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2025.01/03 [Fri]
櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)
京都市上京区に鎮座する櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は、上賀茂神社と下鴨神社に奉仕した斎王の御所の跡地に建てられ神社です。
貞観元年(859)、文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)の所願によって春日明神を勧請したので、春日神社といわれています。
社名の「七野」とは、春日、伊勢、賀茂、石清水、平野、松尾、稲荷の七社を合祀したという説、内野、北野、平野、柏野、紫野、上野、蓮台野の七野の惣社であるこというなどの説があります。
応仁の乱で荒廃しましたが、豊臣秀吉により再建されました。その際、各大名に石垣の寄進を命じ、石には大名の家紋が刻まれているそうです。
当社では、昔から毎年春になると、どこからともなく一頭の鹿が神前に現れるのを奈良へ送るということがあり、(明治6年以後見られ なくなった)この神縁により、明治28年(1895)、奈良の春日神社から神鹿2頭を貸与されたという記録が春日大社に残っているそうです。(櫟谷七野神社HPより)
賀茂斎院跡
賀茂斎院は、賀茂神社に奉仕する斎王の常の御所であった。
それは平安宮の北方の紫野、すなわち大宮末路の西、安居院大路の北(現在の上京区大宮通の西、廬山寺通の北)に位置し、約150メートル四方の地を占めていた。
斎王は嵯峨天皇の皇女・有智子<うちこ>内親王を初代とし(弘仁元年に卜定)、歴世皇女(内親王に適任者を欠く場合には女王)が補されたが、伊勢の斎宮とは異なり、天皇の崩御または譲位があっても必ずしも退下しなかった。
斎院は内院と外院から構成され、内院には神殿、斎王の起居する寝殿等があり、外院には斎院司、客殿、炊殿等があった。
毎年四月、中の酉の日に催される賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行して両賀茂社に参拝した。
斎王のみは上賀茂の神舘に宿泊され、翌日はまた行列をなして斎院に還御されたが、それは「祭の帰<か>えさ」と呼ばれ、これまた見物対象となっていた。
代々の斎王はここで清浄な生活を送り、第35代礼子<いやこ>内親王(後鳥羽天皇皇女)に至った。この内親王は建暦2年(西紀1212年)に病の為退下されたが、以後は財政的な理由から斎院は廃絶した。
歴代の斎王に侍る女房には才媛が少なからず、ために斎院は歌壇としても知られていた。斎院の停廃後、その敷地は廬山寺に施入され、応仁・文明の乱(1467~1477)の後、都の荒廃とともに歴史の中に埋もれてしまったのである。
平成13年11月 財団法人古代学協会 角田文衞
賀茂斎院跡
この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された。この斎院の敷地は、大宮通と廬山寺通りを東南の角としており、約150メートル四方を占めていた。
斎王は嵯峨天皇皇女・有智子内親王を初代とし、累代未婚の皇女が卜定され、約400年続き後鳥羽天皇の皇女・35代礼子(いやこ)内親王をもって廃絶した。
斎王の中には選子(のぶこ)内親王や、式子(のりこ)内親王のように卓越した歌人もあり、斎院でしばしば歌合せが催された。また斎院には、ほぼ500人の官人や女官が仕えており、女官にも秀れた歌人が少なくなかった。
私達は、この文化遺産 斎院跡を顕彰し、後世に伝えるものである。
平成13年11月吉日 賀茂(紫野)斎院顕彰会
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貞観元年(859)、文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)の所願によって春日明神を勧請したので、春日神社といわれています。
社名の「七野」とは、春日、伊勢、賀茂、石清水、平野、松尾、稲荷の七社を合祀したという説、内野、北野、平野、柏野、紫野、上野、蓮台野の七野の惣社であるこというなどの説があります。
応仁の乱で荒廃しましたが、豊臣秀吉により再建されました。その際、各大名に石垣の寄進を命じ、石には大名の家紋が刻まれているそうです。
当社では、昔から毎年春になると、どこからともなく一頭の鹿が神前に現れるのを奈良へ送るということがあり、(明治6年以後見られ なくなった)この神縁により、明治28年(1895)、奈良の春日神社から神鹿2頭を貸与されたという記録が春日大社に残っているそうです。(櫟谷七野神社HPより)
賀茂斎院跡
賀茂斎院は、賀茂神社に奉仕する斎王の常の御所であった。
それは平安宮の北方の紫野、すなわち大宮末路の西、安居院大路の北(現在の上京区大宮通の西、廬山寺通の北)に位置し、約150メートル四方の地を占めていた。
斎王は嵯峨天皇の皇女・有智子<うちこ>内親王を初代とし(弘仁元年に卜定)、歴世皇女(内親王に適任者を欠く場合には女王)が補されたが、伊勢の斎宮とは異なり、天皇の崩御または譲位があっても必ずしも退下しなかった。
斎院は内院と外院から構成され、内院には神殿、斎王の起居する寝殿等があり、外院には斎院司、客殿、炊殿等があった。
毎年四月、中の酉の日に催される賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行して両賀茂社に参拝した。
斎王のみは上賀茂の神舘に宿泊され、翌日はまた行列をなして斎院に還御されたが、それは「祭の帰<か>えさ」と呼ばれ、これまた見物対象となっていた。
代々の斎王はここで清浄な生活を送り、第35代礼子<いやこ>内親王(後鳥羽天皇皇女)に至った。この内親王は建暦2年(西紀1212年)に病の為退下されたが、以後は財政的な理由から斎院は廃絶した。
歴代の斎王に侍る女房には才媛が少なからず、ために斎院は歌壇としても知られていた。斎院の停廃後、その敷地は廬山寺に施入され、応仁・文明の乱(1467~1477)の後、都の荒廃とともに歴史の中に埋もれてしまったのである。
平成13年11月 財団法人古代学協会 角田文衞
賀茂斎院跡
この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された。この斎院の敷地は、大宮通と廬山寺通りを東南の角としており、約150メートル四方を占めていた。
斎王は嵯峨天皇皇女・有智子内親王を初代とし、累代未婚の皇女が卜定され、約400年続き後鳥羽天皇の皇女・35代礼子(いやこ)内親王をもって廃絶した。
斎王の中には選子(のぶこ)内親王や、式子(のりこ)内親王のように卓越した歌人もあり、斎院でしばしば歌合せが催された。また斎院には、ほぼ500人の官人や女官が仕えており、女官にも秀れた歌人が少なくなかった。
私達は、この文化遺産 斎院跡を顕彰し、後世に伝えるものである。
平成13年11月吉日 賀茂(紫野)斎院顕彰会
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NoTitle
私が学生時代に下宿していた場所は
「紫野」という地名が住所についていました。
懐かしいなぁ。
ようやくgooブログが
今日のお昼前から見られるようになりました。
サイバー攻撃だったらしいですが
運営サイトももうちょっと丁寧な説明が欲しいです。
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