はてなキーワード: 群像劇とは
ずっと気になってたんだけど、鬼滅の刃って具体的にどこが面白いの?
いや、「つまらない!」って言いたいわけじゃない。
俺自身は正直ハマれなかったけど、あれだけ多くの人が熱狂した作品なんだから、きっと俺が楽しみ方を分かってないだけなんだと思う。
例えば、ハンターハンターやBLEACH、呪術廻戦なんかは、バトルにちゃんと駆け引きがある。
「この能力をこう使ったから勝てた」「ここで敵の裏をかいたから逆転できた」っていうのがストーリーの中で描かれている。
スポーツ漫画だってそうでしょ。「格上の相手だったけど、この戦術を使ったから勝てた」みたいなのが、ストーリーの見せ場になる。
もちろん、多少の主人公補正やご都合主義も、漫画だからいいよ。
技名を叫びながら斬り合って、気合と根性でなんとなく勝つ──みたいな印象が強い。
「○○の呼吸」「○○の型」って言われても、それぞれの技にどんな特性があって、どう使い分けてるのか、敵との相性や駆け引きがどう作用したのか、あまり説明されない。
結果として、「なぜ勝てたのか」が分からない。
これってバトル漫画として成立してる?
戦闘の駆け引きが見どころじゃないなら、何が面白さの核になってんの?
主人公と仲間たちの群像劇?主人公の成長?世界観やビジュアル?
「鬼滅はクソ!」って言いたいわけじゃなくて、
時は現代、されどその様は戦国絵巻を彷彿とさせる。日産自動車、世界の自動車産業を牽引する巨艦。その内部では、63人の役員たちが、それぞれの野心と信念を胸に、静かなる、しかし熾烈な権力闘争を繰り広げていた。
物語の始まりは、カリスマ経営者、カルロス・ゴーンの失脚からである。彼の築き上げた帝国は、その崩壊とともに、新たな覇権を求める群雄割拠の舞台へと変貌した。
若きCEO。彼は、ゴーン後の日産を再建するため、大胆な改革を推し進める。しかし、その手法は、古参の役員たちの反発を招き、社内には不協和音が響き始める。
紅一点の副社長。彼女は、女性ならではの視点と、卓越した交渉力で、社内の勢力均衡を図ろうとする。しかし、男社会の壁は厚く、彼女の理想は、しばしば現実の前に打ち砕かれる。
かつてゴーンの片腕と謳われた男。彼は、その野心とカリスマ性で、再び日産の頂点を目指す。しかし、過去の栄光は、今の彼にとって足かせとなり、彼は孤独な戦いを強いられる。
そして、その他大勢の役員たち。それぞれが、それぞれの思惑を胸に、この権力闘争に身を投じていた。彼らは、時に協力し、時に裏切り、時に謀略を巡らせながら、自らの生き残りをかけて戦う。
日産の命運をかけた、役員たちの群像劇。そこには、人間の欲望、野心、そして誇りが複雑に絡み合い、歴史のうねりとなって、未来へと続いていく。
この物語は、現代の企業を舞台にした戦国絵巻である。そこには、司馬遼太郎の描くような、歴史のダイナミズムと、人間の業が色濃く反映されている。
連載ネームを練ってたのお蔵入りになっちゃったけど愛着あるしなんとなく群像劇っぽくふわっとエッセンスだけちりばめる感じの短編に仕立てて供養しとくか~ストーリーとして読ませるには微妙だけどまあ雰囲気重視でいけるでしょ、っていうやつ。既に読者が付いて一定の評価もあって、売上を作った実績もあるから多少の融通が利いてかつ作風が雰囲気マンガ描いても違和感ないという条件が揃ってようやく編集部のGOサインが出るっていう、勿体ないお化け系です。
自閉スペクトラム症があると、人間関係が不得意になるので、ガンダム的な群像劇は本質的には苦手かもしれません。でも、だからこそそのような作品世界から人間関係のあり方を学ぼうとする当事者も多いような気がします。
「○○という作品は、小説や映画の名作と同じくらい人間の描写が優れている」→「優れた人間描写を味わいたいなら、最初から小説や映画の名作を読めば良いのになんでそうしないんだろう」みたいな疑問への解答例
(前略
──本書を読むと、『機動戦士ガンダム』など、自閉スペクトラム症者がロボット大戦ものに惹かれることが多い印象があります。
横道:SF好きの自閉スペクトラム症者は少なくないと思います。現実世界にフィットできない分、空想を膨らませる傾向があるのだと思います。
ガンダムはモビルスーツという巨大ロボットに型番が付いていて、たくさんバリエーションがある。この「たくさんのバリエーション」は、自閉スペクトラム症者にとっては大好物です。違うバリエーションのものを収集して、コンプリートしたくなるのです。
自閉スペクトラム症があると、人間関係が不得意になるので、ガンダム的な群像劇は本質的には苦手かもしれません。でも、だからこそそのような作品世界から人間関係のあり方を学ぼうとする当事者も多いような気がします。
(後略
よしながふみの「環と周」みたいに、なんか骨子となるテーマがあるのが普通だと思う。
「意図的にストーリーを抽象化」っていっても、タイトルに「死神」ってあるからには、それなりのオチなりタイトル回収があるべきじゃない?
https://ourfeel.jp/episode/2550912965170865451
この話を「よくわからない」と言っている人が多いように見受けられ、なんならチェンソーマンとかも「よくわからない」という人も多く、普通に楽しんだ身としては「なんで楽しめないんだろう?」と困惑している。が、じゃあ自分はどう楽しんでるんだ?ということはあんまり言語化したことなかったなと思ったので、せっかくだしN=1のサンプルを書き散らしておこうと思う。
そもそもとして、こういう明確なストーリーを提示しない漫画は、多少なりとも「ストーリーがない」ことに対して慣れが必要だとは思う。一定以上は断片的な要素そのもの(雑な単語を使うなら「雰囲気」)を楽しむものになる……ということだ。単に会話のテンポが楽しいとか、漫画の雰囲気を楽しむとかでも全然いいと思う。タイトルの見開きかっこいいよね。たばこの煙があんなにでかく漂うわけないのに大きく広がっているという漫画的なウソを効果的に演出してる。
とはいえ、本当にストーリーがゼロというわけじゃない。作中で提示されるストーリーは、シンプルに言えばこうだ。
この中で、ある種の「前振り→オチ」の流れが用意されている物語は、ヤクザの死だけだと思う。「①冒頭で殺人事件が提示される。②被害者の過去と日常が描かれる。③ヤクザが死ぬ/殺される。」この①~③の隙間隙間に、他のエピソード群が挿入されるわけだ。
で、本作を読み解く上でのポイントは、「別々のエピソードを並列することで、テーマやストーリーラインを抽象的に構築する」という技法を本作が取っている点にある。具体的にはこうだ。
こういったテーマ的なものを5つ盛り込んだ上で70-80ページくらいの話にまとめているのはすごいと思う。
一応言っておくと、こういう風にテーマ的なものを言語化するのは極めて無粋だし、どちらかというと読み味のスポイルにつながると思う。「死神」は、そういった内容を群像劇と時系列シャッフルによって抽象化しているからこそ、独特な味わいが出ているのだから。
本作は、意図的にストーリーを抽象化することで、「かたちのない不安」そのものを描くことに成功している(希死念慮に関する「抽象的なほの暗さ」とか)。こういうのは、あんまり言葉にせずに雰囲気を楽しむのでいいんじゃないかと思う。
あと、すごい細かいことだけど、探偵の女性が「死神」と呼ばれていることに関する補強を、謎の男性で補うのはおもしろいなと思った。謎の男性に関しては明らかに答えを出す気がない。私が本作を「ストーリー性の薄いもの」と判断したのはあのエピソードがあることによる。
ガンダムシリーズは1979年の『機動戦士ガンダム』放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張、さらに小説や漫画、ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズが長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。
「一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争(宇宙世紀0079年から始まる連邦軍とジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまうタイプのファンを揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しかし問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害な一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。
彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からのガンダムをリアルタイムで経験した世代、あるいはビデオやプラモデル、雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメの常識を覆すようなリアルな戦争描写や群像劇、そしてプラモデル(ガンプラ)文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。
しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さらに宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。
にもかかわらず、「有害な一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野(由悠季)監督が関わってないから駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクやガンダム(RX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。
こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファンの参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダムは一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。
さらに、「有害な一年戦争おじさん」はしばしば他の作品やファン同士の交流の場を“自分たちの思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNSや掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダムは宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的にコミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツの可能性を狭めてしまうのだ。
また、宇宙世紀作品や一年戦争そのものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争を舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害な一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情が排他主義や攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。
さらに、一年戦争の時代考証を「現実の軍事・政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダムの世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み、他人の解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMSは存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。
そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃんと資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダムは多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈やテーマで作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。
では、この「有害な一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのは、ファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品を否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダムは作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体はポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品や意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性がガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。
次に、若い世代や新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ、入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。
また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプなイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争だけが特別なわけではない。むしろ、宇宙世紀とアナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。
さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争を舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点やテーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品は多面的に戦争の悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。
結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身の立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品も尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは、自分の視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまうタイプのファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズのファンダムで起こりうる軋轢と言える。
だからこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメ」であると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点に固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。
以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害な一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者を排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやすい環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ。
結論として、「有害な一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティの健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは“一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダムの世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれからも世代や国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。
最近の優れたファンタジー系モバイルゲームは脱「ソシャゲ」化しているから、この増田が苦しんできたようなネガティブ要素はほぼなくなっている。
だから、増田のように完全にスマホゲーム断ちして満足している人ならばいいのだが、そこまで割り切れない人に対しては、進歩的なゲームに触れて切り替えていくのを勧める。そのようなゲームが持つ特徴を列挙していこう。
まず他人との協力やマルチプレイの強制がない。競争要素もなく、ソロプレイを軸としている。社会性で縛りつけない分、コンシューマクオリティの作り込みをしている。PS5とかにも対応しがち。
「スキマ時間」をことごとく奪っていくような、頻繁なログインを促す仕組みがない。スタミナ制は依然多くのゲームが採用しているが、24時間以上放置でき、その消化も10分程度、デイリーなどもスタミナ消化すれば自動的に終わる。
イベントも張り付く必要がない。最終日付近の休日に一気にやればシナリオ含めても1時間そこらで終わるようなもので、それもイベント毎に違った趣向の文化的なミニゲームが提供される。戦闘コンテンツが占める割合が比較的少ない。
ソシャゲによくあった、アイコンだけ変えたアイテム収集やらボックスガチャやらのイベをローテする手抜き形式からは脱却している。全体として、拘束時間が少なく、遊んでいる間は濃密な体験になる。
どちらかというと、スマホでも一応できるが、PCやPS5でやったほうが良いゲーム体験が得られやすい運営型ゲーム郡と言えるだろう。
ガチャおよびキャラ実装の考え方も根本的にソシャゲとは異なり、ある程度の期間やり込んで育てたプレイヤーなら、攻略面では新キャラを引く必要はない。
最新キャラのキャラパワーや重課金に頼らずとも十分な戦略の幅がある。ソロゲーなのでギルドに貢献するために引かなきゃみたいなこともなく、イベント特効もなく、強キャラを未所持だと詰むようなこともない。
難易度が全体的に易しめで、ガチャ縛りをしているプレーヤーでもイベント内で十分な試用機会があり、イベント攻略のために課金をする必要はゼロ。
エンドコンテンツでは新キャラが持つ特性が優遇されるが、一切触れなくともよく、ゲームの美味しい部分は他にある。
また、ガチャ天井が安価で、旧式ソシャゲが平均7万前後に対し、2万~4万、また天井カウントが次以降のガチャバナーへも引き継がれるため、キャラを選り好みしないなら(しないこと推奨)石を貯めこむ必要がない。
ガチャのランダム性や射幸性も抑えられ、課金額に応じた一定周期でキャラを入手できると捉えてよい。無課金でも月1くらいは天井に到達できる。
キャラの凸などに挑むなら旧来のソシャゲ並にお金が飛んでいくが、無微課金者のキャラ獲得ペースでも可能な、多様な役割のキャラを幅広く所持していく方針の方がゲーム的な楽しみを得やすい。
ただし、キャラ確保ハードルが低い分、育成リソースが枯渇しやすく、バトルパス課金や石割りなどをガチャ課金よりも優先するのが合理的となる設計。
ソシャゲ時代のように性能に煽られて引かされる感覚は薄れた分、キャラクターの実装ごとに背景を掘り下げるプロモーションビデオやアニメーション動画、テーマ曲を作って公開したりと、全力でどのキャラにも愛着をもってもらおうと工夫を凝らしてくる。
そのため、カード絵の好みだけでスルー判断できていたソシャゲや推しを定めて溜め込んでいくのが正解だったソシャゲと違い、まんまと全員を好きになってしまいがちな構造にある。
いろんなキャラに無凸より上の装備を整えてあげたい愛多き人ほどコンシューマゲームと比べて割高な出費をしがちでもあるが、買い切りとは異なる運営型ゲームならではのライブ感や感動の蓄積があるため単純比較はできない。
お察しのとおり、このようなゲーム作りをするには、膨大な開発資金と人的リソースが必要なわけで、国内で「暇つぶし用」としてガラケーやスマホ縦持ちで遊ぶような陳腐なゲーム性のソシャゲ開発で成り上がったスマホゲーム企業の持つノウハウとは異なるものが開発側に求められる。
こうしたガチのゲームをモバイルで作っているのは、文化的背景から今は中国のオタク系(二次元)企業が中心になっている。個別具体的なタイトルを5作品挙げてみよう。といっても、PlayStation Storeのセールス上位を見ればだいたい分かるものだが。
まずはこのスタイルの先駆けとなった、原神。王道ファンタジーのオープンワールドで、元素反応の制御を軸とした知能ゲーム寄りの奥深いアクション戦闘が特徴だ。マップもとてつもなく広大で作り込まれている。ただし序盤はいずれも平易で万人向けだ。音楽は著名オーケストラを起用した豪華なもの。
次に崩壊:スターレイル。SF世界観のスペースファンタジーで、星間を駆ける列車を拠点に星々を「開拓」して群像劇を目撃していくターン制RPGだ。ターン制の概念を覆すほど手触りの良い戦闘システムで、「今更ターン制か」と思う人ほど触れてみてほしい作品だ。
上記2作のヒットを飛ばした会社の最新作が、ゼンレスゾーンゼロという都市型本格アクションPRG。パリィや連携を主体としながらもシンプルかつ派手な操作性で、サウンドエフェクトなども心地よく、独特なアートスタイルや音楽と合わせてとにかく五感に快感がビシビシ来る。お上品で難解な印象の前2作品と異なり、物語も理解しやすく熱い展開なのも美点。
次は競合他社となる鳴潮。原神に近いオープンワールドRPGだが、よりダークでグロテスクでセクシーな世界観になっている。怪物に変身するシステムが特徴的で、回避などを駆使するアクション要求度が高め。キャラクターグラフィックに関してはアニメ調作品の中ではひときわ力を入れていると感じる。
最後に挙げるのは、また別の有力企業による、インフィニティニキ。こちらは主に女性をターゲットにした着せ替え系のオープンワールドゲームで、戦闘要素はひかえめに、探索・収集と謎解きアスレチックがメインになっている。
これらを、欲張っていくつも並行してしまえばソシャゲやネトゲのせいで社会生活を蝕まれる状況と大差なくなってしまうが、1作程度に絞って節度ある課金で付き合う分には、ソシャゲ時代と比べてもかなり健全な範囲で楽しめるように進化している。
なので、大作モバイルゲームは、どれを人生のパートナーとして選ぶかが非常に重要だ。
今YouTubeで劇場版イデオンの2部作が無料公開されてるから観たんだ。何気なく始めたんだけど想像以上に凄かった。というか一昔前の作品でこんなに衝撃を受けるとは思わなかったんだよ、正直なところ。
この作品がつくられたのって1980年代ぐらいだと思うんだけど、当時のアニメって今みたいに市民権を得てなかったはず。大人がアニメを観るなんて異常だ、みたいな風潮が普通にあったと思うんだ。
だけどこのアニメは群像劇として、ちゃんと人間ドラマをやってる。一人一人がそれぞれの立場や感情で動いてて、それが複雑に絡み合うから単純な善と悪の構図になってないし、むしろこれでもかってくらい人間の業が描かれてる。
登場人物たちの生き様や、どうしようもなくすれ違ってしまう感じに、正義とは何か?って問いを突きつけられた。
当時は大人がアニメを観るなんて異常、みたいな風潮だったかもしれないが、でもイデオンはまさに大人のために作られたアニメというか、大人が観てもおかしくないようなそんな重厚な物語性があるように感じられたんだよ。
でもさ、現代って当時と違ってアニオタに対する偏見もだいぶなくなってきて、大人でもアニメ観るのは普通だよね❕みたいになっている癖に、現代のアニメこそむしろ大人が観賞するようなものじゃないというか…子供っぽくない?
最近のアニメなんて異世界に転生して最強になってモテモテとか、そういうのばっかりじゃん。もちろん、そういう作品もそれなりに楽しいし気楽に観れるから好きだよ。でも、イデオンみたいに人間の本質に迫るようなアニメって今どれくらいあるんだろう?ってつい思ってしまう。
今はアニメ自体が一般的なエンタメとして認識されてる時代だけど、逆にそれが問題なんじゃないかって思ったりもする。アニメが「普通」になったことで、挑戦的な作品とか、重厚なテーマを扱う作品が減ってるんじゃないかって。
だから昔のアニオタなんて異常!と言われていた時代のアニメの方が本当は大人向けの作品が多くて、人間の本質に迫るような尖った作品が多かったんじゃないか?ってイデオンを観て、アニメって本来こういうものだったんじゃないかって、娯楽として楽しむだけじゃなくて、人間について考えさせられたり、自分自身に問いを投げかけたりできるもので、だからこそ大人が観ても楽しめるし大人こそ観るべきものだったんじゃないのかって、ついそんなことを考えてしまった。
もちろん時代が違うから同じようなものを作るのは難しいかもしれない。でも、せっかくアニメが広く受け入れられるようになった今だからこそ、もっと深いテーマを持った作品が増えてほしいなって心から思ったよ。イデオンみたいなアニメ、現代でも作れるはずだし、それが今の時代の新しい価値観や問題意識を描いたものだったら、きっとまた新しい感動が生まれるはずだ。
いや…改めてイデオン、すごい作品だった。無料公開されてる今のうちに、もっと多くの人に観てほしいなって思う。
これを観たら、アニメってこんなにすごいんだ!って感動すると思うんだよね。
数世代の女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシア=マルケスはコロンビア人で、アジェンデはチリ人。
しかし、女性の物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元の女性を強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛は強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。
同じく、よしもとばなな「アルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力を表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。
書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずかしか触れられない。
道徳的な理由で表現が規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。
ブルース・チャトウィン「パタゴニア」を読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地にしかない暮らし、風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリアを舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物に名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。
カルロス・フエンテス「老いぼれグリンゴ」はあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ。
フエンテスは短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。
ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明と自然を対比させるために(?)読者に理解しやすいロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台はロビンソンが島そのものとの性交で子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォーの原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。
M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルのサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷も家族も恋人も黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である。
ル・クレジオは難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的に盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。
一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義のシリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実か虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界を舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語で創作されているんだけれど、最後にロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話。
難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的に過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。
で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女を連想できないタイプの女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。
フョードル・コンスタンチノヴィチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。
僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしまう作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときにパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。
とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。
なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章のリズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。
少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセスを現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知な相手を自分の利益のためだけに利用するのは邪悪の定義に当てはまってしまうしね。
おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実の少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女と思春期の頃に出会えるはずはないし、自分の問題は自分で解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女の恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子は自分自身の鏡像、ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである。
(どうでもいいけどウィキペディアのロリコン写真集の記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)
ピンチョンはよくわからない。陰謀論をネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコ「フーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考をちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論はネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。
エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分はキリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代のアメリカのポップカルチャーや現代のエンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ。
文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。
三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれの少年が主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性と恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。
そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台が現代日本でなければ別世界のファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代が舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスとクロエ」だけじゃなくてコレット「青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹「海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまり好きじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇だからってのもある気がする。
話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為のあいだならエロ漫画の主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化の魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから、自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラがモテても、ちっとも面白くないのである。しかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説のダメな人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯のウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき、主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。
少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテて複数の女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったものは理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。
続く。
ネガポジアングラーとは今期に放送しているオリジナルアニメである。
今期はリゼロやダンまち、ダンダダンなどの人気作があるため原作なしのオリジナル作品は自然と目立たない形になってしまっているものの…このまま埋もれてしまうには本当に惜しい作品なので、ここでおすすめしようと思ってこれを書いている。
釣り+群像劇な作品で、主人公が昨今のアニメでは珍しいぐらいにリアルなコミュ障なのも特徴的。
ただ主人公は金融からの借金まみれで、その借金をパチンコで返そうとする駄目人間
おまけに余命宣告までされてお先真っ暗。
「今まで何一つうまくいったことがない」が口癖のような男で、状況が悪くなるとすぐに逃げ出す。
おいおい誰がこんな主人公を好きになるんだよ?って思うぐらいには陰湿でいいところないんだけど、そんな男が出会いと釣りを通じて少しずつ変化していく。
実写ドラマでも違和感ないような作品で、心理描写がとにかく丁寧。それも安易な独白に頼るんじゃなくて、ちょっとした動作や演出で見せるのが巧い。
主人公の周りに居るのは基本釣りバカなんだけど、そんな彼らにも等身大の悩みや葛藤があるんだなってことをちゃんと描いているのがほんといい。
「AKIRAの中身がない」と感じる理由についてもう少し考えてみよう
この肩透かし感はすごい
だが鉄雄と金田の物語としては普通に成り立っているし中身がないとはとても言えない
強いて言えば金田側の物語が足りない。これは漫画版も同じである。
金田にはなんの葛藤も成長もない。物語の主人公としては感情移入しにくい存在である。
それを持って中身がない、と感じることはあり得る。
金田のキャラクターを説明するには自分で言っている通り「健康優良不良少年」という言葉に尽きる。
この特異なキャラクター設定、不良のリーダーなのにお坊ちゃんヘアという奇妙なキャラクター造形
ができた時点で作者は満足し、それ以上金田を掘り下げるつもりがなかったのだろう。
漫画版の序盤で金田の幽霊みたいなものが突然現れる伏線らしき描写があるが、
この伏線回収が全くドラマに関わってこないことは大友がドラマを語る気が当初から全くなかった
なんか使えそうな伏線を配置しといたけど上手く活かせなかった、というだけの気もする。
だとするとやはり大きな物語を作る能力がそもそもないということになる。
しかしながら、漫画版はAKIRAが登場して東京をもう一度吹っ飛ばすシーンが白眉だ。
数日前に書いてたテキストファイル捨てるの勿体無いと思ったので張る
例のあのフォーマットに乗ってWeb漫画の話をしようかと思ったがWeb漫画は山ほどあるし別に網羅的に読んでる訳でも無いので単に自分の好きな作品を書くことにした人が居たので便乗。
消えてる作品以外はブックマークが残ってるので探しやすくてよかった。
2012か13ぐらいから読み始めた人。それ以前も知らないし、最近も知らないしひどく偏ってるはず。順不同
みんな大好き(なはず)。転生元の(中途半端な)知識と超絶魔力持ちでチートではあるが、虚弱常識知らずなど、情熱と人脈でカバーしてく。
これと謙虚ぐらいしか男性向けっぽいの読んでなかったし、読んでも合わないの多い中(ゴミ拾いのとかテイマーのとかは読んでた)、何度も読み返した名作中の名作。
言い過ぎだけど、パトレイバーや銀英伝レベルで社会に出てから有用な知識が得られる。
(パト、銀英伝信者からしたら言い過ぎ、そうではない人からしたらそんなもんかってなる?)
現実世界への巻き戻り。細かいこと(と重要なことのほとんど)は忘れたが、サッカー選手になれなかった大人がサッカー始めた日に戻ってやり直す話。
確か戻るのはその一回ぐらい。戦術等の知識が大人レベルなのと、コツコツ努力できる(練習の目的がはっきり、効率もよい)のと、あとなんか鷹の目みたいな俯瞰視点だけで頑張る。
雰囲気は週刊少年誌のサッカー漫画みたいなの(ジャンプっぽさはなく、サンデーマガジンのどっちか寄り)。恋愛要素が少なくて物足りなかったような、中学生編ぐらいまでで終わったのとかで悲しかったような。
これと続編(サブアカウント)のセット。アイリッシュスナイパーは含まない(好きだけど)
VRMMOは二大ジャンルのひとつだったり、転生、転移に次ぐ第3のジャンルだったりしたが、あまり人気作が無かった(当時の個人的な印象)中、(根底に)デスゲーム要素もなく、描き切りつつ、VRMMO系で不足しがちな現実世界にも重点を置いたのが本作。
MMO要素は各キャラのなりきりに由来するコメディ要素やストーリーの本筋に絡む仕掛けであって、中身は群像劇要素も強く、主人公以外の成長物語でもあり、半沢みたいなのとかでもあり、ミックスグリルみたいな作品。あえて大げさに言うと、大長編ドラえもん詰め合わせみたいな。
章ごとに目標が変わってたりしつつ、最後でどかんと一気に色々纏まるのがめちゃくちゃ気持ちよかった。主人公大人だし、なろうっぽくない(なろうっぽくないことはないが)
主人公も一応精神的に色々成長します。地の文の好き嫌いは分かれそう。
クソゲーとして名高いバグだらけのゲームの中に入ってしまい、バグ(仕様()も多い)を駆使して気持ち悪いことを沢山する。
読んで知って欲しいのだが、全方向を騙していくのとか、サブキャラとかが立ってるのとか、一応色々吹っ切れてるのが面白すぎた(作者的にはセーブしてるのかも)
本作作者の他作品も少し系統違ってても面白いので、他作品挙げたいが完結してなかったりするので、出会いの本作をエントリー。
タイトルそのまま。ちんちくりん系の女子と普通の女子のコンビに、個性的なパーティメンバーなどで冒険する。
基本的にはテンポよく成長していくし、仲間も頼りになる。地の文とかほのぼのした雰囲気も好きだし、ちょっと年齢層高め向けのギャグとかも合ってた。作中でどういう扱いだったかは忘れたが馬は脳内でひんべえ(いつもいっしょのおうま)になる。
真剣なシーンでも気が抜けるような描写が多くて好きだったかも。
終盤SF過ぎたのとか好みが別れるところか。SF方面だったかは定かではないが
時代がずれてたら防振り(途中までしか読んでない)ぐらい売れてたかも。コミカライズされてたの今知った
頭おかしなった。突っ走ればよかったのにと思ったような。
おもろい。
これも流行った。
きつね可愛い。同作者の他作(沢山あったはず)も読んでみたけど、これがなんか時期的になのか、一番ハマった。
その他の候補作
影響は受けたが、読んでないので
色物かと思ったら意外としっかり面白かった。アニメ見て、原作一気読みした。
転スラ
すごいのはみんなわかってるが、重要度は低い。
このすば
どこにも書いてないが、これ系では他作品のほうが影響受けたので除外。
宝くじで40億