今日のニュースのうち、3本ほどについて紹介&コメントします。
まずは、先日の日記に書いた惑星問題のその後。増えるどころか、減ってしまいましたね。「冥王星は格下げ・惑星は8個、国際天文学連合が採択」(読売新聞)。教科書、辞書、図鑑、専門書……関連の書籍は修正が大変そうだなあ。
次は、一応は本の関係の話。「<雑誌バンク>都が多摩図書館内に創設へ 大宅文庫しのぐ」(毎日新聞)。
立川の多摩図書館内に、雑誌専門の閲覧サービスを行う「東京マガジンバンク」(仮称)を設置するのだとか。2009年度の予定で、規模は、約1万6000種類、124万冊。種類で2000種、冊数で実に約60万冊も大宅文庫を上回ることになるというのだからすごい。場所も近いし、自分の仕事や興味にも近い話なので、今後が気になる話です。
3つめは嫌なニュースだ。いやなんだけど、でも、この空犬通信でもぜひふれておかねばなるまい。
直木賞作家の板東真砂子が、子猫を殺していることをエッセイで告白したのだそうだ。「<子猫殺し>直木賞作家・坂東さんがエッセーで告白」(毎日新聞)。
ここで記事の内容を引くのも、作家が何をしていたのかをあらためて文字にするのも、それに対する批判なり思いなりを書くのも、いずれも気が重い。作家の書いていることがまったく通常の感覚で理解できないし、もちろん納得などできないし、とにかく、わけがわからないのである。なぜ? 猫と一緒に暮らす人がなぜ子猫に手をかけねばならないのか。しかも、それを正当化するようなことを言ったり書いたりするのか。わけがわからない。
児童虐待にかかわる新聞記事を読んだときに受ける、説明のしづらい嫌な感じと怒りとに似ている、と気がついた。幼い娘を持つ身としては新聞など読みたくない。ネットニュースもうんざりだ。毎日毎日虐待だの子どもが犠牲になる事件だのばっかりだからだ。
特に、近親者による虐待のニュースは耐えられない。どうしても、自分の子どもを虐待する、というのが感覚として頭に入ってこないのだ。ただただ、加害者には、ひどい、とか、許せない、なぜ、とか、そんなことが、そんなことしか、出てこないし、子どもには、つらかったろう痛かったろう、とか、これまたそんなことしか出てこない。言いたいいろんなことがわやわやと出てくるばかりで、自分のなかで整理がつかず、ぼろぼろになりながら、結局、酒に逃げたりする。
いつもよく見て回っている本や書店関係のブログを一周したけど、あまりこの事件の反応はないようで、今晩唯一、しおぴょんさんの記事が目にとまった。しおぴょんさんはこの板東の行為に対して、ある「ささやかな制裁」に出る。棚の私物化だ、などとしたり顔でいう輩がいかにもいそうな感じがするから、その意味でもとても勇気の要る行為だと思う。でも、ぼくなら、板東なしの文庫棚の書店を選びたい。
今夜は、たまたま娘の寝かしつけ役だったので、この記事でも紹介した『こねこのミヌー』を読んで聞かせた。いなくなってしまったこねこを必死で探す女の子が出てくる絵本だ。猫に会いたくて会いたくて、涙が止まらなくて、夜も眠れなくて、あちこち探して探して、それでも会えなくて、でもあきらめない。まだ10歳にもならぬように見えるこの女の子の行動、感情、これが猫を愛する者の「ふつう」の姿だろう。娘は、父親が今日哀しい記事を目にしたことなどしるはずもない。この絵本も、好きな絵本のなかからたまたま選んだもの、だとしか思っていないだろう。でも、これはぼくなりの、父親としてのメッセージのつもりなのだ。ぼくは、本の持つ力をナイーブに信じているほうだから、これは単なるいつもの読み聞かせ、じゃなくて、ぼくが今できる「ささやかだけど、大事なこと」の1つなんじゃないかと思う。しおぴょんさんのように、他者にも影響を与えるような行為でも、勇気が必要とされる行為でもないけれど、でも、これは今日のぼくにとりあえずできた「ささやかな」抵抗、のつもりなのだ。
記事によれば、作家は、「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選」ぶなどと言ったそうだ。そのために不要なものは切り捨ててよい、ということか。このような者が、「生」を語るなどちゃんちゃらおかしい。おこがましいにもほどがある。作品の中で人を百人殺そうが動物に何をしようが、それは作家の想像力の勝手だろう。作品には作者の「力」が働いていて、よく言うが、作家はある種の「神」でもあろう。しかし、現実にもそのような力が自分に与えられているのだと思っている物書きがいるとしたら、こわい。そして、そのような人間の思想が娯楽著作物のかたちをとって、ふつうの人に読まれたりするのも、こわい。幸い、我が家には作家の作品は1冊もないが、ぼくだって、なんらかの「制裁」を考えていたかもしれない。
あーあー、事件の中身に興奮して、もう文章が滅茶苦茶です。まあ、いつもだってほめられたものではないけれど。