気」を示せたなら、それは組織全体に波及するかもしれない。しかし、そのファーストペンギンになる勇気が持てるだろうか?
長年「頑張り続けること」で自分の価値を証明してきた人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことの矛盾と恐怖。それは単に仕事のペースを変えるという以上の、アイデンティティの再構築を意味する。「頑張らない自分」にも価値があると信じられるだろうか?
そして何より、周囲の期待という見えない重し。「あの人がそう言うなら」と私の言葉に重みを置く部下たち。「彼女の実績を見れば」と私の判断を信頼する経営陣。彼らの期待を裏切る恐怖。
この孤独な葛藤を誰かと共有したいと思いながらも、「弱さ」を見せられる相手がいない。それが、上に行けば行くほど増していく孤独の本質なのかもしれない。
だからこそ、この静かな抵抗は、より多くの覚悟と内なる対話を必要とする。表向きは「チャレンジ」のリーダーであり続けながら、少しずつ「穏やかさ」の価値を組織に浸透させていく。それが今の私にできる唯一の道なのかもしれない。
「小さな抵抗」という言葉自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
抵抗するには、別の可能性を想像できることが前提だ。しかし私の中では、「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が長年の間に消えてしまった。もはや「頑張らない選択肢」を思い描くことすらできない。
先日、あるセミナーで講師が「自分を大切にする時間を作りましょう」と言った。周りの参加者が頷く中、私は困惑していた。「自分を大切にする」とは具体的にどういう行動なのだろう。想像すらできない。
「19時に帰ります」
同僚がグループチャットにそう書き込んだとき、私は複雑な感情に襲われた。一方では「彼は勇気があるな」と思いながら、他方では「私が同じことをしたら」という想像ができなかった。それは単に評価を気にしているからではない。「頑張らない自分」が存在し得ないという、もっと深い恐怖だ。
一度だけ試してみたことがある。締切の迫ったプロジェクトで、「このスケジュールは現実的ではない」と言ってみた。言葉にした瞬間、激しい不安に襲われた。案の定、「なんとかする方法があるはず」と一蹴された。
しかし最も辛かったのは、その後だ。家に帰っても、「もっと工夫できたのでは」「能力不足を言い訳にしたのでは」という自責の念が襲ってきた。「抵抗」した結果、むしろ気持ちは重くなり、翌日からは倍の時間を費やして挽回しようとした。
結局、「小さな抵抗」の試みは、より大きな自己搾取につながっただけだった。
友人が育児との両立のために時短勤務を選んだとき、心から彼女を応援した。「素晴らしい選択だね」と言いながら、内心では「自分には絶対にできない」と思っていた。なぜなら、仕事のペースを落とした自分を、私自身が許せないからだ。
「頑張らない」という選択ができたとしても、それを自分で肯定できない。そして肯定できないなら、結局は罪悪感に苛まれ、より深く自分を追い込むことになる。これが私の中の悪循環だ。
先日、久しぶりに体調を崩して一日休んだ。熱も高く、客観的に見れば当然の休養だった。それでも一日中、メールをチェックし、できる範囲の仕事をベッドの上で続けていた。「休んでいる」という事実が、耐えられなかったのだ。
最も皮肉なのは、「穏やかさ」を選ぶべきだと頭では理解していることだ。長時間労働の弊害も、バーンアウトのリスクも、すべて知識としては持っている。セミナーでも読んだ本でも、「持続可能な働き方」の重要性が説かれている。
しかし知識と感情は別物だ。「頑張ること=自分の価値」という等式が感情レベルで刻み込まれている限り、どんなに合理的な判断も、内側から崩れていく。
「小さな抵抗」どころか、「抵抗しない自分」を責める悪循環。それが私の現実だ。
誰かに相談できればいいのかもしれない。しかし、立場上、弱音を吐ける相手はいない。部下に「実は私、もう限界なんだ」とは言えない。上司や同僚にも、弱さを見せることはタブーだと感じている。
結局、仕事だけが残る。仕事は少なくとも、明確な評価基準がある。締切を守り、数字を達成し、プロジェクトを完遂する。それが自分の存在価値を証明する唯一の方法だと思い込んでいる。
時々、この生き方に疑問を感じる瞬間がある。深夜のオフィスで、ふと窓の外を見たとき。家族の写真を見たとき。体調を崩したとき。しかしそれらの瞬間は、すぐに「もっと頑張らなければ」という思考によって打ち消される。
「小さな抵抗」ができる人がいることは知っている。羨ましいとすら思う。しかし私にとっては、まず「抵抗したい」と思える自分を取り戻すことが、最初の、そして最も難しい一歩なのかもしれない。
もし本当の意味での「小さな抵抗」があるとすれば、それは外側に向けたものではなく、内側の声に対するものだろう。「もっと頑張れ」と絶えず命じる内なる批評家との対話。それこそが、私にとっての本当の闘いなのかもしれない。
深夜、日付が変わった時刻。また日記を開いている。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いを何度書いただろう。答えのない独り言のように、同じ言葉が繰り返される。「自分のペースで生きたい」という願いと、「これではいけない」という認識。そしてその直後に必ず続く自己否定。
「甘えているだけじゃないか」
「これが自分の選んだ道だ」
「他の人はもっと頑張っている」
日記は、本来なら自分自身との対話の場であるはずだ。しかし私の日記は、まるで二人の異なる人格が争うような場になっている。一方は「穏やかに生きたい」と願う声、もう一方は「それは逃げだ」と叱責する声。
そして結局は、後者が勝つ。翌朝、また同じルーティンが始まる。
「内なる声を取り戻す」—美しい言葉だ。自己啓発本や記事でよく目にする。しかし実際には、どうすれば良いのだろう。「本当の自分」とは誰なのか。「穏やかに生きたい」と思う自分が本物で、「もっと頑張れ」と言う自分が偽物なのだろうか。あるいはその逆か。もはやその区別さえつかない。
かつては趣味もあった。しかし今は、仕事と睡眠以外の時間がどこかに消えてしまった。趣味に使う時間があるとすれば、それは「もっと仕事をするべきだ」という罪悪感と常に隣り合わせだ。そして不思議なことに、休日に時間が空いたとき、かえって落ち着かなくなる。何か「成し遂げるべきこと」がないと、居場所がないような感覚。
会社の同僚が育児休暇から復帰したとき、彼女は「価値観が変わった」と言っていた。「仕事も大切だけど、他にも大切なものがあると気づいた」と。その言葉に深く頷きながらも、内心では「そんな選択肢、自分には許されない」と思っていた。
子どもがいない私には、その「言い訳」が使えない。健康上の問題もない。家族の介護も今はない。「頑張らない理由」が見当たらないのだ。そして何より、「頑張らない自分」を自分自身が許せない。
ある夜、珍しく定時で帰宅し、手持ち無沙汰になった。いつもなら持ち帰った仕事をするか、疲れて眠るかのどちらかだ。この「余白」の時間に何をすれば良いのかわからず、ソファに座ったまま30分ほど呆然としていた。「自由時間」の使い方さえ忘れてしまったことに、愕然とする。
余裕があるはずの時間に感じる、この奇妙な不安感。それは「ゆっくりできない病」とでも呼ぶべきものかもしれない。休むことに慣れていないせいか、あるいは休んでいる間も「何か生産的なことをすべきだ」という声が頭から離れないせいか。結局、半分無意識に仕事のメールをチェックし始めている自分に気づく。
「自分のペースを守る」という言葉は、単に仕事を減らすということではないのだろう。それは「自分自身との関係を取り戻す」という、もっと本質的なことなのかもしれない。
しかしそれには、大きな恐れが立ちはだかる。
「頑張る自分」が自分自身のアイデンティティと化した今、それを手放すことは、自分自身を手放すことのように感じられる。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして仮に存在したとして、その自分には価値があるのだろうか。周囲はその自分を認めてくれるのだろうか。
さらに恐ろしいのは、「穏やかに生きたい」という願望自体が、単なる逃避ではないかという疑念だ。本当に理想を追求しているのか、それとも単に難しいことから逃げようとしているだけなのか。その区別がつかない。
この葛藤を誰かと分かち合いたいと思うこともある。しかし、誰に話せばいいのだろう。部下に弱音を吐けば信頼を失うだろう。同僚には競争相手と見られている部分もある。上司には評価に関わる。配偶者にさえ、「仕事のストレス」としか言えないことがある。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いに対する答えは、まだ見つからない。ただ、問い続けること自体に、かすかな希望を感じている。この問いが心の中で生き続けている限り、何かが変わる可能性もある。それが「内なる声を取り戻す」最初の、そして最も困難な一歩なのかもしれない。
あなたがこの文章を読んでいるということは、どこかで同じ問いを抱えているということかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。
「このままでいいのだろうか」
「なぜこのペースを変えられないのだろう」
私は時々考える。他の人々も同じ葛藤を抱えているのだろうか。それとも、私だけがこんなにも矛盾を抱えているのだろうか。会議室で周りを見回すと、皆がこの「頑張り文化」に適応しているように見える。彼らは本当に適応しているのか、それとも私と同じく苦しみながら演じているだけなのか。
確かなことは分からない。
時に、若手社員が率直に「このペースはきついです」と言うのを耳にする。彼らはまだ、そう言える立場にある。同期同士で飲みながら愚痴をこぼせる自由がある。妙な話だが、それが羨ましい。立場が上がるほど、弱音を吐ける相手は減っていく。そして、弱音を吐けなくなるほど、内側の葛藤は深まる。
先日、チーム会議で無理なスケジュールについて議論になった。部下の一人が思い切って「このスケジュールでは品質に影響します」と発言した。その瞬間、一部の目に安堵の色が浮かんだような気がした。しかし他の人たちは、「何とかやりましょう」「チャレンジですね」と従来の反応を示した。
本当のところ、どれが本音なのだろう。皆がこのペースを望んでいるのか、それとも皆が恐れているだけなのか。あるいは、恐れてもいないのか。もしかしたら私だけが、これほど深く悩んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。この悪循環から抜け出す方法はあるのだろうか。「頑張る」ことでしか自分の価値を証明できなくなってしまった私たちは、どうすれば「穏やかに生きる」ことを取り戻せるのだろう。
時々、社内の様子を観察していると、不思議な矛盾に気づく。表向きは「働き方改革」や「健康経営」を掲げながら、実際は以前と変わらないか、むしろ厳しさを増しているペース。「ウェルビーイング」を経営方針に据えながら、実際には「数字」と「成果」しか評価されない現実。この矛盾に気づいているのは私だけなのだろうか。
社内の若手たちの間で「持続可能な働き方」について話し合う動きがあるという噂を聞いた。彼らは「効率化」や「生産性」という言葉ではなく、もっと率直に「疲れないため」「長く続けるため」という言葉で議論しているらしい。
その噂を聞いて、複雑な感情が湧いた。一方では希望を感じる。他方では、自分たちの世代が解決できなかった問題を彼らに押し付けているような罪悪感。そして何より、彼らの率直さへの羨望。いつから私たちは、素直な言葉を失ってしまったのだろう。
私たちは本当に変われるのだろうか。「頑張る」ことが自分の存在証明になってしまった人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことなどできるのだろうか。それは単なる仕事のペースの問題ではなく、アイデンティティそのものの問題だ。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして周囲は、その自分を受け入れてくれるのだろうか。
「穏やかに生きる」ということが、なぜこれほど難しいのだろう。それは単なる「怠けたい」という願望ではなく、もっと本質的な、「人間らしく生きたい」という願いのはずだ。それなのに、なぜこれほどまでに罪悪感を伴うのか。
この文化の中で、私たちは皆、声なき声で同じことを言っているのかもしれない。あるいは、私だけがこんな矛盾を抱えているのかもしれない。確かなことは分からない。
もしあなたも同じ問いを抱えているなら、少なくともその点では、私たちは孤独ではないということになる。見えない糸でつながった仲間がいるということに、かすかな慰めを見出せるかもしれない。あるいは、それすら幻想かもしれないが。
どうしてる?
本当にめんどくさい
打ち合わせしたあと、一日でかきあげられるだろってなめてたら、馬鹿みたいに時間かかった
二日図書館引きこもってかきあげたの、たったの半分ぐらい
で、なにがつらかったって孤独なんよな
1人でネーム書くのつらいんだよ
自分はこれで金稼いでないからいいけど、漫画家ってめっちゃハードな職業だよな
俺無理だわ
ふつーにほどほどに暮らしたい、たまに自分が書いた漫画面白いって言ってくれる友達がいたらそれでいいんだよね
漫画家さんってほんまにすごいんだなー